半月の想い
夜香木。別名、ナイトジャスミン。
出勤前の父を捉まえて訊けば、そう教えてくれた。
昨晩のこと。
夜中に人の声らしきものが聞こえガラス戸を開けてみれば、誰もいない代わりに夜気に混じる芳香に気付いた。
香りに惹かれて身を屈めれば、上がり口の式台に置かれていたのは、白く可憐な花をつけた小枝だった。花は萎れ気味ではあったが、取り敢えず花瓶に水挿ししておき、自室の卓上に飾って寝た。
あの日以来。
目が真っ赤に充血してから自宅療養していたのだが、炎症が退くのと入れ替わりに今度は熱が出た。熱と薬の副作用とで鬱悶とし、深く眠れずにいたのだが、花を飾ってからは不思議なくらいにストンと眠りに落ちたのだった。そして今朝はすっかり熱も下がって爽やかに目覚めることが出来た、という訳だ。
ナイトジャスミンとは言い得て妙だと、晨は思う。きっとアロマテラピーのような効果が得られたのだろうと、腑に落ちた。
朝になってすぼんだ花は、もともと地味な上に香りもしない。必要な物しか置いてない殺風景な部屋を、華やかに飾ることもない。けれど、晨はこの白い花が心の底から気に入ったのだった。
だが、そもそもこの夜香木は誰が運んだのかが不可解ではあった。同時に、自分でも説明のしようがないが、確信めいたものもあった。
不知火と名乗った、雑木林で会った不思議な女性。
その女性の優しげな声が、甘やかな香りが、どこか懐かしい温もりが、耳に鼻に肌に甦る。
朝食を摂り終えると、休日ということで時間もあり、お菓子作りに取り組んだ。作る物は二種類のゼリー。
一つは庭に生る枇杷の実を使う。
もう一つはロイヤルミルクティーで作るつもりだった。牛乳で茶葉を煮出すのではなく、先に茶葉を少ない水で煮て後から牛乳を入れ一煮立ちさせる方法を選んだ。その方が早く出来るし、煮出す時間が短いので香りが飛ばずに済む。……邪道と言う人もいるが。
甘味は砂糖ではなく蜂蜜でつけた。枇杷ゼリーには蕎麦の花の蜂蜜を、ロイヤルミクティーゼリーには栗の花の蜂蜜を。
それぞれ風味に癖があり、色も濃い。が、よく目にするレンゲやアカシアの蜂蜜と比べ栄養価――特にミネラルが多く健康に良い。それに、癖があるからこそ味に広がりがあり濃厚なコクもある。磯矢家の二人はすでに蜂蜜の魅力に取り憑かれ、白砂糖では満足出来ない舌になってしまっていた。
「そろそろかな?」
ゼリーなど十五分もあればできるし、冷蔵庫で冷やす時間も一〜二時間あれば充分だ。出来映えを確かめてみればきちんと固まっていた。
時刻はまだ午前中。昼食を食べてから出かけるべきだろう。だが晨は、待てそうになかった。
ゼリーで満たされたカップとスプーンを保冷バッグに入れると、残りの玄米で適当な具材を握り弁当箱に詰め、麦茶でいっぱいにした水筒と一緒にこれも保冷バッグに突っ込む。
それから、今回は忘れず帽子を被ると、
「行ってきます」
自宅を後にしたのだった。
焦燥感に急かされたのではなく、確固とした目的を持って。
「たぶん、これだよね……」
雑木林の中にあって、少し開けて日当たりの良い場所がある。そこに、特徴的な小さな花々をこんもりと繁らせた一角があった。
夏の濃緑が霞んだようになったその場所へと晨は近付くと、膝を折る。
少年の顔よりほんの少しだけ低い位置に、限りなく白に近い薄紫の花が咲いていた。小さな小さな花弁と、ぴょこんと飛び出したおしべの束。まるで、猫の髭のようにも見える。
それもそのはず。実際、この花は『ネコノヒゲ』というのだから。
そして、薄紫に煙るこの下に、あの時の仔猫が眠っている。通りすがりの見知らぬ老人が墓を作り、目印になるようにと、この花群の下に埋めてくれたのだ。
「クチン、来たよ」
クチンとは晨が仔猫につけた名だ。
老人が教えてくれたネコノヒゲという言葉から、視力が回復した後にネットで調べた。この花は元々は東南アジアなどの熱帯の物で、マレー語で『クミスクチン』という。クミスは髭で、クチンは猫という意味だ。
保冷バッグからゼリーを取り出し、墓前に供え、手を合わせる。猫がゼリーを食べるとも思えなかったが、相手は天国にいるのだ、きっと気持ちが大切なんだろうと勝手に結論づけた。
ネコノヒゲの花言葉は、『楽しい家庭』。
今度生まれてくる時は、大勢の家族に囲まれ、楽しく賑やかに暮らせれば良いと、晨は思い、願う。
祈り方の作法など知らない少年は、彼なりに仔猫を弔い――最後に、猫髭みたいなおしべを撫でた。
とたんに、あの小さくてふわふわした生き物のことを思い出してしまう。
泣いたって、死者は喜ばないだろう。
少年は気持ちを振り切って立ち上がり――戻るのではなく、川の方へと向かったのだった。
少年がクチンの墓に供養する、その一部始終を見ていた者があった。
不知火だ。
長い体を木陰に押し込めて覗き見れば、晨に病の陰りは見えず、目も赤くない。それで不知火は、薄い胸を撫で下ろしたのだった。
それから息を潜めて見守っていると、少年は花の咲く辺りにしゃがみ込み、動こうとしない。
あそこに仔猫の死骸が埋まっていると不知火は知っていた。だが、そこに晨がいることが理解できないのだ。
昔の不知火ならいざ知らず、野の獣のように獲った肉を埋め、それを掘り返そうとしている……などとは思わない。さりとて、墓の意味も、弔うという行為の意義も、理解するには遠かった。
(シン、シン)
不知火は叫ぶ。
胸の内で叫ぶ。
自分はここにいるんだと教えたかった。
どうして山に来たのと、尋ねたかった。
けれど……結局彼女がとれたのは、草木の陰から半分だけ顔を覗かせ、じぃっと少年を見るという、なんとも意気地のない行動であった。
大百足が瘴気じみた陰鬱な視線を向けていると、やがて晨は立ち上がり、川の方へと歩いて行く。
不知火も、物音を立てないよう細心の注意を払って後を追う。端から見れば追う化け物と、襲われる直前の被害者という構図で。
まさか自分が尾行されているなどとは露知らず、晨は雑木林を突っ切り、川に突き当たった。そして今度は河原を上流に向かって登り始める。
風はある、身近に聞こえるどざどざという水音も涼しげだ。が、日光を遮る物は帽子一つきり。
ジリジリと肌を焼く日差しに汗が噴き出し、ぎっしり敷き詰められた石ころが足場を不安定にし、体力を奪う。
晨が何故川沿いを遡っているのかというと、それは不知火に会うためだった。
あの時は仔猫の死に動転し、別れの挨拶も告げず終いだった。しかもその直前には、不知火に対して食って掛かるような真似もしていた。
それが、刺さった棘のように晨の胸をチクチク刺激する。
それから、あの夜香木。
上流に行けば不知火に会える……などという保証はどこにもない。だが、彼女との接点はこの山しかないし、クラスメイト達からのイジメを逃れたのも、川上から流れてきた山紫陽花と甲虫達のお陰だった。
名推理からはほど遠い、半ば直感じみた……当て推量によるものだが、そんな無鉄砲も若者の特権なのかもしれない。
「わ!?」
石の間から飛び出したカワラバッタに驚き、危うく転びかける。
親指の第一関節くらいしかない小さな虫は、微かに青みがかった灰色で、石ころそっくりの色合いだった。だから、礫(つぶて)でも飛んだのかとビックリしたのだ。
その頃。
雑木林の不知火は、少年の危なげな足取りにはらはらしつつも木々の間から顔と触角を覗かせ見守っていた。が、突然跳ねたカワラバッタのせいで晨が転びかけた時、つい、
「危なか!」
と、叫んでしまったのだった。
「誰ですか!? ……不知火、さん?」
誰何された不知火はというと、それはもう焦った。
焦って焦って、長い下半身を無駄にのたくらせたものだから、がさがさと音が鳴り、その存在を余計明らかにしてしまう。
「そこに、いるんですよね?」
探し人が早くも見つかったかと、晨の心は躍る。胸の高鳴りの理由になど、気付くこともなく。
そして不知火は――晨から遠ざかった。途中、そこらの木に巻き付いていたツル草を引き千切り、腰に巻き付ける。
自分でも訳の解らない行動だったが、晨の存在を強く意識した途端、奇妙なざわめきが胸に湧き上がったのだ。
それは『羞恥心』という感情だったが、不知火は解らない。
衿合わせは左右逆だし、結び方も適当で、しっちゃかめっちゃかだが、とにかくはだけた胸さえ隠せたら良かった。
「不知火さん、どこですか?」
晨は河原から再び雑木林へと入り、呼びかける。
だが不知火は、無意識に住処のある頂きの方へと、身を隠しながら後退る。
「姿を見せて下さい」
先程、不知火が音を鳴らした辺りに目星をつけ、少年が踏み込んでいくと、
「そこ、足下、危なか!」
土が柔らかく、滑りやすくなっているのが気がかりで、心配性の大百足は声を上げてしまう。
不知火の声が斜面の上手から聞こえたことに気付き、晨は進路を変えた。
「不知火さん?」
晨の呼びかけに、不知火は答えない。ただただ、晨の近くに居たいけれど居られないという、相反する気持ちに心が引き裂かれていた。
それから、晨に怪我などさせてはならないという、使命感にも似た愛情に突き動かされていた。
という訳で、
「あっ、そこ、草の濡れとるけん、いけん」
「解りました。じゃあ、こっちは?」
「そっちなら、良か」
こんなやり取りがあったり。
「いけん! そこは蛇の巣のあるけん」
「こっちなら良いですか?」
「うん。そっちなら良か」
とまあ、こんな感じでいちいち教えてやり。
「こっちの道は行けますか?」
「そっちは……行けるばってん……困る」
「困る?」
晨の足の向かう方には、不知火が住処とする洞窟がある。だからこの少年に来られると困るのだが、不知火には『来るな』なんて口が裂けても言えない。言えば、罪悪感で胸が張り裂け死にかねないし、そもそも、本音では来て欲しかったのだから。
「こっちはどうですか?」
「そっちは道の悪かけん、いけん」
「じゃあ、こっちは?」
「そっちは行けるばってん……困る」
「解りました」
そして、晨は不知火が『困る』と答える方向に進み始めた。
それで不知火は慌てふためいた。
少年が、困る方、困る方へ進んでいく。嘘を吐けばいい話だが、不知火は嘘が吐けない。正確に言えば、嘘を吐くということを知らなかった。
だから、
「こっちはどうですか?」
と問われれば、それが洞窟へ至る道だと知っていながら、晨がどうするか解っていながら、
「そっちは……困る」
と、答えるしかない。
そうして。
杉林だったり竹林だったり、時季外れの山桜や山茶花の前を通り過ぎ、周囲より一際鬱蒼としたあたりまで来た時……晨は、洞窟を見付けたのだった。
「ああ、困る、困る」
みっともなく狼狽えながら、潜む意味がないくらいぶつぶつと『困る』を連呼する不知火に、晨は、あえて近付こうとはしなかった。
さすがにここまでくると、どうやらこの女性が『自分とは顔を合わせたくないらしい』ということくらい解ったからだ。かといって、嫌われている訳でもなさそうなので、こうして我が侭を通して登ってきたのだが。
それに、場を包む雰囲気に呑まれてしまい、何か行動に移すのが躊躇われる部分もあった。
木々が生い茂り、張り出した枝々が目も眩む夏の陽射しを遮る。
あれほど鳴いていた蝉も、この辺りでは不思議と鳴かない。何か、水の膜一枚を隔てたように、音が遠くに感じる。
霧が出ている訳でもないのに、ミストシャワーでも浴びたみたいに涼と潤いを肌に感じる。頂上付近とはいえ、さして高くもない山がこれほど涼しく快適なのは奇妙だ。
何よりも。
神さびた境内を思わせる落ち着いた雰囲気と、大きな湖の底にいるのではと錯覚させる蕩然とした空気。
――異界。
そんな、いつもなら吹き出してしまいそうな非日常的な単語が、晨の脳裏をかすめる。
だが、そう。確かにここらは異界と呼んで差し支えがない。
魔物化した不知火の魔力にあてられ、洞窟周辺は趣を変質させていたのだから。
……ちなみに蝉がいないのは、不知火がさんざん獲り尽くしたからだ。以降、土から這い出た連中も、腹ペコの彼女を恐れて近付かないようになったのだが、それはさておき。
晨は、自分が呼吸を忘れかけていたことに気付き、息を深く吸った。
濃厚な空気が、肺腑を満たす。行ったことはないが、酸素カプセルという物に入ればこんな感じなのだろうかと、とりとめもなく思った。
地も、取り巻く木々も、シダに覆われ一面緑の世界で。
そんな青々とした風景にあって、その洞窟は黄緑から深緑までありったけの苔色でグラデーションされ、それを下地に忍(シノブ)の葉の濃緑が陰影を織りなす。
どこか一幅の絵画のようであり、緑の体毛に覆われた獣が、顎門を開けているようにも見える。
少年は、止まっていた足を踏み出す。
柔らかなシダを踏み、苔むす洞窟に歩み寄れば、木陰で不知火が立てるがさがさという音が大きくなる。それを耳に『悪い』と思いながらも、ぽっかり空いた横穴の前に立った。
もともと薄暗い周囲のお陰で、すぐに目は慣れた。
暗い中を覗き込めば、光の届くギリギリの所に葉や草が敷き詰められた一角があり、それ以外は特に何もなかった。
「ここって……」
それは誰に問いかけた訳でもない微かな呟きだったが、耳の良い不知火は答えた。
「ウチの住処」
その言葉に、晨は改めて暗い中を見通そうと、目を細める。
岩肌が剥き出しの、暗くじめじめした洞窟だ。奥の方までは見えないが、草と葉のかたまり以外には何もない。
そう、何もなかった。
「住処って……『家』ってことですよね?」
「ん? うん、ウチの家。……シン、寒かと?」
晨の声は僅かに震えていた。それを敏感に察知した不知火は気遣わしげに問う。
彼女は本当に少年のことをよく見ていて……けれど、その胸中を推し量ることはできない。
「いいえ、寒く、は――っ」
問われた方は、最後まで言葉を発することが叶わず、ゆるゆると首を振る。
晨は、自分が不幸な人間だと思っていた。
病があり、学校には馴染めず、父子家庭の二人暮らし。実際、端から見れば多くの人間が『可哀想な境遇』だと同情するだろう。それでも『父から愛されているのだから幸せだ』と思い込もうとしていた。
だが、そんな少年の想像を遙かに超える生活を、どうやらこの不知火という女性は送っているようなのだ。
山の中の、こんな場所に、独りで。
晨は当然知らないが、不知火は百足だ。百足ならば、“こんな場所”への一人住まいなど当たり前のことなのだ。……単なる百足ならば、の話だが。
晨は――悪いと、失礼だと思いながらも、不知火を可哀想だと思った。
視覚障害者として役所で申請手続きを行った経験もあり、中学一年生という若年でありながら、同年代と比べたら福祉制度というものをある程度認識している。そして、そういった制度を受けられない事情があるからこそ、こんな場所で暮らしているのだろうとも想像がついた。
その『事情』は、晨には分からない。
だが、その生活はきっと不便で……そして、とてつもなく寂しいことなんだろうと、そう思った。
思ったら涙が零れそうになり、慌てて腕で顔を覆う。
「シン!?」
たまげたのは不知火だ。
理由は解らないが、仔猫の時のような雰囲気が晨から感じられ、恥じらいも何もかなぐり捨てて木陰から飛び出す。そして、そのまま背後から抱きついた。
こうしてお互い立ったまま身を寄せれば、不知火の方が頭半分ほど上背がある。
「シン、どがんしたと? なんか悲しかことのあったと? どこか痛かとね? それとも……さびしくなった?」
背後から腕を回し、お互いの頬がくっつくほど顔を寄せる。
長い髪がはらりと流れ、その感触が晨の頬を、その芳香が晨の鼻をくすぐり、回された腕と背に当たる体温が、脳の古い部分に訴えた。
――ああ、不知火さんだ。
もうどうしようもなく背の女性を感じさせ、波立つ水面が凪ぐように、少年の心は穏やかになる。
「ごめんなさい、だいじょうぶです。……あの、ちょっといいですか?」
そう言って断り、不知火から少し身を離すと、首にかけていたスポーツタオルを目隠し代わりに巻いた。その間、不知火を見ないようにしながら。
それから保冷バッグを漁り、取り出したレジャーシートを足下に敷く。
「今日ここに来たのは、不知火さんにお礼がしたかったからなんです。えと……どうぞ座って下さい」
そう誘いながら、靴を脱いでモノトーンの千鳥格子柄に上がる。
促された不知火はそれまで心配げに見守っていたのだが、目許の隠れた晨の顔とレジャーシートとを交互に見た後……歩肢の土を払い、躊躇いがちに白黒の敷物に上がる。と言っても、下半身の殆どはシートからはみ出してしまうのだが、本人は気にせず、もう一人は気付けない。
そのガサゴソという音を聞きながら、保冷バッグから手探りで取り出したゼリーを並べ、晨は言った。
「ゼリーです。一つは枇杷で、もう一つはミルクティーの。手作りなので味の保証はできませんが、よかったら食べてみて下さい」
二種類が三つずつ、計六個のゼリーが並ぶ。
それで大百足の不知火は、枇杷の方を手に取った。元百足の彼女にも見覚えのある果実だったし、磯矢家の庭にも生っていたので興味が湧いたのだ。それと、嗅ぎ慣れない紅茶の香りを避けた、というのもある。
プラスチックカップを手に、ためつすがめつすれば、開いたフタがぽとりと落ちた。
「スプーンです」
自分で配置した物なら手探りで分かる。前方に差し出せば、不知火が受け取った。
不知火は当然だが、スプーンなんぞ使ったことがない。が、使っている人間なら見たことがある。
見よう見まねで透き通ったゼリーをすくい、口許まで運んだ……は良いが、最後の詰めでしくじった。プルンとしたカタマリは銀の匙から零れ落ち、着物の衿元に滑り込む。
「ひゃあん!?」
白い肌に着地したゼリーは、胸の谷間……と呼ぶにはあまりにささやかな肉合いを、蜜の尾を曳いて流れ落ちた。
「ど、どうしたんですか!? 大丈夫ですか!」
唐突に上がった可愛らしい悲鳴に、驚いた晨が問う。
「う、うん、落としてしもうた。ばってん、だいじょうぶ」
捲し立てるように言うと、慌ててハンカチを探し出す晨をよそに、着物の裾から手を突っ込んで、水とも氷とも違う琥珀色のプルプルしたそれを、口に放り込む。
すると、肉よりも果実よりも柔らかな食感は蕩けるようで、その上、素晴らしく甘かった。
「あまい」
思った通りのことを口にする。
「甘すぎましたか?」
言葉足らずの感想に不安を覚えた少年が尋ねれば、
「うんにゃ、ちょうど良かよ。美味か」
という答えが返ってきて、年若い料理人はほっとした。それから、白いハンカチをそっと差し出し、言った。
「どうぞ、使って下さい」
躊躇いがちに汚れていない方の手を伸ばした不知火は、ハンカチごと、晨の手を握った。
――ああ、シンだ。
不知火の胸は満たされる。
先程も抱きしめてその身に触れたが、あの時は必死で頭が回らなかった。こうして改めて体温を感じれば、まざまざと思い知らされてしまう。
――さびしかった。
だから、夢心地だった。
山に晨が来た。住処の洞窟がすぐそこにある、鬱蒼とした領域に。不知火の家に。
蝉の鳴き止む昼時にありながら、楽園のように住み良いここに。晨の姿があるのだ。
夢ではないのか?
ふと、そんな考えが不知火の頭をかすめる。
単なる虫より大百足に変じてから、彼女は夢を見るようになった。全て、晨の夢だった。
夢ならば覚めないで欲しいと思った。
だがもし、これが夢ではなく現実のことならば……。
ずくり。
体が疼く。
不知火の上半身には黒い模様がある。ツタが這ったような、揺らめく炎のようなそれは、毒腺だ。
その毒腺が疼くのだ。疼いて疼いて、身を炙り、心を沸き立たせ……強い欲求として呼びかける。
――噛んでしまおうか?
いつの間にか不知火は、瞬き一つせず眼前の少年をまじまじと見つめていた。
虫けらだった頃ならば、噛めば最愛の少年を傷付けるだけだった。だが今の不知火は違う。本能で判るのだ、『噛めば、この子を自分のものにできるぞ』と。
いま、不知火は幸せだった。
晨と一緒にいられて、晨が作った物を食べて、それなのに姿を見られてはいない。
だが、いずれは自分の家に、家族の待つ家に帰るだろう。
晨が帰ればどうなる?
不知火はまた独りぼっちだ。
晨を返せばどうなる?
また、寂しくなるだけだ。狂おしいほどの、飢えや渇きにも似た苦痛に苛まれるだけだ。空虚で張り裂けそうになるだけだ。
次はいつ来てくれるのか分からない。
だからこれは、好機だった。
それに。
ひとたび噛んでしまえば、例え姿を見られたとしても、晨の心を捕らえたままでいられるかもしれない……。
不知火はじりじりと身を寄せ、少年を抱きすくめようと――。
「あ、の……不知火さん?」
晨だ。いつまでも手を握られたままだったので、訝しんで声をかけたのだ。その頬は羞恥の色に染まっている。
そして不知火は。
「あ、う、あ、う」
己がしでかそうとしたことに気付き、慌てて身を離した。彼女の方は、首から上が触角以上に赤くなっている。
「は、ハンカチ、使いませんか?」
「え? あ、う、うん、使う」
受け取ったハンカチを不知火は……意図が解らず困惑し、とりあえず匂いを嗅いだ。
期待した少年の体臭はせず、洗剤と柔軟剤の香りが鼻を刺激する。とっさに顔から離し、どうしようか迷った挙げ句……体温の上昇を余儀なくされ、首筋に汗を伝わせる少年に再度近付くと、その雫を拭き取った。
「え?」
そして、狼狽える晨を尻目にハンカチを鼻に寄せ匂いに満足すると、胸元に仕舞い込んでしまう。ちなみにそのハンカチは『貸す』のが目的であって『あげる』意図はなかったのだが。
それから今度は零さないようにとカップを口許に運び、中身を匙でかき込んだ。琥珀のゼリーと橙の果肉を頬張り、口内に満ちる滋味豊かな果汁を楽しむ。
そして触角を揺らめかし鼻をヒクヒクさせると、晨の次に気になっていた物について尋ねた。
「シン、そこの鞄に入っとると、なんね? 肉?」
「え? ……あ、ああ、おにぎりです。鶏そぼろと、高菜の。あの、食べますか?」
「良かと?」
「はい、もちろん!」
不知火の物欲しそうな声は、晨を喜ばせた。
こんな場所に住んでいて食事はどうしているのかと心配だったのだ。だから、この女性をお腹いっぱいにしてあげたかった。
保冷バッグから弁当箱を取り出し、蓋を開ける。中には、俵型で海苔の巻かれた握り飯が六つ、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「ごめんなさい、適当に握った物なので形も味も悪いと思いますが」
「うんにゃ、シンの作るもんやっけん、そがんことは無か」
かぶりを振ると、長い黒髪と赤い触角が揺れる。それからほっそりした手を伸ばし、肉の匂いがする握り飯を手に取り、かぶりつく。
仄かな塩味と、玄米のサクサクした食感の後に、甘辛い鶏そぼろがパラリと口内に散らばる。
その味に感動した不知火はたちまち平らげると、二つ目に手を伸ばす。
そうしてあっと言う間に鶏そぼろを食べ尽くし、今度は高菜の方に取りかかった。
香ばしい玄米の中には、胡麻油で炒められた高菜が詰まっており、鼻腔に広がるゴマの風味とシャキシャキした食感とが五感に強く訴える。
ピリリと辛めな味に少し驚いたが、人の舌を持つに至った不知火には、それもまた新鮮で、何より美味かった。
いっぽう、無言で食べる不知火の対面で、晨は奇妙な充足感に浸っていた。
父親との食事は、朝はバタバタしてゆっくり楽しむという感じではないし、夜は帰宅が遅いので先に食べるように言われている。休日くらいだろうか、家族の団らんがあるのは。
だが、二人とも弁舌豊かな方ではないので、結局お喋りに興じることはない。
勿論、今だって談笑している訳ではない。それなのに、こんなにも心が穏やかで、それでいて胸が躍るのは何故だろうと、不思議に思う。こんな、目隠しなんて滑稽な恰好の自分に、おかしくなって頬が緩む。
風が渡り、木の葉をさざめかせる。
肌を撫でる柔らかな感触に、被りっぱなしだった帽子を脱ぐと、涼やかな流れに髪を梳かれる。
ふと、鼻先をかすめた匂いは、おにぎりに使った塩ではなく、海の潮だと気付く。
そう言えばこの山の裏手は海だったなと、ぼんやり思う。
ここらの海は綺麗だと晨の父は言っていたが、そんなもの、見に行く心のゆとりはなかった。
目隠しで視界が暗かったからだろうか?
それとも、思わぬ安らぎの時を得たからだろうか?
晨の意識は、呆気なく眠りの淵に沈んだのだった――。
「――シン、シン」
優しい響きに、ゆっくり意識が覚醒する。
晨は、自分が何か柔らかで心地良い場所で寝ていることに気付いた。
それもそのはず、不知火が長い体を活かし、人体部の前面と百足の腹をベッドに見立て、少年を寝かせていたのだから。
未だに目隠しをしたままの晨には、それを悟ることはできないが。
「シン?」
下から囁きながら、少年の髪を、頬を、愛おしげに撫でる不知火は、別れを思いその顔は切なげで。仔猫のように、シンの頭に頬を擦りつける。
「え? ……わわっ、なになに!?」
状況こそ解らないが、何かとんでもない恰好をしている気がして、晨は跳ね起きた。
「あぁ」
悲しげな声を漏らし、不知火も起き上がる。
太陽は西の空に傾き、まだまだ明るくはあったが、きっと人間の子供は家に帰る時間だ。不知火は自分の気持ちより、愛する者を優先させた。
それは恋慕か、母性か、いかなる情によるものか。
「シン、荷物はこの鞄に詰めると?」
「あ……、いえ、また来ますので、その時に。よかったら使って下さい」
岩肌が剥き出しの岩窟を思い、晨は言う。レジャーシートでも、あればマシだろう、と。保冷バッグも、何かの役に立つかもしれない。予備ならあることだし。
いっぽう、そんな少年の気遣いよりも、『また来ます』という言葉こそ、岩屋の主を天にも昇る心地にさせた。
「本当ねっ!? また来ると!?」
「え? はい」
言質を取った不知火は、身をくねらせて喜びを表現する。
「もう夕方やけん、シンは帰らんば。見送るけん」
「有り難うございます。助かります」
目隠しをしたままの少年の手を取り、不知火は誘う。
洞窟から一直線に川へ向かった。
二人とも、何か話すでもなくお互いの体温を感じていた。
不知火の住処から離れると、ヒグラシの鳴き声が聞こえ始める。その音に混じり、二人の息づかいと草を踏む音が耳をくすぐる。
目が見えないことでこんなにも相手を感じるものかと、少年は新鮮な感動を覚えた。
晨は正直なところ、奇妙な縁で出会ったこの女性について、自分がいったいどんな感情を持っているのか、測り兼ねていた。
ただ一つ言えることは、『一緒にいて心地良い』ということだ。今はそれで充分だった。
相手に思いを寄せていると、ふと、不思議なことに気付く。
舗装などされていない獣道を歩いているというのに、つないだ手がほとんど上下しない。極めて安定した姿勢を保っているように感じた。
それから、何かを引きずるような音がする。それも、不知火が居る辺りだけでなく、後方からも。
――怪談話。
不知火と初めて会った時、出会った場所柄と、あまりの声の美しさに晨の脳裏をかすめた馬鹿な考え。
(もしも……、もしも不知火さんが幽霊か何かだったとしたら)
晨の胸中に不安が湧き上がる。
(きっと、姿を見られたらもう会えないんだ。鶴の恩返しみたいに)
突拍子もない、妄想の域を出ない考えではあったが、この場合は少年の推量もあながち大外れという訳でもない。
問題は、鶴ほど優雅な存在ではない、という部分だろうか。
と、不知火の足が止まる。
「川の手前まで来た。川沿いに下れば、あん石橋まで辿れるけん、そこからは分かるやろ?」
言葉の通り、水の音が木々の向こうから漏れ聞こえる。
「はい」
答えた晨も、ここまで導いた不知火も、どちらも手を離そうとしない。
しばらく無言が続いたが、空を仰いだ不知火は町を染める茜と黄金色が増した上天を認め、あぁ、と呻いた。
「……ほんならな」
弱々しく告げるが、言われた晨は意味が解らない。
「それ、どういう意味ですか?」
そう問われ、断腸の思いで手を離そうとしていた不知火は、きょとんとした顔になる。
「それ、転校初日にクラスメートからも言われたんですが、意味が解らなくて……」
その時の晨は、何も返せずにもごもごと口を動かし、そのまま教室を後にしたのだ。つまり、相手を無視する形になってしまった。悪意など全くなかったが、隔意はあった。そしてそれを後悔していた。
「意味な。意味は、暇乞いた」
「いとまごい?」
「別れの挨拶たい」
「別れの……挨拶……」
「ほんならっていう意味」
言って、何の説明にもなっていないことに気付いた不知火は、うんうん唸りながらしかめっ面で頭を働かせようと必死になる。
「だけん……別れる時に、ほんならなーって言うたら、ほんならねーって……ああっ、なんて説明すれば良かと!?」
空いた方の手で長い髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。
「……『それじゃあ』みたいな意味ですか?」
「そうっ、それ!」
言い当てた晨に破顔一笑し、自分の頭とは違い優しく撫でてやる。
それで、少年の頬も茜が差したようになった。
誤魔化すような咳払いをし、ついさっき学んだ挨拶を述べる。
「ほ、ほんなら、また」
「うん、ほんならな」
不知火はその場を去り、その音が聞こえなくなってから目隠しを外す。
目許に風が当たり、涼しくもあり、心許なくもある。
晨は、誰もいないのにぺこりと頭を下げると、帽子を被り川へ向かい。
それを、大百足の不知火は木陰からじっと見ていたのだった。
* * * * * * * * *
そこは、ここらで一番空に近い場所だった。
といっても、小さな山のこと。月も星も、遙かな天の頂きにあって、遠い。
朧の光が暗緑の天蓋を透かし、大百足を儚く照らす。
不知火は、千鳥格子の敷物に丸まっていた。
まるで、シダの海にぽつんとある浮島のような。
川に溺れ、小石につかまり流れに抗うような。
黒い着物から白い手を天に差し伸べ、一つだけ食べずにとっておいたゼリーを、星明かりにかざす。
琥珀の海に、橙色の果実が浮かんでいる。楕円を二つに割った形で、歪な半月を思わせる。
「シン……」
引き裂かれた半身を呼ぶように、切なげな声が零れ落ち、夜気に霧散した。
やがて。
胸元から白いハンカチを大事そうに取り出し、その頼りない布きれに鼻を埋め、目を閉じる。
哀れな大百足は、今日の思い出で心を慰めながら、眠りに落ちた。
今日もきっと、あの少年の夢を見ることだろう。
山の百足にも、町の人々にも、父と二人暮らしの子の元にも、等しく夜は訪れていた――。
* * * * * * * * *
「ほんなら、また明日ね」
とある中学校、弛緩と華やいだ空気が混然となった放課後の教室で、磯矢晨はそう口にした。
どれほど勇気を振り絞ったことか。緊張しすぎて思ったよりも声が出てしまったが、噛むこともどもることもなく、上出来と言えるだろう。
言われた方は一瞬ギョッとして、
「え? あ、お、おう。ほんならな」
と返した。
その少年は晨をいじめる中心人物だった。とっさに挨拶を返してしまい、顔を赤らめそっぽを向いてしまう。
室内が一瞬静まり返り――また、がやがやと騒がしくなる。
だが晨は、早鐘を打つ心音が耳許で響き、それどころではない。言うだけは言ったと、教室を後にしたのだった。
夏の空は、日が長い。
見上げれば、硝子を溶かし込んだみたいに煌めく青空が一面に広がり、島みたいに大きな雲が空に浮かんでいる。
そして晨は校門を飛び出すと、北へ続く道を一直線に駆けた。
バス停の白いベンチを通り過ぎ、
野菜の無人販売所を視界の端におさめ、
自転車で警邏中のお巡りさんと挨拶を交わし、
石橋に到着した時に、やっと西の空は仄かな黄金色を帯び始めた頃だった。
息が苦しい。体力なんてそんなに無い。途中から歩いてるのと同じくらいの速度だっただろう。
だが、息を整える間も惜しんで、晨は山を登り始める。
会いたかった。
知らせたかった。
お礼を言いたかった。
学校に行くのが苦痛じゃなくなるかもしれない。そんな予感が胸で膨らみ、空気の詰まった風船みたいに軽やかに、山を登ったのだった――。
出勤前の父を捉まえて訊けば、そう教えてくれた。
昨晩のこと。
夜中に人の声らしきものが聞こえガラス戸を開けてみれば、誰もいない代わりに夜気に混じる芳香に気付いた。
香りに惹かれて身を屈めれば、上がり口の式台に置かれていたのは、白く可憐な花をつけた小枝だった。花は萎れ気味ではあったが、取り敢えず花瓶に水挿ししておき、自室の卓上に飾って寝た。
あの日以来。
目が真っ赤に充血してから自宅療養していたのだが、炎症が退くのと入れ替わりに今度は熱が出た。熱と薬の副作用とで鬱悶とし、深く眠れずにいたのだが、花を飾ってからは不思議なくらいにストンと眠りに落ちたのだった。そして今朝はすっかり熱も下がって爽やかに目覚めることが出来た、という訳だ。
ナイトジャスミンとは言い得て妙だと、晨は思う。きっとアロマテラピーのような効果が得られたのだろうと、腑に落ちた。
朝になってすぼんだ花は、もともと地味な上に香りもしない。必要な物しか置いてない殺風景な部屋を、華やかに飾ることもない。けれど、晨はこの白い花が心の底から気に入ったのだった。
だが、そもそもこの夜香木は誰が運んだのかが不可解ではあった。同時に、自分でも説明のしようがないが、確信めいたものもあった。
不知火と名乗った、雑木林で会った不思議な女性。
その女性の優しげな声が、甘やかな香りが、どこか懐かしい温もりが、耳に鼻に肌に甦る。
朝食を摂り終えると、休日ということで時間もあり、お菓子作りに取り組んだ。作る物は二種類のゼリー。
一つは庭に生る枇杷の実を使う。
もう一つはロイヤルミルクティーで作るつもりだった。牛乳で茶葉を煮出すのではなく、先に茶葉を少ない水で煮て後から牛乳を入れ一煮立ちさせる方法を選んだ。その方が早く出来るし、煮出す時間が短いので香りが飛ばずに済む。……邪道と言う人もいるが。
甘味は砂糖ではなく蜂蜜でつけた。枇杷ゼリーには蕎麦の花の蜂蜜を、ロイヤルミクティーゼリーには栗の花の蜂蜜を。
それぞれ風味に癖があり、色も濃い。が、よく目にするレンゲやアカシアの蜂蜜と比べ栄養価――特にミネラルが多く健康に良い。それに、癖があるからこそ味に広がりがあり濃厚なコクもある。磯矢家の二人はすでに蜂蜜の魅力に取り憑かれ、白砂糖では満足出来ない舌になってしまっていた。
「そろそろかな?」
ゼリーなど十五分もあればできるし、冷蔵庫で冷やす時間も一〜二時間あれば充分だ。出来映えを確かめてみればきちんと固まっていた。
時刻はまだ午前中。昼食を食べてから出かけるべきだろう。だが晨は、待てそうになかった。
ゼリーで満たされたカップとスプーンを保冷バッグに入れると、残りの玄米で適当な具材を握り弁当箱に詰め、麦茶でいっぱいにした水筒と一緒にこれも保冷バッグに突っ込む。
それから、今回は忘れず帽子を被ると、
「行ってきます」
自宅を後にしたのだった。
焦燥感に急かされたのではなく、確固とした目的を持って。
「たぶん、これだよね……」
雑木林の中にあって、少し開けて日当たりの良い場所がある。そこに、特徴的な小さな花々をこんもりと繁らせた一角があった。
夏の濃緑が霞んだようになったその場所へと晨は近付くと、膝を折る。
少年の顔よりほんの少しだけ低い位置に、限りなく白に近い薄紫の花が咲いていた。小さな小さな花弁と、ぴょこんと飛び出したおしべの束。まるで、猫の髭のようにも見える。
それもそのはず。実際、この花は『ネコノヒゲ』というのだから。
そして、薄紫に煙るこの下に、あの時の仔猫が眠っている。通りすがりの見知らぬ老人が墓を作り、目印になるようにと、この花群の下に埋めてくれたのだ。
「クチン、来たよ」
クチンとは晨が仔猫につけた名だ。
老人が教えてくれたネコノヒゲという言葉から、視力が回復した後にネットで調べた。この花は元々は東南アジアなどの熱帯の物で、マレー語で『クミスクチン』という。クミスは髭で、クチンは猫という意味だ。
保冷バッグからゼリーを取り出し、墓前に供え、手を合わせる。猫がゼリーを食べるとも思えなかったが、相手は天国にいるのだ、きっと気持ちが大切なんだろうと勝手に結論づけた。
ネコノヒゲの花言葉は、『楽しい家庭』。
今度生まれてくる時は、大勢の家族に囲まれ、楽しく賑やかに暮らせれば良いと、晨は思い、願う。
祈り方の作法など知らない少年は、彼なりに仔猫を弔い――最後に、猫髭みたいなおしべを撫でた。
とたんに、あの小さくてふわふわした生き物のことを思い出してしまう。
泣いたって、死者は喜ばないだろう。
少年は気持ちを振り切って立ち上がり――戻るのではなく、川の方へと向かったのだった。
少年がクチンの墓に供養する、その一部始終を見ていた者があった。
不知火だ。
長い体を木陰に押し込めて覗き見れば、晨に病の陰りは見えず、目も赤くない。それで不知火は、薄い胸を撫で下ろしたのだった。
それから息を潜めて見守っていると、少年は花の咲く辺りにしゃがみ込み、動こうとしない。
あそこに仔猫の死骸が埋まっていると不知火は知っていた。だが、そこに晨がいることが理解できないのだ。
昔の不知火ならいざ知らず、野の獣のように獲った肉を埋め、それを掘り返そうとしている……などとは思わない。さりとて、墓の意味も、弔うという行為の意義も、理解するには遠かった。
(シン、シン)
不知火は叫ぶ。
胸の内で叫ぶ。
自分はここにいるんだと教えたかった。
どうして山に来たのと、尋ねたかった。
けれど……結局彼女がとれたのは、草木の陰から半分だけ顔を覗かせ、じぃっと少年を見るという、なんとも意気地のない行動であった。
大百足が瘴気じみた陰鬱な視線を向けていると、やがて晨は立ち上がり、川の方へと歩いて行く。
不知火も、物音を立てないよう細心の注意を払って後を追う。端から見れば追う化け物と、襲われる直前の被害者という構図で。
まさか自分が尾行されているなどとは露知らず、晨は雑木林を突っ切り、川に突き当たった。そして今度は河原を上流に向かって登り始める。
風はある、身近に聞こえるどざどざという水音も涼しげだ。が、日光を遮る物は帽子一つきり。
ジリジリと肌を焼く日差しに汗が噴き出し、ぎっしり敷き詰められた石ころが足場を不安定にし、体力を奪う。
晨が何故川沿いを遡っているのかというと、それは不知火に会うためだった。
あの時は仔猫の死に動転し、別れの挨拶も告げず終いだった。しかもその直前には、不知火に対して食って掛かるような真似もしていた。
それが、刺さった棘のように晨の胸をチクチク刺激する。
それから、あの夜香木。
上流に行けば不知火に会える……などという保証はどこにもない。だが、彼女との接点はこの山しかないし、クラスメイト達からのイジメを逃れたのも、川上から流れてきた山紫陽花と甲虫達のお陰だった。
名推理からはほど遠い、半ば直感じみた……当て推量によるものだが、そんな無鉄砲も若者の特権なのかもしれない。
「わ!?」
石の間から飛び出したカワラバッタに驚き、危うく転びかける。
親指の第一関節くらいしかない小さな虫は、微かに青みがかった灰色で、石ころそっくりの色合いだった。だから、礫(つぶて)でも飛んだのかとビックリしたのだ。
その頃。
雑木林の不知火は、少年の危なげな足取りにはらはらしつつも木々の間から顔と触角を覗かせ見守っていた。が、突然跳ねたカワラバッタのせいで晨が転びかけた時、つい、
「危なか!」
と、叫んでしまったのだった。
「誰ですか!? ……不知火、さん?」
誰何された不知火はというと、それはもう焦った。
焦って焦って、長い下半身を無駄にのたくらせたものだから、がさがさと音が鳴り、その存在を余計明らかにしてしまう。
「そこに、いるんですよね?」
探し人が早くも見つかったかと、晨の心は躍る。胸の高鳴りの理由になど、気付くこともなく。
そして不知火は――晨から遠ざかった。途中、そこらの木に巻き付いていたツル草を引き千切り、腰に巻き付ける。
自分でも訳の解らない行動だったが、晨の存在を強く意識した途端、奇妙なざわめきが胸に湧き上がったのだ。
それは『羞恥心』という感情だったが、不知火は解らない。
衿合わせは左右逆だし、結び方も適当で、しっちゃかめっちゃかだが、とにかくはだけた胸さえ隠せたら良かった。
「不知火さん、どこですか?」
晨は河原から再び雑木林へと入り、呼びかける。
だが不知火は、無意識に住処のある頂きの方へと、身を隠しながら後退る。
「姿を見せて下さい」
先程、不知火が音を鳴らした辺りに目星をつけ、少年が踏み込んでいくと、
「そこ、足下、危なか!」
土が柔らかく、滑りやすくなっているのが気がかりで、心配性の大百足は声を上げてしまう。
不知火の声が斜面の上手から聞こえたことに気付き、晨は進路を変えた。
「不知火さん?」
晨の呼びかけに、不知火は答えない。ただただ、晨の近くに居たいけれど居られないという、相反する気持ちに心が引き裂かれていた。
それから、晨に怪我などさせてはならないという、使命感にも似た愛情に突き動かされていた。
という訳で、
「あっ、そこ、草の濡れとるけん、いけん」
「解りました。じゃあ、こっちは?」
「そっちなら、良か」
こんなやり取りがあったり。
「いけん! そこは蛇の巣のあるけん」
「こっちなら良いですか?」
「うん。そっちなら良か」
とまあ、こんな感じでいちいち教えてやり。
「こっちの道は行けますか?」
「そっちは……行けるばってん……困る」
「困る?」
晨の足の向かう方には、不知火が住処とする洞窟がある。だからこの少年に来られると困るのだが、不知火には『来るな』なんて口が裂けても言えない。言えば、罪悪感で胸が張り裂け死にかねないし、そもそも、本音では来て欲しかったのだから。
「こっちはどうですか?」
「そっちは道の悪かけん、いけん」
「じゃあ、こっちは?」
「そっちは行けるばってん……困る」
「解りました」
そして、晨は不知火が『困る』と答える方向に進み始めた。
それで不知火は慌てふためいた。
少年が、困る方、困る方へ進んでいく。嘘を吐けばいい話だが、不知火は嘘が吐けない。正確に言えば、嘘を吐くということを知らなかった。
だから、
「こっちはどうですか?」
と問われれば、それが洞窟へ至る道だと知っていながら、晨がどうするか解っていながら、
「そっちは……困る」
と、答えるしかない。
そうして。
杉林だったり竹林だったり、時季外れの山桜や山茶花の前を通り過ぎ、周囲より一際鬱蒼としたあたりまで来た時……晨は、洞窟を見付けたのだった。
「ああ、困る、困る」
みっともなく狼狽えながら、潜む意味がないくらいぶつぶつと『困る』を連呼する不知火に、晨は、あえて近付こうとはしなかった。
さすがにここまでくると、どうやらこの女性が『自分とは顔を合わせたくないらしい』ということくらい解ったからだ。かといって、嫌われている訳でもなさそうなので、こうして我が侭を通して登ってきたのだが。
それに、場を包む雰囲気に呑まれてしまい、何か行動に移すのが躊躇われる部分もあった。
木々が生い茂り、張り出した枝々が目も眩む夏の陽射しを遮る。
あれほど鳴いていた蝉も、この辺りでは不思議と鳴かない。何か、水の膜一枚を隔てたように、音が遠くに感じる。
霧が出ている訳でもないのに、ミストシャワーでも浴びたみたいに涼と潤いを肌に感じる。頂上付近とはいえ、さして高くもない山がこれほど涼しく快適なのは奇妙だ。
何よりも。
神さびた境内を思わせる落ち着いた雰囲気と、大きな湖の底にいるのではと錯覚させる蕩然とした空気。
――異界。
そんな、いつもなら吹き出してしまいそうな非日常的な単語が、晨の脳裏をかすめる。
だが、そう。確かにここらは異界と呼んで差し支えがない。
魔物化した不知火の魔力にあてられ、洞窟周辺は趣を変質させていたのだから。
……ちなみに蝉がいないのは、不知火がさんざん獲り尽くしたからだ。以降、土から這い出た連中も、腹ペコの彼女を恐れて近付かないようになったのだが、それはさておき。
晨は、自分が呼吸を忘れかけていたことに気付き、息を深く吸った。
濃厚な空気が、肺腑を満たす。行ったことはないが、酸素カプセルという物に入ればこんな感じなのだろうかと、とりとめもなく思った。
地も、取り巻く木々も、シダに覆われ一面緑の世界で。
そんな青々とした風景にあって、その洞窟は黄緑から深緑までありったけの苔色でグラデーションされ、それを下地に忍(シノブ)の葉の濃緑が陰影を織りなす。
どこか一幅の絵画のようであり、緑の体毛に覆われた獣が、顎門を開けているようにも見える。
少年は、止まっていた足を踏み出す。
柔らかなシダを踏み、苔むす洞窟に歩み寄れば、木陰で不知火が立てるがさがさという音が大きくなる。それを耳に『悪い』と思いながらも、ぽっかり空いた横穴の前に立った。
もともと薄暗い周囲のお陰で、すぐに目は慣れた。
暗い中を覗き込めば、光の届くギリギリの所に葉や草が敷き詰められた一角があり、それ以外は特に何もなかった。
「ここって……」
それは誰に問いかけた訳でもない微かな呟きだったが、耳の良い不知火は答えた。
「ウチの住処」
その言葉に、晨は改めて暗い中を見通そうと、目を細める。
岩肌が剥き出しの、暗くじめじめした洞窟だ。奥の方までは見えないが、草と葉のかたまり以外には何もない。
そう、何もなかった。
「住処って……『家』ってことですよね?」
「ん? うん、ウチの家。……シン、寒かと?」
晨の声は僅かに震えていた。それを敏感に察知した不知火は気遣わしげに問う。
彼女は本当に少年のことをよく見ていて……けれど、その胸中を推し量ることはできない。
「いいえ、寒く、は――っ」
問われた方は、最後まで言葉を発することが叶わず、ゆるゆると首を振る。
晨は、自分が不幸な人間だと思っていた。
病があり、学校には馴染めず、父子家庭の二人暮らし。実際、端から見れば多くの人間が『可哀想な境遇』だと同情するだろう。それでも『父から愛されているのだから幸せだ』と思い込もうとしていた。
だが、そんな少年の想像を遙かに超える生活を、どうやらこの不知火という女性は送っているようなのだ。
山の中の、こんな場所に、独りで。
晨は当然知らないが、不知火は百足だ。百足ならば、“こんな場所”への一人住まいなど当たり前のことなのだ。……単なる百足ならば、の話だが。
晨は――悪いと、失礼だと思いながらも、不知火を可哀想だと思った。
視覚障害者として役所で申請手続きを行った経験もあり、中学一年生という若年でありながら、同年代と比べたら福祉制度というものをある程度認識している。そして、そういった制度を受けられない事情があるからこそ、こんな場所で暮らしているのだろうとも想像がついた。
その『事情』は、晨には分からない。
だが、その生活はきっと不便で……そして、とてつもなく寂しいことなんだろうと、そう思った。
思ったら涙が零れそうになり、慌てて腕で顔を覆う。
「シン!?」
たまげたのは不知火だ。
理由は解らないが、仔猫の時のような雰囲気が晨から感じられ、恥じらいも何もかなぐり捨てて木陰から飛び出す。そして、そのまま背後から抱きついた。
こうしてお互い立ったまま身を寄せれば、不知火の方が頭半分ほど上背がある。
「シン、どがんしたと? なんか悲しかことのあったと? どこか痛かとね? それとも……さびしくなった?」
背後から腕を回し、お互いの頬がくっつくほど顔を寄せる。
長い髪がはらりと流れ、その感触が晨の頬を、その芳香が晨の鼻をくすぐり、回された腕と背に当たる体温が、脳の古い部分に訴えた。
――ああ、不知火さんだ。
もうどうしようもなく背の女性を感じさせ、波立つ水面が凪ぐように、少年の心は穏やかになる。
「ごめんなさい、だいじょうぶです。……あの、ちょっといいですか?」
そう言って断り、不知火から少し身を離すと、首にかけていたスポーツタオルを目隠し代わりに巻いた。その間、不知火を見ないようにしながら。
それから保冷バッグを漁り、取り出したレジャーシートを足下に敷く。
「今日ここに来たのは、不知火さんにお礼がしたかったからなんです。えと……どうぞ座って下さい」
そう誘いながら、靴を脱いでモノトーンの千鳥格子柄に上がる。
促された不知火はそれまで心配げに見守っていたのだが、目許の隠れた晨の顔とレジャーシートとを交互に見た後……歩肢の土を払い、躊躇いがちに白黒の敷物に上がる。と言っても、下半身の殆どはシートからはみ出してしまうのだが、本人は気にせず、もう一人は気付けない。
そのガサゴソという音を聞きながら、保冷バッグから手探りで取り出したゼリーを並べ、晨は言った。
「ゼリーです。一つは枇杷で、もう一つはミルクティーの。手作りなので味の保証はできませんが、よかったら食べてみて下さい」
二種類が三つずつ、計六個のゼリーが並ぶ。
それで大百足の不知火は、枇杷の方を手に取った。元百足の彼女にも見覚えのある果実だったし、磯矢家の庭にも生っていたので興味が湧いたのだ。それと、嗅ぎ慣れない紅茶の香りを避けた、というのもある。
プラスチックカップを手に、ためつすがめつすれば、開いたフタがぽとりと落ちた。
「スプーンです」
自分で配置した物なら手探りで分かる。前方に差し出せば、不知火が受け取った。
不知火は当然だが、スプーンなんぞ使ったことがない。が、使っている人間なら見たことがある。
見よう見まねで透き通ったゼリーをすくい、口許まで運んだ……は良いが、最後の詰めでしくじった。プルンとしたカタマリは銀の匙から零れ落ち、着物の衿元に滑り込む。
「ひゃあん!?」
白い肌に着地したゼリーは、胸の谷間……と呼ぶにはあまりにささやかな肉合いを、蜜の尾を曳いて流れ落ちた。
「ど、どうしたんですか!? 大丈夫ですか!」
唐突に上がった可愛らしい悲鳴に、驚いた晨が問う。
「う、うん、落としてしもうた。ばってん、だいじょうぶ」
捲し立てるように言うと、慌ててハンカチを探し出す晨をよそに、着物の裾から手を突っ込んで、水とも氷とも違う琥珀色のプルプルしたそれを、口に放り込む。
すると、肉よりも果実よりも柔らかな食感は蕩けるようで、その上、素晴らしく甘かった。
「あまい」
思った通りのことを口にする。
「甘すぎましたか?」
言葉足らずの感想に不安を覚えた少年が尋ねれば、
「うんにゃ、ちょうど良かよ。美味か」
という答えが返ってきて、年若い料理人はほっとした。それから、白いハンカチをそっと差し出し、言った。
「どうぞ、使って下さい」
躊躇いがちに汚れていない方の手を伸ばした不知火は、ハンカチごと、晨の手を握った。
――ああ、シンだ。
不知火の胸は満たされる。
先程も抱きしめてその身に触れたが、あの時は必死で頭が回らなかった。こうして改めて体温を感じれば、まざまざと思い知らされてしまう。
――さびしかった。
だから、夢心地だった。
山に晨が来た。住処の洞窟がすぐそこにある、鬱蒼とした領域に。不知火の家に。
蝉の鳴き止む昼時にありながら、楽園のように住み良いここに。晨の姿があるのだ。
夢ではないのか?
ふと、そんな考えが不知火の頭をかすめる。
単なる虫より大百足に変じてから、彼女は夢を見るようになった。全て、晨の夢だった。
夢ならば覚めないで欲しいと思った。
だがもし、これが夢ではなく現実のことならば……。
ずくり。
体が疼く。
不知火の上半身には黒い模様がある。ツタが這ったような、揺らめく炎のようなそれは、毒腺だ。
その毒腺が疼くのだ。疼いて疼いて、身を炙り、心を沸き立たせ……強い欲求として呼びかける。
――噛んでしまおうか?
いつの間にか不知火は、瞬き一つせず眼前の少年をまじまじと見つめていた。
虫けらだった頃ならば、噛めば最愛の少年を傷付けるだけだった。だが今の不知火は違う。本能で判るのだ、『噛めば、この子を自分のものにできるぞ』と。
いま、不知火は幸せだった。
晨と一緒にいられて、晨が作った物を食べて、それなのに姿を見られてはいない。
だが、いずれは自分の家に、家族の待つ家に帰るだろう。
晨が帰ればどうなる?
不知火はまた独りぼっちだ。
晨を返せばどうなる?
また、寂しくなるだけだ。狂おしいほどの、飢えや渇きにも似た苦痛に苛まれるだけだ。空虚で張り裂けそうになるだけだ。
次はいつ来てくれるのか分からない。
だからこれは、好機だった。
それに。
ひとたび噛んでしまえば、例え姿を見られたとしても、晨の心を捕らえたままでいられるかもしれない……。
不知火はじりじりと身を寄せ、少年を抱きすくめようと――。
「あ、の……不知火さん?」
晨だ。いつまでも手を握られたままだったので、訝しんで声をかけたのだ。その頬は羞恥の色に染まっている。
そして不知火は。
「あ、う、あ、う」
己がしでかそうとしたことに気付き、慌てて身を離した。彼女の方は、首から上が触角以上に赤くなっている。
「は、ハンカチ、使いませんか?」
「え? あ、う、うん、使う」
受け取ったハンカチを不知火は……意図が解らず困惑し、とりあえず匂いを嗅いだ。
期待した少年の体臭はせず、洗剤と柔軟剤の香りが鼻を刺激する。とっさに顔から離し、どうしようか迷った挙げ句……体温の上昇を余儀なくされ、首筋に汗を伝わせる少年に再度近付くと、その雫を拭き取った。
「え?」
そして、狼狽える晨を尻目にハンカチを鼻に寄せ匂いに満足すると、胸元に仕舞い込んでしまう。ちなみにそのハンカチは『貸す』のが目的であって『あげる』意図はなかったのだが。
それから今度は零さないようにとカップを口許に運び、中身を匙でかき込んだ。琥珀のゼリーと橙の果肉を頬張り、口内に満ちる滋味豊かな果汁を楽しむ。
そして触角を揺らめかし鼻をヒクヒクさせると、晨の次に気になっていた物について尋ねた。
「シン、そこの鞄に入っとると、なんね? 肉?」
「え? ……あ、ああ、おにぎりです。鶏そぼろと、高菜の。あの、食べますか?」
「良かと?」
「はい、もちろん!」
不知火の物欲しそうな声は、晨を喜ばせた。
こんな場所に住んでいて食事はどうしているのかと心配だったのだ。だから、この女性をお腹いっぱいにしてあげたかった。
保冷バッグから弁当箱を取り出し、蓋を開ける。中には、俵型で海苔の巻かれた握り飯が六つ、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「ごめんなさい、適当に握った物なので形も味も悪いと思いますが」
「うんにゃ、シンの作るもんやっけん、そがんことは無か」
かぶりを振ると、長い黒髪と赤い触角が揺れる。それからほっそりした手を伸ばし、肉の匂いがする握り飯を手に取り、かぶりつく。
仄かな塩味と、玄米のサクサクした食感の後に、甘辛い鶏そぼろがパラリと口内に散らばる。
その味に感動した不知火はたちまち平らげると、二つ目に手を伸ばす。
そうしてあっと言う間に鶏そぼろを食べ尽くし、今度は高菜の方に取りかかった。
香ばしい玄米の中には、胡麻油で炒められた高菜が詰まっており、鼻腔に広がるゴマの風味とシャキシャキした食感とが五感に強く訴える。
ピリリと辛めな味に少し驚いたが、人の舌を持つに至った不知火には、それもまた新鮮で、何より美味かった。
いっぽう、無言で食べる不知火の対面で、晨は奇妙な充足感に浸っていた。
父親との食事は、朝はバタバタしてゆっくり楽しむという感じではないし、夜は帰宅が遅いので先に食べるように言われている。休日くらいだろうか、家族の団らんがあるのは。
だが、二人とも弁舌豊かな方ではないので、結局お喋りに興じることはない。
勿論、今だって談笑している訳ではない。それなのに、こんなにも心が穏やかで、それでいて胸が躍るのは何故だろうと、不思議に思う。こんな、目隠しなんて滑稽な恰好の自分に、おかしくなって頬が緩む。
風が渡り、木の葉をさざめかせる。
肌を撫でる柔らかな感触に、被りっぱなしだった帽子を脱ぐと、涼やかな流れに髪を梳かれる。
ふと、鼻先をかすめた匂いは、おにぎりに使った塩ではなく、海の潮だと気付く。
そう言えばこの山の裏手は海だったなと、ぼんやり思う。
ここらの海は綺麗だと晨の父は言っていたが、そんなもの、見に行く心のゆとりはなかった。
目隠しで視界が暗かったからだろうか?
それとも、思わぬ安らぎの時を得たからだろうか?
晨の意識は、呆気なく眠りの淵に沈んだのだった――。
「――シン、シン」
優しい響きに、ゆっくり意識が覚醒する。
晨は、自分が何か柔らかで心地良い場所で寝ていることに気付いた。
それもそのはず、不知火が長い体を活かし、人体部の前面と百足の腹をベッドに見立て、少年を寝かせていたのだから。
未だに目隠しをしたままの晨には、それを悟ることはできないが。
「シン?」
下から囁きながら、少年の髪を、頬を、愛おしげに撫でる不知火は、別れを思いその顔は切なげで。仔猫のように、シンの頭に頬を擦りつける。
「え? ……わわっ、なになに!?」
状況こそ解らないが、何かとんでもない恰好をしている気がして、晨は跳ね起きた。
「あぁ」
悲しげな声を漏らし、不知火も起き上がる。
太陽は西の空に傾き、まだまだ明るくはあったが、きっと人間の子供は家に帰る時間だ。不知火は自分の気持ちより、愛する者を優先させた。
それは恋慕か、母性か、いかなる情によるものか。
「シン、荷物はこの鞄に詰めると?」
「あ……、いえ、また来ますので、その時に。よかったら使って下さい」
岩肌が剥き出しの岩窟を思い、晨は言う。レジャーシートでも、あればマシだろう、と。保冷バッグも、何かの役に立つかもしれない。予備ならあることだし。
いっぽう、そんな少年の気遣いよりも、『また来ます』という言葉こそ、岩屋の主を天にも昇る心地にさせた。
「本当ねっ!? また来ると!?」
「え? はい」
言質を取った不知火は、身をくねらせて喜びを表現する。
「もう夕方やけん、シンは帰らんば。見送るけん」
「有り難うございます。助かります」
目隠しをしたままの少年の手を取り、不知火は誘う。
洞窟から一直線に川へ向かった。
二人とも、何か話すでもなくお互いの体温を感じていた。
不知火の住処から離れると、ヒグラシの鳴き声が聞こえ始める。その音に混じり、二人の息づかいと草を踏む音が耳をくすぐる。
目が見えないことでこんなにも相手を感じるものかと、少年は新鮮な感動を覚えた。
晨は正直なところ、奇妙な縁で出会ったこの女性について、自分がいったいどんな感情を持っているのか、測り兼ねていた。
ただ一つ言えることは、『一緒にいて心地良い』ということだ。今はそれで充分だった。
相手に思いを寄せていると、ふと、不思議なことに気付く。
舗装などされていない獣道を歩いているというのに、つないだ手がほとんど上下しない。極めて安定した姿勢を保っているように感じた。
それから、何かを引きずるような音がする。それも、不知火が居る辺りだけでなく、後方からも。
――怪談話。
不知火と初めて会った時、出会った場所柄と、あまりの声の美しさに晨の脳裏をかすめた馬鹿な考え。
(もしも……、もしも不知火さんが幽霊か何かだったとしたら)
晨の胸中に不安が湧き上がる。
(きっと、姿を見られたらもう会えないんだ。鶴の恩返しみたいに)
突拍子もない、妄想の域を出ない考えではあったが、この場合は少年の推量もあながち大外れという訳でもない。
問題は、鶴ほど優雅な存在ではない、という部分だろうか。
と、不知火の足が止まる。
「川の手前まで来た。川沿いに下れば、あん石橋まで辿れるけん、そこからは分かるやろ?」
言葉の通り、水の音が木々の向こうから漏れ聞こえる。
「はい」
答えた晨も、ここまで導いた不知火も、どちらも手を離そうとしない。
しばらく無言が続いたが、空を仰いだ不知火は町を染める茜と黄金色が増した上天を認め、あぁ、と呻いた。
「……ほんならな」
弱々しく告げるが、言われた晨は意味が解らない。
「それ、どういう意味ですか?」
そう問われ、断腸の思いで手を離そうとしていた不知火は、きょとんとした顔になる。
「それ、転校初日にクラスメートからも言われたんですが、意味が解らなくて……」
その時の晨は、何も返せずにもごもごと口を動かし、そのまま教室を後にしたのだ。つまり、相手を無視する形になってしまった。悪意など全くなかったが、隔意はあった。そしてそれを後悔していた。
「意味な。意味は、暇乞いた」
「いとまごい?」
「別れの挨拶たい」
「別れの……挨拶……」
「ほんならっていう意味」
言って、何の説明にもなっていないことに気付いた不知火は、うんうん唸りながらしかめっ面で頭を働かせようと必死になる。
「だけん……別れる時に、ほんならなーって言うたら、ほんならねーって……ああっ、なんて説明すれば良かと!?」
空いた方の手で長い髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。
「……『それじゃあ』みたいな意味ですか?」
「そうっ、それ!」
言い当てた晨に破顔一笑し、自分の頭とは違い優しく撫でてやる。
それで、少年の頬も茜が差したようになった。
誤魔化すような咳払いをし、ついさっき学んだ挨拶を述べる。
「ほ、ほんなら、また」
「うん、ほんならな」
不知火はその場を去り、その音が聞こえなくなってから目隠しを外す。
目許に風が当たり、涼しくもあり、心許なくもある。
晨は、誰もいないのにぺこりと頭を下げると、帽子を被り川へ向かい。
それを、大百足の不知火は木陰からじっと見ていたのだった。
* * * * * * * * *
そこは、ここらで一番空に近い場所だった。
といっても、小さな山のこと。月も星も、遙かな天の頂きにあって、遠い。
朧の光が暗緑の天蓋を透かし、大百足を儚く照らす。
不知火は、千鳥格子の敷物に丸まっていた。
まるで、シダの海にぽつんとある浮島のような。
川に溺れ、小石につかまり流れに抗うような。
黒い着物から白い手を天に差し伸べ、一つだけ食べずにとっておいたゼリーを、星明かりにかざす。
琥珀の海に、橙色の果実が浮かんでいる。楕円を二つに割った形で、歪な半月を思わせる。
「シン……」
引き裂かれた半身を呼ぶように、切なげな声が零れ落ち、夜気に霧散した。
やがて。
胸元から白いハンカチを大事そうに取り出し、その頼りない布きれに鼻を埋め、目を閉じる。
哀れな大百足は、今日の思い出で心を慰めながら、眠りに落ちた。
今日もきっと、あの少年の夢を見ることだろう。
山の百足にも、町の人々にも、父と二人暮らしの子の元にも、等しく夜は訪れていた――。
* * * * * * * * *
「ほんなら、また明日ね」
とある中学校、弛緩と華やいだ空気が混然となった放課後の教室で、磯矢晨はそう口にした。
どれほど勇気を振り絞ったことか。緊張しすぎて思ったよりも声が出てしまったが、噛むこともどもることもなく、上出来と言えるだろう。
言われた方は一瞬ギョッとして、
「え? あ、お、おう。ほんならな」
と返した。
その少年は晨をいじめる中心人物だった。とっさに挨拶を返してしまい、顔を赤らめそっぽを向いてしまう。
室内が一瞬静まり返り――また、がやがやと騒がしくなる。
だが晨は、早鐘を打つ心音が耳許で響き、それどころではない。言うだけは言ったと、教室を後にしたのだった。
夏の空は、日が長い。
見上げれば、硝子を溶かし込んだみたいに煌めく青空が一面に広がり、島みたいに大きな雲が空に浮かんでいる。
そして晨は校門を飛び出すと、北へ続く道を一直線に駆けた。
バス停の白いベンチを通り過ぎ、
野菜の無人販売所を視界の端におさめ、
自転車で警邏中のお巡りさんと挨拶を交わし、
石橋に到着した時に、やっと西の空は仄かな黄金色を帯び始めた頃だった。
息が苦しい。体力なんてそんなに無い。途中から歩いてるのと同じくらいの速度だっただろう。
だが、息を整える間も惜しんで、晨は山を登り始める。
会いたかった。
知らせたかった。
お礼を言いたかった。
学校に行くのが苦痛じゃなくなるかもしれない。そんな予感が胸で膨らみ、空気の詰まった風船みたいに軽やかに、山を登ったのだった――。
16/06/15 22:24更新 / 赤いツバメと、緑の淑女。
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