連載小説
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承:舌で味わいむしゃぶりつくし
 週に一度の休日である日曜日。出勤の時間を気にしなくていい安らかな眠りから目覚めて二時間後、俺は駅前の公園で人が来るのを待っていた。
 起きた時には一日ダラダラと寝て過ごしたいと考えていたというのに、どうして自分は外に出ているのだろうか。週にたった一度の、緊急の日曜出勤も考えればもっと数の少なくなる貴重な休日に、なぜ自分から呼びつけてまで人に会おうとしているのだろうか。
 自分でも自分が分からなかった。自分らしくないとも思った。理由を答えなければならないとすれば、たまたま今日はそういう気分になってしまった、とでも言うしかない。
 不気味なくらいに身体の調子が良くて、じっとしていると逆に気分が落ち着かなかったのだ。何かしたくていてもたってもいられずに、たまたま目についた物から思い付いたアイデアをよく考えもせずにそのまま行動に移してしまった。本当にただそれだけだった。
 考えてみればこんな事をしてしまって良かったのかとも思ってしまうのだが、しかし既に連絡を入れてしまった以上、時すでに遅しだ。
「あ、おーい。厚司さーん」
 声のした方を振り向くと、俺の待ち人が遠くから手を振りながらこちらに駆けてくるのが見えた。
 へそ出しのちびTの上に半袖の薄手のパーカーを羽織り、下はホットパンツだけと言う少し露出過多の格好。しかし背が低めで身体もほっそりとしているせいか、扇情的と言うよりは、どちらかと言えば健康的で活発な色香を感じさせる。
 今日は癖毛を一つに束ねて結い上げていて、衣装も髪型も昨夜とは違っていてまるで別人のようだった。
 半袖から覗く白い肌が眩しい。昨夜も思った事ではあったが、改めて日の光の下で見ると彼女の肌は本当に艶やかで美しかった。まつ毛も長く、目鼻立ちもはっきりとしていて、都会でもなかなか目に掛かれないような美形だった。
 彼女、チコは俺の元までたどり着くと、息を整えながらにっこりとほほ笑む。
「ごめんね。待たせちゃった?」
「いや、俺も今来たところだよ。非番のところを呼びつけてしまって悪かった」
「ううん。気にしないでよ。でもまさか翌日に連絡貰えるなんて、嬉しいなぁ」
 朝、目が冴えて二度寝が出来なかった俺の目に留まったのが、チコにもらった名刺だった。
 それがきっかけで昨日のお礼がちゃんと出来ていなかった事を思い出し、翌日こんなに快調になってしまうマッサージに感動した事も伝えたくて、彼女に会って話がしたくなってしまったのだった。
 そして、気持ちが昂っていたのだろう、俺は思い付くまま彼女の連絡先に電話をしてしまっていた。
 あいにくと彼女は今日は店の当番では無かったが、他に予定も無いとの事だったので、こうして街中で会う事にしたのだった。
「それじゃあ、どうする? ゆっくり話が出来るところの方が俺としてはありがたいが」
「じゃあ、ちょっと早いけどお昼ご飯にしない? ボク、ちょっとお腹が空いちゃって」
 俺は時間を確認すべく、駅前の大スクリーンを見上げる。
 何のCMなのか、スクリーンには鳥の翼を持つハーピーや、獣耳の狐娘や猫娘、下半身が蛇になっているラミアの女の子なんかが映って、楽しそうに何かの紹介を行っていた。
 元はゲームかアニメかマンガか、詳しくはよく知らなかったが、魔物娘と言う奴らしい。最近ではテレビやネットでもちょこちょこと見かけていた。
 ともかく時間の確認が先だ。見れば、確かに昼食には少し早かった。だが今のうちに飯の食える店に入っておいた方が混み出す前でいいかもしれない。
「そうしよう。何か食べたいものはあるか?」
「えっと、その、焼き肉とか」
 チコはちょっと恥じらいながら、上目づかいで俺を見た。
「あは、初めてのデートで焼き肉なんてあんまりかな。でも、すっごく美味しいお店知ってるんだ。スタミナも付くし、厚司さんももっと元気になれると思うし」
 俺はちょっと身体が熱くなってしまう。考えてみれば、男と女が二人っきりで会っているのだからデートと言えないわけでは無い。いや、彼女がそのつもりで来たのであれば間違いなくデートだろう。
 そう思うと何だか急に緊張してしまう。
「だ、ダメ?」
「い、いや。いい。そこにしよう」
 デート? 俺なんかが? 毎日仕事に追われるばかりで、女性との接点も無くなって久しいこの俺が? こんな可愛い女性と? 偶然に出会った翌日に?
 気後れしてしまう。チコは、俺が出会ってきた中でも多分一番可愛い女性だ。優しいし、明るい。まだそこまで言葉を交わしたわけでは無いけれど、話していると楽しい気分になってくるし、そう簡単に出会えない"いい女"と言う奴だ。
 俺なんかでは釣り合いが取れない。あと下世話な話だが、幼すぎる容姿の彼女を連れ回すとなると、何だか援助交際か何かと思われそうで……。
「急にどうしたの? あ、もしかしてデートだなんて思って無かったとか?」
「そんなわけ無いだろう? 俺は君に逢いたくて連絡をしたんだ。れっきとしたデートだよ。……デートでいいんだよな?」
 まるで別人がしゃべっているかのように、思い浮かんだ軽口がすらすらと口から流れ出た。
 最後に冗談めかすと、チコはにやりと笑って身を寄せてきた。
「もちろんだよ。ボクと厚司さんの初デート。ボク、すっごくどきどきしてるよ」
 腕を組んで、手を握ってくる。指を絡めた恋人つなぎと言う奴だ。
 彼女の指は思っていた以上に細く、そして柔らかくて温かかった。
「あっちだよ。じゃあ、いこっか」


 連れて行かれたのは駅前の大通りから脇道に入っていった先の、裏通りにある小さなお店だった。
 自分の記憶では二三か月前辺りまではラーメン屋だったような覚えがあったが、以前からここは店舗の入れ替わりが激しかったので、恐らくそういう事なのだろう。
 店の看板を見上げて、俺は何とも言えない気分になる。
 『肉欲の宴』
 ポップな文字の周りには擬人化されデフォルメされた牛や豚、鳥が描かれている。お肉や魚介のイラストも描かれているのだが、流石にこの店名でウィンナーソーセージやアワビをそう言う配置で載せるのはどうかと思ってしまう。
「こんにちはー」
 先に暖簾をくぐってしまったチコに慌てて付いて行く。店内は焼肉屋にしては驚くべきほどに清潔ではあったが、それ以外には特に変わったところの無い普通のお店だった。
「いらっしゃいませ。あ、チコちゃんじゃない。珍しいわね、こんな時間に」
 フロアに出ている店員は二人いて、どちらも女性だった。
 どうやら看板の擬人化キャラクターはマスコットか何かのようで、店員の内片方は豚を模したような耳と尻尾で仮装し、もう片方は牛の角を頭に乗せて白と黒のまだら模様の毛皮のズボンを穿いていた。
 店の制服はノースリーブで胸元のざっくり空いた露出度の高いもので、さらにぴっちりとしていてボディラインがはっきりと分かってしまうような形をしていた。エプロンを付けていなかったら、そういうお店だと誤解しかねない。
「えへへ、今日はボーイフレンドとデートに来ちゃったんだぁ」
 ボーイフレンド。まぁ、男友達と言う意味では間違ってはいないか。
「いいなぁー。チコちゃん、彼氏出来たんだぁ」
 牛の装いの店員がおっとりとした口調で話し掛けてくる。
 チコは、まんざらでもない顔で頬を染めていた。
 真面目に否定するのも、何だかチコに悪い気がした。結果、俺はまたすらすらと軽口を叩いていた。
「どうも、ボーイフレンドです。昨日出会ったばかりですが」
「やだぁ。運命のお相手さんねぇ」
「そう言う事。だから、手を出しちゃダメなんだからね」
 チコが所有権を主張するかのように抱きついて来る。控えめではあるものの、胸の柔らかさが押し付けられてどぎまぎしてしまう。
「わかってるわよぉ」
「はいはいごちそうさま。……って、これから食べていくんでしょうが。奥の席が空いてるから、好きなところに座って」
 案内もそこそこに、俺達は店の奥に向かった。
 店の奥は一人客や二人客用の席になっていた。パーテションでしっかり区切られているので、独りや恋人同士で食べに来たとしても周りの視線を気にせずに自分の世界に浸れるようだ。
「ここもうちのグループのお店の一つなんだって。あ、でも身内びいきってわけじゃなくて、本当に美味しいんだよ?」
 チコがメニューを渡してくれる。値段を見て、俺は驚いて目を丸くした。
 高いからでは無い、逆に安すぎたからだ。一般のチェーン店の五分の一程度の値段でしかない。こんな低価格でお店がやっていけるのだろうか。
 それとも、それなりの物が出てくるというのだろうか。だが、チコがおすすめして連れてくるくらいなのだ、そんな事は無いとは思うが……。
 まぁ、品物が来てみない限りは分からないだろう。
「おすすめはこの魔界豚のトントロ。夜も眠れなくなるくらいに美味しいよぉ」
 聞いた事の無い品種の豚ではあったが、まぁ知らない銘柄等珍しい事でも無い。
 他にも、魔界産と言う肉や野菜がいくつもあるようだった。恐らく、魔界と言うのは店のブランドのようなものなのだろう。
 店名が枕詞に付いているメニューも多く『肉欲の盛り合わせ』や『肉欲スタミナ増強セット』、『宴の為の精力増強コース』、『肉欲のキノコ食べ比べ』などなど、注文するのにはちょっとした勇気がいりそうだった。
「それじゃあ、とりあえず肉欲の盛り合わせを二人分と」
「精力増強コース、行っちゃう?」
「そうしようか」
「ふふ。今夜は寝かせないよ。……なぁんてね」
 そんなセリフも思わず出てしまいそうなメニューだ。
 俺は店員さんにセクハラまがいの注文をするべく、呼び出しボタンを押した。


 焼肉屋の良し悪しとは何だろうか。
 肉の質だろうか。厚さや切り方だろうか。タレの味付けだろうか。値段設定だろうか。あるいは、店員の接客態度や、店内の空調なども判断基準として加わって来るだろうか。
 俺はもともと、あまり焼肉屋に来ることも無く、食へのこだわりもそれほどでは無い。けれどそんな俺でもこの店の焼肉の味は他の店とは段違いで美味い物だと分かった。これまで食べてきた焼肉の中で、間違いなく一番の味だった。
 肉は全てルビーのように美しく、焼きすぎても硬くならず食べやすい。味わいもしっかりしていて、風味豊かでいて、しかし臭みには感じない。
 脂の乗った肉を焼けば肉汁が溢れて、舌の上にまったりとした悦びが広がる。けれどそれでいて後味はしつこすぎず、食べれば食べる程にもう一枚食べたくなってしまい、気付けば何枚でもぺろりと食べてしまっている。
 ただ塩を振って食べても十分に美味かったが、タレがまた絶品だった。甘辛のタレと言えば焼肉屋に定番ではあるが、すっきりした甘みも香り立つ辛みも、他の店では味わった事の無い味だった。
 塩ダレや胡麻ダレ、色々なタレもあった。そのどれもがこれまで食べてきた味とはわずかに違っていて、しかしそれが決定的な差となって味を一段と高めていた。
 食べ進める事に夢中になるあまり、気が付けば最初に頼んだ皿は空になってしまっていた。
「すみませーん。肉欲盛り合わせとスタミナセット追加で。あ、あと、まといサラダと明緑野菜盛り合わせ、それにー、潮吹き海の幸盛り合わせもお願いしまーす」
 すかさずチコが注文してくれた。が、何だか色々と突っ込みたくなってしまう。
「ん、どうしたの? いっぱい食べる女の子は嫌い?」
 先読みされてしまった。まぁ、気になったのは主にそこでは無いのだが。
「確かに良く食べるなぁとは思ったけど、たくさん食べたくなるくらいには美味いし、健康的でいいんじゃないか? けど、食べる割にはスタイルがいいんだな」
「えへへ。でも、おっぱいはなかなか大きくなってくれないんだよねぇ」
 チコはシャツを引っ張り、胸のラインを強調させる。
 俺は目のやり場に困ってしまい、けど気にはなって、ちらちらと横目で見てしまう。確かに店員の二人よりは控え目ではあったが、決して無い事は無かった。
 と言うか、さっき押し付けられたばかりだった。彼女の柔らかさが蘇り、赤面しそうになる。
「ま、まぁ、大きければいいというわけでは無いんじゃないか? 好みもあるし」
「そうかなぁ。男の人って大きいおっぱいの方が好きなんじゃないの? 厚司さんだって、さっき二人のおっぱいちらちら見てたじゃない」
「いや、あれは男として条件反射的にというか……。別に大きいから見てしまったわけでは無いぞ。おっぱいとかパンツにどうしても目が行ってしまうんだよ、男って言う生き物は」
「ふぅん。じゃあそういう事にしておくとして、厚司さんは大きいのとボクくらいのとどっちが好みなのさ」
「んー。チコくらいのが好みかな。大きすぎず小さすぎず、形も感度も良さそうだし」
「口が上手いなぁ。満点をあげよう。ご褒美に今度見せて触らせてあげるね」
 チコは胸を張る。あながち冗談やお世辞と言うわけでは無かったが、まぁ、そう言うノリで許してくれる子なので良しとしよう。
「お料理お持ちしましたー。肉欲、増強、潮吹きセットに、サラダに野菜ね。
 盛り上がってるみたいねぇ。……ねぇ彼氏さん。巨乳だっていい物よ? 今度こっそり教えてあげようか」
「もう。色目使わないでって言ったでしょ」
「冗談だって。人の男に手なんて出さないわよう。じゃあ、また頼むときは声かけてね」
「うん。ありがと」
 個人的にも付き合いがあるのだろう。言い合ったりしている割には仲が良さそうだ。
「ここは海鮮も美味しいんだよ。あと、このまといサラダなんだけど、サラダじゃなくて塩だけでも美味しくてね、やみつきになっちゃうんだぁ」
 と言うか、さっきから気になっていたが、チコも店員さんもメニュー名には何とも思っていないのだろうか。肉欲だの、潮吹きだの、普通女性ならば躊躇うものだが。
 知識が無いのだろうか。いや、こんな猥談をしている子が知らないわけがない。と言う事は耐性があるのか、あるいは、……まぁ、女性同士の下ネタの方が過激だとも聞くし。
「ほら、ぼーっとしてないで食べて食べて。はい、あーん」
 言われるままに空けた口に、キャベツのような野菜が一切れ放り込まれる。
 肉厚の葉はしゃきしゃきしていて歯ごたえも良く、ドレッシングの味が野菜のほのかな甘みに絡んで美味しかった。
 何か言わなければいけない事があった気がしたのだが、結局また料理の味に感動して、俺は食べる事に集中してしまうのだった。


「ふぅ、食った食った」
「食べたねぇ。ね、美味しかったでしょ」
「あぁ、思っていた以上だった」
 昼食を終えた俺達二人は、一度駅前の公園に戻って一休みをしていた。
 心地よい満腹感と、ぽかぽかとした陽気に、わずかな気怠さ。このまま目を瞑って横になったら、さぞ気持ち良く眠れる事だろう。
 こんな気持ちはいつ以来だろうか。考えてみれば、誰かと美味い飯を食べたのも、何だかとても久しぶりのような気がする。
 いつもは休みの日であっても、面倒を惜しんで弁当や冷凍食品を買ってきて食べてしまっているし、平日など言わずもがなだ。
「ねぇ。次は何しよっか」
「ん?」
「昼寝なんてダメなんだからね。せっかくのデートなんだし、ボクもっと厚司さんと色々な事したいんだから。……それとも、こんな真昼間っからホテルに入っちゃう?」
 にやにや笑いのチコに、俺は冗談で応じる。
「チコとホテルに入ったら、逆に起きてしまいそうだよ。それに、やっぱりまだちょっと早いんじゃないか? 今からホテルに入ったら、それこそ夕方には疲れ切って眠ってしまうよ」
「そうなったらボクが幾らでも元気にしてあげるさ。二人で居る間は寝かせないよ。でもまぁ、確かにちょっと早いかもね。
 じゃあ、眠気も出て来たところで、刺激的なところに行ってみない?」
「刺激的なところ?」
 チコが身を寄せ、俺の耳元に囁きかける。焼肉の匂いの中に、確かに彼女の甘い体臭がそこにあって、そのギャップに何だかとてもそそられてしまう。
「暗くて、胸がどきどきして、思わず隣の人を抱き締めたくなるような、そんな場所」


 二十分後。俺はチコに抱きつかれながら、真っ暗な細い道を歩いていた。
 近くには朽ちかけた墓石が並んでいる。破れかけた提灯に導かれて道を進んでいくと、着物姿の一人の女性が立っていた。
『あの人はどこ……。私の愛する、あの人は……』
 そんな風に呟きながら振り返った彼女の顔は半分血で染まっていて、身に纏う白い着物も、血しぶきが飛んだようにまだら模様になっていて。
 見れば、胸元に生々しい大きな刀傷が……。
「きゃあああぁぁっ」
 と、俺が背筋の寒さを感じるか感じないかといったところで、チコが先に限界を迎えた。
 叫びながら走り出した彼女に引きずられて暗い空間を進んでゆくと、今度は大正浪漫を思わせる古びた通りにたどり着く。
 木製の街灯の明かりの下に、黒猫を連れた女の子が佇んでいた。
 騒ぎながらやってきた俺達に気付いたのだろう、後ろを向いていた彼女がふっとこちらを振り返る。
 そして、そのあどけない顔が傾き。
 ころり、と首が落ちて転がる。
「ひっ」
 隣から息を飲む音が聞こえた。けれど俺自身もあまりの光景に飲まれてしまって、動く事さえ出来なかった。
 街灯の明かりをスポットライトのように浴びながら、女の子は首を探すかのように両手を前に突き出しながらこちらに近づいてくる。
 と、急に足元に何かが触っているのを感じて、俺は反射的に視線を落とした。
 黒猫が俺の足に身体を擦りつけていた。女の子の生首をくわえた黒猫が。
「お兄さん、私の首、返して」
 女の子と、目が合った。
 今度は俺が走り出していた。
 チコは涙目になっていた。俺自身も怖くて堪らなかったが、握りしめたこの手だけは絶対離すものかと強く思った。
 そのあとは、何が何だかよく分からなかった。急に洞窟やピラミッドみたいなところにたどり着いたかと思えば、蛇女達に襲われかけたり、洋館のようなところでやっと一息つけるかと思えば、セットだと思っていた銅像が動いて襲って来たり、吸血鬼に蝙蝠や狼をけしかけられたり。
 最後になぜか蛇の女王のような怪物に祝福されて、チコが行きたがっていたお化け屋敷『モンスター・ガールズ・ハウス』のアトラクションは終了した。


「あー、楽しかったぁ」
 チコは指先で小さな香水瓶をもてあそびながら、満足げな笑顔を俺に向ける。
「プレゼントまでもらっちゃったし」
「まぁ、お互い様だけどな」
 テーブルの上には、俺が貰った香水瓶も置かれている。デートの途中で立ち寄った雑貨屋でお互いの為の香水を買って、プレゼントし合ったのだ。
 香水瓶から視線を少し上げれば、窓に沿って置かれたテーブルの向こうに街の景色が広がっている。
 日が落ちたばかりの空はすみれ色から藍色に染まり始めていて、暗くなり始めた空には星が、地上には街の明かりが灯り始めていた。まるで二人で夜空を飛んでいるような幻想をいだしてしまう。流石は駅ビルの最上階にあるだけあった。
「お待たせいたしました。陶酔のマティーニと、乳海の酒精です」
 ノックと共に店員が入ってきて、頼んだお酒を置いて、静かに一礼して帰っていった。
 メイド服、と言うよりは給仕服と言った方がいいだろうか。シックな衣装を身に纏った女性店員だった。お店のテーマでもあるのか、店内は全て中世の屋敷を思わせるような調度品で纏められていた。
 落ち着いた雰囲気を楽しめるようにと言う配慮か個室が多く、俺とチコが案内されたのもそんな個室の一つだった。
「それじゃあ、乾杯しようか」
「うん。素敵な一日に、乾杯」
 俺はチコとグラスを合わせ、乳白色の液体を呷る。
 ミルクの豊かな甘みと、どこか懐かしい気持ちにさせる香りが口の中に広がってゆく。あとを追いかけるようにヨーグルトのようなほのかな酸味が味を引き締め、最後に炭酸がピリッと後味をすっきりとさせる。
 本日のおすすめと言う事で頼んでみた酒だったが、思ったより美味かった。
 俺はグラスを傾けながら今日一日の事を振り返る。女の子とご飯を食べて、お化け屋敷に入って、色々な店を見て歩いたり、買い物をしたり。
 良い一日だった。こんな自分でも人並みにデートが出来ていた。そしてそれを心の底から楽しんでいた。最後の締めに一緒に飲もうと思って入ったこの店も、雰囲気も酒の味も言う事が無かった。
 正直、ここでデートが終わってしまうというのが残念でならない。
「それにしても、あのお化け屋敷は怖かったな」
「うん。仲間がやってるって分かっていても怖かったよ。やっぱり雰囲気とかもあるのかな。凄いよねぇ、ボクにはあんなの絶対無理だよ」
 友達と言わず仲間と言うという事は、同じクラブかサークルか何かに所属している知り合いという事なのだろうか。焼肉屋の時と言い、チコは結構顔が広いらしい。
「そりゃ、あれでお金を貰ってるプロだからなぁ。でも、あの人たちだってチコみたいなマッサージは出来ないだろ」
「まぁね。ボクの真似が出来る種族はそう多くないから」
「シュゾク?」
「間違えた、職種」
「そう、それだよ。職種で思い出した。お礼を言おうと思っていたんだ」
 元はと言えば、昨日助けてもらった礼をするためにチコを呼び出したのだ。いつの間にか普通のデートを楽しんでしまって、本来の目的を忘れてしまうところだった。
「昨日は本当にありがとう。チコのおかげで助かったよ。君が居なかったら、本当に体調を崩してしばらく寝込んでいたかもしれない」
 しばらくきょとんとして何を言われているのか分からないといった様子のチコだったが、話の内容を理解するとすぐに首を振って照れたような笑みを浮かべた。
「べ、別にしたくてやった事だし、お礼なんてしてもらわなくてもいいよ。……むしろ、今日こんなに楽しませてもらって、ボクの方こそお礼をしなきゃいけないくらいだ。
 厚司さんと居て楽しかったし、色々と行ってみたかったところにも行けたし。こんな素敵なプレゼントまでもらっちゃったし」
 彼女は照れ隠しするように香水を指先でいじる。
「あの香水屋さん、行ってみたかったんだよね。まぁ香水をつける目的はもう半分くらい達成できちゃったんだけど」
「香水屋さん、でいいのか? あそこは」
 彼女が言っているのは、ウィンドウショッピングをしている最中に入ったお店の事だろう。楽器やアクセサリー等色々なものを置いているお店で、一体何を主軸として扱っているのかよく分からないような店ではあったが、不思議と妙な魅力を感じさせる店でもあった。
 雰囲気に飲まれて、と言うわけでは無いが、その店だけは見ているだけでは飽き足らずに普通に買い物をしてしまったのだった。
「一番最初に売り始めたのは香水だったんだよ。そこからお守りやアクセサリーを扱い出して、そのうち楽器も置くようになったんだ」
「アジアっぽいアクセサリーが多かったな。あと、羽をあしらっているものとか。楽器とかもアジア風と言うか。詳しくは無いけど、インドとかそっちの方の関係の人なのかな。肌の色も少し浅黒かったし」
「そうらしいよ。あっちの方にルーツがあるんだって。演奏の腕も一流で、色々なところに呼ばれて演奏しているらしいよ」
「へぇー」
「今度一緒に聞きに行こうよ」
「そうだな。その時はまたこうやってデートしようか」
 チコは目を見開いて俺を見たかと思うと、急に顔を伏せてしまった。グラスの縁を指でなぞって、あまり興味が無いのかと思いきや、彼女の頬は少し赤くなっていて、口元にも笑みがこぼれていた。
「えへへ。次の約束しちゃった。これでまた会えるね」
 俺を見上げて、はにかむ様に笑った。
 どきん。と心臓が強く跳ねた。鼓動はそのまま強く打ち続け、俺はチコから、チコの笑顔から目が離せなくなる。その笑顔があまりに可愛くて、照れ隠ししながらも喜びを隠しきれない姿が無性に愛しくて。俺なんかを相手にそんな風にしてくれるのが心の底から嬉しくて堪らなくて。
 気が付けば、彼女の肩に腕を回していた。
「え、厚司、さん?」
 綺麗だった。長いまつ毛に飾られた大きな瞳。深い色の瞳はきらきらと煌めいて、戸惑うように揺れながらも、何かを期待するような色合いも帯びていて。
 穢れを知らぬ少女のような肌は少し紅潮していて、桜色の唇から、わずかに吐息が漏れている。
 瞳がゆっくりと閉じてゆき、顎が、少し上がる。
 チコは、つい昨日出会ったばかりの女性だ。知っている事などお互いまだほんのわずかで、何の関係も無い他人と言って差し支えない。
 それは十分、分かっていた。
 良くて友達。間違っても、恋人などとは言えない間柄。躊躇った。けれども、俺は自分を抑えきれなかった。

 彼女の唇に、自分の唇を重ねた。

 ちょっぴり湿り気を帯びた、信じられない程柔らかい感触。痺れるような気持ち良さが、さざ波のように全身に広がってゆく。
 キスがこんなに気持ち良いものなのだと、俺は初めて知った。
 気持ち良くて、そしていい匂いがした。チコの肌の匂いだった。
 シャンプーなのか香水なのか、それとも彼女の体臭なのかは分からない。甘くて、気持ちが落ち着いていきながらも、身体の芯が熱くなるような、そんな匂いだった。
 全身が心臓になったみたいにどきどきして、身体が熱かった。どれほど唇を重ねていたのか、一瞬だったかもしれないし、十分以上そうしていたかもしれなかったが、自分では分からなかった。
 キスしている間中ずっと、チコは俺のシャツをぎゅっと握りしめていた。
「んっ」
 唇が離れる。
 彼女が潤んだ瞳で見上げて来て、そして間を置かずに、今度はチコの方から唇を押し付けてきた。
 最初は優しく、それから、唇で唇をついばむ様に。
 さっきよりももっとずっとはっきりとチコの唇の柔らかさや温かさを感じて、身体がかぁっと熱くなり、彼女の吐息以外、何も聞こえなくなる。
 ちゅっ、と音を立てて唇が離れる。身体が震えた。
「んん。……キス、しちゃったね」
「……ごめん」
「ふふ、全く、本当に困っちゃう人だなぁ厚司は。いきなりこんな事するなんて。
 ボク達は昨日出会ったばかりで、まだ友達になったばかりで、その、友達同士は、キスなんてしないんだよ? キスするのは恋人とか、好きな者同士だけなんだから」
「チコ」
「だから、いいよね。ボク達はキスしたって、いいんだよね? 厚司?」
 俺の頬に手を添えながらも不安そうな彼女に応えるべく、俺は彼女の手に手を重ねて、今一度彼女に口づけした。
 柔らかい感触が、どちらからともなく開いた。
 二人の身体の一部が、湿り切って熱を帯びた敏感な部分が出会い、絡み合う。チコの味を感じるうちに、俺はもっと彼女を感じたくて舌を伸ばした。それは彼女も一緒だったようで、触れ合う部分は更に広く深くなっていく。
 やがて音を立てながら、俺達は貪るように互いを求め始めた。
「ん、んんんっ。あつ、しぃ」
「チコ……。んん」
 やがて唇が少しずつ離れてゆく。口づけの余韻が、銀の糸の形を取って唇の間に紡がれて、そして消える。
 チコの顔は真っ赤に染まっていた。多分俺の顔もそうだろう。
「あ、えっと、凄かった、よ。感じちゃった。ボク、濡れちゃったよ」
 もじもじと太ももを擦り合わせている様子からは、冗談のようには見えなかった。
 とは言え俺も人の事は言えない。ズボンが張って痛いくらいになっていた。
「ねぇ、厚司。ボクが頼んだお酒、飲んでみたく無い?」
「ん? あぁ、折角だし味見をしてみたいかな」
「ここまで来たら、もうどうにでもなれだ。とびきりおいしいお酒をご馳走してあげるよ」
 チコは自分のグラスを呷ると、口に酒を含んだまま、俺の唇に唇を押し付けてきた。
 そのまま唇が開き、舌と共に酒が流れ込んでくる。
 甘さの中にほのかに渋みがある、深い味わい。芳醇な味と香りが色鮮やかに混じり合い、チコの香りが溶け込んで口いっぱいに広がって、喉の奥に落ちてゆく。
 無意識に舌を伸ばして、自分から求めていた。
 酒が無くなっても、それでもその味が欲しくてたまらず、彼女の舌を舐り続けた。
「ぷはぁ、厚司ったら、がっつき過ぎだよ。お酒はまだあるんだから」
「そう、だな。あまりにも美味しくて、つい。それとも、酒が回ってきたかな」
「ねぇ、今度は厚司のお酒を飲ませて?」
 俺は自分のグラスを傾け、口に含んでチコに口づけする。
 こぼれないように気を付けながら、わずかに開いた口の中へと舌を伝わせて酒を流し込んでやる。
 チコもまた舌を伸ばして俺を求めてきた。
 口の中が彼女の舌に蹂躙される。ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け抜ける。身体がかぁっと熱くなったのは酒のせいだけでは無いだろう。
 チコの背中に腕を回す。ぐっと引き寄せて、抱きしめる。
 柔らかくて、温かくて、いい匂いがした。何年振りかに感じた他人の体温は、やたらめたらに気分を高揚させた。
「ねぇ厚司。ボク、もっとお酒飲みたいなぁ」
「あぁ。俺ももっと飲みたい。何だか、凄く喉が渇いた」
 それから、俺達二人はお互いの酒を飲ませ合った。
 無くなったら別の酒を頼んで、そのまま飲んでみたり、口移しで飲ませてみたりして、幾通りもの酒の飲み方を試し、愉しんだ。
 他のお客や店員に隠れて、俺達はこっそりと燃え上り続けた。
 いっそのこと、時が止まればいいとさえ思った。けれど無情にも時間は流れ続け、夜は確実に更けていってしまうのだった。
15/05/03 23:36更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
デート回でした。魔物娘達が現代でお店をやってたらどんな感じだろうかと考えて書いてみました。
……嘘です魔物娘とデートしてみたいという妄想を何とか形にしてみようとしただけです。

たくさんの秀逸なSSが既に投稿されてはいますが、やっぱり現代に魔物娘が居たらどんなお店をやっているのだろうという妄想は尽きる事はありませんね。
色々なお店に行ってみたいですねぇ。もちろん魔物娘と。(まぁ一人で行って襲われるのも一興ですが)


楽しんで頂けたら幸いです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

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