第5話「Mr.スマイリーが見てる@」
「……」
クリスは無言でスプーンに乗っている黄緑色の物体を見つめていた。
砂漠の夜は日中の暑さが嘘だったかの様に気温が下がる。魔法で起こした火を囲んでいるとは言え、エミリアが根菜とホルスタウロスのミルクで作った温かいシチューは、体を内側から温めてくれる、ありがたい存在だった。
シチューの中に転がっていた緑色の物体を見つけるまでは。
「ねぇ、エミリア? この緑色のって……もしかして……」
「あ、それはサボテンです」
エミリアはにっこりと笑って答えた。
「サボテンは栄養が不足しがちな砂漠の旅だと、貴重な現地調達出来る食材の一つなんです。お母様も良く食べていたと言っていました」
「クリス、好き嫌いは無しだぜ」
コレールにピシャリと言われたクリスは意を決して、その緑色のスライムの様な物体を口の中に放り込んだ。
「うぅ……ヌルヌル……」
ーーーーーーーーー
翌日、午後4時半ーー
ウィルザードの砂漠は、端から端まで不毛の地と言うわけではなく、所々に淡水が存在する場所がある。俗にいう「オアシス」である。
例え砂漠のど真ん中でも、淡水があれば植物が育つ。植物があれば動物が集まり、やがて人間や魔物娘も集まってくる。人々が集まればそこに集落が形成され、集落は小規模な街へと成長していく。ルフォンとサンタリムの丁度中間地点に位置する砂漠の集落、ニレンバーグも、そのようにして形成された街の一つである。
そのニレンバーグの街中を、ボサボサの黒髪を生やした一人の青年が歩いていた。眼の色は金色で猫背気味な上に、乾燥地域の人間にしては手足が細々として白っぽく、その人を喰ったような雰囲気を醸し出すその容貌は、お世辞にも男前とは言い難い。服装は黒を基調としたパンクな意匠で、そういうデザインなのか、ただ単に暑いからかは分からないが、袖が両方破りとられていた。
青年は口笛を吹きながら街中を歩いていたが、その視界に、家屋の軒下でシクシクと泣いている「アリス」の女の子が飛び込んできた。
「おい、どうかしたのか?」
青年が尋ねると、アリスの女の子は泣きながら家屋の屋根の方を指差した。
「ボールが屋根に乗っちゃったのか……よし、待ってろ」
青年はそばに落ちてた棒切れで、屋根の上のボールを器用に小突き、落としたボールをアリスに渡してあげた。
「おにいちゃん、おおきに!」
女の子はニッコリと笑って青年にお礼を言うと、ボールを大事そうに抱えて走り去っていった。
青年は、アリスの女の子の背中を穏やかな視線で見送っていたが、ふとその視線を道の反対側に向けると、表情が真っ青な色に変わった。
建物の上部で、建築作業をしているのであろうジャイアントアントが作業に集中していた。作業に集中し過ぎて、自分の背後に積んであるレンガが、今にも下にある道の方まで崩れ落ちそうなことに、気がついていないのだ。
そして、予想される落下地点を今まさに、ホブゴブリンの女の子が通ろうとしているーー。
「危ねぇぞ! レンガが落ちてくる!」
青年はそう叫ぶと、ホブゴブリンの女の子に向かって走り出した。ホブゴブリンの女の子は驚いた様子でその場に立ち尽くし、ほぼ同時に重力に耐えきれなくなったレンガの山が、彼女の頭目掛けて崩れ落ちてくる。
彼女の前を歩いていたリザードマンが振り返って何事か叫んだが、青年の耳には届かなかった。
青年は走り込んだ勢いのまま跳躍すると、ホブゴブリンの女の子の体を突き飛ばして、安全な場所へと押し込む。女の子は悲鳴を上げたが、青年の体は容赦なくレンガの山に飲み込まれていった。
「ありゃ、お前さん、大丈夫かい?」
建物の上部で作業を続けていたジャイアントアントは、呑気な声でレンガに埋もれて気絶している青年に呼び掛けた。
ーーーーーーーーーーーーー
21時。ニレンバーグのとある酒場にてーー。
「畜生、身体中がズキズキしやがる……」
幸い、青年は大きな怪我を負うこともなく、診療所で湿布を貼って貰うだけの治療で回復することが出来た。コレール達は、身を挺してエミリアの危機を救ってくれた青年を労うために、彼に酒を奢ることにしたのだった。
「悪いな兄さん。私が直ぐに行動してれば良かったんだけど」
そう言ってコレールは青年のグラスにウイスキーを注ぐ。
「いや、気にするな。俺が好きでやったことさ」
青年はグラスに注がれたウイスキーをチビリと口にした。
「ちょっと待ってくれ……ほら、エミリア。言いたいことがあるんだろ?」
コレールはカウンター席の並び順をエミリアと入れ換えて、彼女と青年が顔を見ながら話せるようにした。
「あ、あの、私、エミリア=イージスと言います。今日は助けてくださって、本当にありがとうございました」
エミリアは「恥じらいの乙女」の見本だとでも言わんばかりのモジモジ具合で、青年にお礼の言葉を告げていた。
「あっ、えっと、ドミノ=ティッツアーノだ。うん、良いってことよ。人として当然のことをやったまでさ」
ドミノと名乗った青年の方も、エミリアに負けず劣らず緊張した様子で、吃りながら彼女のお礼に答えていた。
コレールは右隣に座っているクリスと共に、微笑ましい二人の様子をニヤニヤしながら眺めていたが、ふと酒場のマスターと、同じカウンター席の少し離れた椅子に座っていた「デーモン」の女性が、神妙な面持ちで話し込んでいることに気がついた。
「……知ってるか? Mr.スマイリーが現れたらしいな」
「その噂、もうニレンバーグ中の人間に伝わっているわよ」
「あぁ、そうか……あんたは大丈夫か? 他人に恨まれるようなことはしてないよな?」
「まさか。何にもしてないわよ」
コレールはグラスを持って自分の席から離れると、デーモンの隣に座ってマスターに話しかけた。
「なぁ、そのMr.スマイリーっていう奴に関して、詳しく教えてくれないか? 興味があるんだ」
マスターは片方の眉をピクピクと動かすと、後ろの棚に向かって何かをゴソゴソと探し始めた。
「あんた、ウィルザードに来てまだ間も無いな? それならこの手配書も、ここで初めて見るって訳だ」
マスターは棚から引っ張り出した一枚の手配書をコレールの目の前に差し出した。
そこに描かれた人相書きを見た瞬間、コレールは思わず息を呑んだ。そこにあったのは、凡そ人間の物とは思えないような不気味で醜悪な顔だった。
まず目に入ってきたのは、蝋化した死体のように真っ白な顔面の皮膚だった。口は耳まで裂けており、異名の通り笑っているようにも見えなくはない。瞼と鼻は存在せず、眼球そのものは、明らかに顔の大きさとのバランスが取れていない、不自然なまでに巨大な大きさであった。
「今まで知らなくて正解だったよ」
コレールはマスターの方に手配書を押し戻しなから言った。
「とにかくこの怪人は、ウィルザード中の、被害者に有力者を含むあらゆる猟奇事件に関わっているとされているわ。最初に目撃された日からから随分経つって言うのに、未だに捕まっていないのよ。そんな危険人物がニレンバーグにいると思うと、安心して強い酒を楽しむことだって出来やしないわ」
デーモンの女性が不満げな様子でコレールに語る。
「そうか? 俺はむしろ、彼がここに来てくれたことを、少しありがたく思ってるんだ」
マスターは乾いた布切れでグラスを吹きながら言った。今夜は客の数がまばらなので、それぐらいしかやることがないのだ。
「この街に住んでるバズル家の旦那の愛娘のーーたしか名前は『クーガ』つったかな。あのガキ、出入り禁止を言いつけたってのに、構わず俺の店に取り巻きのチンピラを連れ込んできやがって、親が豪商で金持ちだってのに、酒代をツケにしろって迫って来やがった。あのアバズレがMr.スマイリーに拐われて行方不明になったっていう噂を聞いたから、俺はありがたくなって、店の前に張り出してあった手配書を、中にしまったんだ」
マスターは手配書を丸めながら、更に話を続けた。
「それに聞いたところによると、Mr.スマイリーはどうやら人によっちゃあ『救世主』って呼ばれてるらしい。何でも、彼が制裁を加えているっていう人間は殆どが奴隷商人だったり、マフィアだったり、横暴な領主だったりと、人から恨みを買ってそうな奴ばかりなんだと。神聖ステンド国の内乱にも一枚噛んでいて、反乱軍側に協力したとか」
マスターの言葉にデーモンはグラスを強くテーブルに下ろしてから反論した。
「そのMr.スマイリー様のせいで、皆怖がって夜には家の中に閉じ籠っちゃうものだから、この店には閑古鳥が鳴いてるんだけどね。それに、確かにあの子は品行方正とは言えなかったけど、だからって殺されるほどのことはしてないと思うわ」
「それじゃあ、その娘は殺されたのか?」
コレールはデーモンの女性に訊ねた。
「いや、正確に言うと、はっきりとは分かんないの。Mr.スマイリーに目をつけられた人間の多くは既に発狂してるか、死体すらも残さず姿を消すって言うわ。それがあいつの捕まらない理由の1つでもあるの。現場に証拠が残らないから」
「ああ、そうか……マスター、もう一杯くれ」
コレールはグラスを目の前の中年男性に向かって突き出した。
「嫌な話を聞いちまったな。こんな時はガンガン飲んで、忘れるに限る」
ジョッキに注がれた酒を一気に飲み干してから、赤ら顔で呟く。
「『悪党専門の殺人鬼ですカ……まぁ、私のような善良な小市民が気にするような話でもないですネ!』」
ベントの言葉は全員に無視された。
ーーーーーーーーーーー
0時。ニレンバーグの宿屋にてーー。
「むぅ……おしっこ……」
薄手の寝巻きを身に纏ったエミリアは、寝ぼけ眼を擦りながらベッドから起き上がった。一つのダブルベッドに3人で寝ているせいで、コレールの腕がクリスの胸にのし掛かり、うなされている。空き部屋の数や資金の問題で、一つの部屋に3人で泊まるしか無かったのだ。
エミリアは部屋の扉をゆっくりとした動作で開けると、トイレがあるのは一階だけということを思いだし、廊下の奥にある階段へと向かった。
「……?」
エミリアは自分が大分寝ぼけているのかもしれないと考えた。階段の所に、真っ白な塊状の物体がふわふわと浮かんでいるのが見える。
眼をごしごしと擦り、改めて階段に眼を向ける。真っ白な塊に見えたのは人間の顔だった。顔の持ち主が夜の闇に溶け込むような、帽子とコートを着込んでいるので、白い顔だけが薄暗い闇の中にぼんやりと、浮かんでいるように見えるのだ。
ーー白い顔?
「…………っ!?」
エミリアは声にならない悲鳴をあげた。とても血の通っているようには見えない白い横顔に、耳まで裂けた真っ赤な唇は、間違いなく人間のものではない。
「(怪人ーー!!)」
コレールとクリスのいる部屋に逃げ込もうとしたが、腰が抜けてしまってその場から一歩も動けない。
幸い、怪人はエミリアの存在には気づかなかったらしく、階段から一階へと降りていく。
やがて足音が遠ざかっていき、怪人が宿屋を出ていったことが分かると、エミリアはようやく恐怖という名の金縛りから解放された。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
しばらくの間胸を押さえて乱れた呼吸を整えていたが、ふと隣の部屋の扉が開けっ放しになっていることに気がついた。確か、あの部屋には酔い潰れてコレールに担ぎ込まれたドミノが居たはずだ。
「……ドミノ……さん……!」
エミリアは這うようにしてドミノの部屋に入り、彼が寝ているはずのベッドを確認した。
そこにあるはずの心優しい青年の姿は、影も形も見られなかった。
ーーーーーーーーーーーーー
「見ろ。足跡だ」
コレールは宿屋の入り口の前で、最近砂埃の上につけられたであろう足跡を松明で照らしていた。
あの後、コレールとクリスを起こしたエミリアは、今しがた自分が目撃した怪人と、ドミノが姿を消したという事実について全てを二人に話し、彼女達に助けを求めた。
異常事態を察したコレールとクリスはすぐさま身支度を整えて、怪人とドミノの足取りの調査を始めたのだった。
「多分、町の外の砂漠まで続いてるな……風で足跡が消える前に、辿れるところまで辿ってみよう」
3人はニレンバーグを出てしばらく無言で砂漠に残った足跡を辿っていたが、その途中、クリスがおもむろに自分の考えていたこと口にした。
「ねぇ、コレール。貴方が寝る前に話してくれた『Mr.スマイリー』のことなんだけど……」
「あぁ。エミリアが見た『怪人』と外見の特徴が一致している。あの宿屋にいたのは、『Mr.スマイリー』で間違いないだろうな」
「ということは、ドミノはMr.スマイリーに拐われたのかしら」
「もしくはドミノの正体がーー」
「ーー彼こそが『Mr.スマイリー』だったというところでしょうカ?」
ベントがコレールの言葉尻を補った。
「そんなの、あり得ないです! 大体、体躯からして全くの他人でした!」
エミリアが珍しく怒った様子でベントに反論する。
「それに……それに、ドミノさんは、顔も知らない私のことを、身を挺して守ってくれたんです。そんな方がいくら悪人とはいえ……人殺しなんて……」
「いや、しかしですねエミリアさン。高度な技術を習得した魔術師であれば、見た目なんて自由に変えられーー」
「待て、みんな。あれを見ろ」
コレールが指差した先には、大人一人がどうにか通れるくらいの横穴が開いた、岩場地帯があった。
「足跡が横穴へ続いてる。クリス、後ろを頼む。エミリアは私から離れるな」
コレール達3人は、意を決して砂漠の洞窟の内部へと突入した。
ーーーーーーーーーーーーー
「うぅ……私は洞窟が嫌いなんですヨ! 狭くて暗くて……一生外に出られなくなるような恐怖感がーー」
「(ベント、黙ってて! 洞窟じゃ声が響くのよ!)」
クリスは小声で呟くと、魔法の杖の先にある宝玉を握りしめた。
「(これは失礼。ところでクリスさン、もしここでMr.スマイリーを見つけたとして、それからどうするつもりなんですカ?)」
「(そんなの決まってるでしょ! 衛兵に突き出すのよ!)」
「(本気でそうするつもりなんですカ? Mr.スマイリーを『救世主』と呼ぶ人もいるんでしょウ? 果たして本当に牢獄に閉じ込めるべき人間だと言い切れるのでしょうカ?)」
クリスは反論しようとしたが、出来なかった。突然歩くのを止めたコレールの背中に、もろにぶつかってしまったからである。
「ちょっと、何かあったのコレール! いきなり止まるな……ん……て……」
クリスの表情がみるみる内に凍りついていく。見てしまったのだ。コレールの前方の空間にある、その『何』を。
「見るな、エミリア!」
コレールは前に出てきたエミリアの目を隠そうとしたが、すでに手遅れだった。彼女の目は、目の前で行われていた惨劇をしっかりと捉えてしまった。
全裸の少女が、砂地から突き出た岩にロープで縛り付けられていた。
全身には数えきれない数の大きな青痣があり、特に集中的に殴られたであろう顔面は醜く腫れ上がってしまっていた。
顔面の腫れに圧迫されて細くなった目には既に生気は無く、足元には血に濡れた歯が何本も散らばっている。
少女の側には、彼女を痛め付けたであろう得物を握りしめた少年が佇んでいた。靴下の中に砂や小石を詰め込んだ武器ーー所謂、『即席ブラックジャック』と呼ばれる物だ。
その少年を見守る様な位置に、闇夜の様に黒いコートを羽織った長身の男が立っていた。
コレール達はこれ以上喋らないように、息を殺して足音も立てないようにしていたが、それも徒労に終わるようだった。
男の首が少しずつ捻れていき、その死体の様な顔面が彼女らの眼前に表れた。フクロウの如く首が180度回っているその姿は、魔王軍の戦士であるコレールとクリスでさえ、腹の中が凍りついていくような恐怖感を感じざるを得なかった。
『み た な』
耳まで裂けた男の口から、獲物を探す蛇の鳴き声の様な声が漏れだした。
ーー続く。
クリスは無言でスプーンに乗っている黄緑色の物体を見つめていた。
砂漠の夜は日中の暑さが嘘だったかの様に気温が下がる。魔法で起こした火を囲んでいるとは言え、エミリアが根菜とホルスタウロスのミルクで作った温かいシチューは、体を内側から温めてくれる、ありがたい存在だった。
シチューの中に転がっていた緑色の物体を見つけるまでは。
「ねぇ、エミリア? この緑色のって……もしかして……」
「あ、それはサボテンです」
エミリアはにっこりと笑って答えた。
「サボテンは栄養が不足しがちな砂漠の旅だと、貴重な現地調達出来る食材の一つなんです。お母様も良く食べていたと言っていました」
「クリス、好き嫌いは無しだぜ」
コレールにピシャリと言われたクリスは意を決して、その緑色のスライムの様な物体を口の中に放り込んだ。
「うぅ……ヌルヌル……」
ーーーーーーーーー
翌日、午後4時半ーー
ウィルザードの砂漠は、端から端まで不毛の地と言うわけではなく、所々に淡水が存在する場所がある。俗にいう「オアシス」である。
例え砂漠のど真ん中でも、淡水があれば植物が育つ。植物があれば動物が集まり、やがて人間や魔物娘も集まってくる。人々が集まればそこに集落が形成され、集落は小規模な街へと成長していく。ルフォンとサンタリムの丁度中間地点に位置する砂漠の集落、ニレンバーグも、そのようにして形成された街の一つである。
そのニレンバーグの街中を、ボサボサの黒髪を生やした一人の青年が歩いていた。眼の色は金色で猫背気味な上に、乾燥地域の人間にしては手足が細々として白っぽく、その人を喰ったような雰囲気を醸し出すその容貌は、お世辞にも男前とは言い難い。服装は黒を基調としたパンクな意匠で、そういうデザインなのか、ただ単に暑いからかは分からないが、袖が両方破りとられていた。
青年は口笛を吹きながら街中を歩いていたが、その視界に、家屋の軒下でシクシクと泣いている「アリス」の女の子が飛び込んできた。
「おい、どうかしたのか?」
青年が尋ねると、アリスの女の子は泣きながら家屋の屋根の方を指差した。
「ボールが屋根に乗っちゃったのか……よし、待ってろ」
青年はそばに落ちてた棒切れで、屋根の上のボールを器用に小突き、落としたボールをアリスに渡してあげた。
「おにいちゃん、おおきに!」
女の子はニッコリと笑って青年にお礼を言うと、ボールを大事そうに抱えて走り去っていった。
青年は、アリスの女の子の背中を穏やかな視線で見送っていたが、ふとその視線を道の反対側に向けると、表情が真っ青な色に変わった。
建物の上部で、建築作業をしているのであろうジャイアントアントが作業に集中していた。作業に集中し過ぎて、自分の背後に積んであるレンガが、今にも下にある道の方まで崩れ落ちそうなことに、気がついていないのだ。
そして、予想される落下地点を今まさに、ホブゴブリンの女の子が通ろうとしているーー。
「危ねぇぞ! レンガが落ちてくる!」
青年はそう叫ぶと、ホブゴブリンの女の子に向かって走り出した。ホブゴブリンの女の子は驚いた様子でその場に立ち尽くし、ほぼ同時に重力に耐えきれなくなったレンガの山が、彼女の頭目掛けて崩れ落ちてくる。
彼女の前を歩いていたリザードマンが振り返って何事か叫んだが、青年の耳には届かなかった。
青年は走り込んだ勢いのまま跳躍すると、ホブゴブリンの女の子の体を突き飛ばして、安全な場所へと押し込む。女の子は悲鳴を上げたが、青年の体は容赦なくレンガの山に飲み込まれていった。
「ありゃ、お前さん、大丈夫かい?」
建物の上部で作業を続けていたジャイアントアントは、呑気な声でレンガに埋もれて気絶している青年に呼び掛けた。
ーーーーーーーーーーーーー
21時。ニレンバーグのとある酒場にてーー。
「畜生、身体中がズキズキしやがる……」
幸い、青年は大きな怪我を負うこともなく、診療所で湿布を貼って貰うだけの治療で回復することが出来た。コレール達は、身を挺してエミリアの危機を救ってくれた青年を労うために、彼に酒を奢ることにしたのだった。
「悪いな兄さん。私が直ぐに行動してれば良かったんだけど」
そう言ってコレールは青年のグラスにウイスキーを注ぐ。
「いや、気にするな。俺が好きでやったことさ」
青年はグラスに注がれたウイスキーをチビリと口にした。
「ちょっと待ってくれ……ほら、エミリア。言いたいことがあるんだろ?」
コレールはカウンター席の並び順をエミリアと入れ換えて、彼女と青年が顔を見ながら話せるようにした。
「あ、あの、私、エミリア=イージスと言います。今日は助けてくださって、本当にありがとうございました」
エミリアは「恥じらいの乙女」の見本だとでも言わんばかりのモジモジ具合で、青年にお礼の言葉を告げていた。
「あっ、えっと、ドミノ=ティッツアーノだ。うん、良いってことよ。人として当然のことをやったまでさ」
ドミノと名乗った青年の方も、エミリアに負けず劣らず緊張した様子で、吃りながら彼女のお礼に答えていた。
コレールは右隣に座っているクリスと共に、微笑ましい二人の様子をニヤニヤしながら眺めていたが、ふと酒場のマスターと、同じカウンター席の少し離れた椅子に座っていた「デーモン」の女性が、神妙な面持ちで話し込んでいることに気がついた。
「……知ってるか? Mr.スマイリーが現れたらしいな」
「その噂、もうニレンバーグ中の人間に伝わっているわよ」
「あぁ、そうか……あんたは大丈夫か? 他人に恨まれるようなことはしてないよな?」
「まさか。何にもしてないわよ」
コレールはグラスを持って自分の席から離れると、デーモンの隣に座ってマスターに話しかけた。
「なぁ、そのMr.スマイリーっていう奴に関して、詳しく教えてくれないか? 興味があるんだ」
マスターは片方の眉をピクピクと動かすと、後ろの棚に向かって何かをゴソゴソと探し始めた。
「あんた、ウィルザードに来てまだ間も無いな? それならこの手配書も、ここで初めて見るって訳だ」
マスターは棚から引っ張り出した一枚の手配書をコレールの目の前に差し出した。
そこに描かれた人相書きを見た瞬間、コレールは思わず息を呑んだ。そこにあったのは、凡そ人間の物とは思えないような不気味で醜悪な顔だった。
まず目に入ってきたのは、蝋化した死体のように真っ白な顔面の皮膚だった。口は耳まで裂けており、異名の通り笑っているようにも見えなくはない。瞼と鼻は存在せず、眼球そのものは、明らかに顔の大きさとのバランスが取れていない、不自然なまでに巨大な大きさであった。
「今まで知らなくて正解だったよ」
コレールはマスターの方に手配書を押し戻しなから言った。
「とにかくこの怪人は、ウィルザード中の、被害者に有力者を含むあらゆる猟奇事件に関わっているとされているわ。最初に目撃された日からから随分経つって言うのに、未だに捕まっていないのよ。そんな危険人物がニレンバーグにいると思うと、安心して強い酒を楽しむことだって出来やしないわ」
デーモンの女性が不満げな様子でコレールに語る。
「そうか? 俺はむしろ、彼がここに来てくれたことを、少しありがたく思ってるんだ」
マスターは乾いた布切れでグラスを吹きながら言った。今夜は客の数がまばらなので、それぐらいしかやることがないのだ。
「この街に住んでるバズル家の旦那の愛娘のーーたしか名前は『クーガ』つったかな。あのガキ、出入り禁止を言いつけたってのに、構わず俺の店に取り巻きのチンピラを連れ込んできやがって、親が豪商で金持ちだってのに、酒代をツケにしろって迫って来やがった。あのアバズレがMr.スマイリーに拐われて行方不明になったっていう噂を聞いたから、俺はありがたくなって、店の前に張り出してあった手配書を、中にしまったんだ」
マスターは手配書を丸めながら、更に話を続けた。
「それに聞いたところによると、Mr.スマイリーはどうやら人によっちゃあ『救世主』って呼ばれてるらしい。何でも、彼が制裁を加えているっていう人間は殆どが奴隷商人だったり、マフィアだったり、横暴な領主だったりと、人から恨みを買ってそうな奴ばかりなんだと。神聖ステンド国の内乱にも一枚噛んでいて、反乱軍側に協力したとか」
マスターの言葉にデーモンはグラスを強くテーブルに下ろしてから反論した。
「そのMr.スマイリー様のせいで、皆怖がって夜には家の中に閉じ籠っちゃうものだから、この店には閑古鳥が鳴いてるんだけどね。それに、確かにあの子は品行方正とは言えなかったけど、だからって殺されるほどのことはしてないと思うわ」
「それじゃあ、その娘は殺されたのか?」
コレールはデーモンの女性に訊ねた。
「いや、正確に言うと、はっきりとは分かんないの。Mr.スマイリーに目をつけられた人間の多くは既に発狂してるか、死体すらも残さず姿を消すって言うわ。それがあいつの捕まらない理由の1つでもあるの。現場に証拠が残らないから」
「ああ、そうか……マスター、もう一杯くれ」
コレールはグラスを目の前の中年男性に向かって突き出した。
「嫌な話を聞いちまったな。こんな時はガンガン飲んで、忘れるに限る」
ジョッキに注がれた酒を一気に飲み干してから、赤ら顔で呟く。
「『悪党専門の殺人鬼ですカ……まぁ、私のような善良な小市民が気にするような話でもないですネ!』」
ベントの言葉は全員に無視された。
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0時。ニレンバーグの宿屋にてーー。
「むぅ……おしっこ……」
薄手の寝巻きを身に纏ったエミリアは、寝ぼけ眼を擦りながらベッドから起き上がった。一つのダブルベッドに3人で寝ているせいで、コレールの腕がクリスの胸にのし掛かり、うなされている。空き部屋の数や資金の問題で、一つの部屋に3人で泊まるしか無かったのだ。
エミリアは部屋の扉をゆっくりとした動作で開けると、トイレがあるのは一階だけということを思いだし、廊下の奥にある階段へと向かった。
「……?」
エミリアは自分が大分寝ぼけているのかもしれないと考えた。階段の所に、真っ白な塊状の物体がふわふわと浮かんでいるのが見える。
眼をごしごしと擦り、改めて階段に眼を向ける。真っ白な塊に見えたのは人間の顔だった。顔の持ち主が夜の闇に溶け込むような、帽子とコートを着込んでいるので、白い顔だけが薄暗い闇の中にぼんやりと、浮かんでいるように見えるのだ。
ーー白い顔?
「…………っ!?」
エミリアは声にならない悲鳴をあげた。とても血の通っているようには見えない白い横顔に、耳まで裂けた真っ赤な唇は、間違いなく人間のものではない。
「(怪人ーー!!)」
コレールとクリスのいる部屋に逃げ込もうとしたが、腰が抜けてしまってその場から一歩も動けない。
幸い、怪人はエミリアの存在には気づかなかったらしく、階段から一階へと降りていく。
やがて足音が遠ざかっていき、怪人が宿屋を出ていったことが分かると、エミリアはようやく恐怖という名の金縛りから解放された。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
しばらくの間胸を押さえて乱れた呼吸を整えていたが、ふと隣の部屋の扉が開けっ放しになっていることに気がついた。確か、あの部屋には酔い潰れてコレールに担ぎ込まれたドミノが居たはずだ。
「……ドミノ……さん……!」
エミリアは這うようにしてドミノの部屋に入り、彼が寝ているはずのベッドを確認した。
そこにあるはずの心優しい青年の姿は、影も形も見られなかった。
ーーーーーーーーーーーーー
「見ろ。足跡だ」
コレールは宿屋の入り口の前で、最近砂埃の上につけられたであろう足跡を松明で照らしていた。
あの後、コレールとクリスを起こしたエミリアは、今しがた自分が目撃した怪人と、ドミノが姿を消したという事実について全てを二人に話し、彼女達に助けを求めた。
異常事態を察したコレールとクリスはすぐさま身支度を整えて、怪人とドミノの足取りの調査を始めたのだった。
「多分、町の外の砂漠まで続いてるな……風で足跡が消える前に、辿れるところまで辿ってみよう」
3人はニレンバーグを出てしばらく無言で砂漠に残った足跡を辿っていたが、その途中、クリスがおもむろに自分の考えていたこと口にした。
「ねぇ、コレール。貴方が寝る前に話してくれた『Mr.スマイリー』のことなんだけど……」
「あぁ。エミリアが見た『怪人』と外見の特徴が一致している。あの宿屋にいたのは、『Mr.スマイリー』で間違いないだろうな」
「ということは、ドミノはMr.スマイリーに拐われたのかしら」
「もしくはドミノの正体がーー」
「ーー彼こそが『Mr.スマイリー』だったというところでしょうカ?」
ベントがコレールの言葉尻を補った。
「そんなの、あり得ないです! 大体、体躯からして全くの他人でした!」
エミリアが珍しく怒った様子でベントに反論する。
「それに……それに、ドミノさんは、顔も知らない私のことを、身を挺して守ってくれたんです。そんな方がいくら悪人とはいえ……人殺しなんて……」
「いや、しかしですねエミリアさン。高度な技術を習得した魔術師であれば、見た目なんて自由に変えられーー」
「待て、みんな。あれを見ろ」
コレールが指差した先には、大人一人がどうにか通れるくらいの横穴が開いた、岩場地帯があった。
「足跡が横穴へ続いてる。クリス、後ろを頼む。エミリアは私から離れるな」
コレール達3人は、意を決して砂漠の洞窟の内部へと突入した。
ーーーーーーーーーーーーー
「うぅ……私は洞窟が嫌いなんですヨ! 狭くて暗くて……一生外に出られなくなるような恐怖感がーー」
「(ベント、黙ってて! 洞窟じゃ声が響くのよ!)」
クリスは小声で呟くと、魔法の杖の先にある宝玉を握りしめた。
「(これは失礼。ところでクリスさン、もしここでMr.スマイリーを見つけたとして、それからどうするつもりなんですカ?)」
「(そんなの決まってるでしょ! 衛兵に突き出すのよ!)」
「(本気でそうするつもりなんですカ? Mr.スマイリーを『救世主』と呼ぶ人もいるんでしょウ? 果たして本当に牢獄に閉じ込めるべき人間だと言い切れるのでしょうカ?)」
クリスは反論しようとしたが、出来なかった。突然歩くのを止めたコレールの背中に、もろにぶつかってしまったからである。
「ちょっと、何かあったのコレール! いきなり止まるな……ん……て……」
クリスの表情がみるみる内に凍りついていく。見てしまったのだ。コレールの前方の空間にある、その『何』を。
「見るな、エミリア!」
コレールは前に出てきたエミリアの目を隠そうとしたが、すでに手遅れだった。彼女の目は、目の前で行われていた惨劇をしっかりと捉えてしまった。
全裸の少女が、砂地から突き出た岩にロープで縛り付けられていた。
全身には数えきれない数の大きな青痣があり、特に集中的に殴られたであろう顔面は醜く腫れ上がってしまっていた。
顔面の腫れに圧迫されて細くなった目には既に生気は無く、足元には血に濡れた歯が何本も散らばっている。
少女の側には、彼女を痛め付けたであろう得物を握りしめた少年が佇んでいた。靴下の中に砂や小石を詰め込んだ武器ーー所謂、『即席ブラックジャック』と呼ばれる物だ。
その少年を見守る様な位置に、闇夜の様に黒いコートを羽織った長身の男が立っていた。
コレール達はこれ以上喋らないように、息を殺して足音も立てないようにしていたが、それも徒労に終わるようだった。
男の首が少しずつ捻れていき、その死体の様な顔面が彼女らの眼前に表れた。フクロウの如く首が180度回っているその姿は、魔王軍の戦士であるコレールとクリスでさえ、腹の中が凍りついていくような恐怖感を感じざるを得なかった。
『み た な』
耳まで裂けた男の口から、獲物を探す蛇の鳴き声の様な声が漏れだした。
ーー続く。
16/02/13 11:08更新 / SHAR!P
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