第六話『敬服』
そして、戦いの場面は古代遺跡の地下へと戻る。
キサラギが魔術を、攻撃にも防御にもまともに使えないと気付いたオルトロスは更に炎を強く吐く。
間髪入れずに迫ってくる火球をキサラギは華麗なステップで躱してはオルトロスの懐へと潜り込んで切りつける。そうして、爪や牙の一撃を食らってしまう前に距離を置く。これを繰り返す。
オルトロスの巨体にはキサラギが加えた切り傷や刺し傷がいくつも刻まれ、あらゆる箇所から血が流れ出ているにも関わらず、その動きはまるで鈍っていなかった。
(やっぱり、もっと力を入れないと肉までは届かせられないか・・・)
キサラギが刃に感じる感触は、ほとんどが皮を斬った時の瑣末なものだけだった。
(だけど、肉まで届く斬撃となると、後退しようとする体勢じゃ出せねぇしな)
突き出された爪を避け、地面を転がるようにしてオルトロスの胴を切りつけたキサラギは、素早く起き上がって後ろへ跳ぶ。
「っつ!?」
その時だった、キサラギの側頭部に、針で深く刺されたような痛みが走った。
人間の集中力はそう長く続くものではない、小さなミスが命を落とす事に繋がりかねない殺し合いの場なら尚更だ。
オルトロスの動きを少しでも先読みしようと緊張し続けていた為、キサラギの脳はこれ以上は危険だと判断し、強制的に集中状態を解除したのだ。
だが、そのタイミングは最悪すぎた。
(やばっ)
空中で体勢が崩れたキサラギをオロトロスの右前足が弾き飛ばした。
想像を絶した、強烈過ぎる衝撃。
意識が途切れそうな中、キサラギの耳には、胸骨と肋骨が一瞬で木っ端微塵になった上に、内臓が破裂もしくは損傷してしまった、鈍く耳障りな音がはっきりと聞こえた。
宙を一直線に飛んでいき、壁に背中から激突し、ずるずると滑り落ちて床に腰が落ちたキサラギ。
ぶつかった衝撃で砕けた瓦礫が彼へと落ちていく。
瞬く間に、力なく俯く彼の姿は砂埃に隠されてしまい、それも晴れた時にはキサラギは瓦礫に埋もれきってしまっていた。見えているのは左足の膝から下だけである。
呆気ない終わりに一抹の虚無感を感じたオルトロスは、瓦礫の山からわずかに覗いていたキサラギの足を一瞥した後、棺が置かれている部屋へと戻ろうとした。
しかし、不意に足を止めたオルトロスは急に振り返ると、大きく開けた左の口から息を吸い込むと、右の口から今まで一番に大きい火球を瓦礫の山に向かって放った。
一秒とかからず、瓦礫の山に激突した火球は拡散し、その一帯を真っ赤な炎で埋め尽くす。
「・・・・・・・・・」
何も起こらなかった事から自分の杞憂だったか、と思ったオルトロスは気が変わったのか、墓守の役目を放棄し、外の世界に躍り出て暴虐の限りを尽くすべく階段に向かおうとした。
しかし、気が昂ぶる自分を通せんぼするように階段前に立つ、満身創痍のキサラギを見て、オルトロスは四つの目を剥いてしまう。
頭部からは血が止め処なく溢れており、顔全体を真っ赤に染めている。鉄の柱すら削る禍々しい爪に抉られた胸の深い傷はどう見たって致命傷で立つ事すら適わない筈なのだが、キサラギは小さくふらつきつつも、確かに自分の二本の足で立っていた。
天井を見上げ、ハァハァと呼吸を乱すキサラギは左の肩に突き刺さっている、尖った石片を乱暴に引き抜く。肩からは鮮血が飛び散り、彼は痛みに顔を顰めたものの、逆に良い気付けになったとばかりに血で真っ赤になって歯を剥いて肯いた。
そうして、彼が顔を前に戻した瞬間に手酷いダメージでボロボロになった全身から放った、重傷者のそれとは思えない、重く鋭すぎる殺気にオロトロスは巨体を硬直させてしまう。
「ジャリ」と言う音にふと足元に二本の視線を落としたオルトロスは愕然とさせられる。
大きな足跡は擦れていた、後ろに向かって。
たかだか人間、しかも、死に掛けの人間が放った絞りカスにも等しい殺気に後ずさってしまった事は、かつて大暴れし、何者からも怖れられていたオルトロスにとっては屈辱以外の何物でもなかった。
奥の牙に亀裂が入ってしまうほど、激しい歯軋りを漏らしたオルトロスの二つの顔には太々とした血管が何本も浮かび上がり、小刻みに痙攣してしまっていた。
もう殺すだけでは飽き足らぬ、一握りの灰すらこの場に残さない。
そう決めたオルトロスは両の口を、顎の骨が軋むほど開けた。そして、二つの口で肺がいっぱいになるまで息を吸い込んでいく。
一方のキサラギは真っ赤になっている視界が、徐々に霞み、狭まり出しているのを感じていた。
肉が随分と減ってしまった胸にはそっと呼吸をするだけで熱を伴った痛みが広がり、地面をしっかりと踏みしめている筈の両足の感覚は薄れ出し、彼は自分が真っ直ぐ立っているのかも定かではなかった。
まともな感覚が残っていると解るのは刀を握り締めている右腕だけ。また、頭は血液が大分、減ってしまった所為もあるのだろうが、自分でも不思議なくらいに冷え切っていた。
オルトロスが息を吸い込んでいるのは見えていた。最大の炎で自分を消し炭に変えるべく、攻撃力を溜めているオルトロスは隙だらけで、今なら攻撃し放題だろう。
だが、自分の体内に辛うじて残っている、体力の量をしっかりと把握していたキサラギはその場から動かなかった。
傷の膿むような痛みと、体力を温存する為に動けなかったと言った方が正しかったものの、攻撃し放題だとしても、それはまともな状態であればの話で、今の自分では深手を負わす事など到底、不可能だと悟りきっていたキサラギはやはり動こうとはしなかった。
(・・・・・・全力で刀を振れるのは・・・・・・よくて、あと二回と言った所か?)
キサラギは腰に差していたボロボロの鞘へと刀を納め、腰をかなり低く落とす。
左目に見えるのが黒一色になり、キサラギは頭を幾度か振って瞼の上を流れていく血を飛ばすも、右目に灯る光は依然として弱く、虚ろであった。
だが、彼の目の奥に灯っている光は死んでもいない。
勝機は掴めていないが、負ける理由も見当たらないと静かに語るキサラギの右目。
力を溜めきったオルトロスの行き場の無い怒りは膨らむのを止め、内心では生まれて初めて、敵に対して敬意の念を覚えていた。
自分が今から繰り出す攻撃で自分が吹っ飛んでしまわないように、四肢を踏ん張ったオルトロス。
撃ってくるな、とその動きから察したキサラギ。
(こんな状態じゃ、脱力する必要もありゃしねぇな)
彼が自嘲に口許を歪めた直後、雄々しく咆えたオルトロスの両方の口から吐き出された炎の息吹は宙で螺旋状に捩れ合い、巨大な炎の渦と化し、満身創痍のキサラへと凄まじい速度で迫った。
炎の渦がキサラギを飲み込もうとした刹那、銀色の光が一瞬だけ眩しく閃き、炎の渦は真っ二つに斬られていた。
そして、驚く間もなく、オルトロスの二つの首は、石の床を粉々にした踏み込み一歩で、間合いを潰したキサラギの繰り出した渾身の一閃により無音で胴から切り離された。
断面から勢いも良く噴き出した、ワイン色の血がキサラギの全身に降り注ぐ。
四肢を踏ん張っていた為に胴体は地面には倒れ伏さなかったものの、宙を舞っていた左の頭は残っている力を振り絞って、全力を出して動けないキサラギへと牙を剥き出して背後から襲い掛かる。
しかし、今の攻撃で全ての力を出し切っていたにも関わらず、キサラギの肉体は自分自身に向けられた濃厚な殺意に対し、自動的に反応する。
キサラギ・サイノメと言う青年は、地道な鍛錬で堅実な実力を身に付けていたが、その実、背中を焼かれるような危険と危機に溢れた状況、死の半歩手前でこそ爆発的に成長する、正に戦闘狂とも言える、ある意味では一番に死から縁遠いタイプであった。
ほぼ倒れこむように体を半回転させた勢いを使い、キサラギは襲いかかってきていた左の頭を真正面から殴り飛ばした。タイミング、角度共に最高のカウンターを貰ってしまう羽目になった左の頭は木っ端微塵となり、眼球や脳漿の破片が四方八方に飛び散った。
いよいよ、力を本当に使い果たし、さすがに堪えきれずに膝を落としてしまうキサラギ。彼の「ヒューヒュー」と鳴る呼吸は弱々しく、今にも止まってしまいそうだった。
肩を激しく上下させていたキサラギはおもむろに、頬を濡らしている血を拭った。自分の血とオルトロスの血が混ざり合っているようだ。彼は指先を染めたその血をペロリと舐めてみた。
途端に、心臓が熱くなり、拍動が速まる。まるで、オルトロスの力の一部が自分に乗り移ったような、悪くはない感覚を抱いたキサラギはふと、視線を地面に落ちているオルトロスの右の頭へと向けた。
既に生命活動は停止しているようだったが、口の端は高々と吊り上げられ、どこか満足そうな表情をしていた。
そこで、ようやく、キサラギは古代の魔獣・オルトロスに勝ったのだと言う確信を胸中に得られ、腹の底から込み上げてきた歓喜の情に拳を力強く握り締める。
「雄雄雄雄雄雄雄ォォォォォ」
そして、血の味しかしない口を大きく開き、彼は勝利の雄叫びを放った。
何とか、鞘を杖に使って立ち上がれるまでは体力が回復したキサラギは半ば足を引き摺るようにして階段に向かおうとしたのだが、ふと足が止まった。
(この遺跡を建てた王族が、オルトロスを使ってまで守ろうとした人物って・・・)
その場で立ち尽くして、しばらくの間こそ渋い表情を浮かべていたキサラギではあったが、結局は好奇心には勝てず、踵を返してしまう。
時間こそかかってしまったものの、何とか棺の前まで辿り着いたキサラギ。
棺の表面には当時、この辺りで使われていたと思われる言語がびっしりと彫られていた。
長年、放置されていた筈だが傷みは見受けられない。恐らく、壁に彫られている陣はオルトロスの封印以外にも、この部屋の時を緩やかに流動させる役目も担っていたのだろう。
壁から棺に目を戻したキサラギはその文字を撫でる。
大半は読めなかったものの、解読できる箇所から、この一帯を治めていた王族を讃える言葉であると推測できた。
「この棺の中に眠っているのは・・・王様の一人娘さん、王女様、か」
ここ一帯を平和に統治していた王は自分が五十を越えた頃に得た一人娘を蝶よ花よと可愛がっていたそうだ。
王女はどんな宝石も輝きが霞むほどに美しく、どれだけ腕の立つ絵師ですら彼女の美しさを完全には描ききれなかった、とある。
また、気立ては優しく、傷ついた獣を見つければ城に連れて帰って手当てをしてやり、餓えている者がいれば自分のパンを分け与え、貧しい者が犯罪に走ったりしないように仕事を与えてやったりと、民にとても慕われ、動植物にも敬愛を向けられていたそうだ。
しかし、王女は国中に広がった、性質の悪い流行り病に侵された子供の看病をしている内に自らも病魔の毒が全身に広がってしまったらしい。
それでも、彼女は自分の治療は後回しにさせ、骨の内部を焼かれるような熱と関節痛に苦しむ子供の氷枕を取り変え、吐瀉物の始末をしてやり、粥を口に運んでやった。
そして、命の火が無音で消え往く最後の一瞬まで人に優しくし続けた王女は、若くしてこの世にある楽しみの百分の一も経験せぬまま、幼子を慈しむように腕に抱いて子守唄を口ずさんでいる最中に静かに息を引き取った。
王女の遺志はしっかりと受け継がれ、流行り病は完全に鎮圧されたが、王も民も、それはもう深い悲しみに沈んだそうだ。そうして、王は民が自分の娘の事を忘れないでくれるよう、民は王女の事をいつでも思い出せるよう、この遺跡を作った。
「―――・・・・・・??国 第一王女 XXXX、ここに眠る、かね?」
視界を再び、覆いだした赤茶けた霞みを拭うように瞼を擦りながら、棺の文を指先でなぞりながら、たどたどしく読み上げるキサラギ。
(道理で、トラップが多いはずだ)
それほどに愛していた娘が穏やかな時を過ごしている場所なのだ。そこに土足で侵入してきた恥知らずに容赦がないのも当然だろう。
「とは言え、オルトロスはちょっと過激すぎる気もするがねぇ・・・・・・おや?」
王の度が過ぎた愛情に苦笑いを漏らした彼は、棺を撫でていた手を止めた。そして、しばらく、棺と蓋の境を睨んでいたキサラギは慌てて、バッと身を引いた。
「この棺、一回、開けられてる? しかも・・・・・・内側から」
仮に、全ての罠を突破して、この最下層まで辿り着けたとしても、棺に触れればオルトロスが壁から出現したはずだ。つい先程、自分が倒した以上は、あのオルトロスがそれまでの侵入者を全員、食い殺しているか焼き殺しているのは間違いない。
そうなると、開いた跡がある以上、蓋は内側から開けられたと考えるのが自然である。
「・・・・・・つまり、王女は蘇っている?
ゾンビか、グールとして。スケルトンと言う可能性も0じゃないが」
もしかすると、棺の表面に彫られている、自分には読めない箇所、これは長い時間をかけて、遺跡の外や侵入者から集めた魔力を内側に注ぎこみ、死者を復活させる禁断の魔術ではないのか、とキサラギは推論し、険しい表情で今一度、表面を撫でる。
(・・・俺以外のメンバーの疲弊が激しかったのは、もしかして、それの所為だったのか?)
ここで更に、キサラギの好奇心はムクムクと膨らんだ。
もう腕にはまともに力も入れられないと言うのに、彼は蓋の縁へと両手を乗せると、体重をかけるように押して、ゆっくりとズラしていく。
(本調子なら、斬れるんだがなっっ)
十数分後、どうにか蓋は半分ほどズレ、中を覗き込めるだけの隙間が出来た。
「さて」と呟いたキサラギが棺の中に目をやれば、思った通り、遺体はどこにも無い。
風化してしまったのなら、破片が残っていそうなものだが、棺の中は空っぽだ、副葬品どころか埃一つない。
「やっぱ、王女は既に復活済み、かよ。
――――――・・・・・・もしかすっと、王都の上層部はこれを予測していた上で、この遺跡の調査を命じたのか?」
とは言え、所詮は日給目的のアルバイトの自分には関係ないか、と頷いたキサラギは蓋を戻そうとした。
だが、その時、彼は酷い眩暈に襲われてしまう。
「ま」
(ずっっ)
咄嗟に棺の縁を掴んで体を支えた。だが、全身が異常に気だるく、雪女にキツく抱きしめられているような寒気が込み上げてきている。
無茶と無理をしすぎたキサラギ。
傷みに顔を顰めた彼が胸に手をやると、きつく巻いていたサラシは血にベッタリと濡れていた。蓋を開けようと力んだ際に傷がわずかに開いてしまったようだ。
意識がある内に動こう、と立ち上がろうとしたキサラギだったものの、ここで回避のしようがない肉体の限界を迎えてしまった。
胸から勢いよく噴き出した血が棺の中を汚す。
ズルズルと棺の表面を滑るようにして、その場に座り込んでしまったキサラギは虚ろな目で遠くを見つめた。
その表情は悔しそうではあったが、この現状を淡々としつつも、しっかりと受け止めていた。
「ふぅ」
(ここまでかよ、俺の人生も)
心残りは挙げきれないほど、幾らでもあった。
しかし、指一本すらもう動かせない以上、「あれがしたかった」「これをやってみたかった」と未練がましく思っても仕方ない、とキサラギは外見と年齢に似合わず、変に達観していた。
(まぁ、てめぇの人生、良かったとも悪かったとも言えやしねぇわ、この年じゃ)
軽く咳き込んで血を吐いてから、ククッと肩を揺らすようにして苦笑いを漏らしたキサラギは今一度、血どころか死の臭いがハッキリと濃い息を細く吐きだすと、静かに両方の瞼を下ろし、体から力を抜いていった。
キサラギが魔術を、攻撃にも防御にもまともに使えないと気付いたオルトロスは更に炎を強く吐く。
間髪入れずに迫ってくる火球をキサラギは華麗なステップで躱してはオルトロスの懐へと潜り込んで切りつける。そうして、爪や牙の一撃を食らってしまう前に距離を置く。これを繰り返す。
オルトロスの巨体にはキサラギが加えた切り傷や刺し傷がいくつも刻まれ、あらゆる箇所から血が流れ出ているにも関わらず、その動きはまるで鈍っていなかった。
(やっぱり、もっと力を入れないと肉までは届かせられないか・・・)
キサラギが刃に感じる感触は、ほとんどが皮を斬った時の瑣末なものだけだった。
(だけど、肉まで届く斬撃となると、後退しようとする体勢じゃ出せねぇしな)
突き出された爪を避け、地面を転がるようにしてオルトロスの胴を切りつけたキサラギは、素早く起き上がって後ろへ跳ぶ。
「っつ!?」
その時だった、キサラギの側頭部に、針で深く刺されたような痛みが走った。
人間の集中力はそう長く続くものではない、小さなミスが命を落とす事に繋がりかねない殺し合いの場なら尚更だ。
オルトロスの動きを少しでも先読みしようと緊張し続けていた為、キサラギの脳はこれ以上は危険だと判断し、強制的に集中状態を解除したのだ。
だが、そのタイミングは最悪すぎた。
(やばっ)
空中で体勢が崩れたキサラギをオロトロスの右前足が弾き飛ばした。
想像を絶した、強烈過ぎる衝撃。
意識が途切れそうな中、キサラギの耳には、胸骨と肋骨が一瞬で木っ端微塵になった上に、内臓が破裂もしくは損傷してしまった、鈍く耳障りな音がはっきりと聞こえた。
宙を一直線に飛んでいき、壁に背中から激突し、ずるずると滑り落ちて床に腰が落ちたキサラギ。
ぶつかった衝撃で砕けた瓦礫が彼へと落ちていく。
瞬く間に、力なく俯く彼の姿は砂埃に隠されてしまい、それも晴れた時にはキサラギは瓦礫に埋もれきってしまっていた。見えているのは左足の膝から下だけである。
呆気ない終わりに一抹の虚無感を感じたオルトロスは、瓦礫の山からわずかに覗いていたキサラギの足を一瞥した後、棺が置かれている部屋へと戻ろうとした。
しかし、不意に足を止めたオルトロスは急に振り返ると、大きく開けた左の口から息を吸い込むと、右の口から今まで一番に大きい火球を瓦礫の山に向かって放った。
一秒とかからず、瓦礫の山に激突した火球は拡散し、その一帯を真っ赤な炎で埋め尽くす。
「・・・・・・・・・」
何も起こらなかった事から自分の杞憂だったか、と思ったオルトロスは気が変わったのか、墓守の役目を放棄し、外の世界に躍り出て暴虐の限りを尽くすべく階段に向かおうとした。
しかし、気が昂ぶる自分を通せんぼするように階段前に立つ、満身創痍のキサラギを見て、オルトロスは四つの目を剥いてしまう。
頭部からは血が止め処なく溢れており、顔全体を真っ赤に染めている。鉄の柱すら削る禍々しい爪に抉られた胸の深い傷はどう見たって致命傷で立つ事すら適わない筈なのだが、キサラギは小さくふらつきつつも、確かに自分の二本の足で立っていた。
天井を見上げ、ハァハァと呼吸を乱すキサラギは左の肩に突き刺さっている、尖った石片を乱暴に引き抜く。肩からは鮮血が飛び散り、彼は痛みに顔を顰めたものの、逆に良い気付けになったとばかりに血で真っ赤になって歯を剥いて肯いた。
そうして、彼が顔を前に戻した瞬間に手酷いダメージでボロボロになった全身から放った、重傷者のそれとは思えない、重く鋭すぎる殺気にオロトロスは巨体を硬直させてしまう。
「ジャリ」と言う音にふと足元に二本の視線を落としたオルトロスは愕然とさせられる。
大きな足跡は擦れていた、後ろに向かって。
たかだか人間、しかも、死に掛けの人間が放った絞りカスにも等しい殺気に後ずさってしまった事は、かつて大暴れし、何者からも怖れられていたオルトロスにとっては屈辱以外の何物でもなかった。
奥の牙に亀裂が入ってしまうほど、激しい歯軋りを漏らしたオルトロスの二つの顔には太々とした血管が何本も浮かび上がり、小刻みに痙攣してしまっていた。
もう殺すだけでは飽き足らぬ、一握りの灰すらこの場に残さない。
そう決めたオルトロスは両の口を、顎の骨が軋むほど開けた。そして、二つの口で肺がいっぱいになるまで息を吸い込んでいく。
一方のキサラギは真っ赤になっている視界が、徐々に霞み、狭まり出しているのを感じていた。
肉が随分と減ってしまった胸にはそっと呼吸をするだけで熱を伴った痛みが広がり、地面をしっかりと踏みしめている筈の両足の感覚は薄れ出し、彼は自分が真っ直ぐ立っているのかも定かではなかった。
まともな感覚が残っていると解るのは刀を握り締めている右腕だけ。また、頭は血液が大分、減ってしまった所為もあるのだろうが、自分でも不思議なくらいに冷え切っていた。
オルトロスが息を吸い込んでいるのは見えていた。最大の炎で自分を消し炭に変えるべく、攻撃力を溜めているオルトロスは隙だらけで、今なら攻撃し放題だろう。
だが、自分の体内に辛うじて残っている、体力の量をしっかりと把握していたキサラギはその場から動かなかった。
傷の膿むような痛みと、体力を温存する為に動けなかったと言った方が正しかったものの、攻撃し放題だとしても、それはまともな状態であればの話で、今の自分では深手を負わす事など到底、不可能だと悟りきっていたキサラギはやはり動こうとはしなかった。
(・・・・・・全力で刀を振れるのは・・・・・・よくて、あと二回と言った所か?)
キサラギは腰に差していたボロボロの鞘へと刀を納め、腰をかなり低く落とす。
左目に見えるのが黒一色になり、キサラギは頭を幾度か振って瞼の上を流れていく血を飛ばすも、右目に灯る光は依然として弱く、虚ろであった。
だが、彼の目の奥に灯っている光は死んでもいない。
勝機は掴めていないが、負ける理由も見当たらないと静かに語るキサラギの右目。
力を溜めきったオルトロスの行き場の無い怒りは膨らむのを止め、内心では生まれて初めて、敵に対して敬意の念を覚えていた。
自分が今から繰り出す攻撃で自分が吹っ飛んでしまわないように、四肢を踏ん張ったオルトロス。
撃ってくるな、とその動きから察したキサラギ。
(こんな状態じゃ、脱力する必要もありゃしねぇな)
彼が自嘲に口許を歪めた直後、雄々しく咆えたオルトロスの両方の口から吐き出された炎の息吹は宙で螺旋状に捩れ合い、巨大な炎の渦と化し、満身創痍のキサラへと凄まじい速度で迫った。
炎の渦がキサラギを飲み込もうとした刹那、銀色の光が一瞬だけ眩しく閃き、炎の渦は真っ二つに斬られていた。
そして、驚く間もなく、オルトロスの二つの首は、石の床を粉々にした踏み込み一歩で、間合いを潰したキサラギの繰り出した渾身の一閃により無音で胴から切り離された。
断面から勢いも良く噴き出した、ワイン色の血がキサラギの全身に降り注ぐ。
四肢を踏ん張っていた為に胴体は地面には倒れ伏さなかったものの、宙を舞っていた左の頭は残っている力を振り絞って、全力を出して動けないキサラギへと牙を剥き出して背後から襲い掛かる。
しかし、今の攻撃で全ての力を出し切っていたにも関わらず、キサラギの肉体は自分自身に向けられた濃厚な殺意に対し、自動的に反応する。
キサラギ・サイノメと言う青年は、地道な鍛錬で堅実な実力を身に付けていたが、その実、背中を焼かれるような危険と危機に溢れた状況、死の半歩手前でこそ爆発的に成長する、正に戦闘狂とも言える、ある意味では一番に死から縁遠いタイプであった。
ほぼ倒れこむように体を半回転させた勢いを使い、キサラギは襲いかかってきていた左の頭を真正面から殴り飛ばした。タイミング、角度共に最高のカウンターを貰ってしまう羽目になった左の頭は木っ端微塵となり、眼球や脳漿の破片が四方八方に飛び散った。
いよいよ、力を本当に使い果たし、さすがに堪えきれずに膝を落としてしまうキサラギ。彼の「ヒューヒュー」と鳴る呼吸は弱々しく、今にも止まってしまいそうだった。
肩を激しく上下させていたキサラギはおもむろに、頬を濡らしている血を拭った。自分の血とオルトロスの血が混ざり合っているようだ。彼は指先を染めたその血をペロリと舐めてみた。
途端に、心臓が熱くなり、拍動が速まる。まるで、オルトロスの力の一部が自分に乗り移ったような、悪くはない感覚を抱いたキサラギはふと、視線を地面に落ちているオルトロスの右の頭へと向けた。
既に生命活動は停止しているようだったが、口の端は高々と吊り上げられ、どこか満足そうな表情をしていた。
そこで、ようやく、キサラギは古代の魔獣・オルトロスに勝ったのだと言う確信を胸中に得られ、腹の底から込み上げてきた歓喜の情に拳を力強く握り締める。
「雄雄雄雄雄雄雄ォォォォォ」
そして、血の味しかしない口を大きく開き、彼は勝利の雄叫びを放った。
何とか、鞘を杖に使って立ち上がれるまでは体力が回復したキサラギは半ば足を引き摺るようにして階段に向かおうとしたのだが、ふと足が止まった。
(この遺跡を建てた王族が、オルトロスを使ってまで守ろうとした人物って・・・)
その場で立ち尽くして、しばらくの間こそ渋い表情を浮かべていたキサラギではあったが、結局は好奇心には勝てず、踵を返してしまう。
時間こそかかってしまったものの、何とか棺の前まで辿り着いたキサラギ。
棺の表面には当時、この辺りで使われていたと思われる言語がびっしりと彫られていた。
長年、放置されていた筈だが傷みは見受けられない。恐らく、壁に彫られている陣はオルトロスの封印以外にも、この部屋の時を緩やかに流動させる役目も担っていたのだろう。
壁から棺に目を戻したキサラギはその文字を撫でる。
大半は読めなかったものの、解読できる箇所から、この一帯を治めていた王族を讃える言葉であると推測できた。
「この棺の中に眠っているのは・・・王様の一人娘さん、王女様、か」
ここ一帯を平和に統治していた王は自分が五十を越えた頃に得た一人娘を蝶よ花よと可愛がっていたそうだ。
王女はどんな宝石も輝きが霞むほどに美しく、どれだけ腕の立つ絵師ですら彼女の美しさを完全には描ききれなかった、とある。
また、気立ては優しく、傷ついた獣を見つければ城に連れて帰って手当てをしてやり、餓えている者がいれば自分のパンを分け与え、貧しい者が犯罪に走ったりしないように仕事を与えてやったりと、民にとても慕われ、動植物にも敬愛を向けられていたそうだ。
しかし、王女は国中に広がった、性質の悪い流行り病に侵された子供の看病をしている内に自らも病魔の毒が全身に広がってしまったらしい。
それでも、彼女は自分の治療は後回しにさせ、骨の内部を焼かれるような熱と関節痛に苦しむ子供の氷枕を取り変え、吐瀉物の始末をしてやり、粥を口に運んでやった。
そして、命の火が無音で消え往く最後の一瞬まで人に優しくし続けた王女は、若くしてこの世にある楽しみの百分の一も経験せぬまま、幼子を慈しむように腕に抱いて子守唄を口ずさんでいる最中に静かに息を引き取った。
王女の遺志はしっかりと受け継がれ、流行り病は完全に鎮圧されたが、王も民も、それはもう深い悲しみに沈んだそうだ。そうして、王は民が自分の娘の事を忘れないでくれるよう、民は王女の事をいつでも思い出せるよう、この遺跡を作った。
「―――・・・・・・??国 第一王女 XXXX、ここに眠る、かね?」
視界を再び、覆いだした赤茶けた霞みを拭うように瞼を擦りながら、棺の文を指先でなぞりながら、たどたどしく読み上げるキサラギ。
(道理で、トラップが多いはずだ)
それほどに愛していた娘が穏やかな時を過ごしている場所なのだ。そこに土足で侵入してきた恥知らずに容赦がないのも当然だろう。
「とは言え、オルトロスはちょっと過激すぎる気もするがねぇ・・・・・・おや?」
王の度が過ぎた愛情に苦笑いを漏らした彼は、棺を撫でていた手を止めた。そして、しばらく、棺と蓋の境を睨んでいたキサラギは慌てて、バッと身を引いた。
「この棺、一回、開けられてる? しかも・・・・・・内側から」
仮に、全ての罠を突破して、この最下層まで辿り着けたとしても、棺に触れればオルトロスが壁から出現したはずだ。つい先程、自分が倒した以上は、あのオルトロスがそれまでの侵入者を全員、食い殺しているか焼き殺しているのは間違いない。
そうなると、開いた跡がある以上、蓋は内側から開けられたと考えるのが自然である。
「・・・・・・つまり、王女は蘇っている?
ゾンビか、グールとして。スケルトンと言う可能性も0じゃないが」
もしかすると、棺の表面に彫られている、自分には読めない箇所、これは長い時間をかけて、遺跡の外や侵入者から集めた魔力を内側に注ぎこみ、死者を復活させる禁断の魔術ではないのか、とキサラギは推論し、険しい表情で今一度、表面を撫でる。
(・・・俺以外のメンバーの疲弊が激しかったのは、もしかして、それの所為だったのか?)
ここで更に、キサラギの好奇心はムクムクと膨らんだ。
もう腕にはまともに力も入れられないと言うのに、彼は蓋の縁へと両手を乗せると、体重をかけるように押して、ゆっくりとズラしていく。
(本調子なら、斬れるんだがなっっ)
十数分後、どうにか蓋は半分ほどズレ、中を覗き込めるだけの隙間が出来た。
「さて」と呟いたキサラギが棺の中に目をやれば、思った通り、遺体はどこにも無い。
風化してしまったのなら、破片が残っていそうなものだが、棺の中は空っぽだ、副葬品どころか埃一つない。
「やっぱ、王女は既に復活済み、かよ。
――――――・・・・・・もしかすっと、王都の上層部はこれを予測していた上で、この遺跡の調査を命じたのか?」
とは言え、所詮は日給目的のアルバイトの自分には関係ないか、と頷いたキサラギは蓋を戻そうとした。
だが、その時、彼は酷い眩暈に襲われてしまう。
「ま」
(ずっっ)
咄嗟に棺の縁を掴んで体を支えた。だが、全身が異常に気だるく、雪女にキツく抱きしめられているような寒気が込み上げてきている。
無茶と無理をしすぎたキサラギ。
傷みに顔を顰めた彼が胸に手をやると、きつく巻いていたサラシは血にベッタリと濡れていた。蓋を開けようと力んだ際に傷がわずかに開いてしまったようだ。
意識がある内に動こう、と立ち上がろうとしたキサラギだったものの、ここで回避のしようがない肉体の限界を迎えてしまった。
胸から勢いよく噴き出した血が棺の中を汚す。
ズルズルと棺の表面を滑るようにして、その場に座り込んでしまったキサラギは虚ろな目で遠くを見つめた。
その表情は悔しそうではあったが、この現状を淡々としつつも、しっかりと受け止めていた。
「ふぅ」
(ここまでかよ、俺の人生も)
心残りは挙げきれないほど、幾らでもあった。
しかし、指一本すらもう動かせない以上、「あれがしたかった」「これをやってみたかった」と未練がましく思っても仕方ない、とキサラギは外見と年齢に似合わず、変に達観していた。
(まぁ、てめぇの人生、良かったとも悪かったとも言えやしねぇわ、この年じゃ)
軽く咳き込んで血を吐いてから、ククッと肩を揺らすようにして苦笑いを漏らしたキサラギは今一度、血どころか死の臭いがハッキリと濃い息を細く吐きだすと、静かに両方の瞼を下ろし、体から力を抜いていった。
11/10/12 18:02更新 / 『黒狗』ノ優樹
戻る
次へ