連載小説
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3話:うっかり亡者の悲喜こもごも(後編)
 





 一瞬何が起こったか分からなかった。
 後ずさりして距離を取ろうとしたら、視界が何やら白いもので埋め尽くされている。
 所々に赤黒い部分の有るそれは、何故か脳裏に融けた生クリームの乗ったショートケーキを連想させた。
 
 何をして良いか分からずに立ち尽くしていると、それは芯のある固めのスライムのような感触で自分の両肩を押さえてきた。

 ―――掴まれている。

 そう頭が理解した瞬間、俺は生理的嫌悪を感じ大きく体を動かす事で振り払った。
 反射的に下がる事で漸く全貌が見える。

 肉の溶けた白い人型。
 そうとしか言いようがない。
 顔が全体的に熱せられたとしか思えない位溶け崩れており、頬の表面には溶けたであろう部分が滴となって流れていた。
 開かれた裂け目のような口の両端は下顎を支えられないのか喉の辺りまで垂れ下がっており、その上の鼻腔が暗闇を覗かせている。
 髪も頭頂部から不自然に垂れ下がっているあたり頭皮ごとずり下がっているのかも知れない。
 疎らとなった前髪から覗くのは本来収まっているべき眼球が垂れ下がり、空洞となった奥に仄暗い奈落が佇む右の眼窩。
 ショートケーキのイチゴだと勘違いしていたのは内側から今にも飛び出してきそうな位盛り上がっている真っ赤に充血した左目だった。
 死臭、腐臭の類がないのは脳がその情報だけでも押し留めようとしているからかも知れない。

 どう見ても生きていない【モノ】が、指先が出鱈目な方向に曲がり細く伸びた蝋細工のような腕を此方に伸ばそうとしていた。
 その太さの位置や長さが全く均整の取れていない腕に掴まれる前に俺は悲鳴すら忘れて駆け出した。
 最早一刻の猶予もない。
 疑いようもなく、此処は命の危険の有るところだったのだ。
 和夫の口車になんて乗らなければ良かった。
 何とか外に出て、車で逃げ切るしか助かる方法はない!
 
 俺は元来た道順である3階女子トイレ側の階段へ急ぎ駆け下りた。





 
 
 私の【化粧】は基本的に魔力経由で『私の思い通りの形状』に『私の思い通りの力』を発揮させるものだ。
 無論生成できる量、充填出来る魔力、形成可能な形状は制限される。
 
 生成できる量が少なければ重点出来る魔力量が足らず、あまり力が出ない上に形状も大きく変えられない。
 充填する魔力量が少ないと形状が維持し辛く、思う通りに動かない。
 形状と力を維持しつつ思い通りに動かすには、矢張り何処かでバランスを取らないといけないのだがそのバランスを調整するのは経験則しかない。
 数字ではなく勘や感性で行わないといけないのだが、これはある意味で利点となる。

 例えば何らかの理由で閉じ込められてしまった時や霊体化出来ない状態になった時等、簡易な避難所や重機として使用する事が出来る。
 使用する際の魔力放出はあるが、繭状に覆えば自然放出される分も逃がさないので道具としてあるまじき“感情の爆発”を起爆剤する事で高い効果を発揮する場合が往々にあった。
 
 何が言いたいかというと。
 テレポートとすら言って良い速度で彼の目前に移動出来たのは正直私もビビった。
 
 だって目の前に来ると思わなかったし!
 確かに『彼が欲しい!』『逃がさない!』とは強く思ったけどここまでとは思わないし!
 というか勢いが若干残ってたのでつい肩掴んじゃったけど、あのまま彼の胸に飛び込んだ方が乙女っぽかったと今後悔してるし!

 次どうするか考えていなかったのだが、彼が力任せに此方の掴んでいる手を振り払った。
 ちょっと傷つく。
 次の瞬間、彼は息を呑んで目を見開いていた。
 何だろう、彼も緊張して何も言えないんだろうか?それともさっき何処かぶつけてしまったのだろうか。
 心配になり自然に手を伸ばすと世界選手もかくやという速さで私の視界から消えていった彼。
 大分傷つく。
 慌てて全力で追おうとすると、足が動かずつんのめって盛大に転んでしまった。

 弱い粘着質の白濁液に身体前面から塗れてしまい、簡単に起き上がれない。
 取り合えず―――

 ≪―――ミスティ、サポートお願い。1階踊り場から2階踊り場の方向転換宜しく!≫

 ≪あいあいさ〜ぃ≫

 了承の返答と共に仕掛けて貰った魔法陣が起動したのが魔力の流れで分かった。
 これで彼はしばらく上と下を自分でも気付かないまま上り下りするだろう。

 ≪どしたの〜?滑空でもして体当たりした後に夢か幻と思わせてお持ち帰りされるだけと思ってたんだけど〜≫

 シット、バレれてやがる。勘がいいってレベルじゃないわ、この娘。
 ……ここは正直に言うしかないか。

 ≪あー……うん、その通り。でも失敗しちゃったわ。ゴメン、大きな事言っといて結局やれるのがこんな事しかないなんて―――≫

 ≪え?かなり予想外だったよ〜?私〜≫

 ≪もうバレてるし、気を使わなくていいわ……。何か惨めになってくるから……≫

 先程まで有頂天で任せろと言っておきながら、その実何の策も無く盛大にすっ転んだだけだったのだ。
 気遣いは有難いが、この場合では唯の追い討ちでしかない。
 頼むから死体に鞭打たんといて下さい。死体ないけど。

 ≪?見てたけど凄かったよ〜?旦那様と一緒に見た〜、DVDのスキップを思い出したよ〜≫

 ≪……。ちょっと聞いていい?ミスティって私見てた?≫

 ≪うん〜。気になって窓から透明になって見てたわ〜≫

 ≪じゃあ聞きたいんだけど。私、自分がどう動いたか必死だったから分からなかったの。ミスティにはどう見えた?≫

 何か逃げられた理由が見えてきた気がする。

 ≪凄い良い笑顔で顔から真っ直ぐ突っ込んで行って〜、その時になにかポロポロ取れたりしてて〜、溶けかけのアイスみたいになって彼の肩掴んでたわ〜≫

 完全に化け物です。本当にありがとうございました。
 
 ―――恐怖の美少女じゃなくメルトダウン寸前の妖怪が第一印象って、どうなの。

 遠くを見ていると、ミスティが現実に引き戻してくる。
 
 ≪そろそろ魔法陣の効果が切れるよ〜、どうする〜?≫

 檻がそろそろ壊れかけらしい。やはり即興ではこれが限界かな。

 ≪1階から昇降口にかけての魔法陣起動をお願い≫

 ≪あいさ〜ぃ。でも、それで良いの〜?流石に昇降口は避けるんじゃない〜?≫

 ≪それは無いわ。断言出来るから≫

 そう言うと私は、自分を透過させて床から下に移動する。
 後に残ったのは消え行く半固形状の粘液と、私から外れた【化粧】の残りパーツだった。






 



 長い。
 どれほど下ったのかは知らないが、階段はこんなに長かったろうか。
 下っても下っても下の踊り場は遠く、まるで階段が新たな階段を増設しているような錯覚を覚える。
 通常の建築物であればまず有り得ない光景。

 極度の集中をしていると周囲の物体の動きが遅く感じるという話がある。
 最初はそれかと思った。
 逃げるにあたって生きたいという欲求がアドレナリンを過剰分泌し、一秒を何分、何時間にも感じさせているのだと。
 だが、それは体力の限界が近づいてくると間違いだと悟った。

 俺に原因があるんじゃない。
 此処だ。この場所だ。
 この場所が俺を逃がさないようにしているんだ。

 「ぜぃ、ぜぃ……。じり貧じゃ、ないか……クソッ!」

 仕事をしなくなってからというもの、大分体力も落ちている。
 夕方から夜にかけての光景が好きで、家の近くをぶらつくぐらいはしていたのだが全力疾走なんて全くしていない。
 お陰ですぐに息が上がってしまう。

 「漫画や、アニメだと……ぜぃ、主人公が、能力に目覚めて……はぁ、解決出来るって、のに」

 一度小休止を取る為立ち止まる。
 これだけ走ったんだ。少し位休める時間はあるだろう。
 両手を膝について下を見ながら息を整える。
 数分ほどしたろうか。

 顔を上げると、自分の左手前に入ってきた昇降口が見える。
 俺は、何時の間にかこの建物の罠を抜けていたらしい。

 「やっ、った……!帰れ、るんだ」
 
 俺は、この忌々しい一夜から抜け出せるんだ!
 もう決めた。二度と和夫の口車には乗らん。
 さっき校庭から車に向かっているのが見えたから、恐らく車に居るだろう。
 エンジン音も聞こえなかったからまず間違いない筈だ。
 だが、そこでふと脳裏を過ぎる事柄があった。

 
 こういうホラー系ではお約束があるのではなかったか?
 

 例えば背後に近寄っている、主人公に斧を振り上げている殺人鬼とか。
 振り向いたら主人公の足にしがみ付き、恨みがましく睨め上げる幽霊とか。
 和夫の話では此処は廃校の筈。
 有るとするなら七不思議に因んだものだろうが、そうなると出てくるものは限られる。
 
 銅像か、骨格標本か、人体模型か。

 銅像は少なくとも此処に来るまでには見なかった。
 あの手のものは見える位置に置くのが一般的な筈だから、目立つ場所に無い以上まず無いと割り切っていいだろう。
 そうなると骨格標本か人体模型だが、自分の左前にある昇降口を無視して正面にある保健室に行くなんて愚は俺は犯さない。
 必然的に無事逃げられる事が約束されているのだ。
 真っ直ぐ行って逃げ切るに決まっている。

 「ラストスパートだ!和夫め、憶えてろ!!」

 今、殴りに行きます。
 
 しかし、此処を逃げ切ったらどうしようか。
 土産話は出来たが取り合えず帰って寝よう。
 明日は一日ゆっくり過ごして、明後日くらいに愚弟にも教えてやらねば。
 この兄だからこそ体験でき、生き残れた物語を余さずにな!
 それをすれば、いくらアイツでも俺の判断を賞賛し敬うだろう。
 そう考えると今まで憎たらしい筈だった弟の顔ですら直ぐに見たくなる。
 
 踊り場から廊下、昇降口までほんの数mだ。大した距離じゃない。
 なのに、見覚えのある光景は終わらない。
 廊下から外に出られない。
 まだ、逃げられていない。

 「んな……馬鹿な……」

 最後の力を振り絞ったのに俺は囚われていた。
 同時に、思い出す。
 そうだ。逃げ切る前にもお約束があった。
 ホラーという大括りになるが、この状況で当て嵌まるもの。
 視線を感じ横を向く。
 
 血の気の全く無い溶け崩れた白い肌。
 血と思しき汚れに塗れたフリルの多い衣服は、まるで生肉で仕立てたようだった。
 髪はうなじを隠す位のショートカットに変わりは無いが、緋色のヘアバンドを隠すような斑な赤の混じる薄緑色の髪は片方が頭皮ごと大きく垂れ下がっている。
 先程俺を捕らえようとした化け物に間違いなかった。
 俺がそいつを確認した事に満足したのか、どこかにいってしまったのか既に完全に無くなった右目とそのまま飛び出してきそうな左目で此方を見るとそのままゆっくりと近寄ってきた。

 「う、ああああああっ!!!」

 今度こそ大声を出して逃げ惑う。
 
 あいつだ。

 あいつがこの状況を作っているんだ。
 あいつから離れないと俺はきっとこのまま殺される。
 理由なんて分からないが確信できる。
 
 再びの全力疾走。
 先程はこれで逃げられたのだ。
 今度も同じように出来るに違いない。そう思って走った。

 走って、走って。
 距離にするともう数十mは走ったのではなかろうか。
 
 横腹が痛い。
 心臓が早鐘のように動き、何度も吸い込む夜気に喉が焼ける。
 水分の無くなった唾液が喉奥に張り付き、その喉奥からは胃から上を焼くように胃酸がせり上がって来ている。
 膝が笑うくらい走った。


 
 なのに。

 あいつはまだ、うしろにいた。


 
 変わらずゆっくりと近寄っているだけの筈なのに先程と違うのは、距離が縮まったと思われる事。
 全体のおおまかな姿しか分からなかったのに、今は注意して見れば服の刺繍らしきものまで見えそうなくらい近い。
 お前は唯の生贄なのだ、と俺の努力を徹頭徹尾否定して掛かる理不尽が、俺を捕らえんと近づいていた。

 その様子に、俺の中で何かが弾けた。
 獣のような咆哮を上げて持っていた懐中電灯をそいつに投げつけるのを、何処か他人事のように感じている。
 懐中電灯はものの見事にそいつに着弾し、そいつは大きく仰け反ったまま動かなくなった。

 ―――根拠もないが今度こそ、逃げるなら今しかないと思った。

 その根拠は正鵠を射ていたようで、先程から蜃気楼のように届かなかった昇降口の下駄箱に手が掛かる。
 今度こそ騙されない。そう、手に掛かる確かな手応えを頼りに俺は玄関から抜け出て行った。
 
 




 抜けた先にある車。
 その車の中は車内灯が点いており、運転席には誰か居る事が見て取れた。
 間違いない。和夫だ。
 今度こそ最後の力を絞り尽くし車に駆け寄ると無遠慮に助手席側のドアを開ける。
 鍵が掛かっている事は考えない。その時は運転席側に殴り込むだけだ。

 一瞬溜めてから思い切りドアを開ける。
 ドアの根元が曲がるんじゃないかという位の勢いだが、俺の怒りを肌で感じさせる為敢えて行った。

 「和夫おっ!てめえ!!何てとこに連れて、きや……がった……」

 怒声が萎む。萎まざるを得なくなる。
 俺は確かに運転席側に一人しか乗っていないのを確認した。
 事実、ドアを開けるまで和夫は一人だけだった。
 だが、開けた途端何やら生臭い匂いとズチュズチュという粘液が纏わりつくような耳障りな音が鼓膜から入ってきた。

 大型の蛞蝓が何匹も一箇所に固まっていたら、きっとこんな光景だろう。
 
 何かが一心不乱に人型の頭部らしきところに吸い付いている。
 何かが人型の腕らしきところに絡み付いている。
 何かが人型の下腹部らしきところへ密集している。

 辛うじて人型だと思ったのは、投げ出された足が靴とズボンを履いていた事とそれに見覚えがあった事が結びついたからだ。
 俺の声にはまるで反応しない。
 足は時々筋肉が痙攣しているのかピクリ、ピクリと動くのだがそれ以上の動きをしない。
 
 ―――食われている。

 唐突に浮かんだその言葉は、すんなりと俺の中に染み込んで来た。
 肉を啜られ生気を吸われ、和夫という存在そのものが今貪られている。
 友人のあまりにも衝撃的な姿に、俺は血の気が引くのを感じ後ずさった。

 
 そこで何かにぶつかる。

 
 思わず顔だけ振り返った時に不思議に思ったのは、何も無かった事だ。
 次いで少し視線を下げる。
 そこには、先程懐中電灯をぶつけられて仰け反ったままの化け物の姿があった。
 体ごと振り返った瞬間、またしても両肩を掴まれてしまう。
 だが、今度もかなり力を入れているのだが一向に外せない。
 異形の化け物は仰け反っていた頭を勢いよく前に振り下ろす。
 そこには、俺が投げた事で損傷の広がったと思われる頭部の抉れがあった。
 
 『ド……ジャ……』

 最早上顎と下顎が皮一枚で繋がっている、裂け目のような口から雑音が聞こえる。
 声を発しているようだった。
 何度か口だけが動いているが、上手く形になっていない。
 俺は目も閉じられず、黙ってみているしかなかった。
 何時の間にか、肩を掴んでいた手は俺の頭を挟み込むような形をとっていた。

 崩れかけた腐肉の塊のような感触に言い表せない不快感を感じていると顔全体を使って覗き込むように俺の顔を引き寄せてきた。
 懐中電灯を投げられた衝撃で飛び出たのであろう。
 左目には飛び出しかけていた眼球は無くなり、右目同様の奈落が此方を覗いていた。

 『 ヒ ド イ ジ ャ ナ イ ? 』
 
 俺は、全てが暗くなるのを感じ意識を手放した。





 


 

 何処かで俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
 
 男なのか。女なのか。
 若いのか。年寄りなのか。
 
 どれでもあってどれでもなさそうな曖昧とした輪郭の声。
 まるで霧か靄に人格を与えれば、こんな声が出せるのではないのだろうか。
 
 声は俺を呼ぶ。
 何度も、何度も。目覚まし時計もかくや、という位律儀に同じ間隔で俺を呼ぶ。
 
 嗚呼、そうだ。
 
 昔見た漫画かゲームで、こんな起こされ方があったっけ―――
 
 目を覚ます。
 
 其処に居たのは、運転席でじっと携帯を弄っている和夫だった。
 和夫は此方に気付いたのか、相変わらずの人の良さそうな笑顔で俺に声を掛けてくる。

 「おお、目ぇ覚めたか。イッセー」

 暢気な声に俺の頭は急激に怒髪天を突く勢いで血が昇る。

 ―――こ、の

 「下調べ位しろおっ!この万年微笑王子っ!!」

 「どお!?何だ、いきなり!?」

 思い切り勢いをつけたストレートを、和夫は驚きながらも難なく避けていた。
 それが更に苛立ちの燃料となり、何とか一発当てようと次の一打を狙うが中々隙を見せない。

 「何だよいきなり!?まだ何もしてないぞ!!??」

 「五月蝿ぇ!『まだ』って何だ『まだ』って!これから何かする予定だったんじゃねぇか!!!」

 「当たり前だろ!?気分転換にこれから廃校探検に行くんだろーが、俺等!『まだ何もしてない』だろーが!!」

 その一言で俺の熱は急激に冷めていった。

 え?これから?さっきまでのは何だったんだ??

 俺が混乱していると、和夫はそれを察したのか状況説明を始めた。

 「イッセー何時の間にか寝てたんだぜ?此処に着いたから起こそうとしても中々起きないし。俺もお前が起きるのを待って暇潰ししてたんだよ」

 「え、あ、いや。そうなのか?全然記憶に無いんだが……」

 「寝てる時の記憶がある奴なんて居ないだろ。誘った手前無理に起こせないし、疲れてるのか軽く声掛けても反応ないから待ってたんだよ、俺」

 そうなのか。
 だとすると俺は、寝惚けて友人を渾身の力で殴り倒そうとしていた事になる。
 流石にそれは謝らないといけないだろうなぁ……。

 「すまん、きっと寝惚けてたんだ。悪かった」

 「……まぁ、そんな事だとは思ったけどな。で、どうする?行くか?」

 目の前に聳え立つ廃校を指差して和夫は言う。
 藍色の夜空の下、黒い絵の具で塗り潰された切絵のような建物は侵入した者も纏めて染め上げ飲み込みかねない異様を晒していた。

 「―――なぁ、和夫。今日来てるのって俺達だけか?」

 もしさっきのが唯の夢ではなかったら。
 予知夢、あるいは正夢だとしたらこのまま行くのは危険しかない。
 俺も殺される。和夫も殺される。

 誰も生き残らない結末を、もし俺が事前に夢という形で見ていたら。
 
 「?ああ、俺達だけだ。来る前にも言ったろ?ドタキャンされたって」

 ―――多少格好悪くたって、避けるべきだろう。
 
 「そうか、そうだったよな。悪ぃ。……ちょっと、ものは相談なんだが。今日は止めないか?」

 「……まぁ、無理に引っ張ったのは俺だしな。イッセーが止めたいって言えば止める」

 てっきり馬鹿にされると思ってたのだが、此方の意見を真剣な顔で受け止めて切り返す和夫の返答に俺は驚いた。

 「いいのか?だってお前―――「良いんだよ」」

 言い切る前に和夫が返答を被せてくる。
 俺が口を噤むと、和夫は更に返してきた。

 「最初に言ったろ?これは『気分転換』なんだって。無理矢理したら寧ろ身体に悪い。義務じゃないんだから止めたって俺は気分なんて害さねーよ」

 ―――世辞を抜きに、こいつが友人で良かったと思う。俺にとって和夫は本当に得難い友人なんだな。

 「じゃあ、帰ろうぜ。弟さんへの土産話はないのが残念かも、だけどな」

 ……ホント、あいつに何て言おうかねぇ。
 嫌味くらいは覚悟しないといけないかもな。
 俺は苦笑いをしながら小さく頷き、和夫の運転する車に揺られ帰路に着いた。

 




 
 気絶して脱力した彼の身体を支え、ゆっくりと下ろす。
 怪我の功名というか、失敗が成功に到達する貴重な事例を新たに作ってしまったのではなかろうか。
 唯の思い付きが此処まで効果があるとは、我ながら予想外だった。

 「それが噂の【化粧】ですか。大したものですね」

 低音で落ち着きのある声が車の運転席から聞こえてくる。
 声は驚きこそあれ敵意はまるで無かった。
 私はどうするか考えあぐねたが、そうしているとミスティが呼び掛けてくる。

 「あ、花ちゃん〜。もうお化粧取っていいよ〜」

 何時の間に近寄っていたのか、運転席側まで浮遊して移動しながらミスティが現れた。
 
 「あなた〜、どうだったかしら〜?花ちゃんのお手並みは〜?」

 そう、彼女は車のドアを開けゴーストの山に向かって話しかけた。
 途端、その山を掻き分けるようにして一人の男が顔を出す。

 「ミスティの言っていた通りだったよ。……いや、予想以上かな?まさかイッセーが気絶する位なんて、全然予想してなかったよ」

 成る程……彼がミスティの旦那様。即ち今回の黒幕だった訳か。
 彼は少しずつ身を捩り、既に脱力しているゴースト達が怪我をしないよう注意深く這い出てきた。
 そこに居たのはグッタリとしているヘイズとファム、それにレイン。
 あんた等、既婚に手ぇ出しちゃったのね……。当人達が満足ならいいけど。
 彼は乱れた着衣をミスティに直して貰い、愛液やら唾液やらが付いた身体を拭き取って貰っていた。
 ミスティが指でOKマークを作ると、彼は改めて此方へ向き直り軽く会釈をして挨拶してきた。

 「直接では初めまして。今回ミスティ経由で懲らしめ役をお願いした旦那の園田 和夫です」

 はにかんだ笑顔から人の良さそうな空気が伝わってくる。
 私はとりあえずミスティの言う通り【化粧】を落とす事にした。

 「初めまして、ミスティから素敵な旦那様を頂けると聞いて承りました。……自分の名前は忘れちゃったんで、好きに呼んで下さい」

 【化粧】は無理矢理解けたものと違い、粘液状にならず白い靄のようになって私の中に入ってくる。
 その様子に目を見開いて子供のように驚く表情を見せるカズオさん。

 「おおぉぉぉ……凄いですね!それ、俺にも出来ますか?」

 「あー……、頑張れば、もしかしたら……」
 
 凄く素直な人なんだなぁ、この人。
 気圧されて生返事を返してしまったが、ミスティの旦那ならその内インキュバスになるだろう。
 基本魔力の塊を被るだけだから、多分出来るかもしれない。恐らく、もしかしたら。
 
 「はいは〜い、あなた〜。和むのは後にしてくださ〜い」

 どう次を切り出すか迷っているところにミスティ乱入。
 この状況なら救いの手である。
 すっかりまとめ役というか仕切り役になっている。

 「花ちゃんは今回の主役ですけど〜、あなたの奥さんは私なんですからね〜?あんまり余所見しちゃダメ〜」

 訂正、拗ねてただけだった。
 これ以上拗れるのは困るので、私は変わった空気に便乗する。

 「取り合えず彼、どうしましょう?乗せられるスペースってあります?」

 カズオさんに聞いてみる。
 頭の上ではミスティが大きめの胸を彼の頭に乗せて浮いているのだが、彼は余裕のある笑みを浮かべて柔らかい声で答えてきた。
 
 「大丈夫だよ。本来はもう少し大人数で来る予定だったんだけど、急なキャンセルがあったからね。行きも帰りもスペースには事欠かないから平気だよ」

 彼女達を連れていく事も予想予想してたからね、とカズオさんは助手席を振り返る。
 其処には、今だ回復していない彼女達の姿があった。
 
 「そんな……キスだけで私がぁ……♥」
 
 「指ぃ……♥凄い、立てないぃ♥♥」
 
 「匂いでぇ、クラクラする……♥」

 成る程、どう転んでも大所帯になる可能性はあったから最初から余裕のある行動をしていた訳か。
 もしかしたら普段から心掛けているのかもしれないけど、自然にこういう事が出来る人は確かに安心出来る。
 感心しているとカズオさんが少し神妙な顔で此方を見てきた。
 
 「花子さん、でいいかな?最後の仕上げというか、お願いがあるんだけどいいかな」

 「何です?後は彼を車に乗せて帰るだけじゃないんですか?」

 お持ち帰り組は後ろに、彼―――イッセイは助手席に乗せておいたので、後はカズオさんが運転席に座る。
 それで終わりではないのだろうか。

 「いや、言い難いんだけど。このままだと多分俺、目を覚ましたイッセーに殴りかかられると思うんだ。大分怖い思いをさせたみたいだから怒ってると思うしね」
 
 確かにその可能性はある。イッセイにしてみればカズオは猛獣の檻の中に生きた餌を投げ込んだ張本人なのだ。
 
 「俺も反射神経には自信があるけど、やっぱ当たったら痛いからさ。もし当たりそうだったらイッセーごと助手席倒して欲しいんだ。アイツ、予想外の事が起こると直前の事忘れるみたいだから」

 後は上手い事やるから、とカズオは悪戯っぽく微笑む。成る程、小ドッキリという奴をご所望と。

 「断る理由は無いですね。でも、私の出番ないかもですよ?」

 奥さんが勝手にやっちゃうかも知れないですからね?
 そう返すとカズオは自分の額を叩いて笑った。

 「そうだね。失念してた。プロが目の前に居るとつい頼っちゃうな……それじゃ、花子さんはイッセーと一緒にドライブを楽しんで下さい」

 その言葉に、私は助手席の彼まで寄り添う。
 気絶しているイッセイの顔に指を這わし、唇を撫で、彼の正面から甘えるように体重を掛ける。
 少しの吐息を漏らし、私は彼の中に沈んでいく。

 泥沼に嵌るような重みのある沈み方ではない。
 水同士が混ざり合うような速やかな侵入。
 拒絶の意思が無いというのもあるだろうが、此処まで速やかに憑依出来たのはきっと彼と私の相性が良いからだろう。
 やがて私が完全に彼の中に乗り移ると、イッセイはゆっくりと目を覚ました。
 カズオも何時の間にか運転席に座っている。

 怒声と共に思い切りの良い拳を振るうイッセイを、余裕のある態度でいなすカズオ。無事良いのは貰わなかったようで何よりだわ。
 さて、此処からが本番。邪魔は入らない分私の好きに出来るが、今夜のように魔力消費の大きい行動は暫く取れない。
 カズオさんやイッセイの口振りだと弟さんが居るみたい。
 将来の義弟だからね、今から会うのが楽しみで仕方ない。

 私はこれからの事に胸を躍らせて目蓋を閉じた。
 思った以上に魔力消費が大きかったのか、目蓋が重くてしょうがないのだ。

 ―――お休みなさい、イッセイ。また後で会おうね。

 車の揺れと彼の鼓動が心地よい。
 私はゆっくりと意識を沈めていった。

13/12/04 00:19更新 / 十目一八
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■作者メッセージ
投稿が大幅に遅れた旨、深くお詫び致します。十目です。
今回で廃校(っぽい)ホラーモドキは終了です。
次回からは自宅編が始まります。

今回以降またしても投稿が遅れる為、年内完結は難しい状態です。
イベントものが書けるか今から心配でなりません。

しかし投稿した文の文字フォントサイズが大きくしても反映されない事に気付きました。
素人故理由が分からず何か手段が無いか手探るつもりですが、当分は現状継続をさせて頂く所存です。

最後となりましたが、このような駄文に今回もお付き合い、ご覧下さいました方々に心からの感謝を。
次回もどうぞ、宜しくお願い致します。

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