「戦い」
走る、走る、草原を駆けていく。
先ほどの術でばれているだろうし、リザードマンは鼻と目がきく。
遠距離戦では嗅覚が脅威となり(なんでも10キロ離れた場所の一滴の血まで嗅ぎわけるらしい)、接近戦では視覚が脅威となる(正確には視覚ではないらしいが)、なんでもリザードマンは人のように視覚だけでなく、わずかな熱も感じ取り、それで獲物がどこに隠れているのかを探るといわれる…それは蛇だというツッコミはなしにしてほしい…
それと天性の直感も持ち、生まれ持っての武人だ、その腕前は初めて剣をもった個体でも修練を積んだ騎士程の才があるという。人間がそれを養うのに莫大な時間を経験が必要となるのに、奴らは生まれつき持つのだ。身体能力も侮れない。
まったくもって厄介な連中だ、とにかく、俺の位置もばれているだろうし、いくら走ったところで奴らを巻くほど速くは走ることはできない、俺の姿が見えなくとも、奴らはにおいで俺を追うだろう。
ここで更にリザードマンという魔物について追記しておくと、
奴らは少し変わった魔物で、基本的に人を襲わない。だが、それは襲う相手を選ぶということで、全ての人間を襲わないということではない。
奴らは武人しか襲わない。この時点で俺はアウト。
ただの草原であったら、先ほどの術を行使したのはただの術者か旅人かもしれないと勘違いしてくれるかもしれないが、この草原は数刻前までドンパチをやってた場所だし、そんな場所をうろつく魔物なんて、どう考えてもドンパチに参加してた口だろう、そんな連中が偵察も兼ねて残党狩りを行うことはよくある、そして連中が目にするのはどう見てもさっきまで戦争やってた男が一人、戦闘にならないわけがない。
あぁ、もう一つ特徴がある、奴らは武人しか襲わないことからも分かる通り、武人気取りの魔物だ、他の魔物と同じように、獣(この場合はトカゲ)と人が混じり合ったような外見をしいるが人の武器で戦う、それも、どんな武器でも戦うことができるらしい。それと上記のように獣としての能力も持ち合わせている。まぁ、まとめると魔物としての武器はトカゲという獣の身体能力、人としての武器は武人としての才、と云ったところか。
そんな厄介な奴らと戦わなくてはいけない、否、戦うのだ。
本来ならば、普通の者なら恐怖によるパニックに陥るかため息の一つもこぼすのだろうが、知らず知らずのうちに口の端が徐々に上がってくる、―――やべぇ、なんだか楽しくなってきた。
相手は魔物、しかも武器を持ち、三体もいる。武器もどのようなものかもわからない。
対してこちらは人間が一体、手持ちの武器になりそうなものは腰に差している刀と懐にある8枚の『魔法紙』―魔法が才のない者でも即席で行使できる紙、ようするにこの紙があると枚数だけ魔法が行使することができる―と打ち取った時につかう敵の首を切断するための小刀が2本、それだけだ。
奴らは仲間を呼ぶかもしれない、呼ばれたら勝てないな。対して俺は仲間どころか生き残りがいるかどうかも分からない、この状況は孤立無援―まさに絶望的だ、あぁ、まったくドチクショウなまでに絶望的だ。
だが、楽しみでしょうがない―俺は人間のまともな心から、離れていく感覚がわかった。
どうやって倒そう、どうやって首を取ろう。
やつらの首をとるという結果を現実に導くために頭の中で現在の状況を考える、奴らよりも有利なこと、俺が劣っていること、奴らが知りえないこと、今の状況から導かれる奴らの合理的な状態、様々なことを思案し、ある作戦を思いつく。
これだ―笑みが更に大きくなるのを感じながら、走りながら、小刀を抜き左手首に当てると手首を切った。おもしろい程血が噴き出し、走ったところに不気味な道しるべを残す。その血を……だめだ、我慢できない
「っく、はっ………あははははははははははは」
もしかしたら敵がそばにいるかもしれないのに、大声で笑い出した。正直に生きることはいいことだ―団長の言った通りだと思う。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
グレシアは血のにおいが強くなったことが即座に分かった。
彼女は魔王軍に所属して今年で20年目を迎え(大体は夫ができると魔物は除隊してしまうため20年も軍にいるのはまれである)、参加した戦場は50を超える。
最近では年のせいか体が思うように動かず、現在は第一線での活躍は退いており、新人のリザードマンで構成された部隊で、新人の育成に力を入れている。
リザードマンは己で力を磨いていくように思われているが、実際は魔王軍に所属してある程度まで己の力を磨く者が多い。
そこまではいいのだ、魔物の力が上がっていくことは強い子孫を残せることにつながるが、年々入隊するリザードマンの質が落ちてきている気がすると危惧していた。まぁ、彼女の基準が厳しいせいもあるのであるが。
実際、リザードマンたちの新兵の教官になる前に、何度か魔王軍の砦で様々な種類の魔物、新兵たちをしごいてやったが、ある時半日で新兵の数が消えしまうという事件を起こした。
理由は新兵たちに軍に入団した動機を聞いたところ、どいつもこいつも軍に入れば旦那ができると思って軍に入りました、という不純な理由で、それを聞いたグレシアは激怒し、新兵たちに通常の新兵訓練よりも3倍の量の訓練を課してしまい、半日も待たず彼女が担当した新兵が消えてしまった。
それが問題となり、グレシアにも問題がある、しかし、彼女は特に優秀な指揮官であり教官だから彼女を除隊させるのは惜しいとして、上から同種のリザードマン訓練担当となれとの命令が出されたのである。
グレシアは今も新兵訓練の最中で後ろにいる、二人のリザードマン、年のころは15,16といった少女もグレシアの担当している新兵である。
しかし、本来ならば魔王軍の砦から外部で訓練をするほど、訓練を二人は積んでいない、そもそも彼女たちはグレシアが担当していた新兵ではない、別の教官が担当していたのであり、このまえ、初めて顔を合わせたが、グレシアは先ほどから本当にこの二人がリザードマンであるのか疑問に感じ始めているほど、二人は鈍かった。
なんでも、早朝の砦外周ランニングでは寝ぼけて崖から落ち、模擬戦としてミノタウロスと組んだ際二人ともミノタウロスと昼寝をはじめ、避難訓練では本当のボヤを起こし、弓の訓練では的を大きく外し、ハチの巣に当て大変な騒ぎを起こした。このままじゃ、歩兵部隊の新兵どころか、補給部隊に配属されても大変なへまをやらかすのではないか、そんな兵士を戦場に送りだせない、なんとかしてくれと同僚が泣きながらグレシアに頼んできたのだ。
グレシア自身も最初は渋っていたが、最後には折れ、二人の補修訓練を引き受けた。
この二人の補修訓練も本来ならば砦で行うものであるが、グレシアは魔王軍のかつての部下に無理を言って、魔王軍の部隊について行かせてもらった。無論実戦に参加しろ、とか無理はいわない、ただ戦闘が行われて数刻たった場所を見学するためだ。
グレシアもこの二人の訓練を砦で見たが、彼女たちに足りない物は緊張感だとおもったためである。緊張感がなければどこか気の抜けるものであり、それならば、もしかしたらいつ残党兵などの襲撃という危険があるかわからない、戦いというものが終わってからの戦場を見学をすれば、彼女たちも場緊張感を持って訓練に励むことだろう、と最初の思惑はそうであった、のだが…
「おい、それは、なんだ?」
三日ほど前、同行させてもらう部隊が出発する直前になっても二人が表れず、焦っていたグレシアの前に二人が現れた時、グレシアは震える声で尋ねた。
「なにって、食料ですよ」
さも当たり前のように二人は答え、巨大なバックを見せた。服装は支給された訓練用の服だったのが唯一の救いだろうか、二人は武器とか防具とか持っていない。あとで尋ねるとキャンプだと思っていたそうだ…キャンプに行くとしても食料だけではなく、寝袋とかいろいろ必要だろ、そう思ったが、口には出さなかった。この時点で半ばあきらめの心境であった。
そのあと、げんこつを二人に食らわし、バックを置いてこさせ、武器と防具をもってこさせると三日間の道のりを魔王軍に従軍した。
集合を出発よりも一時間早くしておいてよかった、とグレシアは二人に時々弱音をはく二人に声をかけながら思った。二人とも訓練前までほとんど会話もしたこともなかったためである。こういう機会は、信頼関係を築くチャンスでもあるのだ。
その後、三人が徒歩であったのに対し、魔王軍主力部隊は馬で進軍(歩兵は馬車で移動するのが主流だ)、とうぜん進軍速度も倍近くであり、彼女たちが戦場に着くころにはほぼ勝負を決していたが、途中で敵がゲリラ戦を展開し、これにより戦場跡ではいつ残党兵が出てくるかわからないため、安全を考え、見学場所は主力部隊が戦った場所よりも、親魔派の領地に近い草原を見学させて帰ることにした。こうなってしまっては戦場のにおいだけでも嗅いでもらい、砦で訓練を行うしかない。
ちなみに魔王軍は撤退しているが勝利しているという、なんとも矛盾している状況であるが、魔王軍の戦いは勝利条件を定め、最初に定めた条件の是非でその戦いの勝敗を決める。よって、先の戦いは勝利条件を満たし、戦いには勝利したらしい。が、手放しに勝利とは言えないのだろう、先ほど負傷兵の連中とすれ違った時に感じた。
その負傷者の中に今回この無茶を頼んだかつての部下がいて、どの程度まで敵を倒し、勝利条件としているのかわからないが、魔王軍の被害状況を教えてくれた。
なんでも魔王軍の3割が死亡・行方不明、負傷者は重軽傷者合わせて5割ほどだと言っていた、なんでも損傷の少なかった隊もあと少し滞在して撤退することに決めたらしい、残った部隊のみで戦線の構築は不可能と判断したとのことだ。
この戦いはいわゆる『無駄な勝利』だったのだ。
こうなってしまえば敗残兵がいつどこに潜んでいてもおかしくない。安全を優先しているので、戦場跡でも危険の度合いが全く違う。
しかし、数刻前まで戦いがこの近くで行われたというだけで、その見学する草原自体何もないただの草原だった。
この何もない草原をただ見学して帰ることしかグレシアにはできず、これでは二人が最初準備していた食料でも持たせて、本当にキャンプでもすればよかったな…とグレシアも思い始めた時だった。
びくりっと背筋が震えた。なにかが背中を通って行き、直後に鳥肌がたつ感覚だ。
その感覚を後ろにいる教え子−二人も感じたのか、あたりをきょろきょろと見回している。
今まで感じたことはないのだろう、実戦にでたことのない者にとってその感覚は不思議なものだ。今の感覚は人間が術式(攻撃が来ないことを考えると非殺傷の術)を行使した時の余波で、魔物の体を微量の精(魔力)が通って行った感覚だ。
戦場で過ごした時間が長いグレシアにとってなつかしい感覚でもある。この感覚が来たときは比較的近くに人間がいる証拠だ。
いまだに不思議な感覚に戸惑っている二人の新兵をよそにグレシアは嗅覚に集中する。
―かすかだが、濃い草のにおいに混じって、人間の血のにおいを嗅覚がとらえる。
雨で大分流れてしまっているが、どこかに傷を負っているのだろう、いまだに流れる血特有のにおいだ、死体ではこんな血のにおいはしない。
嗅覚に集中しなくてはこのにおいに反応できなかった。それに長い時間をかけて培ってきた感覚と直感で大体の位置を割り出すと、南東(ここからも反魔派の領地に近い)に約2.5キロ、人数は無傷の人間がいるかもしれないが、雨の所為でわかるのは血のにおいのする一人のみ、といったところか、さすがにその人間が軽傷か重症かはわからないが、慣れてしまえば位置を割り出すことなど比較的簡単なことだ。
普段ならば敗残兵と一戦することもあるが、さすがに新兵二人をひきつれている状況であるし、それに魔王軍に援軍を呼んだところで来てはくれないだろう、この状況ではあきらめるしかない。
しかし、新兵にこのにおいを嗅がせられるだけでも成果があったのではないか。
いまだに首をかしげて、今のは何だったのかと二人で話し合っている新兵たちに、先ほどの感覚はどういったものか、嗅覚のみに集中すると僅かだが人間の血のにおいがすることを教え、嗅いでみるように言った。
二人はしばらくコツが掴めなかったのか、目を閉じてにおいをかぐことに集中していたが、かすかにそのにおいを捕らえると、驚きながらそのにおいを嗅いでいた。
その様子を見て、グレシアは満足げに頷き、そのにおいの元となっている人間が何キロ先にいるのかを教えると二人は驚きをあらわにした。すると、短髪で肌が陶磁器のように白い新兵―ルーナはグレシアにその戦士と戦ってみたいと申し出た。
それに驚いたのはグレシアだけで、もう一人の新兵―ルーナと違い、長髪で邪魔にならないようにポニーテールに髪を縛って、背中に弓を装備している―キルケはいい考えだと顔を輝かせた。
やはり、この子たちも生まれながらにしてのリザードマンなのだと内心ではグレシアは喜んだが、あまりにも危険すぎるとして却下した。
しかし、この二人もなかなか引かずに、そこをどうか、と頼む。
どうするべきか、グレシアは悩んだ。
本来ならば、この状況で戦うなど言語道断であり、見学できただけでも目標は達成された。しかし、この二人は落ちこぼれといえリザードマン、そんじょそこらの兵士と戦っても負けないだろう。いや、しかし…………
考えること数分、においがわずかに変わり、においを放つ人間が移動を始めたことが分かった。二人もそれを感じたらしく、教官お願いします。と必死に頭を下げる。
結果、ついにグレシアがおれた、だが、許可の条件として戦闘は禁止、遠くからその人間を眺めるだけ、戦いたいならちゃんと軍に入ってからにしろ―その答えは砦で教官がいう絶対命令の口調、二人はこれが教官の最大譲歩だと悟り、しぶしぶながらその案に従うことにした。
そんなわけで現在においの元となっている人間を追っている。どうやらさっきの術式は索敵系の術式だったらしく、こちらから逃げるように走っている。
ちなみに、魔物が魔力を使い、発動する物を魔術と呼び、人間が精を使って使用するものを術式と呼ぶ。
だが、こちらはリザードマン、人とはちがう魔物、いくら人が走ろうともあと半刻もしないうちに追い付く。されど、安心しろ人間、今日は戦わない。見学だ、見学するだけだから安心しろ。
まるでその人間がすぐそばにいるようにグレシアは見えない敵に語りかけた。
ちなみにグレーシアたちは歩きだ。人間に逃げられることはないと経験上分かっているからである。
しかし、一つだけグレシアが気になることがある。なぜ、血のにおいが強くなったのだろう、常識的に考えれば人間が更に傷を負ったとしか考えられないが、この辺りに自生している草でこんなに血のにおいが強くなるほど傷を負うはずがない。
せいぜいかすり傷が限界だし、相手は鎧を着ている。しかもほかの魔物も人間のにおいもしない。なぜか―と考えているうちに言い知れぬ不安が芽生え始めた。
引き返すか、と考えたが、ちらと後ろをついてくる二人の新兵の、人間の敵を見てみたい、というリザードマンならではの表情を見たらそんなことは言いだせなかった。
そんな不安も風向きが変わりこちらが風上になってしまい、血の強さがわかなくなってしまって、下手をすれば相手の位置さえ、集中しなければ分からないという状況になりかけている、今は相手を探すことに集中しよう、そう思った時だった。
「……………ッツ、ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
突然一番後ろを走っていたキルケが声をあげてその場に崩れるように座り込んでしまった。
その異変にルーナとグレシアが気付き、一番近くにいたルーナがキルケに声をかけようとした時、
「ガ、ガ、グルワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
ルーナもまた大声を上げながら剣で切られたかのように仰け反りながら倒れる。
ほんの少しの間だけグレシアが戸惑ってしまったが、すぐにグレシアにも影響が出始めた。
―――――熱い、体が燃えるように熱い、否、燃えるようにではなく、世界そのものが灼熱に包まれたような、熱病とはちがう原始的な熱さだ。
グレシアはたまらずその場に膝をつく、二人と違い声を上げることはなかったが何もできないということに変わりはなかった。
グレシアは大量の汗をかき、意識も朦朧とし始める、しかし、その混濁した意識の中でまだしっかりとしている意識が警告を告げる。
雨がまだ降っており、それが体に当たって冷ましてくれるが焼け石に水だ。
その意識の中で体を蝕む熱さが何であるか、理解した、理解したが故に震える左手で持っていた長槍を持ち替え、少しの逡巡のあと、鎧で守られていない部分―胴体で最ももろい、わき腹に突き刺した。
――――っつ
強烈な痛みと共に一気に混濁した意識がクリアになる。先ほどまで体の中で暴れていた熱がうそのように引いていく。
しかし、痛みが長く続くことはなかった。
長槍を引き抜くと血が傷から噴き出したが、ほんの数秒でそれは収まり、そしてわき腹に手を当てると服は破けているが、胴体には傷一つ付いていなかった。
荒い息をしながら考える。
さっきの体を蝕んだ熱の正体、それは―精であった。
精―それは人間の持つ生命エネルギーの塊、そして魔物が持つ魔力に近い物、魔物が人間と交わる理由の一つも精を吸収するためであり、状況によっては軽傷を負っても精をある程度吸収すれば、瞬時に傷を治してくれる。
しかし、それは軽傷であればの話で、刺し傷、しかも内臓などの重要器官に傷を負っている傷を瞬時に治すなど聞いたことがない。そう、聞いたことがないのだ。
グレシアは自分でも驚いていた。
確かに体の中であまりにも強い精が暴れていたため、それを消費するためにわき腹を刺した、否、傷つけるくらいでやったのだが、手元が狂い突き刺してしまったのだ。(どんな傷を負った時でさえ手元が狂うなんてことはなかったが、生まれて初めてグレシアの手元が狂ったのだ)
正直もう駄目だと思った、しかし、その傷も瞬時に体の中で暴れていた精は治してしまった。そして、まだかすかに体の中で精が暴れていたが、これ位ならば抑えることができる。
どんな量の精を受けたのか、グレシア自身も初めて経験する膨大な精である。あのサキュバスですら、一回でこれほどの膨大な精を受けられるはずがないだろう。
先ほどの不安が、撤退しなければいけないアラート音に変わった。
そして、意識が警告を告げる。
――この先で敵が何らかの罠を仕掛けている、と
即座に、後ろにいる二人に命令を出そうと後ろを振り返ると、二人は、だらりと力なく、手を下げたまま立っており、口は開けられ、よだれが垂れている。そして目は虚ろで、その眼には生気といったものが感じられない。しかし、眼から生気といったものが感じられないのに異様な、何かに魅入られているような輝きを放っている。
もはや、グレシアは頭ではなく本能で動いていた。
雄叫びを上げながら長槍を構え、二人に突進していく。ある程度の傷ならば膨大な精が回復させてくれるはずだ、だから負傷は覚悟で二人を気絶させるつもりで、まず近くのルーナに槍で頭を狙う、狙うといっても切りつけるのでなく、殴って気絶させるのだ。
ビュン
風を切る音とともに槍がルーナの頭めがけ振り下ろされた。
当たった、いつもならば、実際に当たる前に、相手の急所を捕らえ、相手が回避不可能の距離に入ってしまった時点でグレシアは高揚感を得る、そして、今回も高揚感を得た。
しかし、その高揚感を得たはずなのに手ごたえは何も感じなかった。
いつもと違う手ごたえに違和感を覚え、わずかな空白が生まれた。しかし、瞬時にルーナを探す。
一瞬、何かの影が自分に重なったのを見た時、体は横に跳んでいた。
ゴッ
その僅か前までグレシアがいた場所にルーナの腰に差していた剣が刺さっていた。
しかし、とうのルーナはいない、どこだ、とあたりを見回す。普段ならば気配でわかるのに暗殺者と異名を持つマンティスのように気配がなくなった。
その時、一瞬風が吹いたのかと思ったが、後ろを振り向くともうすでにこの場所からでは、遠くにキルケが走っている。よく見るとその先にはルーナが走っていた。
走って行った先は無論、人間の血のにおいが漂ってくる方角だ。
奥歯を噛みしめると、チクショウと叫びながら二人を追った。
速い、それも尋常な速さじゃない、少し足をゆるめただけでみるみる二人との距離が遠のき、二人が小さくなっていった。
ペースを気にする余裕など今のグレシアにはない、少しでも気を緩めただけで見失うのだ。そもそも、全力疾走しているのにどんどん二人との距離が延びていく。
あの二人の状態は噂に聞く暴走というものだろう、グレシアも聞いたことしかない症状だが、そもそも暴走したというのを、魔術を行う術師しかあてはまらないことかもしれないので、暴走という定義に当てはまるかどうか知らないが
なんでも人にしても魔物にしても精や魔力を受け入れる器をもっている、常にその器にある程度の見合った精や魔力を入れて生きている。
そしてその器の中の精や魔力を魔術や怪我の治癒などを行うことによって消費する、もしも、使いすぎて器が空になった状態は言わずもがな分かる。下手すれば死ぬのである。だから強力な魔法は連発などできないし、無論、器以上の魔力を必要とする魔術は行えないのだ。
しかし、ある特殊な術によって器に見合わないそれ以上の魔力や精を一時的に入れることを可能とする術もある。しかし、どんなに修行を積んだ術者でも一時的だ、それを長い間維持するのは不可能という結果が得られている。なんでも経験論から得た答えらしいが、その魔術を研究したくとも、現在、その特殊な魔術は魔界では禁止となっており、今ではどんな術式かもわからない、とグレシアが戦士として魔王軍の一部隊で戦っていた時、同じく魔王軍に所属する魔女は教えてくれた。
もしも、その術式を長い間維持した者や、あまり修行を積んでいない者が使用するとどうなるのか、と質問すると、簡単な答えが返ってきた。
―暴走するだけよ、と
暴走とは何なのかと尋ねると、専門的な用語のオンパレードで魔術に明るくない彼女にとって理解できなかったため、たとえ話で魔女教えてくれた。
簡単に言うと、魔剣などに取りつかれた戦士は、狂戦士となり、戦いを求める生き物となるが、暴走した者は精や魔力を求める生き物となるのだと。
つまりは暴走した者は更なる魔力や精を求める、近くに小物しかいないと小物を襲うが莫大な精や魔力が秘めている者がいた場合そちらを襲う、その時油断してはいけないのは暴走した者の力は暴走する前の数倍から、ある時だと数百倍もあるらしい。
チクショウ、全部当てはまってる。たぶん完全な暴走だろう。まさか自分がその暴走した者に会うとはその時思わず、怖い症状だね、と流してしまった。
対処法聞いとけばよかった、とグレシアは後悔した。
グレシアは考える、私を相手にしなかったということは、二人が走っている先に膨大な魔力―先ほどまでグレシアたちが追いかけていた人間がいるはずだ、なぜ膨大な魔力などを用意できたのか、どのような術式をもちいたのか謎だが、2つ分かることがある、これは罠であり、相手は油断などできない相手であることだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
追いかけるのに夢中になってしまい気がつかなかったが、いつのまには腰まであった草が生い茂る草原を抜けて、乱雑に自生している草花ではなく、生えている物の丈は同じだが、きちんと土は整備されて石などはなく、そこに生えている物は手入れされており、まだ青く、小さいが穂の先の形からして小麦である―小麦畑の中を走っていた。
走ってきた方角を頭の中に叩き込んだ地図と照らし合わせ、グレシアはどこに向かっているのか考えてみる。
この先は今回の戦場が展開させた砦のある方向でもない、少しそれている、どちらかといえば町だが、町の方角とも少し違う、どこに向かってるんだ?
そんなグレシアの問いに応える者は無く、ただ先ほど降っていた雨は上がり、雲の間から日も差してきた。
二人を見失ってしまっても構わない、なぜならグレシアの嗅覚が二人を捕らえているためである。
そもそも手に長槍をもち、鎧も正規兵がつける物であるため、二人がつけている訓練用の鎧とは重さからして2倍もある。そんな重装備でグレシアが追い付けるわけにいくはずもないのである。
実際もうかなり前に見失ってしまい、嗅覚だけで追っている。
今ではグレシアにとって嗅覚が唯一の手掛かりであり、これを見失ったら探す手段を失う、嗅覚に神経をとがらせ、少しの変化も逃すまいと嗅ぎ続けた。
においがある場所に留まったため、二人が立ち止まった。
距離は600メートルほど先、二人のにおいの続きがそこで止まった。
つまり、このことが意味していることは――
グレシアはそこに敵が何らかの罠を張って待っている、と理解し、知らず知らずのうちに槍を強く握った。
その場所は開けた場所だった、それゆえに不気味に見える。なぜなら、先ほどまで、あたりは麦畑が続いているのに突如として開けた土地があり、この場所には草が一本も生えておらず地面がむき出しとなっている。
その開けた場所の中央に魔王軍の鎧を纏った何かが転がっている―おそらく、魔王軍の兵士の死体だ。そして、その死体は、この位置からでも感じるとてつもなく強い、精とも魔力とも判断できない物を纏っている。グレシアとの距離は50メートルほども離れているの、やっとこれだけ近づいて分かった。
その強い何かは、一般的な魔力とも精でもなく、何かが異なる。何なんだ?グレシアは頭の中で様々な魔力や精について考える。もしも、あれが近付くだけで爆発するものなら別な対処法を考えなければならない。
そこで気がついた、普通ならばこれほどの魔力や精に魔王軍も気づくが、近くに来て初めてグレシアも気がつくほど、ステルス性の高い魔力か精だ。
おそらく、この近くで索敵用魔術を使用してもなにも感知できない特殊なモノであろう、この何かは実際にその場所の近くまで行っても気がつくこともない、人間の世界にしかないが、人間でも魔物でも気付くもこともない、特殊な力
グレシアはそれが何であるか、分かった。あれは龍脈だ。
索敵用魔術は生物的な魔力や精しか感知できないのであり、龍脈とは巨大な力であるが、自然そのものである為、感知などできない。
大方この近くの場所にある幾つかの土地をつかさどる記号を敵が知っていたのだろう、わざとずらし、一点に龍脈を集中させたのだ。
幾つか合点がいった
先ほど受けた異常なほどの精はあの龍脈を利用したものであり、何らかの術式で龍脈の一部をグレシア達に流した。人では不可能などの精を送った仕組みは分かった。龍脈とは人が使えば精となり、魔物が使えば魔力となる変わった性質をもつ。
しかし、龍脈を使用するとは勇気がある。
龍脈確かに莫大な力を秘めているが、扱いが難しく、その土地の流れを知っていなければいけないが、魔界に浸食された土地の龍脈は枯渇してしまう為、グレシアは龍脈の記号とは何なのか知らないし、確か失敗すればリバウンドが起こり、この辺一帯が吹き飛ぶ。そもそも龍脈は東方に伝わる概念のため教会は否定する物であったはずで、人間が使用することはほとんどないはず―――
そこまでグレシアが考えた時、その転がっている死体に、一歩一歩ゆっくりと近づいていくルーナが目に入り、キルケはそれから20メートル離れた場所で倒れていたが、気は失っていないのであろう、四肢をばたつかせている。
グレシアは素早く、キルケに近づき、キルケを抑えた。
キルケは激しく暴れるが、手には力が入っていない。
精もほとんど尽きているのだろう、両足のふとももの皮膚が破れ、血が止まらず、その傷が回復する予兆はない。おそらくこれからも、歩くだけで激痛が走るだろう。
しかし、それでもキルケは激しく抵抗する。
グレシアはキルケを抑え込むだけで精一杯である為、ルーナに近づくな、と叫び続けたが、ルーナはそれに近づき、座り込むとそれに触れた。
あれが何であるか知らないが、本能が警告を鳴らしている、それの傍にではいけない、と
無意識的にグレシアは逃げろと叫びながら、両腕でキルケを抑えていたが、片腕を伸ばしてしまった。
その機を逃がさず、キルケはグレシアの腕を振りほどき、腕の力のみで猛進していった。
グレシアは、キルケが逃げてしまい、追いかける。
時間では数秒間であった為、近づいた距離は少しであったが、本来逃げなければならないはずなのに、グレシアは近づいてしまったのである。
直後、このグレシア達がいる場所を囲うように何かの術式が発動する感覚を、グレシアは感じ、その後次々と出来事が起こった。
まず、初めに、グレシアの感じた感覚の通り、この場所を囲むように麦畑が円状に燃え上がった。
だが、グレシアは構わない、そんなことはどうでもいいのだ。
今一番危険と頭で判断し、直感が警告を鳴らしている、ルーナ、キルケ、二人をその転がっている死体から離せと。
グレシアはキルケの左肘が音を立ておかしな方向に曲がったのを見た。その直後、キルケが座っている正面にある何かが光るのを見た。
ドドゴッーーーーーーーーーーーン
鼓膜を破るような爆発音と、正面からの爆風が吹き、その衝撃波に耐え切れず、グレシアは後ろに転げながら吹っ飛ばされた。
痛みの度合いからしてかすり傷ばかりで骨を折るなどはない。ただし、耳鳴りがひどく何も聞こえない。
くそ、と悪態をつきながら顔を上げると、爆風をもろにくらい、吹き飛ばされたキルケが20メートルほど離れた場所にいた。
キルケは意識をすぐに戻した。
なんだか、やたら体中が痛むし、鼻の中は血の香りしかしない。
眼を開けると、彼女は自分が地面に横たわっていると気づく。
なんでこんな場所に寝ているのか?と疑問に思ったが、上半身だけを起こす。
その時、バランスを崩してしまい、慌てながらもなんとかバランスを取った。
危うく地面に顔をぶつけるところだった。違和感を覚え、ふと、自分が地面に手をついているのは右手だけであることに気がついた。
怪訝に思いながら、眼で自分の左手を見ると、本来あるはずの場所に左腕がない。そもそも、
左肩までごっそりとえぐれ、ぼたぼたと血が垂れていて、その時初めて、キルケを強烈な痛みが襲った。
キルケの声は耳鳴りで聞こえなかったが、キルケが自分の左腕がないことに気がつき、うずくまる光景をグレシアは見た。
むごいと、一瞬目をそむけかけた、がキルケの血とは別の血のにおいに気付き、その方向に顔を動かすと、そのにおいのする麦畑の中から、背後で燃える麦畑の炎を背にし、片刃の剣を右肩に担ぐような独特の構えを取りながら、こちらに一直線に突っ込んでくる人間が眼に映った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
『何も考えずに敵を倒す。しかし、敵の一点に視点を縛るな、全体を見て次の攻撃を予測し、次の一手で相手を殺せ』
走りながらも副団長に教わった戦い方を頭の中に反芻させ、敵に突っ込んでいく。
最初は傷つき、左肩のないリザードマンと俺の位置が近かったため、そちらに走り出しかけたが、比較的無傷な方を攻撃すべきと判断し、もう一方のリザードマンに突っ込む。
副団長の教えを頭の中で反芻させることは、いつもの戦いでもそうしているが驚くほど頭が冷静であり、どちらかといえば今の俺の感覚は人間に近い。長いこと待ちすぎたせいで感覚と意識が戻ってしまったのだろう。
今回のように冷静さが求められる戦いではいいことだと思いつつもこれが終わったあとがつらいことを重々承知しているため、気が少しを重い。
人の精神で魔物でも人間でも斬ると、夢にその斬った連中が出てくることがあるのだ、あれは地味に怖いから勘弁してほしい。
……………ん?俺、この戦いが終わってからの問題に悩んでなかった?
ふと、自分が生き残ったことを前提として考えていたことに気がつくと、俺は知らずのうちに自虐の笑みを浮かべた。
そんなことを考えている場合じゃないだろうが、心のどこかで勝利を確信している。
慢心は死を招く、同期のセルキョウが言っていたが、あっ、そういえばあいつに貸した2万フェル返してもらってないが、まぁ、いいか…とにかく、それはいえると思うが、この状況で勝たなければ俺の苦労は水の泡になる。
そのまま、尻もちをつくように倒れ、長槍を手にしているリザードマンの首めがけて刀を振った。
ガキィィィィン
しかし、刀の感触は奴らの鱗におおわれた首を、鱗をごと斬る感触ではなく、バランスを保ちなおし、目の前のリザードマンが左手でつかんでいた長槍で俺の刀を防いだために、鉄の感触が俺に伝わる。
この槍、柄の部分まで鉄でできてやがる…
それどころか刀をはじき返しそのままの勢いで、バランスを崩しガラ空きとなった俺の胴体を狙ってきやがった。
―ツッ、ウオォォォォォォォォォォォォォォ
なんとか槍は体をひねってかわしたが、その隙を見逃さず、リザードマンは高く跳びあがると、間合いを取りつつも俺の真正面に着地、即座に構え、やり合う気十分という姿勢を見せつけた。俺も構えなおし、応じるしかない。
刀を腰に平行するように右腰に構え、剣先は下にし、体全体は左足が前となるように斜めに構える。
先ほどまで、俺と奴では有利にあったのが俺だが、今では互角、否、人と魔物がやり合うのだから奴の方が有利だ。ある武将が人と魔物が戦うことについて、何もない草原で騎兵と歩兵が斬り合うようなものだ、といったらしいがうまい例えだ。
それぐらい魔物と人が戦うことは無謀なことだ。
しかも、俺は奴の仲間―目の前のリザードマンは、魔王軍の中では珍しく年を食ってくる個体の、そこに転がっている個体と爆発の中心地にいてばらばらになった個体は若い連中だったから、大方、目の前にいる奴の部下だろう。
俺は奴の部下を一体、肉片にしてしまった。降参しても殺される、何としても勝たなければならない。
うだうだと考え、なかなか攻撃してこない俺にしびれを切らしたのか、リザードマンから仕掛けてきた。
ヒュッ
風切り音とともに喉笛めがけ、槍が飛んできたと認識する前に、僅かに体の位置をずらして槍を避け、反撃はしない、そのまま後ろに退くように右足を半歩退き、それを許さぬといった風に槍が右肩めがけ、飛んできた。
この時、刀を飛んできた槍にスライドするように放つ。
リザードマンは急所しか狙ってきていないが、俺は一撃で殺せる急所を狙っても簡単に防がれるだけであり、奴の武器破壊を狙いたいが、そもそも槍そのものが鉄でできているため、俺の得意とする武器の破壊する戦術はアックスでもないと刀では不可能だし、刀の方が折れる。そうなれば死ぬしかない。
となれば一つ、俺が狙うのは、腕だ。
槍に刀を滑らせ、槍をもつ左腕を狙ったが、槍をひねって刀ごとはじき出された。
即座に間合いを取り、再び睨みあう。
刀を折られなかったのが救いだった。
しかし、最初の一撃を受け止められたことからも分かるが、奴らの反応速度は異常だ。
何度もリザードマン種の魔物と戦いはしたが、全て集団戦であり、試合のように一対一で戦うことは初めてだ。
しかも、今までは仲間のフォローがあってからこそ、戦えた部分が大きい。団結力ほど集団戦において力を発揮する物はない。戦いの中心となる人物が集団戦の中に発生するのは当たり前の戦法だが、それを次々と戦闘の中心を移すことで敵を殲滅してきた。
対してリザードマン種の魔物どもは個人プレーが目立つ、戦闘のプロではあるが、連中は集団戦において素人だった。
だが、一対一で戦って初めて分かった。こいつらは個人戦闘のプロだと。
もしも攻撃を見て判断してからでは、遅い、遅すぎる。こいつらと戦うには経験と勘がものをいう、実際戦って、今までの攻撃をよけられたのは、戦闘の経験が次に来る攻撃してくる場所を予感したからであり、少しでも外れれば…
どうする、いな、どうするべきか、分かってはいる。分かってはいるのだが……
少しの逡巡がばれたのか、リザードマンが再びラッシュをかける。
今度の攻撃は防ぐので限界であり、その攻撃も先ほどと違ってかすり始めており、鎧に大分傷が増えていく。
足で地面をけって、土埃を起こし、僅かに相手が怯んだすきに俺は後退した。
息を整え、覚悟を決める。
セン・ガンツテァを使用する時のように、意識と感覚を分ける。
外の敵には意識を、感覚を己のうちに向け、火照った体の皮膚を流れる汗を感じながら、意識は冬戦の中にいるように鎮まっていく。
無駄な意識と感情は全てカットし、目の前にいるリザードマンだけに全身の意識と感覚を向ける。刀身が銀色に時折、背後の炎の光を浴びて光っている。
―なんだ、あっちの考え方になっているから感覚も意識もあちら側にある、と思ったのに人間のままらしい。今度ひどい悪夢にうなされるな
右手で刀を持ち、左手を添え、上段の構えをとり、突っ込んだ。
リザードマンは突っ込んでくる俺に対して、槍を放つ。
――――ドスッ
呆気ないほど槍は鎧すら砕き、腹部を貫いた。
激しい痛みが俺を襲う。槍は突き抜けたらしく、背中も痛む。
相手の表情に僅かな笑みが生まれる。
だが、
俺はゆがむような、笑みを浮かべた。
そのまま突っ込んだ勢いを殺さずに、足を進める。
好都合なことに、敵は俺の行動が理解できずに僅かな笑みをうかべたまま、固まっている。
無論足を前に進める分、ずぶずぶと俺の腹に槍が沈んでいく、そして、敵が槍をもつ右手に当たり、それ以上は進めなくなった。
槍をもつリザードマンの右手を、刀を持っていない左手で槍ごと握りしめ固定し、そのまま刀を斜めに振り下ろす、狙いは鎧にカバーされていない鱗におおわれている首
直後、刀は鱗特有の鈍い感触と、皮膚特有の感触を伝え、そして、首の骨と骨の間を通すように斬ったが、頸椎にあたり刀が止まった。
刀を抜くと血が勢いよく噴き出し、刀と俺の服を染めた。
口や鼻に入らないようにリザードマンの手を握っていた左手でとっさに口と鼻を覆ってかばった。
魔物の血を飲んで魔物化したという話は聞かないが、用心に越したことはない。
リザードマンはあり得ないという風に眼を見開いたまま、血がいまだに噴き出している首に自由となった右手を当て、少しの間己の血を見ていたが、やがて、崩れるように倒れた。
リザードマンが倒れるのを見て、腹部に刺さったままの槍を抜こうとしたがリザードマンの左手が槍を離そうとはせず、仕方なく、リザードマンの左ひじを切断した。
これで槍は自由になったが、この状態では鞘に刀を納められない。刀を地面に置くわけにもいかず、左手で槍を抜くしかあるま――――
ゴキィ
……頭に強い衝撃を受けた。
自分の身に何が起きたか分からず、ゆっくりと後ろを振り向くと、先ほどまで左肩を吹き飛ばされて泣き叫んでいた若いリザードマンがいた。
何か滴る、俺の血だろう―石を、人間では片手で持ち上げることはできない大きさの石を右手に持ち、左肩を上着で縛っていた。もう一撃と振り下ろしたちょうど瞬間であった。
ゴギン
今度は頭蓋骨に異常が起こった音がした。
その後、何度も何度も俺の頭を殴りつけ、最初の一撃で膝をつきかけたが、何度も踏ん張ったがとうとう足に力が入らず、右ひざがぐらつく。
その時、バランスを崩しながら若いリザードマンの顔を見た。その顔は嬉々とした笑顔でなにも抵抗できない俺を殴りつけるのが面白いのだろう、喜んでいた。
ふざけるな
このまま倒れて死んだふりをしようかな、と考えていた考えは瞬時に却下し、右ひざを地面につく寸前だったが、左足に力を込め、強制的に起き上がり、若いリザードマンと対峙した。
感覚、意識、考え方そのものがあちら側に移っていくのが分かる、だが、今の状態だと好都合だ。
若いリザードマンは最初困惑した表情だった。
にこりと笑いかけると、気味が悪く感じたのだろう、もう一発殴られた。
だが、今度は退かないし、膝が折ることもない、こんな奴になぜ俺が引かなければならない?退かなければいけない理由などない。
何発か殴られたが、退くこともない。その代わり、重力に従って垂れた血が目に入り、視界を赤く染め、前掛けをかけたように血が鎧を赤に塗り替えていた。
ポォ、と刀身が赤く輝き始めた。
一歩、踏み込むと、目の前にいる魔物は一歩下がった。
もう一歩踏み込むと、下がろうとしたが足がもつれたのだろう、バランスを崩し、後ろに尻もちをつくように倒れ、俺の足元に血のついた石が転がって止まった。
若いリザードマンの瞳と表情の中には先ほどまでの嬉々とした表情もなく、その瞳の色と表情は何か目の前に理解できないもの、常識を逸したものが理不尽に自分に襲いかかったときにする色だ。
―おまえ、怯えたな………
人間は魔物よりもずっと軟弱で、脆く、そして弱い生き物だ。
リザードマンやデュラハンのように生まれ持っての武術の才など持っていないし、それほどまでの実力を備えるならば厳しい修練ととてつもない経験が必要となる。
マタンゴ、スライムやデビルバグのように繁殖力も強くない、人間は母親の腹の中で一年近くの年月を過ごさなくてはいけないし、生まれてから戦士となるまで長い時間を要する。
ヴァンパイアやドラゴンのように気高くもなく特殊な力も持っていない、持っているのは僅かばかりの知能と四肢であり、寿命も魔物に比べてずっと短い。
ケンタウロスやミノタウロスのような身体能力の高さもなく、鍛えてもやつら程の力は得られない。
同種同士でも誰かを下に見て自我を保ち、理不尽なこと、自分に害のあることは他人のせいにして他者を迫害する、卑劣な種だ。
もしも、魔物や神族がこの世にいなくとも、今度は人間同士で戦い始めるだろうし、たぶんその戦いは、人間が滅びゆくまで続く、なんとも愚かな種だ。
しかし、その上位種にあたる魔物が、下位種の人間におびえていた。
いや、今の俺は人間とは呼べるかどうかは怪しい、今、忌み嫌われる力を使っているからだ。もし、この力を持っていなければ、とっくの昔に死んでいる。
自虐の意味を込め、笑う。
「………………………化け物……………」
ぽつりと、リザードマンがつぶやいた。眼には涙をため、恐怖のためか、失禁していた。
そうかもな、だが、俺は人間だよ。と思いながら両手で刀を上段に構える。
刀は、まるで血を吸ったように濃い朱色に染まっている。
その朱色の染まった刀身を見ると、恐怖に耐えきれなかった物が浮かべる笑みを浮かべた。
「………………レッドソード騎士団……異端者だったのか………」
俺たちが忌み嫌う名前をつぶやき、そのまま、狂ったようにリザードマンは笑い始めた。
風を斬る音もなく刀を振り下ろし、リザードマンの脳天をかち割った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
かつて、魔物が人間界に侵略を始めた際、神は人間に魔物に対抗する力をもった人間を誕生させた。
その者たちの名は、勇者
されど、例外はある。
母親の腹の中にいる時、すでに勇者となる者は決まっている。しかし、生まれるまでその者が無事だとは限らない。
たとえば、
たとえば、腹の中に勇者となる子がいるのに、その母が魔物化したら、どうなるだろうか?
答えは、神に祝福されながらも、魔力を持つ呪いの子−異端者が生まれる。
生まれてくる子供は勇者としての力も、魔物としての力もない半端者が生まれるのだ、人すらも魔物すらも超えた神のような特殊な力と、戦いとなれば全てメスとなる前の魔物が持っていた血を好む気質とを持ち合わせた特殊な人間が。否それは人と呼べる代物だろうか?
かつての教団が支配していた世なら家族ごと殺された。
しかし、教会の影響力が弱まった現在でも、大概の場合、親魔派の領地であろうと、反魔派の領地であろうと生まれた時、異端者の赤子は殺される。
ある意味、それが一番幸せなのかもしれない。
魔物にも、神にも、人にすら嫌われ、異端者と呼ばれながら生きるよりは
運良く生き延びても見世物小屋ぐらいしか生きる場所はなかった。
しかし、今から半世紀ほど前、異端者の過去から忌み嫌われてきた力を、その特殊な力を戦力として、優秀な兵士として利用できないかと考えた男がいた、それが先代の領主様、カイエンW世様であり、その変わり者の領主はそのような気質を持った子供や人材を集め、ある騎士団を作り出した。
それが『ローグスロー騎士団』である。
しかし、領主も異端者たちを完全に信用していたわけではない、彼らに配給される武器にはある仕掛けがあった。
戦闘中に気質が魔物に近くなればなるほど、その武器が赤く輝く。
赤く輝けば輝くほど斬れ味など武器の性能は向上するが、最後は完全な魔物化を防ぐため持ち主を殺す魔術がかけてあるのだ。
これが、騎士団の団員が嫌う二つ名、魔物やそれを知る勇者からはレッドソード(赤い刃)騎士団と呼ばれる所以だ。
俺は、脳天をかち割ったリザードマンの死体を見ていた。
徐々に戦闘の熱が冷め、魔物の意識から人間の意識に戻っていくように、刀も血のような濃い朱色から本来の銀色に戻っていく。
左腕で腹に刺さっていた槍を抜く、そして、頭のけがにも意識を向ける。
最初は槍を抜くと血が噴き出してきたが、徐々に勢いが落ちてきた。そして完全に血は止まり、腹部の刺さっていた場所をさする、と、皮膚も何事もなかったようにふさいでおり、頭の怪我は、髪に血がこびりついていたがすでに血は出ていない。
これが俺の忌み嫌われた力、個人によって能力は異なるが俺の場合は『完全回復』
どんな傷でも力と意識を集中させることによって治す、神、人、魔物、全てに忌み嫌われる力であり、異端者と呼ばれる力だ。
気がつくと先ほど仕掛けたこの場所を囲むように燃えていた炎は消え、周りは暗く、夜となっていた。
空には雨雲もなくなり、月が昇っている。
この戦いを傍観していた、赤い月が
今日を生き抜いて何になる?明日を生き抜いて何になる?
戦場で散った戦友、自分が倒した敵の亡霊がささやきかける、死ね、死んでお前も楽になれと
だが、明日の希望がある限り男は進む
次回「希望」
しかし、その希望が必ずしも光とは限らない。
先ほどの術でばれているだろうし、リザードマンは鼻と目がきく。
遠距離戦では嗅覚が脅威となり(なんでも10キロ離れた場所の一滴の血まで嗅ぎわけるらしい)、接近戦では視覚が脅威となる(正確には視覚ではないらしいが)、なんでもリザードマンは人のように視覚だけでなく、わずかな熱も感じ取り、それで獲物がどこに隠れているのかを探るといわれる…それは蛇だというツッコミはなしにしてほしい…
それと天性の直感も持ち、生まれ持っての武人だ、その腕前は初めて剣をもった個体でも修練を積んだ騎士程の才があるという。人間がそれを養うのに莫大な時間を経験が必要となるのに、奴らは生まれつき持つのだ。身体能力も侮れない。
まったくもって厄介な連中だ、とにかく、俺の位置もばれているだろうし、いくら走ったところで奴らを巻くほど速くは走ることはできない、俺の姿が見えなくとも、奴らはにおいで俺を追うだろう。
ここで更にリザードマンという魔物について追記しておくと、
奴らは少し変わった魔物で、基本的に人を襲わない。だが、それは襲う相手を選ぶということで、全ての人間を襲わないということではない。
奴らは武人しか襲わない。この時点で俺はアウト。
ただの草原であったら、先ほどの術を行使したのはただの術者か旅人かもしれないと勘違いしてくれるかもしれないが、この草原は数刻前までドンパチをやってた場所だし、そんな場所をうろつく魔物なんて、どう考えてもドンパチに参加してた口だろう、そんな連中が偵察も兼ねて残党狩りを行うことはよくある、そして連中が目にするのはどう見てもさっきまで戦争やってた男が一人、戦闘にならないわけがない。
あぁ、もう一つ特徴がある、奴らは武人しか襲わないことからも分かる通り、武人気取りの魔物だ、他の魔物と同じように、獣(この場合はトカゲ)と人が混じり合ったような外見をしいるが人の武器で戦う、それも、どんな武器でも戦うことができるらしい。それと上記のように獣としての能力も持ち合わせている。まぁ、まとめると魔物としての武器はトカゲという獣の身体能力、人としての武器は武人としての才、と云ったところか。
そんな厄介な奴らと戦わなくてはいけない、否、戦うのだ。
本来ならば、普通の者なら恐怖によるパニックに陥るかため息の一つもこぼすのだろうが、知らず知らずのうちに口の端が徐々に上がってくる、―――やべぇ、なんだか楽しくなってきた。
相手は魔物、しかも武器を持ち、三体もいる。武器もどのようなものかもわからない。
対してこちらは人間が一体、手持ちの武器になりそうなものは腰に差している刀と懐にある8枚の『魔法紙』―魔法が才のない者でも即席で行使できる紙、ようするにこの紙があると枚数だけ魔法が行使することができる―と打ち取った時につかう敵の首を切断するための小刀が2本、それだけだ。
奴らは仲間を呼ぶかもしれない、呼ばれたら勝てないな。対して俺は仲間どころか生き残りがいるかどうかも分からない、この状況は孤立無援―まさに絶望的だ、あぁ、まったくドチクショウなまでに絶望的だ。
だが、楽しみでしょうがない―俺は人間のまともな心から、離れていく感覚がわかった。
どうやって倒そう、どうやって首を取ろう。
やつらの首をとるという結果を現実に導くために頭の中で現在の状況を考える、奴らよりも有利なこと、俺が劣っていること、奴らが知りえないこと、今の状況から導かれる奴らの合理的な状態、様々なことを思案し、ある作戦を思いつく。
これだ―笑みが更に大きくなるのを感じながら、走りながら、小刀を抜き左手首に当てると手首を切った。おもしろい程血が噴き出し、走ったところに不気味な道しるべを残す。その血を……だめだ、我慢できない
「っく、はっ………あははははははははははは」
もしかしたら敵がそばにいるかもしれないのに、大声で笑い出した。正直に生きることはいいことだ―団長の言った通りだと思う。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
グレシアは血のにおいが強くなったことが即座に分かった。
彼女は魔王軍に所属して今年で20年目を迎え(大体は夫ができると魔物は除隊してしまうため20年も軍にいるのはまれである)、参加した戦場は50を超える。
最近では年のせいか体が思うように動かず、現在は第一線での活躍は退いており、新人のリザードマンで構成された部隊で、新人の育成に力を入れている。
リザードマンは己で力を磨いていくように思われているが、実際は魔王軍に所属してある程度まで己の力を磨く者が多い。
そこまではいいのだ、魔物の力が上がっていくことは強い子孫を残せることにつながるが、年々入隊するリザードマンの質が落ちてきている気がすると危惧していた。まぁ、彼女の基準が厳しいせいもあるのであるが。
実際、リザードマンたちの新兵の教官になる前に、何度か魔王軍の砦で様々な種類の魔物、新兵たちをしごいてやったが、ある時半日で新兵の数が消えしまうという事件を起こした。
理由は新兵たちに軍に入団した動機を聞いたところ、どいつもこいつも軍に入れば旦那ができると思って軍に入りました、という不純な理由で、それを聞いたグレシアは激怒し、新兵たちに通常の新兵訓練よりも3倍の量の訓練を課してしまい、半日も待たず彼女が担当した新兵が消えてしまった。
それが問題となり、グレシアにも問題がある、しかし、彼女は特に優秀な指揮官であり教官だから彼女を除隊させるのは惜しいとして、上から同種のリザードマン訓練担当となれとの命令が出されたのである。
グレシアは今も新兵訓練の最中で後ろにいる、二人のリザードマン、年のころは15,16といった少女もグレシアの担当している新兵である。
しかし、本来ならば魔王軍の砦から外部で訓練をするほど、訓練を二人は積んでいない、そもそも彼女たちはグレシアが担当していた新兵ではない、別の教官が担当していたのであり、このまえ、初めて顔を合わせたが、グレシアは先ほどから本当にこの二人がリザードマンであるのか疑問に感じ始めているほど、二人は鈍かった。
なんでも、早朝の砦外周ランニングでは寝ぼけて崖から落ち、模擬戦としてミノタウロスと組んだ際二人ともミノタウロスと昼寝をはじめ、避難訓練では本当のボヤを起こし、弓の訓練では的を大きく外し、ハチの巣に当て大変な騒ぎを起こした。このままじゃ、歩兵部隊の新兵どころか、補給部隊に配属されても大変なへまをやらかすのではないか、そんな兵士を戦場に送りだせない、なんとかしてくれと同僚が泣きながらグレシアに頼んできたのだ。
グレシア自身も最初は渋っていたが、最後には折れ、二人の補修訓練を引き受けた。
この二人の補修訓練も本来ならば砦で行うものであるが、グレシアは魔王軍のかつての部下に無理を言って、魔王軍の部隊について行かせてもらった。無論実戦に参加しろ、とか無理はいわない、ただ戦闘が行われて数刻たった場所を見学するためだ。
グレシアもこの二人の訓練を砦で見たが、彼女たちに足りない物は緊張感だとおもったためである。緊張感がなければどこか気の抜けるものであり、それならば、もしかしたらいつ残党兵などの襲撃という危険があるかわからない、戦いというものが終わってからの戦場を見学をすれば、彼女たちも場緊張感を持って訓練に励むことだろう、と最初の思惑はそうであった、のだが…
「おい、それは、なんだ?」
三日ほど前、同行させてもらう部隊が出発する直前になっても二人が表れず、焦っていたグレシアの前に二人が現れた時、グレシアは震える声で尋ねた。
「なにって、食料ですよ」
さも当たり前のように二人は答え、巨大なバックを見せた。服装は支給された訓練用の服だったのが唯一の救いだろうか、二人は武器とか防具とか持っていない。あとで尋ねるとキャンプだと思っていたそうだ…キャンプに行くとしても食料だけではなく、寝袋とかいろいろ必要だろ、そう思ったが、口には出さなかった。この時点で半ばあきらめの心境であった。
そのあと、げんこつを二人に食らわし、バックを置いてこさせ、武器と防具をもってこさせると三日間の道のりを魔王軍に従軍した。
集合を出発よりも一時間早くしておいてよかった、とグレシアは二人に時々弱音をはく二人に声をかけながら思った。二人とも訓練前までほとんど会話もしたこともなかったためである。こういう機会は、信頼関係を築くチャンスでもあるのだ。
その後、三人が徒歩であったのに対し、魔王軍主力部隊は馬で進軍(歩兵は馬車で移動するのが主流だ)、とうぜん進軍速度も倍近くであり、彼女たちが戦場に着くころにはほぼ勝負を決していたが、途中で敵がゲリラ戦を展開し、これにより戦場跡ではいつ残党兵が出てくるかわからないため、安全を考え、見学場所は主力部隊が戦った場所よりも、親魔派の領地に近い草原を見学させて帰ることにした。こうなってしまっては戦場のにおいだけでも嗅いでもらい、砦で訓練を行うしかない。
ちなみに魔王軍は撤退しているが勝利しているという、なんとも矛盾している状況であるが、魔王軍の戦いは勝利条件を定め、最初に定めた条件の是非でその戦いの勝敗を決める。よって、先の戦いは勝利条件を満たし、戦いには勝利したらしい。が、手放しに勝利とは言えないのだろう、先ほど負傷兵の連中とすれ違った時に感じた。
その負傷者の中に今回この無茶を頼んだかつての部下がいて、どの程度まで敵を倒し、勝利条件としているのかわからないが、魔王軍の被害状況を教えてくれた。
なんでも魔王軍の3割が死亡・行方不明、負傷者は重軽傷者合わせて5割ほどだと言っていた、なんでも損傷の少なかった隊もあと少し滞在して撤退することに決めたらしい、残った部隊のみで戦線の構築は不可能と判断したとのことだ。
この戦いはいわゆる『無駄な勝利』だったのだ。
こうなってしまえば敗残兵がいつどこに潜んでいてもおかしくない。安全を優先しているので、戦場跡でも危険の度合いが全く違う。
しかし、数刻前まで戦いがこの近くで行われたというだけで、その見学する草原自体何もないただの草原だった。
この何もない草原をただ見学して帰ることしかグレシアにはできず、これでは二人が最初準備していた食料でも持たせて、本当にキャンプでもすればよかったな…とグレシアも思い始めた時だった。
びくりっと背筋が震えた。なにかが背中を通って行き、直後に鳥肌がたつ感覚だ。
その感覚を後ろにいる教え子−二人も感じたのか、あたりをきょろきょろと見回している。
今まで感じたことはないのだろう、実戦にでたことのない者にとってその感覚は不思議なものだ。今の感覚は人間が術式(攻撃が来ないことを考えると非殺傷の術)を行使した時の余波で、魔物の体を微量の精(魔力)が通って行った感覚だ。
戦場で過ごした時間が長いグレシアにとってなつかしい感覚でもある。この感覚が来たときは比較的近くに人間がいる証拠だ。
いまだに不思議な感覚に戸惑っている二人の新兵をよそにグレシアは嗅覚に集中する。
―かすかだが、濃い草のにおいに混じって、人間の血のにおいを嗅覚がとらえる。
雨で大分流れてしまっているが、どこかに傷を負っているのだろう、いまだに流れる血特有のにおいだ、死体ではこんな血のにおいはしない。
嗅覚に集中しなくてはこのにおいに反応できなかった。それに長い時間をかけて培ってきた感覚と直感で大体の位置を割り出すと、南東(ここからも反魔派の領地に近い)に約2.5キロ、人数は無傷の人間がいるかもしれないが、雨の所為でわかるのは血のにおいのする一人のみ、といったところか、さすがにその人間が軽傷か重症かはわからないが、慣れてしまえば位置を割り出すことなど比較的簡単なことだ。
普段ならば敗残兵と一戦することもあるが、さすがに新兵二人をひきつれている状況であるし、それに魔王軍に援軍を呼んだところで来てはくれないだろう、この状況ではあきらめるしかない。
しかし、新兵にこのにおいを嗅がせられるだけでも成果があったのではないか。
いまだに首をかしげて、今のは何だったのかと二人で話し合っている新兵たちに、先ほどの感覚はどういったものか、嗅覚のみに集中すると僅かだが人間の血のにおいがすることを教え、嗅いでみるように言った。
二人はしばらくコツが掴めなかったのか、目を閉じてにおいをかぐことに集中していたが、かすかにそのにおいを捕らえると、驚きながらそのにおいを嗅いでいた。
その様子を見て、グレシアは満足げに頷き、そのにおいの元となっている人間が何キロ先にいるのかを教えると二人は驚きをあらわにした。すると、短髪で肌が陶磁器のように白い新兵―ルーナはグレシアにその戦士と戦ってみたいと申し出た。
それに驚いたのはグレシアだけで、もう一人の新兵―ルーナと違い、長髪で邪魔にならないようにポニーテールに髪を縛って、背中に弓を装備している―キルケはいい考えだと顔を輝かせた。
やはり、この子たちも生まれながらにしてのリザードマンなのだと内心ではグレシアは喜んだが、あまりにも危険すぎるとして却下した。
しかし、この二人もなかなか引かずに、そこをどうか、と頼む。
どうするべきか、グレシアは悩んだ。
本来ならば、この状況で戦うなど言語道断であり、見学できただけでも目標は達成された。しかし、この二人は落ちこぼれといえリザードマン、そんじょそこらの兵士と戦っても負けないだろう。いや、しかし…………
考えること数分、においがわずかに変わり、においを放つ人間が移動を始めたことが分かった。二人もそれを感じたらしく、教官お願いします。と必死に頭を下げる。
結果、ついにグレシアがおれた、だが、許可の条件として戦闘は禁止、遠くからその人間を眺めるだけ、戦いたいならちゃんと軍に入ってからにしろ―その答えは砦で教官がいう絶対命令の口調、二人はこれが教官の最大譲歩だと悟り、しぶしぶながらその案に従うことにした。
そんなわけで現在においの元となっている人間を追っている。どうやらさっきの術式は索敵系の術式だったらしく、こちらから逃げるように走っている。
ちなみに、魔物が魔力を使い、発動する物を魔術と呼び、人間が精を使って使用するものを術式と呼ぶ。
だが、こちらはリザードマン、人とはちがう魔物、いくら人が走ろうともあと半刻もしないうちに追い付く。されど、安心しろ人間、今日は戦わない。見学だ、見学するだけだから安心しろ。
まるでその人間がすぐそばにいるようにグレシアは見えない敵に語りかけた。
ちなみにグレーシアたちは歩きだ。人間に逃げられることはないと経験上分かっているからである。
しかし、一つだけグレシアが気になることがある。なぜ、血のにおいが強くなったのだろう、常識的に考えれば人間が更に傷を負ったとしか考えられないが、この辺りに自生している草でこんなに血のにおいが強くなるほど傷を負うはずがない。
せいぜいかすり傷が限界だし、相手は鎧を着ている。しかもほかの魔物も人間のにおいもしない。なぜか―と考えているうちに言い知れぬ不安が芽生え始めた。
引き返すか、と考えたが、ちらと後ろをついてくる二人の新兵の、人間の敵を見てみたい、というリザードマンならではの表情を見たらそんなことは言いだせなかった。
そんな不安も風向きが変わりこちらが風上になってしまい、血の強さがわかなくなってしまって、下手をすれば相手の位置さえ、集中しなければ分からないという状況になりかけている、今は相手を探すことに集中しよう、そう思った時だった。
「……………ッツ、ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
突然一番後ろを走っていたキルケが声をあげてその場に崩れるように座り込んでしまった。
その異変にルーナとグレシアが気付き、一番近くにいたルーナがキルケに声をかけようとした時、
「ガ、ガ、グルワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
ルーナもまた大声を上げながら剣で切られたかのように仰け反りながら倒れる。
ほんの少しの間だけグレシアが戸惑ってしまったが、すぐにグレシアにも影響が出始めた。
―――――熱い、体が燃えるように熱い、否、燃えるようにではなく、世界そのものが灼熱に包まれたような、熱病とはちがう原始的な熱さだ。
グレシアはたまらずその場に膝をつく、二人と違い声を上げることはなかったが何もできないということに変わりはなかった。
グレシアは大量の汗をかき、意識も朦朧とし始める、しかし、その混濁した意識の中でまだしっかりとしている意識が警告を告げる。
雨がまだ降っており、それが体に当たって冷ましてくれるが焼け石に水だ。
その意識の中で体を蝕む熱さが何であるか、理解した、理解したが故に震える左手で持っていた長槍を持ち替え、少しの逡巡のあと、鎧で守られていない部分―胴体で最ももろい、わき腹に突き刺した。
――――っつ
強烈な痛みと共に一気に混濁した意識がクリアになる。先ほどまで体の中で暴れていた熱がうそのように引いていく。
しかし、痛みが長く続くことはなかった。
長槍を引き抜くと血が傷から噴き出したが、ほんの数秒でそれは収まり、そしてわき腹に手を当てると服は破けているが、胴体には傷一つ付いていなかった。
荒い息をしながら考える。
さっきの体を蝕んだ熱の正体、それは―精であった。
精―それは人間の持つ生命エネルギーの塊、そして魔物が持つ魔力に近い物、魔物が人間と交わる理由の一つも精を吸収するためであり、状況によっては軽傷を負っても精をある程度吸収すれば、瞬時に傷を治してくれる。
しかし、それは軽傷であればの話で、刺し傷、しかも内臓などの重要器官に傷を負っている傷を瞬時に治すなど聞いたことがない。そう、聞いたことがないのだ。
グレシアは自分でも驚いていた。
確かに体の中であまりにも強い精が暴れていたため、それを消費するためにわき腹を刺した、否、傷つけるくらいでやったのだが、手元が狂い突き刺してしまったのだ。(どんな傷を負った時でさえ手元が狂うなんてことはなかったが、生まれて初めてグレシアの手元が狂ったのだ)
正直もう駄目だと思った、しかし、その傷も瞬時に体の中で暴れていた精は治してしまった。そして、まだかすかに体の中で精が暴れていたが、これ位ならば抑えることができる。
どんな量の精を受けたのか、グレシア自身も初めて経験する膨大な精である。あのサキュバスですら、一回でこれほどの膨大な精を受けられるはずがないだろう。
先ほどの不安が、撤退しなければいけないアラート音に変わった。
そして、意識が警告を告げる。
――この先で敵が何らかの罠を仕掛けている、と
即座に、後ろにいる二人に命令を出そうと後ろを振り返ると、二人は、だらりと力なく、手を下げたまま立っており、口は開けられ、よだれが垂れている。そして目は虚ろで、その眼には生気といったものが感じられない。しかし、眼から生気といったものが感じられないのに異様な、何かに魅入られているような輝きを放っている。
もはや、グレシアは頭ではなく本能で動いていた。
雄叫びを上げながら長槍を構え、二人に突進していく。ある程度の傷ならば膨大な精が回復させてくれるはずだ、だから負傷は覚悟で二人を気絶させるつもりで、まず近くのルーナに槍で頭を狙う、狙うといっても切りつけるのでなく、殴って気絶させるのだ。
ビュン
風を切る音とともに槍がルーナの頭めがけ振り下ろされた。
当たった、いつもならば、実際に当たる前に、相手の急所を捕らえ、相手が回避不可能の距離に入ってしまった時点でグレシアは高揚感を得る、そして、今回も高揚感を得た。
しかし、その高揚感を得たはずなのに手ごたえは何も感じなかった。
いつもと違う手ごたえに違和感を覚え、わずかな空白が生まれた。しかし、瞬時にルーナを探す。
一瞬、何かの影が自分に重なったのを見た時、体は横に跳んでいた。
ゴッ
その僅か前までグレシアがいた場所にルーナの腰に差していた剣が刺さっていた。
しかし、とうのルーナはいない、どこだ、とあたりを見回す。普段ならば気配でわかるのに暗殺者と異名を持つマンティスのように気配がなくなった。
その時、一瞬風が吹いたのかと思ったが、後ろを振り向くともうすでにこの場所からでは、遠くにキルケが走っている。よく見るとその先にはルーナが走っていた。
走って行った先は無論、人間の血のにおいが漂ってくる方角だ。
奥歯を噛みしめると、チクショウと叫びながら二人を追った。
速い、それも尋常な速さじゃない、少し足をゆるめただけでみるみる二人との距離が遠のき、二人が小さくなっていった。
ペースを気にする余裕など今のグレシアにはない、少しでも気を緩めただけで見失うのだ。そもそも、全力疾走しているのにどんどん二人との距離が延びていく。
あの二人の状態は噂に聞く暴走というものだろう、グレシアも聞いたことしかない症状だが、そもそも暴走したというのを、魔術を行う術師しかあてはまらないことかもしれないので、暴走という定義に当てはまるかどうか知らないが
なんでも人にしても魔物にしても精や魔力を受け入れる器をもっている、常にその器にある程度の見合った精や魔力を入れて生きている。
そしてその器の中の精や魔力を魔術や怪我の治癒などを行うことによって消費する、もしも、使いすぎて器が空になった状態は言わずもがな分かる。下手すれば死ぬのである。だから強力な魔法は連発などできないし、無論、器以上の魔力を必要とする魔術は行えないのだ。
しかし、ある特殊な術によって器に見合わないそれ以上の魔力や精を一時的に入れることを可能とする術もある。しかし、どんなに修行を積んだ術者でも一時的だ、それを長い間維持するのは不可能という結果が得られている。なんでも経験論から得た答えらしいが、その魔術を研究したくとも、現在、その特殊な魔術は魔界では禁止となっており、今ではどんな術式かもわからない、とグレシアが戦士として魔王軍の一部隊で戦っていた時、同じく魔王軍に所属する魔女は教えてくれた。
もしも、その術式を長い間維持した者や、あまり修行を積んでいない者が使用するとどうなるのか、と質問すると、簡単な答えが返ってきた。
―暴走するだけよ、と
暴走とは何なのかと尋ねると、専門的な用語のオンパレードで魔術に明るくない彼女にとって理解できなかったため、たとえ話で魔女教えてくれた。
簡単に言うと、魔剣などに取りつかれた戦士は、狂戦士となり、戦いを求める生き物となるが、暴走した者は精や魔力を求める生き物となるのだと。
つまりは暴走した者は更なる魔力や精を求める、近くに小物しかいないと小物を襲うが莫大な精や魔力が秘めている者がいた場合そちらを襲う、その時油断してはいけないのは暴走した者の力は暴走する前の数倍から、ある時だと数百倍もあるらしい。
チクショウ、全部当てはまってる。たぶん完全な暴走だろう。まさか自分がその暴走した者に会うとはその時思わず、怖い症状だね、と流してしまった。
対処法聞いとけばよかった、とグレシアは後悔した。
グレシアは考える、私を相手にしなかったということは、二人が走っている先に膨大な魔力―先ほどまでグレシアたちが追いかけていた人間がいるはずだ、なぜ膨大な魔力などを用意できたのか、どのような術式をもちいたのか謎だが、2つ分かることがある、これは罠であり、相手は油断などできない相手であることだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
追いかけるのに夢中になってしまい気がつかなかったが、いつのまには腰まであった草が生い茂る草原を抜けて、乱雑に自生している草花ではなく、生えている物の丈は同じだが、きちんと土は整備されて石などはなく、そこに生えている物は手入れされており、まだ青く、小さいが穂の先の形からして小麦である―小麦畑の中を走っていた。
走ってきた方角を頭の中に叩き込んだ地図と照らし合わせ、グレシアはどこに向かっているのか考えてみる。
この先は今回の戦場が展開させた砦のある方向でもない、少しそれている、どちらかといえば町だが、町の方角とも少し違う、どこに向かってるんだ?
そんなグレシアの問いに応える者は無く、ただ先ほど降っていた雨は上がり、雲の間から日も差してきた。
二人を見失ってしまっても構わない、なぜならグレシアの嗅覚が二人を捕らえているためである。
そもそも手に長槍をもち、鎧も正規兵がつける物であるため、二人がつけている訓練用の鎧とは重さからして2倍もある。そんな重装備でグレシアが追い付けるわけにいくはずもないのである。
実際もうかなり前に見失ってしまい、嗅覚だけで追っている。
今ではグレシアにとって嗅覚が唯一の手掛かりであり、これを見失ったら探す手段を失う、嗅覚に神経をとがらせ、少しの変化も逃すまいと嗅ぎ続けた。
においがある場所に留まったため、二人が立ち止まった。
距離は600メートルほど先、二人のにおいの続きがそこで止まった。
つまり、このことが意味していることは――
グレシアはそこに敵が何らかの罠を張って待っている、と理解し、知らず知らずのうちに槍を強く握った。
その場所は開けた場所だった、それゆえに不気味に見える。なぜなら、先ほどまで、あたりは麦畑が続いているのに突如として開けた土地があり、この場所には草が一本も生えておらず地面がむき出しとなっている。
その開けた場所の中央に魔王軍の鎧を纏った何かが転がっている―おそらく、魔王軍の兵士の死体だ。そして、その死体は、この位置からでも感じるとてつもなく強い、精とも魔力とも判断できない物を纏っている。グレシアとの距離は50メートルほども離れているの、やっとこれだけ近づいて分かった。
その強い何かは、一般的な魔力とも精でもなく、何かが異なる。何なんだ?グレシアは頭の中で様々な魔力や精について考える。もしも、あれが近付くだけで爆発するものなら別な対処法を考えなければならない。
そこで気がついた、普通ならばこれほどの魔力や精に魔王軍も気づくが、近くに来て初めてグレシアも気がつくほど、ステルス性の高い魔力か精だ。
おそらく、この近くで索敵用魔術を使用してもなにも感知できない特殊なモノであろう、この何かは実際にその場所の近くまで行っても気がつくこともない、人間の世界にしかないが、人間でも魔物でも気付くもこともない、特殊な力
グレシアはそれが何であるか、分かった。あれは龍脈だ。
索敵用魔術は生物的な魔力や精しか感知できないのであり、龍脈とは巨大な力であるが、自然そのものである為、感知などできない。
大方この近くの場所にある幾つかの土地をつかさどる記号を敵が知っていたのだろう、わざとずらし、一点に龍脈を集中させたのだ。
幾つか合点がいった
先ほど受けた異常なほどの精はあの龍脈を利用したものであり、何らかの術式で龍脈の一部をグレシア達に流した。人では不可能などの精を送った仕組みは分かった。龍脈とは人が使えば精となり、魔物が使えば魔力となる変わった性質をもつ。
しかし、龍脈を使用するとは勇気がある。
龍脈確かに莫大な力を秘めているが、扱いが難しく、その土地の流れを知っていなければいけないが、魔界に浸食された土地の龍脈は枯渇してしまう為、グレシアは龍脈の記号とは何なのか知らないし、確か失敗すればリバウンドが起こり、この辺一帯が吹き飛ぶ。そもそも龍脈は東方に伝わる概念のため教会は否定する物であったはずで、人間が使用することはほとんどないはず―――
そこまでグレシアが考えた時、その転がっている死体に、一歩一歩ゆっくりと近づいていくルーナが目に入り、キルケはそれから20メートル離れた場所で倒れていたが、気は失っていないのであろう、四肢をばたつかせている。
グレシアは素早く、キルケに近づき、キルケを抑えた。
キルケは激しく暴れるが、手には力が入っていない。
精もほとんど尽きているのだろう、両足のふとももの皮膚が破れ、血が止まらず、その傷が回復する予兆はない。おそらくこれからも、歩くだけで激痛が走るだろう。
しかし、それでもキルケは激しく抵抗する。
グレシアはキルケを抑え込むだけで精一杯である為、ルーナに近づくな、と叫び続けたが、ルーナはそれに近づき、座り込むとそれに触れた。
あれが何であるか知らないが、本能が警告を鳴らしている、それの傍にではいけない、と
無意識的にグレシアは逃げろと叫びながら、両腕でキルケを抑えていたが、片腕を伸ばしてしまった。
その機を逃がさず、キルケはグレシアの腕を振りほどき、腕の力のみで猛進していった。
グレシアは、キルケが逃げてしまい、追いかける。
時間では数秒間であった為、近づいた距離は少しであったが、本来逃げなければならないはずなのに、グレシアは近づいてしまったのである。
直後、このグレシア達がいる場所を囲うように何かの術式が発動する感覚を、グレシアは感じ、その後次々と出来事が起こった。
まず、初めに、グレシアの感じた感覚の通り、この場所を囲むように麦畑が円状に燃え上がった。
だが、グレシアは構わない、そんなことはどうでもいいのだ。
今一番危険と頭で判断し、直感が警告を鳴らしている、ルーナ、キルケ、二人をその転がっている死体から離せと。
グレシアはキルケの左肘が音を立ておかしな方向に曲がったのを見た。その直後、キルケが座っている正面にある何かが光るのを見た。
ドドゴッーーーーーーーーーーーン
鼓膜を破るような爆発音と、正面からの爆風が吹き、その衝撃波に耐え切れず、グレシアは後ろに転げながら吹っ飛ばされた。
痛みの度合いからしてかすり傷ばかりで骨を折るなどはない。ただし、耳鳴りがひどく何も聞こえない。
くそ、と悪態をつきながら顔を上げると、爆風をもろにくらい、吹き飛ばされたキルケが20メートルほど離れた場所にいた。
キルケは意識をすぐに戻した。
なんだか、やたら体中が痛むし、鼻の中は血の香りしかしない。
眼を開けると、彼女は自分が地面に横たわっていると気づく。
なんでこんな場所に寝ているのか?と疑問に思ったが、上半身だけを起こす。
その時、バランスを崩してしまい、慌てながらもなんとかバランスを取った。
危うく地面に顔をぶつけるところだった。違和感を覚え、ふと、自分が地面に手をついているのは右手だけであることに気がついた。
怪訝に思いながら、眼で自分の左手を見ると、本来あるはずの場所に左腕がない。そもそも、
左肩までごっそりとえぐれ、ぼたぼたと血が垂れていて、その時初めて、キルケを強烈な痛みが襲った。
キルケの声は耳鳴りで聞こえなかったが、キルケが自分の左腕がないことに気がつき、うずくまる光景をグレシアは見た。
むごいと、一瞬目をそむけかけた、がキルケの血とは別の血のにおいに気付き、その方向に顔を動かすと、そのにおいのする麦畑の中から、背後で燃える麦畑の炎を背にし、片刃の剣を右肩に担ぐような独特の構えを取りながら、こちらに一直線に突っ込んでくる人間が眼に映った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
『何も考えずに敵を倒す。しかし、敵の一点に視点を縛るな、全体を見て次の攻撃を予測し、次の一手で相手を殺せ』
走りながらも副団長に教わった戦い方を頭の中に反芻させ、敵に突っ込んでいく。
最初は傷つき、左肩のないリザードマンと俺の位置が近かったため、そちらに走り出しかけたが、比較的無傷な方を攻撃すべきと判断し、もう一方のリザードマンに突っ込む。
副団長の教えを頭の中で反芻させることは、いつもの戦いでもそうしているが驚くほど頭が冷静であり、どちらかといえば今の俺の感覚は人間に近い。長いこと待ちすぎたせいで感覚と意識が戻ってしまったのだろう。
今回のように冷静さが求められる戦いではいいことだと思いつつもこれが終わったあとがつらいことを重々承知しているため、気が少しを重い。
人の精神で魔物でも人間でも斬ると、夢にその斬った連中が出てくることがあるのだ、あれは地味に怖いから勘弁してほしい。
……………ん?俺、この戦いが終わってからの問題に悩んでなかった?
ふと、自分が生き残ったことを前提として考えていたことに気がつくと、俺は知らずのうちに自虐の笑みを浮かべた。
そんなことを考えている場合じゃないだろうが、心のどこかで勝利を確信している。
慢心は死を招く、同期のセルキョウが言っていたが、あっ、そういえばあいつに貸した2万フェル返してもらってないが、まぁ、いいか…とにかく、それはいえると思うが、この状況で勝たなければ俺の苦労は水の泡になる。
そのまま、尻もちをつくように倒れ、長槍を手にしているリザードマンの首めがけて刀を振った。
ガキィィィィン
しかし、刀の感触は奴らの鱗におおわれた首を、鱗をごと斬る感触ではなく、バランスを保ちなおし、目の前のリザードマンが左手でつかんでいた長槍で俺の刀を防いだために、鉄の感触が俺に伝わる。
この槍、柄の部分まで鉄でできてやがる…
それどころか刀をはじき返しそのままの勢いで、バランスを崩しガラ空きとなった俺の胴体を狙ってきやがった。
―ツッ、ウオォォォォォォォォォォォォォォ
なんとか槍は体をひねってかわしたが、その隙を見逃さず、リザードマンは高く跳びあがると、間合いを取りつつも俺の真正面に着地、即座に構え、やり合う気十分という姿勢を見せつけた。俺も構えなおし、応じるしかない。
刀を腰に平行するように右腰に構え、剣先は下にし、体全体は左足が前となるように斜めに構える。
先ほどまで、俺と奴では有利にあったのが俺だが、今では互角、否、人と魔物がやり合うのだから奴の方が有利だ。ある武将が人と魔物が戦うことについて、何もない草原で騎兵と歩兵が斬り合うようなものだ、といったらしいがうまい例えだ。
それぐらい魔物と人が戦うことは無謀なことだ。
しかも、俺は奴の仲間―目の前のリザードマンは、魔王軍の中では珍しく年を食ってくる個体の、そこに転がっている個体と爆発の中心地にいてばらばらになった個体は若い連中だったから、大方、目の前にいる奴の部下だろう。
俺は奴の部下を一体、肉片にしてしまった。降参しても殺される、何としても勝たなければならない。
うだうだと考え、なかなか攻撃してこない俺にしびれを切らしたのか、リザードマンから仕掛けてきた。
ヒュッ
風切り音とともに喉笛めがけ、槍が飛んできたと認識する前に、僅かに体の位置をずらして槍を避け、反撃はしない、そのまま後ろに退くように右足を半歩退き、それを許さぬといった風に槍が右肩めがけ、飛んできた。
この時、刀を飛んできた槍にスライドするように放つ。
リザードマンは急所しか狙ってきていないが、俺は一撃で殺せる急所を狙っても簡単に防がれるだけであり、奴の武器破壊を狙いたいが、そもそも槍そのものが鉄でできているため、俺の得意とする武器の破壊する戦術はアックスでもないと刀では不可能だし、刀の方が折れる。そうなれば死ぬしかない。
となれば一つ、俺が狙うのは、腕だ。
槍に刀を滑らせ、槍をもつ左腕を狙ったが、槍をひねって刀ごとはじき出された。
即座に間合いを取り、再び睨みあう。
刀を折られなかったのが救いだった。
しかし、最初の一撃を受け止められたことからも分かるが、奴らの反応速度は異常だ。
何度もリザードマン種の魔物と戦いはしたが、全て集団戦であり、試合のように一対一で戦うことは初めてだ。
しかも、今までは仲間のフォローがあってからこそ、戦えた部分が大きい。団結力ほど集団戦において力を発揮する物はない。戦いの中心となる人物が集団戦の中に発生するのは当たり前の戦法だが、それを次々と戦闘の中心を移すことで敵を殲滅してきた。
対してリザードマン種の魔物どもは個人プレーが目立つ、戦闘のプロではあるが、連中は集団戦において素人だった。
だが、一対一で戦って初めて分かった。こいつらは個人戦闘のプロだと。
もしも攻撃を見て判断してからでは、遅い、遅すぎる。こいつらと戦うには経験と勘がものをいう、実際戦って、今までの攻撃をよけられたのは、戦闘の経験が次に来る攻撃してくる場所を予感したからであり、少しでも外れれば…
どうする、いな、どうするべきか、分かってはいる。分かってはいるのだが……
少しの逡巡がばれたのか、リザードマンが再びラッシュをかける。
今度の攻撃は防ぐので限界であり、その攻撃も先ほどと違ってかすり始めており、鎧に大分傷が増えていく。
足で地面をけって、土埃を起こし、僅かに相手が怯んだすきに俺は後退した。
息を整え、覚悟を決める。
セン・ガンツテァを使用する時のように、意識と感覚を分ける。
外の敵には意識を、感覚を己のうちに向け、火照った体の皮膚を流れる汗を感じながら、意識は冬戦の中にいるように鎮まっていく。
無駄な意識と感情は全てカットし、目の前にいるリザードマンだけに全身の意識と感覚を向ける。刀身が銀色に時折、背後の炎の光を浴びて光っている。
―なんだ、あっちの考え方になっているから感覚も意識もあちら側にある、と思ったのに人間のままらしい。今度ひどい悪夢にうなされるな
右手で刀を持ち、左手を添え、上段の構えをとり、突っ込んだ。
リザードマンは突っ込んでくる俺に対して、槍を放つ。
――――ドスッ
呆気ないほど槍は鎧すら砕き、腹部を貫いた。
激しい痛みが俺を襲う。槍は突き抜けたらしく、背中も痛む。
相手の表情に僅かな笑みが生まれる。
だが、
俺はゆがむような、笑みを浮かべた。
そのまま突っ込んだ勢いを殺さずに、足を進める。
好都合なことに、敵は俺の行動が理解できずに僅かな笑みをうかべたまま、固まっている。
無論足を前に進める分、ずぶずぶと俺の腹に槍が沈んでいく、そして、敵が槍をもつ右手に当たり、それ以上は進めなくなった。
槍をもつリザードマンの右手を、刀を持っていない左手で槍ごと握りしめ固定し、そのまま刀を斜めに振り下ろす、狙いは鎧にカバーされていない鱗におおわれている首
直後、刀は鱗特有の鈍い感触と、皮膚特有の感触を伝え、そして、首の骨と骨の間を通すように斬ったが、頸椎にあたり刀が止まった。
刀を抜くと血が勢いよく噴き出し、刀と俺の服を染めた。
口や鼻に入らないようにリザードマンの手を握っていた左手でとっさに口と鼻を覆ってかばった。
魔物の血を飲んで魔物化したという話は聞かないが、用心に越したことはない。
リザードマンはあり得ないという風に眼を見開いたまま、血がいまだに噴き出している首に自由となった右手を当て、少しの間己の血を見ていたが、やがて、崩れるように倒れた。
リザードマンが倒れるのを見て、腹部に刺さったままの槍を抜こうとしたがリザードマンの左手が槍を離そうとはせず、仕方なく、リザードマンの左ひじを切断した。
これで槍は自由になったが、この状態では鞘に刀を納められない。刀を地面に置くわけにもいかず、左手で槍を抜くしかあるま――――
ゴキィ
……頭に強い衝撃を受けた。
自分の身に何が起きたか分からず、ゆっくりと後ろを振り向くと、先ほどまで左肩を吹き飛ばされて泣き叫んでいた若いリザードマンがいた。
何か滴る、俺の血だろう―石を、人間では片手で持ち上げることはできない大きさの石を右手に持ち、左肩を上着で縛っていた。もう一撃と振り下ろしたちょうど瞬間であった。
ゴギン
今度は頭蓋骨に異常が起こった音がした。
その後、何度も何度も俺の頭を殴りつけ、最初の一撃で膝をつきかけたが、何度も踏ん張ったがとうとう足に力が入らず、右ひざがぐらつく。
その時、バランスを崩しながら若いリザードマンの顔を見た。その顔は嬉々とした笑顔でなにも抵抗できない俺を殴りつけるのが面白いのだろう、喜んでいた。
ふざけるな
このまま倒れて死んだふりをしようかな、と考えていた考えは瞬時に却下し、右ひざを地面につく寸前だったが、左足に力を込め、強制的に起き上がり、若いリザードマンと対峙した。
感覚、意識、考え方そのものがあちら側に移っていくのが分かる、だが、今の状態だと好都合だ。
若いリザードマンは最初困惑した表情だった。
にこりと笑いかけると、気味が悪く感じたのだろう、もう一発殴られた。
だが、今度は退かないし、膝が折ることもない、こんな奴になぜ俺が引かなければならない?退かなければいけない理由などない。
何発か殴られたが、退くこともない。その代わり、重力に従って垂れた血が目に入り、視界を赤く染め、前掛けをかけたように血が鎧を赤に塗り替えていた。
ポォ、と刀身が赤く輝き始めた。
一歩、踏み込むと、目の前にいる魔物は一歩下がった。
もう一歩踏み込むと、下がろうとしたが足がもつれたのだろう、バランスを崩し、後ろに尻もちをつくように倒れ、俺の足元に血のついた石が転がって止まった。
若いリザードマンの瞳と表情の中には先ほどまでの嬉々とした表情もなく、その瞳の色と表情は何か目の前に理解できないもの、常識を逸したものが理不尽に自分に襲いかかったときにする色だ。
―おまえ、怯えたな………
人間は魔物よりもずっと軟弱で、脆く、そして弱い生き物だ。
リザードマンやデュラハンのように生まれ持っての武術の才など持っていないし、それほどまでの実力を備えるならば厳しい修練ととてつもない経験が必要となる。
マタンゴ、スライムやデビルバグのように繁殖力も強くない、人間は母親の腹の中で一年近くの年月を過ごさなくてはいけないし、生まれてから戦士となるまで長い時間を要する。
ヴァンパイアやドラゴンのように気高くもなく特殊な力も持っていない、持っているのは僅かばかりの知能と四肢であり、寿命も魔物に比べてずっと短い。
ケンタウロスやミノタウロスのような身体能力の高さもなく、鍛えてもやつら程の力は得られない。
同種同士でも誰かを下に見て自我を保ち、理不尽なこと、自分に害のあることは他人のせいにして他者を迫害する、卑劣な種だ。
もしも、魔物や神族がこの世にいなくとも、今度は人間同士で戦い始めるだろうし、たぶんその戦いは、人間が滅びゆくまで続く、なんとも愚かな種だ。
しかし、その上位種にあたる魔物が、下位種の人間におびえていた。
いや、今の俺は人間とは呼べるかどうかは怪しい、今、忌み嫌われる力を使っているからだ。もし、この力を持っていなければ、とっくの昔に死んでいる。
自虐の意味を込め、笑う。
「………………………化け物……………」
ぽつりと、リザードマンがつぶやいた。眼には涙をため、恐怖のためか、失禁していた。
そうかもな、だが、俺は人間だよ。と思いながら両手で刀を上段に構える。
刀は、まるで血を吸ったように濃い朱色に染まっている。
その朱色の染まった刀身を見ると、恐怖に耐えきれなかった物が浮かべる笑みを浮かべた。
「………………レッドソード騎士団……異端者だったのか………」
俺たちが忌み嫌う名前をつぶやき、そのまま、狂ったようにリザードマンは笑い始めた。
風を斬る音もなく刀を振り下ろし、リザードマンの脳天をかち割った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
かつて、魔物が人間界に侵略を始めた際、神は人間に魔物に対抗する力をもった人間を誕生させた。
その者たちの名は、勇者
されど、例外はある。
母親の腹の中にいる時、すでに勇者となる者は決まっている。しかし、生まれるまでその者が無事だとは限らない。
たとえば、
たとえば、腹の中に勇者となる子がいるのに、その母が魔物化したら、どうなるだろうか?
答えは、神に祝福されながらも、魔力を持つ呪いの子−異端者が生まれる。
生まれてくる子供は勇者としての力も、魔物としての力もない半端者が生まれるのだ、人すらも魔物すらも超えた神のような特殊な力と、戦いとなれば全てメスとなる前の魔物が持っていた血を好む気質とを持ち合わせた特殊な人間が。否それは人と呼べる代物だろうか?
かつての教団が支配していた世なら家族ごと殺された。
しかし、教会の影響力が弱まった現在でも、大概の場合、親魔派の領地であろうと、反魔派の領地であろうと生まれた時、異端者の赤子は殺される。
ある意味、それが一番幸せなのかもしれない。
魔物にも、神にも、人にすら嫌われ、異端者と呼ばれながら生きるよりは
運良く生き延びても見世物小屋ぐらいしか生きる場所はなかった。
しかし、今から半世紀ほど前、異端者の過去から忌み嫌われてきた力を、その特殊な力を戦力として、優秀な兵士として利用できないかと考えた男がいた、それが先代の領主様、カイエンW世様であり、その変わり者の領主はそのような気質を持った子供や人材を集め、ある騎士団を作り出した。
それが『ローグスロー騎士団』である。
しかし、領主も異端者たちを完全に信用していたわけではない、彼らに配給される武器にはある仕掛けがあった。
戦闘中に気質が魔物に近くなればなるほど、その武器が赤く輝く。
赤く輝けば輝くほど斬れ味など武器の性能は向上するが、最後は完全な魔物化を防ぐため持ち主を殺す魔術がかけてあるのだ。
これが、騎士団の団員が嫌う二つ名、魔物やそれを知る勇者からはレッドソード(赤い刃)騎士団と呼ばれる所以だ。
俺は、脳天をかち割ったリザードマンの死体を見ていた。
徐々に戦闘の熱が冷め、魔物の意識から人間の意識に戻っていくように、刀も血のような濃い朱色から本来の銀色に戻っていく。
左腕で腹に刺さっていた槍を抜く、そして、頭のけがにも意識を向ける。
最初は槍を抜くと血が噴き出してきたが、徐々に勢いが落ちてきた。そして完全に血は止まり、腹部の刺さっていた場所をさする、と、皮膚も何事もなかったようにふさいでおり、頭の怪我は、髪に血がこびりついていたがすでに血は出ていない。
これが俺の忌み嫌われた力、個人によって能力は異なるが俺の場合は『完全回復』
どんな傷でも力と意識を集中させることによって治す、神、人、魔物、全てに忌み嫌われる力であり、異端者と呼ばれる力だ。
気がつくと先ほど仕掛けたこの場所を囲むように燃えていた炎は消え、周りは暗く、夜となっていた。
空には雨雲もなくなり、月が昇っている。
この戦いを傍観していた、赤い月が
今日を生き抜いて何になる?明日を生き抜いて何になる?
戦場で散った戦友、自分が倒した敵の亡霊がささやきかける、死ね、死んでお前も楽になれと
だが、明日の希望がある限り男は進む
次回「希望」
しかし、その希望が必ずしも光とは限らない。
11/09/11 20:31更新 / ソバ
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