連載小説
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第二幕:すれ違い
 気が付けば朝になっていた。肉感的な感触に嫌でも欲情してしまう自分と葛藤しているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 隣にヒルダは居なかった。その代わりに台所からリズミカルな音が聞こえてきていた。
 そう言えば、実家に居た頃は母さんが朝飯を作っていてくれたんだよな。毎朝俺よりずっと早く起きて準備をしてくれて、それなのに俺はろくに味わいもせずに流し込むように食べて、とっとと家を出てしまって。
 今思えば、凄いありがたい事だよな。
 気になって台所の方を見ると、裸にエプロンと三角巾を付けたヒルダが鼻歌を歌いながら料理をしていた。
 ……やばい。何だろうこの感情。抱きしめたくてたまらないんだけど。
「お、そなたも目を覚ましたのか。もうすぐ出来るから少し待っていてくれ」
「あ、ああ」
 俺は顔を引っ込めながら、一人で小さく唸った。
 何だこの新婚生活は。でも悪くない。決して悪くない。むしろ……。いや、でも、ヒルダは魔物なんだし……。魔物なんだけど可愛くて、くそ、俺はどうすりゃいいんだ。
 葛藤から逃げるようにテレビをつけた。
 ニュースだ。ニュースを見て気分を落ち着けるんだ。
 さて、いつもの地方局はっと……あれ?
 いくらチャンネルを回しても目当ての放送局が映らない。チャンネルは合っているはずなのに、やっているのはニュースでは無く子供向けの番組だった。
 いや、違う。これはニュースなんだ。読んでいるアナウンサーに変なのが混じっているだけで。
 その証拠に、見慣れたアナウンサーもいるし、ニュースも読み上げられている。……ただし読んでいるのはどう見ても成人には見えない赤い三角帽子を被った金髪の女の子だけれども。
 コメンテーターの席にも、腕の代わりに青い翼を持った女の子が座っていたり、空席かと思えば緑色の服を着た妖精のような女の子がマイクにしがみついていたり。
 ……何だ。一体どうなっているんだ? CG、なのか?
「ほう、魔女にセイレーンにフェアリーか。人目に付こうとは考えたものだな」
 振り向けば鍋を持ったヒルダがテレビを見ていた。そういえばここにもCGみたいな娘が居たんだった。
 試しに緑色の鱗に触れてみる。暖かくてつるつるした何とも言えない感触。予想していたよりは硬くない。
「どうしたのだ?」
「い、いや。もしかしてあの二人、ヒルダの知り合い?」
「会ったことは無いが、同郷の出、と言えばそなたでも分かってくれるか?」
「ああ、なるほどね」
 ヒルダの事を魔物だと信じるしかないこの現状から考えると、やっぱりあの翼も、小さな体も本物なのだろう。
 何だろう。まるで別世界に入ってしまったようだ。
「そ、それはそうとだな。その、あ、朝ごはんも作ってみたんだ。食べてみて、くれるか」
「そうだね。いただこう」
 ヒルダはほっとしたような顔で腰を下ろした。
 運ばれてきた料理は昨日と同様に見たことも無い物だったのだが、料理の美味さも昨日と同じで、俺は朝から腹いっぱいに飯を食ってしまった。
 終始ヒルダは微笑みを絶やさず、それが可愛くもあり、そして心苦しくもあった。


 一晩の間に、世界に一体何が起こったというのだろうか。
 ヒルダに腕を引かれながら通いなれた通勤ルートを歩いているはずなのだが、俺にはその事がにわかに信じられなかった。ここは本当に俺が住んでいた街なんだろうか。
 俺は平静を装いつつも、どうしても観光地に来た旅行者のようにきょろきょろと視線を走らせてしまう。
 街の通りに、人の群れに、ごく自然に異形の姿が混ざっているのだ。
 異形と言ってもちゃんと人の形は保っている。だが、少なくとも人間は獣のような手足を持っていたり、蝙蝠のような羽を持っていたり、昆虫のような下半身や腕はしてはいない。
 人間では無いのは明白だった。
 そして俺が本当に驚いたのは、彼等がいつの間にか街に紛れ込んでいた事では無く、周りの人間達が何も騒ぎ立てていないという事だった。
 コスプレイヤーや外国人など比にはならない程の姿にも関わらず、視線は向けても誰も声をかけようともせず、驚いている様子もない。
 と言うより、驚いているのは俺一人だけだった。
 もはや催眠術と言うレベルの話では無かった。まるで世界そのものに魔法が掛けられたかのような、圧倒的な変化だった。
 果たして世界が変わったのか、それともいつの間にか俺だけ別世界に移動でもしてしまったのか。あるいは世界は変わっていなくて、俺だけが狂ってありえない物を見ているのだろうか。
 正気を保っているのは俺の方なのか周りの方なのか……。確かめたいと思っても、それを証明する手段も無い。
 こういう時は、無意味に騒ぎ立てずに周りに合わせつつ様子を伺うのが一番だ。
 俺はさも当たりといった顔で、ヒルダと一緒に自分の職場へと急いだ。


 一日経って催眠術が解けた俺と違い、職場の連中は相変わらずヒルダの事を何の疑問も無く受け入れていた。
 あるいはこれも世界に掛けられた魔法の影響の一つだとも考えられたが、それだとなぜ自分だけが変わっていないのかの説明が付かない。
 全く状況が飲み込めないまま、しかし時間が来れば仕事はいつも通りに始まるのだった。
 昨日は気が付かなかったが、客の中にも遊園地スタッフの中にもコスチュームプレイヤー……もとい、魔物が紛れ込んでいた。
 以前であればコスプレした客が来ただけでもスタッフ同士で話題になった物だが、本物の魔物が紛れ込んでいてもそのこと自体が話のネタになる事は無かった。
 もっとも、別の方向での話であればいくらでも話は聞けたが。
 彼らは世間話をするように魔物の事を話題に出した。やれ、さっきの稲荷の客は尻尾がたまらないだの、ミノタウロスと飲み比べして負けただの、刑部狸に共同出資で起業を持ちかけられているのだがどうした物かだの。
 妙に生活感のある話題が、逆に俺には狂っているようにも感じられてしまう。
 俺は内心で首をかしげつつも、しかし何とかその度に話を合わせてやり過ごした。
 ようやく昼休みになったと思えば、今度はいつの間にかスタッフとして紛れ込んでいた、ただの赤い液体にしか見えない女性(?)から恋愛相談を持ちかけられた。
「先輩は既婚なんですよね。私、気になる男の人が居るんですが、そういう経験が無くて……。奥様からどんなアプローチを受けたのか教えていただけませんか?」
 いろんな意味でヒルダに助けを求めたかった。
 とにかく積極的に、ガンガン押して、だめならちょっと引いてみるんだ。ヒットアンドアウェイだ。などと適当に話しているうちに、気が付けば昼休みは終わっていた。
 気が休まる間もないまま午後の業務が始まった。
 午後は午後でなぜかトラブルが頻発し、しかもそのどれもが聞いたことも無い物ばかりで対応に追われててんやわんやだった。
 暗闇の中で頭をどこかに落としてしまったというデュラハンの為に首を捜し、居心地が良いからと言って住みつこうとするゾンビを何とか追い払い、怖がって動けなくなってしまったつぼまじんの手を引いて出口まで連れ出してやり。
 スタッフ全員で対応に当たっても状況は悪化するばかりだった。
 スタッフのサキュバスは案内する振りをしてお客とどこかに姿を消し、アラクネは趣旨を勘違いしてお客を罠に嵌める。客を助け出しに行こうとすればスケルトンに普通に驚かされる。
 最大の敵は味方だと言うが、まさにその通りだった。
 いい加減気が狂いそうになった頃にようやく閉館のアナウンスが流れ、俺は何とか命を繋ぐことが出来た。本気でそう思った。
 ヒルダが迎えに来たとき、俺は心の底から安堵して胸元に抱きついてしまう程だった。
「ど、どうしたのだ我が夫よ。そんなに妾が恋しかったのか」
「ああ、いや、うん」
 会って日もそんなに経っていないというのに、ヒルダの匂いは妙に馴染み深く感じられて。胸に抱かれているだけで気持ちが落ち着くのだった。
「照れる事は無い。そなたに会いたい気持ちは妾も一緒だった」
 そう言って俺の頭に腕を回し、身体に蛇の尻尾を優しく巻きつけてくる。頭から生えている蛇二匹も俺の顔に頬ずりしてきた。
 そうだった。ヒルダも異形なのだった……。
 だのに、抱かれた時のこの胸の暖かさは何なのか。
 俺は魔物の事を、ヒルダの事をどう思い、どうしたいのだろうか。帰宅途中にずっと考え続けても、答えは出なかった。


 昨日と同じように、ヒルダの料理中を見計らって風呂に入る。
 今日の事は一体何だったのだろうか。俺は疲れているのだろうか。
 世の中が化け物だらけに見える。しかもそいつらはみんな可愛い顔をしていると来たもんだ……。確かに頭がおかしくなっているに違いない。
 しかしどちらかと言うと今の方が疲れている。心身共にくたくただ。
 きっとヒルダの美味い飯を食って寝て起きれば、全部元に戻っている。はずだ。そうであってほしい。元の平和な日常が……。
 でも、そうなるとヒルダも消えてしまうって事だよな。
 それはちょっと、嫌だな。
 あいつの作る飯は美味いし、それより、何より、あいつの……笑顔が、見られなく、なるのは。
 まぶたが重い。ぬるま湯がぽかぽかと全身を包み込み、身体がふわふわして……。
「……の支度が出来たぞ。聞こえておらぬのか? ……あなた、どうしたの!」
 目の前に顔面蒼白のヒルダの顔があった。そんなに驚いて、一体どうしたというのだろう。
 いつの間にか浴室のドアが開いていて……あれ、俺覗かれてる? いや、浴室まで入られて覗きも何も無いか。とりあえず……大事なところは隠そう。
「ヒルダ?」
「返事が無いから心配したじゃない。どこもおかしく無いのね?」
「あ、ああ。ちょっと眠たくなったみたいだ」
「もう、本気で心配したんだから」
 濡れるのも構わずに俺の首に腕を回してくるヒルダ。
 大げさだなぁと言いそうになるが、目じりに光る物が見えて、俺は口を開ける代わりに彼女の背を撫でた。
「ごめん。ありがとう」
「妾の方こそ、少し騒ぎ過ぎてしまった。……さぁ、料理が覚める前に食べるのだ」
 ヒルダは恥ずかしさを誤魔化すように俺を無理矢理湯船から引っ張り上げると、少し乱暴に俺の全身をタオルでふき取り、これまた乱雑に着替えさせる。
 あっという間の出来事に、俺は恥じらう間も無かった。


 ヒルダの作る飯はやっぱりどこの料理なのか正体が分からないものの、非常に美味かった。
 たらふく食って、またあーんされて、身も心も暖かい物でいっぱいになった俺は気が付けば布団に横になっていた。
 俺はテレビを付ける。
 せめてヒルダが風呂から上がってくるまでは起きていたかった。おやすみくらいは言いたかった。
 だが、睡魔は容赦なく俺に襲い掛かり……。
 気が付けば朝になっていた。


 人間何事にも慣れるらしい。
 次の日には、俺は通りを歩く魔物を見ても何とも思わなくなっていた。
 仕事で迷子の魔物を案内するのにも抵抗は無くなったし、スタッフとの魔物トークにも軽口で応じられるようになった。
 魔物のスタッフへの指示の仕方も分かってきた。言い方さえ間違えなければ、彼らは人間以上に熱心に働いてくれた。
 見た目は違っても、皆お客を楽しませたいという気持ちは同じだった。
 だが数日経っても、自分の中のヒルダへの気持ちにだけは慣れる事が無かった。
 ヒルダは相変わらず結婚しているつもりで俺に尽くしてくれている。
 それは嫌では無い。確かに彼女は人間では無いが、包み隠さず好意を示してくれるのはとても嬉しく、そして自分の中にも彼女を想う気持ちが生まれているのも確かだった。
 だが、彼女はやはり魔物なのだ。
 愛しく思う反面で、どうしても胸の中のしこりが取れなかった。
 人間ではない生き物と結婚するというのは道に反するのではないのか。いずれ子供も欲しいのに、もしも俺にも彼女にも似ない蛇の化け物が生まれてきたらどうするのか。
 大体、人間と蛇が上手くやれるはずが無いのだ。
 俺の中の良識はそうやって彼女との結婚を否定する。
 だが彼女に腕を絡まれるたび、俺の身体からは緊張が取れ、心が落ち着くのもまた事実だった。
 どうしたらいいのか分からないまま、触れるたびに伝わってくるヒルダの体温が俺の気持ちを掻き乱し続けた。
 別々に風呂に入るときに見せる寂しげな目が、寝ている俺に掛けられる言葉が、俺の心を罪悪感で埋めていく。
 それでも、俺は答えを出せずにいた。


 その日も俺は狸寝入りを決め込む。
 抱けないわけでは無い。緑色の宝石を削り出したような蛇の身体も、今では素直に綺麗だと思う。
 それでも心が一線を越えられずにいた。
 誰かと俺を勘違いしているかもしれない? いいじゃないか。そのままやってしまえばいい。勘違いさせたまま誤魔化し続ければいい。
 そんな風にさえ思えても、身体は動いてくれなかった。
 勇気が出ないのか。それとも、人間としての最後の理性が異常な存在との交わりを思いとどまらせているのか。
「今日も、寝てしまったのだな」
 いつものように隣に横になり、俺を抱きしめるヒルダ。
 顔に当たる柔らかな感触と、暖かい匂い。
「私の身体、そんなに魅力無いのかな」
 そんな事は無い。すぐにだって抱きしめたい。
「それとも、顔が怖い? 蛇の身体が嫌?」
 こんな綺麗な人は見た事ない。今では尻尾に巻き付かれていた方が安心する。
「嫌なところがあったら、言っていいんだよ。全部直すから」
 そんなもの無い。そのままの君で居てくれればいい。
「それともあなたは、私の事が嫌いなのかな」
 俺は、彼女になんてことを思わせているんだろう。
 それでも、胸の中も体も鉛のように重くなって動かない。
「……あなた、起きてる?」
 肩をゆすられるが、眼は開けない。起きているような反応もしない。
「寝てる、よね。……ごめんなさい。もう、我慢できないの」
 ヒルダの身体が離れ、急に俺の身体は仰向けにさせられた。
 何が始まるのかと思っていると、急に寝巻のズボンとパンツを一緒に下ろされた。
 大事な部分が丸出しになり、俺は声を上げそうになったものの何とか平静を保ち続けた。
「起きてない、わよね」
 五本のしっとりした指が、まだ落ち着いたままの俺自身に絡み付く。
 それから根元の小指から、先端の人差し指に向かって絞り上げるように揉み込んでくる。
「こんな風に硬くなるんだ。……旦那さまの匂い……あぁ、私もう」
 恐る恐る薄目を開ける。掴まれている感触の通り、ヒルダの片手が俺のそれを包み込んでいた。そして空いているもう片方の手はヒルダ自身の秘所に伸びていて。
 その手が少しずつ奥に伸びてゆき、くちゅくちゅと言う水音が聞こえてきた。
「んっ」
 可愛らしい一面を持ちながらも、いつもは自信に満ちた態度を取っているヒルダが、俺の男根を扱きながら、自慰に耽っている……。
 素知らぬふりで寝たふりを続ける俺だったが、内心では激しく焦っていた。
 こんな状態で目を覚ましたと気が付かれるわけにはいかない。いかないのだが、男の部分に熱い視線と指を絡められ、あられもない姿を目の前に晒されて。
 ヒルダが家に住みついてからまともに抜くことも出来なかった状況を考えると、非常にまずい。
 この辺で終わってくれれば悪戯で済むのだが……。そうは問屋がおろさなかった。
 鈴口に暖かくてねっとりした感触が通り過ぎる。
 ヒルダが目を細めながら、舌を伸ばして俺のあそこを舐めていた。既に彼女は舐める事に夢中らしく、もう俺の顔色をうかがおうともしない。
 先っちょに熱い息がかかり、ヒルダの舌が何度も往復する。
 そのうちに完全に勃ち上がったのが分かったのか、手で握るのを止め、睾丸を口に含んだり、竿の根元から先の方まで舐め上げ始める。
 そうしながら、秘所に伸びている方の手はさらに激しく動いていて。
 唇のたてるぴちゃぴちゃと言う音と、秘所から聞こえるくちゅくちゅと言う音が混ざり合っていく……。
「あなた……。あなたぁ……」
 男根に熱い視線を向けるヒルダ。蕩けきって朦朧とした瞳。こんな顔のヒルダは初めて見た。
 嫌な気はしない。むしろ、こんなにも求められているという事が素直に嬉しい。
 ヒルダの舌が伸びていく。俺の根元から男根にぐるぐると巻き付いていき、最後には先っちょまで覆い尽くしてしまった。
 人間には真似しようも無い、長い舌での責め。
 巻き付いた舌が、一気に蠢き始める。男根全体を同時に擦り上げられ、舐め上げられる。そして射精を催促するように、舌の先が尿道の入り口をこじ開けようと動く。
 動かれたら我慢できない程気持ちいいだろうと覚悟はしていたが、薄っぺらい覚悟は何の意味も無かった。
 予想以上の、腰全体がとろける様な刺激に、数日オナニーも我慢していた俺に耐えられるはずも無かった。
 俺は呻き声を上げながら体を震わせ、ヒルダの舌の中に出してしまう。
「あっ、ふぁ、ふぁああぁ」
 止めようと思っても、止められない。どろりとした精液は舌の先で勢いを止められ、飛び散ることなくぬるりと巻き付いた舌に垂れ落ちていく。
 彼女を汚してしまった。苦しい目に合わせてしまった……。
 ヒルダは昏い目をしたまま、口の端を歪ませて俺の男根を解放した。
 精液にまみれた舌を指でなぞり、ゲル状になっている塊をつまんで匂いを嗅いだ。昼間からは考えられない。娼婦のような淫らな仕草だった。
 しかしそれだけでは終わらなかった。ヒルダはお辞儀をするようにその身を丸めていく。
 その舌先が、ヒルダ自身のあそこを舐める。
 息を荒げながら、びくんと身体を震わせる。そして白く汚れたその舌が、ゆっくりと彼女の中に飲み込まれていく。
 精液が流れ落ちていく。彼女の中に入っていってしまう。
 俺は見ている事しか出来なかった。寒気がする程興奮していたにも関わらず、声ひとつ立てられず、指ひとつ動かせない。
「あふ、あ、あんっ」
 舌が出たり入ったりを繰り返している。その度ヒルダは小さく喘いで、身を震わせた。
 ひときわ大きく痙攣した後、ヒルダは大きく息を吐いて自らの中から舌を引き抜いた。
 まだ精液の残る舌が彼女の口の中に納まっていく。こびりついたそれを落とそうともしない。それどころか、うっとりとして喜んでいるようにも見える。
 舌を全て飲み込みきり、残っていた精液を味わうように口が少し動いた後、彼女の喉が小さく上下した。
 それから、ヒルダは少し泣いた。
「私、何してるんだろう」
 俺の身体をゆすり、消え入りそうな声で囁いた。
「あなた。これでも起きないの? 私の舌、気持ち良く、無かった?」
 息が詰まる。今の姿をすべて見ていて、起きていたなどとは言えなかった。
「キスくらい、してよ。私から無理矢理なんて、させないでよ」
 消え入るような、絞り出すような声。
「寂しいよぉ。寂しいよぉあなたぁ……」
 何も言わない俺を、ヒルダは強く強くその胸に抱きしめる。もう俺は、自分が何をしたいのか分からなかった。

 
 結局その日は自己嫌悪で朝まで眠れなかった。
 外で鳥が鳴き始める頃、ヒルダは俺から体を離した。
 朝ごはんの準備を始めるのだろう。予想通り、包丁の音やコンロの火が付く音が聞こえ始めた。
 ヒルダの身体が離れてしまっただけなのに、急に寒くなったような気がした。すぐそばに居るのに、なんだか落ち着かない。
 目を開ける。独り暮らししている間もずっと狭いと思っていた六畳間が、無性に広く感じられた。
 俺はうつぶせになって、布団に残った彼女の匂いを思い切り吸い込んだ。
 気持ちが落ち着いてきて、心の底から安心する。
 こんな風に思えるのに、俺は一体何をしているんだろう。


「……よ。我が夫よ。朝餉が出来たぞ」
 いつの間にか少し眠ってしまっていたらしい。
 顔を上げると、エプロン姿のヒルダが、いつもと変わらぬ顔で不思議そうに首を傾げていた。
 ……昨日はあんな淫らな表情で、俺を愛撫して、自慰をして、それから泣いていたのに。そんな事まるで無かったかのような平気な顔をしていた。
「どうしたのだ? 怖い夢でも見たのか?」
「ああ、でもお前の顔を見たら安心した。早くお前の飯が食いたいよ」
 ヒルダは胸を張って、得意げに笑った。
「ふふ、悪夢ごときこの妾が蹴散らしてくれる。待っておれ、すぐに朝餉を用意する」
 台所へ向かう後姿を眺めながら、俺は考える。
 もし嫁さんに、夜全く相手にされなかったら、俺はどんな気持ちになるだろうか。
 想像するまでも無い。
 ……それなのにあいつは、今朝も変わらず笑いかけてくれている。
 

 寝不足のまま何とか午前中を乗り切る。
 監視役を他のスタッフと交代し、一息つこうと思ったその時、急に本部のスタッフが俺を呼びに来た。
 本部の課長が俺を呼んでいるらしい。
 客商売の遊園地には、明確に昼休みの時間は決まっていない。だが事務仕事をしている本部だけは別だった。
 確かに今の時間は本部では午後の業務が始まったばかりだが……。考えていても仕方あるまい。
 あの人からの呼び出しかぁ。二人きりで会うのは気が引ける。しかし上司からの命令とあっては行かないわけにもいかない。
 昼飯も食べぬまま、とにかく俺は本部施設に向かった。


 課長の待つ小会議室の扉を開けた途端、俺はその場で頭を抱えそうになってしまった。
 課長の姿が、明らかにおかしかったからだ。
 見事に着こなされたレディスーツ。その胸元はざっくりと空いていて、見事な谷間が見えている。
 ブラウスを押し上げる流線型も見事で、ヒルダに勝るとも劣らない。が、やはり俺の中では軍配は間違いなくヒルダに上がる。
 ともかく、この時点でも既におかしいのだが、さらに腰からは蝙蝠の羽が生え、お尻のあたりからは尻尾が伸びている。
 課長は男だったはずなのだが……。
 胸元の名札には佐々木晶と書かれてはいるが、その姿は明らかに俺の知っている佐々木晶では無かった。
 顔は、佐々木本人が中性的な顔立ちだった事もあり似ていないことはない。だが若作りだったとはいえ、こんなに若く無かったはず。
「最近はお化け屋敷の売り上げもかなり伸びているみたいね」
 確かにお姉口調で、そっちの人だったが、やはり声質は全然違っている。今の声は明らかに女の物だ。
「え? ええ、まぁそうですね。ここ二三日リピーターも増えているみたいで」
 それどころでは無い俺はしどろもどろになりつつも何とか答える。と言うか誰なんだ? 人事異動があったのなら何か連絡があるはずなのだが。名札も間に合わない程の緊急の異動だったのか? いや、いくらなんでも他人の名前が刻まれた名札など使わないだろう。
 ここに来るまで周りの社員は何事も無いように仕事をしていたから、少なくとも彼らにとっては課長のこの姿は異常な事では無いのだろう。俺だけ異常に感じているだけで。
 赤フレームの眼鏡の向こうで切れ長の目が緩んだ。
「いい事だわ。噂によるとあなたのお嫁さんがいい仕事をしているとか」
「そう、ですね」
「ところで私の名前を言ってみて? 上司の名前なのだから、分かるわよね」
「……えっとですね、佐々木、晶。です、よね?」
「正解。じゃあ種族は」
「人間?」
 課長はにっこり笑って首を振った。
「ああいやえっと、サキュバス。そう、サキュバスです」
「不正解。私は魔物のアルプ。みんな私の魔物化を喜んでくれたんだけどなぁ。……やっぱりあなたにはあの方の魔力が届いていないみたいね」
 席を立ち、無造作に近づいてくる佐々木だったもの。いや、名前は正解と言っていたのだから佐々木本人で間違いは無いのだろうが。
「佐々木課長、なんですよね?」
 ミニスカートから覗く白い太腿が何とも刺激的だ。
「ええそうよ。見違えた?」
「ええ、まぁ」
 彼……いや、彼女は胸を張る。以前飲み屋で迫られた時は肝を冷やした物だが、今なら喜んでしまいそうだ。
 ……いや、ヒルダの手前、流石にそれは無い。
 彼女は近づきながら人差し指を持ち上げる。何も無いはずのそこが光り始める。さらには蛍のようなうっすらした光が周りから集まってゆき、やがて部屋中を照らす程の輝きを帯びていく。
「そんな目で見てくれるのは嬉しいけど、お嫁さんに絞め殺されちゃうわよ。
 まぁいいわ。その移り気なところも私の魔法で書き換えて」
「ちょっと待ってください」
 額に向かって突き出された指を、腕を掴んで何とか避ける。
「急にどうしたんですか? 何で魔物になってるんですか? 魔法って何なんですか?」
「まぁ、分からないわよねぇ。私だってまだ理解しきれていないもの。
 信じられるか分からないけど、この世界の法則は書き換えられたのよ。まだこの街周辺だけだけどね。
 でも、中にはその力をすり抜けてしまった人間が居る。あなたのようにね。
 魔物の存在を受け入れられないのも、私が魔物になった事が理解できないのも、魔法を信じられないのも、全部そのせいなの。
 だから今から私の魔法で、あなたの常識を書き換える。魔物になったばかりだけど、多分あなた一人くらいなら何とかなるわ。
 受け入れなさい。そうすればもう何も苦しまなくて済む。素直にヒルダさんとの夫婦生活を送った方が幸せよ? 今みたいに世界や自分を疑う必要も無い」
 そういう事、だったのか?
 やはり世界は変わっていて。俺だけそこから抜け落ちてしまっていて。だから周りのみんなは何事も無く魔物の事を受け入れていたのか。
 確かに世界の一員になれば、違和感は消えるだろう。だが俺は彼女の魔法を受け入れる事は出来なかった。
「でもそれじゃ今の俺の気持ちはどうなるんですか? ヒルダを大切にしたいと思う俺の気持ちは、消えてしまうんじゃないんですか?」
 光が消える。眉根を寄せながら、佐々木課長は肩を竦めた。
「じゃあなんで抱いてあげないのよ。蛇が苦手なの?」
「最初は、そうでした。でももう巻き付かれるのも慣れましたし、逆に落ち着くくらいです。
 でも、どうしても踏み込み切れないんです。魔物と一緒になる事を、心の底で覚悟しきれないんです」
「だから、それを魔法で」
「それじゃ駄目なんです。そのくらい自力で覚悟できなけりゃ、あいつを抱く資格なんて無いんですよ。……情けない男ですよね、俺。ヒルダはもしかしたら、他の、本当の旦那と俺を勘違いしているのかもしれない。でも、それでも俺は」
 呆れた、と佐々木課長は大きなため息を吐いた。
「そんなに好きならとっとと押し倒しちゃえばいいのに。……ま、その気持ちに免じて魔法はやめたげるわ。
 安心しなさい、私達魔物は決して愛する人を間違えたりなんてしないわ。
 それより、もしも愛している人から「お前の愛は勘違いだ」なんて言われたら、ヒルダさんはどう思うかしらね」
 ヒルダの泣き顔が脳裏に浮かび、俺はぐっと息を詰まらせる。言いたいことは分かる。でも、出会って大して日も経っていないんだ。普通に考えたら信じられないじゃないか。
「でも、出会って間もない俺を、どんな人間かも分からない俺を」
「魔物はそういう生き物なのよ。その人がどんな人かは、匂いを嗅げば分かるもの。優しすぎて女一人も抱けずにいる事くらい、部屋に入ってきた時点で分かってたわ」
 くすりと笑う魔物の女に、俺は返す言葉も無かった。
「知りたい? 世界の事。私達魔物の事を」
 私達、か。課長はもう本当にあちら側の存在になってしまったらしい。
 何があったのかは分からないが、魔物の事は魔物本人に聞くのが一番手っ取り早いだろう。
「教えてください」
 何を聞いても驚かない。偽りの夫婦生活を終えるためにも、俺は聞かなきゃならないんだ。
「いい顔ね。分かった全部教えてあげるわ。この世界がどう変わったのか、私がどうやって魔物になったのか。誰が私に知識を植え付け、魔物にしたのか。
 結構刺激的よ? ま、正気を保てなくなったらさっきの魔法で気持ち良くしてあげるから、力を抜いて聞いてね」
 ウインクひとつしたあと、彼女は砕けた口調で話し始めた。


 仕事が終わり、俺とヒルダはいつものように二人一緒に家路に付いた。
 しかしその日は何かが違った。
 静かすぎるのだ。いつもと違ってヒルダが話しかけてきてくれない。その分、二人の間に重苦しい沈黙が下りていた。
 俺は何か話しかけなければと思うのだが、上手く言葉が出てきてくれない。課長の話の内容もまだ整理しきれていない事もあって、何を話せばいいのか分からなかった。
 ヒルダは思いつめた顔でじっと前だけを見ていた。
 昨日の事が、やっぱり尾を引いているのだろうか。
『キスくらい、してよ。私から無理矢理なんて、させないでよ』
 思い返すと胸が詰まる。
『寂しいよぉ。寂しいよぉあなたぁ……』
 今この時も、ヒルダはそう思っているのだろうか。こんなに近くに居るのに、俺は……。
「ヒルダ。何か、悩み事でもあるのか」
 ヒルダは俺を見上げるも、すぐにまた視線をそらしてしまう。
「悩みと言う程の事では無い。考え事をしていただけだ」
 会話が続かず、俺は焦った。
「あ、あまり考えすぎない方がいいんじゃないか」
「そう、だな。そろそろ潮時なのかもしれない」
 ヒルダの表情は一向に和らぐ気配はない。
 俺はさらに口を開こうとするのだが、その表情を見ていると、どんな言葉も虚しい気がしてしまって……。
 結局そのあと何も言えぬまま、気付けば家に着いていた。


 冷水を頭から浴びる。
 課長の話を聞いてなお、俺はまだ迷っていた。
 魔物達は変わった外見はしているものの、その全てがメスである。
 そして人間の事が、特に男が大好きで、気持ちが行き過ぎて襲い掛かる事も日常茶飯事なのだという。襲うと言っても性的な意味であり、別に殺して食うような事は無い。
 魔物達は皆男の精を食料としており、生きていくためにも男と交わる事が必要。普通に食事が出来る種も多いが、あまりに精を採らないのも体には良くないらしい。
 ……と、いきなり言われてもなぁ。
 理解は出来た。だが感情が付いていかない。
 今晩もヒルダは俺を求めてくるだろう。
 彼女が生きるためだ。今日こそは抱いてやろう。
 シャワーを止め、俺は我に返って頭を掻きむしった。
 馬鹿か俺は。そうじゃないだろ。
 ヒルダは、襲おうと思えばいつだって俺を襲えたんだ。
 でも彼女はそうしなかった。襲ってしまいたいという気持ちを、魔物の本能を必死で堪えていたんだ。俺の方から、求めてもらいたくて。愛してもらいたくて。
 ヒルダを心から愛していなければ、その気持ちに本当に応えたことにはならないじゃないか。
 情けない気持ちのまま着替えを終え、浴室から出ると。
 部屋に妙な違和感があった。
 台所に誰も居ない。料理をしているような形跡も無く、綺麗に片付いている。
「ヒルダ?」
 居間を覗く。
 誰も居ないだだっ広い空間が、俺の胸の中に隙間風を呼び込んだ。
『気を付けなさい? あんまり相手にしてあげないと、お嫁さん元の世界に帰っちゃうかもよ?』
 世界の事を教えてくれた課長が、そんな忠告もしてくれていた。
 まさか、魔法で嫁さんと思い込ませてまで、押しかけ女房までしていたヒルダが、そんなに簡単に出て行くわけが……。
 でも、今日の帰りの様子。明らかにいつもと違ったよな。
『そろそろ、潮時なのかもしれない』
 それはどういう意味なんだ。俺との生活が潮時だっていう事なのか。ヒルダは俺の家から出て行って……本当に、元の世界に?
 部屋を包む沈黙が耳に痛い。換気扇の回る音が、嫌に大きく聞こえた。
12/08/31 00:18更新 / 玉虫色
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