連載小説
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宣戦布告U
騒ぎを聞き付けて駆け付けたのは、軍警隊でも自警団でもなく教会の神父だった。
彼が到着した時、アランは既に意識を手放してシアに寄り添うようにして倒れていた。その手には原色が判らないほどに血を吸い上げて変色した一房の髪の毛が握られていた。
神父は野次に来ていた男衆に教会まで運んでくれるように頼んだ。
しかし、惨死体とそれを作り上げた殺人鬼をボランティアで運ぼうとする者は現われず、礼金の話を持ち出して漸く傭兵かぶれの者数名が三人を荷車に乗せて、教会へ向かう神父に同伴した。
その際、歪に捻じ曲がった剣は血溜まりの中に拾いきれなかった肉片とともに捨て置かれた。



***



突然変わった身体を包む感触に驚いて目を明けると、赤い部屋は泡立つ桃色の世界に変貌を遂げていた。

「エホッ、ケホッ!」

世界をかき分けて飛び出すと肺が発作的に酸素を求めて激しく咳き込んだ。しかし、息を吸うたびに入ってくる温く重い空気は息苦しさをさらに強め、咳は中々な収縮を見せない。

「すみません。老体では貴方の身体を支え切れませんでした」

咳き込みながら濡れた瞼を開くと教会に居た神父が身体を折り曲げて立っていた。傍らには血のようなものがべったりと付着した荷車がある。それは若干の水気を失っており、アランが転がり落ちたと見える跡をくっきりと残していた。

「こ、ここは?」
「教会の中にある温泉です」

首を動かすと不揃いな石が積まれた枠の中に温水が並々と汲まれているのが見て取れた。ただし、色は桃色ではなく乳白色だ。
自分の見た光景との相違を覚えて湯を救おうとした手に血が残っているのを見て、アランは漸く自分が洗われていることに気付いた。
同時に頭蓋を砕いた感触が、身体を駆け抜けた憎悪がぞわりと這い上がり、空の胃が捻れて嘔吐感だけが吐き出された。

「…僕は、裁かれるのですか?」

弱々しい言葉がアランの口から漏れる。

「全ては主がお決めになることだ」
「じゃぁ、これは祓除なんですね」

弱々しいままに笑う。
特別な効能を持つ冷温泉は神の贈物とされており崇められている。そうでなくとも、教会領に涌く湯は神聖を帯びるとされている。
穢れた身体を浄化するには最適の場所だ。

「…私は聖堂で待つ。ゆっくりしていきなさい」

大雑把な扱いだ、とぼんやりと考えてアランは目を瞑った。
瞼の裏には、記憶の底でヘドロとなって淀む物が今度は感触だけではなく過去として写し出された。
思い出す。シアに寄り添って薄れる意識。一房の髪を握る手。むせ返る臓腑の匂い。ひしゃげる柔らかい感触。暴風と化す剣先。男の悲鳴。鼻に付く血の香水。肉を切り刻む音。生臭い脳髄の悪臭。崩れるシアの顔。渦巻く暴怒。濃厚な性の香り。女の嬌声。男の嬌声。濡れる二人。軋むベッド。打ち付ける絶望。
気付く。何かが足りない。しかし、何かに気付けない。
思案しても分からず、アランは息を吸い込み湯槽の中に身体を沈めて、胸中に息付いた不安定な疑念を一旦隅に追いやった。早々と血を洗い落とすとそのまま湯槽から身体を引き上げた。



***



用意されていた服は死刑囚が着るような白衣でも罪人が着る黒羊毛の服でもなく、アランが着ているような薄手の半袖と作業用の長ズボンだ。
信仰心ではなく常識が服に伸ばすアランの手を鈍らせたが、血が完全に落とし切れていないうえにぐっしょりと濡れてしまっている今の格好とは掛ける天秤も見付からなかった。
仕方なしに用意された服を着て教会内を記憶を頼りに進む。
行き着いた聖堂はステンドグラス越しに夕陽が差し込み、全体が朱に染まっている。神父は顔を赤らめた天使の像の前で長剣を携えてアランを待っていた。
アランが光を避け、暗がりを歩いて傍に立つと、神父はアランと天使に一礼をくわえて聖書を開いた。

「主は貴方を見守っていました。主は貴方の全てを知っています。主は貴方の罪の全てを聞いています。しかし、主は貴方が自身で語る事を最も強く望まれています」

次々と語られる聖句を半分に聞きながら、アランはステンドグラスに描かれた魔を落とす神を見た。
魔は何故裁かれているのか。
神が子であるニンゲンに原罪を背負わせたように、同じ子である魔にも産まれながらにして背負う罪があるというのか。

「…咎人よ、懺悔なさい。主の元に立つ一人の単独者として全てを曝け出して語るのです」

では、魔に堕ちたシアの魂は何処へ向かうのか。死者の集う冥界か。罪を浄う煉獄か。罰を受ける地獄か。

「…主は貴方の魂に再び安寧と安らぎを注がれるでしょう」

救われざるは在って然るのか。

「…神の眷属に生まれ変わり救われよ」

アランの視線が神から外れ、虚ろな双眸が神父を見据えた。

「…シアは救われましたか?」

聖句が止まる。

「彼女は魔に堕ちました」

神父は天使に一礼して聖書を置き、アランの問いに答えた。

「ですが、元は人間です。私どもの手で手厚く葬りました。きっと、救われましたよ」
「良かった」

アランの口調に僅かな感情が宿る。

「それと、これは貴方が持っていたものです」

神父が懐から取り出してアランの手に握らせたのは小麦色の髪留めだった。

「…あぁ、分かります。シアだ」

手の中の温もりに冷えきっていたアランの眼から涙が一滴だけ零れ落ち、顔を伝った。

「最後に救いを感謝します」

シアの髪留めで後ろ髪を括り、膝をついて首を差し出す。

「思い残しはありません。断罪を」

神父の顔が渋る。

「貴方は…死にたいのですか?」

剣ではなく意外な言葉が降ろされ、アランはさっと顔を上げた。
そして自問する。お前は死にたいのかと。

「良く…判りません」

死は叫ぶように泣いたあの時は確かにアランの心に在り、靄のように覆っていた。
だが、今在ったのは空虚。
流れ込む絶望を受け容れるために心が作り出した虚無が死への渇望を飲み込んでいた。

「では、生きたいですか?」
「…良く判りません」

そして生への執着もまた虚無に飲み込まれて消えていた。
今のアランは、願うように頼まれれば毒杯を呷ることも薬丸を飲み込むことも無感動に行うだろう。其れ程までに生死への関心を失っていた。

「勇者がそのように虚ろでは困りますな」
「…え?」

師曰く、勇者とは神に選ばれ恩恵を授け取れる素質を持ったニンゲンである、と。
アランは自分が神に選ばれたことに激しい抵抗を覚え顔を苦くした。
有り得ないと。

「私が称えていたのは勇者の背負う罪を拭う為の聖句で、この剣は神が貴方にお与えになられた聖剣です」

アランは罪を犯した手を見つめて首を振る。有り得ないのだ。

「信じられないでしょうが、貴方には魔王の魔力を霧散させる加護が宿っています。さらに魔に堕ちた恋人でも英断の下に斬り伏せられる信仰心もある。このような逸材は今まで捜し出せませんでした」
「違うっ!!」

シアを殺した事を英断と呼ばれ、アランの胸の奧がぐにゃりと曲がった。麻痺していた後悔が器一杯に溢れかえり、自責が色をどす黒く変色させていく。
気付けば、痛むのも厭わずに拳を振るっていた。だが、アランの拳は痛む事なく床板を易々と打ち砕いた。
神の恩恵を見せつけられ、後悔がさらに競り上がる。

「僕は彼女を抱くべきだった!」

ゆらりと立ち上がり、神父を睨み付ける。

「混乱するのは分かります。しかし、どうか落ち着いて下さい。貴方はまだ整理が出来て――

伸ばされた神父の手が乱暴に払われる。

「僕は彼女を愛していくべきだった!知っていた!彼女が自分でも抗えない情欲に身を焼かれていたことを!察せた筈だ!彼女はきっと後悔で泣いていた!なのに僕はシアを殺した!怒りに任せて剣を抜いた!英断!?信仰心!?ふざけるな!狂った男の蛮行じゃないか!」

数分前まで無表情だった男の露になった感情が剣幕を張る。神父はアランの威圧に逃げ腰になりながらも胸元の聖印を握り締めて毅然と立ち向かって放つ。

「彼女は魔王に魂を売ってサキュバスになった!貴方は正しい!」
「…サキュバス?」

力が抜けていくアランを見て、神父の身体からも力が一気に抜けて地面に尻を付いた。その口からは安堵のため息が漏れる。

「…サキュバス。そうか、サキュバスだな」

アランは再び無表情に戻っていたが、声には晴れた気持ちが乗っている。
胸中の隅に追いやった疑念が、いま漸く溶けた。

「そうです!サキュバスです!奴らこそが悪であり、貴方は犠牲に遇ったに過ぎないのです!ほら、思いませんか!?奴らが憎いと!」

神父はアランの呟きを好意的に受け取ったのだろう。壁に手をかけてよろよろと立ち上がりながらも、ここぞとばかりにアランに畳み掛けている。

「憎しみ?」

疑念を気に掛けていたアランの脳が一瞬だけ別に記憶を探って働く。

「…確かに。僕はサキュバスに憎悪がある。怨恨がある。根絶やしにしたい欲望がある。怒りがある。殺意がある」

覚える。感情が胸の奥に沈静している。

「おぉ!おぉ!それでこそ!それでこそ勇者です!ヤハウィラ・アラリオン!さぁさぁ、この剣を受け取り神に誓いを!」

神父は希望に顔を輝かせ、押し付けるように聖剣をアランに差し出した。
剣の柄にアランの手が触れる。

「聞きたいことがあります」

飾り気の無い鞘を眺めて呟く。

「なんなりと」
「サキュバスは何処に居ますか?」
「良く判りませんが、西の領主は忌々しくも教会の教えに背いた者です。彼の地ならば――
「そっちじゃない」

柄を握り締め、自分の下に聖剣を寄せる。

「僕は貴方がシアに仕向けたサキャバスは何処かと聞いているんです」
「な、なんのことか」

アランは否定する神父が青ざめた一瞬を逃さず、手に入れた新しい剣を鞘ごと下段に振り抜いた。
固い感触が手に伝わる。

「ぎゃぁぁああぁあっ!」

足を折られ絶叫とともに床に老体が転がる。

「疑問だったんです。シアを変化させたサキュバスが居なかったこと。僕が軍警隊の手に納まるよりも早く教会に保護されていたこと」

倒れる神父の顔が容赦なく踏みつけられる。

「貴方、捜し出せないと言いましたね。目的は知りませんが、勇者の素質を持つニンゲンをずっと捜していたのでしょう。そこに僕が現れた」

足に力が入り、神父の顔が床にめり込んでいく。
蛙の鳴くような呻きが漏れた。

「手っ取り早く神の従順な僕にするために隙を見て教会のペットか商人の玩具のサキャバスをシアに放った。ついでに疑うなら、あの男も用意したんでしょう。都合よく押し倒せる男がいなかったら、僕とシアは何一つ変わらないまま幸せに過ごしていたでしょうからね」

圧力が弱まる。

「違いますか?」

わざとらしい優しい口調。

「…違う…私は知らない…」

尚も否定する神父をアランは諦めたようにため息をついて解放した。

「まぁ、真否はどうでもいいんですけどね」

鞘が外される。薄明かりの中で仄かな青白い光を放つ刀身が顕になる。地上の物質にはない妖麗さは確かに聖剣と価値付けるモノがある。

「安心して下さい、神父様。僕はサキャバスを根絶やしにしてみせます。ただし、根の奥底までです」

アランの目に鈍い光が宿り、二人を見守る天使に薙ぎを払った。
慈悲の目が砕け、微笑を浮かべる口元が剥がれ、首が落ちる。
払った剣は悲しむ神父の顔を指して止まった。

「神よ!僕はお前が憎い!運命を敷いたこと!シアを救わなかったこと!勇者にしたこと!淫魔を生み出したことが憎い!貴方にもこの憎しみを薄めてもらおう!」

アランの声がステンドグラスを震わせる。

「聞け神よ!聞け魔王!僕は此処に宣戦を布告する!」

剣が神父の目を抉り、枯れた絶叫が再び響いた。剣は尚も動き、老人の身体に無数の穴を開けていく。叫び声が何度も何度も木霊した。

「開戦の鐘は上がった!震えて待っていろ!アラリオンが…いや、神に貰った名は捨てる。僕はこれよりハルファスだ!ハルファスがお前達を必ず殺しに行くぞ!」

慈愛の長子。アラリオンとは神話に出てくる穏健な青年だと笑って語る親の顔を黒々と塗り潰す。
新たに刻むは神に背きし死と破滅の侯爵。殺戮を愛する悪魔ハルファス。
ハルファスは高らかに宣言すると最後に不意に穏やかな青年の顔を覗かせて笑った。

「まぁ、八つ当たりなんですけどね」
10/04/24 19:25更新 / コトワリ
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■作者メッセージ
原稿を四回も消して挫けながら書きました。コトワリです


皆様こんな作品に温かいコメント有り難うございます

全てが僕の力になるっ!

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