4話:小心愚者は夢の中
和夫に送って貰い帰宅した俺を待っていたのは、中を黒く染めた自宅だった。
数時間ぶりの我が家に明かりはなく、既に居るであろう住人が夢の世界に迷い込んでいる事を示している。
深夜を過ぎて帰宅したのでそのままベッドに身を投げたかったが、予想外にTシャツや下着が汗で湿っており気持ちが悪かった。
―――まぁ、大した手間じゃないか。
玄関を通り二階の自室へ。
俺は一度代えの下着と部屋着を持つと、風呂場で汗を流すことにした。
靴下を履いている時独特の少しくぐもったような足音が床と階段に木霊する。
流石に疲れた。今日は浴槽にお湯を張らず、シャワーだけにしよう。
そう思い、手早く衣服を脱ぐと洗面台横の洗濯機に放り込む。
時刻が深夜になっているにも係わらず自由に浴室が使えるのは一軒家の特権と言えよう。
蓋を閉めて浴室前の洗面台を通り過ぎるところで振り返ると鏡の中に写る上半身裸の自分がこちらを見ていた。
浅黒い肌に彫りの深い顔立ち。
腹回りの贅肉は摘めばあるかもしれないが、全体的に見ても無駄のない肉のついている健康そうな上半身。
試しに鏡の中の自分に白い歯を輝かせるように笑うと、鏡の中の自分も同じ表情とポーズで笑い返してきた。
ふむ……。
「今日も異常なし、と。完璧だな」
鏡に近づけた顔を離そうとしたところ、鏡の中の自分の目が突然自分から目を逸らした。
「!?」
洗面台から弾かれるように離れる。
鏡の中の自分は、忠実に今の自分の姿と表情を真似ていた。
「……気のせい、か……?」
疲れておかしな幻覚でも見たんだろう。
さっさと汗を流して寝てしまえ。
俺はそう考えて浴室に入ると、お湯の栓の開いて温度調節をする。
程なくして適温となり、湯気が室内に立ち込めてきた。
視界を薄く、半透明な白色が埋め尽くしてくる。
頭皮の皮脂をシャンプーで落とし、一旦湯を止めて体を洗う。
老廃物と埃が思いの外付いていたのかあまり泡立たない。
一旦洗い流してもう一度洗うかと考えていた矢先、浴室の擦りガラスの向こうに何か居るような気がした。
洗濯機の蓋付近に丁度黒い影のようなものがあるように見えたのだ。
それは何度か目を瞬かせると消えてしまい、詳細を窺う事が出来なかった。
「……やっぱ疲れてるな、もう寝るか」
印象としては飛蚊症に近い。
何か黒い影が映ったと思ったら何時の間にか見えなくなってしまっている。
飛蚊症と違うのは影を追う事が出来なかった事だが、大した事ではないだろう。
だが、万一を考えて少しだけ扉を開き様子を見る。
この場合の万一とは弟―――成幸(なりゆき)との鉢合わせだ。
俺が仕事を辞めて自主的な休暇期間を設けている現在、一番会いたくない手合い。
俺の存在を汚物のように見る奴の視線は耐え難く、俺の立場では強く言い出せない手前顔を会わせないに越した事はなかった。
幸い脱衣所は無人。
洗濯機の蓋が開いているが、単に閉めた気になっていただけだろう。
俺は手早く着替えを済ませ、まだ水気の残る髪を拭きながら水分を求めて台所に向かう。
電気を消した後に背後に響いた水音は、やけに耳に残った。
台所に行くには一度リビングを通らなければならない。
勝手口からも一応行けるのだが、折角汚れを落としたのに一々外から入るのは意味がない。
そもそも鍵も掛かっているのだから開けようとしても無駄な努力に終わる。
何が言いたいかというと、リビングを通る以上そのテーブルの上に置いてあった書置きを見るのは必然であったという事だ。
“今日の仕事は泊りがけになる。チェーンだけ外しておけ”
弟の書置きである。
何だ……あいつ泊りがけの仕事だったのか。だったら鉢合わせを気にする必要なんてなかったな。
冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出し口に運ぶ。
一気に飲み干すと最早用を成さなくなった書置きを丸め、ゴミ箱へ投擲した。
「ま、ゆっくり寝るか。明日の事は明日考えればいいし」
既に時刻は0時を過ぎている。
今日の事を今日考えるには時間が遅い。
寝て、起きて。明日になったらまた仕事の事を考えればいいだろう。
そう考えると、かなり時間に余裕が生まれた事になる。
「さぁて……、明日の英気を養いますかね」
急激に襲ってきた睡魔に抗い、欠伸を噛み殺しながら呟く。
誰かに聞かせたい訳ではない。
口に出して確認するだけの動きだ。
俺はコップを流し場に置くとリビングを後にした。
電気を消して二階へと続く階段を上る。
水気を含んだ皮膚が木材を踏みしめる音だけが響く。
その空間で何故か後ろが気になった。
既に明かりが無い筈のリビングは暗く、そこには誰も居ない筈である。
音は無い。人影も無い。
俺は違和感を拭えぬまま、しかし特にやれる事もない為、再び階段を上り始める。
湿り気を帯びた足音は、普段よりも耳に残る気がした。
周囲が明るい。
消毒液の匂いが残る白い空間は人が多く、健康な者もそうでない者も忙しそうに入れ替わり立ち代りしている。
誰かに連れられているのを思い出す。
自分の手を握って引いているのは男性。
大きな手だ。
自分の倍くらいはあるか。
自分の歩く速度に合わせて男性も歩いている為、無理に引かれる勢いも無く嫌悪感も抱かない。
そうだ、自分はこの手を信頼している。
顔は何故か見えないが無二の味方だと知っているのだ。
自分を守ってくれる暖かい、頼れる存在。
“―――もうすぐ着くぞ、一成。まずはお母さんに会おうか”
父さんだ。
俺は此処に母さんと、あともう一人に会う為に連れて来られた。
友達と遊びたかったが、父さんから母さんに会えると言われたのが嬉しかったので一も二も無く着いてきたのだ。
何か父さんが話しているが何故か聞こえない。
何時の間にか一つの病室に辿り着いていた。
父さんと一緒に部屋に入ると、母さんが此方を向いた。
母さんは俺と父さんを見つけると嬉しそうに俺達を呼んだ。
“よく来たわね、一成。変わりない?”
嬉しくて走って近寄る。
話したい事が沢山あった。
母さんが居ない間、父さんと一緒に夕飯を作ったとか。
洗濯物を入れ過ぎて洗濯機が動かなくなったとか。
最近好きな戦隊物が出来たとか。
友人と遊んだ何気ない事とか。
沢山話したい事があったのだが、母さんに頭を撫でられると言いたい事なんて何処かにいってしまった。
父さんとは違う柔らかい手。
俺の髪質を確かめるように触れるその手は、父さんと違い壊れ物を扱うような優しさだった。
唯一自分に向けられるその温度に、俺はいつまでもこうしていたかった。
“―――アナタ。最近何かあったかしら?”
俺は母さんの撫でる手が心地良く何も答えられなかった。
自分から聞き出すのは困難と判断したのか、父さんに話を振る母さん。
父さんは間髪入れずに答えた。
“家の方は特に何も無いな。お隣さんが引っ越してきた位か”
“あら、じゃあ退院したらご挨拶しないといけないわ。どんな方だったの?”
“いらっしゃったのは旦那さんの方だったな。温和そうな人だったよ。奥さんは出産されるから、入院中だそうだ”
“ふふ、案外この病院に一緒に入院してたりしてね♪”
“そうだな。丁度今日の今頃に奥さんの入院されている病院に見舞いに行くらしいから、もしそうなら改めてご挨拶をさせて頂くか”
父さんが母さんと話している間、俺はずっと撫でられていた。
が、視界に入り込んだのが何かが気に掛かる。
名残惜しいが母さんから離れると、その違和感を確認する事にした。
ベッドから離れ出入り口の扉に向かう。
そこで違和感の正体が判明した。
扉だ。扉が開いているのだ。
こういった病院の扉は開け放しにされる事がない。
相部屋などでもあるように、角度を付けているのか自然に扉が閉まる構造になっているからだ。
仮に父さんが閉め忘れていたとしても必ず閉まる扉。
誰かが先程まで扉の前に居た、という事に他ならない。
この時俺は苛立った。
家族の団欒を黙って覗き込まれた、というのもあるが俺の母さんに撫でられて嬉しそうにしている顔を勝手に見られたのが恥ずかしかったのだ。
この時点で漸く気付いた。
―――これは夢だ。
当時の俺がこんな自分の事を他人事に見れる訳がない。
子供の恥ずかしさと大人の論理性が混在した奇妙な感覚で、俺は扉に駆け寄る。
扉の外に出て首を左右に回すと、その対象は見つかった。
白いワンピースを着た、長い黒髪の幼い少女。
歳は5〜6歳くらい、自分より若干下だろうか。
デフォルメされた落書きのような幽霊の縫いぐるみを胸の位置まで抱え、顔の下半分をそれに隠している。
怯えるような目つきをしているのだろうが、長い髪が目元を多い詳細を隠している。
見つけたはいいが何を言おうか考えていなかった。
固まっていると、自分の後を追ってきた父さんも少女に気を視界に納めたようで自分の代わりに少女に呼び掛けた。
“どうした一成?おや、君は確か……”
自分の前に立ち少女と同じ目線まで屈むと、そのまま話し続ける。
“この前はどうも、お嬢さん。引越しの挨拶以来だね。もしかするとお父さんも此処に来ているのかな?”
少女が頷くと、父さんは今度はこちらに向き直って説明をしてきた。
“一成、この子はこの前引っ越してきたお隣さんの娘さんだ。挨拶はしたか?”
自分は記憶にない。首を横に振る。
“まぁ、無理もないか。この子はあちらの旦那さんの後ろに隠れてたからなぁ……、よし!一成。ちょっとこっちに来てくれ”
呼ばれるがまま近付く。
父さん一人分の空間を挟んで、俺と彼女は向かい合った。
“改めて自己紹介って事でな。ホラ、一成お前からだ”
―――細井、一成です。よろしく。
緊張から少々ぶっきらぼうになってしまったが、無難な自己紹介を終える。
目の前の少女は恥ずかしいのか中々話し掛けてこようとしない。
少し焦れったく感じていると、空気以外の音を喉奥から出そうと少女の全身が強張ったのが分かった。
少女は意を決したように口を開く。
声を出す為喉が若干動き唇が開いて――――――
目を覚ますと自室の天井が見えた。
部屋の明かりは既に消していたのか。見える範囲はどこまでも群青色である。
黒と青の織り成す静けさを閉じ込めた空間の中、俺は鈍くなっている頭で現状を把握した。
「寝てた……のか?」
頭に触れると若干湿り気が残る髪に指が埋もれた。
どうやら予想以上の疲労だったらしい。
寝た瞬間がいつだったのか思い出せなかった。
「うー……寒む」
ゆっくりと冷えて鈍くなった体を起こす。
湯冷めしたらしい。風邪を引かなければいいのだが。
起き上がって部屋の明かりをつけると、部屋のドアが若干開いていた。
閉め忘れてしまったのか。通りで湯冷めするわけだ。
密室とは違い隙間から進入してきた外気が、遠慮なく俺から熱を奪っていったというところか。
「やれやれ、閉めて寝ますかねぇ……」
しっかりと俺を受け止めているベッドから勢いをつけて立ち上がると、途端に立ち眩みがする。
そのままふらふらと体勢を崩すと俺はドテ、と尻餅をついてしまった。
―――どうも、予想以上に消耗しているようだ。
「誰にも見られてないのが救いだな、こりゃ」
いい年してすっ転ぶとは。
誰に、とは言わんがもし見られてたら恥ずかしくて生きていけんわ。
にべにもなくそう呟くと、俺はドアを完全に閉め寝入る事にした。
明日起きるのは遅くなりそうだ。
そう、脳裏に描きながら俺は深い眠りに落ちていった。
心地良い感覚が俺を支配している。
柔らかく包み込むものは温かく、それでいて俺を一向に放さない。
時折与えられる刺激は甘く流れる電流のようでありながら俺を微睡みから解放しようとはしなかった。
微かに耳朶を打つ水音は何処か下品で、一心不乱に何かにしゃぶりついているようだ。
粘つくような音が大きくなるにつれ意識もそちら側に向かう。
突如、反射的に腰が浮き上がる。
だが腰がそのまま天を向く事は無く、何かが俺を押さえつけそれを阻止した。
下半身に走る刺激はより一層強くなり、睾丸から精管を通って数多の息子達が解放される。
最早声にならない刺激―――この時点で漸く快楽であると分かった―――が本能のまま勢いよく射出されると、ごくり、ごくりと空気ごと飲み込む音が聞こえた。
体に残る力を集めて俺は上体を起こす。
霞むような視界の中、漸く像を結んだ先には見慣れない少女が俺の陰茎を握っていた。
萎えかけたそれに執拗に口付け、尿道口に残る僅かな精液を吸い出される。
再びの強烈な快楽に俺は声を上げながら腰を浮かす。
陰茎は萎えかけていたのが嘘のように、再び硬度を取り戻し自己主張していた。
その光景を目の当たりにして、期待を胸一杯にしたような輝きを瞳に宿す少女。
尚も奉仕せんと小さな口を開いたところで俺は彼女の頭を押さえた。
死ぬから。牛じゃないんだし、朝からそんな元気一杯絞られたら死んじゃうから。
快楽と脱力ではっきりしない意識の中、そんな事を言った気がする。
朝日を反射する彼女の黒髪は美しく、項あたりまでの長さの髪は癖があるのか緋色のヘアバンドで留められている。
少し釣り上がりの気味の瞳は蕩け切っており、爽やかな筈の早朝の空気に気怠い甘さを加えていた。
こちらを見つめる視線はさながら水飴のようだった。
過度の甘さを感じさせる粘つく眼力は、陽光に彫り出された彫刻めいた美貌も相まって目が離せない。
生気を感じさせない無機めいた顔立ちは、明らかな情欲を彩って熱く此方を捉えていた。
「おはよう、イッセイ♥何時までも寝ていたら駄目よ?」
見知らぬ筈の少女は、普段通りの気安い口調で目覚めの挨拶を投げ掛けてきた。
13/12/18 09:47更新 / 十目一八
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