第四章
今、俺はククリと言う少年と隣り合ってベッドに座っていた。
こっちを見てにやにや笑っているが、この子は一体何者なのだろうか。
フランの使いと言うからてっきり同じ騎士の格好をした奴が来るとばかり思っていたのだが、やってきたのはどう見ても子供の、しかもおかしな話し方をする変な奴だった。
「フランが欲しくは無かったのか。しこたま抱いてやったのじゃろう」
ククリは挨拶をするように平然と言ってのけた。俺はあまりの内容に言葉を失う。
そんな俺の顔を見て、ククリは笑みを深める。
「フランの抱き心地は極上じゃったろう? わしの見立てでもあの娘の具合は相当いいはずじゃ」
「子供がませたことを言うもんじゃない」
色々なものを通り越して、俺は呆れてしまった。この年にしてこんな物言いをするとは、どんな教育を受けてきたのだろうか。
彼は頬を膨らませて腕を組んだ。その様子はやはり子供にしか見えないのだが。
「ふん。こう見えてもわしはお前たちより年上なのじゃぞ……。まぁ、完璧すぎるわしの魔法を見抜くことは誰にも出来んのじゃから、お主が気付かぬのも仕方が無いのじゃが」
さてはこの子供、いいところのお坊ちゃんか何かなのだろうか。わがままを言ってお忍びで国の外に出て、きっとそうに違いない。
「そんな事より本音はどうなのじゃ。フランが欲しいのじゃろう。身体も心も欲しくてたまらない。違うかの?」
「……ああ、欲しいさ。お前の言うとおり、欲しくて欲しくてたまらない」
俺はもう面倒臭くなってしまった。何も知らない子供に大人の汚さを見せてやるのもいい勉強だろう。
「でもな、俺は戦争でたくさん人を殺してきて、金でいっぱい女を買ってきた。
誰からも必要とされなくなって、行き場も無くなったから墓守をしている。そんな奴があんな綺麗な人に手が出せるわけがない」
ククリは呆れた、と言わんばかりの顔で肩をすくめた。
「さんざん手を出しておいて……。いや、その下半身の己自身を突っ込んで精を出してきたのにか?
本人も言っていたろう。別にお前が初めてというわけでは無いんじゃぞ。魔物は精が無ければ生きられないんじゃからの。
それに、魔物は人間と違って男の身分や出自などといった下らない物は気にせんよ。体と心の相性、それが全てじゃ」
なんという言葉づかいをする子供だろうか。親は何をしているのだろう。
「何じゃ、妙な視線を向けるでない。
……そうじゃ、一つ昔話をしてやろう」
俺は口を開こうとしたが、ククリがあんまりにも真剣な顔をするものだから黙って聞いてやる事にした。
「話の分かる男で助かる。
昔の事じゃ。一人の騎士と、一人の魔物娘が居た。
魔物娘は己の剣の腕に自信が無く、悩みを抱えておった。そして魔物娘は恥を忍んで、国一の剣士と言われた騎士から教えを乞う事にしたのじゃ。
彼は快くそれに応じ、熱心に剣を教えた。娘の吸収力はすさまじく、すぐに騎士と並ぶほどの剣士となった。
そして訓練を共にするうち、二人は互いの事を想い合うようになった。
あるとき、二人は共に戦場に赴くことになった。娘にとっては初めての戦場じゃった。
いくら腕が立つようになったとはいえ、初めての戦場じゃ。娘には戦い方の勝手がまだ分からなかった。
敵兵に不意を突かれ、取り囲まれてしまうのも無理も無い事じゃった。
窮地を救ったのは騎士じゃった。じゃが、娘を庇ったことで騎士は深い傷を負い、それが元で死んでしまったんじゃ。
……娘は自分を責めた。
そしてもう誰にも頼らないことを決め、一人でひたすら剣の腕を磨いた。彼の分も人の命を救うのだと、自分に厳しくあり続けた。
戦場に立てば自らの命もかえりみずに味方を庇い、進んで危険な最前線に立った。
娘は多くの命を救った。味方だけでなく、自らに襲い掛かる敵の命すらも。
そして、誰かを救う度に体にも傷が増えていった……。
もはや娘に並ぶ剣士は居なかった。いつしか娘は赤い盾と呼ばれ、軍に無くてはならない存在になっておった。
そんな娘じゃったが、魔物であるからには生きるのに男の精が必要になる。もちろん精は訓練を共にした相手などからもらっていたようじゃが、娘はそれを食事のようにしか考えておらんかったようじゃ。精をもらえばそれで終わり。その娘は誰にも心を開こうとせず、愛そうとはしなかった。
傷だらけになる自分の身体に自信が持てなかったのかもしれん。あるいは愛した相手を再び失うのを恐れたのかもしれん……。
娘はひたすらに己に厳しくあり続けた。常に剣の修練を忘れず、戦場に出れば数多くの味方を守り、その何倍もの敵を殺すことなく捕えてきた。
……事件は突然起こった。それは戦場での事じゃった。娘に追いつめられた敵軍の魔術師が、自分の命を魔力に変換して大爆発を起こそうとしたのじゃ。
術が成功すれば敵にも味方にも多くの犠牲者が出る。それが分かった娘は、とっさに魔術を止めさせるべく一人突撃したのじゃ。
おかげで魔術は失敗したが、暴走した魔力の奔流に巻き込まれ、娘の身体はどこか遠くに転移させられてしまったのじゃ。
頭と体が切り離されてしまった。
娘の仲間は心配した。首の無い身体では死体と間違われて埋められてしまうのではないか。不気味がられて殺されてしまうのではないか。見世物にされてしまうのではないか。
あるいは周りに誰も居なくて、精が尽きて死んでしまうのではないか。
だが幸い、心優しい墓守が娘の身体を拾ってくれた。
首の無い身体でも丁寧に扱ってくれていて、優しそうな人だから安心しろと、娘は心配する仲間に言った。精も分けてもらえたと。
娘は見知らぬ相手から精をもらう事を申し訳なく思っていたようじゃ。
ま、それも最初のうちだけじゃったがな。そのうち娘は一日に何度も喘ぎ声を上げるようになった。戸惑いながらも嬉しそうに、顔を赤く染めて。
相手はどんなことをしとったのじゃろうなぁ。あのフランをあんなに乱れさせるとは……。ふふ、まぁ全く嫌がっておらんかったから安心せい。
魔物娘らしい、見事な雌の顔になっておったわ。からかってやるつもりじゃったわしが、逆に何回」
「ちょっと待った」
ククリはにやりと笑う。
「何か心当たりが?」
「フランの話だろう」
「処女ではないと聞いて、嫌になったか? かつて他に好きだった人間が居たと聞いて、幻滅したか? かつて誰かの物だったのであれば、いらないか?」
確かに恋仲だった男の話を聞いて胸は少し痛んだし、生きるためとはいえ他の男から精をもらったという話は気持ちを掻き乱しはしたが。
それでも今決まった相手が居ないと聞いて、俺はすごく安心してしまっていた。
「そうではない。何も思わないわけでは無いが……。俺が彼女を欲しい気持ちに変わりは無い」
「やはりお主はいい男のようじゃの。では、何が不満なのじゃ」
「……フランを俺の欲望や、寂しさを紛らわせるための道具にしたくは無い」
それを聞くとククリは噴き出して、声をあげて笑った。
「何が可笑しい」
「はは。笑わずに居られるか。こんな糞真面目な男を前にして。くくく、お前のような男は久しぶりに見た。ぷっくくく、ははははは。ああ可笑しい。だがフランにはお似合いじゃ。これ以上ない相手かもしれんわ」
ククリは笑いながら俺に紙切れを突き出してくる。
反射的に受け取ると、そこには親魔物国の名前と道筋、そしてフランの所属が書いてあった。
「む、もうそろそろ転移する時間か」
ククリは俺の正面に立ち、胸を張る。俺は自分の目を疑った。
その頭から突然ヤギのような角が生えはじめたのだ。
彼が手を振れば何も無いところから大鎌が現れ、その背中に闇色の外套が広がった。
ククリは紫色の瞳を輝かせる。背後に闇を従えて、彼は俺へ人差し指を突きつけた。
「小僧。魔物娘や人間を道具と同列に考えるのは止める事じゃ。誰にもそんなことは出来ん。それはな、お前がそう思いたくて、思い込んでいるだけじゃ。
誰かを思い通りにすることなど、誰にも出来んよ。だから安心して道を間違えるがいい。
若者よ、余計な事を考える暇があるのなら、正直に欲しいものに手を伸ばすのじゃ。運が良ければ手に入るじゃろ」
悪魔じみた姿ではあるが、憎めない幼い顔立ちをしていて、ちぐはぐな印象を与える。
その姿が、少しずつ薄れていく。
「だが、俺は」
「まぁ、好きにする事じゃ。じゃがな小僧。機会というものはそう多くない。まして短命な人間なら、なおのこと。それだけは肝に銘じておくことじゃ。
では、さらばじゃ」
彼は外套を翻す。
その一薙ぎで部屋中に強烈な風が巻き起こる。埃が舞い上がり、シーツがばたばたと音を立てて吹き飛びそうになる。
目を開けていられない。
風が弱まる一瞬、目を開けると、そこには既に少年の姿は無かった。風も止んでいる。そもそも風など吹いていなかったとでもいうように、部屋の中は何事も無かったかのように整ったままだった。
残っているのは、手のひらの上の紙切れだけだった。
フランが居なくなってしまってから、いつの間にか数日が過ぎていた。
俺はあの時ククリからもらった紙切れを捨てられずにいた。これを捨ててしまえば彼女への繋がりは完全になくなる。諦めるならそうすればいい。
いや、いつか……今回のことが思い出になった時にふらりと顔を見に行こう。幸せになったフランに会いに。その時のために場所が分からなくては仕方が無いじゃないか。
俺はそうやって誤魔化して、捨てようとするたびに胸のポケットに仕舞うのだった。
今でもその紙切れは胸ポケットに入っている。俺はそれを取り出して眺め、ため息を吐いてまた仕舞った。
今日から元の部屋に戻る。フランと過ごしたあの部屋に。部屋の扉の修繕がようやく終わったのだ。
だが、その部屋の前には意外な人物がいた。
彼は俺に気が付くと、姿勢を正して頭を下げた。
「先輩。先日は申し訳ありませんでした。謝っても許されない事をしたということはよく分かっています。
こんな事でお詫びにはなりませんが、俺に出来る事なら何でもします」
最初は誰だか分からなかったが、後輩だった。長かった髪を切り、坊主頭に丸めていたために声を聴くまで気が付かなかった。
俺は乾いた笑いで応じる。フランが居なくなった今、後輩に対する怒りも忘れてしまっていたのだ。
結果としては何事も無かったわけだし、後輩は後輩であの後ずっとしおらしく反省していたのを俺は知っていた。
「いや、相手が違うだろう。謝るのならフランに謝らないとな」
「じゃあ、先輩からフランさんに伝えてください。お願いします」
「どうやって」
「どうやってって」
後輩は不思議そうな顔をして俺を見る。
「だって先輩、近いうちに会いに行くんでしょう。あんなに凄い剣幕で怒っていたんだから、鈍い俺だって先輩にとってあの人が大切な人だって事くらい分かりますよ」
大切な人……。
「先輩?」
俺は後輩を押しのけて、部屋の扉を開けた。
ベッドの上に首なし女は、フランは居ない。
「頼みました。本当にすみませんでした。じゃあ俺、見回りがあるんで」
俺は扉を閉めて、ベッドに腰を下ろした。
誰も俺の手を取ってはくれない。ベッドは冷たいままだ。
静かだ。とても静かだった。
いや、何も変わらないじゃないか。フランが居た時だって衣擦れの音くらいしかしなかったし。もともと部屋には俺一人だったんだから。
そう思おうとしても、静寂が耳に痛かった。
身を横たえる。手が何かに触れた。
紙。フランの字が書かれていた。これまでの二人のやり取りの跡だ。フランがかけてくれた言葉の数々、返事に指を這わせた彼女の手のひらの暖かさがまざまざと蘇ってくる。
急に胸が苦しくてたまらなくなる。
こんな感覚は初めてだ。この痛みは、例え女を抱いたとしてもどうすることも出来ないだろう。きっと和らげてくれるのはフランだけだ。
だが、俺は。俺のような人間が彼女を求めるなど。
「おい、ちょっといいか」
唐突に部屋の外から霊園長の声が聞こえ、俺は深呼吸して気持ちを落ち着けてから扉を開けた。
いつになく神妙な顔をした霊園長が居た。
「話がある。俺の部屋に来い」
机に付いて、霊園長はため息を吐いた。
「お前、ここしばらく何をやっていたか言えるか」
「何をって、いつも通りに」
思い出そうとする。だがあまり良く思い出せなかった。見回りなどもしていたはずなのだが、記憶がぼんやりとしてあやふやだ。
霊園長は再び深く息を吐く。
「何がいつも通りだ馬鹿者。見回りの時間は間違える、埋葬の予定は呼びに行くまで忘れている、声をかけても気が付かない。
このどこがいつも通りだ。どうせ女の事を考えていたんだろう」
「いや、それは」
否定は出来なかった。俺はフランの事ばかり考えてしまっていた。そのせいで確かに仕事の予定を忘れていたこともあった。
「仕事をする気が無い奴を置いておくわけにはいかない。お前は解雇することにした」
「え」
「ここから出ていってもらうという事だ」
俺は思わず身を乗り出していた。突然出て行けと言われても困るのだ。
「ちょっと待ってください。霊園長だって俺の経歴を知っているでしょう? 俺にはここ以外に居場所なんて無いんです。お願いです。仕事は真面目にしますからここに置いてください」
「それでいいのか? 一生こんな場所で死人の相手を続けるつもりなのか?」
「この仕事好きですから」
別に嘘はついていない。死者を平等に弔うこの仕事は俺の誇りでもある。
だが霊園長は首を振った。
「じゃあお前、フランさんを別の男に取られてもいいんだな」
「え?」
「ここに居続けるってことは、そういう事だろう。
仮に今フランさんに恋人が居なかったとして、あれだけの美人だ。望めばいつだって恋人の一人や二人出来るだろう。もし俺が彼女の近くに居たら、間違いなく声をかけるね」
「フランに、恋人」
フランが、知らない男の腕に抱かれる。あの綺麗な声が嬉しそうに知らない男の名前を呼ぶ。柔らかい唇が奪われる。そして、彼女の身体を……。
嫌だ。もう大切な人を誰かに取られるのは嫌だ。
でも、彼女には俺よりももっと適した人が居るはずで……。
「それも、仕方が無い事だと思います。いえ、その方がきっとフランにとってはいいはずです」
「じゃあ、ここでその胸ポケットの紙切れを破って捨てろ」
俺はポケットからそれを取り出す。
これを失うという事は、つまりフランへの繋がりを全て断ち切るという事で。
両手で掴む。あと少し力を入れれば破れる。でも、その些細な事がどうしても出来ない。手が震えて、目元が熱くなってくる。
「出来ないなら、俺がやってやるよ」
伸ばされた霊園長の手を、俺は振り払っていた。
「ふふ、ずいぶん人間らしい顔をするようになったじゃないか」
霊園長は、いつの間にか表情を緩めていた。俺は見たことが無いが、息子を見守る親父というものはこういう顔をするのかもしれない。
「冗談だよ。なっさけねぇ顔するんじゃねぇ。分かったろ。もう自分を抑えるのは止めろ」
「霊園長。でも、俺は」
「過去に人を殺しきて、女と酒に溺れてきたな。それでここで真面目に過去と死者に向き合ってきた。首の無い魔物の命を救った。
そんなお前と一緒に居たいかどうか決めるのはフランさんだ。
それとも、想いも伝えずにここで気持ちを腐らせながら亡者のように彷徨い続けるか?」
手の中の小さな紙切れ。さんざん迷っても、どうしてもこれだけは捨てられそうにない。
俺はいつまでもこの紙切れを握りしめながら、フランに未練を残したまま墓場で呆け続けるのか?
自分を助けた人間がそんな姿になっていたら、フランはどう思う?
いや、そんなことは綺麗事だ。俺は結局フランを誰かに取られるのが嫌なんだ。自分を誤魔化そうとしても、気持ちを抑えようとしても、想像しただけで居ても立ってもいられなくなる。
霊園長の言う通りだ。過去の事も、今の気持ちも全部フランに話そう。ずっと一緒に居たいと伝えて、それでも駄目ならきっぱり諦める。
それでいいじゃないか。
「ようやく吹っ切れたか。手間がかかったぜ。出て行く準備でもしているかと思えば毎日呆けているばかり。女々しいったらねぇよ」
「う」
返す言葉も無い。実際、フランの事しか考えていなかった。
忘れようと霊園を歩けば歩くほど、フランとの日々を思い返してしまっていた。
「フランさんが来てから本当にお前は人間らしい顔をするようになった。自分では気が付いていなかったかもしれないが、毎日目に見えて分かる程に表情が柔らかくなっていっていたよ」
「フランが来てからって、……前から気が付いていたんですか?」
霊園長は呆れた顔を俺に向ける。
「最初から魔物がまぎれこんでいたことは分かっていたよ。俺が伊達にアンデッドが出る可能性の高い霊園を任されていると思うな?
多分あいつも気が付いていたぜ? 鍵穴覗き込んだり、無駄と分かりながらも針金つっこんだりしていたからな。まさか斧でぶっ壊すとは思わなかったが。
まぁ、最近お前にも相手にされなくなってあいつも寂しかったんだろうさ」
気付かれていた? だったらなぜ何も言わず、そのまま見過ごしていたのだろう。
「まさかお前気付かれて居ないとでも思っていたのか? だとしたらこっちこそ驚きなんだが」
という事は、俺がフランとしていたことも全部ばれているという事だろうか。……何だろう、顔が熱くなってきた気がする。
霊園長は窓の外に遠い目を向ける。
「あの子が来る前までのお前は青白い顔をして墓地をうろついてばかりで、本当に動く屍と言った感じだったからなぁ。
死人のようだったお前が日に日に生気を取り戻していく姿は、見ているこっちも元気を貰えたもんさ。
正直俺は安心した。若者がいつまでもあんな顔をしていていいもんじゃないんだ。辛いことがあっても、世の中はそればかりじゃない。
……デュラハンと言うのはもともと死を告げに現れる存在なんだそうだ。あの子は、フランさんはきっと過去のお前を殺してくれたんだよ。明日に向かって生きていくために」
ああ、確かにそうかもしれない。フランと一緒に居る時には穏やかな気持ちで居られた。時として過去の事を思い出しても、落ち着いていることが出来た。
フランと一緒に明日を迎えたいと思えた。明日の事を考えるなんてずっとなかった事なのに。
フランが手をつないでいてくれたおかげだ。
支えられていたのは、むしろ俺の方だったのかもしれない。
それなのに、俺はまだ彼女に何一つ礼をしていないじゃないか。
「霊園長」
霊園長は頬を染めて頭を掻いた。
「いや、ちょっと臭すぎたか」
「……なんというか、台無しです」
「ええいうるさいうるさい。ついでにもう一つ言ってやる。
お前な、自己評価が低すぎるのも相手に失礼なんだぞ? 折角プレゼントを渡そうとしているのに、自分には勿体ないと言って受け取ってもらえなかったら、お前はどう思う?
お前はフランさんの言葉を素直に受け取ってきたのか? 旅の途中でよく考えるんだな」
ああ、本当だ。俺はいつだって自分の事ばかりで、誰かの事を思いやるなんて出来ていなかった。
俺は霊園長に頭を下げる。
「今まで、本当にお世話になりました。
ここに来たおかげで、俺は生きていく事を思い出せたんだと思います。
フランに会って、ちゃんと話してきます」
「帰って来なくていいぞ。好きな女のそばに居てやれ。
お前はいい墓守だった。だが、そろそろ新しいものを見つけてもいいころだ」
霊園長は歯を見せて笑った。その笑顔は俺と初めて出会った時「ここで働いてみないか」と俺を誘った時と変わっていなかった。
荷物もほとんどない。すぐにでも旅立とう。
「あ、ちょっと待った」
霊園長は机の下から両手で抱える程の横長の木箱を取り出すと、机の上に載せて蓋を開けた。
中は金貨でいっぱいだった。どういうつもりだろう。選別だとしても多すぎる。
「ほれ、もってけ」
「いいです。今までさんざんお世話になりましたし、気を使わないで下さいよ」
「いいのか? これまで手を付けてなかったお前の給金だが」
「頂いていきます」
そういえばろくに金を使った覚えも無かった。霊園を歩いて気を紛らわすだけで満足だったし、食事にも特に不満も無かった。
だが、先立つものは多い方がいいだろう。給金であるならばもらっていこう。
俺が金貨の詰まった箱に手を伸ばそうとした時だった。
突然、部屋の窓から大きな鳥のような影が雪崩れ込んできた。
「あれぇ。ここでいいんだっけぇ」
「お姉ちゃんが飛び込んだんでしょ! そういう事は先に確認してよ」
「落ち着きなさい二人とも。ククリ様が仰られていたのは確かにこの霊園よ」
園長室に窓から突っ込んできたのは三人の少女だった。
いや、少女と言っていい物だろうか。彼女たちの上半身には人の腕の代わりに鳥の翼が生えていて、膝から下も鳥のそれであった。
着ている物は短いズボンと、薄い胸に巻かれた布の胸当てのみ。白い太腿やへそ、華奢な肩を惜しげも無く外気に晒していた。
魔物娘、ハーピーか。上空を飛んでいるのを見たことがある。
俺は驚いて腰を抜かし、霊園長も目を丸くして彼女たちを見ていた。いや、よく見ればこの男、舐めるように彼女たちの方を見ている。大物だというか助平だというか。
「あれぇ。でもぉ、男の人が二人も居るよぉ。どっちも連れてっちゃう?」
「そんなの駄目に決まってるじゃない。ククリ様に言われたでしょ? フラン様の想い人だけを連れて来いって」
「ククリ様は目印を渡したと仰っていたわ。それを持っている殿方がフラン様の想い人よ」
よく似ている三人組だったが、それぞれ個性があるようだ。
一人は垂れ目で、眠そうな顔をしていて、のんびりした話し方をしている。
それに食ってかかるのは三人の中で一番小さい娘だ。目が大きくて利発そうな子だった。
そしてそんな二人をまとめているのが一番大きな娘。この子も垂れ目がちだが、顔つきや振る舞いに凛としたものがあった。
三姉妹、と言ったところなのだろうか。
「でもぉ、二人とも好みじゃないよぉ。片方はおじさんだし、もう片方はもう魔物の匂いがしみついてるしぃ」
「お姉ちゃんの好みは関係ないでしょ! でも、確かに少しフランさんの匂いが」
「あなたのその手元の紙、ちょっとお借りします」
一番大きい長女のハーピーが、止める間もなく俺の手元からメモを奪い取る。
フランの居場所が書かれたメモが!
「おい、それは大切な物なんだ。返してくれ」
掴みかかるように詰め寄ると、彼女は頭を下げながらあっけなくメモを返してくれた。
「その人なのぉ」
「そうなの? 姉さま」
「ええ。私たちはハーピー宅配便の者です。荷物の受け取りに来ました」
長女のハーピーが俺に向かって頭を下げる。それに続いて残りの二人も慌てて頭を下げた。
「ちょっと待ってくれ、いきなり何なんだ」
どういう事なのかさっぱり分からない。宅配便などと言っているが、そんなものを頼んだ覚えはない。
「我々はククリ様に命じられ、あなたを迎えに来たのです。その紙を良くご覧ください」
よく見るも何も、この数日間穴が開くほど何度も見てきた。
それこそ暗唱できるほどに読んだのだ。今更見直したところで……。
視線を紙に落とす。フランの国の名前と道筋、そしてフランの所属が示されているだけだ。……いや、文字の様子がおかしい。小刻みに震えているように見える。
そして紙の上の一文字一文字が水中を泳ぐ魚のように動き始める。眩暈がしそうな光景だった。
文字は分裂や結合を繰り返しながら、秩序だった文字列に納まっていく。
「これは?」
居場所を告げるだけの物だったそれは、いつの間にか宅配の申込書に変わっていた。
送り主の部分には長ったらしい名前が書かれているが、その最後にククリと書かれている。
宛て先はフラン。そして荷物の中身は男性一名、俺の名前が書かれていた。
「何なんだこれは」
「素敵な魔法ですよ」
長女はそう言うと俺の背を窓に向かって押しやる。
抵抗しようとするも、他の二人も腕を掴んで無理矢理窓へと引きずられる。華奢に見えるが彼女達の力は案外に強く、大人に引かれる子供のように俺はあっという間に追いつめられる。
「待ってくれ、フランのところに連れて行ってくれるのか」
「そうだよぉ、早くてかくじつが私たちの売りなんだぁ」
「い、いや。でもそんなに急がなくても」
「駄目。もうあんまり時間が無いんだから。急がなきゃ今日中に着かないじゃない」
「今日中? でも、準備くらい」
「必要ありません。荷物の指定はあなただけですから」
もみくちゃにされながら、俺は蹴り出されるように窓の外の地面に落下する。
そして俺の肩と両腕を、彼女達の足が掴む。まさかとは思うが。
三人が一斉に羽ばたきを始める。あっという間に俺の足が地面から離れる。浮いている。体が空を飛んでいる。
俺は夢でも見ているんだろうか。窓からこちらを見上げる霊園長の顔が小さくなっていく。
「何だか分からんが、フランさんと仲良くな! 荷物は取っておくからいつでも取りに来い。その時は二人で来いよ!」
手を振る霊園長に、俺は叫んだ。
「お世話になりました! ここの事は絶対忘れません!」
俺の身体はあっという間に空高く舞い上がった。
霊園が足元でだんだん小さくなっていく。それを囲うだだっ広い草原、草原を一文字に横切っている街道。
遠くに見える黒々とした森。
あの城壁は教国だろうか。俺を無理矢理戦争へと連れ出した、圧倒的な存在感を持っていた教国も、空から見下ろすと以外と小さな物だった。
戦争をした跡地も、草木に覆われてもう分からなくなってしまっていた。
「へぇ。お兄さん意外と肝が据わってるねぇ」
「確かに、悲鳴も上げないし結構男らしいかも」
「二人とも無駄なおしゃべりは止めて集中しなさい。少しでも早く届けるのよ」
三人は翼を大きく羽ばたかせて風を切っていく。羽ばたきの力だけではなく魔力のようなものも合わせているのだろうか、かなりの速度で空を飛んでいた。
全身に凍えるような風が叩きつけられる。
霊園はもう見えない場所まで流れて行ってしまった。
「どうしてそんなに急ぐんだ。こんな風にしなくても、俺はフランに会いに」
「それじゃ間に合わないんだよぉ」
「あんたのせいで、フラン様が大変な事になってるのよ」
「あなたを責めるつもりはありませんが、予断を許さない状態なのです」
左右から、そして頭上から声が降ってくる。
俺は誰に向かって聞けばいいか分からず、ひたすら声を張り上げた。
「フランに何があったんだ。彼女は無事なのか」
「フラン様、倒れちゃったんだよぉ」
「精が取れなくなって、それで……」
両翼から、沈痛な声が下りてくる。
精が取れなくなって倒れたって……。俺と一緒だったときは大丈夫だったじゃないか。どうして急にそんなことが。
まさか、あまりにも長く首と体が離れていたせいで体に変調が……。
「フランは大丈夫なんだよな。なぁ、教えてくれ!」
「詳しくは到着してから説明します。本気を出しますので、口を閉じてください」
長女の言葉の通りに、彼女たちはさらに飛翔する速度を上げる。
全身を刺すような冷気が襲い掛かる。体が震えはじめる。だがそんなことは気にならなかった。
精が取れなくなった。人間で言えば飯が食えなくて、腹が減り過ぎて動けなくなっているという事だ。
飯が食えなければ人間は死ぬ。なら、精を生きる糧としている魔物娘が精を得られなかったら……。
フランが死んでしまったら。そのことを考えると、心臓が凍りついたように全身が寒くなった。
こっちを見てにやにや笑っているが、この子は一体何者なのだろうか。
フランの使いと言うからてっきり同じ騎士の格好をした奴が来るとばかり思っていたのだが、やってきたのはどう見ても子供の、しかもおかしな話し方をする変な奴だった。
「フランが欲しくは無かったのか。しこたま抱いてやったのじゃろう」
ククリは挨拶をするように平然と言ってのけた。俺はあまりの内容に言葉を失う。
そんな俺の顔を見て、ククリは笑みを深める。
「フランの抱き心地は極上じゃったろう? わしの見立てでもあの娘の具合は相当いいはずじゃ」
「子供がませたことを言うもんじゃない」
色々なものを通り越して、俺は呆れてしまった。この年にしてこんな物言いをするとは、どんな教育を受けてきたのだろうか。
彼は頬を膨らませて腕を組んだ。その様子はやはり子供にしか見えないのだが。
「ふん。こう見えてもわしはお前たちより年上なのじゃぞ……。まぁ、完璧すぎるわしの魔法を見抜くことは誰にも出来んのじゃから、お主が気付かぬのも仕方が無いのじゃが」
さてはこの子供、いいところのお坊ちゃんか何かなのだろうか。わがままを言ってお忍びで国の外に出て、きっとそうに違いない。
「そんな事より本音はどうなのじゃ。フランが欲しいのじゃろう。身体も心も欲しくてたまらない。違うかの?」
「……ああ、欲しいさ。お前の言うとおり、欲しくて欲しくてたまらない」
俺はもう面倒臭くなってしまった。何も知らない子供に大人の汚さを見せてやるのもいい勉強だろう。
「でもな、俺は戦争でたくさん人を殺してきて、金でいっぱい女を買ってきた。
誰からも必要とされなくなって、行き場も無くなったから墓守をしている。そんな奴があんな綺麗な人に手が出せるわけがない」
ククリは呆れた、と言わんばかりの顔で肩をすくめた。
「さんざん手を出しておいて……。いや、その下半身の己自身を突っ込んで精を出してきたのにか?
本人も言っていたろう。別にお前が初めてというわけでは無いんじゃぞ。魔物は精が無ければ生きられないんじゃからの。
それに、魔物は人間と違って男の身分や出自などといった下らない物は気にせんよ。体と心の相性、それが全てじゃ」
なんという言葉づかいをする子供だろうか。親は何をしているのだろう。
「何じゃ、妙な視線を向けるでない。
……そうじゃ、一つ昔話をしてやろう」
俺は口を開こうとしたが、ククリがあんまりにも真剣な顔をするものだから黙って聞いてやる事にした。
「話の分かる男で助かる。
昔の事じゃ。一人の騎士と、一人の魔物娘が居た。
魔物娘は己の剣の腕に自信が無く、悩みを抱えておった。そして魔物娘は恥を忍んで、国一の剣士と言われた騎士から教えを乞う事にしたのじゃ。
彼は快くそれに応じ、熱心に剣を教えた。娘の吸収力はすさまじく、すぐに騎士と並ぶほどの剣士となった。
そして訓練を共にするうち、二人は互いの事を想い合うようになった。
あるとき、二人は共に戦場に赴くことになった。娘にとっては初めての戦場じゃった。
いくら腕が立つようになったとはいえ、初めての戦場じゃ。娘には戦い方の勝手がまだ分からなかった。
敵兵に不意を突かれ、取り囲まれてしまうのも無理も無い事じゃった。
窮地を救ったのは騎士じゃった。じゃが、娘を庇ったことで騎士は深い傷を負い、それが元で死んでしまったんじゃ。
……娘は自分を責めた。
そしてもう誰にも頼らないことを決め、一人でひたすら剣の腕を磨いた。彼の分も人の命を救うのだと、自分に厳しくあり続けた。
戦場に立てば自らの命もかえりみずに味方を庇い、進んで危険な最前線に立った。
娘は多くの命を救った。味方だけでなく、自らに襲い掛かる敵の命すらも。
そして、誰かを救う度に体にも傷が増えていった……。
もはや娘に並ぶ剣士は居なかった。いつしか娘は赤い盾と呼ばれ、軍に無くてはならない存在になっておった。
そんな娘じゃったが、魔物であるからには生きるのに男の精が必要になる。もちろん精は訓練を共にした相手などからもらっていたようじゃが、娘はそれを食事のようにしか考えておらんかったようじゃ。精をもらえばそれで終わり。その娘は誰にも心を開こうとせず、愛そうとはしなかった。
傷だらけになる自分の身体に自信が持てなかったのかもしれん。あるいは愛した相手を再び失うのを恐れたのかもしれん……。
娘はひたすらに己に厳しくあり続けた。常に剣の修練を忘れず、戦場に出れば数多くの味方を守り、その何倍もの敵を殺すことなく捕えてきた。
……事件は突然起こった。それは戦場での事じゃった。娘に追いつめられた敵軍の魔術師が、自分の命を魔力に変換して大爆発を起こそうとしたのじゃ。
術が成功すれば敵にも味方にも多くの犠牲者が出る。それが分かった娘は、とっさに魔術を止めさせるべく一人突撃したのじゃ。
おかげで魔術は失敗したが、暴走した魔力の奔流に巻き込まれ、娘の身体はどこか遠くに転移させられてしまったのじゃ。
頭と体が切り離されてしまった。
娘の仲間は心配した。首の無い身体では死体と間違われて埋められてしまうのではないか。不気味がられて殺されてしまうのではないか。見世物にされてしまうのではないか。
あるいは周りに誰も居なくて、精が尽きて死んでしまうのではないか。
だが幸い、心優しい墓守が娘の身体を拾ってくれた。
首の無い身体でも丁寧に扱ってくれていて、優しそうな人だから安心しろと、娘は心配する仲間に言った。精も分けてもらえたと。
娘は見知らぬ相手から精をもらう事を申し訳なく思っていたようじゃ。
ま、それも最初のうちだけじゃったがな。そのうち娘は一日に何度も喘ぎ声を上げるようになった。戸惑いながらも嬉しそうに、顔を赤く染めて。
相手はどんなことをしとったのじゃろうなぁ。あのフランをあんなに乱れさせるとは……。ふふ、まぁ全く嫌がっておらんかったから安心せい。
魔物娘らしい、見事な雌の顔になっておったわ。からかってやるつもりじゃったわしが、逆に何回」
「ちょっと待った」
ククリはにやりと笑う。
「何か心当たりが?」
「フランの話だろう」
「処女ではないと聞いて、嫌になったか? かつて他に好きだった人間が居たと聞いて、幻滅したか? かつて誰かの物だったのであれば、いらないか?」
確かに恋仲だった男の話を聞いて胸は少し痛んだし、生きるためとはいえ他の男から精をもらったという話は気持ちを掻き乱しはしたが。
それでも今決まった相手が居ないと聞いて、俺はすごく安心してしまっていた。
「そうではない。何も思わないわけでは無いが……。俺が彼女を欲しい気持ちに変わりは無い」
「やはりお主はいい男のようじゃの。では、何が不満なのじゃ」
「……フランを俺の欲望や、寂しさを紛らわせるための道具にしたくは無い」
それを聞くとククリは噴き出して、声をあげて笑った。
「何が可笑しい」
「はは。笑わずに居られるか。こんな糞真面目な男を前にして。くくく、お前のような男は久しぶりに見た。ぷっくくく、ははははは。ああ可笑しい。だがフランにはお似合いじゃ。これ以上ない相手かもしれんわ」
ククリは笑いながら俺に紙切れを突き出してくる。
反射的に受け取ると、そこには親魔物国の名前と道筋、そしてフランの所属が書いてあった。
「む、もうそろそろ転移する時間か」
ククリは俺の正面に立ち、胸を張る。俺は自分の目を疑った。
その頭から突然ヤギのような角が生えはじめたのだ。
彼が手を振れば何も無いところから大鎌が現れ、その背中に闇色の外套が広がった。
ククリは紫色の瞳を輝かせる。背後に闇を従えて、彼は俺へ人差し指を突きつけた。
「小僧。魔物娘や人間を道具と同列に考えるのは止める事じゃ。誰にもそんなことは出来ん。それはな、お前がそう思いたくて、思い込んでいるだけじゃ。
誰かを思い通りにすることなど、誰にも出来んよ。だから安心して道を間違えるがいい。
若者よ、余計な事を考える暇があるのなら、正直に欲しいものに手を伸ばすのじゃ。運が良ければ手に入るじゃろ」
悪魔じみた姿ではあるが、憎めない幼い顔立ちをしていて、ちぐはぐな印象を与える。
その姿が、少しずつ薄れていく。
「だが、俺は」
「まぁ、好きにする事じゃ。じゃがな小僧。機会というものはそう多くない。まして短命な人間なら、なおのこと。それだけは肝に銘じておくことじゃ。
では、さらばじゃ」
彼は外套を翻す。
その一薙ぎで部屋中に強烈な風が巻き起こる。埃が舞い上がり、シーツがばたばたと音を立てて吹き飛びそうになる。
目を開けていられない。
風が弱まる一瞬、目を開けると、そこには既に少年の姿は無かった。風も止んでいる。そもそも風など吹いていなかったとでもいうように、部屋の中は何事も無かったかのように整ったままだった。
残っているのは、手のひらの上の紙切れだけだった。
フランが居なくなってしまってから、いつの間にか数日が過ぎていた。
俺はあの時ククリからもらった紙切れを捨てられずにいた。これを捨ててしまえば彼女への繋がりは完全になくなる。諦めるならそうすればいい。
いや、いつか……今回のことが思い出になった時にふらりと顔を見に行こう。幸せになったフランに会いに。その時のために場所が分からなくては仕方が無いじゃないか。
俺はそうやって誤魔化して、捨てようとするたびに胸のポケットに仕舞うのだった。
今でもその紙切れは胸ポケットに入っている。俺はそれを取り出して眺め、ため息を吐いてまた仕舞った。
今日から元の部屋に戻る。フランと過ごしたあの部屋に。部屋の扉の修繕がようやく終わったのだ。
だが、その部屋の前には意外な人物がいた。
彼は俺に気が付くと、姿勢を正して頭を下げた。
「先輩。先日は申し訳ありませんでした。謝っても許されない事をしたということはよく分かっています。
こんな事でお詫びにはなりませんが、俺に出来る事なら何でもします」
最初は誰だか分からなかったが、後輩だった。長かった髪を切り、坊主頭に丸めていたために声を聴くまで気が付かなかった。
俺は乾いた笑いで応じる。フランが居なくなった今、後輩に対する怒りも忘れてしまっていたのだ。
結果としては何事も無かったわけだし、後輩は後輩であの後ずっとしおらしく反省していたのを俺は知っていた。
「いや、相手が違うだろう。謝るのならフランに謝らないとな」
「じゃあ、先輩からフランさんに伝えてください。お願いします」
「どうやって」
「どうやってって」
後輩は不思議そうな顔をして俺を見る。
「だって先輩、近いうちに会いに行くんでしょう。あんなに凄い剣幕で怒っていたんだから、鈍い俺だって先輩にとってあの人が大切な人だって事くらい分かりますよ」
大切な人……。
「先輩?」
俺は後輩を押しのけて、部屋の扉を開けた。
ベッドの上に首なし女は、フランは居ない。
「頼みました。本当にすみませんでした。じゃあ俺、見回りがあるんで」
俺は扉を閉めて、ベッドに腰を下ろした。
誰も俺の手を取ってはくれない。ベッドは冷たいままだ。
静かだ。とても静かだった。
いや、何も変わらないじゃないか。フランが居た時だって衣擦れの音くらいしかしなかったし。もともと部屋には俺一人だったんだから。
そう思おうとしても、静寂が耳に痛かった。
身を横たえる。手が何かに触れた。
紙。フランの字が書かれていた。これまでの二人のやり取りの跡だ。フランがかけてくれた言葉の数々、返事に指を這わせた彼女の手のひらの暖かさがまざまざと蘇ってくる。
急に胸が苦しくてたまらなくなる。
こんな感覚は初めてだ。この痛みは、例え女を抱いたとしてもどうすることも出来ないだろう。きっと和らげてくれるのはフランだけだ。
だが、俺は。俺のような人間が彼女を求めるなど。
「おい、ちょっといいか」
唐突に部屋の外から霊園長の声が聞こえ、俺は深呼吸して気持ちを落ち着けてから扉を開けた。
いつになく神妙な顔をした霊園長が居た。
「話がある。俺の部屋に来い」
机に付いて、霊園長はため息を吐いた。
「お前、ここしばらく何をやっていたか言えるか」
「何をって、いつも通りに」
思い出そうとする。だがあまり良く思い出せなかった。見回りなどもしていたはずなのだが、記憶がぼんやりとしてあやふやだ。
霊園長は再び深く息を吐く。
「何がいつも通りだ馬鹿者。見回りの時間は間違える、埋葬の予定は呼びに行くまで忘れている、声をかけても気が付かない。
このどこがいつも通りだ。どうせ女の事を考えていたんだろう」
「いや、それは」
否定は出来なかった。俺はフランの事ばかり考えてしまっていた。そのせいで確かに仕事の予定を忘れていたこともあった。
「仕事をする気が無い奴を置いておくわけにはいかない。お前は解雇することにした」
「え」
「ここから出ていってもらうという事だ」
俺は思わず身を乗り出していた。突然出て行けと言われても困るのだ。
「ちょっと待ってください。霊園長だって俺の経歴を知っているでしょう? 俺にはここ以外に居場所なんて無いんです。お願いです。仕事は真面目にしますからここに置いてください」
「それでいいのか? 一生こんな場所で死人の相手を続けるつもりなのか?」
「この仕事好きですから」
別に嘘はついていない。死者を平等に弔うこの仕事は俺の誇りでもある。
だが霊園長は首を振った。
「じゃあお前、フランさんを別の男に取られてもいいんだな」
「え?」
「ここに居続けるってことは、そういう事だろう。
仮に今フランさんに恋人が居なかったとして、あれだけの美人だ。望めばいつだって恋人の一人や二人出来るだろう。もし俺が彼女の近くに居たら、間違いなく声をかけるね」
「フランに、恋人」
フランが、知らない男の腕に抱かれる。あの綺麗な声が嬉しそうに知らない男の名前を呼ぶ。柔らかい唇が奪われる。そして、彼女の身体を……。
嫌だ。もう大切な人を誰かに取られるのは嫌だ。
でも、彼女には俺よりももっと適した人が居るはずで……。
「それも、仕方が無い事だと思います。いえ、その方がきっとフランにとってはいいはずです」
「じゃあ、ここでその胸ポケットの紙切れを破って捨てろ」
俺はポケットからそれを取り出す。
これを失うという事は、つまりフランへの繋がりを全て断ち切るという事で。
両手で掴む。あと少し力を入れれば破れる。でも、その些細な事がどうしても出来ない。手が震えて、目元が熱くなってくる。
「出来ないなら、俺がやってやるよ」
伸ばされた霊園長の手を、俺は振り払っていた。
「ふふ、ずいぶん人間らしい顔をするようになったじゃないか」
霊園長は、いつの間にか表情を緩めていた。俺は見たことが無いが、息子を見守る親父というものはこういう顔をするのかもしれない。
「冗談だよ。なっさけねぇ顔するんじゃねぇ。分かったろ。もう自分を抑えるのは止めろ」
「霊園長。でも、俺は」
「過去に人を殺しきて、女と酒に溺れてきたな。それでここで真面目に過去と死者に向き合ってきた。首の無い魔物の命を救った。
そんなお前と一緒に居たいかどうか決めるのはフランさんだ。
それとも、想いも伝えずにここで気持ちを腐らせながら亡者のように彷徨い続けるか?」
手の中の小さな紙切れ。さんざん迷っても、どうしてもこれだけは捨てられそうにない。
俺はいつまでもこの紙切れを握りしめながら、フランに未練を残したまま墓場で呆け続けるのか?
自分を助けた人間がそんな姿になっていたら、フランはどう思う?
いや、そんなことは綺麗事だ。俺は結局フランを誰かに取られるのが嫌なんだ。自分を誤魔化そうとしても、気持ちを抑えようとしても、想像しただけで居ても立ってもいられなくなる。
霊園長の言う通りだ。過去の事も、今の気持ちも全部フランに話そう。ずっと一緒に居たいと伝えて、それでも駄目ならきっぱり諦める。
それでいいじゃないか。
「ようやく吹っ切れたか。手間がかかったぜ。出て行く準備でもしているかと思えば毎日呆けているばかり。女々しいったらねぇよ」
「う」
返す言葉も無い。実際、フランの事しか考えていなかった。
忘れようと霊園を歩けば歩くほど、フランとの日々を思い返してしまっていた。
「フランさんが来てから本当にお前は人間らしい顔をするようになった。自分では気が付いていなかったかもしれないが、毎日目に見えて分かる程に表情が柔らかくなっていっていたよ」
「フランが来てからって、……前から気が付いていたんですか?」
霊園長は呆れた顔を俺に向ける。
「最初から魔物がまぎれこんでいたことは分かっていたよ。俺が伊達にアンデッドが出る可能性の高い霊園を任されていると思うな?
多分あいつも気が付いていたぜ? 鍵穴覗き込んだり、無駄と分かりながらも針金つっこんだりしていたからな。まさか斧でぶっ壊すとは思わなかったが。
まぁ、最近お前にも相手にされなくなってあいつも寂しかったんだろうさ」
気付かれていた? だったらなぜ何も言わず、そのまま見過ごしていたのだろう。
「まさかお前気付かれて居ないとでも思っていたのか? だとしたらこっちこそ驚きなんだが」
という事は、俺がフランとしていたことも全部ばれているという事だろうか。……何だろう、顔が熱くなってきた気がする。
霊園長は窓の外に遠い目を向ける。
「あの子が来る前までのお前は青白い顔をして墓地をうろついてばかりで、本当に動く屍と言った感じだったからなぁ。
死人のようだったお前が日に日に生気を取り戻していく姿は、見ているこっちも元気を貰えたもんさ。
正直俺は安心した。若者がいつまでもあんな顔をしていていいもんじゃないんだ。辛いことがあっても、世の中はそればかりじゃない。
……デュラハンと言うのはもともと死を告げに現れる存在なんだそうだ。あの子は、フランさんはきっと過去のお前を殺してくれたんだよ。明日に向かって生きていくために」
ああ、確かにそうかもしれない。フランと一緒に居る時には穏やかな気持ちで居られた。時として過去の事を思い出しても、落ち着いていることが出来た。
フランと一緒に明日を迎えたいと思えた。明日の事を考えるなんてずっとなかった事なのに。
フランが手をつないでいてくれたおかげだ。
支えられていたのは、むしろ俺の方だったのかもしれない。
それなのに、俺はまだ彼女に何一つ礼をしていないじゃないか。
「霊園長」
霊園長は頬を染めて頭を掻いた。
「いや、ちょっと臭すぎたか」
「……なんというか、台無しです」
「ええいうるさいうるさい。ついでにもう一つ言ってやる。
お前な、自己評価が低すぎるのも相手に失礼なんだぞ? 折角プレゼントを渡そうとしているのに、自分には勿体ないと言って受け取ってもらえなかったら、お前はどう思う?
お前はフランさんの言葉を素直に受け取ってきたのか? 旅の途中でよく考えるんだな」
ああ、本当だ。俺はいつだって自分の事ばかりで、誰かの事を思いやるなんて出来ていなかった。
俺は霊園長に頭を下げる。
「今まで、本当にお世話になりました。
ここに来たおかげで、俺は生きていく事を思い出せたんだと思います。
フランに会って、ちゃんと話してきます」
「帰って来なくていいぞ。好きな女のそばに居てやれ。
お前はいい墓守だった。だが、そろそろ新しいものを見つけてもいいころだ」
霊園長は歯を見せて笑った。その笑顔は俺と初めて出会った時「ここで働いてみないか」と俺を誘った時と変わっていなかった。
荷物もほとんどない。すぐにでも旅立とう。
「あ、ちょっと待った」
霊園長は机の下から両手で抱える程の横長の木箱を取り出すと、机の上に載せて蓋を開けた。
中は金貨でいっぱいだった。どういうつもりだろう。選別だとしても多すぎる。
「ほれ、もってけ」
「いいです。今までさんざんお世話になりましたし、気を使わないで下さいよ」
「いいのか? これまで手を付けてなかったお前の給金だが」
「頂いていきます」
そういえばろくに金を使った覚えも無かった。霊園を歩いて気を紛らわすだけで満足だったし、食事にも特に不満も無かった。
だが、先立つものは多い方がいいだろう。給金であるならばもらっていこう。
俺が金貨の詰まった箱に手を伸ばそうとした時だった。
突然、部屋の窓から大きな鳥のような影が雪崩れ込んできた。
「あれぇ。ここでいいんだっけぇ」
「お姉ちゃんが飛び込んだんでしょ! そういう事は先に確認してよ」
「落ち着きなさい二人とも。ククリ様が仰られていたのは確かにこの霊園よ」
園長室に窓から突っ込んできたのは三人の少女だった。
いや、少女と言っていい物だろうか。彼女たちの上半身には人の腕の代わりに鳥の翼が生えていて、膝から下も鳥のそれであった。
着ている物は短いズボンと、薄い胸に巻かれた布の胸当てのみ。白い太腿やへそ、華奢な肩を惜しげも無く外気に晒していた。
魔物娘、ハーピーか。上空を飛んでいるのを見たことがある。
俺は驚いて腰を抜かし、霊園長も目を丸くして彼女たちを見ていた。いや、よく見ればこの男、舐めるように彼女たちの方を見ている。大物だというか助平だというか。
「あれぇ。でもぉ、男の人が二人も居るよぉ。どっちも連れてっちゃう?」
「そんなの駄目に決まってるじゃない。ククリ様に言われたでしょ? フラン様の想い人だけを連れて来いって」
「ククリ様は目印を渡したと仰っていたわ。それを持っている殿方がフラン様の想い人よ」
よく似ている三人組だったが、それぞれ個性があるようだ。
一人は垂れ目で、眠そうな顔をしていて、のんびりした話し方をしている。
それに食ってかかるのは三人の中で一番小さい娘だ。目が大きくて利発そうな子だった。
そしてそんな二人をまとめているのが一番大きな娘。この子も垂れ目がちだが、顔つきや振る舞いに凛としたものがあった。
三姉妹、と言ったところなのだろうか。
「でもぉ、二人とも好みじゃないよぉ。片方はおじさんだし、もう片方はもう魔物の匂いがしみついてるしぃ」
「お姉ちゃんの好みは関係ないでしょ! でも、確かに少しフランさんの匂いが」
「あなたのその手元の紙、ちょっとお借りします」
一番大きい長女のハーピーが、止める間もなく俺の手元からメモを奪い取る。
フランの居場所が書かれたメモが!
「おい、それは大切な物なんだ。返してくれ」
掴みかかるように詰め寄ると、彼女は頭を下げながらあっけなくメモを返してくれた。
「その人なのぉ」
「そうなの? 姉さま」
「ええ。私たちはハーピー宅配便の者です。荷物の受け取りに来ました」
長女のハーピーが俺に向かって頭を下げる。それに続いて残りの二人も慌てて頭を下げた。
「ちょっと待ってくれ、いきなり何なんだ」
どういう事なのかさっぱり分からない。宅配便などと言っているが、そんなものを頼んだ覚えはない。
「我々はククリ様に命じられ、あなたを迎えに来たのです。その紙を良くご覧ください」
よく見るも何も、この数日間穴が開くほど何度も見てきた。
それこそ暗唱できるほどに読んだのだ。今更見直したところで……。
視線を紙に落とす。フランの国の名前と道筋、そしてフランの所属が示されているだけだ。……いや、文字の様子がおかしい。小刻みに震えているように見える。
そして紙の上の一文字一文字が水中を泳ぐ魚のように動き始める。眩暈がしそうな光景だった。
文字は分裂や結合を繰り返しながら、秩序だった文字列に納まっていく。
「これは?」
居場所を告げるだけの物だったそれは、いつの間にか宅配の申込書に変わっていた。
送り主の部分には長ったらしい名前が書かれているが、その最後にククリと書かれている。
宛て先はフラン。そして荷物の中身は男性一名、俺の名前が書かれていた。
「何なんだこれは」
「素敵な魔法ですよ」
長女はそう言うと俺の背を窓に向かって押しやる。
抵抗しようとするも、他の二人も腕を掴んで無理矢理窓へと引きずられる。華奢に見えるが彼女達の力は案外に強く、大人に引かれる子供のように俺はあっという間に追いつめられる。
「待ってくれ、フランのところに連れて行ってくれるのか」
「そうだよぉ、早くてかくじつが私たちの売りなんだぁ」
「い、いや。でもそんなに急がなくても」
「駄目。もうあんまり時間が無いんだから。急がなきゃ今日中に着かないじゃない」
「今日中? でも、準備くらい」
「必要ありません。荷物の指定はあなただけですから」
もみくちゃにされながら、俺は蹴り出されるように窓の外の地面に落下する。
そして俺の肩と両腕を、彼女達の足が掴む。まさかとは思うが。
三人が一斉に羽ばたきを始める。あっという間に俺の足が地面から離れる。浮いている。体が空を飛んでいる。
俺は夢でも見ているんだろうか。窓からこちらを見上げる霊園長の顔が小さくなっていく。
「何だか分からんが、フランさんと仲良くな! 荷物は取っておくからいつでも取りに来い。その時は二人で来いよ!」
手を振る霊園長に、俺は叫んだ。
「お世話になりました! ここの事は絶対忘れません!」
俺の身体はあっという間に空高く舞い上がった。
霊園が足元でだんだん小さくなっていく。それを囲うだだっ広い草原、草原を一文字に横切っている街道。
遠くに見える黒々とした森。
あの城壁は教国だろうか。俺を無理矢理戦争へと連れ出した、圧倒的な存在感を持っていた教国も、空から見下ろすと以外と小さな物だった。
戦争をした跡地も、草木に覆われてもう分からなくなってしまっていた。
「へぇ。お兄さん意外と肝が据わってるねぇ」
「確かに、悲鳴も上げないし結構男らしいかも」
「二人とも無駄なおしゃべりは止めて集中しなさい。少しでも早く届けるのよ」
三人は翼を大きく羽ばたかせて風を切っていく。羽ばたきの力だけではなく魔力のようなものも合わせているのだろうか、かなりの速度で空を飛んでいた。
全身に凍えるような風が叩きつけられる。
霊園はもう見えない場所まで流れて行ってしまった。
「どうしてそんなに急ぐんだ。こんな風にしなくても、俺はフランに会いに」
「それじゃ間に合わないんだよぉ」
「あんたのせいで、フラン様が大変な事になってるのよ」
「あなたを責めるつもりはありませんが、予断を許さない状態なのです」
左右から、そして頭上から声が降ってくる。
俺は誰に向かって聞けばいいか分からず、ひたすら声を張り上げた。
「フランに何があったんだ。彼女は無事なのか」
「フラン様、倒れちゃったんだよぉ」
「精が取れなくなって、それで……」
両翼から、沈痛な声が下りてくる。
精が取れなくなって倒れたって……。俺と一緒だったときは大丈夫だったじゃないか。どうして急にそんなことが。
まさか、あまりにも長く首と体が離れていたせいで体に変調が……。
「フランは大丈夫なんだよな。なぁ、教えてくれ!」
「詳しくは到着してから説明します。本気を出しますので、口を閉じてください」
長女の言葉の通りに、彼女たちはさらに飛翔する速度を上げる。
全身を刺すような冷気が襲い掛かる。体が震えはじめる。だがそんなことは気にならなかった。
精が取れなくなった。人間で言えば飯が食えなくて、腹が減り過ぎて動けなくなっているという事だ。
飯が食えなければ人間は死ぬ。なら、精を生きる糧としている魔物娘が精を得られなかったら……。
フランが死んでしまったら。そのことを考えると、心臓が凍りついたように全身が寒くなった。
12/07/11 01:02更新 / 玉虫色
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