懺悔
「そんなに怖い顔で睨まないでくれ。今日は戦いに来た訳じゃないんだ」
虜の果実のジュースが入ったビンを片手に、勇者が苦笑した。
尤も行綱にそのような意図はなく、ただ声の方向へと振り向いただけだったのだが。
「…………」
確かに、昔から姉に『ユキちゃんは唯でさえ目つきが悪いんですから、少しくらい愛想を良くしないと皆に怖がられちゃいますよ〜?』というような事は散々言われてきた。
だが、こちらに来て主からも仲間達からもそのような素振りは見られなかった為、既に改善されたものだと思っていたのだが……。
……そうか、変わっていなかったか……。
僅かに落ち込む行綱だが、しかしそんな彼の心情の機微など、それこそ彼の主か仲間、そして姉ぐらいでなければ分かる筈もなく。
「何か、用か」
「いや、偶然だ。一人で散歩をしていたんだが、偶然知った顔があったから。……よっ、と」
勇者が行綱の隣に腰掛ける。
二人は何を話すでもなく。そうしてしばらくの間、無言で中庭の様子を眺めていた。
そんな沈黙を破ったのは、意外にも行綱の方だった。
「その、手の物は」
「ん?……ああ、美味しいよな。これ」
勇者はビンを一口を傾けて笑った。口ぶりからして、その原料が何なのか知らない訳ではないのだろう。
それを、平然と口に運んでいるという事は……。
「お前も、こちら側へ下ったのか」
「ああ。こっち側にに守りたい相手が出来てさ。……いや本当、人生何が起きるか分からないな」
夫婦に両手を繋がれ、幸せそうに歩く魔物の子供を眺めながら、感慨深そうに元勇者が言った。
「……ああ」
行綱は静かに頷く。
本当に、その通りだと思う。
自分が魔界に来たのは、死ぬ為だった。
戦う事しか出来ないのに。戦う事しか教えて貰っていないのに、そんな自分が平和な日々の中に沈んでゆくのがとても恐ろしくて。
そんな時だ、海の向こうからやってきた男に出会ったのは。
『助けて下さい。大陸は、魔界からやってくる魔物によって滅ぼされようとしているのです』
「…………」
結局のところ。自分はただ、逃げ出したかったのだろう。
真綿で首を絞められるような息苦しさから。自分の事など知らずに流れ続ける平和から。
そうしてそんな平和を甘受出来ない、あまりに醜い自分の生から。
「ああ、そうだ。お前に会えたら聞こうと思っていた事があるんだが……」
と、元勇者が向き直りやや声を潜めて言った。
「ハーレムって実際どうなんだ」
「…………は?」
行綱の口から間の抜けた声が出た。
「いや、俺はほら、元勇者だし浮気とかそういうのはしないつもりなんだが……男としてやっぱり気になるだろう!?や、やっぱり凄いのか!?というかあんな情熱的なのが何人もいて体が持つのか!?」
「…………」
……真っ直ぐな目で何を言っているのだろう、この男は。
というか。
「何故。それを私に聞く」
「リリムとその配下の特殊部隊を纏めてハーレムにした男だってあちこちで噂されてたんだが、違うのか?」
「違う」
……どこからそんな噂が……?
「最近は故郷にも女を残していた事が発覚したとか……」
「それは姉だ。私は、誰ともそのような関係ではない」
それを聞いた勇者は怪訝そうな表情を浮かべる。
「教団にいた頃はリリムに誘惑されてこちら側に着いた、って聞いていたんだが……それも間違いって事か?」
「……それは」
あの日。空から降りてきたアゼレアの姿を見た事がそのきっかけであった事は間違いないが、彼女はただ自分と相対していただけ。
そんな彼女の姿を見た瞬間。自分はーー
「……気付かぬうちに、頭に矢でも受けて死んでしまったか、と」
「待て、今何でそうなった」
今度は勇者が戸惑いの声を上げる番だった。
だが、行綱は至って真面目な様子で続ける。
「……空から、天女が迎えに来たかと」
天から降りてくるその姿が、この世のものとは思えぬ程に美しくて。その姿に見惚れるまま、気がつけば馬を止めてしまっていた。
だが、すぐに思い直した。自分は死んだところで、そんな迎えが来るような人間では無い筈だと。
そうして、思い至る。絶世の美貌と角や羽、尻尾といった人外の部位。即ち、彼の故郷で言うところの、妖怪と同じような存在ではないのか、と。
本当に、何が起きるか分からないものだ。
死ぬ為に来た魔界でーー自分は今、仕えるべき主を見つけているのだから。
「ははーん、つまり一目惚れだな?」
「人の話を聞いていたか」
以前対峙した際には『お前と話していると調子が狂う』と言われた行綱だが、今はその台詞をそっくりそのまま返したい気分だった。
だが、元勇者という彼が元から持つ人徳か。あるいはそれは、旅をしていたという経歴の中で身につけた物なのか。不思議なことに、それが不快ではない。彩と話している時の感覚に近いだろうか。
「あはは、すまんすまん。……結構話してしまったな。そろそろあいつの所に戻らないと」
そう言って、元勇者は腰を上げた。
あいつというのは、こちらで出来たという彼の恋人の事だろうか。
「行綱って言ったっけ。良かったら今度剣の鍛錬に付き合ってくれよ。……いや、魔物達も強いんだが、女性を相手に剣を振るのはなかなか慣れなくてさ」
「……ああ」
苦笑する元勇者に、行綱は頷いた。
「私も、未だに抵抗がある」
「よし、今度は負けないから覚悟しておけよ?」
手を振りながら、元勇者が去って行く。
「…………一目惚れ、か」
行綱が、ぼつりと呟く。
そうして元勇者の背中が見えなくなってからも、行綱は一人腰掛けたまま。何かを考え続けているかのように、じっと中庭の様子を眺めていた。
―――――――――――――――――――――
「司教様、こちらにいらしたのですね」
王魔界からは遠く離れた、とある教団国家の大聖堂。
月と星がステンドグラス越しに微かな灯りを届ける礼拝の間に、二つの人影があった。
「魔界遠征へ旅立った教徒達が心配でね。……もはやわたしには、こうして彼らの無事を祈る事しかできないが」
一人は、白い物が混じり始めた髭を蓄えた初老の男性。
教団の中でもそれなりに高位の司教である彼は、今回の魔界遠征にも大きく関わっている。聖騎士隊などからの人員の任命に止まらず、彼自身の私財を投げ打っての物資の確保など、その貢献の広範さはそのまま彼の信仰の厚さを表してもいた。
「きっと、大丈夫です。司教様が選ばれた方々は、皆清く正しい信徒ばかりでしたもの。きっと主がご加護を下さる筈ですわ」
そしてもう一人。修道服に身を包み、手にしたランプに儚げな美貌を照らされた妙齢の女性。
彼女は表向き、この大聖堂に仕えるシスターであり……その真の姿は、魔王軍から送り込まれたアゼレア直属のスパイでもあった。
今回の魔界遠征でこの司教が関わる範囲の情報は全て魔王軍に筒抜けであり、彼が行った人員の任命に関しても仲間達からの『こんな夫が欲しい!』というリクエストに応えられるよう誘導をしてある。
「最近は、特に夜が冷え込みます。司教様がお体を壊されたとあっては、旅立った彼らも悲しみますわ」
「……あ、ああ。もう少しだけ祈りを捧げたら、私も休む事にするよ」
そうしてそんな彼女の任務に対する報酬こそが、この司祭なのだった。
以前ならば断固として一晩中祈る事を辞めていなかったであろう彼だが、今ではこうして自分の言う事を聞いてくれるようになった。
今回の遠征についても、そう。他の者には絶対に言ってはならぬであろう事柄まで、自分だけには語ってくれるのだ。
ああ、あと少しだ。
あと少し。今回の遠征が終了すれば、彼が信仰に向けていた情念の全てをこの身に纏う事が出来る。
思わず口元が怪しく緩む。だが己のそれが如何に男の理性を揺るがすものかを心得ている彼女は、敢えてそれを抑える事なく司教に微笑んだ。
「では、あとで食堂にいらしてください。ミルクを温めておきますから。……司教様程に信仰に厚い方を労う為の夜更かしならば、主もお目溢しを下さるでしょうから」
「……あ、ああ……」
思わず視線を自身から逸らしてしまう司教の反応にクスリと笑い、シスターが部屋を後にする。
そうして後には、司教のみが残った。
「………………」
これは、半ば祈り。
たがーー半ばは、懺悔だ。
いや、懺悔というのは正しくない。これは赦される罪ではないし、自分は赦されるべきだとも思っていない。
あれほど迄に信頼している彼女にすら話していない、自分の犯した罪。
だからせめてーーせめてその罪が、無駄にならぬようにと。
司教はただ一人、真夜中の礼拝堂で祈り続けていた。
虜の果実のジュースが入ったビンを片手に、勇者が苦笑した。
尤も行綱にそのような意図はなく、ただ声の方向へと振り向いただけだったのだが。
「…………」
確かに、昔から姉に『ユキちゃんは唯でさえ目つきが悪いんですから、少しくらい愛想を良くしないと皆に怖がられちゃいますよ〜?』というような事は散々言われてきた。
だが、こちらに来て主からも仲間達からもそのような素振りは見られなかった為、既に改善されたものだと思っていたのだが……。
……そうか、変わっていなかったか……。
僅かに落ち込む行綱だが、しかしそんな彼の心情の機微など、それこそ彼の主か仲間、そして姉ぐらいでなければ分かる筈もなく。
「何か、用か」
「いや、偶然だ。一人で散歩をしていたんだが、偶然知った顔があったから。……よっ、と」
勇者が行綱の隣に腰掛ける。
二人は何を話すでもなく。そうしてしばらくの間、無言で中庭の様子を眺めていた。
そんな沈黙を破ったのは、意外にも行綱の方だった。
「その、手の物は」
「ん?……ああ、美味しいよな。これ」
勇者はビンを一口を傾けて笑った。口ぶりからして、その原料が何なのか知らない訳ではないのだろう。
それを、平然と口に運んでいるという事は……。
「お前も、こちら側へ下ったのか」
「ああ。こっち側にに守りたい相手が出来てさ。……いや本当、人生何が起きるか分からないな」
夫婦に両手を繋がれ、幸せそうに歩く魔物の子供を眺めながら、感慨深そうに元勇者が言った。
「……ああ」
行綱は静かに頷く。
本当に、その通りだと思う。
自分が魔界に来たのは、死ぬ為だった。
戦う事しか出来ないのに。戦う事しか教えて貰っていないのに、そんな自分が平和な日々の中に沈んでゆくのがとても恐ろしくて。
そんな時だ、海の向こうからやってきた男に出会ったのは。
『助けて下さい。大陸は、魔界からやってくる魔物によって滅ぼされようとしているのです』
「…………」
結局のところ。自分はただ、逃げ出したかったのだろう。
真綿で首を絞められるような息苦しさから。自分の事など知らずに流れ続ける平和から。
そうしてそんな平和を甘受出来ない、あまりに醜い自分の生から。
「ああ、そうだ。お前に会えたら聞こうと思っていた事があるんだが……」
と、元勇者が向き直りやや声を潜めて言った。
「ハーレムって実際どうなんだ」
「…………は?」
行綱の口から間の抜けた声が出た。
「いや、俺はほら、元勇者だし浮気とかそういうのはしないつもりなんだが……男としてやっぱり気になるだろう!?や、やっぱり凄いのか!?というかあんな情熱的なのが何人もいて体が持つのか!?」
「…………」
……真っ直ぐな目で何を言っているのだろう、この男は。
というか。
「何故。それを私に聞く」
「リリムとその配下の特殊部隊を纏めてハーレムにした男だってあちこちで噂されてたんだが、違うのか?」
「違う」
……どこからそんな噂が……?
「最近は故郷にも女を残していた事が発覚したとか……」
「それは姉だ。私は、誰ともそのような関係ではない」
それを聞いた勇者は怪訝そうな表情を浮かべる。
「教団にいた頃はリリムに誘惑されてこちら側に着いた、って聞いていたんだが……それも間違いって事か?」
「……それは」
あの日。空から降りてきたアゼレアの姿を見た事がそのきっかけであった事は間違いないが、彼女はただ自分と相対していただけ。
そんな彼女の姿を見た瞬間。自分はーー
「……気付かぬうちに、頭に矢でも受けて死んでしまったか、と」
「待て、今何でそうなった」
今度は勇者が戸惑いの声を上げる番だった。
だが、行綱は至って真面目な様子で続ける。
「……空から、天女が迎えに来たかと」
天から降りてくるその姿が、この世のものとは思えぬ程に美しくて。その姿に見惚れるまま、気がつけば馬を止めてしまっていた。
だが、すぐに思い直した。自分は死んだところで、そんな迎えが来るような人間では無い筈だと。
そうして、思い至る。絶世の美貌と角や羽、尻尾といった人外の部位。即ち、彼の故郷で言うところの、妖怪と同じような存在ではないのか、と。
本当に、何が起きるか分からないものだ。
死ぬ為に来た魔界でーー自分は今、仕えるべき主を見つけているのだから。
「ははーん、つまり一目惚れだな?」
「人の話を聞いていたか」
以前対峙した際には『お前と話していると調子が狂う』と言われた行綱だが、今はその台詞をそっくりそのまま返したい気分だった。
だが、元勇者という彼が元から持つ人徳か。あるいはそれは、旅をしていたという経歴の中で身につけた物なのか。不思議なことに、それが不快ではない。彩と話している時の感覚に近いだろうか。
「あはは、すまんすまん。……結構話してしまったな。そろそろあいつの所に戻らないと」
そう言って、元勇者は腰を上げた。
あいつというのは、こちらで出来たという彼の恋人の事だろうか。
「行綱って言ったっけ。良かったら今度剣の鍛錬に付き合ってくれよ。……いや、魔物達も強いんだが、女性を相手に剣を振るのはなかなか慣れなくてさ」
「……ああ」
苦笑する元勇者に、行綱は頷いた。
「私も、未だに抵抗がある」
「よし、今度は負けないから覚悟しておけよ?」
手を振りながら、元勇者が去って行く。
「…………一目惚れ、か」
行綱が、ぼつりと呟く。
そうして元勇者の背中が見えなくなってからも、行綱は一人腰掛けたまま。何かを考え続けているかのように、じっと中庭の様子を眺めていた。
―――――――――――――――――――――
「司教様、こちらにいらしたのですね」
王魔界からは遠く離れた、とある教団国家の大聖堂。
月と星がステンドグラス越しに微かな灯りを届ける礼拝の間に、二つの人影があった。
「魔界遠征へ旅立った教徒達が心配でね。……もはやわたしには、こうして彼らの無事を祈る事しかできないが」
一人は、白い物が混じり始めた髭を蓄えた初老の男性。
教団の中でもそれなりに高位の司教である彼は、今回の魔界遠征にも大きく関わっている。聖騎士隊などからの人員の任命に止まらず、彼自身の私財を投げ打っての物資の確保など、その貢献の広範さはそのまま彼の信仰の厚さを表してもいた。
「きっと、大丈夫です。司教様が選ばれた方々は、皆清く正しい信徒ばかりでしたもの。きっと主がご加護を下さる筈ですわ」
そしてもう一人。修道服に身を包み、手にしたランプに儚げな美貌を照らされた妙齢の女性。
彼女は表向き、この大聖堂に仕えるシスターであり……その真の姿は、魔王軍から送り込まれたアゼレア直属のスパイでもあった。
今回の魔界遠征でこの司教が関わる範囲の情報は全て魔王軍に筒抜けであり、彼が行った人員の任命に関しても仲間達からの『こんな夫が欲しい!』というリクエストに応えられるよう誘導をしてある。
「最近は、特に夜が冷え込みます。司教様がお体を壊されたとあっては、旅立った彼らも悲しみますわ」
「……あ、ああ。もう少しだけ祈りを捧げたら、私も休む事にするよ」
そうしてそんな彼女の任務に対する報酬こそが、この司祭なのだった。
以前ならば断固として一晩中祈る事を辞めていなかったであろう彼だが、今ではこうして自分の言う事を聞いてくれるようになった。
今回の遠征についても、そう。他の者には絶対に言ってはならぬであろう事柄まで、自分だけには語ってくれるのだ。
ああ、あと少しだ。
あと少し。今回の遠征が終了すれば、彼が信仰に向けていた情念の全てをこの身に纏う事が出来る。
思わず口元が怪しく緩む。だが己のそれが如何に男の理性を揺るがすものかを心得ている彼女は、敢えてそれを抑える事なく司教に微笑んだ。
「では、あとで食堂にいらしてください。ミルクを温めておきますから。……司教様程に信仰に厚い方を労う為の夜更かしならば、主もお目溢しを下さるでしょうから」
「……あ、ああ……」
思わず視線を自身から逸らしてしまう司教の反応にクスリと笑い、シスターが部屋を後にする。
そうして後には、司教のみが残った。
「………………」
これは、半ば祈り。
たがーー半ばは、懺悔だ。
いや、懺悔というのは正しくない。これは赦される罪ではないし、自分は赦されるべきだとも思っていない。
あれほど迄に信頼している彼女にすら話していない、自分の犯した罪。
だからせめてーーせめてその罪が、無駄にならぬようにと。
司教はただ一人、真夜中の礼拝堂で祈り続けていた。
18/07/20 01:45更新 / オレンジ
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