パペチュアル・チェック
「ふう」
疲れ気味の声を吐きつつ、雅人は夜の街を歩く。
頭の中に浮かぶのは、さっきまでの対局。
そして、かつての屈辱の記憶であった。
魔物娘が、この世界にやってきたのは数年ほど前の話。
最初は全く同じゲームが存在する事に驚き、それは次第に喜びになった。
新しい戦術が載った本や、定石。
チェスというゲームはまだ続く、そんな確信を得ることが出来た。
日本のチェスプレイヤー念願のプロ制度が作られることになったときは、静かに拳を握り締めた。
しかし、喜びは長くは続かなかった。
異世界からやってきたチェスプレイヤーに、何度となく雅人は打ちのめされた。
チェスとは、頭脳の戦争。
負けに言い訳は許されない。
それでも、胸のなかでじくじくと古傷が痛む感覚がした。
「勝てた、か」
心の中を誤魔化すように、対局を振り返る。
相手はチェスのプロである、リッチであった。
序盤から攻める相手をいなし、隙をついて勝利をもぎ取ることができた。
「君は、プロ試験を受けたほうが良い。その先で待ってる」
そう語る彼女に、小さく頭を下げたとき、自然と笑顔になれた。
それも、全て彼女−−夕美のおかげだ。
脳裏に浮かぶのは、彼女の顔。
夕美がチェスをするときの真剣な表情を思い出す。
彼女のおかげで、チェスの世界に戻ってくることが出来た。
楽しさを、思い出せた。
「ーーまさ、と」
「夕美……?」
不意に聞こえた声に振り返る。
そこには、一人の少女の姿がじりじりと光る蛍光灯に照らされていた。
黒く、長い髪。
不健康な白い肌。
空ろな、瞳。
病院以外で見る彼女は、新鮮で。
異質な美しさを、放っていた。
-----
「珈琲と紅茶、どっちがいいか?」
「そん、な、きをつか、わ、なくても」
「いいから。折角来たんだし茶くらい出させてくれ」
雅人の暮らすアパートの一室。
安物の畳の上に二人で腰掛ける。
テーブルの上におかれたのは、二人分の紅茶と、使い込まれたチェス板。
きょろきょろと周りを見回す夕美の目にうつるのは、殆ど家具のない殺風景な部屋。
雅人には、チェスしか趣味がなかった。
「しかし、どうやって発見したんだ?教えた覚えなかったんだけど」
「……かん」
香りがいいセイロンティーを啜りながら質問する雅人に、夕美は首を傾げる。
夕美が雅人に出会えたのは本当に偶然の出来事であった。
彼がその時たまたまチェスの出来る公園に行っていなければ、彼女は町の中をさまよう事になっただろう。
「かん、って……おい」
その光景を思い浮かべ、雅人はため息をつく。
棋譜の全暗記といい、たまに突拍子もないことをする少女だと思った。
「あい、たかった、から」
「……そうか」
しかし、嬉しかった。
こうして自分を求められることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「チェス、しようか」
「……う、ん」
誤魔化すようにチェスを進めると、彼女はこくり、と頷いた。
e4からはじまる、静かなオープニング。
応手も定石から外れず、ただ、ことりという駒の置かれる音が部屋の中に響く。
「−−夕美」
「なあ、に?」
中盤まで差したころ、雅人は口を開く。
戦況は、ほぼ互角。
彼女の棋力は、本当に高くなった。
このまま、一緒に……。
雅人は何かを振り払うように、頭を振った。
「ーーありがとう」
クィーンが、彼女の陣に切り込む。
ポーンが突き刺され、ビショップが砕かれ、ルークが切り落される。
傾く形勢に、彼女は眉を寄せる。
この手は−−拒絶、だ。
彼女は本能的にそう感じ取っていた。
「あのさ、俺……プロになろうと思ってるんだ」
夕美のクィーンをとりながら、彼はぼそりと呟く。
もはや、逆転の手は残されていなかった。
「昔、俺は諦めてたんだ。 サキュバスの色香とか、リッチの服装とか……そういうのに動揺して、ちっとも集中できなくて。負けてばっかで」
「チェスばっかやってて、女の子に免疫とか、なくってさ。 恥ずかしい話だけど」
「それが原因で、負けて、チェスも嫌いになって」
「君と、指すまで。忘れようとすらしてた」
「けど、さ」
「さっき、勝てたんだよ。プロの、魔物相手に」
「そう、なんだ」
引き分けを狙う一手を、白のビショップが突き刺す。
パペチュアルチェック。
即ち、死の手前。
「−−だから、プロ。目指してみようって思ってる」
「そうすると、忙しくなっちゃってアルバイト、できなくなるけど」
「夢、だった、から」
彼の声は、震えていた。
彼女の手は、ゆらゆらと、揺れていた。
「ごめん」
チェック、メイト。
夕美のキングは、雅人のクィーンによって磨り潰されるように死を迎えた。
「……」
その様子を、彼女はただ、眺めていた。
次の日、アルバイトに訪れた彼が見たのは。
チェス板の前で、指を動かす夕美の姿だった。
「−−すきなものを、いって」
彼女は空ろな瞳で、雅人に告げる。
「わたしにかてたら、かなえるから」
「まえからきえろっていわれたら、きえる」
「じゃまするなっていわれれば、いなくなる」
「でも、わたしがかったら」
彼女は、一旦言葉を切る。
雅人は、ただ黙ることしか、出来なかった。
「−−いなく、ならないで」
それが、彼女達の盤上の戦争であった。
疲れ気味の声を吐きつつ、雅人は夜の街を歩く。
頭の中に浮かぶのは、さっきまでの対局。
そして、かつての屈辱の記憶であった。
魔物娘が、この世界にやってきたのは数年ほど前の話。
最初は全く同じゲームが存在する事に驚き、それは次第に喜びになった。
新しい戦術が載った本や、定石。
チェスというゲームはまだ続く、そんな確信を得ることが出来た。
日本のチェスプレイヤー念願のプロ制度が作られることになったときは、静かに拳を握り締めた。
しかし、喜びは長くは続かなかった。
異世界からやってきたチェスプレイヤーに、何度となく雅人は打ちのめされた。
チェスとは、頭脳の戦争。
負けに言い訳は許されない。
それでも、胸のなかでじくじくと古傷が痛む感覚がした。
「勝てた、か」
心の中を誤魔化すように、対局を振り返る。
相手はチェスのプロである、リッチであった。
序盤から攻める相手をいなし、隙をついて勝利をもぎ取ることができた。
「君は、プロ試験を受けたほうが良い。その先で待ってる」
そう語る彼女に、小さく頭を下げたとき、自然と笑顔になれた。
それも、全て彼女−−夕美のおかげだ。
脳裏に浮かぶのは、彼女の顔。
夕美がチェスをするときの真剣な表情を思い出す。
彼女のおかげで、チェスの世界に戻ってくることが出来た。
楽しさを、思い出せた。
「ーーまさ、と」
「夕美……?」
不意に聞こえた声に振り返る。
そこには、一人の少女の姿がじりじりと光る蛍光灯に照らされていた。
黒く、長い髪。
不健康な白い肌。
空ろな、瞳。
病院以外で見る彼女は、新鮮で。
異質な美しさを、放っていた。
-----
「珈琲と紅茶、どっちがいいか?」
「そん、な、きをつか、わ、なくても」
「いいから。折角来たんだし茶くらい出させてくれ」
雅人の暮らすアパートの一室。
安物の畳の上に二人で腰掛ける。
テーブルの上におかれたのは、二人分の紅茶と、使い込まれたチェス板。
きょろきょろと周りを見回す夕美の目にうつるのは、殆ど家具のない殺風景な部屋。
雅人には、チェスしか趣味がなかった。
「しかし、どうやって発見したんだ?教えた覚えなかったんだけど」
「……かん」
香りがいいセイロンティーを啜りながら質問する雅人に、夕美は首を傾げる。
夕美が雅人に出会えたのは本当に偶然の出来事であった。
彼がその時たまたまチェスの出来る公園に行っていなければ、彼女は町の中をさまよう事になっただろう。
「かん、って……おい」
その光景を思い浮かべ、雅人はため息をつく。
棋譜の全暗記といい、たまに突拍子もないことをする少女だと思った。
「あい、たかった、から」
「……そうか」
しかし、嬉しかった。
こうして自分を求められることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「チェス、しようか」
「……う、ん」
誤魔化すようにチェスを進めると、彼女はこくり、と頷いた。
e4からはじまる、静かなオープニング。
応手も定石から外れず、ただ、ことりという駒の置かれる音が部屋の中に響く。
「−−夕美」
「なあ、に?」
中盤まで差したころ、雅人は口を開く。
戦況は、ほぼ互角。
彼女の棋力は、本当に高くなった。
このまま、一緒に……。
雅人は何かを振り払うように、頭を振った。
「ーーありがとう」
クィーンが、彼女の陣に切り込む。
ポーンが突き刺され、ビショップが砕かれ、ルークが切り落される。
傾く形勢に、彼女は眉を寄せる。
この手は−−拒絶、だ。
彼女は本能的にそう感じ取っていた。
「あのさ、俺……プロになろうと思ってるんだ」
夕美のクィーンをとりながら、彼はぼそりと呟く。
もはや、逆転の手は残されていなかった。
「昔、俺は諦めてたんだ。 サキュバスの色香とか、リッチの服装とか……そういうのに動揺して、ちっとも集中できなくて。負けてばっかで」
「チェスばっかやってて、女の子に免疫とか、なくってさ。 恥ずかしい話だけど」
「それが原因で、負けて、チェスも嫌いになって」
「君と、指すまで。忘れようとすらしてた」
「けど、さ」
「さっき、勝てたんだよ。プロの、魔物相手に」
「そう、なんだ」
引き分けを狙う一手を、白のビショップが突き刺す。
パペチュアルチェック。
即ち、死の手前。
「−−だから、プロ。目指してみようって思ってる」
「そうすると、忙しくなっちゃってアルバイト、できなくなるけど」
「夢、だった、から」
彼の声は、震えていた。
彼女の手は、ゆらゆらと、揺れていた。
「ごめん」
チェック、メイト。
夕美のキングは、雅人のクィーンによって磨り潰されるように死を迎えた。
「……」
その様子を、彼女はただ、眺めていた。
次の日、アルバイトに訪れた彼が見たのは。
チェス板の前で、指を動かす夕美の姿だった。
「−−すきなものを、いって」
彼女は空ろな瞳で、雅人に告げる。
「わたしにかてたら、かなえるから」
「まえからきえろっていわれたら、きえる」
「じゃまするなっていわれれば、いなくなる」
「でも、わたしがかったら」
彼女は、一旦言葉を切る。
雅人は、ただ黙ることしか、出来なかった。
「−−いなく、ならないで」
それが、彼女達の盤上の戦争であった。
16/07/20 21:50更新 / くらげ
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