溶ける山脈
青白い顔が俺を見下ろしていた。
長いまつ毛、切れ長の目、すっきりとした鼻筋。一流の職人が魂を込めて削り出した女神像のように整った顔にはしかし、およそ表情と呼べるような物は浮かんでいない。
唇は真一文字に結ばれ、トパーズのように煌めく瞳は、ただ目の前に映る物を反射しているだけだった。
「なぜ、またここに来た」
周囲が何も見えない程の猛吹雪の中で、彼女の姿と声だけは不思議とはっきり感じ取れる。
ともすれば、真っ白い二人だけの世界に居るかのように思えてしまう程だ。
「見てみたい、からだ」
風が荒れ狂う中、俺の声など聞こえているはずが無いのに、彼女は俺の心を読んだかのように首を傾げる。
「頂上からの、景色を。君が見ている世界を」
「見て、どうするのだ」
「分からない。ただ見てみたいんだよ」
「お前は馬鹿なのか。今回だって死ぬかもしれなかったのだぞ」
しなやかな指が頬に触れる。触れた場所から冷気が広がり、感覚さえも無くなっていくが、怖くは無かった。
俺の命を奪う気は無いという事は身を持って知っている。その気があるならとっくにやっているだろうし、何度も遭難するたびにこうして助けてくれることは無いだろう。
「かもしれない。でも、見たかったんだ」
「お前は、愚かな人間共の中でも特に愚かな人間らしい」
指だけでなく、彼女の手のひらが頬を包みこんでくる。
もったいないな。もっと万全の状態なら、彼女の手のひらの感覚を味わえたのに。腕を上げようにも、もう力が入らない。でも。
「初めて、触ってくれたな」
俺がそう言うと、彼女は微かにまつ毛を揺らした。
本当に、綺麗な顔だ。青く透き通る長い髪もとてもよく似合っている。ずっと見ていたいのに。ああ、もう視界の端が白んで来てしまった。
今回は、もうこれでお別れか……。
***
次に目が覚めた時、俺はベッドの上に横になっていた。
見慣れた丸太作りの部屋だった。身体を包み込む柔らかな暖気と、薪の燃える匂いに胸がほっとする。この部屋のベッドに寝ているという事は、俺はまた登頂に失敗したという事か。
恐る恐る自分の身体を確かめる。右腕、左腕、右脚、左脚。腹部も背中にも特に異常は無い。身を起こせない事も覚悟していたが、起き上がるのも問題無かった。体中に包帯が巻かれているかと思いきや、今回はそんな事も無かったようだ。
ベッドの上に上半身を起こし、俺は一息つく。
また頂上まで届かなかった。
今回は何度目の挑戦だっただろうか。回数すら忘れてしまう程挑み続けているものの、頂上はまだ見えていない。危険と判断して引き返した事もあるし、撤退が間に合わずに山の中で遭難してしまった事もあった。
そしてこの身が危うくなる度、この山の守護精霊であるあいつ、グラキエスに助けられている。
「あいつ、彫像じゃ無かったんだな」
ぽつりとつぶやき、声が出る事に安堵する。
にしても本当に、今回は驚いた。
毎度毎度無表情で俺を引きずって運んでいくだけだったあの冷血な氷の精霊が、俺に言葉を掛けて、触れて、あんな目をするなんて。
「おや、もう気が付いていましたか」
部屋の扉がノックも無しに開いて、眼鏡を掛けた若い男が入ってくる。このペンションのオーナーだ。俺を雇ってくれている雇い主でもある。
オーナーには山に登ったり下りたりするたびにこんな風に世話になりっぱなしだ。正直頭が上がらない。
「まだ寝ているとばかり思って、確認を忘れてしまいました」
「いえ。すみませんオーナー、いつも迷惑ばかりかけていて」
「迷惑なんて思っていませんよ。無事で良かった」
オーナーはベッドの脇の椅子に座り、柔らかく微笑んだ。
「その顔。またすぐに挑戦したいみたいですね」
そんな顔をしていただろうか。確かに今回の失敗はかなり悔しかったが、それが顔に出てしまったのかな。
今回は登頂するつもりだったのだ。準備も万端、体調もかつてない程良かった。自信もあった。だのに、吹雪に気を取られる、足元への注意を怠ったばかりに崖から落ちてしまって……。
運良く崖の高さもさほど無く、落ちたところにも雪が厚く積もっていたおかげで事なきを得られた。本来であれば体が無事だっただけでも喜ぶべき事なのだろうが、俺の中では些細なミスを犯してしまった自分への情けなさと悔しさの方がよほど強かった。
俺は両手を握りしめる。体力は、まだ十分残っている。でも。
「そんなに仕事に穴をあけるわけにも……」
「この時期に来るお客さんなんて、本当に常連さんくらいですよ。その常連さんも、君があのグラキエスをここまで連れてきてくれたからこそ出来た常連さんなんですけどね」
俺は何も言えなかった。俺は何もしていない。しているとすれば、あのグラキエスだ。
気を失っている俺には記憶が無いので分からないのだが、例のグラキエスが山中から山の麓にあるこのペンションまで下ってくる間に、俺だけでなく人間と魔物娘のカップルも一緒に連れてくる事があるらしいのだ。
グラキエスによって生み出された冷気は人間も魔物娘も問わず愛情や温もりを切望するような状態に、つまりは人肌が恋しい状態にしてしまうらしい。
これは俺の想像だが、多分こういう事なのだと思う。
冷気の魔力に当てられた人間や魔物娘は、どうしようもない寂寥感と寂しさを埋めるために誰彼構わず近くの相手とくっつこうとする。運よく相手を見つけられたとして、しかし周りは雪山で寒い、出来れば暖かいところでしっぽりといきたい。そこで見えてくるのが男連れのグラキエスだ。明らかにどこかを目指して進んでいるらしいグラキエスに、彼らはきっと安全に休める場所があると思い込み、後をついていくことにする。
そうして付いて行けば、たどり着いた先にはおあつらえ向きのペンションが立っている。雪も風もしのげて、個室もある。一夜を過ごすための宿として使わない手は無い。
多分、そういうからくりなのだろう。
しかも麓と言ってもここはまだまだ雪深い僻地であるからすぐには帰れない。彼等も彼等で燃え上ってしまってすぐには帰る気がなくなり。必然的に何日か泊まっていく事になる。
結果、ここは非常に潤う事となる。
まぁ、毎回というわけでは無いようだけど。今回もそんな気配は。
「いやぁ、今回は見たことも無い雪山の魔物娘さんが若い男の人と来てくれました。常連さんになってくれるといいんですがねぇ」
……気絶してたしな。気が付かないよなそりゃ。
ただ、分かり切っている事だが俺にも、そしてあいつにそんなつもりは無いだろう。機械的に俺をここに連れてくる間に、周りが勝手に盛り上がっているだけなのだ。
「俺は何もしてませんよ」
「いえいえ、君の類稀な挑戦心のおかげで、私もすばらしい妻を手に入れられたのですから」
「あの時は……、すみませんでした」
何度目かの挑戦だったかは忘れたが、ベッドの上で目覚めたときにオーナーに白いもこもこの魔物娘が抱きついていたことがあったのだ。
魔物娘のイエティ。今でこそオーナーの奥さんになり見慣れているが、あの時は本当に驚いた。
彼女はグラキエスの魔力に当てられて、何と一人で山中からこのペンションまで付いて来てしまったのだった。
そしてその後、なんだかんだ言いながらも面倒を見てくれたオーナーの事をいたく気に入って、離れなくなってしまった。
年中寒い山間部にも関わらず、褐色の素肌には水着みたいな薄布しか纏っておらず、おまけに事あるごとに人懐っこい笑顔で抱きついてくる彼女に、最初こそオーナーは困惑していたものの、二人が正式な夫婦になるまでに時間はかからなかった。
穏やかだけれど考え込みがちなオーナーに対して、陽気で素直な彼女は見事に相性が抜群だったのだろう。結婚してから、明らかにオーナーは笑顔になる事が増えた。
「何を言いますか。私達は感謝しているくらいですよ」
「なんかむず痒いです。奥さんは?」
「今は子どもの面倒を見ています。あの子も妻に負けず劣らず抱きつき魔でね」
「ははは」
「あと一週間くらいはお客が来る予定も無いですし、昨日のお客さん達も当分部屋から出て来そうにありませんので、私も妻や娘とのんびり過ごすつもりです。
どうです? 挑戦、しますか?」
俺は窓の外に見える雪山に目をやる。雲に覆われたその頂には、まだ手は届いていない。
不意にあのグラキエスの顔が浮かび、俺は自然と頷いてしまっていた。
次の日はゆっくり身体を休め、時間をかけて入念に装備や道具の準備をした。
そしてその翌朝。娘を背負い、嫁さんを抱き寄せながら手を振るオーナーに見送られ、俺はペンションを後にした。
***
今日は天気もいい。雪が降っていない分、中腹までは体力を温存できるだろう。
俺は独り黙々と登山道を歩き続ける。
旅人や運送屋、行商なども行き来出来るよう、山の途中までは道が整備されている。だがそれも中腹までで、道は途中から山を迂回するコースを取る。
山頂まで続いている道は無い。あっても誰も使わないからだ。山を越えるよりは迂回する方がよほど安全に旅が出来るし、この山自体も雪に包まれていて目立った特産物も無い。
この山にわざわざ登ろうなんていう奴は俺のような物好きだけなのだ。俺が作ろうとしない限り、この先も道が出来る事は無いだろう。
登山道の中で一番標高が高くなったところで道を逸れる。ここから先は道の無い場所を登る事になる。勝負はこれからだ。
登山道から一歩でも離れればそこはもう、白以外の色を探すのが難しい程の、雪と冷気が支配する世界だ。
真っ白な雪原を確かめるように、一歩一歩慎重に足を踏み出していく。いい調子だ。体調にも全く問題ない。むしろこの真っ白いだけの世界に再び入って高揚さえしているほどだ。
今日こそはこの山を征服して見せる。
乾いた岩に腰かけ休憩を取っていると、急に雲行きが怪しくなってきた。
雪が降ってくるかもしれない。動けなくなる前に、少しでも距離を稼いでおかなければ。
立ち上がって再び歩き出すものの、急に強く風が吹き始める。黒々とした雲はあっという間に空を覆いつくし、冷たい雪を落とし始めた。
前が見えない。
まだこのくらいの高さならばこれまでの経験と感覚で方向も分かるが、さてどうした物か。一度ここで止まってやり過ごすか、それとも吹雪がすぐに晴れる事に掛けて突っ切るか。
「お前も懲りない奴だ」
何の前触れもなく、高く澄んだ声が響いた。
見上げれば彼女が雪の舞う空中に佇んでいた。
なまめかしい光沢を放つ氷をまとい、つやのある長髪を風になびかせる。この世のものとは思えない程の冷厳な美しさをたたえる、氷の精霊グラキエス。
この猛吹雪の中、彼女は涼しい顔で俺を見下ろしてくる。吹き荒ぶ雪風など氷の精霊の彼女にとってはそよ風のような物なのだろう。
「俺はまだお前の手を煩わせるつもりは無いが?」
「お前のような愚かな人間がこの山に入っていると思うだけで不快な気分になるんだよ」
抑揚のない口調で淡々と告げられた。結構酷い言われようだ。
傷ついたとまで言わないが、軽くショックではあった。
嫌われてしまったな。まぁ、何度も何度も山中から下界まで運ばされている側からすれば、確かに厄介事が歩いてやってきたようにしか思えないかもしれない。
「つまりお前は帰れって言いたいのか? そうならそうとはっきり言ってくれ」
俺は彼女の言葉を待つ。しかし彼女はいつまでたっても返事をしなかった。
「何とか言ってくれ、体に雪が積もってしまう」
「……いのか?」
「何だって」
「お前は私の見ている世界を見たいと言ったな。あれは嘘だったのか? お前は愚かな上に嘘つきだったのだな」
さっきよりも言葉に棘がある気がするのは気のせいだろうか。風の音のせいで聞き取りにくいが、語気も荒くなっている気がするし。
ともかく、何か勘違いされているようだ。
「帰る気は無い。今日は意地でも最後まで登りきるつもりだ。だが、お前はそれを嫌がっているようだったし、お前が全力で俺を山から追い出そうとするならそれ相応の覚悟がいるだろうと思っただけだ」
「別に嫌がってなどいない。人間が何をしようと、私には些細な事でしかない」
じゃあなんで出てきたんだよ。
「だが、煩わしいのは事実だ。お前にまた倒れられたら、手間が増えるからな」
彼女は表情を変えずに俺の傍まで降りてくる。
近づくほどに彼女の美貌がよりはっきりと分かった。やっぱり、綺麗だ。彼女を見ていられるなら他の何もいらなくなってしまう。彼女が望むなら命さえ差し出してもいいとさえ思えてくる。
けど、やっぱり住む世界が違うんだな。命を懸けた俺の挑戦も、彼女にとっては些事でしかないんだ。むしろ世話を焼かなければならないとあれば、厄介事でしかない。
彼女は俺の目の前に立つと、急に俺に向かって腕を突き出してきた。
何かされると思い、とっさに身構えたがいつまでたっても何も起きない。
「何をしている」
見れば、彼女はただ単に俺に手を差し伸べていただけだった。
「手を掴め。私が上まで案内してやる」
俺は表情の無い彼女の顔と、柔らかそうなその手のひらを何度も見比べてから、恐る恐る手を取った。
鼻先で、雪よりもなお白すぎて青く見える彼女の髪が揺れる。
無駄な肉の無いすっきりした首筋、華奢でいて柔らかそうな肩。よろしくない考えを抱くというよりは、その神秘的な美しさにため息が出てしまう。
彼女の手のひらは意外にも柔らかく温かかった。
温かい手。俺の頬に触れてくれた手。いつも俺を助けてくれる手。
氷像のように艶やかな彼女の肌は見るだに冷たそうであり、実際顔に触れられた時には意識が白くなるくらいに冷たかったはずなのだが、今は不思議とその冷たさが無かった。
いや、不思議なのはそれだけじゃない。手を引かれて山道を歩いているというのに歩きづらさを全く感じないのだ。
雪と風が勝手に俺達の身体を避けていく。膝まで埋まる程の雪も、理由は分からないが全く歩行の邪魔にならない。
歩きづらいどころか、やろうと思えば駆け足でも登っていけそうな程だった。
だが、調子がいい時こそ気を付けるべきだ。特にこんな雪山ではなおさら、体力が無くなればすぐに死につながりかねない。
俺は躊躇しながらも、思い切って彼女の手を引いた。
「何だ」
「すまない。ちょっと休ませてくれないか? これ以上歩くと後に響きそうだ」
彼女はむっと唇を引いたものの、すぐに頷いてくれた。
「人間の身体は不便なのだな。いいだろう、そばに私の住処がある。そこに寄って行こう」
会話はそれで終わりとばかりに、彼女は再び前を向いて歩き出した。
精霊に住処などあるのか。そんな神聖な場所に俺のような人間が邪魔してもいいのか。聞きたいことはたくさんあったが、無言で歩みを早める彼女に、俺は声を掛けられなかった。
連れて行かれたのは凍てついた滝壺、いくつもの巨大な氷柱を束ねて織り上げられた氷瀑だった。氷の精霊の住処は、どうやらここらしい。
遥か高みの崖淵から、雪と氷の結晶が一筋の道を描くようにここまで降りてきている。巨大すぎて、まるで氷の壁のようだった。
だが、見惚れている暇も無かった。
グラキエスは何も言わずに俺の手を引いて歩みを進める。
氷壁にぶつかりそうになり、思わず声を掛けそうになった。ところがどうだ、驚くべきことに彼女の身体は壁を透けて中に入って行ってしまった。
あっけにとられている間に、俺もまた壁の向こうに抜けていた。
自分の身体を触ってみるが、別に腕が胴体を突き抜けたりはしなかった。叩けば痛みが返って来たし、着込んだコートの感覚もちゃんとあった。
滝の裏の洞窟を、彼女は当たり前のものとして進んでいく。
そして急に開けた明るい場所に出て、彼女は俺を振り返った。
「着いたぞ」
目の前に広がる光景に、俺は言葉も無かった。
そこは洞窟内に出来たドームのような大きな空洞だった。だが、ただ大きいだけの空洞では無かった。空洞全体が淡く光っていたのだ。
壁一面に、薄青色に照らされた氷柱が垂れ下がっていた。地面に手を伸ばそうとする氷柱の群れを見ていると、冷気と言うのは天上を支配する存在なのだと言われても信じてしまいそうだった。
いや、氷柱だけでは無い。床からもいくつもの氷が伸びている。これは、氷筍か。
氷柱と一体となって巨大な柱のようになっているものもあれば、空に向かって伸びようとする新芽のようなものもあった。
下界とは、まるで別世界だ。
壁も柱も、目に見えるものすべてが青く、白く、宝石のように違った輝きを宿していた。
恐らく洞窟のどこかから差し込んだ光が複雑な屈折を繰り返した結果なのだろうが、そんな自然の神秘さえ、この精霊の手によって行われているように錯覚してしまう。
「どうした。休むのだろう?」
「あ、ああ」
俺は荷物をおろし、中からキャンプ用具を取り出そうとして気が付く。
「そう言えば、ここで火を使ってしまってもいいのか?」
「何の心配がある?」
「周りの氷が溶けたり、お前自身が溶けたりとかは」
グラキエスは俺が手に持った炎の魔晶石を見てから、目を瞑って首を振った。
「ありえない。永遠ともいえる程の長い期間、休むことなく冷気を溜め込んできた氷の結晶だ。いくら炎の魔力が込められていようが石ころ一つの炎程度で溶ける事は無い」
誰の目にも触れることなく、ただ氷の精霊と共に冷気をその身に溜め込んできた氷の部屋か。
「下手に触ったら、魂まで凍ってしまいそうだな」
彼女は何も言わず、俺を見下ろすだけだった。
「……何とか言ってくれよ」
俺はため息を吐きながら三脚スタンドを用意して、その下に魔晶石を置く。
火をつけるべく魔晶石に精神を集中しようとするものの、グラキエスの言葉が俺の集中力を掻き乱した。
「かもしれん。くれぐれも気を付けてくれ」
「お前なぁ」
「冗談ではない。強力な冷気は魔力でさえ凍らせる。魂が凍りついてもおかしくは無いだろう」
俺はぎくりとしつつも、精神を集中する。魔晶石に念を送ると、石の中心から温かな橙色の炎が噴き上がり始める。
良かった。寒すぎて付かないかと思ったが、そんな事も無かったようだ。
俺は鍋の中に水の魔晶石を砕いて入れ、これまた念を込める。鍋の中で石が弾け、鍋いっぱいに水が満ちた。
暖かな炎の上に陽炎が揺らめき、鍋からも少しずつ湯気が上がり始める。
上着を脱ぎ、俺はその場に腰を下ろした。
炎の灯りと言うのはどうしてこうも人を安心させるのだろう。
だが……。
「なぁ、お前も休まないか」
グラキエスは相変わらずの無表情で空中をふわふわと漂い続けていた。感情の籠らない瞳でじっと見下ろされ続けては、何だか居心地が悪い。
「別に、私は疲れていない」
「そう上から見られていては俺が落ち着かないんだよ」
グラキエスはしばし何も言わず俺を見下ろしていたが、ついには渋々と言った感じで目を伏せて地面に腰を下ろした。
何も言わず、俺の隣に並ぶ。
「済まなかった。お前が疲れたのは、多分私のせいだ」
グラキエスは炎をじっと見つめたまま、俺の方を見ずに言った。
「何でそんなこと言うんだ。むしろお前のおかげであまり苦労せずにここまでこられて感謝しているくらいだよ」
「……お前は気が付かなかったかもしれないが、私の冷気はお前の身体から精を奪っていたはずだ」
「休めばよくなる。それに俺の方が助けてもらっているしな。気にしないでくれ」
ティアはちらりと俺を見て、また視線を戻した。
「なら、いいんだが。あと、お前と言うのは止めてくれ。私の名前はティアだ」
「ティアか、儚げで綺麗な名前だな。良く似合っている」
ティアはゆっくりと俺の方を向き、澄んだ瞳で覗き込んできた。
「そうなのか? 良く分からないな。お前の名は?」
「俺の名前はソル。姓は分からない。名前だけだ」
「そうか。私と一緒だな」
ティアは何度か俺の名前を舌の上で転がしてから、小さく頷いた。
「ソル、これからどうする? いつまでここで休むつもりだ?」
「天気次第かな。吹雪が続いている限りここで大人しくしていた方がよさそうだ」
俺は沸いた湯を使って紅茶を淹れる。
ティアが飲むかは分からないが、コップは二つにしておくか。
フラスクに入れておいたウィスキーを少し垂らしてから、俺は彼女にもそれを手渡してやった。
「何だこれは」
紅色の水面を眺めながらティアが呟く。
「紅茶だ。体を温めるために飲む。ティアには必要の無いものかもしれないが」
俺は一口あおって一息つく。鼻腔に広がる豊かな香りと、ほのかな甘み。喉奥を流れ落ちていく熱の感覚。身体の芯が少しは暖まってくる。
ティアは相変わらずカップを見つめたまま顔を上げない。
青い瞳に紅茶の赤が揺れていて、濡れているようにも見える。肌理細やかな頬に髪が掛かる。きっといい匂いがするんだろうな。寒くて鼻が利かないのが悔やまれる……。
「てぃ、ティアはどうして俺を手助けしてくれたんだ」
俺は上ずった声で話しかける。何か話していないと良くない気持ちを抱きそうだった。
「言ったろう。お前が山に居ると不快だからだ」
名前を聞いて少しは仲良くなれたと思ったのだが、彼女の中では俺はやっぱりそう言う扱いなんだろうか。分かっていても、少し辛かった。
「お前が辛そうな顔で山を登っているのを見ていると胸が痛くなる。一度姿を見失ったときなど、急に脈が激しくなって、息が切れて生きた心地がしなかった。……お前が山に登る度、私は嫌な気分になってばかりだ」
「それって」
「一度山頂の景色を見せてやればお前もむきになって山に入る事も無くなるだろうと思ってな。取り立てて面白い景色でも無いが、自分の求めていたものがどれだけつまらないものかを理解すれば、もう二度とここには来ないだろうと思ったんだ。
お前が来なければ、私も自分の役目に集中できる」
一瞬何か期待してしまったのだが、やっぱり気のせいだったらしい。無表情で山に入るなと言われてしまっては、可能性も何も無いだろう。
笑えるな。精霊と人間なんて、分かり合える可能性なんて初めから無いのに。
命を助けてくれるのも、それがティアの役目だからだ。彼女はただ淡々と仕事をこなしているだけ。何度も助けてもらったからと言って、別に特別な感情があるからでは無いんだ。
それくらい彼女の愛想の無さを見ていれば分かる事だったじゃないか。
「そうだな。登頂したら、この地を去るよ」
「あ……」
「ところで、ティアはいつもは何をしているんだ」
ティアはコップをそばの床に置いて、深く膝を抱えた。
「山を見守っている。遭難者が居ないか見張っていたり、雪が崩れて下界に影響が出ないように管理もしている」
「仲間とやっているのか」
「いや、私一人でだ。私は氷の精霊の中でも力は強い方だ。この山一つ守る程度、造作も無い」
「でも、寂しくは無いのか」
ティアは顔を上げ、不思議そうな目で俺を見た。
「寂、しい?」
「誰かの顔を見たいとか、言葉を交わしたいとか、触れ合いたいとか、たまにはそういう風には思わないのか?」
「思わない」
ティアの視線が揺れながら俺から離れる。
「私は氷の精霊、氷の女王にこの山を守るように仰せつかっている身。それ以外の事に興味は無い。
それに、氷の精霊である私は寒さなど感じない。お前たち人間や他の魔物娘達のように、互いに温めあうために寄り添い合い、まぐわい合う必要など無いのだ」
言っている事はもっともなのだが、俺にはティアの言葉が、その生き様がとてつもなく寂しいものに思えた。
この雪だけの世界でただ役目を果たすためだけに生きていく彼女。なまじ力が強いばかりに仲間からも離れて、独りぼっちで。
急に彼女の身体が小さく見えた。膝を抱えるその姿も、寒さに身を縮めているようにも、自分の身体を抱いているようにも見えてくる。
いくら寒さに強かったとしても、それが孤独への強さに繋がるわけでは無いだろう。
彼女に声を掛けたかった。だが、何を言えばいいのか分からない。何を言っても彼女に届かない気がして、結局何も言えなかった。
俺はぬるくなった紅茶と一緒に煮え切らない自分の気持ちを飲み込む。
息を吐くと、ティアは何か言いたげに俺の方を見ていた。
「何だ」
「お前に頼みがある。ちょっとこっちを向いて腕を広げてみてくれないか」
ティアは小さな声でそう言った。
俺は何も考えず、言われるままに腕を広げる。
すると、あろうことかティアがいきなり俺の胸の中に飛び込んできて、背中に腕を回してしっかりと抱きついてきた。
何が起こっているのか分からない。胸の中のティアは相変わらず無表情で、……いや、少し目を細めているようだ。
「ティア? なにを」
「人間や魔物娘達がしている事を試してみたいと思ったんだ。山の案内の対価だ、これくらい付き合ってくれ」
「それは、構わないが」
しかし、長時間このままだと少し危ういかもしれない。彼女が触れている部分からどんどん温もりが奪われていく。
胸の中で切ない気持ちが膨れ上がってくる。いつもはちゃんと封をしている感情の蓋が開いて、それらが顔を出してしまう。
俺は今、何をやっているんだろう。人っ子一人いない洞穴で、気持ちの通じない精霊に実験のような事をさせられて。
結局どこに居ても、誰と居ても自分は独りなんだよな。その感情から逃げるように山に籠っていたはずなのに、彼女の傍に居れば居る程、それを強く実感させられてしまうみたいだ。
ペンションのオーナーも奥さんも俺に良くしてくれるし、顔なじみのお客さんも懇意にしてくれている。でもみんなには代えの効かない愛するパートナーや、恋人が居る。
自分は違う。俺は誰にとっても代わりのきく存在だ。
周りからすれば別に俺である必要は無い。同じ仕事や役割を果たせればそれでいいんだから……。
この山を登りきる事を目標にしてきたけど、登り切ったからと言って、それが何だというのだろう。誰も知らない山に登ったって、誰が認めてくれる? 何を認めてくれる?
結局俺一人の自己満足で終わるだけだ。俺の中だけで完結しているだけじゃないか。
駄目だ。この寒さに俺は耐えられない。ティアには悪いが、身体を離して……。
『あぁ、駄目だよダーリン。一人で外でたら寂しい寂しいよ』
『ちょっと外に出るだけですって、玄関先の雪を掃きだすだけですよ。すぐ戻りますから』
『でも駄目よ。寂しい寂しいと寒い寒いになるよ。私が抱きしめて暖めてあげるよ』
ティアの細い肩に手を置いた瞬間、急にオーナー夫婦の事を思い出した。
寂しい寂しいと、寒い寒い、か。
俺は肩にかけていた手をティアの背中と腰元に滑り込ませ、しっかりと抱きしめる。彼女が少し身じろぎしたが、構わず強く肌を寄せ合った。
オーナーの奥さんは少し変わっていて、いつも寒い事と寂しい事を同列に扱っている。だから旦那さんや子どもが少しでも寒い思いをするとすごく心配するし、寂しい思いもしないようにいつでも寄り添い、抱きついている。もともとイエティだからそう言うところがあるのだろうが、奥さんの中ではその行動は凄く理にかなっているのだ。
今、その理屈が何となく分かった気がした。
この冷気が彼女の魔力によるものじゃ無く、彼女自身の寂しさによるものだとしたら。
俺は少しでも暖めてやりたいと思う。仮に俺の身も心も凍えたとしても、それで少しでも彼女が暖まるのならば望むところだ。
「もういい。離してくれ」
「駄目だ。俺達人間は身体を温めあうためにもこうして抱き締めあうんだ。ティアの身体は、まだこんなに冷たいじゃないか」
「私は氷の精霊だ。それが当たり前なんだ。これ以上続けたらお前の身体が持たないぞ」
嫌がるように胸を押されては、腕を離すしかなかった。
渋々俺が身を離すと、彼女は俺の胸に手を当てて、まっすぐに俺を見上げてきた。
長いまつ毛が震えている。
ふっくらとした唇から目を離せなくなる。
青い二つの宝石が、俺の目をじっと見上げている。
「ティア、んっ」
彼女の唇が、二度、三度と俺の唇をついばんでくる。彼女の唇は柔らかくて、少し濡れていて、そしてあたたかかった。
ティアは息を吐き、寂しげに微笑んだ。
「やはり私には、必要ないもののようだ」
紡がれた言葉が、俺の心を凍らせる。
ティアが立ち上がり、天井に向かって飛んでいってしまう。
「おい、ティア!」
「安心しろ、ちょっと見回りに出るだけだ。吹雪が止む頃には戻る。ゆっくり休んでおけ」
ティアは俺に背を向けてさらに高く舞い上がる。
やがてその身体は天井の壁の向こうに消えてしまった。
「自分からしといて、必要ないって何なんだよ」
俺は舌打ちして、唇に触れた。そこにはまだ、口づけの余韻の熱がしっかりと残っていた。
痛む胸を押さえながら、ティアは一心不乱に山頂を目指して飛んだ。
雪雲を越え、月光の照らす雲上へ突き抜けて、ようやく息を吐く。
唇を指でなぞりながら、ティアは目を伏せる。あの男が来てからだ。あの男が山に登るようになって、自分は変わってしまった。
それまでは山の麓で身を寄せ合う人間達の事も、魔物娘と男の交合を見ても何も思わなかった。興味さえなかった。
それなのに、あの男を、ソルを何度も助けてやるうちに人間や魔物娘のやっている事が気になるようになってしまった。
イエティを始めとする雪山の魔物達や人間は皆、微笑み合いながら身を寄せ合い、口づけを交わし、肌を重ね合う。
だから自分も試してみようと思った。誰かと寄り添い合う事はそんなに気分がいい事なのかどうか。
でも、結果は落ち着かない気分になっただけだった。離れた瞬間など、胸に痛みすら感じた。この上肌まで重ねていたら、痛みで気が触れてしまっていたかもしれない。
だからソルは死にそうになる度、自分を見て微笑むのだろうか。胸が震えるから、痛いから……。
楽しげに見える魔物達や人間達もこんな気持ちなのだろうか。微笑みは楽しい時に浮かべるものだとばかり思っていたが、違うのだろうか。
ティアは頭を振って考えを切り替える。
彼等がどう感じていようが自分には関係ない。抱き合って口づけしてもあんな気持ちになり、胸が痛くなるだけなら、やっぱり自分には必要の無い事なのだ。
それだけ分かれば十分だ。
ティアは両手を広げて、意識を空に広げる。雪と対話し、風に乗って山中を駆け巡る。
中腹の地中でワームと人間が激しく交わり合っている。麓の森の中ではグリズリーの親子が寄り添い温めあっている。大きな家の中で、小さな子の居るイエティの親子が食卓を囲んでいる。
他にも、この山にはたくさんの魔物娘や人間達が、動物達が生きている。
独りで凍えているものは誰もいなかった。死に瀕しているものは誰もいなかった。
ティアはほっと息を吐き、硬い光を降らせる月を見上げた。
夜は危険だ。この時間に独りになれば、生き物は簡単にその命のぬくもりを失ってしまう。
氷の女王の加護に感謝を捧げつつ。ティアは一人だけ例外が居たことを覆い出した。
彼女の脚の下。洞穴の中、独りで丸くなって眠るソルが居た。
翌朝。俺達は日が昇って早々に山頂に向かって歩き始めた。
結局ティアが戻ったのは今朝になってからの事だった。俺が食事を終え、片づけが終わるころになってようやく彼女は洞窟の中に姿を見せたのだ。
一晩中見回りとやらをしていたのだろうか。だが昨日の紅茶のカップも空になっていた。もしかしたら俺が寝ている間に戻っていたのかもしれない。
昨日はどうしてあんなことをしたのだろうか。紅茶は飲んだのだろうか。
彼女は何も言わず、昨日の事などまるで何も無かったかのような無表情で俺の手を引くだけだった。
「あの部屋、夜も綺麗なんだな」
俺は彼女に聞こえるよう、大きな声で話しかけた。
彼女は答えない。
「真っ暗になる割に、氷の所々がきらきら光ってて、まるで星の海にいるみたいだったよ。折角綺麗だったのにもったいないじゃないか。何で帰って来なかったんだ?」
「私はお前の相手だけをしているほど暇では無い。それに、あそこは私の住処だ。それくらい何度も見ているさ」
「そうじゃない。俺はティアと一緒に見たかったんだ」
つないだ手の平がぴくりと動いたものの、ティアは何も言わなかった。
それから俺も黙り、俺達は黙々と山道を歩き続けた。
雲のかかる斜面を抜けると、一気に視界が開けた。
白く、太陽を突き刺さんとばかりに鋭くそびえる山頂が目に飛び込んでくる。あれがこの山の天辺。長い間夢見つつも、見る事すら叶わなかった遥かな高みか。
ティアの案内と加護があるとはいえ、ここまで来ることが出来たことに俺は素直に興奮してしまっていた。まだ体力は十分に残っている。今度こそ、今度こそは登頂できるんだ。
「ソル、水を差すようで悪いがこの先の雪には十分気を付けてくれ」
「危険なのか? 俺にはこれまでと何も変わらないように見えるが」
「ここより上の世界は冷気元素の吹き溜まりになっている。当然周囲の雪も常に冷気元素に晒され、その身に溜め込んでいる。
昨日の話ではないが、気を確かに持たないと冷気の元素に魂を侵食され、身も心も凍り付いてしまうかもしれない」
「ティアは大丈夫なのか?」
彼女はこちらを振り向き、目を合わせてくる。
「当たり前だろう。私は普段ここから山を見下ろしているのだから」
「だからこそ、だよ。寂しくはないのか?」
俺は周りに腕を広げる。雲海も、その上に広がる斜面も、全て雪に漂白されて真っ白になっている。太陽の浮かぶ空の青でさえも寒々しく映る。
「こんな何も無いところに、一人で」
ティアはしばらく俺の顔をじっと見ていたが。
「行くぞ」
と言って再び俺の手を引いた。
頂上にたどり着けば、きっとえもいわれぬ喜びと大きな達成感に包まれると思っていた。
だが、予想と現実というものは大きく違うもののようだ。実際、頂上までたどり着いた俺には何かを考えている余裕なんてなかった。
ただ、目の前に広がる圧倒的な光景に言葉を失うばかりだった。
何と表現したらいいだろう。
頂上の雪を踏みしめた瞬間、俺は地平線の彼方まで続く虹色の雪原を見た。
さっきまで丸い太陽があった場所には、七色の柱が立っていた。まるで世界を支える柱のように、それは圧倒的な存在感と共にそこに屹立していた。
煌めく波が至る所で寄せては引いて、ぶつかって虹色を散らしていく。
ここが、ティアの世界。
「凄いところだな。虹の中に居るみたいだ」
「そう見えるだけだ。光と色が声を重ねて歌っているように見えるかもしれないが、これはただ単に結晶化した水や大気の元素に太陽光が乱反射しているだけに過ぎない」
「結晶化した元素?」
「そうだ。冷気の元素が高まっているここでは、何物も結晶化をまぬがれることは出来ない。もしかしたら光や音でさえ凍りついているかもしれない。
結晶化したそれらがぶつかり合い、砕けて、色々な物が乱反射を繰り返しているから、こんな風に見えているだけなんだ。本当は何も無い。
気を付けろ。いい気になって足を踏み外せば、即刻雪に覆われて死んでしまう」
鈴を鳴らすような音がする。いや、笛の音だろうか。
澄んだ音色が踊っている。舞い散り、跳ねまわる光と共に、はしゃぐ子どものように俺達の周りを取り巻いているのだ。
いや、違う。きっとこれも音に宿ってる元素が凍り付いて砕け散った結果に過ぎない。
世界のあらゆる物には元素が宿っているんだ。俺の隣の存在が、その何よりの証明だ。氷と冷気の元素の集合体。氷の精霊グラキエス。元素が無ければ、彼女達精霊の存在もあり得ない。
「ようやく、ティアと同じものを見る事が出来た」
ティアの身体からぼんやりとした光が立ち昇る。それは身体から湧き上がる度にすぐに細かな光の粒子になって宙に広がっていく。
彼女はこんなにも美しい。
それに比べて、俺はどうだ。殺した獣の毛皮を何重にも纏い、今にも倒れそうな程に荷物を背負って、地面を這うようにしてようやくここまで登ってきた。
やはり、住む世界が違うんだ。
「俺、帰るよ。もうここには来ない。今まで世話を掛けて悪かった」
「……そうか」
「最後に一つだけ、頼みがある」
「何だ?」
この願いが叶うなら、きっとティアに会えなくなってもしばらくは寂しさを忘れていられるから。
「もう一度だけ、キスしてもいいかな」
ティアの目がゆっくりと見開かれていく。無表情で断られるとばかり思っていたのだが、そのあとの彼女の反応は意外な物だった。
唇を撫でて目を伏せ、逡巡するかのように視線を泳がせたのだ。
「いや、いいんだ。忘れて」
「分かった」
彼女は目を瞑り、俺に身をゆだねた。今度は俺が目を見開く番だった。
俺は壊れ物を扱うように彼女の肩を慎重に抱き、顔を近づけていく。
彼女の身体から甘い匂いがした。初めて感じた彼女の匂いは、春先に咲いた花のようなみずみずしい香りだった。
俺はなるべく優しくティアの唇に自分の唇を押し付ける。
彼女の唇はやっぱり柔らかくて温かかった。昨日のぬくもりは気のせいなんかじゃ無かったんだ。
ずっとそうしていたかったが、そう言うわけにもいかない。名残惜しかったが、俺は彼女の身体を離した。
「……何なんだ?」
ティアは呆然とした表情で呟いた。頬が何かで濡れていた。
「ティア?」
「何だこの気持ちは。お前のせいなのか?」
ティアは涙をたたえた瞳で俺を睨みつける。俺との口づけがそんなに嫌だったのだろうか。……それならいっそ断ってくれればよかったのに。承諾してから怒るなんて、あんまりだ。
「お前が出て行けば、厄介事は無くなる。なのにどうしてこんなに胸が痛いんだ! 昨日は何も感じなかったのに、唇同士が触れ合っただけでなぜこんなに胸が震えるんだ!」
ティアは泣きじゃくりながら俺の胸に飛び込んできて、力ない拳で俺を叩く。
「お前のせいだ。お前さえ来なければこんなに苦しまずに済んだ。お前さえ居なくなれば……。居なくなればいいのに、どうしてそれを考えただけでこんなに胸が苦しくなるんだ」
「ティア、俺は」
泣かせるつもりなんて無かった。最後の別れ際にそんな悲しい表情は見たく無かった。
どうしたらいい。ティアは俺のせいで泣いているのか? 俺がキスしたから? これから離れ離れになるから? それとも、やはり俺の存在そのものが彼女を苦しめているのか?
俺は、彼女から離れるべきなのか? でも、離れても彼女を苦しめるのだとしたら、だったらどうすればいいんだ。
どうすればいいか分からなくて、俺は頭を抱える。不安と後悔で気分が沈み込んだ、その瞬間だった。
俺の全身を激しい寒気が包み込んだ。
心臓を氷の手で撫でられ、包み込まれる。冷気が心臓から根を張るように全身に広がり始める。いや違う、冷たく感じるのは体温が残っていたからで、つまり俺の全身は、もう?
忘れていた。ここは一瞬でも気を抜けば魂さえ凍ってしまう冷気の元素の真っただ中だという事を。
「ソル? どうしたんだ、ソル!」
「ティア。悪い、俺もう」
意識が急激に遠ざかっていく。ちくしょう、これで終わりなのか?
ごめんなティア。お前はきっと嫌がるだろうけど、本当は俺、お前と一緒に……。
***
夜空に浮かんでいた。
どこを見ても星が煌めいている。一人で星の海に沈んでしまったのだろうか。身体の感触から察するに、どうやら俺は裸らしい。海の中なら、それも当たり前か。しかしその割に寒さは感じない。
全身を、柔らかくて暖かい感触が包み込んでいた。
「ここは、天国かな」
「良かった。生きていた」
誰かの声が聞こえる。綺麗な声だ、きっとずっと聞いていても飽きないだろうな。
「ソル!」
ティアだ。ティアが涙ぐみながらも、笑って俺の顔を見下ろしている。
こんな顔もするんだな。笑った顔を見るの、初めてだな。やっぱり綺麗だ。
「私、ようやく自分がどういう気持ちだったのか分かったよ。ソルの事が好きだ。あの胸の痛みはその裏返しだったんだ」
ティアが俺の事を? 夢にしちゃ、悪くないな。
「ソルが倒れた瞬間、凄く怖くなった。ソルが死んでしまうかもって思った瞬間、体が急に震えだしたんだ。凍えた人間のように。
人間が一人死ぬだけなのに、世界が終ってしまったような気がした。気が狂うかと思った。がむしゃらでソルを抱いてここまで運んで来た。あとはよく覚えていない。ソルを助けたくて、それだけだった」
熱い雫が俺の胸に落ちる。
「ソルが居ない世界では生きている意味が無いと思ったんだ。お前がそばに居てくれないと、胸の痛みが止まらないんだ。
お前を見るたび辛かったのはきっとまた離れていってしまうと思ったからだったんだ。ずっと一緒に居たいのに、人間の身体じゃ、私の世界では生きていけないから。だから」
ティアは裸で俺の身体の上に覆い被さっていた。ずっと感じていたぬくもりは、もしかしてティアの身体の暖かさだったのか?
「ソル。私と、一緒に居てくれ。お願いだ。お願い……」
胸に顔を埋めるティアの髪を撫でる。
「ティアの身体、あったかいよ」
「必死だったんだ。ソルが凍死してしまうかと思って、温めなければと思って、自分でも何が起こったのか分からない。でも」
ティアは目を細め、笑った。
「良かった。こうしてまた話せて、ソルが生きていて本当に良かった」
俺は起き上がって自分の身体を確かめた。
パンツすら履いていない、本当の全裸だった。
どうやらここは昨日泊まったティアの住処のようだ。壁面の様子から察するに、外は夜か。
背中の下には寝袋と毛布が敷かれていた。恐らくティアが俺の荷物の中から引っ張り出したんだろう。おかげで背中が冷えずに済んだ。
「俺の服は」
ティアの指差した先を目で追うと、凍りついた何かの塊が転がっていた。
「雪の中に倒れ込んだんだ。それで全部凍ってしまった。何とか急いで抱き起してここに運んだから、身体の方は大丈夫だと思う」
ティアは俺に寄り添い、腕を絡めてくる。
触れ合う肌は柔らかく、確かなぬくもりを感じさせる。
いつもの氷の結晶のような装束はどこかに消えていて、その脚も透き通ってはいるものの、人間の脚の形をしていた。
「ありがとう。ティア」
「違う。私が悪かったんだ。私が取り乱したから、ソルを迷わせてしまった。
ずっと出て行けなんて言っていたのに、突然出て行ったら苦しいなんて言って。ソルが戸惑うのも当たり前だ。そのせいで死なせてしまうかもしれなかった。……私を、恨んでいるか?」
不安そうな表情で濡れた瞳で見上げられる。
「そんなわけないだろう。まぁ、今も戸惑ってはいる。ティアは綺麗すぎて、どこか遠い存在で。とてもじゃないがそんな対象とは見られなかったから。
なのに、そんなティアから急に一緒に居てくれなんて言われて。まだ現実とは思えないくらいだよ」
「ごめんなさい。私はソルを辛い目に遭わせてばかりだね。
私は変わってしまった。もう、ソルが見ていてくれた私とは違う存在になってしまったのかもしれない。
多分もう前のようには戻れない。外見は元に戻れるかもしれない。でも心と、身体の中の魔力はもう元に戻れない程変わってしまった。
……もう、一人で居る寂しさと、ソルへの気持ちに気付かなかった頃には戻れない。辛い目に遭わせると分かっていても、ソルから離れたくないんだ。ソル、一緒に居て……」
ティアは俺にしがみつくように、強く腕を掴んできた。
そこに居るのは冷然とした精霊では無く、一人の寂しがり屋の女の子だった。誰もいない、草木でさえも生きられない白い世界で、一人で強がっていた女の子だった。
「決めたよ。この山から出られなくなってもいい。俺はティアと一緒に居る」
ティアは俺を見上げ、大粒の涙を流しながら何度も何度もうなずいた。
少し驚いてしまったせいで即答出来なかったけれど、答えなんて初めから決まっていた。
山に登るのは、ティアにも会いたかったからだ。ティアと一緒に居るために何かを手放せと言うのなら、俺は何だって喜んで手放してやる。
腕の中に、ずっと手の届かない存在だと思っていたティアの暖かい身体がある。
それだけでも満足してしまいそうなのだが、俺もやはり一人の男だった。我慢はしていたのだが、喜びのあまり抱きついてきたティアの身体にどうしても反応してしまう。
しなやかな腕が、柔らかな太腿が触れる。乳房が押し付けられて、形が変わる。
下半身に血液と熱が集中してしまうのを止められない。ティアが欲しい。でも、ティアはそういう事とはまるで対極な存在に思えるしなぁ。
「ソル……」
ティアが視線を落とし、俺が硬くなっている事に気が付いた。
「気にするな。これはその、生理現象だ」
「私と、したいか?」
胸の中から見上げてくるティア。俺は生唾を飲み込みつつ、ぐっと自分を抑える。
「私は、したいぞ」
俺は耳を疑った。ティアが、俺と?
「おかしいか? 愛し合うもの同士はそうするんだろう? 男に抱かれている魔物はみんな幸せそうな顔をしている。私もソルに抱かれた時にどんな気持ちになるのか、知りたい」
「俺もしたいよ。ティアの身体、すごく綺麗だ。俺も、ティアの事をもっとよく知りたい」
肩を抱き、彼女を丁寧に寝袋の上に横たえる。
俺はティアの目を見つめたまま唇を重ねる。潤んでいく瞳を覗き込みながら、唇を割って舌を入れる。
ティアの舌は躊躇いがちに俺の舌に触れてくる。俺は彼女のそれを飴玉のように優しく舌の上で転がし、氷を舐め溶かすように丁寧に舌を絡めていく。
「んちゅっ。もっと激しくてもいいんだぞ? 私に気を使ってくれるな。ソルのしたいように、していい」
「優しくしたいんだよ。君の心を、もっととろけさせたい」
俺は耳の裏に舌を這わせ、そこからゆっくりと首元に舐め下ろしていく。匂い立つようなティアの肌は、絹のように滑らかだった。
胸元の二つの丘陵を前にして、ティアは小鳥のような声を上げる。
「ソル。手、繋いで」
手探りで彼女の手を捜し、しっかりと指を絡めて固く繋ぐ。
もう片方の彼女の腕が俺の髪を撫でてくる。俺はそのお返しとばかりに、乳房に優しく触れた。
形を確かめるように撫で、それから手の平で覆い隠すように全体の感触を楽しむ。
舌の方も忘れていない。撫でていない方の乳房に跡をつけながら舐め上げていき、乳首にたどり着いたところで、大きく口を開いてむしゃぶりつく。
「熱い。ソルの手も、舌も」
ティアの腕が俺の頭を掻き抱き、俺を胸の中へといざなう。
「溶かして。どろどろになるまで、そしてあなたの好きな形に変えて」
その言葉は俺の理性を飛ばすには十分すぎる力を持っていた。
俺は胸への愛撫を止め、再び彼女の唇を奪う。今度は少し強引に、口の中を蹂躙するように、激しく舌を絡める。
「ティア」
「うん。一つになろう?」
震える声がさらに俺の脳を溶かしていく。
ティアの少しひんやりとした手が、俺の股間の分身にそえられる。まるでそこに俺の全ての熱が集まっているかのように、そこだけが無性に熱く、それゆえに外気の冷たさが切なかった。
ティアの柔肉に触れ、ぬちりと音がした。
頬を染め、目を逸らしながら中へと導こうとするティアに、俺はちょっと意地悪をする。
「ティア、ちゃんと見て。じゃないとこれ以上しないよ」
ティアは抗議するような声を上げたものの、素直に俺に従ってくれた。
一度見始めると、もう目が離せなくなってしまったようだった。ティアは明らかに自分の身体に入ってくる俺自身に見蕩れていた。
ティアの体内では膣肉が、外では視線が絡み付く。俺のものはさらに熱く滾るようだった。でもまだ足りない。もっと熱く。もっと彼女をとろけさせなくては。
「はい、入ってくる。ソルの、熱い」
「熱い、何?」
「おちん、ち……むぅぅ」
「ごめんね。でも、照れたティアも可愛いよ」
「あまり意地悪しないでくれ。こんな事は初めてなんだ。……くぁっ、そんな、深くまで」
俺の全てがティアに飲み込まれ、そして一番奥にたどり着く。
正直、この状況でもかなりきつかった。
外見の冷然とした美しさとは裏腹に、ティアの膣肉は彼女の愛や温もりが凝縮しているかのように滾っていて、今まで抑え込まれていた欲望がそのまま嵐になったかのように激しく絡み付いて搾り上げようとして来るのだ。
俺は歯を食いしばり、腰を引く。絡み付いた無数の襞が俺を膣内に引き留めようとすがりつき、強く吸い付いてくる。
「あ、あ、あああっ。いやぁ」
ティアの顔がみるみるうちに泣き顔に変わっていく。俺は慌てて動きを止める。
「ごめん。痛かったか」
「凄く、凄く胸が苦しくなったんだ。いつも倒れたソルを里に届けた後の感覚に似ていた。ソルが私から抜けていってしまうと思ったら、胸が引き裂かれるような感じがして」
ティアは震える瞳を俺に向ける。
「安心して。痛みはほんのわずかだった。喜びに比べたら無いような物だった。
ソルが入ってきた瞬間、痛みなんて忘れてしまうくらいの、これまで感じた事の無い喜びを感じたよ。本当だぞ!
でも、だからこそソルにはずっと私の中に居て欲しいと思ってしまった。少しでも長く、深いところで繋がり合っていたいんだ」
「分かった」
俺は再び腰を沈める。
「あ、ぅあ。ソル。ソルぅ」
俺の全てをティアの中にねじ込んで、何が起きても離れないようにしっかりと彼女の背に腕を回して抱きしめる。
「そ、そうだ。私はこうしたかったんだ。温かいソルに包まれて、ソルを私の中にしっかり抱きしめて」
「気持ちいいか?」
「気持ちいいよ。とても気持ちいい。胸が熱くなる。でも、嫌な熱さでは無い。心地よくて、体も心も満たされる感じがする。こういうのを、幸せというのかな。
……済まない。好きにしていいなんて言ったのに、わがままを言って」
「いいんだよ。ティアが喜んでくれるなら、俺はそのほうがいい。ただ、少し言いずらいんだけど」
ティアの感情が昂るにつれ、その膣内の蠕動も激しくなってきている。肌が触れている部分からも、ただ触れているだけにも関わらず鳥肌が立つような快楽を覚えてきている。
「すぐでは無いだろうけど、長くは持ちそうにない。ごめんな」
「なぜ謝る。私だって、こうする事の行きつく先の事は知っている。この山で起こる事は大体見ているからな」
「はは、浮気は出来ないな」
ティアが黙ったので、俺は慌てて訂正した。
「俺がじゃないぞ? 俺はそんなに器用じゃない」
「知っている。お前がこの山と私の事しか見ていなかったのは、私が一番よく知っている。でも、繋がっている時にそんな事を言うな」
「……悪かった」
ティアは俺の髪を梳くように、頭を撫で始めた。
「許さない。一生をかけて償ってもらう」
言葉の割に、とても穏やかな口調だった。
「分かった。死ぬまで君に尽くすよ」
「死ぬまで……」
ティアの手が止まる。
そして、俺の肩に顎を乗せるように深く抱きついて来て、急にさめざめと泣きだし始める。
「どうしたんだ急に」
「私は愚かだった。ソルがいつか死んでしまう事を忘れて、こんなに素晴らしい悦びを知ってしまった」
「今から俺が死ぬことを考えるなよ」
「だって、人間の一生なんて私の時間から言えばあっという間なんだぞ! お前を失ったら、もう私は生きていけないよ。ずっと悲しみを抱えたまま、お前を想いながら死ねずに生き続けるしかないなんて、きっと死ぬより辛い事だ。
……嫌だよ、そんなの」
「あのさ、ティア」
「お前が山に入って来た時の胸の感じは、高鳴りだったんだ。落ち着かないのはいつ足を踏み外すんじゃないかという不安だったんだ。
本当に、私は……。抱きしめたときだって、嬉しくて胸がどきどきして息苦しかっただけなのに、苦しいだなんて思い込んで。
もっと早くお前への気持ちに気が付いていればよかった。素直になればよかった。そうすれば一分一秒でも長く居られたのに。
それが出来ないなら、いっそのことずっと気持ちになんて気が付かなければよかったのに」
彼女の膣が急激に動きを変えてくる。俺の根元から先端に向かって波打ちながらぎゅうぎゅうと締め上げてくるのだ。
「ちょっと落ち着け。まだ今すぐ死ぬわけじゃない」
いってしまいそうではあるが。ともかく俺も落ち着こう。
深呼吸をし、俺はティアの額に額を重ねて、じっと目を見つめた。
「それにな、寿命を延ばす方法だってあるらしいじゃないか。人魚の血とか、そういう魔法だってあるんじゃないかな。あとはまぁ、ポピュラーな方法もあるな」
「海なんて遥か彼方じゃないか。他に方法なんて……。そうか、私の魔力、か」
「そうだな」
今の魔物の身体には例外なく「サキュバスの魔力」というものが宿っている。その魔力は魔物自体を美しく妖艶に変えたり、魅了の魔法を意図せず発生させるだけでなく、人間の身体にも作用すると言われている。
サキュバスの魔力にある程度晒された人間は、体が彼女達魔物に近づいていくのだという。女性の場合は体も心も魔物そのものに変化していくが、男性の身体には女性とは別の変化が起こる。
男性の場合、姿かたちこそさほど変わらない物の、ずっと魔物に精を提供し続けられるようにとパートナーと同等の寿命を得られるのだという。まぁ副作用として精力絶倫になり、何度連続で交わったとしても満足できない程の性欲の怪物になってしまうという噂もあるが……。
それはともかくとして、だ。この魔物に近づいた男性、インキュバスになれば人間よりもずっと長く、上手く行けばティアと共に天寿を全うできるくらいに長生きできるかもしれない。
ただ、そのためには何度も激しくパートナーと交合し合う必要があるらしいのだ。
ティアにそれを求めるのは、少し酷だろう。
「でも、無理しなくていい。今すぐ死ぬんじゃないんだ、ゆっくり方法をむぐぅっ」
全て言い終わる前にティアに唇を押し付けられた。
舌が俺の口の中を暴れ回る。歯茎を舐められ、歯を丁寧に撫でられ、音が立つほど激しく舌同士を擦り付けられる。
彼女の手がゆっくりと下がっていく。背中を下り、腰を下り、そして俺の尻にたどり着くと、尻を掴んで引き寄せるようにして、自身の中に向かってさらに深い挿入を促してきた。
「ちゅっ、じゅるっ。じゅぅぅうっ。ソル、ちゅぅっ。決めたぞ」
口づけと息継ぎを繰り返しながら、ティアは喘ぐように言う。
「お前を、私の手でインキュバスにする」
「ティア」
「ずっと一緒だ。死ぬまで、私達は一緒に居るんだ。ねぇ、いいでしょ? ……お願いだソル。私を一人にしないで」
「もちろん、だ。一緒に居るよ」
ティア泣き笑いを浮かべながら、自ら腰を動かし始める。そのわずかな動きでさえ、限界が近づいていた俺にとっては致命的な刺激になった。
かりに絡み付いた襞に複雑に吸い付かれ締め上げられる。襞が俺の欲棒をティアの欲望ごと撹拌する。
熱を帯びる。溶かされているのはティアなのか。俺なのか。もうそれすらもどうでも良くなってくる。
「ティア、もうっ。出る」
うっとりとした笑顔を浮かべたティアに抱き寄せられながら、俺は彼女の中心に向かって熱い思いをぶちまけた。
『あぁ、きた。ソルのあっついのが、おなかのなかにいっぱいきたぁ』
射精した瞬間のティアの言葉が、まだ頭の中を回っている。
いつも冷静で落ち着いていて、少し自尊心が高くて、時には高圧的な感じさえあるティアの口からあんな淫らな言葉が出るなんて思ってもみなかった。
そしてそれを、自分は意外にも喜ぶべき事として受け入れていた。
精霊と人間では生きる世界が違うとまで思っていた自分が、手を出す事さえはばかられていた自分が、精霊を自分だけのものにする罪深きことに対して後ろ暗い悦びを感じてしまっている。
だが、罪悪感は無い。
「ソル、気持ち、いいか?」
ティアもまた、それを望んでいるのだから。
ティアは息を弾ませながら、蕩けきった表情で俺の上で腰を振っていた。
俺の手を取り、自分の手のひらを重ねて自らの乳房を揉みしだきながら、腰を振る事だけに夢中になっている。
この光景、見たことがある。あれは確か間違ってお客の部屋の扉を開けてしまった時だったか、サキュバスの女がこんな顔で夫と交わっていた。
「あぁ、気持ちいいよ。最高だ」
頭がぼうっとする。もう何度射精したか分からない。
二人の接合部は、漏れ出した精液と愛液が混ざりあって泡立って、白く粘ついている。
日は昇ったのだろうか。それともまだ夜は続くのだろうか。
「最高なんて、まだまだだぞソル。もっともっと良くして、やるからな。ずっと一緒に、一つになるんだ、からな。ソルの欲望は、全部、全部私が受け入れて、やるからな」
やり過ぎてしまったか。いや、もっと淫らでもいいくらいだ。綺麗なティアがもっと淫らに堕ちていくところを見てみたい。離れることなく、永遠に彼女のそばで……。
ずっと朝なんて来なければいいと思いながら、俺はまた、彼女の中で想いを爆発させる。
横になった俺の隣で、ティアは両手で顔を覆っていた。
周囲の氷壁が光り輝いている事から察するに、もう外は朝らしい。いや、昼かもしれない。
「どうしたんだよティア」
「……恥ずかしぃ」
「ずっと腰振ってたもんな。いい顔してた」
平手で腹を引っ叩かれた。
「痛いじゃないか。誰かさんがあんなに搾り取るもんだから、もう腕も上げられないんだぞ?」
「あうぅ」
「可愛いな」
「……言うな」
「じゃあ、もう可愛いって言わない」
「……それも嫌だ」
ころころと表情を変えるティアが、なんだか嬉しかった。昨日までのティアは綺麗だったけど、見ているこっちが辛くなるくらいに寂しそうに見えていたから。
「何だ、その顔は」
「いや、俺裸なのに何でこんなに温かいんだろうなぁと疑問に思ってたんだよ。確かに風は吹いてないけど、あんなに厚い氷がそばにあったらそれだけで凍えたっておかしくないだろ?」
「あぁ、それは私が魔法で冷気を部屋の壁側に集中させているからだ。この大空洞の中心から『冷気』を『無くす』ことにより、逆に温かくしている」
うまい具合にはぐらかせたが、これはこれで驚きだ。
「そんなことができるのか」
ティアは得意げだった表情を急に曇らせる。
「ただ、自然法則に対してかなり無理をしているからな、魔力の消耗も激しい。この状態を続けるにはこれまでのような、冷気で奪った冷たい精では私がもたない。
維持するためには……その、定期的に、交わり等によって、体内に直接熱くて濃い精を得る必要があるんだ。だから」
「じゃあここに住もう」
ティアはむっとして食って掛かってきた。
「話を聞いていたのか?」
「毎日俺とえっちすればいいわけだろ。ずっとお前のそばに居て、もっとしたいんだよ。言わせんな」
「ば、ばかぁ」
氷の精霊の透き通るような青い肌が、真っ赤に染まる。
「でも、ありがとう。私を諦めないでくれて、本当に……。大好きよ、ソル」
「……え、何だって? 聞こえなかったな」
「むーっ! もう言わない!」
俺は声を上げて笑った。
それにつられたように、ティアも笑ってくれた。
***
「あー、そこの人景色に見蕩れてロープの外に出ないでくださーい」
山の中腹まで続く登山道を登りながら、俺は依頼人に注意を促す。
今、俺はこの山で登山者の案内をしながら暮らしていた。ティアと一つになったあの日から、ずっと山に居ようと決めたのだ。
「なかなか板についてきましたね」
隣で声をかけてきたペンションのオーナーに、俺は歯を見せて笑う。
この仕事を始めるにあたって、オーナーにはまた世話になってしまった。
突然ペンションを辞めたいと言った俺に対して、怒るどころか逆に仕事を考えてくれたのだ。
おまけに常連客に声を掛けたり、道具や手順を考えたりと色々面倒まで見てくれた。
一人ではきっと出来なかっただろう。
まぁ、ただ単に俺の為を思って手伝ってくれたというわけでは無いようだが。
精霊が棲む山の絶景を見られるとなれば、多くの人が興味を持ってやってくる。そういう観光客たちは日帰りではまず帰れないから、当然泊まる場所が必要になる。つまりはそういう事だ。商魂たくましいというかなんというか。
「そういえば娘が寂しがっていました。今度はいつティアさんを連れてきてくれますか?」
おまけに繁忙期には手伝いに駆りだされている始末だ。
まぁ、俺だって本当に嫌ならティアと一緒に山に引きこもるから、この生活を気に入っても居るのだが。
「もうしばらくしたら寒さも多少は和らぎますから、そしたらですかね。ティアも会いたがってましたよ」
「そうですか。それは何より」
おかげで最近は子どもも欲しいってさらに夜が激しくなったけれども。
「……いい加減、嫌なら断ってもいいんですよ? この仕事だって、私は冗談半分で」
「嫌だったら山になんて登りませんよ」
俺はまだ見えぬ頂上を見上げる。あの虹色の世界は、まだ俺しか知らない。
「好きだからしてるんです」
「ただいま」
凍った滝の洞窟に戻り、俺はティアに声を掛けた。
空洞には大きな絨毯が広げられ、暮らし始めた当初に比べて段々と家具も増えてきた。今ではもう最初に何も無かったなどとは思えない程にぎやかな状態だ。
空中で膝を抱えて浮いていたティアが、ぱっと表情を輝かせて一直線に俺に向かって飛んでくる。
言葉の代わりに何度も口づけし、首元に腕を回してぎゅっとしてくる。
「遅い。嫁を寂しがらせるな」
「いつもより早いはずだが」
「嘘を言うな。私の体感時間ではお前の帰りは日に日に遅くなっている。私がどんな気持ちで待っているか分かっているのか?」
「嘘吐けよ。透明になっていつもすぐそばに居る癖に」
「だって、仕事中は相手にしてくれないし……。あんな何も無いところ見て何が面白いんだ? もっと美しいものや滅多に見られないものは他にもあるのに」
「見せたくないんだよ」
不思議そうな顔をするティアに、俺はため息交じりに答える。
「確かにいろんなところを案内すれば、客は増えるし収入も増えるかもしれない。でも、俺とティアしか知らない、大切な思い出の場所なんだ。誰にも知られたくない俺の気持ちも分かってくれるだろ?」
「ソル……。大好き!」
「俺もだよ。愛してる」
「さぁ、早くインキュバスになって、私をたくさん孕ませてね」
俺は苦笑いしながらティアに押し倒されるように毛皮の上に横になる。あの清廉な精霊が今ではすっかり淫魔じみてしまった。
でも、俺は変わらずティアの事を愛している。だってティアの本質は何も変わっていないから。
「ソルに抱かれると、やっぱりどきどきする。えへへ、もっと触って!」
山の中の全てを見守る、誰よりも優しくて寂しがり屋な美しい氷の精霊を、俺はこの先もずっと愛していくだろう。
長いまつ毛、切れ長の目、すっきりとした鼻筋。一流の職人が魂を込めて削り出した女神像のように整った顔にはしかし、およそ表情と呼べるような物は浮かんでいない。
唇は真一文字に結ばれ、トパーズのように煌めく瞳は、ただ目の前に映る物を反射しているだけだった。
「なぜ、またここに来た」
周囲が何も見えない程の猛吹雪の中で、彼女の姿と声だけは不思議とはっきり感じ取れる。
ともすれば、真っ白い二人だけの世界に居るかのように思えてしまう程だ。
「見てみたい、からだ」
風が荒れ狂う中、俺の声など聞こえているはずが無いのに、彼女は俺の心を読んだかのように首を傾げる。
「頂上からの、景色を。君が見ている世界を」
「見て、どうするのだ」
「分からない。ただ見てみたいんだよ」
「お前は馬鹿なのか。今回だって死ぬかもしれなかったのだぞ」
しなやかな指が頬に触れる。触れた場所から冷気が広がり、感覚さえも無くなっていくが、怖くは無かった。
俺の命を奪う気は無いという事は身を持って知っている。その気があるならとっくにやっているだろうし、何度も遭難するたびにこうして助けてくれることは無いだろう。
「かもしれない。でも、見たかったんだ」
「お前は、愚かな人間共の中でも特に愚かな人間らしい」
指だけでなく、彼女の手のひらが頬を包みこんでくる。
もったいないな。もっと万全の状態なら、彼女の手のひらの感覚を味わえたのに。腕を上げようにも、もう力が入らない。でも。
「初めて、触ってくれたな」
俺がそう言うと、彼女は微かにまつ毛を揺らした。
本当に、綺麗な顔だ。青く透き通る長い髪もとてもよく似合っている。ずっと見ていたいのに。ああ、もう視界の端が白んで来てしまった。
今回は、もうこれでお別れか……。
***
次に目が覚めた時、俺はベッドの上に横になっていた。
見慣れた丸太作りの部屋だった。身体を包み込む柔らかな暖気と、薪の燃える匂いに胸がほっとする。この部屋のベッドに寝ているという事は、俺はまた登頂に失敗したという事か。
恐る恐る自分の身体を確かめる。右腕、左腕、右脚、左脚。腹部も背中にも特に異常は無い。身を起こせない事も覚悟していたが、起き上がるのも問題無かった。体中に包帯が巻かれているかと思いきや、今回はそんな事も無かったようだ。
ベッドの上に上半身を起こし、俺は一息つく。
また頂上まで届かなかった。
今回は何度目の挑戦だっただろうか。回数すら忘れてしまう程挑み続けているものの、頂上はまだ見えていない。危険と判断して引き返した事もあるし、撤退が間に合わずに山の中で遭難してしまった事もあった。
そしてこの身が危うくなる度、この山の守護精霊であるあいつ、グラキエスに助けられている。
「あいつ、彫像じゃ無かったんだな」
ぽつりとつぶやき、声が出る事に安堵する。
にしても本当に、今回は驚いた。
毎度毎度無表情で俺を引きずって運んでいくだけだったあの冷血な氷の精霊が、俺に言葉を掛けて、触れて、あんな目をするなんて。
「おや、もう気が付いていましたか」
部屋の扉がノックも無しに開いて、眼鏡を掛けた若い男が入ってくる。このペンションのオーナーだ。俺を雇ってくれている雇い主でもある。
オーナーには山に登ったり下りたりするたびにこんな風に世話になりっぱなしだ。正直頭が上がらない。
「まだ寝ているとばかり思って、確認を忘れてしまいました」
「いえ。すみませんオーナー、いつも迷惑ばかりかけていて」
「迷惑なんて思っていませんよ。無事で良かった」
オーナーはベッドの脇の椅子に座り、柔らかく微笑んだ。
「その顔。またすぐに挑戦したいみたいですね」
そんな顔をしていただろうか。確かに今回の失敗はかなり悔しかったが、それが顔に出てしまったのかな。
今回は登頂するつもりだったのだ。準備も万端、体調もかつてない程良かった。自信もあった。だのに、吹雪に気を取られる、足元への注意を怠ったばかりに崖から落ちてしまって……。
運良く崖の高さもさほど無く、落ちたところにも雪が厚く積もっていたおかげで事なきを得られた。本来であれば体が無事だっただけでも喜ぶべき事なのだろうが、俺の中では些細なミスを犯してしまった自分への情けなさと悔しさの方がよほど強かった。
俺は両手を握りしめる。体力は、まだ十分残っている。でも。
「そんなに仕事に穴をあけるわけにも……」
「この時期に来るお客さんなんて、本当に常連さんくらいですよ。その常連さんも、君があのグラキエスをここまで連れてきてくれたからこそ出来た常連さんなんですけどね」
俺は何も言えなかった。俺は何もしていない。しているとすれば、あのグラキエスだ。
気を失っている俺には記憶が無いので分からないのだが、例のグラキエスが山中から山の麓にあるこのペンションまで下ってくる間に、俺だけでなく人間と魔物娘のカップルも一緒に連れてくる事があるらしいのだ。
グラキエスによって生み出された冷気は人間も魔物娘も問わず愛情や温もりを切望するような状態に、つまりは人肌が恋しい状態にしてしまうらしい。
これは俺の想像だが、多分こういう事なのだと思う。
冷気の魔力に当てられた人間や魔物娘は、どうしようもない寂寥感と寂しさを埋めるために誰彼構わず近くの相手とくっつこうとする。運よく相手を見つけられたとして、しかし周りは雪山で寒い、出来れば暖かいところでしっぽりといきたい。そこで見えてくるのが男連れのグラキエスだ。明らかにどこかを目指して進んでいるらしいグラキエスに、彼らはきっと安全に休める場所があると思い込み、後をついていくことにする。
そうして付いて行けば、たどり着いた先にはおあつらえ向きのペンションが立っている。雪も風もしのげて、個室もある。一夜を過ごすための宿として使わない手は無い。
多分、そういうからくりなのだろう。
しかも麓と言ってもここはまだまだ雪深い僻地であるからすぐには帰れない。彼等も彼等で燃え上ってしまってすぐには帰る気がなくなり。必然的に何日か泊まっていく事になる。
結果、ここは非常に潤う事となる。
まぁ、毎回というわけでは無いようだけど。今回もそんな気配は。
「いやぁ、今回は見たことも無い雪山の魔物娘さんが若い男の人と来てくれました。常連さんになってくれるといいんですがねぇ」
……気絶してたしな。気が付かないよなそりゃ。
ただ、分かり切っている事だが俺にも、そしてあいつにそんなつもりは無いだろう。機械的に俺をここに連れてくる間に、周りが勝手に盛り上がっているだけなのだ。
「俺は何もしてませんよ」
「いえいえ、君の類稀な挑戦心のおかげで、私もすばらしい妻を手に入れられたのですから」
「あの時は……、すみませんでした」
何度目かの挑戦だったかは忘れたが、ベッドの上で目覚めたときにオーナーに白いもこもこの魔物娘が抱きついていたことがあったのだ。
魔物娘のイエティ。今でこそオーナーの奥さんになり見慣れているが、あの時は本当に驚いた。
彼女はグラキエスの魔力に当てられて、何と一人で山中からこのペンションまで付いて来てしまったのだった。
そしてその後、なんだかんだ言いながらも面倒を見てくれたオーナーの事をいたく気に入って、離れなくなってしまった。
年中寒い山間部にも関わらず、褐色の素肌には水着みたいな薄布しか纏っておらず、おまけに事あるごとに人懐っこい笑顔で抱きついてくる彼女に、最初こそオーナーは困惑していたものの、二人が正式な夫婦になるまでに時間はかからなかった。
穏やかだけれど考え込みがちなオーナーに対して、陽気で素直な彼女は見事に相性が抜群だったのだろう。結婚してから、明らかにオーナーは笑顔になる事が増えた。
「何を言いますか。私達は感謝しているくらいですよ」
「なんかむず痒いです。奥さんは?」
「今は子どもの面倒を見ています。あの子も妻に負けず劣らず抱きつき魔でね」
「ははは」
「あと一週間くらいはお客が来る予定も無いですし、昨日のお客さん達も当分部屋から出て来そうにありませんので、私も妻や娘とのんびり過ごすつもりです。
どうです? 挑戦、しますか?」
俺は窓の外に見える雪山に目をやる。雲に覆われたその頂には、まだ手は届いていない。
不意にあのグラキエスの顔が浮かび、俺は自然と頷いてしまっていた。
次の日はゆっくり身体を休め、時間をかけて入念に装備や道具の準備をした。
そしてその翌朝。娘を背負い、嫁さんを抱き寄せながら手を振るオーナーに見送られ、俺はペンションを後にした。
***
今日は天気もいい。雪が降っていない分、中腹までは体力を温存できるだろう。
俺は独り黙々と登山道を歩き続ける。
旅人や運送屋、行商なども行き来出来るよう、山の途中までは道が整備されている。だがそれも中腹までで、道は途中から山を迂回するコースを取る。
山頂まで続いている道は無い。あっても誰も使わないからだ。山を越えるよりは迂回する方がよほど安全に旅が出来るし、この山自体も雪に包まれていて目立った特産物も無い。
この山にわざわざ登ろうなんていう奴は俺のような物好きだけなのだ。俺が作ろうとしない限り、この先も道が出来る事は無いだろう。
登山道の中で一番標高が高くなったところで道を逸れる。ここから先は道の無い場所を登る事になる。勝負はこれからだ。
登山道から一歩でも離れればそこはもう、白以外の色を探すのが難しい程の、雪と冷気が支配する世界だ。
真っ白な雪原を確かめるように、一歩一歩慎重に足を踏み出していく。いい調子だ。体調にも全く問題ない。むしろこの真っ白いだけの世界に再び入って高揚さえしているほどだ。
今日こそはこの山を征服して見せる。
乾いた岩に腰かけ休憩を取っていると、急に雲行きが怪しくなってきた。
雪が降ってくるかもしれない。動けなくなる前に、少しでも距離を稼いでおかなければ。
立ち上がって再び歩き出すものの、急に強く風が吹き始める。黒々とした雲はあっという間に空を覆いつくし、冷たい雪を落とし始めた。
前が見えない。
まだこのくらいの高さならばこれまでの経験と感覚で方向も分かるが、さてどうした物か。一度ここで止まってやり過ごすか、それとも吹雪がすぐに晴れる事に掛けて突っ切るか。
「お前も懲りない奴だ」
何の前触れもなく、高く澄んだ声が響いた。
見上げれば彼女が雪の舞う空中に佇んでいた。
なまめかしい光沢を放つ氷をまとい、つやのある長髪を風になびかせる。この世のものとは思えない程の冷厳な美しさをたたえる、氷の精霊グラキエス。
この猛吹雪の中、彼女は涼しい顔で俺を見下ろしてくる。吹き荒ぶ雪風など氷の精霊の彼女にとってはそよ風のような物なのだろう。
「俺はまだお前の手を煩わせるつもりは無いが?」
「お前のような愚かな人間がこの山に入っていると思うだけで不快な気分になるんだよ」
抑揚のない口調で淡々と告げられた。結構酷い言われようだ。
傷ついたとまで言わないが、軽くショックではあった。
嫌われてしまったな。まぁ、何度も何度も山中から下界まで運ばされている側からすれば、確かに厄介事が歩いてやってきたようにしか思えないかもしれない。
「つまりお前は帰れって言いたいのか? そうならそうとはっきり言ってくれ」
俺は彼女の言葉を待つ。しかし彼女はいつまでたっても返事をしなかった。
「何とか言ってくれ、体に雪が積もってしまう」
「……いのか?」
「何だって」
「お前は私の見ている世界を見たいと言ったな。あれは嘘だったのか? お前は愚かな上に嘘つきだったのだな」
さっきよりも言葉に棘がある気がするのは気のせいだろうか。風の音のせいで聞き取りにくいが、語気も荒くなっている気がするし。
ともかく、何か勘違いされているようだ。
「帰る気は無い。今日は意地でも最後まで登りきるつもりだ。だが、お前はそれを嫌がっているようだったし、お前が全力で俺を山から追い出そうとするならそれ相応の覚悟がいるだろうと思っただけだ」
「別に嫌がってなどいない。人間が何をしようと、私には些細な事でしかない」
じゃあなんで出てきたんだよ。
「だが、煩わしいのは事実だ。お前にまた倒れられたら、手間が増えるからな」
彼女は表情を変えずに俺の傍まで降りてくる。
近づくほどに彼女の美貌がよりはっきりと分かった。やっぱり、綺麗だ。彼女を見ていられるなら他の何もいらなくなってしまう。彼女が望むなら命さえ差し出してもいいとさえ思えてくる。
けど、やっぱり住む世界が違うんだな。命を懸けた俺の挑戦も、彼女にとっては些事でしかないんだ。むしろ世話を焼かなければならないとあれば、厄介事でしかない。
彼女は俺の目の前に立つと、急に俺に向かって腕を突き出してきた。
何かされると思い、とっさに身構えたがいつまでたっても何も起きない。
「何をしている」
見れば、彼女はただ単に俺に手を差し伸べていただけだった。
「手を掴め。私が上まで案内してやる」
俺は表情の無い彼女の顔と、柔らかそうなその手のひらを何度も見比べてから、恐る恐る手を取った。
鼻先で、雪よりもなお白すぎて青く見える彼女の髪が揺れる。
無駄な肉の無いすっきりした首筋、華奢でいて柔らかそうな肩。よろしくない考えを抱くというよりは、その神秘的な美しさにため息が出てしまう。
彼女の手のひらは意外にも柔らかく温かかった。
温かい手。俺の頬に触れてくれた手。いつも俺を助けてくれる手。
氷像のように艶やかな彼女の肌は見るだに冷たそうであり、実際顔に触れられた時には意識が白くなるくらいに冷たかったはずなのだが、今は不思議とその冷たさが無かった。
いや、不思議なのはそれだけじゃない。手を引かれて山道を歩いているというのに歩きづらさを全く感じないのだ。
雪と風が勝手に俺達の身体を避けていく。膝まで埋まる程の雪も、理由は分からないが全く歩行の邪魔にならない。
歩きづらいどころか、やろうと思えば駆け足でも登っていけそうな程だった。
だが、調子がいい時こそ気を付けるべきだ。特にこんな雪山ではなおさら、体力が無くなればすぐに死につながりかねない。
俺は躊躇しながらも、思い切って彼女の手を引いた。
「何だ」
「すまない。ちょっと休ませてくれないか? これ以上歩くと後に響きそうだ」
彼女はむっと唇を引いたものの、すぐに頷いてくれた。
「人間の身体は不便なのだな。いいだろう、そばに私の住処がある。そこに寄って行こう」
会話はそれで終わりとばかりに、彼女は再び前を向いて歩き出した。
精霊に住処などあるのか。そんな神聖な場所に俺のような人間が邪魔してもいいのか。聞きたいことはたくさんあったが、無言で歩みを早める彼女に、俺は声を掛けられなかった。
連れて行かれたのは凍てついた滝壺、いくつもの巨大な氷柱を束ねて織り上げられた氷瀑だった。氷の精霊の住処は、どうやらここらしい。
遥か高みの崖淵から、雪と氷の結晶が一筋の道を描くようにここまで降りてきている。巨大すぎて、まるで氷の壁のようだった。
だが、見惚れている暇も無かった。
グラキエスは何も言わずに俺の手を引いて歩みを進める。
氷壁にぶつかりそうになり、思わず声を掛けそうになった。ところがどうだ、驚くべきことに彼女の身体は壁を透けて中に入って行ってしまった。
あっけにとられている間に、俺もまた壁の向こうに抜けていた。
自分の身体を触ってみるが、別に腕が胴体を突き抜けたりはしなかった。叩けば痛みが返って来たし、着込んだコートの感覚もちゃんとあった。
滝の裏の洞窟を、彼女は当たり前のものとして進んでいく。
そして急に開けた明るい場所に出て、彼女は俺を振り返った。
「着いたぞ」
目の前に広がる光景に、俺は言葉も無かった。
そこは洞窟内に出来たドームのような大きな空洞だった。だが、ただ大きいだけの空洞では無かった。空洞全体が淡く光っていたのだ。
壁一面に、薄青色に照らされた氷柱が垂れ下がっていた。地面に手を伸ばそうとする氷柱の群れを見ていると、冷気と言うのは天上を支配する存在なのだと言われても信じてしまいそうだった。
いや、氷柱だけでは無い。床からもいくつもの氷が伸びている。これは、氷筍か。
氷柱と一体となって巨大な柱のようになっているものもあれば、空に向かって伸びようとする新芽のようなものもあった。
下界とは、まるで別世界だ。
壁も柱も、目に見えるものすべてが青く、白く、宝石のように違った輝きを宿していた。
恐らく洞窟のどこかから差し込んだ光が複雑な屈折を繰り返した結果なのだろうが、そんな自然の神秘さえ、この精霊の手によって行われているように錯覚してしまう。
「どうした。休むのだろう?」
「あ、ああ」
俺は荷物をおろし、中からキャンプ用具を取り出そうとして気が付く。
「そう言えば、ここで火を使ってしまってもいいのか?」
「何の心配がある?」
「周りの氷が溶けたり、お前自身が溶けたりとかは」
グラキエスは俺が手に持った炎の魔晶石を見てから、目を瞑って首を振った。
「ありえない。永遠ともいえる程の長い期間、休むことなく冷気を溜め込んできた氷の結晶だ。いくら炎の魔力が込められていようが石ころ一つの炎程度で溶ける事は無い」
誰の目にも触れることなく、ただ氷の精霊と共に冷気をその身に溜め込んできた氷の部屋か。
「下手に触ったら、魂まで凍ってしまいそうだな」
彼女は何も言わず、俺を見下ろすだけだった。
「……何とか言ってくれよ」
俺はため息を吐きながら三脚スタンドを用意して、その下に魔晶石を置く。
火をつけるべく魔晶石に精神を集中しようとするものの、グラキエスの言葉が俺の集中力を掻き乱した。
「かもしれん。くれぐれも気を付けてくれ」
「お前なぁ」
「冗談ではない。強力な冷気は魔力でさえ凍らせる。魂が凍りついてもおかしくは無いだろう」
俺はぎくりとしつつも、精神を集中する。魔晶石に念を送ると、石の中心から温かな橙色の炎が噴き上がり始める。
良かった。寒すぎて付かないかと思ったが、そんな事も無かったようだ。
俺は鍋の中に水の魔晶石を砕いて入れ、これまた念を込める。鍋の中で石が弾け、鍋いっぱいに水が満ちた。
暖かな炎の上に陽炎が揺らめき、鍋からも少しずつ湯気が上がり始める。
上着を脱ぎ、俺はその場に腰を下ろした。
炎の灯りと言うのはどうしてこうも人を安心させるのだろう。
だが……。
「なぁ、お前も休まないか」
グラキエスは相変わらずの無表情で空中をふわふわと漂い続けていた。感情の籠らない瞳でじっと見下ろされ続けては、何だか居心地が悪い。
「別に、私は疲れていない」
「そう上から見られていては俺が落ち着かないんだよ」
グラキエスはしばし何も言わず俺を見下ろしていたが、ついには渋々と言った感じで目を伏せて地面に腰を下ろした。
何も言わず、俺の隣に並ぶ。
「済まなかった。お前が疲れたのは、多分私のせいだ」
グラキエスは炎をじっと見つめたまま、俺の方を見ずに言った。
「何でそんなこと言うんだ。むしろお前のおかげであまり苦労せずにここまでこられて感謝しているくらいだよ」
「……お前は気が付かなかったかもしれないが、私の冷気はお前の身体から精を奪っていたはずだ」
「休めばよくなる。それに俺の方が助けてもらっているしな。気にしないでくれ」
ティアはちらりと俺を見て、また視線を戻した。
「なら、いいんだが。あと、お前と言うのは止めてくれ。私の名前はティアだ」
「ティアか、儚げで綺麗な名前だな。良く似合っている」
ティアはゆっくりと俺の方を向き、澄んだ瞳で覗き込んできた。
「そうなのか? 良く分からないな。お前の名は?」
「俺の名前はソル。姓は分からない。名前だけだ」
「そうか。私と一緒だな」
ティアは何度か俺の名前を舌の上で転がしてから、小さく頷いた。
「ソル、これからどうする? いつまでここで休むつもりだ?」
「天気次第かな。吹雪が続いている限りここで大人しくしていた方がよさそうだ」
俺は沸いた湯を使って紅茶を淹れる。
ティアが飲むかは分からないが、コップは二つにしておくか。
フラスクに入れておいたウィスキーを少し垂らしてから、俺は彼女にもそれを手渡してやった。
「何だこれは」
紅色の水面を眺めながらティアが呟く。
「紅茶だ。体を温めるために飲む。ティアには必要の無いものかもしれないが」
俺は一口あおって一息つく。鼻腔に広がる豊かな香りと、ほのかな甘み。喉奥を流れ落ちていく熱の感覚。身体の芯が少しは暖まってくる。
ティアは相変わらずカップを見つめたまま顔を上げない。
青い瞳に紅茶の赤が揺れていて、濡れているようにも見える。肌理細やかな頬に髪が掛かる。きっといい匂いがするんだろうな。寒くて鼻が利かないのが悔やまれる……。
「てぃ、ティアはどうして俺を手助けしてくれたんだ」
俺は上ずった声で話しかける。何か話していないと良くない気持ちを抱きそうだった。
「言ったろう。お前が山に居ると不快だからだ」
名前を聞いて少しは仲良くなれたと思ったのだが、彼女の中では俺はやっぱりそう言う扱いなんだろうか。分かっていても、少し辛かった。
「お前が辛そうな顔で山を登っているのを見ていると胸が痛くなる。一度姿を見失ったときなど、急に脈が激しくなって、息が切れて生きた心地がしなかった。……お前が山に登る度、私は嫌な気分になってばかりだ」
「それって」
「一度山頂の景色を見せてやればお前もむきになって山に入る事も無くなるだろうと思ってな。取り立てて面白い景色でも無いが、自分の求めていたものがどれだけつまらないものかを理解すれば、もう二度とここには来ないだろうと思ったんだ。
お前が来なければ、私も自分の役目に集中できる」
一瞬何か期待してしまったのだが、やっぱり気のせいだったらしい。無表情で山に入るなと言われてしまっては、可能性も何も無いだろう。
笑えるな。精霊と人間なんて、分かり合える可能性なんて初めから無いのに。
命を助けてくれるのも、それがティアの役目だからだ。彼女はただ淡々と仕事をこなしているだけ。何度も助けてもらったからと言って、別に特別な感情があるからでは無いんだ。
それくらい彼女の愛想の無さを見ていれば分かる事だったじゃないか。
「そうだな。登頂したら、この地を去るよ」
「あ……」
「ところで、ティアはいつもは何をしているんだ」
ティアはコップをそばの床に置いて、深く膝を抱えた。
「山を見守っている。遭難者が居ないか見張っていたり、雪が崩れて下界に影響が出ないように管理もしている」
「仲間とやっているのか」
「いや、私一人でだ。私は氷の精霊の中でも力は強い方だ。この山一つ守る程度、造作も無い」
「でも、寂しくは無いのか」
ティアは顔を上げ、不思議そうな目で俺を見た。
「寂、しい?」
「誰かの顔を見たいとか、言葉を交わしたいとか、触れ合いたいとか、たまにはそういう風には思わないのか?」
「思わない」
ティアの視線が揺れながら俺から離れる。
「私は氷の精霊、氷の女王にこの山を守るように仰せつかっている身。それ以外の事に興味は無い。
それに、氷の精霊である私は寒さなど感じない。お前たち人間や他の魔物娘達のように、互いに温めあうために寄り添い合い、まぐわい合う必要など無いのだ」
言っている事はもっともなのだが、俺にはティアの言葉が、その生き様がとてつもなく寂しいものに思えた。
この雪だけの世界でただ役目を果たすためだけに生きていく彼女。なまじ力が強いばかりに仲間からも離れて、独りぼっちで。
急に彼女の身体が小さく見えた。膝を抱えるその姿も、寒さに身を縮めているようにも、自分の身体を抱いているようにも見えてくる。
いくら寒さに強かったとしても、それが孤独への強さに繋がるわけでは無いだろう。
彼女に声を掛けたかった。だが、何を言えばいいのか分からない。何を言っても彼女に届かない気がして、結局何も言えなかった。
俺はぬるくなった紅茶と一緒に煮え切らない自分の気持ちを飲み込む。
息を吐くと、ティアは何か言いたげに俺の方を見ていた。
「何だ」
「お前に頼みがある。ちょっとこっちを向いて腕を広げてみてくれないか」
ティアは小さな声でそう言った。
俺は何も考えず、言われるままに腕を広げる。
すると、あろうことかティアがいきなり俺の胸の中に飛び込んできて、背中に腕を回してしっかりと抱きついてきた。
何が起こっているのか分からない。胸の中のティアは相変わらず無表情で、……いや、少し目を細めているようだ。
「ティア? なにを」
「人間や魔物娘達がしている事を試してみたいと思ったんだ。山の案内の対価だ、これくらい付き合ってくれ」
「それは、構わないが」
しかし、長時間このままだと少し危ういかもしれない。彼女が触れている部分からどんどん温もりが奪われていく。
胸の中で切ない気持ちが膨れ上がってくる。いつもはちゃんと封をしている感情の蓋が開いて、それらが顔を出してしまう。
俺は今、何をやっているんだろう。人っ子一人いない洞穴で、気持ちの通じない精霊に実験のような事をさせられて。
結局どこに居ても、誰と居ても自分は独りなんだよな。その感情から逃げるように山に籠っていたはずなのに、彼女の傍に居れば居る程、それを強く実感させられてしまうみたいだ。
ペンションのオーナーも奥さんも俺に良くしてくれるし、顔なじみのお客さんも懇意にしてくれている。でもみんなには代えの効かない愛するパートナーや、恋人が居る。
自分は違う。俺は誰にとっても代わりのきく存在だ。
周りからすれば別に俺である必要は無い。同じ仕事や役割を果たせればそれでいいんだから……。
この山を登りきる事を目標にしてきたけど、登り切ったからと言って、それが何だというのだろう。誰も知らない山に登ったって、誰が認めてくれる? 何を認めてくれる?
結局俺一人の自己満足で終わるだけだ。俺の中だけで完結しているだけじゃないか。
駄目だ。この寒さに俺は耐えられない。ティアには悪いが、身体を離して……。
『あぁ、駄目だよダーリン。一人で外でたら寂しい寂しいよ』
『ちょっと外に出るだけですって、玄関先の雪を掃きだすだけですよ。すぐ戻りますから』
『でも駄目よ。寂しい寂しいと寒い寒いになるよ。私が抱きしめて暖めてあげるよ』
ティアの細い肩に手を置いた瞬間、急にオーナー夫婦の事を思い出した。
寂しい寂しいと、寒い寒い、か。
俺は肩にかけていた手をティアの背中と腰元に滑り込ませ、しっかりと抱きしめる。彼女が少し身じろぎしたが、構わず強く肌を寄せ合った。
オーナーの奥さんは少し変わっていて、いつも寒い事と寂しい事を同列に扱っている。だから旦那さんや子どもが少しでも寒い思いをするとすごく心配するし、寂しい思いもしないようにいつでも寄り添い、抱きついている。もともとイエティだからそう言うところがあるのだろうが、奥さんの中ではその行動は凄く理にかなっているのだ。
今、その理屈が何となく分かった気がした。
この冷気が彼女の魔力によるものじゃ無く、彼女自身の寂しさによるものだとしたら。
俺は少しでも暖めてやりたいと思う。仮に俺の身も心も凍えたとしても、それで少しでも彼女が暖まるのならば望むところだ。
「もういい。離してくれ」
「駄目だ。俺達人間は身体を温めあうためにもこうして抱き締めあうんだ。ティアの身体は、まだこんなに冷たいじゃないか」
「私は氷の精霊だ。それが当たり前なんだ。これ以上続けたらお前の身体が持たないぞ」
嫌がるように胸を押されては、腕を離すしかなかった。
渋々俺が身を離すと、彼女は俺の胸に手を当てて、まっすぐに俺を見上げてきた。
長いまつ毛が震えている。
ふっくらとした唇から目を離せなくなる。
青い二つの宝石が、俺の目をじっと見上げている。
「ティア、んっ」
彼女の唇が、二度、三度と俺の唇をついばんでくる。彼女の唇は柔らかくて、少し濡れていて、そしてあたたかかった。
ティアは息を吐き、寂しげに微笑んだ。
「やはり私には、必要ないもののようだ」
紡がれた言葉が、俺の心を凍らせる。
ティアが立ち上がり、天井に向かって飛んでいってしまう。
「おい、ティア!」
「安心しろ、ちょっと見回りに出るだけだ。吹雪が止む頃には戻る。ゆっくり休んでおけ」
ティアは俺に背を向けてさらに高く舞い上がる。
やがてその身体は天井の壁の向こうに消えてしまった。
「自分からしといて、必要ないって何なんだよ」
俺は舌打ちして、唇に触れた。そこにはまだ、口づけの余韻の熱がしっかりと残っていた。
痛む胸を押さえながら、ティアは一心不乱に山頂を目指して飛んだ。
雪雲を越え、月光の照らす雲上へ突き抜けて、ようやく息を吐く。
唇を指でなぞりながら、ティアは目を伏せる。あの男が来てからだ。あの男が山に登るようになって、自分は変わってしまった。
それまでは山の麓で身を寄せ合う人間達の事も、魔物娘と男の交合を見ても何も思わなかった。興味さえなかった。
それなのに、あの男を、ソルを何度も助けてやるうちに人間や魔物娘のやっている事が気になるようになってしまった。
イエティを始めとする雪山の魔物達や人間は皆、微笑み合いながら身を寄せ合い、口づけを交わし、肌を重ね合う。
だから自分も試してみようと思った。誰かと寄り添い合う事はそんなに気分がいい事なのかどうか。
でも、結果は落ち着かない気分になっただけだった。離れた瞬間など、胸に痛みすら感じた。この上肌まで重ねていたら、痛みで気が触れてしまっていたかもしれない。
だからソルは死にそうになる度、自分を見て微笑むのだろうか。胸が震えるから、痛いから……。
楽しげに見える魔物達や人間達もこんな気持ちなのだろうか。微笑みは楽しい時に浮かべるものだとばかり思っていたが、違うのだろうか。
ティアは頭を振って考えを切り替える。
彼等がどう感じていようが自分には関係ない。抱き合って口づけしてもあんな気持ちになり、胸が痛くなるだけなら、やっぱり自分には必要の無い事なのだ。
それだけ分かれば十分だ。
ティアは両手を広げて、意識を空に広げる。雪と対話し、風に乗って山中を駆け巡る。
中腹の地中でワームと人間が激しく交わり合っている。麓の森の中ではグリズリーの親子が寄り添い温めあっている。大きな家の中で、小さな子の居るイエティの親子が食卓を囲んでいる。
他にも、この山にはたくさんの魔物娘や人間達が、動物達が生きている。
独りで凍えているものは誰もいなかった。死に瀕しているものは誰もいなかった。
ティアはほっと息を吐き、硬い光を降らせる月を見上げた。
夜は危険だ。この時間に独りになれば、生き物は簡単にその命のぬくもりを失ってしまう。
氷の女王の加護に感謝を捧げつつ。ティアは一人だけ例外が居たことを覆い出した。
彼女の脚の下。洞穴の中、独りで丸くなって眠るソルが居た。
翌朝。俺達は日が昇って早々に山頂に向かって歩き始めた。
結局ティアが戻ったのは今朝になってからの事だった。俺が食事を終え、片づけが終わるころになってようやく彼女は洞窟の中に姿を見せたのだ。
一晩中見回りとやらをしていたのだろうか。だが昨日の紅茶のカップも空になっていた。もしかしたら俺が寝ている間に戻っていたのかもしれない。
昨日はどうしてあんなことをしたのだろうか。紅茶は飲んだのだろうか。
彼女は何も言わず、昨日の事などまるで何も無かったかのような無表情で俺の手を引くだけだった。
「あの部屋、夜も綺麗なんだな」
俺は彼女に聞こえるよう、大きな声で話しかけた。
彼女は答えない。
「真っ暗になる割に、氷の所々がきらきら光ってて、まるで星の海にいるみたいだったよ。折角綺麗だったのにもったいないじゃないか。何で帰って来なかったんだ?」
「私はお前の相手だけをしているほど暇では無い。それに、あそこは私の住処だ。それくらい何度も見ているさ」
「そうじゃない。俺はティアと一緒に見たかったんだ」
つないだ手の平がぴくりと動いたものの、ティアは何も言わなかった。
それから俺も黙り、俺達は黙々と山道を歩き続けた。
雲のかかる斜面を抜けると、一気に視界が開けた。
白く、太陽を突き刺さんとばかりに鋭くそびえる山頂が目に飛び込んでくる。あれがこの山の天辺。長い間夢見つつも、見る事すら叶わなかった遥かな高みか。
ティアの案内と加護があるとはいえ、ここまで来ることが出来たことに俺は素直に興奮してしまっていた。まだ体力は十分に残っている。今度こそ、今度こそは登頂できるんだ。
「ソル、水を差すようで悪いがこの先の雪には十分気を付けてくれ」
「危険なのか? 俺にはこれまでと何も変わらないように見えるが」
「ここより上の世界は冷気元素の吹き溜まりになっている。当然周囲の雪も常に冷気元素に晒され、その身に溜め込んでいる。
昨日の話ではないが、気を確かに持たないと冷気の元素に魂を侵食され、身も心も凍り付いてしまうかもしれない」
「ティアは大丈夫なのか?」
彼女はこちらを振り向き、目を合わせてくる。
「当たり前だろう。私は普段ここから山を見下ろしているのだから」
「だからこそ、だよ。寂しくはないのか?」
俺は周りに腕を広げる。雲海も、その上に広がる斜面も、全て雪に漂白されて真っ白になっている。太陽の浮かぶ空の青でさえも寒々しく映る。
「こんな何も無いところに、一人で」
ティアはしばらく俺の顔をじっと見ていたが。
「行くぞ」
と言って再び俺の手を引いた。
頂上にたどり着けば、きっとえもいわれぬ喜びと大きな達成感に包まれると思っていた。
だが、予想と現実というものは大きく違うもののようだ。実際、頂上までたどり着いた俺には何かを考えている余裕なんてなかった。
ただ、目の前に広がる圧倒的な光景に言葉を失うばかりだった。
何と表現したらいいだろう。
頂上の雪を踏みしめた瞬間、俺は地平線の彼方まで続く虹色の雪原を見た。
さっきまで丸い太陽があった場所には、七色の柱が立っていた。まるで世界を支える柱のように、それは圧倒的な存在感と共にそこに屹立していた。
煌めく波が至る所で寄せては引いて、ぶつかって虹色を散らしていく。
ここが、ティアの世界。
「凄いところだな。虹の中に居るみたいだ」
「そう見えるだけだ。光と色が声を重ねて歌っているように見えるかもしれないが、これはただ単に結晶化した水や大気の元素に太陽光が乱反射しているだけに過ぎない」
「結晶化した元素?」
「そうだ。冷気の元素が高まっているここでは、何物も結晶化をまぬがれることは出来ない。もしかしたら光や音でさえ凍りついているかもしれない。
結晶化したそれらがぶつかり合い、砕けて、色々な物が乱反射を繰り返しているから、こんな風に見えているだけなんだ。本当は何も無い。
気を付けろ。いい気になって足を踏み外せば、即刻雪に覆われて死んでしまう」
鈴を鳴らすような音がする。いや、笛の音だろうか。
澄んだ音色が踊っている。舞い散り、跳ねまわる光と共に、はしゃぐ子どものように俺達の周りを取り巻いているのだ。
いや、違う。きっとこれも音に宿ってる元素が凍り付いて砕け散った結果に過ぎない。
世界のあらゆる物には元素が宿っているんだ。俺の隣の存在が、その何よりの証明だ。氷と冷気の元素の集合体。氷の精霊グラキエス。元素が無ければ、彼女達精霊の存在もあり得ない。
「ようやく、ティアと同じものを見る事が出来た」
ティアの身体からぼんやりとした光が立ち昇る。それは身体から湧き上がる度にすぐに細かな光の粒子になって宙に広がっていく。
彼女はこんなにも美しい。
それに比べて、俺はどうだ。殺した獣の毛皮を何重にも纏い、今にも倒れそうな程に荷物を背負って、地面を這うようにしてようやくここまで登ってきた。
やはり、住む世界が違うんだ。
「俺、帰るよ。もうここには来ない。今まで世話を掛けて悪かった」
「……そうか」
「最後に一つだけ、頼みがある」
「何だ?」
この願いが叶うなら、きっとティアに会えなくなってもしばらくは寂しさを忘れていられるから。
「もう一度だけ、キスしてもいいかな」
ティアの目がゆっくりと見開かれていく。無表情で断られるとばかり思っていたのだが、そのあとの彼女の反応は意外な物だった。
唇を撫でて目を伏せ、逡巡するかのように視線を泳がせたのだ。
「いや、いいんだ。忘れて」
「分かった」
彼女は目を瞑り、俺に身をゆだねた。今度は俺が目を見開く番だった。
俺は壊れ物を扱うように彼女の肩を慎重に抱き、顔を近づけていく。
彼女の身体から甘い匂いがした。初めて感じた彼女の匂いは、春先に咲いた花のようなみずみずしい香りだった。
俺はなるべく優しくティアの唇に自分の唇を押し付ける。
彼女の唇はやっぱり柔らかくて温かかった。昨日のぬくもりは気のせいなんかじゃ無かったんだ。
ずっとそうしていたかったが、そう言うわけにもいかない。名残惜しかったが、俺は彼女の身体を離した。
「……何なんだ?」
ティアは呆然とした表情で呟いた。頬が何かで濡れていた。
「ティア?」
「何だこの気持ちは。お前のせいなのか?」
ティアは涙をたたえた瞳で俺を睨みつける。俺との口づけがそんなに嫌だったのだろうか。……それならいっそ断ってくれればよかったのに。承諾してから怒るなんて、あんまりだ。
「お前が出て行けば、厄介事は無くなる。なのにどうしてこんなに胸が痛いんだ! 昨日は何も感じなかったのに、唇同士が触れ合っただけでなぜこんなに胸が震えるんだ!」
ティアは泣きじゃくりながら俺の胸に飛び込んできて、力ない拳で俺を叩く。
「お前のせいだ。お前さえ来なければこんなに苦しまずに済んだ。お前さえ居なくなれば……。居なくなればいいのに、どうしてそれを考えただけでこんなに胸が苦しくなるんだ」
「ティア、俺は」
泣かせるつもりなんて無かった。最後の別れ際にそんな悲しい表情は見たく無かった。
どうしたらいい。ティアは俺のせいで泣いているのか? 俺がキスしたから? これから離れ離れになるから? それとも、やはり俺の存在そのものが彼女を苦しめているのか?
俺は、彼女から離れるべきなのか? でも、離れても彼女を苦しめるのだとしたら、だったらどうすればいいんだ。
どうすればいいか分からなくて、俺は頭を抱える。不安と後悔で気分が沈み込んだ、その瞬間だった。
俺の全身を激しい寒気が包み込んだ。
心臓を氷の手で撫でられ、包み込まれる。冷気が心臓から根を張るように全身に広がり始める。いや違う、冷たく感じるのは体温が残っていたからで、つまり俺の全身は、もう?
忘れていた。ここは一瞬でも気を抜けば魂さえ凍ってしまう冷気の元素の真っただ中だという事を。
「ソル? どうしたんだ、ソル!」
「ティア。悪い、俺もう」
意識が急激に遠ざかっていく。ちくしょう、これで終わりなのか?
ごめんなティア。お前はきっと嫌がるだろうけど、本当は俺、お前と一緒に……。
***
夜空に浮かんでいた。
どこを見ても星が煌めいている。一人で星の海に沈んでしまったのだろうか。身体の感触から察するに、どうやら俺は裸らしい。海の中なら、それも当たり前か。しかしその割に寒さは感じない。
全身を、柔らかくて暖かい感触が包み込んでいた。
「ここは、天国かな」
「良かった。生きていた」
誰かの声が聞こえる。綺麗な声だ、きっとずっと聞いていても飽きないだろうな。
「ソル!」
ティアだ。ティアが涙ぐみながらも、笑って俺の顔を見下ろしている。
こんな顔もするんだな。笑った顔を見るの、初めてだな。やっぱり綺麗だ。
「私、ようやく自分がどういう気持ちだったのか分かったよ。ソルの事が好きだ。あの胸の痛みはその裏返しだったんだ」
ティアが俺の事を? 夢にしちゃ、悪くないな。
「ソルが倒れた瞬間、凄く怖くなった。ソルが死んでしまうかもって思った瞬間、体が急に震えだしたんだ。凍えた人間のように。
人間が一人死ぬだけなのに、世界が終ってしまったような気がした。気が狂うかと思った。がむしゃらでソルを抱いてここまで運んで来た。あとはよく覚えていない。ソルを助けたくて、それだけだった」
熱い雫が俺の胸に落ちる。
「ソルが居ない世界では生きている意味が無いと思ったんだ。お前がそばに居てくれないと、胸の痛みが止まらないんだ。
お前を見るたび辛かったのはきっとまた離れていってしまうと思ったからだったんだ。ずっと一緒に居たいのに、人間の身体じゃ、私の世界では生きていけないから。だから」
ティアは裸で俺の身体の上に覆い被さっていた。ずっと感じていたぬくもりは、もしかしてティアの身体の暖かさだったのか?
「ソル。私と、一緒に居てくれ。お願いだ。お願い……」
胸に顔を埋めるティアの髪を撫でる。
「ティアの身体、あったかいよ」
「必死だったんだ。ソルが凍死してしまうかと思って、温めなければと思って、自分でも何が起こったのか分からない。でも」
ティアは目を細め、笑った。
「良かった。こうしてまた話せて、ソルが生きていて本当に良かった」
俺は起き上がって自分の身体を確かめた。
パンツすら履いていない、本当の全裸だった。
どうやらここは昨日泊まったティアの住処のようだ。壁面の様子から察するに、外は夜か。
背中の下には寝袋と毛布が敷かれていた。恐らくティアが俺の荷物の中から引っ張り出したんだろう。おかげで背中が冷えずに済んだ。
「俺の服は」
ティアの指差した先を目で追うと、凍りついた何かの塊が転がっていた。
「雪の中に倒れ込んだんだ。それで全部凍ってしまった。何とか急いで抱き起してここに運んだから、身体の方は大丈夫だと思う」
ティアは俺に寄り添い、腕を絡めてくる。
触れ合う肌は柔らかく、確かなぬくもりを感じさせる。
いつもの氷の結晶のような装束はどこかに消えていて、その脚も透き通ってはいるものの、人間の脚の形をしていた。
「ありがとう。ティア」
「違う。私が悪かったんだ。私が取り乱したから、ソルを迷わせてしまった。
ずっと出て行けなんて言っていたのに、突然出て行ったら苦しいなんて言って。ソルが戸惑うのも当たり前だ。そのせいで死なせてしまうかもしれなかった。……私を、恨んでいるか?」
不安そうな表情で濡れた瞳で見上げられる。
「そんなわけないだろう。まぁ、今も戸惑ってはいる。ティアは綺麗すぎて、どこか遠い存在で。とてもじゃないがそんな対象とは見られなかったから。
なのに、そんなティアから急に一緒に居てくれなんて言われて。まだ現実とは思えないくらいだよ」
「ごめんなさい。私はソルを辛い目に遭わせてばかりだね。
私は変わってしまった。もう、ソルが見ていてくれた私とは違う存在になってしまったのかもしれない。
多分もう前のようには戻れない。外見は元に戻れるかもしれない。でも心と、身体の中の魔力はもう元に戻れない程変わってしまった。
……もう、一人で居る寂しさと、ソルへの気持ちに気付かなかった頃には戻れない。辛い目に遭わせると分かっていても、ソルから離れたくないんだ。ソル、一緒に居て……」
ティアは俺にしがみつくように、強く腕を掴んできた。
そこに居るのは冷然とした精霊では無く、一人の寂しがり屋の女の子だった。誰もいない、草木でさえも生きられない白い世界で、一人で強がっていた女の子だった。
「決めたよ。この山から出られなくなってもいい。俺はティアと一緒に居る」
ティアは俺を見上げ、大粒の涙を流しながら何度も何度もうなずいた。
少し驚いてしまったせいで即答出来なかったけれど、答えなんて初めから決まっていた。
山に登るのは、ティアにも会いたかったからだ。ティアと一緒に居るために何かを手放せと言うのなら、俺は何だって喜んで手放してやる。
腕の中に、ずっと手の届かない存在だと思っていたティアの暖かい身体がある。
それだけでも満足してしまいそうなのだが、俺もやはり一人の男だった。我慢はしていたのだが、喜びのあまり抱きついてきたティアの身体にどうしても反応してしまう。
しなやかな腕が、柔らかな太腿が触れる。乳房が押し付けられて、形が変わる。
下半身に血液と熱が集中してしまうのを止められない。ティアが欲しい。でも、ティアはそういう事とはまるで対極な存在に思えるしなぁ。
「ソル……」
ティアが視線を落とし、俺が硬くなっている事に気が付いた。
「気にするな。これはその、生理現象だ」
「私と、したいか?」
胸の中から見上げてくるティア。俺は生唾を飲み込みつつ、ぐっと自分を抑える。
「私は、したいぞ」
俺は耳を疑った。ティアが、俺と?
「おかしいか? 愛し合うもの同士はそうするんだろう? 男に抱かれている魔物はみんな幸せそうな顔をしている。私もソルに抱かれた時にどんな気持ちになるのか、知りたい」
「俺もしたいよ。ティアの身体、すごく綺麗だ。俺も、ティアの事をもっとよく知りたい」
肩を抱き、彼女を丁寧に寝袋の上に横たえる。
俺はティアの目を見つめたまま唇を重ねる。潤んでいく瞳を覗き込みながら、唇を割って舌を入れる。
ティアの舌は躊躇いがちに俺の舌に触れてくる。俺は彼女のそれを飴玉のように優しく舌の上で転がし、氷を舐め溶かすように丁寧に舌を絡めていく。
「んちゅっ。もっと激しくてもいいんだぞ? 私に気を使ってくれるな。ソルのしたいように、していい」
「優しくしたいんだよ。君の心を、もっととろけさせたい」
俺は耳の裏に舌を這わせ、そこからゆっくりと首元に舐め下ろしていく。匂い立つようなティアの肌は、絹のように滑らかだった。
胸元の二つの丘陵を前にして、ティアは小鳥のような声を上げる。
「ソル。手、繋いで」
手探りで彼女の手を捜し、しっかりと指を絡めて固く繋ぐ。
もう片方の彼女の腕が俺の髪を撫でてくる。俺はそのお返しとばかりに、乳房に優しく触れた。
形を確かめるように撫で、それから手の平で覆い隠すように全体の感触を楽しむ。
舌の方も忘れていない。撫でていない方の乳房に跡をつけながら舐め上げていき、乳首にたどり着いたところで、大きく口を開いてむしゃぶりつく。
「熱い。ソルの手も、舌も」
ティアの腕が俺の頭を掻き抱き、俺を胸の中へといざなう。
「溶かして。どろどろになるまで、そしてあなたの好きな形に変えて」
その言葉は俺の理性を飛ばすには十分すぎる力を持っていた。
俺は胸への愛撫を止め、再び彼女の唇を奪う。今度は少し強引に、口の中を蹂躙するように、激しく舌を絡める。
「ティア」
「うん。一つになろう?」
震える声がさらに俺の脳を溶かしていく。
ティアの少しひんやりとした手が、俺の股間の分身にそえられる。まるでそこに俺の全ての熱が集まっているかのように、そこだけが無性に熱く、それゆえに外気の冷たさが切なかった。
ティアの柔肉に触れ、ぬちりと音がした。
頬を染め、目を逸らしながら中へと導こうとするティアに、俺はちょっと意地悪をする。
「ティア、ちゃんと見て。じゃないとこれ以上しないよ」
ティアは抗議するような声を上げたものの、素直に俺に従ってくれた。
一度見始めると、もう目が離せなくなってしまったようだった。ティアは明らかに自分の身体に入ってくる俺自身に見蕩れていた。
ティアの体内では膣肉が、外では視線が絡み付く。俺のものはさらに熱く滾るようだった。でもまだ足りない。もっと熱く。もっと彼女をとろけさせなくては。
「はい、入ってくる。ソルの、熱い」
「熱い、何?」
「おちん、ち……むぅぅ」
「ごめんね。でも、照れたティアも可愛いよ」
「あまり意地悪しないでくれ。こんな事は初めてなんだ。……くぁっ、そんな、深くまで」
俺の全てがティアに飲み込まれ、そして一番奥にたどり着く。
正直、この状況でもかなりきつかった。
外見の冷然とした美しさとは裏腹に、ティアの膣肉は彼女の愛や温もりが凝縮しているかのように滾っていて、今まで抑え込まれていた欲望がそのまま嵐になったかのように激しく絡み付いて搾り上げようとして来るのだ。
俺は歯を食いしばり、腰を引く。絡み付いた無数の襞が俺を膣内に引き留めようとすがりつき、強く吸い付いてくる。
「あ、あ、あああっ。いやぁ」
ティアの顔がみるみるうちに泣き顔に変わっていく。俺は慌てて動きを止める。
「ごめん。痛かったか」
「凄く、凄く胸が苦しくなったんだ。いつも倒れたソルを里に届けた後の感覚に似ていた。ソルが私から抜けていってしまうと思ったら、胸が引き裂かれるような感じがして」
ティアは震える瞳を俺に向ける。
「安心して。痛みはほんのわずかだった。喜びに比べたら無いような物だった。
ソルが入ってきた瞬間、痛みなんて忘れてしまうくらいの、これまで感じた事の無い喜びを感じたよ。本当だぞ!
でも、だからこそソルにはずっと私の中に居て欲しいと思ってしまった。少しでも長く、深いところで繋がり合っていたいんだ」
「分かった」
俺は再び腰を沈める。
「あ、ぅあ。ソル。ソルぅ」
俺の全てをティアの中にねじ込んで、何が起きても離れないようにしっかりと彼女の背に腕を回して抱きしめる。
「そ、そうだ。私はこうしたかったんだ。温かいソルに包まれて、ソルを私の中にしっかり抱きしめて」
「気持ちいいか?」
「気持ちいいよ。とても気持ちいい。胸が熱くなる。でも、嫌な熱さでは無い。心地よくて、体も心も満たされる感じがする。こういうのを、幸せというのかな。
……済まない。好きにしていいなんて言ったのに、わがままを言って」
「いいんだよ。ティアが喜んでくれるなら、俺はそのほうがいい。ただ、少し言いずらいんだけど」
ティアの感情が昂るにつれ、その膣内の蠕動も激しくなってきている。肌が触れている部分からも、ただ触れているだけにも関わらず鳥肌が立つような快楽を覚えてきている。
「すぐでは無いだろうけど、長くは持ちそうにない。ごめんな」
「なぜ謝る。私だって、こうする事の行きつく先の事は知っている。この山で起こる事は大体見ているからな」
「はは、浮気は出来ないな」
ティアが黙ったので、俺は慌てて訂正した。
「俺がじゃないぞ? 俺はそんなに器用じゃない」
「知っている。お前がこの山と私の事しか見ていなかったのは、私が一番よく知っている。でも、繋がっている時にそんな事を言うな」
「……悪かった」
ティアは俺の髪を梳くように、頭を撫で始めた。
「許さない。一生をかけて償ってもらう」
言葉の割に、とても穏やかな口調だった。
「分かった。死ぬまで君に尽くすよ」
「死ぬまで……」
ティアの手が止まる。
そして、俺の肩に顎を乗せるように深く抱きついて来て、急にさめざめと泣きだし始める。
「どうしたんだ急に」
「私は愚かだった。ソルがいつか死んでしまう事を忘れて、こんなに素晴らしい悦びを知ってしまった」
「今から俺が死ぬことを考えるなよ」
「だって、人間の一生なんて私の時間から言えばあっという間なんだぞ! お前を失ったら、もう私は生きていけないよ。ずっと悲しみを抱えたまま、お前を想いながら死ねずに生き続けるしかないなんて、きっと死ぬより辛い事だ。
……嫌だよ、そんなの」
「あのさ、ティア」
「お前が山に入って来た時の胸の感じは、高鳴りだったんだ。落ち着かないのはいつ足を踏み外すんじゃないかという不安だったんだ。
本当に、私は……。抱きしめたときだって、嬉しくて胸がどきどきして息苦しかっただけなのに、苦しいだなんて思い込んで。
もっと早くお前への気持ちに気が付いていればよかった。素直になればよかった。そうすれば一分一秒でも長く居られたのに。
それが出来ないなら、いっそのことずっと気持ちになんて気が付かなければよかったのに」
彼女の膣が急激に動きを変えてくる。俺の根元から先端に向かって波打ちながらぎゅうぎゅうと締め上げてくるのだ。
「ちょっと落ち着け。まだ今すぐ死ぬわけじゃない」
いってしまいそうではあるが。ともかく俺も落ち着こう。
深呼吸をし、俺はティアの額に額を重ねて、じっと目を見つめた。
「それにな、寿命を延ばす方法だってあるらしいじゃないか。人魚の血とか、そういう魔法だってあるんじゃないかな。あとはまぁ、ポピュラーな方法もあるな」
「海なんて遥か彼方じゃないか。他に方法なんて……。そうか、私の魔力、か」
「そうだな」
今の魔物の身体には例外なく「サキュバスの魔力」というものが宿っている。その魔力は魔物自体を美しく妖艶に変えたり、魅了の魔法を意図せず発生させるだけでなく、人間の身体にも作用すると言われている。
サキュバスの魔力にある程度晒された人間は、体が彼女達魔物に近づいていくのだという。女性の場合は体も心も魔物そのものに変化していくが、男性の身体には女性とは別の変化が起こる。
男性の場合、姿かたちこそさほど変わらない物の、ずっと魔物に精を提供し続けられるようにとパートナーと同等の寿命を得られるのだという。まぁ副作用として精力絶倫になり、何度連続で交わったとしても満足できない程の性欲の怪物になってしまうという噂もあるが……。
それはともかくとして、だ。この魔物に近づいた男性、インキュバスになれば人間よりもずっと長く、上手く行けばティアと共に天寿を全うできるくらいに長生きできるかもしれない。
ただ、そのためには何度も激しくパートナーと交合し合う必要があるらしいのだ。
ティアにそれを求めるのは、少し酷だろう。
「でも、無理しなくていい。今すぐ死ぬんじゃないんだ、ゆっくり方法をむぐぅっ」
全て言い終わる前にティアに唇を押し付けられた。
舌が俺の口の中を暴れ回る。歯茎を舐められ、歯を丁寧に撫でられ、音が立つほど激しく舌同士を擦り付けられる。
彼女の手がゆっくりと下がっていく。背中を下り、腰を下り、そして俺の尻にたどり着くと、尻を掴んで引き寄せるようにして、自身の中に向かってさらに深い挿入を促してきた。
「ちゅっ、じゅるっ。じゅぅぅうっ。ソル、ちゅぅっ。決めたぞ」
口づけと息継ぎを繰り返しながら、ティアは喘ぐように言う。
「お前を、私の手でインキュバスにする」
「ティア」
「ずっと一緒だ。死ぬまで、私達は一緒に居るんだ。ねぇ、いいでしょ? ……お願いだソル。私を一人にしないで」
「もちろん、だ。一緒に居るよ」
ティア泣き笑いを浮かべながら、自ら腰を動かし始める。そのわずかな動きでさえ、限界が近づいていた俺にとっては致命的な刺激になった。
かりに絡み付いた襞に複雑に吸い付かれ締め上げられる。襞が俺の欲棒をティアの欲望ごと撹拌する。
熱を帯びる。溶かされているのはティアなのか。俺なのか。もうそれすらもどうでも良くなってくる。
「ティア、もうっ。出る」
うっとりとした笑顔を浮かべたティアに抱き寄せられながら、俺は彼女の中心に向かって熱い思いをぶちまけた。
『あぁ、きた。ソルのあっついのが、おなかのなかにいっぱいきたぁ』
射精した瞬間のティアの言葉が、まだ頭の中を回っている。
いつも冷静で落ち着いていて、少し自尊心が高くて、時には高圧的な感じさえあるティアの口からあんな淫らな言葉が出るなんて思ってもみなかった。
そしてそれを、自分は意外にも喜ぶべき事として受け入れていた。
精霊と人間では生きる世界が違うとまで思っていた自分が、手を出す事さえはばかられていた自分が、精霊を自分だけのものにする罪深きことに対して後ろ暗い悦びを感じてしまっている。
だが、罪悪感は無い。
「ソル、気持ち、いいか?」
ティアもまた、それを望んでいるのだから。
ティアは息を弾ませながら、蕩けきった表情で俺の上で腰を振っていた。
俺の手を取り、自分の手のひらを重ねて自らの乳房を揉みしだきながら、腰を振る事だけに夢中になっている。
この光景、見たことがある。あれは確か間違ってお客の部屋の扉を開けてしまった時だったか、サキュバスの女がこんな顔で夫と交わっていた。
「あぁ、気持ちいいよ。最高だ」
頭がぼうっとする。もう何度射精したか分からない。
二人の接合部は、漏れ出した精液と愛液が混ざりあって泡立って、白く粘ついている。
日は昇ったのだろうか。それともまだ夜は続くのだろうか。
「最高なんて、まだまだだぞソル。もっともっと良くして、やるからな。ずっと一緒に、一つになるんだ、からな。ソルの欲望は、全部、全部私が受け入れて、やるからな」
やり過ぎてしまったか。いや、もっと淫らでもいいくらいだ。綺麗なティアがもっと淫らに堕ちていくところを見てみたい。離れることなく、永遠に彼女のそばで……。
ずっと朝なんて来なければいいと思いながら、俺はまた、彼女の中で想いを爆発させる。
横になった俺の隣で、ティアは両手で顔を覆っていた。
周囲の氷壁が光り輝いている事から察するに、もう外は朝らしい。いや、昼かもしれない。
「どうしたんだよティア」
「……恥ずかしぃ」
「ずっと腰振ってたもんな。いい顔してた」
平手で腹を引っ叩かれた。
「痛いじゃないか。誰かさんがあんなに搾り取るもんだから、もう腕も上げられないんだぞ?」
「あうぅ」
「可愛いな」
「……言うな」
「じゃあ、もう可愛いって言わない」
「……それも嫌だ」
ころころと表情を変えるティアが、なんだか嬉しかった。昨日までのティアは綺麗だったけど、見ているこっちが辛くなるくらいに寂しそうに見えていたから。
「何だ、その顔は」
「いや、俺裸なのに何でこんなに温かいんだろうなぁと疑問に思ってたんだよ。確かに風は吹いてないけど、あんなに厚い氷がそばにあったらそれだけで凍えたっておかしくないだろ?」
「あぁ、それは私が魔法で冷気を部屋の壁側に集中させているからだ。この大空洞の中心から『冷気』を『無くす』ことにより、逆に温かくしている」
うまい具合にはぐらかせたが、これはこれで驚きだ。
「そんなことができるのか」
ティアは得意げだった表情を急に曇らせる。
「ただ、自然法則に対してかなり無理をしているからな、魔力の消耗も激しい。この状態を続けるにはこれまでのような、冷気で奪った冷たい精では私がもたない。
維持するためには……その、定期的に、交わり等によって、体内に直接熱くて濃い精を得る必要があるんだ。だから」
「じゃあここに住もう」
ティアはむっとして食って掛かってきた。
「話を聞いていたのか?」
「毎日俺とえっちすればいいわけだろ。ずっとお前のそばに居て、もっとしたいんだよ。言わせんな」
「ば、ばかぁ」
氷の精霊の透き通るような青い肌が、真っ赤に染まる。
「でも、ありがとう。私を諦めないでくれて、本当に……。大好きよ、ソル」
「……え、何だって? 聞こえなかったな」
「むーっ! もう言わない!」
俺は声を上げて笑った。
それにつられたように、ティアも笑ってくれた。
***
「あー、そこの人景色に見蕩れてロープの外に出ないでくださーい」
山の中腹まで続く登山道を登りながら、俺は依頼人に注意を促す。
今、俺はこの山で登山者の案内をしながら暮らしていた。ティアと一つになったあの日から、ずっと山に居ようと決めたのだ。
「なかなか板についてきましたね」
隣で声をかけてきたペンションのオーナーに、俺は歯を見せて笑う。
この仕事を始めるにあたって、オーナーにはまた世話になってしまった。
突然ペンションを辞めたいと言った俺に対して、怒るどころか逆に仕事を考えてくれたのだ。
おまけに常連客に声を掛けたり、道具や手順を考えたりと色々面倒まで見てくれた。
一人ではきっと出来なかっただろう。
まぁ、ただ単に俺の為を思って手伝ってくれたというわけでは無いようだが。
精霊が棲む山の絶景を見られるとなれば、多くの人が興味を持ってやってくる。そういう観光客たちは日帰りではまず帰れないから、当然泊まる場所が必要になる。つまりはそういう事だ。商魂たくましいというかなんというか。
「そういえば娘が寂しがっていました。今度はいつティアさんを連れてきてくれますか?」
おまけに繁忙期には手伝いに駆りだされている始末だ。
まぁ、俺だって本当に嫌ならティアと一緒に山に引きこもるから、この生活を気に入っても居るのだが。
「もうしばらくしたら寒さも多少は和らぎますから、そしたらですかね。ティアも会いたがってましたよ」
「そうですか。それは何より」
おかげで最近は子どもも欲しいってさらに夜が激しくなったけれども。
「……いい加減、嫌なら断ってもいいんですよ? この仕事だって、私は冗談半分で」
「嫌だったら山になんて登りませんよ」
俺はまだ見えぬ頂上を見上げる。あの虹色の世界は、まだ俺しか知らない。
「好きだからしてるんです」
「ただいま」
凍った滝の洞窟に戻り、俺はティアに声を掛けた。
空洞には大きな絨毯が広げられ、暮らし始めた当初に比べて段々と家具も増えてきた。今ではもう最初に何も無かったなどとは思えない程にぎやかな状態だ。
空中で膝を抱えて浮いていたティアが、ぱっと表情を輝かせて一直線に俺に向かって飛んでくる。
言葉の代わりに何度も口づけし、首元に腕を回してぎゅっとしてくる。
「遅い。嫁を寂しがらせるな」
「いつもより早いはずだが」
「嘘を言うな。私の体感時間ではお前の帰りは日に日に遅くなっている。私がどんな気持ちで待っているか分かっているのか?」
「嘘吐けよ。透明になっていつもすぐそばに居る癖に」
「だって、仕事中は相手にしてくれないし……。あんな何も無いところ見て何が面白いんだ? もっと美しいものや滅多に見られないものは他にもあるのに」
「見せたくないんだよ」
不思議そうな顔をするティアに、俺はため息交じりに答える。
「確かにいろんなところを案内すれば、客は増えるし収入も増えるかもしれない。でも、俺とティアしか知らない、大切な思い出の場所なんだ。誰にも知られたくない俺の気持ちも分かってくれるだろ?」
「ソル……。大好き!」
「俺もだよ。愛してる」
「さぁ、早くインキュバスになって、私をたくさん孕ませてね」
俺は苦笑いしながらティアに押し倒されるように毛皮の上に横になる。あの清廉な精霊が今ではすっかり淫魔じみてしまった。
でも、俺は変わらずティアの事を愛している。だってティアの本質は何も変わっていないから。
「ソルに抱かれると、やっぱりどきどきする。えへへ、もっと触って!」
山の中の全てを見守る、誰よりも優しくて寂しがり屋な美しい氷の精霊を、俺はこの先もずっと愛していくだろう。
12/12/29 21:13更新 / 玉虫色