連載小説
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第一幕:出会い
 朝の八時。すでに太陽は高く昇り、窓から見える外のアスファルトには今にも陽炎が立ち昇りそうな程だ。
 俺は窓を閉めて、ブラインドを落とす。暗くなった監視室は日向よりはましだが、あと二三時間もしない間にここも蒸し風呂へと変貌するだろう。
 そう言えば嫁に初めて出会った日も、確かこんな風に暑い日の事だったんだよな。
 その日の事を思い返しつつ、俺は仕事の準備の続きを始めた。
 机の上に並んだ無数のディスプレイに、端から順に電源を入れていく。
 画面に映り始める様々な場面。お寺から始まって、大正時代の路地裏、西洋のお城もあれば、果てはピラミッドや洞窟まで。
 時間が早いので、どの場所にもまだスタッフは居なかった。
 節操の無しの和洋折衷もいいところで、お化け屋敷としては明らかに場面の欲張り過ぎだったが、意外にも客には受けが良かった。……もっとも受けがいいのは怖さとは別の理由なのかもしれないが。
 ともかく、セット、カメラ共に準備は完了、と。
「楽しそうに笑ってますが、何かおかしいことでもありましたか」
 隣の席から声がかかった。一緒に準備をしていた若いスタッフだ。年季は浅いが、実力は確かだ。ひょっとすると俺以上にこの屋敷内を知り尽くしているかもしれない。
 俺は笑みを堪えながら返事をした。
「いや、ちょっと昔の事を思い出してしまったんだよ。そうだなぁ、開館まではまだ時間があるし、ちょっと昔話でもしようか」
「まぁ確かに、役者もまだそろってませんからね。でも手短にお願いしますよ」
 見事に釘を刺されてしまった。真面目なのはいいが、無駄話するにも抵抗があるようでは少し硬すぎる。
 仕事熱心なのはいいが、そろそろ少しくらい手を抜くのを学んでもいい頃合いか。
「あれは今から、もう十年以上前になるか、まだ魔物の姿も少ないころの話だ。その日も俺はこんな風に監視室で仕事をしていてな……」


 ※※※


 真っ暗な部屋で、俺は無数のディスプレイと睨めっこしていた。
 画面に映るのは病院の一室や廊下、病院裏手の墓場や井戸等々。そのそこかしこで血まみれの手術着を着た男が若いカップルに襲い掛かったり、片目の潰れた女幽霊が井戸から這い出して親子連れを追い回したりしていた。
 夏休みの時期というものはどこであっても書き入れ時で、それは普段だったら閑古鳥が鳴いているような地方都市の遊園地であっても同じことだった。
 うちのお化け屋敷は基本弱冷房だ。客が涼しくなるのは怖がるからであって、監視室の中はじっとりと蒸し暑い。うちわを扇ぎながら、俺はマイクのボタンを押す。
「お岩さん。そろそろ次のお客が近づいていますんで、戻ってくださーい」
 画面上で着物の女性が片手を上げて井戸へと帰っていった。
 今日も今日とて俺は無数のカメラからお化け屋敷の中を監視する。本当は監視員ではなくお化け屋敷プロデューサーなのだが、経営の怪しい遊園地に特別な施設を用意するほどの予算は無く、企画などはほとんどした事も無かった。
 いつかは自分の企画したお化け屋敷をと夢見ているが、それもいつになる事やら……。現実はいつだって厳しい。
 名ばかりプロデューサーである俺の仕事は、経営側と役者側との折衝役や、あとはもろもろの雑務だ。要するに体のいい何でも屋みたいなものだった
 こうやってカメラの映像から館内で異常が無いか見守るのも仕事の一つ。
 恐怖で動けなくなってしまった女性や、迷子になってしまった子供を見つけては、驚かせ役では無いスタッフに伝えて助けに行ってもらう。
 重要な仕事ではあるのだが、だからと言って画面を見ていても面白いわけでも無い。仕掛けの分かっている手品を見ても誰も驚かないのと同じだ。
 怖がるお客の姿を見るのも最初は面白かったが、人間何事もずっと続くと飽きてしまうものらしい。
 だからと言って仕事が嫌いなわけでは無い。お化け役の奴らはみんな面白くて気のいい連中だし、飽きていると言っても、お客が悲鳴を上げながらも楽しんでいる姿を見るのは素直に嬉しい。
 今は夏休みのせいか色々な客が来ていた。小学生のグループ、酔っ払いの大学生集団、練習帰りらしい高校生。果てはコスチュームプレイヤー。
 しかし一番多いのはやはりカップルや親子連れだった。
 悲鳴を上げながら彼らは身を寄せ合う。お化け屋敷としては成功してるのだが、独り身の自分としてはどうしても複雑な気分にもなってしまい……。
 まぁ、気にしていても仕方が無い。無い物を求めても虚しいだけだ。
 今は仕事に集中しよう。ほらまた病院の手術室で子どものカップルが泣き出したぞ。


 黙々と仕事をこなすうちに、だんだんと閉園時間も近づいて来た。
「今のが最後の客ですよね? 締める準備始めますか?」
 出口のスタッフが画面に向かって声をかけてくる。
 お願いしますと返事をしかけて、俺はふと気掛かりになっていたことを思い出した。
 お客が次々と流れていて忘れていたが、コスプレした客がまだ外に出ていないはずだ。
「まだ一人出てないですよね。蛇みたいな格好した人」
「蛇みたいって、うちのスタッフにそんな格好の人居ないでしょう」
「スタッフじゃなくてお客ですよ。受付の人にも聞いてみてください。あんな人忘れるわけないでしょうし」
 出口のスタッフはトランシーバーで受付と連絡を取り始める。だが、連絡を受けた受付も画面に向かって怪訝そうな顔を向けた。
「そんな人入れてませんよ」
 まさか。だったら俺は幻でも見ていたと言うんだろうか。それともお化け屋敷だけに幽霊が……。しかし蛇のコスプレした幽霊が居るとも思えない。
 話が聞こえたらしい他の役者やスタッフたちも首を傾げたり横に振るばかりだった。
「他のスタッフも見てないそうです。じゃあ撤収準備始めますよ?」
「……すみません、分かりました」
「一応お客さんが迷い込んでないか見てもらう事にしますよ」
「ご迷惑おかけします」
 スタッフはカメラに向かって手を振り、駆け出して行った。
 画面上では役者たちが小道具を片付けたり電気を落として撤収作業を進めていく。
 俺は片づけが終わった合図を待ってから、画面の電源を落としていった。
 しかし全ての画面が真っ黒になっても、誰かが見つかったという連絡は無かった。


「役者もこれでみんな出払います。出入口は戸締りしておいたんで、あとはスタッフ用の入り口の戸締りだけお願いしますね」
 受話器越しのお岩さん役の女性の声が、か細い声で続ける。
「あと、今日はすみませんでした。お客が来てるのに気が付かなくて」
「そのために俺達が居るんですから。気にしないで下さい」
「あの、でも」
 しどろもどろになる彼女の声の隙間から、おーい、飲み会行くぞー。という声が聞こえてくる。あれは多分ベテランの血塗れ医者役の声だ。
 流石役者は声が大きい。思わず笑ってしまった。
「そう言えば明日はシフトが変わるんでしたね。飲み会楽しんできて下さいね」
「ありがとうございます、お先に失礼します」
 受話器を置き、俺は背もたれに体重を預けながら思い返す。
 確かに俺は見たのだ。明らかに人間には見えない、特殊メイクレベルのコスプレをした女性がお化け屋敷に入っていくのを。
 青味がかった緑色の長い髪をした、蛇のような下半身を持った女性だった。
 全身の肌が青白く見える程に念入りに化粧をしていて、わき腹には蛇の形をかたどった入れ墨までされていた。
 肌を隠すのは薄いビキニ一つだけで、豊満な胸は生地からはみ出す程大きくて。少し彫りの深い顔はエキゾチックでセクシーで、ぱっちりとした大きな目が印象的だった。
 ……まぁ女性の事を忘れずに覚えていたのも、美人でスタイルのいいその身体を思わずガン見してしまっていたからなのだが。
 あんな美人が恋人だったら人生ももっと楽しそうなんだがなぁ。まぁ、どうせ俺にはそんな縁なんて無いしな。
 せめて妄想の中だけでも、と美人の姿を再度思い描こうとしたその時だった。

 何か金属が擦れ合うような、重い物が地面に叩きつけられるような、がっしゃぁああん、と言うけたたましい音が施設中に響き渡った。

 俺は背筋に冷たい物を感じながらもとっさに椅子から立ち上がり、音のした方に意識を集中していた。
 音は一度きりだけだったようで、それ以降は何の音も聞こえてこない。
 一体何の音だったんだ?
 スタッフが迷い込んで何かひっくり返したのだろうか。誰かに狙われそうな金目の物も特に置いていないので泥棒の線は薄いと思うが。
 ともかく、何かがあったのは明白だ。様子を見に行った方がいいだろう。
 不審者が侵入した場合を考えて武器になる物も持って行った方がいい。俺は工具箱からレンチを取り出した。
 廊下は非常灯が点いているだけで薄暗い。すぐに電気を付けるも、誰の姿も無かった。
 音のした方向にあるのは、備品倉庫と関係者用トイレか。トイレからあんな音がするとは思えない。という事は備品倉庫が本命だな。
 汗ばむ手で静かにドアノブを回し、ゆっくり扉を開けていく。
 何者かの気配がするような気がするが、暗くて良く分からない。ええいままよと電気を付けた俺の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
 ……変わり果てた備品倉庫がそこにあった。お化け屋敷の大道具や小道具を収めていた棚が崩落し、全ての備品がごちゃ混ぜに絡み合うように床の上に山を作っていた。
 衣装やセットも一緒に保管されているのだが、どうやらドミノ倒しのように連鎖して崩れたらしい、もはやどこからどこまでが衣装で、小道具で、セットなのかも分からない状態だ。
 見なかった事にしたい。だがそういうわけにもいかない。
 明日もお化け屋敷を開けなければいけないのだ。ここを楽しみにしているお客さん達、特に子ども達が残念がる顔を見たくはない。
 時計と睨めっこする。今日は早く締めたから、いつもよりは余裕はある。……まぁ、終電までには帰れるだろう。


 片づけは予想を裏切り早く終わった。
 冷静に眺めてみれば棚が壊れたのは一か所だけであり、あとは引っかかったりして崩れただけなのだから、入っていた物をもとに戻せばそれで終わりだった。
 備品整理や節目の大掃除に比べれば大したことは無かった。
 とりあえず無事な棚に備品を片付け終え、一息つく。壊れた棚は、今はどうしようもないので空いている場所に置いておくしかないか。
 残り少しだ、とっとと終わらせてしまおう。
 一つ一つ山から小道具を片付けていくうちに、見たことも無い衣装が見つかった。
 深い紅色の布で出来た、何だろうこれは。拾い上げようとするも、金色の金具が別の備品に引っかかっていて上手く取り出せない。
 金具を辿って備品の中に手を突っ込むと、柔らかい物に触れた。
 半球形をした、片手では収まらないくらいの大きさの何か。表面は絹のように滑らかだ。撫で回して形を確かめると、先端には小さな突起が付いているようだった。
 何の素材で出来ているのか想像がつかないが、ずっと手のひらで弄んで居たくなる魅力的な触り心地だった。握りしめると程よい弾力で指を押し返してくる。枕とかにいいかもしれない。
 などと考えつつ備品の山をどけようとすると、突然目の前で備品が爆発した。
「うわぁあっ」
 身を強張らせて身構えるが、覚悟していたような衝撃が来ることは無く、むしろ何かにぐいと腕を引かれてつんのめってしまった。
 恐る恐る目を開けると、金色の双眸と目が合った。
 目じりを少し下げ、にたりと口の端を上げて笑うそれは、俺が画面で見つけた件のコスプレイヤーだった。
 備品が吹き飛んだように見えたのは、下敷きになっていたこの人が勢いよく立ち上がったからか。
「ふふふ、まさか一日目にして我が迷宮の最奥まで入り込み、不意打ちとはいえこの妾を倒し、子を孕ませようと襲い掛かる強者が現れるとは……。
 認めよう、そなたこそ我が夫に相応しい」
 それは頬を染めて、恥じらうように頬に手を当てていた。
 何? 誰? 何て言ったの?
「いや、あの、あなた今日ここに入ったお客さんですよね。ここに迷い込んじゃってたんですね」
「客? 何を言っておる。立派なたたずまいでありながらも主人が不在であったこの迷宮を不憫に思い、この妾が主人の座に納まってやったのではないか。
 妾もこの世界に来たばかりでちょうど住処を探しておったから、ちょうどよかったのだがな。
 ……まぁ、そなたのおかげですぐに連れ出される事になってしまったのだがな。ふふ、これほどの迷宮、少し勿体ない気もするが、夫に相応しい男が見つかったのだ、これ以上の僥倖はあるまい」
 頭が痛くなってくる。日本語が出来ない人なのだろうか。それとも俺の理解力が足りないのだろうか。何を言っているのか良く分からない。
 迷宮とは、このお化け屋敷の事を言っているのか?
 位置的に壊れた棚の下でもあるし、きっと頭を打ったんだろう。
「不意打ちって、たまたま棚が落ちてきただけですよ……。あ、こぶが出来てるじゃないですか! 大丈夫ですか?」
 女性の頭頂部が少し膨らんでしまっていた。
 見るからに痛々しいのだが、しかし彼女は強がりなのか何なのか、痛がる様子も特に見せずに涼しい表情で続ける。
「罠を仕掛けておいた。そうであろう? ふふ、それにしてもいきなり服を剥いで乳を揉むとは、そなたも積極的なのだな。嬉しい限りだ」
 冷静になって視線を下ろすと、自分の手が思い切り女性の乳房を握りしめていた。
「ごごごごめんなさい」
 慌てて手を離すも、女性は不思議そうな顔で首を傾げるばかりだ。
「何を謝ることがある? 見ず知らずの他人ならいざ知らず、自分の夫に体を愛でられて嫌がる魔物など居るわけがないだろう」
 いや、見ず知らずだって。
 彼女は胸元を隠そうともしない。形のいい乳房を目の前に並べられては、男としてはどうしても目が行ってしまう。
「魔物とか冗談いいですから。早く隠してください。もう閉園になりますから」
「そなた、魔物の事が分からんのか?」
 覗き込むように、息がかかる程にまで顔を近づけてくる彼女。その肌からだろうか、嗅いだことも無い良い匂いが香って俺の鼻先をくすぐった。
 胸元で揺れるおっぱいといい、油断すると理性が飛んで押し倒してしまいかねないが、俺だって大人だ。我慢するべきところは我慢をする。のだ。
「何かのゲームの話ですか? あいにくと分かりません」
「そうか。来るのが早すぎたのかもしれんな。まぁよい、それならそれで分かるようにしてやるまでだ」
 言うが早いか突然彼女の髪の中から二匹の蛇が飛び出してきた。
 声を上げる間もなかった。それは目を白黒させる俺の首と腕に絡み付き、ためらいも無く牙を突き立てた。


 ようやく今日の仕事も終わった。
 俺達は夕食を買うためにコンビニに寄ってから、安アパートの六畳間に帰った。しかしこれから二人で暮らす事を考えれば引っ越しも検討しなければならないなぁ。
「ここがこれから我らが暮らす事になる家なのだな」
「ごめんなヒルダ。こんなに狭い部屋で。少ししたら引っ越しをしよう」
「いや、構わないぞ。狭い方がそなたをより近くに感じられるからな」
 腕を絡めたヒルダが金色の目で見上げてくる。そう言われると、確かに狭ければその分二人の距離も短くなるという物だが。
 その目が急に不安げに伏せられる。
「……そなたは、妾の傍は嫌か?」
「そんな事は無い。綺麗な嫁さんと離れたがる男なんて居ないさ」
「優しい夫に娶られて、妾は幸せ者だ」
 絡めた腕に力が込められ、ギュッと身体を密着させられる。乳房の柔らかい感触が当たり、こそばゆい気持ちになる。
 それ以上に面と向かって幸せなどと言われて、なんだか体が熱くなってしまった。
「ふふ、顔が赤いぞ」
「か、からかうなって。さぁ夕食にしよう」
 リビングのテーブルで買い物袋の中身を広げ、少し遅めの晩御飯を二人で食べた。
 昨日まではただの栄養摂取に過ぎなかった食事が、誰かと一緒だと言うだけで味が変わったような気がした。
 何だろうな、一人じゃないってだけで、同じ食事もこうも違うんだな。……やっぱりヒルダと結婚して正解だった。
 だがヒルダはサンドイッチを口に運びながらも顔を曇らせている。
「ど、どうしたヒルダ。そんな顔して」
「いや、そなたはいつもこのような物を食しておるのか?」
「まぁ、料理も出来ないし時間も無くてね。でも別にコンビニ弁当も嫌いじゃないんだ。最近のは種類も多いし、美味しいし」
「そうか。ならばいいのだが」
 何か変な事を言ってしまっただろうか。食事をしている間中、ヒルダはずっとそんな調子で浮かない顔をしていた。


 ヒルダに一緒に風呂に入ろうと誘われたのだが、一緒に暮らし始めてまだ初日、流石にちょっと早いと思ったのでやんわりと断った。
 しかし一人暮らしだった自分の部屋で誰かがシャワーを使っている音が聞こえてくるというのは結構胸が高鳴る物だ。
 あの中では今、ヒルダが一糸まとわぬ姿で体を洗っているのだ……。
 きめ細やかな青白い肌には弾かれた水が玉になってきらめいている事だろう。
 そこでふと俺の思考に疑問が首をもたげる。
 ヒルダは俺が迷宮の奥から捕まえてきた魔物娘のエキドナのはずなのだが、そもそもこの現代社会に迷宮なんて物があっただろうか。しかもこんな街の中に。
 ……出会ったのは、職場のお化け屋敷だったんじゃなかったか?
 そもそも、魔物娘と言うのは一体何なんだ?
 確かに肌は青白く、下半身は蛇の形をしているが、今の時代特殊メイクでどうにでも出来るだろう。現に地方都市の遊園地のお化け屋敷ですら、血糊や包帯で動く死体を作り上げているのだから。
 いつの間にやら結婚したと思い込んでいたが、本当にそうだったのか? ヒルダは、たまたま備品倉庫で倒れてるのを見つけたんじゃなかったか? 魔物なんて言っているが、本当はちょっと変わっているだけの、ただのコスプレしたお客なんじゃ……
「我が夫よ」
 振り返ると、濡れた髪を体に張り付かせただけのあられもない姿のヒルダがそこに居た。
 とぐろを巻いて濡れる蛇の身体は宝石を削り出したかのように美しく、その上に乗った丸みを帯びた肢体の、匂い立つような色気をさらに引き立たせている。
 その姿に、俺はやはり彼女は魔物なのだという事だけは納得してしまう。
 風呂に入っても肌のメイクが落ちていないとか、蛇の着ぐるみに変化が無いとか、そういう事とは全く関係なく。顔といい、身体といい、人間にしては均整が取れ過ぎている、美しすぎる……。
 ヒルダは濡れた瞳で、俺の事をじっと見つめていた。
「妾の目を見るのだ」
 吸い込まれそうな金色の瞳。深く澄んだその瞳から目が離せなくなる。
 ……俺は、何を考えていたんだっけ……。
 ……ああそうだった。何を戸惑っていたんだろう。お化け屋敷こそ現代の迷宮じゃないか。そこで見つけ出した美しいヒルダに、出会ったその場で求婚したんじゃないか。ヒルダが応じてくれて本当に良かった。
 さぁ、早く風呂を済ませて、それから愛を交わそう。
「風呂に入ってくるよ。そうしたら一緒の布団で寝よう」
 微笑むヒルダに見送られながら、俺は着替えを持って風呂場に向かった。


 風呂に入ったせいで一日の疲れがどっと出てしまったらしい。
 浴室から出て着替えた俺は、ヒルダが敷いておいてくれた布団に倒れ込むように横になった。
 指一本動かせない程に体が重い。頭の中にかすみが掛かっているかのように何も考える事が出来ない。
「駄目だ、身体が動かせそうにない。ごめんなヒルダ。結婚初夜だってのに」
「強力な魔力を持つエキドナの妾を、全力を持って捕まえたのだ。それも仕方のない事。気にするでない。それにこれからは永久に共にあるのだ。子供を作る時間はたくさんある」
「そう、だな。なんだか頭もぼんやりしてしまって……」
 彼女の蛇の身体が、俺の下半身に巻き付いてきた。腕に巻き付く細い感触は彼女の頭の二匹の蛇だろうか。
 確認しようにも、身体の感覚も意識も遠くなり始めていてどうしようもなかった。
「これくらい、してもいいだろう? 妾はな、夫と添い寝するのが夢だったのだ」
「ありがとう。安心して、眠れそうだ……」
「見つけてくれて、本当にありがとう。おやすみなさい、あなた」
 とても優しい囁き声と共に、俺の意識は闇の中に落ちて行った。


 聞きなれた音楽が聞こえて、俺は腕を伸ばした。耳障りな音に耐えられず、どうしても覚醒と同時に目覚まし時計を叩いてしまう。
 もう朝か。
 身を起こそうとするも、何かが体に絡み付いているせいで動くことすら出来なかった。
 俺の身体に絡み付くエメラルドグリーンの蛇の身体に、二匹の蛇と二本の腕。ヒルダが全身を使って俺に抱きついていた。
 穏やかな寝息を立てるその顔は、意外にも幼く可愛らしい。起こさずにずっと見て居たくもあるのだが、それでは二人とも仕事に遅れてしまう。
 今日からヒルダもお化け屋敷で働くことになっているのだ。初日から遅刻と言うわけにもいくまい。
「ヒルダ。朝だよ」
 ゆっくりと長いまつ毛が上がっていき、寝ぼけた瞳が俺の顔を捉える。
 にっこりと子どものように笑うと、回した腕に力を込めて子猫のように腕に額をこすり付けてくるヒルダ。
「んん、おはようございますぅ。旦那さ……」
 彼女の動きが一瞬止まる。
 かと思うと、急に身体を起こして不敵な笑みを浮かべた。
「お、おはよう我が夫よ。き、昨日はよく眠れたか」
「あ、ああ。もうぐっすり」
「そ、そうか。妾もよく眠れた。そなたのおかげだ。……その、今のは忘れ、いや、何でもない!」
 ヒルダは顔を赤く染めながら洗面所の方へ行ってしまった。……何だったのだろうか。


 職場のメンバーはヒルダの事を暖かく受け入れてくれた。
 ヒルダは屋敷内での驚かせ役となるため、役者陣も気を使って積極的に声をかけてくれていた。
 俺と離れ離れになってしまう事をヒルダは最初怖がっていたが、ずっとモニターで見守っている事を伝えると、少しは不安も和らいだようだった。
 かくしてヒルダを加えたお化け屋敷の一日目がスタートした。
 新メンバーが入るとあっていつもの役者達も、ヒルダ本人も緊張していたようだったが、特に問題は起こらず、むしろヒルダの活躍で普段以上にお客さんが怖がっているほどだった。
 そしてあわただしく指示やアドバイスを出しているうちに、何事も無く開園時間は終わった。
 撤収作業が終わり一息ついていると、監視室にヒルダが顔を出した。
「我が夫よ。そろそろ、帰らぬか」
「おう、そうしようか」
 こういうのも、なんかいいなぁ。そう思いながら俺はヒルダの手を取った。
「今日はどうだった?」
「うむ。あっという間だった。少し緊張してしまったが、そなたがどこかで見ていてくれている事を思うと、不思議と安心出来たよ」
「ああ、ずっと見てたよ。緊張してるヒルダも可愛かったな」
「ば、ばばば馬鹿を言うでない」
 照れた顔を隠そうとする仕草も、写真に撮っておきたいくらいに可愛いかった。


 これで今日の仕事も終わりだ。家に帰って、そして今日こそは熱い一夜を過ごそう。
 そう思いながら遊園地を一歩出た時だった。
 急に耳鳴りがして、世界が歪んだ。
 一瞬強烈な眩暈がして倒れそうになるも、はっと気が付くと自分の身体は普通に歩行していた。
「え」
 俺は驚いて立ち止まる。今のは一体何だったんだ?
 急に立ち止まったので、俺と腕を組んで歩いていたヒルダがたたらを踏んだ。いや、下半身が蛇だったから踏むというのもおかしいか。
「急に立ち止まってどうしたのだ? 何かおかしい事でも」
 心配そうに見上げてくる金色の瞳。
 ヒルダ。そう、この下半身が蛇の魔物は、昨日倉庫で俺に蛇を噛み付かせた後、自分をヒルダと名乗ったのだ。
 それから「これからお前の嫁になる。一生愛し続ける事を誓う」と言い、気が付けば俺は彼女と結婚したつもりになっていて……。
「顔色が悪いぞ?」
 俺は慌てて首を振って笑顔を作った。
「い、いや。何でもないよ。さぁ帰ろう」
「悩みがあるのなら何でも言うが良いぞ。そなたの苦しんでいる顔は見たく無い」
 穏やかな微笑みで身を寄せてくるヒルダ。腕から伝わる彼女の暖かさが、俺を複雑な気持ちにさせた。
「そうだ。そなたにお願いがあるのだった。なぁ我が夫よ、妾に食事の用意をさせてくれぬか?」
「それは、えっと、急にどうしたんだよ」
「うむ、夫の健康管理も嫁の役目。あのような貧相な食事を続けさせたく無いのだ。いや、お主の好きなこんびにべんとうとやらを否定するつもりは無いのだ。あれはあれで、良いのだろうが……。その、そなたには、妾の手料理を食べてほしい、のだ」
 ヒルダは頬を染めて伏し目がちに言う。俺の腕に巻き付いている彼女の頭の二匹の蛇も、どこか不安げな視線を俺に向けている。
 手料理か。それどころでは無いのは分かっていても、その響きはとても魅力的だった。
「……じゃあ、コンビニは止めてスーパーで食材を買って帰ろう」
 顔を上げて、瞳を輝かせるヒルダ。蛇たちもどこか嬉しそうに俺の腕にきつく絡まって来る。何だよこれ、凄く可愛いじゃないか。
「愛しておるぞ。我が夫よ」
「ありがとう。お、俺もだよ、ヒルダ」
 身体を密着させて、半ば抱き合うような形で僕達は家路を歩いた。
 昨日は全然気にならなかった周囲の視線が、なんだかすごい突き刺さった。


 頭上から降り注ぐぬるめの湯が、髪の間を流れ落ちて肌を伝って排水溝へと吸い込まれていく。
 俺は渦を巻く水の流れを眺めながら、ぼんやりと考えていた。
 ……ヒルダは昨日お化け屋敷に来たコスプレイヤーのはず。
 ところが気が付けば俺は彼女の事を嫁さんだと信じ込んでいた。しかもコスプレイヤーでは無く、異世界からやってきた魔物だという知識を持った上でだ。
 仕事場から一緒に帰って家に上げ、一緒に飯を食い、同じ布団で眠りについた。……間違いは犯さなかった、はず。
 それで朝起きて、仕事場に行って、なぜかヒルダが仕事の仲間と言う事になっていて。
 そのまま信じ込んでいられれば楽だったのだが、仕事を終えて帰るころになって全てが間違っている事に気が付いてしまった。
 何かされたのは間違いない。昨日蛇に噛まれた時か、眼を覗き込んだ時だろう。
 恐らく催眠術のような何かで、新婚夫婦だとでも思い込まされたのだ。術が解けたと分かればまた掛けられてしまうに違いない。そうすればまた自分が自分じゃ無くなったまま夫として振る舞うようになってしまう。
 それは何としても避けたかった。何とか演技で誤魔化しはしたが、それもいつまでもつことか。
 美人とは言え、下半身が蛇そのものだし、頭からも蛇が生えているし、まさに魔物と呼ぶに相応しい存在だ。あの動きや風呂上がりの姿を見てしまってはもう魔物だと認めざるを得ない。
 だがそうであると認めるのならば、より結婚などという事もあり得ない。人間以外の生き物と結婚など出来るわけがない。
 もしもばれたら……。いや、考えない事にしよう。
 しかし何のためにこんなことをするのだろうか。
 現実的に考えて、詐欺か何かだろうか。
 結婚詐欺? しかし結婚詐欺っていうのは結婚資金出させるとかそういう物じゃなかったか? あの様子だと結婚そのものが目的みたいだし、金が目的ならもっと金を持っていそうな男を狙うはずだろう。
 だとすれば保険金詐欺か? でもそんな高額な保険にも入っていないし、大体婚姻届も出してない。受取人が変わってないのに俺を殺しても仕方ない事だろう。
 じゃあ、やっぱり俺の身体が目的なのだろうか。飯を食わせて太らせて、食べごろになったところを食べようと……。
 しかしそれならわざわざ結婚と言う要素を出さなくてもいくらでも何とかなりそうな物だしなぁ。
 うーん、分からん。
「そろそろ夕餉が出来上がるぞ」
 壁越しの声に返事を返しながら、俺はシャワーを止める。
 こうして一人になるのも大変だった。あとで一緒に入りたいと懇願するヒルダを何とか言いくるめて、縋るような視線を無理矢理振り払って……。
 演技だろうと思いつつも、うな垂れて泣きそうな顔をされると胸に来るものがあった。
 とにかく今術が解けたとばれるわけにはいかない。
 俺はヒルダの夫。自分にそう言い聞かせながら、彼女の待つ茶の間へと向かった。


「……うまい」
 夕食のメニューは豆のシチューと、肉と芋の煮物だった。
 両方異国の料理らしく見たことも無い物で、最初は口に入れるのが不安だった。
 だが勇気を出して口に入れてみれば予想を上回る美味しさが舌の上に広がり、気付けば感嘆の声が漏れていた。
 ヒルダは目を輝かせて頬を上気させる。
「本当か! ……い、いや、そうであろう? お母さんに仕込まれ、いや、違う。女たるもの、このくらいは朝飯前なのだ」
 胸を張った拍子に大きなおっぱいが揺れて、俺は生唾を飲み込みながらも目を逸らした。
 それにしても、仰々しい口調なのはわざとなのだろうか。今朝もそうだったが、たまに子供っぽい口調が混じる。
 思わず本音が漏れてしまったって感じで、結構胸にきゅんと来るから困りものだ。
 それにしても、特に珍しい材料を買ってきたわけでも無いのに、同じ材料を使ってこうも美味い物が作られるとは……。俺にはとても出来ないだろう。カレーにするのが精いっぱいだ。
「いや、まじでうまいよ。ヒルダは料理が上手だな」
 笑いかけると、それだけで彼女は表情を緩ませて身体をもじもじさせた。
 正体は良く分からないけど、ほんとに可愛いよなぁ。
「あ、ありがと……。い、いや。これくらい嫁として当然の事なのだ。ほ、ほれ、口を開けるのだ」
 ヒルダは器用に箸で芋を掴んで、俺に向かって突き出してくる。……これってもしかしてあの新婚夫婦やあつあつカップルが行うという「あーん」と言う奴か?
 ……都市伝説では無かったんだな。
「は、早くするのだ。あーん、するのだ」
「あ、あーん」
 雑念で誤魔化そうとしてもどうしても顔が熱くなる。
 頬を染めて、瞼を少し落としたその表情も色っぽくて、ちゃんと箸の下に手を添えてくれてる丁寧さもぐっと来て。
「ど、どうだ。美味いだろう」
「あ、ああ、なんだか一味違うな」
 どきどきし過ぎて味なんか全然わからなかったのに何言ってるんだ俺は。
 ……でも、あれ、何かこういうのも悪くないんじゃないか。いや、でも待て、相手は魔物なのだ。下半身が蛇なんだぞ。
 騙されるな俺。騙されるんじゃない。
「ほ、ほら肉も食べるのだ、夜に供えて、スタミナもつけないとな。あーん」
「あーん。美味い!」
 俺が食べるたびに、ヒルダははにかむ様に笑う。その顔を見ていたら、いつの間にか細かい事はどうでも良くなってしまっていた。


 ヒルダが風呂に入っているうちに俺は布団を敷いて横になり、眼を閉じた。
 眠れるかは分からない。だが眠っておかないと身体を求められるだろう。彼女がそうさせたのだろうが、現に昨日自分はそのつもりだった。
 あれほどの美貌と身体だ。俺だって彼女が本物の嫁ならばいくらでも抱いていただろう。それに美人の割には可愛い面も多いし、夜はどんな風に乱れるのか興味は尽きない。
 でもこれは何かの間違いかもしれないのだ。もしかしたら彼女は俺と別の誰かを勘違いして夫だのなんだのと言っているかもしれない。
 なぜなら俺達は、昨日出会ったばかりなのだから。
 そうだと考えると、彼女を好きに抱くわけにもいかない。
 あんなにいい人を傷物にするわけにはいかない。何よりヒルダの悲しむ顔は見たく無い。
 浴室の扉が開く音がして、蛇が進むときの独特のしゅるしゅると言う音が近づいてくる。
 ……そう言えば下半身は蛇だったか。まぁでも、向こうからしたがるって事はセックス出来ない事も無いんだろうなぁ。
「寝てしまったのか。我が夫よ」
 頬を突っつかれ、肩をゆすられるが、かたくなに目は開けない。
「いいのか。今裸だぞ。そなたはこの身体を好きにしていいのだぞ?」
 身体が反応しそうになるのを必死で抑える。
 落ち着け。今の俺は寝ているんだ。平常心だ。平常心……。
 そうだ、相手は蛇の身体なんだから……。蛇なんだけど、美人で胸も大きいんだよなぁ……。
「本当に眠ってしまったのだな。折角抱いてもらえると思って念入りに体を清めて来たのだが。……残念だ」
 消え入るような言葉尻に心からの寂しさを感じ、胸が締め付けられる。
 でも、だめだ。料理も上手くて、可愛らしくて、夫を立ててくれるこんなにいい女、俺には勿体ないから。
 衣擦れのような音がしたかと思うと、俺の顔が柔らかい物に包まれた。
 暖かくて滑らかな感触。ふくらみの上の突起。触ったことがある。これは多分、ヒルダの乳房だろう。
 息が止まりそうになるところを、何とか平静を保っていると今度は足に蛇の身体を巻きつけられる。それから首筋に細い蛇が巻き付いてくる。
 裸のヒルダが、横向きに寝ている俺の正面に回って、真正面から抱きしめているのだ。
「余程疲れたのだろう。妾の……。私の胸の中でゆっくり休んでね」
 細い指で髪を撫でられ、ヒルダのいい匂いに包まれていると、何とも言えない強い安心感を覚えた。
 日向で寝転がっているような、母親に抱きしめられているような。
 だがそんな中にも強く異性を感じてしまっていて、鼻先に吐息が掛かるたびに俺の頭の中にはよくない考えが広がっていく。
「私も今日は緊張して疲れちゃった。でもね、あなたが見守ってくれていると思うと、とっても心強かったんだよ」
 昨日出会ったばかりなのに、俺なんて見ず知らずの他人のはずなのに、ヒルダはどうしてこんな事を言えるのだろう。
 そして俺はなぜ彼女の事を愛しいと思い始めているんだろう。半分蛇だというのに、巻き付かれたら自分の力ではどうしようもないくらいの相手だというのに。
 自分にはとても勿体ない相手だというのに、もっと一緒に居たいと思い始めている。
「おやすみなさい、あなた。明日も、よろしく、ね」
 消え入るようにして言葉が途切れたかと思うと、規則正しい寝息が聞こえてきた。
12/08/30 00:18更新 / 玉虫色
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