連載小説
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会いたくて
「シン……」
 あれから何度かお日様が昇り下りした。
 けれど、シンは石橋を通らない。
「シン、シン」
 あの子は泣いていた。仔猫が死んで泣いていた。
 目が見えなくて、
 家に帰れなくて、
 自分が一番心細いだろうに。

 もしもウチがそうだったら?
 せっかく手に入れたこの目を、この鼻を、この耳を失ってしまったら? 虫みたいになってしまったら?
 こわい。
 でもあの子は自分のことじゃなくて、仔猫のことで泣いていた。
 知らない猫のために泣いていた。

 ウチは……なんにもできなかった。
 仔猫を助けることも。
 あの子が仔猫を助けたがっていると、理解することも。
 あの子の涙を止めることも。

 思い出すと、胸をかきむしりたくなる。
 思い出すまでもなく、あの子のことで頭はいっぱいだ。
 落ち着くはずの暗く湿った洞窟は、ウチの心をよけいに暗くする。
 雲一つない青空を見上げても、ウチの心は晴れない。
 東の斜面に行って広い海を見渡しても、夏の潮風になぜだか寒気を覚える。
 西の斜面で遠くを見れば、人の町が、人の匂いがウチをそわそわさせる。
 うろうろと、用もないのに山の中を這い回る。
 目につく蝉を片っ端から食べてみても、喉のつかえも、胸の苦しみも治らない。

 苛立ちに首を振り動かせば、鮮々とした何かが目の端に映った。そちらを見ると、木苺の実が二つ並んで実っている。あの子の目みたいに真っ赤だ。

 ふと思う。
 ここにはウチしかいない。
 ここにはシンがいない。
 昨日はいたのに、シンがいない。
 シンは今どうしているだろう。
 泣いていやしないだろうか?
 目はまだ赤いのだろうか?
 迷子になってないだろうか?
 お腹は空いていないのか?
 家族は一緒にいてくれるのか?

 ウチは、北の斜面に赴いた。
 シンが、毎朝そっちの方向からやって来るのだ。
 あの子が来て、あの子が帰って行く方角。
 シンの家のある方角。
 ウチは――。



   * * * * * * * * *



 お日様が町の向こうへ沈み、夜の虫どもが鳴き出して。それから、もう少し。逸る気持ちをなだめすかし、ウチはその時を待った。
 やがて――東の海から、半分に欠けた月が昇ってくる。
 もうその頃にはもともと少ない人の通りが完全に途絶え、飼い犬たちも寝静まっただろう頃合だ。
 ウチは、人間が使う『道路』へと這い出した。

「熱い」

 人間が通る、この黒っぽくてザラザラした硬い道は、山から見ていると陽炎が立ち上るくらいに熱い。しかも山の土と違い、日が沈んで涼しくなってもなかなか冷えない。人間はウチと違って体が弱いのに、どうして自分を痛めつけるようなことをするのだろう? これならば、靴を履かないと歩けない訳だ。
 ウチは人間の不思議さに首をひねりながら、手に持った物を確かめた。

 白い花だ。

 たまに山を登る物好きな人間がいて、そういった者達の中には、これを掘り返して持って帰る者もいる。
『夜香木(やこうぼく)』
 そういう名前の花らしい。
 人間の背丈を少し超す低木で、夏の夜にだけ花を咲かせる。子供達が河原で光らせて遊ぶ『花火』に似た花の形で、白くて細いのがパチパチ飛び散ったような形(なり)だ。
 これはかなり匂いが強く、甘い芳香を放つ。
 この香りに誘き寄せられた蛾などを、ウチは待ち構えて食べるのだ。先日などは蝙蝠を捕まえた。
 餌を獲るのに重宝するが……いかんせん、匂いが強すぎる。これが咲き乱れる辺りにずっといたら、鼻が利かなくなってくる。
 けれど。
 この夜香木は人間には好まれる。
 ウチは、これをシンに渡してやろうと思った。
 それは、頭の悪いウチにしてみれば妙案に思えて仕方がない。
 慎重に手折ったそれをことさら優しく握り直し、ウチは北へ続く道路を進み始めたのだった。



 畑の方からは、リィリィと高く鳴く虫たちが、田んぼの方からは、げぇこげぇこと低く鳴く蛙たちが、賑やかに自己主張している。
 いつもだったら片っ端から捕まえてたらふく食べてやるところだが、今はもっともっと大事なことがある。
 ウチは、たくさんある足をせっせと動かして、道を急ぐ。急ぐと言っても、あの子の匂いを辿りながらなので、全速力では走れない。立ち止まり、立ち止まり、ぽつぽつと建つ家をいちいち嗅ぎながら進む。持っている花のせいで匂いが紛れてしまうから、しっかり集中しないといけないのだ。

 今日は半月だが、星はたくさん瞬いている。
 明るい道を、ウチは行く。
 シンの家へ続く道を、ウチは行く。
 なんだか楽しい。
 ウチは山の前の道路なら出たことはあるが、こんな風に遠出をしたことはなかった。まるで、自分が人間にでもなったみたいだ。
 背後を振り向けば、月光の当たらない部分を真っ黒にした山が見える。今となっては小さな山だが、あれがウチの家だ。
 前を向けば、人家がまばらに建っている。人間の家。山と比べたら更にちっぽけな物だが、そのちっぽけな住処に『家族』で住んでいる。
 家族とはどんなものだろう? ウチも親から産まれたはずだが、親の記憶はない。家族もいない。
 シンの家族はどんなだろう? 父親がいて、母親はいないと言っていた。
「シン」
 意味もなくその名を口に出してしまう。シンの物ならなんでも好きだ。名前の、その音の響きがたまらなく胸を満たす。
 ああ、早くシンに会いたい。会って、この花を渡したい。気は急き、足をもっと速く動かしたいが、匂いを辿る必要があるから急げない。
 ああ、この花を渡したいのに、この花の匂いがシンの匂いを掻き消す。
 ウチは、一生懸命に集中しながら慎重に道を進む。

 すると、こちらへ近付く人の匂いが嗅ぎ取れた。残念ながら、シンじゃない。

 ウチは急いで道の脇へ寄り、そのまま道路の横っ面にへばりつく。
 この道路は周囲の田畑より一段高くなっている。その高さは、ウチが一直線にびろんと伸びれば隠れられる幅はあった。
 ウチは伸びきった蛇みたいに真っ直ぐになり、涸れた川のように静かに、息を潜める。
 しばらく待っていると。
 ぺた、ぺた、ぺた。
 足音が聞こえてきた。足に突っ掛ける種類の靴を履いているようだ。

(早う、通り過ぎてくれ)

 ウチは息を殺し――というか、息を止めてじっと待つ。そしてやがて……息が苦しくなってきた。
 自慢じゃないがウチの鼻は良い。だからかなり遠くから人間の接近を察知したのだが、その間ずっと息を止めていたら、苦しくなってきたのだ。
(早う、早う)
 人間は乗り物にも乗らず、ゆっくり歩いてくる。ただでさえ足が少なくて歩くのが遅いのに、この人間はことさら歩くのが遅い。
 その人間がウチの側を通り過ぎようとした時――ウチは、限界だった。

「ッはぁ〜〜〜! はぁ、はぁ、はぁ」

 堪えきれずに大きく息を吸ってしまえば、
「ぅおっ!? なんやっ、なんっ、うわ〜〜〜〜〜〜ッ!!」
 覗き込んできた人間と目が合ってしまい、その――中年の男だと思うが、悲鳴を上げながら、倒けつ転びつ、南の方へ一目散に走り去ってしまった。
「おっこらしょ」
 ウチは再び道路に這い上がる。
 ウチも目が合った時は驚いたが、向こうが先に悲鳴を上げたものだから、声を上げ損ねてしまった。
 そして、どうせ虫やら蛙やらが煩いのだから、息ぐらいしてたって聞こえはしなかったろうと、今さらながらに気付いたのだった。
「まあ、良かか」
 気を取り直し、先を急ぐ。

 そうして。

「ここから……シンの匂いのする……」
 他の家とさして代わり映えのしない、二階建ての家が目の前にはあった。
 塀などはない。
 匂いのする方にぐるりと回れば、庭と、そこに面した部屋とが見えた。
 庭には枇杷(びわ)の木が生えており、橙の実がたくさん生っていた。他にも、竿を横に渡した台が置いてある。これは濡れた服を引っ掛けて乾かす道具だ。
 ウチは、枇杷の木と台とを避けながら、部屋の前まで進んだ。
 硝子の壁と、その向こうに布が掛かっている。明かりは見えない。
 ウチは……いざ来てみたはいいが、どうやって花を渡すかの算段はつけていなかったことに気付き、呆然とした。
 会いたくて。
 ただ会いたくて。
 花を渡すのなんてただの口実で。
 住み慣れた山からおっかなびっくりここまでやって来て。
 きっとすぐそこにシンがいるというのに。
 ウチは、どうして良いのか立ち尽くしてしまう。
 自分の馬鹿さ加減と意気地のなさに、悲しくなる。

 見上げれば、夜空を雲が行く。
 自由に、なんの気兼ねも迷いもなく、空を渡って行く。
 それに比べて自分はどうだ?
 小さな山一つ這い回るのがせいぜいだったあの頃と比べ、こうやって難無く出歩ける体がある。悪いなりに考える頭と、拙いなりに喋る口とがあるのに、なんにもできやしないではないか。
 ……虫だった頃は良かった。こんなに苦しくなかった。こんなに悲しくなかった。ただ日々を生きていれば良かった。

 どれくらい星空を見上げていたのか。

 握った花は、手折った時より萎れていた。
 ウチはますます悲しくなって、もうこのまま帰ろうかとも思った。
 けれど。
 なんだか空の月を見ていると、あの『お月様』に意気地のなさを笑われる気がして。
 ウチは、意を決して最後の距離を詰め――足下に張り出した板張りへと、夜香木を置いた。

「にゃあ〜ん」
「わひゃ!?」

 側で猫の鳴き声が聞こえ、驚いて声を上げてしまった。あんまり緊張しすぎて、近付いたのに気付かなかったようだ。
 そして。

「……だれ?」

 シンの、声がした。
 遅れて、部屋の明かりが点く。
(シンに会える!)
 そう思うと、ウチは。
 ウチは――。



 あの子の目は赤くなかった。赤くないということは、見えるということだろうか?
 見えると困る。
 見られると困る。
 だってウチは人間じゃないから。
 人間じゃない姿、見られてしまう。人間じゃないこと、知られてしまう。
 それは――恐い。

 結局ウチは、会わずに帰った。
 とぼとぼと、背を丸めて山へと帰る。
 行きもゆっくりだったが、その何倍も、何十倍も時間をかけて帰る。
 行きはあんなに楽しかったのに、帰りはこんなにも楽しくない。
 虫も蛙も賑やかなのに、ウチの心は満たされなくて、でも満たされない“何か”が詰まっていて。
 ああ、これが、

「さびしい……」

 もうただの虫ではないウチが、『寂しいという気持ち』を知った日だった――。
16/06/10 21:14更新 / 赤いツバメと、緑の淑女。
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