6話:愚者は檻に囲われる
※4500字程度、短めです。
※主人公の性格が自己中です。
※文章の関係上、今回魔物娘は最後にチラッとしか登場しません。
唐突だが世間の皆様、腹筋をする時はどうしているだろう。
両足を床に付けたままする人も居るだろう。
足を上げて負荷を高める人も居るだろう。
その両方に加えて上半身の捻りを加える本格派な諸氏も居るかもしれない。
うんまぁ、何が言いたいかというとだな。
「グェーッ!?」
すんごい衝撃食らったと思ったら、足だけベッドに乗ってて上半身が落下してました。ええ。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
ついでに声も出ない。
頭の中で火花が散るって本当にあるんだよ。そいつは現在痛みの信号を大安売りしてくれている。
俺はしばしの間、あまりの痛みに芋虫のように転げ回るしかなかった。
「……何してんだ?お前」
その言葉に俺は顔を上げる。そいつはすぐに視界に入った。
眉間に寄った皺と、顰めた眉。
位置関係上俺を見下ろす視線は何も期待を含んでおらず、ただ目の前の光景を眺めている。
俺の弟、細井成幸(ほそい なりゆき)である。
普段俺を路傍の石のように見るコイツは現在、その眼を半分だけ開きながらさも迷惑だ、という感情を乗せて声を掛けてきた。
「見て、分かんねぇ、のか、お前」
辛うじて搾り出した自身の声は酷く小さく、掠れた呼吸音が漏れただけにも聞こえる。
どうやらそれは成幸も同じだったようで、諦めたように溜息を吐くと一言投げてきた。
「話す事があるから下に来い。朝飯くらいは作ってやる」
踵を返しドアを閉めて去っていく弟。
コイツ、痛がる兄を心配する素振りすらねぇ……っ!
本当に血の通った兄弟か?
背中を強打した痛みは何とか立てる位に治まってきた。
ゆっくりと立ち上がるとそこは見慣れた自分の部屋である。
「朝食、ね……」
そういやさっき変な夢見てたな。
何か知らない女の子が俺の部屋に来て色々やったような……?
最後に飯の支度してるから下りて来いとか言ってた気がする。
「アイツに作って貰うよりは可愛い子に作って貰った方が嬉しいよなぁ」
無愛想な弟なんかよりその方がずっと良いに決まっている。
何となくだが机の前の椅子を見てしまう。
残念ながら顔まで思い出せないのだが、きっと可愛い子だろう。うん。
…………可愛い筈だ。というかそうであってくれ。
「――――そういや」
アイツが朝俺が起きるまで居るなんて無かった。
大体は学校かバイトに行ってる筈なんだが、どんな風の吹き回しだろうか。
「話ってやつに関係あるのかね?」
背筋が痛いので伸びはしないが、代わりに部屋を一望する。
改めて見ても、見慣れた自分の部屋だ。
足りないものは一切無い。
だが――――何か、物足りない。
それが何か分からないのが、喉の奥に小骨が刺さったような違和感を憶える。
「……止め止め。考えてもしょうがないな」
答えが出ない回答なんて、考えるだけ無駄だろう。
朝飯作ると言った以上、成幸は俺の都合に関係なく作る。
さっさと顔でも洗うとするか。
俺は頭を切り替え直すと洗面所へと向かう。
その時、もう一度振り返ってみた。
何も、誰も居ない。変わる訳がない。
変わりようが、ない。
成幸からの話が終了して数時間、俺は何をするでもなく居間でテレビを見ていた。
鮮やかに女優の映しているCM、地元のランチがどうだとかいう芸人の番組。
飽きてチャンネルを回せば真面目な顔で原稿を読み上げるお固いニュースが流れるのだが、どれも俺の頭の中には入らなかった。
成幸からの話は、良いニュースと悪いニュースの二つ。
良いニュースはアイツが暫く家に帰らないという事だ。
アイツは俺が通っていた高校と同じ高校に通っているのだが、何でも通っている高校は現在俺が卒業する前と異なって異世界からの『魔物娘』という存在を受け入れたとの事だった。
人間以外の異種族が入学する事で人間一辺倒だった校風ががらりと変わり、学業に支障がなければかなり自由になったと言っていた。
アイツは勉強は苦手らしいが要点を抑えて覚えるのが上手く、学校の成績も進級に影響が無いらしい。
学校に短期休学の申請を提出し、それが受理された為バイトに暫く泊り込み荒稼ぎすると言って来た。
悪いニュースは両親の帰宅が後れるという事だ。
何でも旅行先で母さんが件の『魔物娘』化をしたらしく、暫く検査を含めて逗留先に留まると父さんから連絡があったと聞かされた。
身体に悪影響は無いが、様子を見て後一週間程向こうに留まるらしい、と言い残しアイツは出て行った。
何とも薄情な奴だ。
両親を疑う訳ではないが、もし本当は危険な状態だったらどうするのか。
変化するという事は今までの自分では無くなってしまうという事だろう。
精神そのもの、体そのものが変質する事に恐怖を感じない訳が無い。
父さんが居るから気丈に振舞っているだけで、本当は心細いのではないか。
俺や成幸に心配を掛けまいと無理をしているだけではないのか。
心配事は胸の内から消えず、居ても立っても居られない。
それでも家の中で腐っているのは、アイツ――――成幸に思い切り釘を刺されたからだ。
“絶対に行こうとするな”と。
当然俺は食って掛かった。
お前は心配じゃないのか。
母さんが母さんじゃ無くなってしまうかもしれないんだぞ。
父さんや母さんが俺等に心配を掛けたくなくて、嘘を吐いたかもしれないんだぞ。
バイトなんて放っておけ、今すぐ父さん達のところに行くぞ――――と。
そこまで言い終えたところで、俺は黙った。
黙らざるを得なかった。
成幸の目が普段と違う。
普段の俺を物のように見ている視線から、それこそ親の仇でも見るような怒りを含んだ視線で俺を見ていた。
『――お前は本当に、自分の事しか信じないんだな』
流石にその発言には異を唱えようとしたが、成幸の体から発せられる威圧感で言葉が出なくなる。
そんな俺を尻目に、成幸は短く言葉を吐いた。
『――せめて親の言っている事くらい信じる気はないのか?』
どういう意味なのか。
自分を愛してくれている親を心配しない方が正しいとでも言う気なのか。
不安になっているであろう親の元に行くのが、悪い事だとでも言うのか。
それともコイツは、俺に親を心配する資格なんてないと言いたいのか――――――――。
俺が物言いたげな表情をしていると、成幸はテーブルの前に分厚い茶封筒を出してきた。
そこには【生活費】と書かれている。
『父さんから預かっていた生活費だ。お前も持ってるだろうが、俺の分を置いていく。好きに使え』
どうせバイト先から滅多に出れないだろうから無駄になるしな、とアイツは背を向けて玄関に向かっていく。
既に用意は済ませていたのか、大き目のボストンバッグが玄関に置いてあった。
「……俺は、一人でも行くからなっ!」
捨て台詞のようにも聞こえるが、どうでもいい。
コイツが行かないなら俺だけでも行って両親を安心させてやらねば。
望まぬ変化なんて母さんも父さんも不安になるに決まってる。
長男の俺が行って、支えてやらなければ。
俺の発言に、成幸の動きが止まる。
振り向いたその目の中には様々な感情が溶け合っているようだった。
失望。
怒り。
諦観。
かつて向けられなかった負の感情が俺を射抜いてくる。
その雰囲気に俺は圧されてしまい、成幸の接近を許してしまった。
襟首を掴まれて絞められる。
『――馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは思わなかったな。よく聞け?』
身長差では俺の方が上なのに、一向に手が解けない。
コイツ……こんなに力強かったのか!?
『父さんも母さんも『大丈夫だ』と言ってるんだ。本当にヤバいなら隠す訳ないだろ』
片手で絞められているのに両手を使っても抵抗にならない。
息苦しさで目の前が霞んでくる。
『お前の安心の為に親をダシにすんじゃねぇよ。安心させたきゃ黙って仕事でも探してろ』
ドスの利いた声で威圧してくるが、正直半分も頭に入らなかった。
今分かるのは、頷かない限りコイツはこの手を離さないという事だ。
俺は首の稼動範囲が許す限り頭を縦に振った。
それを確認してか、首元の息苦しさが掻き消えた。
ソファに五体を投げ出して脱力していると、成幸が話し掛けてくる。
その言葉に先程の負の感情は一切無く、普段のどうでもいいものを扱うような声音だった。
『父さんには緊急時以外の連絡は最初は家にするように頼んでる。一応、何かあったら連絡を寄越せ』
それだけ言い放つと成幸はボストンバックを担ぎ直して出て行った。
静かに閉まる玄関の音。
軽い金属同士の噛み合う施錠音。
徒歩では行かないのだろう、原付が遠ざかる音が耳に残る。
その音を最後に静寂に包まれた居間に俺は居る。
それが数時間前に起こった事の顛末だった。
今俺は、完全に一人である。
「……クソ、クソ、クソクソクソクソクソクソッ!!!」
一人になった事に安堵し、それを自覚した瞬間腹の底から怒りが沸いてくる。
「ふっ、ざけんなっ!年下の癖に!弟の癖に!」
全く抵抗出来ず、やり返す事も出来なかった。
突然暴力を振るわれた理不尽と抗せなかった不甲斐なさが一緒くたになり怒りだけが渦巻いていく。
「俺のやる事は迷惑なのかよっ!親を心配する事が悪い事かよっ!?」
ソファから立ち上がり蹴りつける。
蹴られたソファはその重さから微動だにせず、芯を感じさせる柔らかい感触だけが足に伝わってきた。
「何が『何かあったら連絡寄越せ』だっ!弟の癖に命令しやがって、絶対するかバーカっ!!」
ひとしきり蹴りつけて、漸く落ち着いてきた。
ああいいさ。そっちがその気なら俺も両親のところには行かねぇ。
代わりに何かあっても絶対教えねぇ。
アイツだけ慌てふためいて病室なり何なりに入ってくればいいんだ。
その時に思いっきりぶん殴ってやる。
そこまで考えて漸く溜飲が下がった。
下がった途端、知らぬ間に溜まっていたのであろう疲れが全身に広がっていく。
とりあえず――――
「――寝よ。正直、ダルい」
荒んだ心にはどんな綺麗な景色も笑劇も浸透しない。
ただ表面を撫でていっては不快感と理不尽な怒りを掻き立てるだけだった。
体は疲れを訴えて、心は何も受け付けない状態で。
頭なんて回る訳もない。
俺はテレビのリモコンを操作すると真っ暗になった画面を少しの間見つめる。
黒一色のその面には、彫りの深い顔立ちの覇気を感じない男が一人居た。
背を丸め斜に構えて言い出せない苛立ちを腹に抱えた表情を浮かべている。
俺は背を向けると、その場から立ち去った。
頭の右側がチリチリと痛むのは、きっと成幸のせいだ。
誰も居なくなった居間のテレビに白い影が映りこんでいた。
服装の詳細ははっきりとした形がないので伺えないが、上下が分割されておらず一枚の布で構成されているところからワンピースのようにも見える。
影は小さく、注視していなければ目立たない。
そもそも一成の退いた後に染み出るように現れた『ソレ』は、向こう側が透けている。
向きを変えたのだろう、影の形が変わる。
向かう先は、一成の自室であった。
※主人公の性格が自己中です。
※文章の関係上、今回魔物娘は最後にチラッとしか登場しません。
唐突だが世間の皆様、腹筋をする時はどうしているだろう。
両足を床に付けたままする人も居るだろう。
足を上げて負荷を高める人も居るだろう。
その両方に加えて上半身の捻りを加える本格派な諸氏も居るかもしれない。
うんまぁ、何が言いたいかというとだな。
「グェーッ!?」
すんごい衝撃食らったと思ったら、足だけベッドに乗ってて上半身が落下してました。ええ。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
ついでに声も出ない。
頭の中で火花が散るって本当にあるんだよ。そいつは現在痛みの信号を大安売りしてくれている。
俺はしばしの間、あまりの痛みに芋虫のように転げ回るしかなかった。
「……何してんだ?お前」
その言葉に俺は顔を上げる。そいつはすぐに視界に入った。
眉間に寄った皺と、顰めた眉。
位置関係上俺を見下ろす視線は何も期待を含んでおらず、ただ目の前の光景を眺めている。
俺の弟、細井成幸(ほそい なりゆき)である。
普段俺を路傍の石のように見るコイツは現在、その眼を半分だけ開きながらさも迷惑だ、という感情を乗せて声を掛けてきた。
「見て、分かんねぇ、のか、お前」
辛うじて搾り出した自身の声は酷く小さく、掠れた呼吸音が漏れただけにも聞こえる。
どうやらそれは成幸も同じだったようで、諦めたように溜息を吐くと一言投げてきた。
「話す事があるから下に来い。朝飯くらいは作ってやる」
踵を返しドアを閉めて去っていく弟。
コイツ、痛がる兄を心配する素振りすらねぇ……っ!
本当に血の通った兄弟か?
背中を強打した痛みは何とか立てる位に治まってきた。
ゆっくりと立ち上がるとそこは見慣れた自分の部屋である。
「朝食、ね……」
そういやさっき変な夢見てたな。
何か知らない女の子が俺の部屋に来て色々やったような……?
最後に飯の支度してるから下りて来いとか言ってた気がする。
「アイツに作って貰うよりは可愛い子に作って貰った方が嬉しいよなぁ」
無愛想な弟なんかよりその方がずっと良いに決まっている。
何となくだが机の前の椅子を見てしまう。
残念ながら顔まで思い出せないのだが、きっと可愛い子だろう。うん。
…………可愛い筈だ。というかそうであってくれ。
「――――そういや」
アイツが朝俺が起きるまで居るなんて無かった。
大体は学校かバイトに行ってる筈なんだが、どんな風の吹き回しだろうか。
「話ってやつに関係あるのかね?」
背筋が痛いので伸びはしないが、代わりに部屋を一望する。
改めて見ても、見慣れた自分の部屋だ。
足りないものは一切無い。
だが――――何か、物足りない。
それが何か分からないのが、喉の奥に小骨が刺さったような違和感を憶える。
「……止め止め。考えてもしょうがないな」
答えが出ない回答なんて、考えるだけ無駄だろう。
朝飯作ると言った以上、成幸は俺の都合に関係なく作る。
さっさと顔でも洗うとするか。
俺は頭を切り替え直すと洗面所へと向かう。
その時、もう一度振り返ってみた。
何も、誰も居ない。変わる訳がない。
変わりようが、ない。
成幸からの話が終了して数時間、俺は何をするでもなく居間でテレビを見ていた。
鮮やかに女優の映しているCM、地元のランチがどうだとかいう芸人の番組。
飽きてチャンネルを回せば真面目な顔で原稿を読み上げるお固いニュースが流れるのだが、どれも俺の頭の中には入らなかった。
成幸からの話は、良いニュースと悪いニュースの二つ。
良いニュースはアイツが暫く家に帰らないという事だ。
アイツは俺が通っていた高校と同じ高校に通っているのだが、何でも通っている高校は現在俺が卒業する前と異なって異世界からの『魔物娘』という存在を受け入れたとの事だった。
人間以外の異種族が入学する事で人間一辺倒だった校風ががらりと変わり、学業に支障がなければかなり自由になったと言っていた。
アイツは勉強は苦手らしいが要点を抑えて覚えるのが上手く、学校の成績も進級に影響が無いらしい。
学校に短期休学の申請を提出し、それが受理された為バイトに暫く泊り込み荒稼ぎすると言って来た。
悪いニュースは両親の帰宅が後れるという事だ。
何でも旅行先で母さんが件の『魔物娘』化をしたらしく、暫く検査を含めて逗留先に留まると父さんから連絡があったと聞かされた。
身体に悪影響は無いが、様子を見て後一週間程向こうに留まるらしい、と言い残しアイツは出て行った。
何とも薄情な奴だ。
両親を疑う訳ではないが、もし本当は危険な状態だったらどうするのか。
変化するという事は今までの自分では無くなってしまうという事だろう。
精神そのもの、体そのものが変質する事に恐怖を感じない訳が無い。
父さんが居るから気丈に振舞っているだけで、本当は心細いのではないか。
俺や成幸に心配を掛けまいと無理をしているだけではないのか。
心配事は胸の内から消えず、居ても立っても居られない。
それでも家の中で腐っているのは、アイツ――――成幸に思い切り釘を刺されたからだ。
“絶対に行こうとするな”と。
当然俺は食って掛かった。
お前は心配じゃないのか。
母さんが母さんじゃ無くなってしまうかもしれないんだぞ。
父さんや母さんが俺等に心配を掛けたくなくて、嘘を吐いたかもしれないんだぞ。
バイトなんて放っておけ、今すぐ父さん達のところに行くぞ――――と。
そこまで言い終えたところで、俺は黙った。
黙らざるを得なかった。
成幸の目が普段と違う。
普段の俺を物のように見ている視線から、それこそ親の仇でも見るような怒りを含んだ視線で俺を見ていた。
『――お前は本当に、自分の事しか信じないんだな』
流石にその発言には異を唱えようとしたが、成幸の体から発せられる威圧感で言葉が出なくなる。
そんな俺を尻目に、成幸は短く言葉を吐いた。
『――せめて親の言っている事くらい信じる気はないのか?』
どういう意味なのか。
自分を愛してくれている親を心配しない方が正しいとでも言う気なのか。
不安になっているであろう親の元に行くのが、悪い事だとでも言うのか。
それともコイツは、俺に親を心配する資格なんてないと言いたいのか――――――――。
俺が物言いたげな表情をしていると、成幸はテーブルの前に分厚い茶封筒を出してきた。
そこには【生活費】と書かれている。
『父さんから預かっていた生活費だ。お前も持ってるだろうが、俺の分を置いていく。好きに使え』
どうせバイト先から滅多に出れないだろうから無駄になるしな、とアイツは背を向けて玄関に向かっていく。
既に用意は済ませていたのか、大き目のボストンバッグが玄関に置いてあった。
「……俺は、一人でも行くからなっ!」
捨て台詞のようにも聞こえるが、どうでもいい。
コイツが行かないなら俺だけでも行って両親を安心させてやらねば。
望まぬ変化なんて母さんも父さんも不安になるに決まってる。
長男の俺が行って、支えてやらなければ。
俺の発言に、成幸の動きが止まる。
振り向いたその目の中には様々な感情が溶け合っているようだった。
失望。
怒り。
諦観。
かつて向けられなかった負の感情が俺を射抜いてくる。
その雰囲気に俺は圧されてしまい、成幸の接近を許してしまった。
襟首を掴まれて絞められる。
『――馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは思わなかったな。よく聞け?』
身長差では俺の方が上なのに、一向に手が解けない。
コイツ……こんなに力強かったのか!?
『父さんも母さんも『大丈夫だ』と言ってるんだ。本当にヤバいなら隠す訳ないだろ』
片手で絞められているのに両手を使っても抵抗にならない。
息苦しさで目の前が霞んでくる。
『お前の安心の為に親をダシにすんじゃねぇよ。安心させたきゃ黙って仕事でも探してろ』
ドスの利いた声で威圧してくるが、正直半分も頭に入らなかった。
今分かるのは、頷かない限りコイツはこの手を離さないという事だ。
俺は首の稼動範囲が許す限り頭を縦に振った。
それを確認してか、首元の息苦しさが掻き消えた。
ソファに五体を投げ出して脱力していると、成幸が話し掛けてくる。
その言葉に先程の負の感情は一切無く、普段のどうでもいいものを扱うような声音だった。
『父さんには緊急時以外の連絡は最初は家にするように頼んでる。一応、何かあったら連絡を寄越せ』
それだけ言い放つと成幸はボストンバックを担ぎ直して出て行った。
静かに閉まる玄関の音。
軽い金属同士の噛み合う施錠音。
徒歩では行かないのだろう、原付が遠ざかる音が耳に残る。
その音を最後に静寂に包まれた居間に俺は居る。
それが数時間前に起こった事の顛末だった。
今俺は、完全に一人である。
「……クソ、クソ、クソクソクソクソクソクソッ!!!」
一人になった事に安堵し、それを自覚した瞬間腹の底から怒りが沸いてくる。
「ふっ、ざけんなっ!年下の癖に!弟の癖に!」
全く抵抗出来ず、やり返す事も出来なかった。
突然暴力を振るわれた理不尽と抗せなかった不甲斐なさが一緒くたになり怒りだけが渦巻いていく。
「俺のやる事は迷惑なのかよっ!親を心配する事が悪い事かよっ!?」
ソファから立ち上がり蹴りつける。
蹴られたソファはその重さから微動だにせず、芯を感じさせる柔らかい感触だけが足に伝わってきた。
「何が『何かあったら連絡寄越せ』だっ!弟の癖に命令しやがって、絶対するかバーカっ!!」
ひとしきり蹴りつけて、漸く落ち着いてきた。
ああいいさ。そっちがその気なら俺も両親のところには行かねぇ。
代わりに何かあっても絶対教えねぇ。
アイツだけ慌てふためいて病室なり何なりに入ってくればいいんだ。
その時に思いっきりぶん殴ってやる。
そこまで考えて漸く溜飲が下がった。
下がった途端、知らぬ間に溜まっていたのであろう疲れが全身に広がっていく。
とりあえず――――
「――寝よ。正直、ダルい」
荒んだ心にはどんな綺麗な景色も笑劇も浸透しない。
ただ表面を撫でていっては不快感と理不尽な怒りを掻き立てるだけだった。
体は疲れを訴えて、心は何も受け付けない状態で。
頭なんて回る訳もない。
俺はテレビのリモコンを操作すると真っ暗になった画面を少しの間見つめる。
黒一色のその面には、彫りの深い顔立ちの覇気を感じない男が一人居た。
背を丸め斜に構えて言い出せない苛立ちを腹に抱えた表情を浮かべている。
俺は背を向けると、その場から立ち去った。
頭の右側がチリチリと痛むのは、きっと成幸のせいだ。
誰も居なくなった居間のテレビに白い影が映りこんでいた。
服装の詳細ははっきりとした形がないので伺えないが、上下が分割されておらず一枚の布で構成されているところからワンピースのようにも見える。
影は小さく、注視していなければ目立たない。
そもそも一成の退いた後に染み出るように現れた『ソレ』は、向こう側が透けている。
向きを変えたのだろう、影の形が変わる。
向かう先は、一成の自室であった。
14/09/05 18:33更新 / 十目一八
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