潜伏期
「怖い?」
「うん、やっぱり……アタシには、怖いよ」
「……そ」
五階建ての高校の屋上。
フェンス一つないそこに、少女たちは二人、手を繋いで立っていた。
早朝の冷たく、乾いた風が二人の頬を撫でる。
「でも、怖くても。こうするしかないのよ。真澄」
「……わかんないよ。そんなの。百合子が考えることなんて。ホントーに、何一つ。わかんない」
黒髪の少女−−真崎百合子の微笑みに、茶髪の少女−−安藤真澄は首を振る。
何時だって、この百合子の考えることは分からなかった。
真澄は百合子の透き通った黒い瞳と、目を合わせないように遠くを見る。
朝焼けに染まる町は人一人歩く姿が見えず、どこか非現実的さを感じさせた。
それは−−これからする「行為」に。どこまでもぴったりだ。
そう、思えてしまった。
「だけど。分かるでしょう?今日が死ぬのにはいい日だって」
「お、おい。待てって」
コロコロと、鈴を転がすような声で百合子は囁く。
とん、と軽い音とともに、屋上の縁に登る彼女に。
手を繋いだままの真澄は思わず力を込めてしまった。
「こんなにも、世界が綺麗に見えるし。それに」
「……」
「二人だったら。寂しくないからね」
百合子に促されるままに、真澄も屋上の縁に登る。
さっきよりも強く感じる、冷たい風。
そのくせ、百合子の手は、これから死ぬ人間とは思えないほど、普段どおりの暖かさだった。
「ね、そろそろ。いこうよ−−これ以上ぐずぐずしてると。朝が終わっちゃうから」
死を誘う少女の声は、どこまでも気軽なもので。
真澄は、思わず顔をしかめる。
「わけ、わかんねえよ。ホントに」
それでも、彼女は黒髪の少女の手を強く握る。
「ううん、分かっているでしょ。私たちがどうしようもないくらい詰んでること。このままの関係を続けるためには−−死ぬしかないってことくらい」
「……百合子」
二人、屋上の縁に立つ。
彼女達の靴先は既に、空を掴んでいた。
「それじゃいこっか。真澄」
飛び上がる。とはいえないくらいの小さなジャンプ。
浮遊感。風の冷たさ。手のぬくもり。
めまぐるしく、落ちていく感覚。
そして、彼女の透き通るような、笑顔。
−−その顔を。安藤真澄は生涯忘れることはないだろう。
※ ※ ※
「……」
真澄が目覚めたのは病院の一室だった。
真っ白な風景に天国に行ったのかと感じたのは一瞬。
直後に襲い掛かってきた背中の鈍痛に、現実を認識すると同時に顔をしかめる。
「……真澄?」
「兄貴……なんで。ここに」
すぐ隣からかけられた声に、目だけを向ける。
短く刈り込まれた黒髪が特徴的な背が高い男性。
真澄の六つ上の兄、安藤博之だった。
やや鋭さを帯びた三白眼は、寝不足のためか少しだけ充血していた。
「……そんなの、妹が自殺なんて馬鹿な真似したからに決まってるだろ。命は助かったから良い物を」
「そっか。兄貴。だもんね」
「本当に馬鹿なこと、しやがって」
「……」
博之の声は、低く、かすれていて。
真澄はしばし、うな垂れたままでいた。
病室の空調の、小さくうなる音や、ぱたぱたと遠くで動く看護師の足音が、静かな病室に響く。
呼吸に合わせてつん、と。消毒薬の香りが鼻についた。
「……ねえ、兄貴」
「何だ?」
どれくらいの時がたっただろうか。
窓越しの夕日に照らされながら、ぽつり、と真澄は呟く。
「百合子、どうなった?」
「あいつは……死んだよ。内臓が潰れて、即死だったって、そう聞いてる」
「……そっか」
再び、二人の間を静寂が流れる。
日が落ちるまで、ずっと。彼らは何も言葉を告げられずにいた。
「もう、面会時間も終わりだし−−そろそろ帰るな」
「……」
「本当にこれ以上馬鹿なこと、考えないでくれよ。真澄」
「……うん」
ゆっくりと立ち上がる博之の姿は疲れを帯び。どこかすすけたように見えた。
重い足音とともに、ドアを閉める彼の後姿に、真澄は。
「ごめん、兄貴」
ただ、その言葉を口にした。
しとしとと流れる涙が、白くて清潔な毛布を濡らしていた。
※ ※ ※
「これで、極楽浄土へと彼女はきちんと旅立ったでしょう」
右から左に流れる坊主の言葉を聞き流し、真澄は手元の数珠をぼんやりと見つめていた。
百合子の告別式は、小さな市立の会場でひっそりと行われた。
焼香を上げたのは明らかに疲れた表情の彼女の母と、唯一の友人だった真澄と博之以外は、誰も居ない。
百合子のもう一人の親族である父親は、仕事を理由に現れることはなかった。
他の死因であればもう少し人を集めた式になるのだろうが、自殺ともなればこのような密葬まがいの形になる。
「百合子」
告別式が終わり、火葬場へと送られるまでのわずかなふれあいの時間。
棺の中で花に囲まれて眠る彼女の頬に、真澄は手を触れる。
どこまでも冷たく、ひんやりとした肌は彼女の死を否が応でも感じさせるものだった。
視線を下に動かすと、彼女のいびつに歪んだ服が見える。
その下には、死化粧でも誤魔化すことのできない彼女のずたずたに潰れた内臓があることを、真澄は知っていた。
落ちている最中たまたま真澄が上になり、百合子の体がクッションになり、内蔵が潰れることで、衝撃を和らげた。
結果として軽傷になった真澄は、こうして告別式に間に合うこととなったのだ。
「……」
ひとつひとつ、彼女とともに火葬する遺品を並べていく。
百合子の持ち物は、驚くほど少なかった。
恐らく、自殺する前に処分したか。もしくは、元から物を持たない人間だったのか。
数少ない遺品の一つ、小さな布製の袋を真澄はぎゅっと握り締める。
「真澄ちゃんへ」と細かい字でラベルが貼られていたそれの中身を確かめることなく、真澄は百合子の隣に、袋を置いた。
約束を破って生き延びた自分に、そんなものを見る資格がないと思ったからだった。
「真澄、そろそろ」
「分かってるよ、兄貴」
感傷の終わりは直ぐに訪れた。
博之に手を引かれるままに。真澄はただ、うな垂れていた。
「ありがとうございます。わざわざあの子のために」
「いえ……アタシは、友達でしたから」
火葬場へと向かう途中。
バスの中で話しかけてきたのは、百合子の母親だった。
彼女の声は、震えていた。
「本当に、どうしようもない子でしたから」
「……」
「友達も、居ませんでしたし。成績も……」
「……」
ああ、そうだった。
真澄は自らの表情を見せないように窓の外にちらりと目をやった。
たしかに百合子の母親はこういう人だった。
「私は、失敗作なんだよ。お母さんの期待に添えなかったの」
初めて出会ったとき。百合子が言っていた言葉を、思い出す。
吐き気がした。
「……娘の事、そう悪く言わないで下さい」
沈黙するままの真澄に代わって答えたのは博之だった。
その声はどこか怒気を孕んだもので、母親はそれ以上の言葉を口にしなかった。
「本人なりの、事情があったんでしょうから」
「……」
博之の言葉を聞きながら、真澄は外を見る。
相変わらず、出来た兄だと思った。
つかみどころのない百合子や、言うことを聞かない妹にも。優しくしてくれる。
「……」
車の外の景色は、相変わらずいつも通りだった。
※ ※ ※
「……真澄、これ」
火葬場から帰った後。
博之から食欲の出ない夕飯を終えたばかりの真澄に渡されたのは、小さな布袋だった。
「兄貴、これ、燃えたはずじゃ……」
「……お前宛だろ。ちゃんと調べないと、ダメだ」
「……」
「あの母親の所に、これを渡すつもりか?」
「それは……」
驚きつつも、袋を受け取ってしまった真澄は、小さくうなだれる。
硬いものが入っているのか、少しだけ重たかった。
「だったら、受け取っておけ。これは「安藤真澄」のものなんだから」
「……分かったよ、兄貴」
返事をして、自室に戻る。
月明かりの下、袋の紐を解いた真澄の手に握られたのは。
「種?」
黒い、種だった。
「うん、やっぱり……アタシには、怖いよ」
「……そ」
五階建ての高校の屋上。
フェンス一つないそこに、少女たちは二人、手を繋いで立っていた。
早朝の冷たく、乾いた風が二人の頬を撫でる。
「でも、怖くても。こうするしかないのよ。真澄」
「……わかんないよ。そんなの。百合子が考えることなんて。ホントーに、何一つ。わかんない」
黒髪の少女−−真崎百合子の微笑みに、茶髪の少女−−安藤真澄は首を振る。
何時だって、この百合子の考えることは分からなかった。
真澄は百合子の透き通った黒い瞳と、目を合わせないように遠くを見る。
朝焼けに染まる町は人一人歩く姿が見えず、どこか非現実的さを感じさせた。
それは−−これからする「行為」に。どこまでもぴったりだ。
そう、思えてしまった。
「だけど。分かるでしょう?今日が死ぬのにはいい日だって」
「お、おい。待てって」
コロコロと、鈴を転がすような声で百合子は囁く。
とん、と軽い音とともに、屋上の縁に登る彼女に。
手を繋いだままの真澄は思わず力を込めてしまった。
「こんなにも、世界が綺麗に見えるし。それに」
「……」
「二人だったら。寂しくないからね」
百合子に促されるままに、真澄も屋上の縁に登る。
さっきよりも強く感じる、冷たい風。
そのくせ、百合子の手は、これから死ぬ人間とは思えないほど、普段どおりの暖かさだった。
「ね、そろそろ。いこうよ−−これ以上ぐずぐずしてると。朝が終わっちゃうから」
死を誘う少女の声は、どこまでも気軽なもので。
真澄は、思わず顔をしかめる。
「わけ、わかんねえよ。ホントに」
それでも、彼女は黒髪の少女の手を強く握る。
「ううん、分かっているでしょ。私たちがどうしようもないくらい詰んでること。このままの関係を続けるためには−−死ぬしかないってことくらい」
「……百合子」
二人、屋上の縁に立つ。
彼女達の靴先は既に、空を掴んでいた。
「それじゃいこっか。真澄」
飛び上がる。とはいえないくらいの小さなジャンプ。
浮遊感。風の冷たさ。手のぬくもり。
めまぐるしく、落ちていく感覚。
そして、彼女の透き通るような、笑顔。
−−その顔を。安藤真澄は生涯忘れることはないだろう。
※ ※ ※
「……」
真澄が目覚めたのは病院の一室だった。
真っ白な風景に天国に行ったのかと感じたのは一瞬。
直後に襲い掛かってきた背中の鈍痛に、現実を認識すると同時に顔をしかめる。
「……真澄?」
「兄貴……なんで。ここに」
すぐ隣からかけられた声に、目だけを向ける。
短く刈り込まれた黒髪が特徴的な背が高い男性。
真澄の六つ上の兄、安藤博之だった。
やや鋭さを帯びた三白眼は、寝不足のためか少しだけ充血していた。
「……そんなの、妹が自殺なんて馬鹿な真似したからに決まってるだろ。命は助かったから良い物を」
「そっか。兄貴。だもんね」
「本当に馬鹿なこと、しやがって」
「……」
博之の声は、低く、かすれていて。
真澄はしばし、うな垂れたままでいた。
病室の空調の、小さくうなる音や、ぱたぱたと遠くで動く看護師の足音が、静かな病室に響く。
呼吸に合わせてつん、と。消毒薬の香りが鼻についた。
「……ねえ、兄貴」
「何だ?」
どれくらいの時がたっただろうか。
窓越しの夕日に照らされながら、ぽつり、と真澄は呟く。
「百合子、どうなった?」
「あいつは……死んだよ。内臓が潰れて、即死だったって、そう聞いてる」
「……そっか」
再び、二人の間を静寂が流れる。
日が落ちるまで、ずっと。彼らは何も言葉を告げられずにいた。
「もう、面会時間も終わりだし−−そろそろ帰るな」
「……」
「本当にこれ以上馬鹿なこと、考えないでくれよ。真澄」
「……うん」
ゆっくりと立ち上がる博之の姿は疲れを帯び。どこかすすけたように見えた。
重い足音とともに、ドアを閉める彼の後姿に、真澄は。
「ごめん、兄貴」
ただ、その言葉を口にした。
しとしとと流れる涙が、白くて清潔な毛布を濡らしていた。
※ ※ ※
「これで、極楽浄土へと彼女はきちんと旅立ったでしょう」
右から左に流れる坊主の言葉を聞き流し、真澄は手元の数珠をぼんやりと見つめていた。
百合子の告別式は、小さな市立の会場でひっそりと行われた。
焼香を上げたのは明らかに疲れた表情の彼女の母と、唯一の友人だった真澄と博之以外は、誰も居ない。
百合子のもう一人の親族である父親は、仕事を理由に現れることはなかった。
他の死因であればもう少し人を集めた式になるのだろうが、自殺ともなればこのような密葬まがいの形になる。
「百合子」
告別式が終わり、火葬場へと送られるまでのわずかなふれあいの時間。
棺の中で花に囲まれて眠る彼女の頬に、真澄は手を触れる。
どこまでも冷たく、ひんやりとした肌は彼女の死を否が応でも感じさせるものだった。
視線を下に動かすと、彼女のいびつに歪んだ服が見える。
その下には、死化粧でも誤魔化すことのできない彼女のずたずたに潰れた内臓があることを、真澄は知っていた。
落ちている最中たまたま真澄が上になり、百合子の体がクッションになり、内蔵が潰れることで、衝撃を和らげた。
結果として軽傷になった真澄は、こうして告別式に間に合うこととなったのだ。
「……」
ひとつひとつ、彼女とともに火葬する遺品を並べていく。
百合子の持ち物は、驚くほど少なかった。
恐らく、自殺する前に処分したか。もしくは、元から物を持たない人間だったのか。
数少ない遺品の一つ、小さな布製の袋を真澄はぎゅっと握り締める。
「真澄ちゃんへ」と細かい字でラベルが貼られていたそれの中身を確かめることなく、真澄は百合子の隣に、袋を置いた。
約束を破って生き延びた自分に、そんなものを見る資格がないと思ったからだった。
「真澄、そろそろ」
「分かってるよ、兄貴」
感傷の終わりは直ぐに訪れた。
博之に手を引かれるままに。真澄はただ、うな垂れていた。
「ありがとうございます。わざわざあの子のために」
「いえ……アタシは、友達でしたから」
火葬場へと向かう途中。
バスの中で話しかけてきたのは、百合子の母親だった。
彼女の声は、震えていた。
「本当に、どうしようもない子でしたから」
「……」
「友達も、居ませんでしたし。成績も……」
「……」
ああ、そうだった。
真澄は自らの表情を見せないように窓の外にちらりと目をやった。
たしかに百合子の母親はこういう人だった。
「私は、失敗作なんだよ。お母さんの期待に添えなかったの」
初めて出会ったとき。百合子が言っていた言葉を、思い出す。
吐き気がした。
「……娘の事、そう悪く言わないで下さい」
沈黙するままの真澄に代わって答えたのは博之だった。
その声はどこか怒気を孕んだもので、母親はそれ以上の言葉を口にしなかった。
「本人なりの、事情があったんでしょうから」
「……」
博之の言葉を聞きながら、真澄は外を見る。
相変わらず、出来た兄だと思った。
つかみどころのない百合子や、言うことを聞かない妹にも。優しくしてくれる。
「……」
車の外の景色は、相変わらずいつも通りだった。
※ ※ ※
「……真澄、これ」
火葬場から帰った後。
博之から食欲の出ない夕飯を終えたばかりの真澄に渡されたのは、小さな布袋だった。
「兄貴、これ、燃えたはずじゃ……」
「……お前宛だろ。ちゃんと調べないと、ダメだ」
「……」
「あの母親の所に、これを渡すつもりか?」
「それは……」
驚きつつも、袋を受け取ってしまった真澄は、小さくうなだれる。
硬いものが入っているのか、少しだけ重たかった。
「だったら、受け取っておけ。これは「安藤真澄」のものなんだから」
「……分かったよ、兄貴」
返事をして、自室に戻る。
月明かりの下、袋の紐を解いた真澄の手に握られたのは。
「種?」
黒い、種だった。
17/10/09 20:38更新 / くらげ
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