連載小説
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TAKE18.4 Cow対Ox 綱引き対決
「行ってこーいっ!」


 激闘の末、気絶したまま雄喜の足で海へ投げ捨てられたエース。

 本来その飛距離は約19メートルと、砲丸投の日本男子最高記録を若干上回る程度であったが、
 翼が開いた状態だった為図らずも風に乗ってしまった彼女はそのまま十秒程飛び続け、遠浅の海へ落下。

 着水と同時に意識を取り戻すも当然の如く混乱、ものの見事に溺れてしまっていた。

 そしてそんなエースに対する、残る面々の反応はというと……


「あっちゃー、エースの奴完全に溺れてますぜ」
「男如きにあそこまでやられるとは、魔物娘の面汚しよ」
「まあ、彼女は所詮その程度という事でしょう」
「所詮他者の上に立つ素質のない、名前負けの万年二番手であるからな」
「どうしますエールさん。あいつ助けますか?」
「普通に使えますし……一応手元に置いといた方がいいんじゃないですかぁ?」

 ご覧の有様である。
 仲間が惨敗を喫した挙句海で溺れているというのに、微塵もその身を案じていない。
 ともすれば気になるのはリーダーを務めるエールの反応である。
 普通であれば調子付く手下たちを諫め、溺れる飛竜を助けに向かうよう指示を出しそうなものであるが……

「放っておけ。あの海はポセイドンの統べる"魔海"を再現したもの。
 海棲魔物娘やその制御下にある魔海獣らに海中へ引きずり込まれた挙句"丁重に持て成され"こそすれ、
 時間経過で所定の場所へ転送されるようになっておる。何も問題はない」

 エールもまた手下らの同類に過ぎないのであった。

そんなことより問題はあの男だ。
 たかが人間の分際で旧態回帰まで用いたワイバーンをほぼ無傷で倒すなど、聊か悪ふざけが過ぎておる。
 これ以上調子付かん内に、徹底して懲らしめてやらねば……」



"聖戦"第二試合 『海上綱引き』


 程なくして始まった"聖戦"第二試合。
 気になるその競技内容は"綱引き"……それも海上に設けられた専用の競技場で行う本格的な"海上綱引き"であった。


「……ヘヘッ」
「……」

 浜辺から離れた浅瀬へ向かい合うように設置された、二つの足場。
 その片方に立つのは、サラシに褌という和風の身なりで己の肉体を見せつける褐色肌のミノタウロス、ミューズ。
 対するもう片方の足場に立つのは、第一試合に引き続き"怪物俳優"志賀雄喜……ではなく、ホルターネックビキニに身を包む小田井真希奈であった。
 ビーチ・フラッグスでエールを圧倒し徹底的に叩きのめす"雄喜"の姿に"勇気"付けられた彼女は『守られているばかりなんて御免だ』と戦う覚悟を決め、選手として立候補したのである。

(大丈夫かねぇ……)

 一方の雄喜はといえば、とにかく真希奈が心配でならなかった。
 勿論彼女の考えや行動を否定はしない。寧ろこの流れで非力ぶって逃げたりせず、状況打開に協力してくれるのはとても有難いことだ。
 だが彼女が幾らやる気だろうとそれだけで大丈夫と断言はできない。

 というのも……

(懸念事項が多すぎるんだよなぁ……。
 まず相手は二足歩行型獣人魔物の中でもトップクラスの怪力を誇るミノタウロスだ。
 更に汚職塗れとは言え最前線で身体を張る警官な以上、ただでさえ高い筋力は更に跳ね上がってると考えていい。
 対してまk……小田井さんもミノタウロス種で原種に匹敵する怪力で知られるホルスタウロスだし、屋敷で一緒に生活してるから彼女のパワフルさは理解してる。
 だがそうは行っても職業は女優。更には私生活じゃどちらかと言うとインドア派で、体を鍛える習慣もさほどなかった筈だ。
 万一下手をすればミノタウロスの警官には力負けしかねない……)

 ただ、そうは言っても真希奈が演じるのは大抵激しい動きを多用する役であり、
 よって『ホルスタウロスの女優でインドア派だから』との理由だけで力負けを懸念するのは聊か杞憂が過ぎる気がしなくもない。
 実際、雄喜が真希奈とミューズの筋力差を恐れる理由はもう一つあった。

(……そして何より問題なのは人化術だ。
 小田井さん達は僕とデートするに当たりボスの人化術で人間に化けている)

 柳沼朱角の人化術……
 それは古来よりルーニャ・ルーニャ・サバト及びその傘下組織で開発・運用されてきた代物であり、主に魔物としての本性を秘匿したまま調査・取材を行う為に用いられる。
 その特徴は何と言っても持続力と安定性の高さであり、
 通常であれば性的興奮を始めとする精神の乱れや外部からの刺激によって強制解除されてしまう――これを俗に"剥がれる"と言う――人化術の脆弱性を完全に克服した優れものであった。
 だがその強固な安定性故か『魔物としての特性を抑制してしまう』『自身以外から術をかけられた場合、自力のみでの解除は実質不可能』等の欠点も含まれていた(この為真希奈らも屋敷内等では通常の人化術を用いている)。

(つまり小田井さんは現状、ホルスタウロスとしての怪力を抑制された状態にあるってことだ。
 元の姿に戻ろうにも術者はボス……
 恐らく激務でお忙しいだろうし、異空間じゃ呼び出しだってできやしない……)

 またエースが海から現れた何か――未知の存在である故に彼はそれを有害なものと誤解してしまっていた――に襲われる光景を遠巻きに眺めていた雄喜としては、真希奈が同様の目に遭わないかも心配でならなかった。

(引っ張られて"海に落ちた方が負け"……つまり負ければ即座に奴らの餌食ってわけだ。
 まあ頑丈さとしぶとさに定評のある魔物娘だから大丈夫かもしれんが……それでもどこの馬の骨ともわからん、どころか骨があるのかどうかさえ不明瞭な奴らに愛しい女を弄ばれるってのは、
 控え目に言っても怒りで都市三つは滅ぼせそうなくらいには腹立つからな……)

 仲間さえ放置する不良警官たちが、まして邪魔物であろう真希奈を助ける筈もない。
 いざという時には自ら助けに向かわねばと、雄喜は思考を巡らせる。

(そうなったら他の警官どもが黙っちゃ居ないだろうが関係ないこった。
 ともかくこんな、さほどパッとしないばかりか性悪で性根の歪んだ僕みたいなクズ野郎を、
 それでも愛してくれている彼女を見捨てるなんてできるわけがない……!)

 男優は内心密やかに、改めて愛のため身を削る覚悟を決める。
 一方それと時を同じくして、肉牛対乳牛による水上綱引き対決も開幕する。

「だアアアアアアッ!」
「ふんッ……!」


 開戦当初、雄喜の予想に反して両者は拮抗状態にあった。
 ミューズは真希奈を足場から引き摺り下ろさんと綱を力強く掴み牽引し、対する真希奈は縄を掴んで踏ん張り耐え忍ぶ。

(言動から考えてあいつは意地でも私を引きずり下ろしに来る筈っ。
 だったら持久戦に持ち込んでスタミナ切れを狙えば、今の私でも勝算はある……)

 事実、真希奈の予想は的中していた。
 主に悪い意味で"ミノタウロスらしい"性格のミューズ……
 魔物娘としての己を誇り人間女性を見下す彼女は『下等生物の癖に自分より先に男を引っ掛け調子付く生意気な人間の阿婆擦れ』である真希奈を目の敵にしており、
 魔物娘の優位性を証明し雄喜の心を己に向けさせるべく"派手で見栄えのいい勝利"に拘っていた。

「ふんぎぎぎっ!
 どらぁー!
 でいやぁぁぁぁぁぁ!」

 だがそれが災いしてかはたまた生来の性根からか、ミューズは声を張り上げたり足踏みで音を立てたり姿勢を変えたりといった、
 凡そ綱引きには無用な"パフォーマンスめいた動作"を繰り返しては無駄な体力を消耗し続けていた。

 真希奈は思った。
 『このまま耐え続ければいつか勝機がやってくる。
  あいつが消耗しきったその瞬間、温存した体力を振り絞って綱を引く。
  その時にこそ私は勝利できる』

 事実ミューズはこの時点でかなり消耗しきっており、試合は真希奈の計算通りに進むものと思われた

 ……だが

「ぐんぬあああああああああっ!」
(……!?)


 ミューズがひと際大声を張り上げながら綱を引いた、その時。
 それまで殆ど動かなかった真希奈の全身がずずり、三センチほど引っ張られた。

(そんな、まさかっ……!?)

 その三センチが、真希奈に動揺を齎した。

(これまで動かずに、引っ張られずに済んでたのに……
 もう限界が来たっていうの……?)

 表面上は冷静乍らも内心では若干取り乱し気味の真希奈。
 然し彼女はすぐさま落ち着きを取り戻し、状況を冷静に見極める。

(……消耗してたのは"どっちも"かぁ……。
 柳沼社長にかけてもらった人化術で筋力落ちてたから覚悟はしてたけど、
 それでもまあ気合で何とかなると思って……
 "踏ん張る"のも体力使うし、何ならこの炎天下だったら猶更って、考えればわかった筈なのに……!)

 戦況を楽観視した見通しの甘さに、真希奈は内心歯噛みする。

(なにが"ホルスタウロス離れした冷静さ"、"白澤のような頭脳"よっ……
 持て囃されていい気になって勘違いして……
 ホルスタウロス"らしくない"癖にホルスタウロス"らしくなく"もなりきれない、
 ただの半端な乳牛女っ……!)

「ファイッ、トォォォォォォォ!
 一ッ、発
(パ)ァァァアアアツ!」
(タウリン千ミリグラム配合ッ……!)


 自己嫌悪に陥る真希奈。その間にもミューズは綱を引き、勝利へ近づいていく。

(どうにかしないと……どうにかしないとっ!
 私が海に落ちるのは構わない!
 試合に出た以上、あのワイバーンみたいな目に遭うのは覚悟の上だもん!
 けど私が負けたら、雄喜さんがあいつらに襲われちゃう!)

 無論、真希奈は雄喜があんな連中の思い通りになるような凡俗だとは思っていない。
 海宝館の暴走ロボットを破壊し、旧態回帰したエースをも圧倒した彼がその辺の魔物娘に力負けするなど想像がつかないし、
 悪意や害意のある魅了や色仕掛けにも彼は決して屈しないだろう。
 ただそれでも"万が一のもしも"を否定などできはしない。バッドエンドへ繋がり得る可能性は徹底的に根絶しなければならない。
 そこまで全力を尽くし戦い抜くこと……それこそが、障害や苦難の絶えないこの世界で"愛を獲て幸福に生きる"上での必須条件だと、真希奈は確信していた。


(私の夢見る"ハーレム"はっ!
 雄喜さんと私、そしてスーさんとミッチーさんのものっ!
 "その四人"で愛し合い、幸せな家庭を築いていく!
 その"聖域"に
 "部外者"は許可しないィィィィィッ!)



 必死に踏ん張り耐え忍ぶ内、真希奈の独白は攻撃性を増して……
 というか、誰もが予想外だにしない意味不明な方向へと拗れていく事となる。

(……ちょっと読者の皆さぁ〜ん?
 今、私"たち"の雄喜さんの事何て言いましたぁ〜?
 "魔物娘に愛されちゃいけない最低の屑"とかって画面前から聞こえましたけどぉ〜!?)

 唐突なメタ発言である。
 そもそもヒロイン乍ら読者に文句を言うなど言語道断であるし、
 ましてそれが事実無根の不当な言い掛かりとあっては猶更であろう。
 作者としてはそれ以前に上記の独白が"言い掛かり"に過ぎないことを望むばかりである……。


(そりゃ思った以上に口も性格も悪いし、ぶっちゃけ"まとも"とは到底言い難い狂人だけど!
 その分メンタル強靭だし一途で浮気とかせず私達三人のこと平等に愛してくれてるし、
 なんだかんだ優しくて真面目な所もあるし!
 あとしっかり性欲あって何ならスケベで、かつ私たちが本気で嫌がるようなことは絶対にしないし!)

 極限状態に加えて疲労と猛暑に追い詰められ気でも狂ったか、
 暴走の一途を辿る真希奈の独白はやがて『雄喜は誰からも嫌われていて、自分たちの結婚は世間から大バッシングを受けるのでは?』という完全な被害妄想の域にまで達してしまう。

 真希奈は思う。
 親族は恐らく彼の本質を理解し、祝福してくれるだろう。
 然しきっと、学生時代の同級生などは『こんな屑が魔物娘に愛されるわけがない』と口をそろえて言うだろう。
 そしてその上で自分が彼を愛していると知れば『あんな奴地雷だ、やめておけ』と善意から離別を勧められるかもしれない。

(そりゃね、わかるよ。その意見は魔物娘として至極真っ当な正論だと思うよ。
 何なら魔王様ご一家とか歌姫様とかサバトの各筆頭様なんかも『そいつはやめとけ』って言うんじゃないかなって思うよ!

 けどしょうがないじゃん、好きになっちゃったんだから……愛しちゃったんだからさぁ!
 そこに理屈も何もなく、ただ愛しちゃったんだよ!
 他人から見てそいつがどれだけ性悪の酷い奴でも!
 "魔物娘に愛される価値のない屑"だとしても!
 当の魔物娘が好きになって、愛していこうって心で誓っちゃったんならさ……
 そこはもう他人が口出ししていい領域じゃないんじゃないの!?)

 誰に言われたわけでもない、ただ勝手な被害妄想に起因する激しい独白。
 然しそれは間違いなく真希奈を奮い立たせ、彼女の内面はまさに温厚なホルスタウロスらしからぬ激しい闘争心で満たされた。

 ……ただ、そうは言っても彼女は辛うじて冷静であった。
 ここで落ち着きを失ってはいけない。ここで激情に身を任せ暴れ回っては勝てるものも勝てなくなってしまうし、
 何より"人間の女"が魔物娘にラフプレーで勝ったとなれば、人間の女を徹底的に見下す不良警官どもが何をしでかすかわかったものではない。
 何せ今対決しているミューズからして足止めがてら人間に鉄骨を投げつけるような奴である。
 最早魔物娘として当然の倫理観さえ持ち合わせているか怪しいのは言うまでもない。

(そうよ。ここはあくまで冷静に……まだ足場に余裕はある。
 それこそ走って向こう側に飛び移れるぐらいにはッ。
 だったらここは当初の予定通り、あいつが消耗しきるまで持久戦に持ち込むしかッ)

 よって真希奈の取った選択肢はあくまで忍耐。
 持久戦に持ち込み隙を突いて、消耗しきったミューズを引きずり下ろす"正攻法"に、あくまでも拘っていた。
 それこそが――如何なる状況でも自らは辛うじて"まとも"かつ最低限"常識的"であり続けることが――この場で自分の成すべきことだと信じていたから。

(あんな奴らと同レベルになんて、なってたまるか!)

 真希奈の意思は金剛石のように強固であった。

「よぉどーしたホルもどきぃ!? さっきから一方的に引っ張られちまってよぉ!
 てめー踏ん張ってるつもりか知らねーが、人間如きが何しよーとミノタウロスの腕力に敵うわけねーだろっ!
 オラさっさと諦めて負けちまえよ! 海に落ちたってどうせ死なねえんだからさぁ、精々一人で水遊びしてろやっ!」

 対するミューズは大袈裟に綱を引きながら真希奈を挑発する。
 当然真希奈はそれを無視し続け、それが気に食わないミューズの悪口は激しさを増していく。
 しかも肉牛が乳牛に向けた悪口は『人間は魔物娘に劣った存在云々』などといった典型的なものから『お前の乳を見ているとホルスタウロスを思い出す』から転じて『ミノタウロスこそ至上でありそれ以外の牛系魔物娘に価値はない』といった荒唐無稽かつ意味不明な講釈に至るまで無駄にバリエーション豊富であった。
 如何にも知能指数の低そうな風貌や挙動に反して、参謀を自称するだけあり若干の知識や語彙は持ち合わせているのだろうか……真希奈はそんな風に思いつつも沈黙を貫き続けた。

 だが……

「てめーの連れのユウって野郎! あいつも結局ァ見掛け倒しの性悪地雷野郎だ!
 あんな屑、どーせそのまま生きてたって魔物娘に愛される事なんてありゃしねーぜ!」
(……は?)

 真希奈を意地でも挑発すべく、ミューズは遂に雄喜を罵倒し始める。
 無論当初はそれでも冷静さを保ち忍耐に徹していた真希奈だったが、耳へ飛び込む肉牛の悪口を燃料に、辛うじて常温の域――例えるなら鍋に満ちたぬるま湯程度――に保たれていた彼女の怒りが熱を帯びていく。

「まして人間のてめーと付き合ってたんじゃロクな事になりゃしねえ!
 魔物娘であるオレらがしぃ〜〜っかり更生させてやんなきゃなぁ!」
(こいつ……)

 激しい炎に熱せられた怒りが"ぬるま湯"から"熱湯"と化すのにそう時間はかからない。
 否、最早そこに液体は無く、牛一頭をも瞬く間に"煮殺(しゃさつ)"しかねない高温の蒸気が充満していた。

 そして……

「人間に、魔物娘とヤる以外の幸福なんてねーんだからよぉ!
 てめーは精々人間に生まれたことを悔いながら、大人しく海に落ちてけや!
 いい気味だぜぇ! 精々その乳でナマコでも挟んでよぉ、コノワタぶちまけながら『あらら〜私のおっぱい気持ち良かったんだねぇ〜♥』みてーな男に媚びまくったゴミカスクソ台詞吐いて寂しくごっこ遊びしとけっつの!」
「……!」

 加熱され続けた彼女の怒りは"気体"を超え"超臨界流体"――液化と気化の上限"臨界点"を超える高温高圧の元に置かれた物質の行き着く、気体・液体双方の性質を持つ状態――に至る。

「……〜〜ッッ!」

 だがそれでも真希奈は声を張り上げない。
 喉元まで込み上がる怒りをぐっと堪え……


「――ッ!」

 綱を持ったまま一気に、海へ目掛けて走り出す。 
 当然ミューズはじめ不良警官らは困惑しつつ『自ら負けに行くとは血迷ったか』と彼女を嘲笑う。

(もう構うもんか! "お上品に"なんて振る舞うもんか!
 勝たなきゃ意味がない! 乗り越えなきゃ意味がない!
 こんな奴ら相手に、今更ルールなんて気にするもんかっ!)

 だが彼女は気に留めない。
 闘牛士の揺らす布目掛けて突進する暴れ牛の如く足場の上を突き進み、

「BuLLMVOOOOooox!!」


  跳んだ。

 跳躍する乳牛の口から放たれたるは、温厚なホルスタウロスのものとは思い難い――旧魔王時代のミノタウロスか、より原始的な異界の巨大偶蹄類を彷彿とさせる――凄まじい"咆哮"。

「……!!」

 大気はおろか空間をも揺るがす音の波動は海面を震わせ、得体の知れない恐怖に駆られたミューズは縮み上がって黙り込む。
 真希奈はその隙を逃さず空中で綱を引き、肉牛の姿勢を崩すと同時に自らを対岸の足場へと一気に引き寄せる。

(狙うはあいつの背後60センチ以内……一か八か、賭けるッ!)

 予想外の展開に慌てふためくミューズ目掛けて真希奈は急降下。
 地上まで二メートル半を切った所でさっと身を翻し――

「だあっ、クソッ! てめ、人間風情g――」
「でイやァッ!」
「ごぶぇあっ!?」


 混乱し藻掻く肉牛の腰掛けて、渾身のドロップキックを叩き込む。

「だぁぁぁぁぁっ!?」

 人化術で弱体化したとは言えそれでも怪力を誇るホルスタウロスの両脚蹴りたるや凄まじく、
 腰が砕けそうなほどの一撃を受けた褐色肌の体躯はなすすべもなく吹き飛んで……そのまま海へ落ちて行った。


「がばっ! ごぼぼっ! ぐっ、がばあっ!」
「海に落ちたミノタウロス……宛ら"ウミノタウロス"ってトコかな〜?」

 溺れるミューズを見下ろしながら、真希奈は軽妙かつ軽快に、冗談めかして肉牛を嘲笑う。
 弱い立場に追い込まれた敵を見下し嘲笑するなど世辞にも品のある真似とは言い難い。
 というか倫理・道徳の観点から言えば最低の所業ですらあろう。
 そのことを自覚していない真希奈ではなかったが、とは言えそれでもデートを邪魔された挙句自分のみならず愛する男まで侮辱されたのだから、この程度はどうか容認して欲しい……柄にもなく怒り狂ったことを悔いつつも、乳牛はそんな風に思うのだった。


(……ハロハロ食べたい)
21/08/02 20:51更新 / 蠱毒成長中
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