連載小説
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情愛の彼方(6)



 ここに一軒のパン屋がある。
 店主はインキュバス、その妻は魔物のいたって珍しくもないパン屋である。
 開店は午前10時から午後6時まで、週に一日は休みと、商売をするにはややのんきな営業時間だが、そもそも魔物夫婦は伴侶との繋がりさえ健常であれば食うに困らないものだから、というより互いの愛を確かめる時間をもっとも大切にするものだから、それを大きく削ってまで稼ごうと思わないのである。
 ならば何故パン屋など営むのかと言えば、いずれふたりの間に生まれるだろう命のための養育費用を貯えることが目的である。
 この夫婦には残念ながらまだこどもは居ないが、いつの日か必ず、授かる事を夢見ている。否、これはこの夫妻にとって蜃気楼を追うような空想への陶酔ではなく、くりかえす日々のうち、その行く先にあるまぎれもない現実である。
 道行く幼子を連れた親御さんをうらやましく眺め、思う。
 ふたりもいつか、あのちいさな手を握り、三人で散歩するのだ。
 ヒトと共に生きるこの町で。
 
 

 二人の時間は濃密で、気をまぎらわす一切を拒んでからみあう。
 紅くて紅くて美しい、その眼が見るのは自分だけ。私に見えるのもあなただけ。
 私はあなたの目にどう映るのかしら、なんて聞くまでもなく、重なりの中、伝わってくるあなたのこえ。うれしい、うれしい、ただ、うれしい。
 私はいつだってあなたが欲しくて、いつまでも求められたくて、でもその時間には限りがあって。
 あなたの焼いたパンを買っていくお客さんにすこし、嫉妬を抱いているのは内緒のこと。だってそのパンは、あなたの手が触れていて、わずかだけれど匂いも混じっていて、あなたの一部をもっていかれているみたいで。ほんのすこし、かなしい。
 いけないヒト。わたしは生きている限り、ずっとこんな気持ちにさせられるのね。
 あなたがわたしを裸にする時間、誰にも邪魔はさせたくない。あなた以外のヒトが邪魔、あなた以外の声が邪魔、あなた以外の温もりが、匂いが、気配が邪魔で、あなた以外を感じ取ってしまう私が邪魔で。
 電話の回線外して厚手のカーテンひいて、秒針のなる時計すらない、ベッドひとつと飲み水のはいったビンとグラスを二つしか置かない部屋に、二人の体の熱がこもっていく。
 目をつむって抱き合えば、あなた以外が居なくなって、うん、もう、光すらいらない。
 髪をなでるその手へキスをしたい。


「俺はいい嫁さんをもらったよ。」
 夫はいつも、そういう。
「本当さ、俺にはもったいないくらいだ。お前とこうして居られるのが泣きたくなるくらい、うれしい。」
「あんなことが、あったのに?」
「俺を、こうも想ってくれるやつが居るってことに、救われたんだ。生きてるって、存外わるくないかもなって、さ」
 何度も聴いた言葉。何度聴いても胸を打つ言葉。救われたのは果たしてどちらかしらね。

 彼が大きく息をして、
「のどが渇いたな。みず、取ってくれる?」
 ビンへ手を伸ばすけど、でもグラスは要らない。みずを入れる器は、わたしがあればいい。
 この唇からあの唇へ、彼へ私を注いで、飲ませる。私の舌を彼の舌へ当てる。まだふたりの時間は終わらない。私のこころはふるえたのだ、あなたの言葉に。このままでは、終われない。だから、


「すみません!! リリム・レインの使いのものです!! すいません!! 居ませんか?!」


 ―――――――――――――――――誰・・・? まだ、これからって言う時に・・・!



 パン屋夫妻はこんな時間の夫婦の営みに割り込んできたなにものかを少し、いぶかしんで、でもやっぱり家に迎え入れることにした。妻は不機嫌を隠せない女であったため、応対は夫がした。若干くたびれたサキュバスがひとり、息を切らして、一通の小さな書簡を差し出してきた。上級魔物娘、レインの身分を明かす刻印で封をされたそれ、悪戯の手合いではないと分かる。

「お・・おふた・・がた・・・に・・・、
 どうし・・・ても、ぐ、ご協力・・・を、」
「落ち着いてください。息を整えて。 レイン様からなのですね? すぐに拝見いたします。」
 夫は、まだ寝室にいる妻を呼んだ。妻はサキュバスを一見すると、なにやら尋常じゃない雰囲気があるのを察知して、椅子へ座らせて、とりあえずお茶を入れようとキッチンへ向かうところで、夫の真剣極まりない面持ちに驚いた。
 夫が、読み終えたサキュバスが運んできたのであろう手紙を渡してくるので、なんだろうと一瞥すると、そこに書かれていた内容は簡略な文章であったが、夫婦に大鐘を打ったかのごとき衝撃を与えた。

 すぐさま表に、当分の間臨時休業します、というプレートを掛けて、出かけるしたくをして、三人、車へと乗り込んだ。
 後部座席に座る妻に、サキュバスがもたれ掛かって絞り出すかのような声で言う。

「お願いします。わたしのともだちを、たすけて・・・・・・・」

 まかせて、と言えない自分が歯痒くて、妻は苦い表情のままサキュバスの肩を抱いた。
 もう一度、手紙をひらく。そこに書かれていたものは。



 かつてのあなた達と同じ過ちへ身を投じようとしている者がいます。
 救援のため、協力を要請します。
                              レイン







12/09/21 23:24更新 / 月乃輪 鷹兵衛(つきのわ こうべえ)
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