連載小説
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情愛の彼方(7)
 体が泥のように重たく、手足をわずかに動かすことも億劫で、息を吸って吐くことも煩わしいが流石にこれは体の勝手な所作なので、放っておく。ああでも、いっそこのまま息も止まってしまえばいいのに。
 何も考えたくない、思いたくない、見たくも聞きたくも嗅ぎたくも触れたくもない。なぜ、自分はまだ生きているのか。全く、吐き気がする! 
 むしろ吐き出してしまいたい、この頭の中、胸の中、腹の中をぐるぐる、ぐるぐると回るような気持ち悪いもの! そう全部、胃腸の中身から臓物も血液も神経も骨も脳も全部! 体が裏っ返しになるまで、全部!

 一見、ベッドに横たわるのみのサキュバス、美亜乃のその表情は、涼しげとはとても言えないもので、あれから数日間、ほとんどこのまま動こうとせず、食事すらとらず、それでも支障なく生命維持ができるのは魔物化による生命力の増大という恩恵の一つであるが、当人からすれば苦しい現状に、命果てることすら許されず自己嫌悪と鬱憤の怨嗟に束縛されているのみで、一向に救いがない。
 ただもう誰が用意したのかも構わない上等なベッドに荷物のような体を置いて、景色を取り込むことも嫌なものだから、目は開かずに時の過ぎるままに任せている。空気が重すぎて重力に抵抗することができない。口腔を通り咽喉を伝う吸気と排気の交換も、不快に湿気を孕んでじめりとしている。暑くもないのに汗が次から次へとにじんで、シーツがそれを吸い取ってこれもまたうっとうしい水気を帯びて……。


   (けい…ちゃん……。
              ごめんね……
                      ごめんね…………。)

 また一段と嘔吐感が増す。誰の者ともつかない少女の声が美亜乃の中に住み着いて、同じような言葉を、繰り返し繰り返し、繰り返し繰り返し、呪いのように浴びせてくる。
 誰の声? 己の声に決まっている。
だけど、この声は……。
 境一の姿と思い出、そして無残に豹変した姿が、閃光にも似た連続となって再生され、それに伴って少女の声がこの身を、己の失敗を苛む。
溜まりに溜まったドブ水のなかに湧くメタンが、顔を背けたくなる臭気となって襲ってきているようで、しかし逃げ出したくとも、これの発生源は美亜乃自身の腹の中にあるものだから、いかにも自由奪われ拷問を受けているに同じくしてこの終わりがいつ来るのかも分からない。
吐く息荒く、ただ辛い。
 少し身を起こして外でも眺めれば、あるいは気がまぎれるのかもしれないが、それすらもしないのはどこか心の片隅に、自らを責めずにおかれない自己粛清の念のあるためか。肉体の外に広がる移り変わりに目を向けず、内に内にと籠もることは尚一層の責め苦に飛び込むことと同義となる。


 チリンチリン、とドアに付けられた小さな鈴が鳴いて、誰かが部屋に入ってきたことを教えた。その誰かがベッドへと近づいてくる。
美亜乃の息が小刻みに怒りを表す。

 誰だ、来るな! うっとうしい! 私に近づくんじゃない! 近づくんじゃない! 帰れっ! 帰れぇっ!!

 声を出さずに唱える言葉は侵入者に届かず、今、美亜乃のそばに着いた。
あまりの不快感に美亜乃の掌はこぶしとなったが、それを振り上げる自由がきかないほど体は重くて、まるで夢の中、こちらを蹂躙しようと迫りくる野蛮な獣に抵抗すらできずにうなされている気分だ。それは苛立ちと、自分の意思を全く無視される、自尊心を踏みにじられる屈辱感。唸り声あげたくとも息使いすら思いのままにならない。
そして美亜乃を見下ろして立っているのだろう誰かは静かに言った。それはぽつりと、独り言のつぶやきのようなささやきで、しかし美亜乃の耳にはきっかり届く意味を擁していた。

瞬間、目が開き、一人の女を視界に映す。からだが!動く!潤滑な動作とはとても言えないが、惑うことなく、美亜乃の意思に追随する!
女の腕をかろうじて握り、問うた。
いま、なんといったのか。
水を飲むことすら絶っていたせいで咽喉も口内も乾いていて、老婆の声かと聞き違うしゃがれた声をようよう紡ぎ出す。
女は答えず、手に持った銀色の盆にのせられた小さな水差しを美亜乃の口元に運んだが、今必要なものはそれじゃないと言わんばかりのサキュバスの眼差しに、溜息を一つついた。

おねがいだから、いまのことばを、もう一度言って……。
………いわないと、殺す。


懇願と殺意の組み合ったうめきが漏れ、潤いを失っている唇の端が裂けて流れた血がぽたぽたと落ちる。
女は身をかがませ美亜乃と視線の高さを揃え、まっすぐに見据え、ポケットから取り出したハンカチで美亜乃の口元を抑えた。




「『里嶺境一を助ける方法はある』って、言ったのよ。」






12/10/13 19:29更新 / 月乃輪 鷹兵衛(つきのわ こうべえ)
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