起:ひそかに口づけ唾付けて
電車の扉が開くと、狭い鉄の箱の一体どこにそれだけの人数が収まっていたのだろうかという程の大勢の人間が吐き出されてくる。
土曜日の夜を行き交う人の量は多く、種類も様々だった。洋服や顔色の色鮮やかさに、目が回りそうになる。
様々な色が混ざり合った人間の渦を眺めているうちに、ふと、頭の中に疑問が浮かぶ。
人間が生きている。と言うのはどういう状態を指すのだろうか。
朝起きれば、ろくに飯も食わずに電車の時間に追い立てられるように家を出て、すし詰め状態の電車に揺られて会社へたどり着き、一日の大半を無理を言うお客からの罵声や、理解の無い上司からの嫌味に耐え続ける。
定時からずいぶんと時間が経った頃合いにようやく会社を出て、家に帰れば最低限の始末だけ付けて布団にもぐりこむ。
そして目を瞑ったと思ったら、もう次の日が始まっている。
最近では土曜さえ職場に通っている有様だ。日曜日は疲れ切って一日泥のように眠ってしまうため、自分の時間などまるで持てない。
楽しみと言えば、寝る前の僅かな時間にインターネットで動画を見たり、投稿小説を読んだりする事くらいだ。しかし誰とも趣味を共有できていないから、話をできる相手はいない。
こんな生活を送っている今の俺は果たして生きていると言えるのか。たった二百字にも満たない文字数で表現できてしまう無味乾燥な一日を繰り返す生活を送っていて、胸を張って生きていると言っていいのか。
確かに生物としては生きている。雨風を凌げる部屋もある。飢餓に苦しんでいるわけでも無い。生存してゆく条件としては恵まれているのかもしれない。
けれど、人としてそれで充分なのだろうか。
こんな事を考えられる程度の余裕はあるのだから、俺はまだマシな方なのかもしれないが、しかし、それでも……。
目の前を流れる人の波の中には、俺と同じようなくたびれはじめた勤め人から、まだ苦労を知らなそうな学生や、化粧の濃い派手な女、魂が擦り切れきってしまったような中年の男、有名私立の制服を身に付けた小中学生、何日洗ってないのか分からないような服を着た浮浪者然とした者まで、本当に多種多様な人間が居る。
俺より大変な人間など、それこそ掃いて捨てる程いるのだろう。
だが、相対的に自分が幸福なのかと聞かれれば、やはりそうとも思えない。
俺は自分の胸に手を当てる。みぞおちのあたりが鈍く痛んだ気がした。最近胃腸のあたりがずっとこんな調子だった。
人間、誰だって自分にとっての絶対的な基準となるのは自分の身体の感覚しかない。想像した他人の大変さや苦労など、自分の疲弊感や痛みの前では、吹けば飛んで行ってしまうような空虚なものでしかない。
……それとも、自分が弱く、浅ましい人間だから自分の事ばかり考えてしまうのだろうか。
ちくりと痛む胸をさすりながら、俺はベンチから立ち上がる。そろそろ電車に乗らなければならなかった。
電車に揺られる事数分。気が付けば景色が変わっていた。
周りの乗客は一変し、窓の外の明かりの数も大分減っている。いつの間にか立ったまま眠ってしまっていたらしい。
「あ」
目の前で扉が閉まってゆく。見覚えのある駅だと思えば、この駅こそ本来下りるべき駅だった。
俺はため息を吐きながら、ざわつく胸を落ち着かせる。
疲れているからだろう。働き始めてからこういったことが多々あった。だが、今回は一駅程度で済んでまだ運が良かった。これが終着まで行ってしまっていたら、きっと今日中には帰れなかっただろう。
次の駅で降りて戻りの電車の時間を確認すると、どうやら待っているよりは歩いて帰った方が早そうだった。
前にもこんな事があったので、帰りの道は分かっていた。盛り場の通りを歩き続ける騒がしい帰り路だが、短時間の我慢だ。それに、こんなに辛気臭い顔で一人で歩いている男を捕まえようとする客引きもそうはいないだろう。
どぎついネオンの明かりが目に染みて、俺は目を伏せて下向きに歩いた。
飲み屋街だけあって人は多かった。酒が入っているのだろう、皆どこか気持ちが大きくなっているようなそぶりで、声も大きかった。
目も耳も痛い。酒や煙草の匂いで鼻も辛くなってくる。
早く帰りたい。
俺は苦痛に耐えきれず、路地裏に入った。
通った事の無い道ではあったが、駅への方向を考えると近道になりそうな道だった。仮に遠回りになったとしても、静かで落ち着いて帰れるならそれで十分だ。
しばらく歩いてみるが、残念ながら近道と言うわけでは無いようだった。
ただ、ネオンも人気も少ない、静かな場所ではあった。
不思議と盛り場からさほど離れていないにも関わらず酒と煙草の匂いはしなかった。どこかで香でも焚いているのか、甘い匂いがした。
「お兄さん」
変声前の男の子のような、けれど明らかに若い女のものだと分かる、透き通るような声が聞こえた。
顔を上げると、まだあどけない顔をした若い娘がこちらを見ていた。高校生か、下手をすれば中学生でも通じるかもしれない。
丈の短い浴衣を着崩していて、細い肩やすらりと伸びた太ももが夜の闇の中に白く妖しく浮かび上がっている。
肩に掛かっているセミロングの髪は少し癖が付いていて、濡れているかのように黒く艶やかだった。浴衣からは柔肌が透けて見えていて、一瞬彼女はずぶ濡れなのかとも思ったが、どうやらそうでは無く、単純に着物が薄手のもので作られているというだけのようだった。
恐らくどこかの店の客引きだろう。と言う事は、よほどの店で無い限りは若く見えるだけで成人はしているのだろう。
客引きの相手は面倒だ。捕まらないうちに無視して通り過ぎよう。そう思っていたのだが、一瞬顔を見てしまったのが間違いだった。
目鼻立ちの通った、すっきりとした顔つきの美人だった。表情自体は大人の女のものにも関わらず、その顔つきにはしかし幼さも残っていて、なんとも言えない倒錯的な魅力があった。
中でも一番印象的なのは、大きいながらも切れ長の目だった。一度視界に入ってしまうと目を離すことができず、深い色の瞳に吸い込まれるように視線が合ってしまった。
「すっごく疲れてるように見えるよ? 大丈夫?」
「あ……。いや、大丈夫、です」
一杯飲んでいかない? とか、可愛い子居るよ? 等と言われたら無視も出来た。しかし予想もしていなかった気遣いの言葉に、本気で心配しているようなその表情に、俺は虚を突かれてとっさに何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「本当? 良かったら、うちの店寄って行かない? ……あ、違うよ? お酒とかのお店じゃなくて。ううん、お兄さんが飲みたければ出せない事も無いけど。えっと、うち、マッサージのお店なんだ。
そんな顔しないで。男の人だけじゃなくて、普通に女のお客さんだって通って来るお店だから。疲れも取れるだろうし、すっきりすると思うよ。
ちょっとうつぶせになっている間に終わるから、少し休んでいくくらいのつもりでさ。お兄さん、今にも倒れちゃいそうな顔してるし」
「お気持ちはありがたいのですが、本当に大丈夫ですので」
彼女には申し訳なかったが、どこかで休んでいるよりは早く帰って布団に横になりたかった。
気遣わし気な彼女の横を通り過ぎようとした、その時だった。
頭がぽぅっと浮かび上がるような、急に身体が軽くなったような感覚と共に、くらりと視界が傾いた。
「わっ。ほら、言わんこっちゃない」
温かい体温が押し付けられ、細い女の腕が俺の身体を支えていた。
倒れ掛かった、のか。おかしいな。こんな事初めてだ。
「もう、見てらんないよ。何て言っても連れて行くからね。心配しないで。行き倒れかかった人からお金取ろうなんて気は無いから」
行き倒れか。まさか、この現代で自分がそうなりかけるとは思わなかった。
「あなたは?」
「ボクはチコ。そこのお店の従業員だよ」
小さな看板が出ていた。可愛らしい丸文字で『総合マッサージ 骨抜き処』とある。小さくアビスグループ系列と書かれているが、有名な企業なのだろうか。
「もう少し待っててね。すぐに横にしてあげるから」
揺れる視界の中、見ず知らずの女性の一生懸命な表情が妙に目に焼き付いた。
彼女の勤めているという店は、路地裏の雑居ビルの中にあった。薄汚れたエレベーターにしばし揺られ、扉が開いた先に広がっていたのは雑居ビルとは思えないくらいに手入れの行き届いたフロアだった。一瞬、どこかの大企業にでも迷い込んでしまったのかと思った程だった。確かに、風俗店のようないかがわしさはまるでなかった。
店はエレベーターを降りてすぐのところだった。扉はガラス張りで、その先にはシックな木目調のカウンターや、各所に洒落たスタンドが置かれているのが見えた。高級店のような雰囲気に、俺は別の意味で場違いな場所に来てしまったような気分になる。
カウンターには髪の長い女性が立っていて、俺の姿を認めると目を丸くしてチコと俺を交互に見た。
「チコちゃん。その人どうしたの?」
「そこの道で倒れそうになっていたから連れて来たんだ。ボクの部屋使うから」
「それはいいけど……。チコちゃん、いいの?」
「ダメなら連れてこないよ。ありがとう、店長」
頭が朦朧としていたからか、彼女達のやり取りの意味が分からなかった。
俺は彼女に連れられるまま廊下を歩いた。疲れていたからだろうか、建物の大きさの割に廊下が随分と長く感じた。
チコの言う部屋に着いた時には、すぐにでも意識が飛んでしまいそうだった。だが、部屋の中を目にした瞬間、眠気が一瞬引いた。
「お疲れ様。ゆっくりしていいからね」
広い。部屋は八畳はありそうな程の広さがあった。
薄桃色の灯りがついた部屋には、マッサージやあかすりの為の道具が入っている棚や、飾り気のないベッドが置かれている。
「本当にここ、ビルの中なのか」
チコは悪戯っぽく笑った。
「ふふ。さぁ、どうかなぁ。まずは身体を締め付けているものを外さないとね。勝手にはじめさせてもらうけど、痛かったりしたら言ってね」
彼女は俺の鞄をバスケットに置くと、いきなり俺の衣服を脱がそうとしてきた。
あまりにも唐突ではあったが、その動きは妙に自然で、何だか脱がされるのが当たり前なような気分になってしまう。おまけに疲れも手伝って、抵抗する気になれなかった。
あっという間に背広を脱がされ、ネクタイやベルトを外され、ズボンやワイシャツを剥ぎ取られてパンツ一枚にさせられてしまう。
しかし仕事だとは言え、男と女の二人きりの部屋で彼女は一体どんな顔でこんな事をしているのだろうか。気になったが、髪に隠れて顔は良く見えなかった。
「そこのベッドに横になって。うつぶせでも仰向けでもいいから」
言われるまま、俺はひとまずうつぶせに寝転んだ。
横になった途端、どっと疲れが出てきた。身体が急に鉛のように重たくなり、もう立ち上がるのでさえ重労働に思えてくる。
おあつらえ向きにアイマスクを付けられた。
「それじゃあマッサージを始めるね」
「いや、休ませてもらえるだけでありがたいので、その、サービスは別に」
「ボクが個人的にしてあげたいんだけど、それでもダメ?」
「駄目って事は無いですけど」
「良かった。だったら、ついでに敬語は止めてもらえるとありがたいなぁ。ボク達はほら、お客と店員の関係じゃなくて、ボクが勝手にお兄さんを連れ込んで、ボクがしたくてマッサージするんだからさ。だから、何て言うのかな。友達、みたいな? いや、ただの他人の余計なお節介かな」
「けど、とても助かりまし……。助かったよ。ありがたかった。
それじゃあ、俺の事もお兄さんじゃなくて名前で呼んでくれ。俺の名前は厚司。赤川厚司だ」
「赤川厚司さんか。分かった。厚司さんって呼ばせてもらうね」
「ところでチコ、あかすりのマッサージの前にはお湯に浸かったりとか、そう言うのはいらないのか?」
「ボクの場合、別にいらないよ。勿体ないしね」
「勿体ない?」
くすくすとチコの笑い声が聞こえる。
「大丈夫。任せて。それじゃあ、特別なローションを塗っていくね」
言われるなり、背中にこれまで感じた事の無い奇妙な感触が押し付けられる。
少しねばつくような水分でたっぷりと満たされてはいるが、スポンジのような感触では無く、信じられない程に柔らかく、人肌のような心地よい温もりを持っていて、肌にぴったりとくっついてくる。
言葉で表すとナメクジのような表現になってしまうが、不快感は無く、むしろえも言えぬ心地よさがあった。
「これは一体何なんだ。何を塗っているんだ」
「企業秘密だよ。もっとも、知っても真似なんて出来ないけどね」
感触が身体中を走り回る。背中を這い回り、首筋に巻き付き、腕や脚を撫で回してきて、そして思わぬところにまで侵入してくる。
「くっ。そんな、ところまで?」
「うん。痛かったら言ってね」
感触は俺の唯一の下着の中にまで侵入してきた。尻にまでしっかりとローションを塗し、割れ目や脚の付け根にまで擦りつけてくる。
きわどい部分に心地よい感触が走り回る。
思わず息が荒くなる。
どんなに疲れていても反応はしてしまうらしい。あそこが主張し始めるので、俺は平常心を保つべく必死になった。
「……本当に疲れているんだね。ちょっとショックかも。自信無くなっちゃうなぁ」
「どういう、意味だ?」
「何でもないよ。それじゃあ背中側のあかすり始めるね」
先ほどの感触が再び背中に押し当てられ、少し強めに擦り付けられ始める。
あかすりと言うとざらざらした手袋のようなもので無理矢理に皮を擦り取るようなイメージがあったが、チコのあかすりは全然違っていた。
擦られても痛くも痒くもない。だが、皮膚が擦れて垢などの老廃物が擦り取られていくのだけは感触で伝わってくる。そして同時に、あかすりされたところがすっきりしていく。
単純に心地よかった。あかすりされるたびに疲れが取れてゆき、身体が軽くなっていく。
またぐらをされた時もただ単純に心地よくて、注意力が抜けて半分ほど勃ってしまった。
「これで半分かな。今度は仰向けになって」
言われるままに体勢を変える。
背中の時のように、腹に、胸に、あの感触が這い回る。
ローションを塗り、垢をこそぎ落としてゆく。
乳首やへそのまわり、特に腋の下への時間がやたらに長かった気がしたが、何だか気持ち良すぎて眠くなってきてしまって、何も言う気になれなかった。
股間がさっきより涼しい気もするが、それもきっと気のせいだろう。眠すぎて、もうどうでもよかった。それに、最初から裸で居るようなものなのだ。
「……ねぇ、厚司さん。特別サービス、してあげよっか?」
耳元を熱っぽい吐息がくすぐる。色っぽい声音が、俺の意識を溶かしてゆく。
「気持ちいい、事なのか?」
「これまでよりも、ずぅっと」
「じゃあ、お願いしようかな」
「ふふ。じゃあ始めるね」
ねっとりとした心地よい感触が、脚の付け根に絡み付く。お尻側から睾丸に巻き付き、肉棒の根元からさきっちょに向けてぐるぐると巻きついて来る。
あれ、俺はどうして、ペニスをマッサージをされているのだろう。そんな疑問が頭をよぎるが、すぐに霧散してしまった。
単純に気持ち良かったのだ。細かい事など、どうでもよくなってしまう程に。
軟体動物のような感触が、蛇のような動きで絡み付いてくる。けれども不快さは無く、穏やかな心地よさだけが沁み込んでくる。
その感触が、ペニスの余った皮の中に入り込み、皮を巻き上げてくる。一番敏感な部分を愛撫してくる。
「く、あ、あ、あ」
「綺麗にしてるんだね。でも一日分の汚れだけでも、あぁ……。凄い、たまんないよぉ」
俺の自身がとろけるような感触に包まれている。けれど一物はそれにとかされる事無く、むしろかつてない程に堅く大きく膨れ上がっていくようだった。
感触が蠢く。ペニス全体が揉みほぐされてゆく。
目隠しのせいで、何をされているのか分からない。暗闇の中、ただぐちゅぐちゅと粘っこい水音だけが聞こえるだけだ。そしてその音が響くたび、背筋が引き攣るような快楽が駆け抜けていく。
少しずつ身体の奥から何かがせり上がってくるのが分かった。
それは繰り返されるたびにより熱く、激しくなってゆく。最近、勃起する事さえほとんど無かったというのに、信じられない程の衝動と渇望が込み上げて来る。
死火山だと思われていた火山が、実は死んでおらず、ひそかにどろどろとしたマグマをぐつぐつと煮え滾らせていたかのような……。
「こんなのは、どう?」
感触が、鈴口から中に入り込んでくる。
感じた事の無い未知の感触。鮮烈な快感が腰から全身を貫いていく。
「あ、あああああっ」
噴火する。官能が爆発する。閉じていた隙間を押し広げて、一気に噴き上がってゆく。頭が真っ白になり、強烈な解放感が全身に広がる。
「あはっ。厚司さんの射精、すっごぉい」
言われて、俺はようやく自分が射精している事に気が付く。
久しぶりの射精はなかなか止まらなかった。どくんどくんと息子が脈打つ度に、俺の意識は少しずつ心地よい闇の中に落ちていった。そして……。
目が覚めた時には、見慣れた天井がそこにあった。
「あれ、帰って来てたのか、俺」
呟きながら、俺は布団から出る。いつの間にか独り言を漏らすようになっているのは、長らく独り者で居る人間が次第に身に付けてゆく悲しい習性のようなものだ。
身体を確かめると、いつもの寝間着姿だった。部屋も特に変化は無く、仕事着もクローゼットに下げてあった。
と言う事は、無意識のうちに家に帰ってきていて、わけのわからない夢を見ていたという事だろうか。
「まぁ、いい夢だった」
俺はパンツが濡れていない事を確認し、苦笑する。
「流石にこの歳で夢精はなぁ。……あれ?」
枕元に見慣れない物があった。拾い上げて見ると、名刺だった。
《総合マッサージ 骨抜き処 あかすり担当 チコ》
住所と連絡先が書かれていた。
『良かったら連絡ちょうだい。厚司さんなら歓迎するよ』
昨日の、チコの別れ際の言葉を思い出した。
そうだ。俺は確かに、マッサージ店に行ったのだった。
「……本当に俺、射精したのか。いやいや、流石にそれは無いよな。マッサージ中に眠って、いやらしい夢を見ただけ、だよな」
自信が持てない。けれど大人は、いくら気持ち良くても見ず知らずの人の前で射精などしないはずだ。きっとあれは夢だったのだ。
俺は冷や汗をかきながら、そう信じることにした。
とにかく寝直そう。久しぶりの休みなのだから、思う存分布団の中でだらだらして過ごそう。
俺は再び布団にもぐりこみ、至福の二度寝をするべく目を閉じた。
のだが……。
「……眠れない」
休日の朝と言えば、いつもならばすぐにでも微睡み眠りへと落ちてゆくのはずが、今日に限って目が冴えて眠る気になれなかった。
布団に横になっていても落ち着かず、ついには布団を抜け出し立ち上がる。
しかし布団から出たはいいが、さて何をすればいいだろうか。休みを寝て過ごす時間が長引きすぎたせいで、かつて自分が休みをどう楽しんでいたのかなんてもう覚えていない。
途方に暮れた俺の目に留まったのは、チコがくれた名刺だった。
土曜日の夜を行き交う人の量は多く、種類も様々だった。洋服や顔色の色鮮やかさに、目が回りそうになる。
様々な色が混ざり合った人間の渦を眺めているうちに、ふと、頭の中に疑問が浮かぶ。
人間が生きている。と言うのはどういう状態を指すのだろうか。
朝起きれば、ろくに飯も食わずに電車の時間に追い立てられるように家を出て、すし詰め状態の電車に揺られて会社へたどり着き、一日の大半を無理を言うお客からの罵声や、理解の無い上司からの嫌味に耐え続ける。
定時からずいぶんと時間が経った頃合いにようやく会社を出て、家に帰れば最低限の始末だけ付けて布団にもぐりこむ。
そして目を瞑ったと思ったら、もう次の日が始まっている。
最近では土曜さえ職場に通っている有様だ。日曜日は疲れ切って一日泥のように眠ってしまうため、自分の時間などまるで持てない。
楽しみと言えば、寝る前の僅かな時間にインターネットで動画を見たり、投稿小説を読んだりする事くらいだ。しかし誰とも趣味を共有できていないから、話をできる相手はいない。
こんな生活を送っている今の俺は果たして生きていると言えるのか。たった二百字にも満たない文字数で表現できてしまう無味乾燥な一日を繰り返す生活を送っていて、胸を張って生きていると言っていいのか。
確かに生物としては生きている。雨風を凌げる部屋もある。飢餓に苦しんでいるわけでも無い。生存してゆく条件としては恵まれているのかもしれない。
けれど、人としてそれで充分なのだろうか。
こんな事を考えられる程度の余裕はあるのだから、俺はまだマシな方なのかもしれないが、しかし、それでも……。
目の前を流れる人の波の中には、俺と同じようなくたびれはじめた勤め人から、まだ苦労を知らなそうな学生や、化粧の濃い派手な女、魂が擦り切れきってしまったような中年の男、有名私立の制服を身に付けた小中学生、何日洗ってないのか分からないような服を着た浮浪者然とした者まで、本当に多種多様な人間が居る。
俺より大変な人間など、それこそ掃いて捨てる程いるのだろう。
だが、相対的に自分が幸福なのかと聞かれれば、やはりそうとも思えない。
俺は自分の胸に手を当てる。みぞおちのあたりが鈍く痛んだ気がした。最近胃腸のあたりがずっとこんな調子だった。
人間、誰だって自分にとっての絶対的な基準となるのは自分の身体の感覚しかない。想像した他人の大変さや苦労など、自分の疲弊感や痛みの前では、吹けば飛んで行ってしまうような空虚なものでしかない。
……それとも、自分が弱く、浅ましい人間だから自分の事ばかり考えてしまうのだろうか。
ちくりと痛む胸をさすりながら、俺はベンチから立ち上がる。そろそろ電車に乗らなければならなかった。
電車に揺られる事数分。気が付けば景色が変わっていた。
周りの乗客は一変し、窓の外の明かりの数も大分減っている。いつの間にか立ったまま眠ってしまっていたらしい。
「あ」
目の前で扉が閉まってゆく。見覚えのある駅だと思えば、この駅こそ本来下りるべき駅だった。
俺はため息を吐きながら、ざわつく胸を落ち着かせる。
疲れているからだろう。働き始めてからこういったことが多々あった。だが、今回は一駅程度で済んでまだ運が良かった。これが終着まで行ってしまっていたら、きっと今日中には帰れなかっただろう。
次の駅で降りて戻りの電車の時間を確認すると、どうやら待っているよりは歩いて帰った方が早そうだった。
前にもこんな事があったので、帰りの道は分かっていた。盛り場の通りを歩き続ける騒がしい帰り路だが、短時間の我慢だ。それに、こんなに辛気臭い顔で一人で歩いている男を捕まえようとする客引きもそうはいないだろう。
どぎついネオンの明かりが目に染みて、俺は目を伏せて下向きに歩いた。
飲み屋街だけあって人は多かった。酒が入っているのだろう、皆どこか気持ちが大きくなっているようなそぶりで、声も大きかった。
目も耳も痛い。酒や煙草の匂いで鼻も辛くなってくる。
早く帰りたい。
俺は苦痛に耐えきれず、路地裏に入った。
通った事の無い道ではあったが、駅への方向を考えると近道になりそうな道だった。仮に遠回りになったとしても、静かで落ち着いて帰れるならそれで十分だ。
しばらく歩いてみるが、残念ながら近道と言うわけでは無いようだった。
ただ、ネオンも人気も少ない、静かな場所ではあった。
不思議と盛り場からさほど離れていないにも関わらず酒と煙草の匂いはしなかった。どこかで香でも焚いているのか、甘い匂いがした。
「お兄さん」
変声前の男の子のような、けれど明らかに若い女のものだと分かる、透き通るような声が聞こえた。
顔を上げると、まだあどけない顔をした若い娘がこちらを見ていた。高校生か、下手をすれば中学生でも通じるかもしれない。
丈の短い浴衣を着崩していて、細い肩やすらりと伸びた太ももが夜の闇の中に白く妖しく浮かび上がっている。
肩に掛かっているセミロングの髪は少し癖が付いていて、濡れているかのように黒く艶やかだった。浴衣からは柔肌が透けて見えていて、一瞬彼女はずぶ濡れなのかとも思ったが、どうやらそうでは無く、単純に着物が薄手のもので作られているというだけのようだった。
恐らくどこかの店の客引きだろう。と言う事は、よほどの店で無い限りは若く見えるだけで成人はしているのだろう。
客引きの相手は面倒だ。捕まらないうちに無視して通り過ぎよう。そう思っていたのだが、一瞬顔を見てしまったのが間違いだった。
目鼻立ちの通った、すっきりとした顔つきの美人だった。表情自体は大人の女のものにも関わらず、その顔つきにはしかし幼さも残っていて、なんとも言えない倒錯的な魅力があった。
中でも一番印象的なのは、大きいながらも切れ長の目だった。一度視界に入ってしまうと目を離すことができず、深い色の瞳に吸い込まれるように視線が合ってしまった。
「すっごく疲れてるように見えるよ? 大丈夫?」
「あ……。いや、大丈夫、です」
一杯飲んでいかない? とか、可愛い子居るよ? 等と言われたら無視も出来た。しかし予想もしていなかった気遣いの言葉に、本気で心配しているようなその表情に、俺は虚を突かれてとっさに何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「本当? 良かったら、うちの店寄って行かない? ……あ、違うよ? お酒とかのお店じゃなくて。ううん、お兄さんが飲みたければ出せない事も無いけど。えっと、うち、マッサージのお店なんだ。
そんな顔しないで。男の人だけじゃなくて、普通に女のお客さんだって通って来るお店だから。疲れも取れるだろうし、すっきりすると思うよ。
ちょっとうつぶせになっている間に終わるから、少し休んでいくくらいのつもりでさ。お兄さん、今にも倒れちゃいそうな顔してるし」
「お気持ちはありがたいのですが、本当に大丈夫ですので」
彼女には申し訳なかったが、どこかで休んでいるよりは早く帰って布団に横になりたかった。
気遣わし気な彼女の横を通り過ぎようとした、その時だった。
頭がぽぅっと浮かび上がるような、急に身体が軽くなったような感覚と共に、くらりと視界が傾いた。
「わっ。ほら、言わんこっちゃない」
温かい体温が押し付けられ、細い女の腕が俺の身体を支えていた。
倒れ掛かった、のか。おかしいな。こんな事初めてだ。
「もう、見てらんないよ。何て言っても連れて行くからね。心配しないで。行き倒れかかった人からお金取ろうなんて気は無いから」
行き倒れか。まさか、この現代で自分がそうなりかけるとは思わなかった。
「あなたは?」
「ボクはチコ。そこのお店の従業員だよ」
小さな看板が出ていた。可愛らしい丸文字で『総合マッサージ 骨抜き処』とある。小さくアビスグループ系列と書かれているが、有名な企業なのだろうか。
「もう少し待っててね。すぐに横にしてあげるから」
揺れる視界の中、見ず知らずの女性の一生懸命な表情が妙に目に焼き付いた。
彼女の勤めているという店は、路地裏の雑居ビルの中にあった。薄汚れたエレベーターにしばし揺られ、扉が開いた先に広がっていたのは雑居ビルとは思えないくらいに手入れの行き届いたフロアだった。一瞬、どこかの大企業にでも迷い込んでしまったのかと思った程だった。確かに、風俗店のようないかがわしさはまるでなかった。
店はエレベーターを降りてすぐのところだった。扉はガラス張りで、その先にはシックな木目調のカウンターや、各所に洒落たスタンドが置かれているのが見えた。高級店のような雰囲気に、俺は別の意味で場違いな場所に来てしまったような気分になる。
カウンターには髪の長い女性が立っていて、俺の姿を認めると目を丸くしてチコと俺を交互に見た。
「チコちゃん。その人どうしたの?」
「そこの道で倒れそうになっていたから連れて来たんだ。ボクの部屋使うから」
「それはいいけど……。チコちゃん、いいの?」
「ダメなら連れてこないよ。ありがとう、店長」
頭が朦朧としていたからか、彼女達のやり取りの意味が分からなかった。
俺は彼女に連れられるまま廊下を歩いた。疲れていたからだろうか、建物の大きさの割に廊下が随分と長く感じた。
チコの言う部屋に着いた時には、すぐにでも意識が飛んでしまいそうだった。だが、部屋の中を目にした瞬間、眠気が一瞬引いた。
「お疲れ様。ゆっくりしていいからね」
広い。部屋は八畳はありそうな程の広さがあった。
薄桃色の灯りがついた部屋には、マッサージやあかすりの為の道具が入っている棚や、飾り気のないベッドが置かれている。
「本当にここ、ビルの中なのか」
チコは悪戯っぽく笑った。
「ふふ。さぁ、どうかなぁ。まずは身体を締め付けているものを外さないとね。勝手にはじめさせてもらうけど、痛かったりしたら言ってね」
彼女は俺の鞄をバスケットに置くと、いきなり俺の衣服を脱がそうとしてきた。
あまりにも唐突ではあったが、その動きは妙に自然で、何だか脱がされるのが当たり前なような気分になってしまう。おまけに疲れも手伝って、抵抗する気になれなかった。
あっという間に背広を脱がされ、ネクタイやベルトを外され、ズボンやワイシャツを剥ぎ取られてパンツ一枚にさせられてしまう。
しかし仕事だとは言え、男と女の二人きりの部屋で彼女は一体どんな顔でこんな事をしているのだろうか。気になったが、髪に隠れて顔は良く見えなかった。
「そこのベッドに横になって。うつぶせでも仰向けでもいいから」
言われるまま、俺はひとまずうつぶせに寝転んだ。
横になった途端、どっと疲れが出てきた。身体が急に鉛のように重たくなり、もう立ち上がるのでさえ重労働に思えてくる。
おあつらえ向きにアイマスクを付けられた。
「それじゃあマッサージを始めるね」
「いや、休ませてもらえるだけでありがたいので、その、サービスは別に」
「ボクが個人的にしてあげたいんだけど、それでもダメ?」
「駄目って事は無いですけど」
「良かった。だったら、ついでに敬語は止めてもらえるとありがたいなぁ。ボク達はほら、お客と店員の関係じゃなくて、ボクが勝手にお兄さんを連れ込んで、ボクがしたくてマッサージするんだからさ。だから、何て言うのかな。友達、みたいな? いや、ただの他人の余計なお節介かな」
「けど、とても助かりまし……。助かったよ。ありがたかった。
それじゃあ、俺の事もお兄さんじゃなくて名前で呼んでくれ。俺の名前は厚司。赤川厚司だ」
「赤川厚司さんか。分かった。厚司さんって呼ばせてもらうね」
「ところでチコ、あかすりのマッサージの前にはお湯に浸かったりとか、そう言うのはいらないのか?」
「ボクの場合、別にいらないよ。勿体ないしね」
「勿体ない?」
くすくすとチコの笑い声が聞こえる。
「大丈夫。任せて。それじゃあ、特別なローションを塗っていくね」
言われるなり、背中にこれまで感じた事の無い奇妙な感触が押し付けられる。
少しねばつくような水分でたっぷりと満たされてはいるが、スポンジのような感触では無く、信じられない程に柔らかく、人肌のような心地よい温もりを持っていて、肌にぴったりとくっついてくる。
言葉で表すとナメクジのような表現になってしまうが、不快感は無く、むしろえも言えぬ心地よさがあった。
「これは一体何なんだ。何を塗っているんだ」
「企業秘密だよ。もっとも、知っても真似なんて出来ないけどね」
感触が身体中を走り回る。背中を這い回り、首筋に巻き付き、腕や脚を撫で回してきて、そして思わぬところにまで侵入してくる。
「くっ。そんな、ところまで?」
「うん。痛かったら言ってね」
感触は俺の唯一の下着の中にまで侵入してきた。尻にまでしっかりとローションを塗し、割れ目や脚の付け根にまで擦りつけてくる。
きわどい部分に心地よい感触が走り回る。
思わず息が荒くなる。
どんなに疲れていても反応はしてしまうらしい。あそこが主張し始めるので、俺は平常心を保つべく必死になった。
「……本当に疲れているんだね。ちょっとショックかも。自信無くなっちゃうなぁ」
「どういう、意味だ?」
「何でもないよ。それじゃあ背中側のあかすり始めるね」
先ほどの感触が再び背中に押し当てられ、少し強めに擦り付けられ始める。
あかすりと言うとざらざらした手袋のようなもので無理矢理に皮を擦り取るようなイメージがあったが、チコのあかすりは全然違っていた。
擦られても痛くも痒くもない。だが、皮膚が擦れて垢などの老廃物が擦り取られていくのだけは感触で伝わってくる。そして同時に、あかすりされたところがすっきりしていく。
単純に心地よかった。あかすりされるたびに疲れが取れてゆき、身体が軽くなっていく。
またぐらをされた時もただ単純に心地よくて、注意力が抜けて半分ほど勃ってしまった。
「これで半分かな。今度は仰向けになって」
言われるままに体勢を変える。
背中の時のように、腹に、胸に、あの感触が這い回る。
ローションを塗り、垢をこそぎ落としてゆく。
乳首やへそのまわり、特に腋の下への時間がやたらに長かった気がしたが、何だか気持ち良すぎて眠くなってきてしまって、何も言う気になれなかった。
股間がさっきより涼しい気もするが、それもきっと気のせいだろう。眠すぎて、もうどうでもよかった。それに、最初から裸で居るようなものなのだ。
「……ねぇ、厚司さん。特別サービス、してあげよっか?」
耳元を熱っぽい吐息がくすぐる。色っぽい声音が、俺の意識を溶かしてゆく。
「気持ちいい、事なのか?」
「これまでよりも、ずぅっと」
「じゃあ、お願いしようかな」
「ふふ。じゃあ始めるね」
ねっとりとした心地よい感触が、脚の付け根に絡み付く。お尻側から睾丸に巻き付き、肉棒の根元からさきっちょに向けてぐるぐると巻きついて来る。
あれ、俺はどうして、ペニスをマッサージをされているのだろう。そんな疑問が頭をよぎるが、すぐに霧散してしまった。
単純に気持ち良かったのだ。細かい事など、どうでもよくなってしまう程に。
軟体動物のような感触が、蛇のような動きで絡み付いてくる。けれども不快さは無く、穏やかな心地よさだけが沁み込んでくる。
その感触が、ペニスの余った皮の中に入り込み、皮を巻き上げてくる。一番敏感な部分を愛撫してくる。
「く、あ、あ、あ」
「綺麗にしてるんだね。でも一日分の汚れだけでも、あぁ……。凄い、たまんないよぉ」
俺の自身がとろけるような感触に包まれている。けれど一物はそれにとかされる事無く、むしろかつてない程に堅く大きく膨れ上がっていくようだった。
感触が蠢く。ペニス全体が揉みほぐされてゆく。
目隠しのせいで、何をされているのか分からない。暗闇の中、ただぐちゅぐちゅと粘っこい水音だけが聞こえるだけだ。そしてその音が響くたび、背筋が引き攣るような快楽が駆け抜けていく。
少しずつ身体の奥から何かがせり上がってくるのが分かった。
それは繰り返されるたびにより熱く、激しくなってゆく。最近、勃起する事さえほとんど無かったというのに、信じられない程の衝動と渇望が込み上げて来る。
死火山だと思われていた火山が、実は死んでおらず、ひそかにどろどろとしたマグマをぐつぐつと煮え滾らせていたかのような……。
「こんなのは、どう?」
感触が、鈴口から中に入り込んでくる。
感じた事の無い未知の感触。鮮烈な快感が腰から全身を貫いていく。
「あ、あああああっ」
噴火する。官能が爆発する。閉じていた隙間を押し広げて、一気に噴き上がってゆく。頭が真っ白になり、強烈な解放感が全身に広がる。
「あはっ。厚司さんの射精、すっごぉい」
言われて、俺はようやく自分が射精している事に気が付く。
久しぶりの射精はなかなか止まらなかった。どくんどくんと息子が脈打つ度に、俺の意識は少しずつ心地よい闇の中に落ちていった。そして……。
目が覚めた時には、見慣れた天井がそこにあった。
「あれ、帰って来てたのか、俺」
呟きながら、俺は布団から出る。いつの間にか独り言を漏らすようになっているのは、長らく独り者で居る人間が次第に身に付けてゆく悲しい習性のようなものだ。
身体を確かめると、いつもの寝間着姿だった。部屋も特に変化は無く、仕事着もクローゼットに下げてあった。
と言う事は、無意識のうちに家に帰ってきていて、わけのわからない夢を見ていたという事だろうか。
「まぁ、いい夢だった」
俺はパンツが濡れていない事を確認し、苦笑する。
「流石にこの歳で夢精はなぁ。……あれ?」
枕元に見慣れない物があった。拾い上げて見ると、名刺だった。
《総合マッサージ 骨抜き処 あかすり担当 チコ》
住所と連絡先が書かれていた。
『良かったら連絡ちょうだい。厚司さんなら歓迎するよ』
昨日の、チコの別れ際の言葉を思い出した。
そうだ。俺は確かに、マッサージ店に行ったのだった。
「……本当に俺、射精したのか。いやいや、流石にそれは無いよな。マッサージ中に眠って、いやらしい夢を見ただけ、だよな」
自信が持てない。けれど大人は、いくら気持ち良くても見ず知らずの人の前で射精などしないはずだ。きっとあれは夢だったのだ。
俺は冷や汗をかきながら、そう信じることにした。
とにかく寝直そう。久しぶりの休みなのだから、思う存分布団の中でだらだらして過ごそう。
俺は再び布団にもぐりこみ、至福の二度寝をするべく目を閉じた。
のだが……。
「……眠れない」
休日の朝と言えば、いつもならばすぐにでも微睡み眠りへと落ちてゆくのはずが、今日に限って目が冴えて眠る気になれなかった。
布団に横になっていても落ち着かず、ついには布団を抜け出し立ち上がる。
しかし布団から出たはいいが、さて何をすればいいだろうか。休みを寝て過ごす時間が長引きすぎたせいで、かつて自分が休みをどう楽しんでいたのかなんてもう覚えていない。
途方に暮れた俺の目に留まったのは、チコがくれた名刺だった。
15/05/02 22:59更新 / 玉虫色
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