空虚
もう目の前の男はまともに動ける筈もない。
あとは死なないように魔法で延命させて、持ち帰るだけ。
なのに、何故体が動かない。
「…………っ」
ずちゃり、と。
瀕死のはずの男が、また一歩をこちらに踏み出す。
なのに、彼我の距離が縮まらないのを見て……初めて、少年は自分が後退している事を自覚した。
訳が分からない。
魔法による操作を受けている訳でもないのに。
灼熱の環境に居る訳でもないのに。
激しい駆動を行った訳でもないのに。
自分の心臓が、ばくばくと激しい鼓動を奏でている。
一歩、また一歩。
「行綱っ!」
その歩みを、魔王の娘が引き止めた。
「もういい!もういいから……頼む、もうやめてくれ……!」
後ろから抱き縋り、纏っていたマントで必死に左腕の断面を圧迫する。
止血の為とはいえ、剥き出しの地肉を布地で押さえつけるその行為に……男はまるで反応を示さない。
「ぁ…………」
彼にはもう、痛みに反応するだけの体力、気力のひとかけらさえも−−残ってはいないのだ。
「ぅ、あ……ぁぁ……!」
堪え切れなくなったように、アゼレアの目から涙がぼろぼろと溢れる。鳴咽が漏れる。
ーーそんな時だった。
「悪い、遅くなった」
二人の横を、金色の風が通り抜けた。
魔界銀によって打ち直され、更なる業物へと鍛え上げられた聖剣が振るわれ火花を散らす。
「……っ!」
その風の名はーー勇者、エドワード=ルドウィン!
「……悪いが、一対一では戦ってやらない。こいつとは、今度一緒に訓練をする約束をしてるんだ。出来たばかりの友人を失う訳にはいかないからな」
「いいんじゃない?」
その傍に、銀の槍を構えた一人のサキュバスが並び立つ。
「もう、ダーリンは清く正しい教団の勇者様なんかじゃないんだし」
「そうだな。何せーー今やハニーと同じ、魔王軍の一員だからな!」
二人だけはない。十人。二十人。まだ増える。
行綱とアゼレアを背に守るようにして、駆けつけた魔物やその夫達が次々と武器を構え始める。
「間に、あった……」
アゼレアの唇から、震えた声の呟きが溢れた。
魔王軍、勇者部隊。
魔物の手により魅了され、堕落した勇者達とそのパートナーのみによって構成される……魔王軍の切り札とも言える部隊である。
彼女は執務室を飛び出す直前に、この部隊への緊急出動を要請していたのだ。
「…………」
一人二人ならばまだしも、この人数は少し厄介かもしれない。
そう考えながら、勇者は掌を前方へと向けーー
その首元に、魔界銀の刃が迫っていた。
「…………っ!!」
咄嗟に身を屈める。背後からは歯噛みの声。
この声と気配はーー目標の男と同じ部隊に居たバフォメットか。
意識を取り戻し、自分の背後へと迫っていたらしい。
少年は、背後を剣で振り払おうとしてーー
「っ、おらぁっ!!」
今度は、教団の聖騎士達の中でも重装の者達のみが扱う大楯がーーまるでブーメランのような勢いと回転をもって眼前まで迫っていた!
虚空を薙ぎ、衝撃波で弾き落とす。
既に、背後に気配はない。
「……全員、今回の作戦目標は行綱さんの防守に変更とします。深追いは控えて下さい」
前方、無理矢理に押し込めた怒りの炎を瞳に宿した七人の魔物達が勇者部隊へと肩を並べる。
魔王軍、第26突撃部隊。
「…………」
少年は考える。
勝てない訳ではない。
しかし、この状況を無理に突破しようとすれば……その余波で、目的の男は死んでしまうだろう、と。
「…………」
だからーー少年は自身の足元を目掛けて光球を放ち。
盛大に巻き上がった土煙が晴れた時には、その姿は何処にも見えなくなっていたのだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
魔王城の一室には、重苦しい空気が漂っていた。
奥の扉から繋がる治療室に行綱とヴィント、そして医療班の魔物が消えてから既に数時間。
『……行綱の身体の事については、私より詳しい人は居ない。』
自身も戦闘を終えたばかりだという制止を押し切り、彼女はそう言い残して治療室へと入っていた。
それから、誰も。一言も発していない。
壁に掛けられた時計の音が、五月蝿く聞こえるほどの沈黙。
「…………ふぅ。」
一時間。二時間。そして三時間が経って……ようやく扉が開き、ヴィントが姿を現した。
「ヴィント、行綱は……!?」
「……大丈夫。先に、病室に転移させて貰ってる。跡は少し残るけど……腕も、骨も、内蔵も繋がった。すぐに、意識も回復すると思う。」
一同は胸を撫で下ろす。
「良かった、本当に……」
「ま、アイツがそんな簡単にくたばる訳ねぇよな」
「ねーねー、お見舞いにお菓子持って行ってあげようよ!」
先程までの重苦しい空気と不安を振り払うように、次々と安堵の声を口にする仲間達は……だから、病室へと先導して歩き始めたヴィントの、呟くような声が聞こえる事はなかった。
「……身体は……ね。」
彼女達はベッドの上で膝を抱くその姿を、自分達のよく知る男と重ね合わせる事が出来なかった。
鋭い確かな眼光を宿していた黒い瞳は、今や俯いたまま、何処とも知らぬ虚空を虚ろに見つめ。
自身を抱きしめるように両の二の腕を強く掴んだ両手は、カタカタと小刻みに震えている。
まるでーーその手を話した瞬間に、再び両の腕を失ってしまうのを恐れているように。
「……ゆき、つな…………?」
誰かが、呟いた。
それは、まるで夢の中のような現実味のなさで。
自分が呟いたのか。それとも隣の誰かが呟いたのか、分からなかった。
返事はない。
その瞳孔は開かれて虚空を見つめたまま、その手は二の腕に指が食い込む程に強く握りしめたままで。
声が、届いていない。
産まれてより鍛え、産まれる前から受け継ぎ続けてきた血と業と。
主を守るという誓いと、身を焦がすほどの怒りと。
その全てを砕かれた男に残されたのはーーまるで一寸先も見えないような暗闇に一人取り残されたような、身体中を満たす薄ら寒い空虚。
そして、骨の髄まで刻み込まれた、痛みと恐怖だけだった。
「…………」
魔物達は、言葉を失っていた。
自分達が恋する男の、あまりにも変わり果てた姿に。
その中で平静を保てていたのは、自分の魂を経箱へと移し、この事を知っていたヴィントと……もう一人。
「あら、ごめんなさいユキちゃん。……そうですよね、怪我をしたばかりなんですから、しばらくは一人で静かにお休みしてたいですよね?」
最初に出会った時と変わらない。
戦場で薙刀を、炎を振り回している時と変わらない。
「さぁ、私たちは一度退散いたしましょうか。皆さん♪」
気味の悪い程にいつも通りの笑顔で笑う……舞だけだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「……本当に、何も食わなくて大丈夫なのか」
「ああ。殆ど眠る必要もないらしい」
「なんて言うか……勇者様ってよりは、本当に戦う為の人形みたいだな」
「しっ、聞こえるぞ」
元より、全て聞こえている。
聞こえているが、どうでも良かった。
常に、少年が考える事は一つだけ。
どうすれば、命令を遂行出来るかーーそれだけだった。
……今日までは。
「…………」
少年は遠征隊のキャンプからやや離れた場所で一人、剣に付着した血を拭っていた。
あの男の、血を。
「…………」
何だったのだろう。
あの、気持ちの悪い脈拍の高まりは。
体が意思通りに動かせない、あの感覚は。
分からない。
なぜ、自分は。
命令を遂行するにあたって、障害にしかならないあの感覚を……もう一度体験したいと思っているのだろうか。
「…………」
もう一度。
もう一度あの男と相対すれば、何かが分かるのだろうか。
そんな事を考えながら。
少年は一人、魔界の空に浮かぶ月を見上げていた。
あとは死なないように魔法で延命させて、持ち帰るだけ。
なのに、何故体が動かない。
「…………っ」
ずちゃり、と。
瀕死のはずの男が、また一歩をこちらに踏み出す。
なのに、彼我の距離が縮まらないのを見て……初めて、少年は自分が後退している事を自覚した。
訳が分からない。
魔法による操作を受けている訳でもないのに。
灼熱の環境に居る訳でもないのに。
激しい駆動を行った訳でもないのに。
自分の心臓が、ばくばくと激しい鼓動を奏でている。
一歩、また一歩。
「行綱っ!」
その歩みを、魔王の娘が引き止めた。
「もういい!もういいから……頼む、もうやめてくれ……!」
後ろから抱き縋り、纏っていたマントで必死に左腕の断面を圧迫する。
止血の為とはいえ、剥き出しの地肉を布地で押さえつけるその行為に……男はまるで反応を示さない。
「ぁ…………」
彼にはもう、痛みに反応するだけの体力、気力のひとかけらさえも−−残ってはいないのだ。
「ぅ、あ……ぁぁ……!」
堪え切れなくなったように、アゼレアの目から涙がぼろぼろと溢れる。鳴咽が漏れる。
ーーそんな時だった。
「悪い、遅くなった」
二人の横を、金色の風が通り抜けた。
魔界銀によって打ち直され、更なる業物へと鍛え上げられた聖剣が振るわれ火花を散らす。
「……っ!」
その風の名はーー勇者、エドワード=ルドウィン!
「……悪いが、一対一では戦ってやらない。こいつとは、今度一緒に訓練をする約束をしてるんだ。出来たばかりの友人を失う訳にはいかないからな」
「いいんじゃない?」
その傍に、銀の槍を構えた一人のサキュバスが並び立つ。
「もう、ダーリンは清く正しい教団の勇者様なんかじゃないんだし」
「そうだな。何せーー今やハニーと同じ、魔王軍の一員だからな!」
二人だけはない。十人。二十人。まだ増える。
行綱とアゼレアを背に守るようにして、駆けつけた魔物やその夫達が次々と武器を構え始める。
「間に、あった……」
アゼレアの唇から、震えた声の呟きが溢れた。
魔王軍、勇者部隊。
魔物の手により魅了され、堕落した勇者達とそのパートナーのみによって構成される……魔王軍の切り札とも言える部隊である。
彼女は執務室を飛び出す直前に、この部隊への緊急出動を要請していたのだ。
「…………」
一人二人ならばまだしも、この人数は少し厄介かもしれない。
そう考えながら、勇者は掌を前方へと向けーー
その首元に、魔界銀の刃が迫っていた。
「…………っ!!」
咄嗟に身を屈める。背後からは歯噛みの声。
この声と気配はーー目標の男と同じ部隊に居たバフォメットか。
意識を取り戻し、自分の背後へと迫っていたらしい。
少年は、背後を剣で振り払おうとしてーー
「っ、おらぁっ!!」
今度は、教団の聖騎士達の中でも重装の者達のみが扱う大楯がーーまるでブーメランのような勢いと回転をもって眼前まで迫っていた!
虚空を薙ぎ、衝撃波で弾き落とす。
既に、背後に気配はない。
「……全員、今回の作戦目標は行綱さんの防守に変更とします。深追いは控えて下さい」
前方、無理矢理に押し込めた怒りの炎を瞳に宿した七人の魔物達が勇者部隊へと肩を並べる。
魔王軍、第26突撃部隊。
「…………」
少年は考える。
勝てない訳ではない。
しかし、この状況を無理に突破しようとすれば……その余波で、目的の男は死んでしまうだろう、と。
「…………」
だからーー少年は自身の足元を目掛けて光球を放ち。
盛大に巻き上がった土煙が晴れた時には、その姿は何処にも見えなくなっていたのだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
魔王城の一室には、重苦しい空気が漂っていた。
奥の扉から繋がる治療室に行綱とヴィント、そして医療班の魔物が消えてから既に数時間。
『……行綱の身体の事については、私より詳しい人は居ない。』
自身も戦闘を終えたばかりだという制止を押し切り、彼女はそう言い残して治療室へと入っていた。
それから、誰も。一言も発していない。
壁に掛けられた時計の音が、五月蝿く聞こえるほどの沈黙。
「…………ふぅ。」
一時間。二時間。そして三時間が経って……ようやく扉が開き、ヴィントが姿を現した。
「ヴィント、行綱は……!?」
「……大丈夫。先に、病室に転移させて貰ってる。跡は少し残るけど……腕も、骨も、内蔵も繋がった。すぐに、意識も回復すると思う。」
一同は胸を撫で下ろす。
「良かった、本当に……」
「ま、アイツがそんな簡単にくたばる訳ねぇよな」
「ねーねー、お見舞いにお菓子持って行ってあげようよ!」
先程までの重苦しい空気と不安を振り払うように、次々と安堵の声を口にする仲間達は……だから、病室へと先導して歩き始めたヴィントの、呟くような声が聞こえる事はなかった。
「……身体は……ね。」
彼女達はベッドの上で膝を抱くその姿を、自分達のよく知る男と重ね合わせる事が出来なかった。
鋭い確かな眼光を宿していた黒い瞳は、今や俯いたまま、何処とも知らぬ虚空を虚ろに見つめ。
自身を抱きしめるように両の二の腕を強く掴んだ両手は、カタカタと小刻みに震えている。
まるでーーその手を話した瞬間に、再び両の腕を失ってしまうのを恐れているように。
「……ゆき、つな…………?」
誰かが、呟いた。
それは、まるで夢の中のような現実味のなさで。
自分が呟いたのか。それとも隣の誰かが呟いたのか、分からなかった。
返事はない。
その瞳孔は開かれて虚空を見つめたまま、その手は二の腕に指が食い込む程に強く握りしめたままで。
声が、届いていない。
産まれてより鍛え、産まれる前から受け継ぎ続けてきた血と業と。
主を守るという誓いと、身を焦がすほどの怒りと。
その全てを砕かれた男に残されたのはーーまるで一寸先も見えないような暗闇に一人取り残されたような、身体中を満たす薄ら寒い空虚。
そして、骨の髄まで刻み込まれた、痛みと恐怖だけだった。
「…………」
魔物達は、言葉を失っていた。
自分達が恋する男の、あまりにも変わり果てた姿に。
その中で平静を保てていたのは、自分の魂を経箱へと移し、この事を知っていたヴィントと……もう一人。
「あら、ごめんなさいユキちゃん。……そうですよね、怪我をしたばかりなんですから、しばらくは一人で静かにお休みしてたいですよね?」
最初に出会った時と変わらない。
戦場で薙刀を、炎を振り回している時と変わらない。
「さぁ、私たちは一度退散いたしましょうか。皆さん♪」
気味の悪い程にいつも通りの笑顔で笑う……舞だけだった。
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「……本当に、何も食わなくて大丈夫なのか」
「ああ。殆ど眠る必要もないらしい」
「なんて言うか……勇者様ってよりは、本当に戦う為の人形みたいだな」
「しっ、聞こえるぞ」
元より、全て聞こえている。
聞こえているが、どうでも良かった。
常に、少年が考える事は一つだけ。
どうすれば、命令を遂行出来るかーーそれだけだった。
……今日までは。
「…………」
少年は遠征隊のキャンプからやや離れた場所で一人、剣に付着した血を拭っていた。
あの男の、血を。
「…………」
何だったのだろう。
あの、気持ちの悪い脈拍の高まりは。
体が意思通りに動かせない、あの感覚は。
分からない。
なぜ、自分は。
命令を遂行するにあたって、障害にしかならないあの感覚を……もう一度体験したいと思っているのだろうか。
「…………」
もう一度。
もう一度あの男と相対すれば、何かが分かるのだろうか。
そんな事を考えながら。
少年は一人、魔界の空に浮かぶ月を見上げていた。
22/01/28 17:10更新 / オレンジ
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