連載小説
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情愛の彼方(5)
 里嶺 美亜乃は力なく椅子に寄りかかっている。
 レインが美亜乃ために用意した部屋、薄緑色のカーテンから注ぎ込む暖かな日差し、円い真っ白なテーブルと、セットになっているのだろう椅子が四つ。そのうちのひとつに美亜乃は居るというよりは置かれた状態にあり、彼女のために入れられたハーブ・ティーのほうへ顔は向いているけれども、ただ顔の向いている先にカップがあるのみで、その目は何の風景も映していない。 
 優しく髪をなびかせる風も、遠くになく鳥の声も、開いた窓からぱたぱたと音なく入ってきた蝶も、砂漠の砂のごとく渇いた意味なきもの。彼女は、胸の奥に疼くヒビ割れのような痛みと、その中からじわりとにじむ、血よりも熱くうごめく暗いなにかに意識を奪われてほかのすべてに関心をもてないでいるのだ。

 人類の歩んだ過去の一端にこういう事実がある。

人の自立心の発育は幼少の頃より行うべきであり、そのための教育に先んじて、赤子の時から親と離して独りの時間を体験させ孤独感に慣れさせることを推奨するという考え方が、かつてヒトの西洋の学者によって提言され、それを実行する者はこれが子供のためになると信じた。
 そしてミルクを飲ませたりオムツの交換をするとき以外には、幼児をベビーベッドに寝かせ、話しかけることも、ひどいときは近づくことすらなかったという。親の顔さえ見えぬよう、のぞき穴を開けた箱をかぶせてより孤独感を演出することもあったらしい。
 この理論は誤りであり、幼少期における親子の肌のスキンシップは、その後の子供の人間的感性を左右する重大なものとしてすでに否定されている。

 例えば子供が転んでひざをすりむいたとする。気づいた母親が子供の患部以外をさすってやる。イタイのイタイのとんでいけ、と。すると子供は泣き止む。その後消毒や絆創膏の使用は誰でもすることである。これは、痛みをもたらす患部以外の箇所の神経を刺激し続ける事で、大脳が知覚する神経の興奮に痛覚以外の感覚を混ぜ込むことによる。
 早い話が、痛み以外に別の感覚を与えることで、痛みをまぎらわす事は可能だと言うことである。それは、肌と肌を合わせる事によってヒト同士が繋がりをみせるひとつの場面であり、母のあるいは父の「手当て」をうけて子供は、そこに優しさや慈しみを学んでいく。
 独り部屋にいるとき、体は小さく精神の発育も進んでいない子供と、すでに成長を果たしている大人とでは、部屋の広さの感じ方や、冷たい空気に対する抵抗性は大きく異なり、そして心細さのあまり泣き叫んでも、だれも、自分のところへ来てくれない。
 ヒトが男女の間柄でもない限り、肌を大きく触れ合わせることなど幼少期以外にはないというのに、このスキンシップを知らずに育った子供の将来のどうなることか。
 事実的データとして、こういった子供たちの多くに、攻撃的または悲観的精神を慢性的に保持し、何事に対しても忍耐力に欠け、ストレスに対し弱く、犯罪にはしる傾向が優位に見られたという。
 子供を想う親の気持ちが、返って子供に不幸をもたらしたという皮肉にすらならない話である。

 美亜乃の母はこの訂正されてしかるべき教育論を知っていたわけではないが、自身がそういった方針の下に育てられた体験から、これを間違いと思う事がなかった。誤った教育を受けた者すべてが罪を犯すわけではなく、まっとうな生活を送る者も決して珍しくなく、母もその一人であったことがむしろ不幸を生む要因となった。
 そうして母は自身の経験と同様の教育方針を娘に適用し、これが仇となる。
 父は会社勤めに精を出し、昼間の家にはほぼ居らず、美亜乃の面倒を妻に一任していたので、娘を育てるあり方のいびつさに気付かないままであった。



 美亜乃は幼い頃、自らの境遇を寂しいとは想わなかった。
 寂しさとは、ヒトの温もりを知る者の相対的な心情を指して言う。
 ただ無意味に肌寒く、ほかの子供のように笑う事がなく、誰に何を言われてもこころをうわすべりするばかりで胸の奥には響かず、ヒトを信じる事に価値を見出す事もできない、これが里嶺 美亜乃の幼年期であった。
 しかしここに一筋の光が差し込む。
 里嶺 美亜乃の人生において、他者との関わりに輝きが宿り、「ともだち」という言葉を初めて抱き締めたのは桜舞う春の日の事。
 サキュバス宮乃下 倫との出会いである。
 
 
 




12/09/20 19:34更新 / 月乃輪 鷹兵衛(つきのわ こうべえ)
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■作者メッセージ
 西洋の学者が唱えた説に関しては、恐らく厳密には記せていないものと思われます。頭の片隅に埋もれていた情報をそのまま適用したもので。

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