連載小説
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魚影悲歌T
『至宝の勇者現れり。彼の者魔を裂く神の加護を持ち、聖剣を携え、篤い信仰を抱き、邪を滅する神命を享けている。名をヤハウィラ・アラリオン。慈愛を刻む者なり』

総ての教会にかような報せが飛んだ。
今は名をハルファスと変えたアランは、酒場と宿屋を兼ねた店に貼られたこの掲示を見て首を傾げた。
息の根は止めなかったが、叫びさえ上げれなくなった瀕死の老人が自分の去った後に急いで書を書いて鳩を飛ばしたなんてことは有り得ないからだ。
事前に飛ばしたか代筆が居たというのなら説明はつく。が、どちらも障害がある。
事前に飛ばしのなら、準備が些か良すぎるうえにハルファスが剣を持つ事の無い選択肢を見事に考慮していない。一般人を騙して勇気づけるだけなら仮に嘘になっても損は無いが、教会に伝えたことが嘘になるなら罰がある。果たして、あの神父がリスクの高い計画を負うかだ。
代筆なら血に沈む神父と崩れた天使のご尊顔を見て衝撃は受けなかったのかだ。それも神の絶対なる意志と流す狂炎的な信者がいれば別ではあるが。

「にいちゃんも気になるかい?」

「少し」

店主が嬉々とした顔でハルファスの席にグラスに並々と注がれたワインと、山盛りの海産パスタを置く。さらにおまけとしてメニューに無い数種の果物がつく。
海の男が酒の肴にするには少し辛味が足らず、今までこの堅苦しい文章について語れる相手が居なかったのだろう。
漸く、多少は知識のある暇人と会えて嬉しくなるのも分かる。だが、これは表現としては行き過ぎている。

「僕、頼んでませんよ?」

渋い顔でハルファスが目線を上げる。恐らく着眼点も違うであろうことが余計に申し訳ない。

「ん?こいつは向こうのお客の奢りだよ」

店主が指差す方向には子連れの行商人がこちらに笑顔を向けていた。

「まさか」

ハルファスは両手を振る小さな女の子にぱたぱたと手を振り返しながら、ここまで好意を受けている状況をいまいち掴めずにいた。
彼等との関係は言ってしまえば元契約主と契約者だ。海辺にあるこの街に行きたいと言っていたから護衛を引き受けたに過ぎない。珍しい契約内容であった生き物を殺さない事を律儀に守った以外は、何もしていない。ひたすら無愛想だった気がする。

「覚えがないのか?」

店主が家族に聞こえない程度に抑えた声で喋る。

「護衛しただけです」
「じゃぁ、その護衛が立派だったんだろ。ほら、笑ってやれよ」
「…僕、笑ってませんか?」

言われて驚く。
笑顔になることを意識したことはなく、浮かぶ時は自然に浮かんでいると思っていた。

「そんな若いのに笑い方を忘れちまったのか!」

たまげたと、力強い手がハルファスの頬を上に引っ張る。少し痛いが、どうやら笑顔をつくっているらしい。

「違う気がひまふ。へがおって、痛くないでひょ」
「当たり前だ漠迦野郎!あー、もう可哀相に!苦労してきたんだな、お前!」

男の厚い手がハルファスの頭を撫で回す。視界がガクガクと揺れ、旅の間に重くなり跳ねたいように跳ねた髪がさらに不揃いに乱れる。
遊んでると勘違いした女の子も撫でる攻撃に加わり、大小両方の手に好きなように弄られ、熱い言葉や激励の台詞、笑顔の方法を散々に聞かされた後にハルファスの意志を聞かぬまま彼の当面の宿が決まることとなった。
気分は害さなかったが、自分の所持金と無条件で降ってくる人の好意に僅かな不安が彼の心に零れ落ちる。
グラスに注がれたワインを一気に呷り、甘い芳香で鼻腔を満たした。



***



勇者らしく旅でもしようと皮肉めいた思い付きでシアと小さな街に別れを告げた。
それからはサキュバスと魔界の情報を集めながら街を点々する傍ら、路銀確保の為に傭兵ギルドのような仕事をしていた。ただし、請負内容はギルドよりも幅広く、見合った金が出るなら暗殺めいたこともよしとして剣を奮った。これは貴族を中心に人気を得た。
殺すことを作業的動作で行えるようになった頃、サキュバスについてのある噂を聞き、困っている家族の護衛もついでにこの漁村へやってきたのだ。
大陸と繋がる路があるわけでもない。高価な海産物があるわけでもない。雄山霊峰、清流清水を抱えているわけでもない。だが、村に寂れた様子はなく、人々が日々を必死に長閑に楽しく生きていた。

「は?サキュバス?」

小規模でいながら生活に余裕があれば、自然と人同士の繋がりはより綿密となる。
よって、聞けば噂の立ちどころぐらいは直ぐに分かることだろうと期待していたハルファスの心は見事に打ち砕かれた。
店主も必死に何か探ろうと頭を抱えて唸っているが、魔物の極端に少ないこの地方で怪異の話題が目立たない筈がない。直ぐに出ないなら印象が余程薄いか記憶に難が無い限り、噂が誰かの夢物語から生まれたモノということになる。

「心当たりなしですか…」

彼方を見る。徒労に終わる虚しさが、喉元に溜め息となって競り上がる。それを店主に遠慮して咳払い一つで押し止めると、ハルファスはゆっくりと席を立った。

「散歩して来ます」
「あぁ、力になれなくて悪いな」
「悪いとは思いません」

扉が開かれ、海を乗せた風が柔らかく店内に吹き込む。

「海は危ねぇから砂地以外には近づかないようにな」
「はい」

警告とも言える口調にハルファスは曖昧に頷いた。
尤も、何も無いこの村で彼の興味を引くものは噂と海しかなく、表面上だけのやり取りは横に流して真っ先に海岸に向かい、人目を避けて海を眺めていられる岩場に腰を下ろした。
碧く果てしなく続く広壮な水の景色が日を受けて輝き、流れの終着に着いた波が白い息を吐きながら打ち寄せる。魚が楽しそうに波を切り、跳ねて雫を散らす。海鳥がそれを掬い、水浴びをしてはまた空高くに翼を躍らせる。時折り、長い航海途中の樽が気ままに舵をとっているのを見るのも楽しい。
確定している滞在期間は三日だが、すべきことを見失った今、ただこうして過ごすのも退屈ではないと思える。別段急ぐ旅でもない。
悠久に住む錯覚を味わいながら暫くするうちに天道は真上に上がり、慣れない潮風に目が渇きを覚え始めた。水位も幾分か増し、ハルファスの足元にあった岩は小島に変わっている。
腰を上げる。今ここで目を閉じて迫る眠気に任せても良かったが、潮の満ちる限度が分からない。うっかり海水に浸かることがないよう、小島を次々と跳ねてなるべく高い岩を探す。
その時だった。微かな歌声が波音に混じって響き始めた。悲しい波長が重なった美しい声。
思わず足が止まる。右手からだ。
ハルファスは向きを変えて走り出した。洞窟が見える。迷わず中に入っていった。
冷暗な道を十分もしないうちに洞窟の終わりに着く。最奥は吹き抜けになって日が燦々と降り注ぎ、雨水や夜露が湖を作り出し、極彩色の緑が群茂する。
異空間のように突然現れた海と陸の狭間にある小さな楽園。荘厳であり美麗。
そう評価も出来る。だが、注視するとそこにあるのは檻だということに気付く。
お伽話の怪鳥が楽に収まるような大きさに加え、鉄の格子には緑が巻き付き、赤錆びて細い樹木のようにも見えるが、鍵の朽ちた細かい細工の入り口に人の造作が見える。
歌は檻から響く。
冷酷に存在する鉄の口にハルファスの足が踏み入る。
湖から顔を出す船の残骸がある。その上に一人の女性が座っていた。髪も瞳も海の色を抱き、煽情的に磨かれた身体は原初の状態で置かれ、下半身には尾鰭がついている。人魚だ。

「だれ?お医者さま?」

歌声が止まる。

「観客だよ」

澄んだ悲しい旋律、突き刺さる傷嘆。凍てつく傷痕に染みる良い歌だと感じた。ハルファスは同じ眠るなら波の音楽よりも安らげる人魚の悲歌を選んだだけで他意は無い。
目を湖で拭うと、適当な木の根に腰掛けて瞼を閉じる。

「私の声を聞いて良いの?」
「涙は流すかもね」
「死ぬかもしれないのよ?いいえ、少なくとも…あの人は……」

苦々しい色が澄んだ声に粗塗りされる。

「そう」

素っ気ない返答に人魚が顔に困惑が浮かべて首本に手を添える。金属の擦れる音が響き、それに彼女の声が小さく混じる。呟きと言うよりは会話をしているような調子に、ハルファスは一度身体を起こして人魚を見た。
憂いを称えた表情。寂しげに握り、掴んで語り掛けているのは…

「鎖?」
「っ!」

ハルファスが失言に気付くよりも早く魚影が激しい飛沫を上げて湖に姿を消す。
黒い双眸が揺れ動く水面を見つめて落胆に染まった。歌手のプライベートに観客は手を付けないほうが良いらしい。歌を聞く機会が逃げていく。
歌い手が居なくなった以上、重い空気の檻で過ごす理由もなくなり、剣を杖代わりに眠気の残る身体を立ち上がらせ、水を切りながら戸をくぐって鉄の格子から抜け出す。
ハルファスは去り際にもう一度閉じ込められた楽園の姿を見た。歌を聴いて自殺したという人の死体は痕跡さえ見当たらない。見えない範囲で起きた死を鎖で繋がれた彼女はどうやって確認したのか。
爪先が砂を蹴飛ばす。
気付けば、懐疑に思考を任せている自分がいる。

「やれ、僕は騙されるのと返すのが趣味だな」

呆れ、諦める。生来の性は倫理観が捻曲がってもしつこく残るらしい。



***



「魔物…居ましたね。淫魔じゃありませんでしたが」

重くなった酒場の空気にも構わずにハルファスは続ける。

「僕としては隠した理由が知りたい。噂…所詮噂の立ちどころを聞かれてマズいのは何故ですか?」

見渡せば、漁から帰ってきた男達全員がナイフやフォークといった手短にある武器に手を伸ばして睨んでいた。
突けば裂ける。張った皮膜の命運を握る可笑しな立場にハルファスは立っている。普通は相手方にありそうな権利だ。

「何しやがった…」

目には敵意。言葉には殺意。純粋な感情がハルファスにぶつかる。

「彼女には悪いことをしました」

宝物を侵されて怒る子供のような健気な様子に抑えていたハルファスの口が裂けた。
友達に対する意地悪なジョーク。一種の諧謔。ある種の兵法。
どちらにしても最高の盛り上がりを見せる場は今に飛び掛かってくるだろう。ハルファスは後悔を噛み砕きながら剣を構えた。

「待て待て!」

戸が勢い良く開かれ、男が入ってくる。その呼吸は荒く、焼けた肌にやや赤みがある。
背後の気配にハルファスが反転。一瞬青白い剣が姿を見せたが、視界に入った害意のない様子の店主に慌てて柄から指を放した。

「急に来られるとびっくりします」

努めて穏やかな口調。酒場に蔓延していた緊縛した空気も主の来襲にいつの間にか四散している。

「おぉ!あんた!人魚様を殺すかと思ってたけど違ったな!」
「人魚…様付けですか」

敬遠というよりは忌避しているような響きがある。

「殺してないのか?」

疑うような視線が突き刺さる。怒った理由が人魚殺害の疑惑ということは少なからずハルファスを驚いた。檻に繋がれた彼女を解放せずにいるのに、一見すると魔物親交派のようだ。

「魔物を恨んでるんじゃなかったのか?」
「はは、サキュバスだけです。依頼されなけるば他の魔物は切りません」
「じゃぁ、何してたんだ」
「歌を聞きたくて」
「平気なのか?」

人魚に言われた時は適当にあしらったが、今は素直に頷いた。

「はい」
「おぉ!」

一気に歓声が沸き上がる。熱風が広がり、活気に木が軋んで愉快にがなり、弾けた空気が舞う。
突然のことに意識が固まるハルファスを次々と男たちが肩を叩き、酒を被らせて大声をぶつけていく。

「びっくりさせんなよ!」
「まぎらわしい奴め!」
「人魚様とは仲良く出来たのか?」
「え、いや、あの…」
「そういう話なら暫く此処に居ろ!宿タダにしてやるから!」
「そういう…」
「よーし!乾杯だ!」

揉まれ流され三日だった居留期間は無期限になっていた。
先程まで自分の肉体を散々に突き刺し切り裂く役目を負っていた筈の食器が、温かいスープを掬い、豪快に並べられた鶏肉を捌いていくのをただ茫然と眺めた。
寒気がするような変化だった。
10/04/29 10:44更新 / コトワリ
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