後編 影
「……むう」
意識が戻ってから3日がたった朝。レースのカーテン越しに注ぐ日の光で、わたしは目をさましました。
そして覚醒と同時に襲い掛かる下腹部の鈍い感触が不快で、眉をしかめます。
腕に刺さった点滴のおかげか、痛みはあまりないですが、それでも刺されたと言う実感はぞっとするものでした。
「全く、無茶しちゃって。死んだらどうするつもりだったの?」
わたしを担当した医師(卓越したネクロマンサー技術を持つリッチさんです。魔物資本の病院では日々死による離別を克服すべく、また侵略の尖兵を増やすべく女性のアンデッド化が進んでいます)は懐の径箱をかたかたとゆらしながら、意識を取り戻した。わたしの額をこづいてきました。
そうして、数日間のあいだ、私はずっと入院して過ごしていました。
特に趣味といえる趣味もない身なので、ただ、寝て起きて寝て過ごすだけ。引きこもっていた頃となんらかわらない生活です。
「……失礼します」
「はい」
昼過ぎくらいになって、病室のドアがノックされる音が響きます。
看護師の方と一緒に入ってきたのは、私のご主人様でした。
左手には、小さな紙袋が握られていました。
「その、アポイントのとり方とか分からなかったから。直接来たのですが……迷惑だったでしょうか」
「いえ、大丈夫です。暇をもてあましていましたので……こちらこそご心配をかけてすみませんでした」
「しかし、その。傷の原因になってしまったのは身内の不手際ですし……」
「私が飛び込んでしまったばかりに」
ご主人様が頭を下げるのに合わせて。わたしも頭を下げます。
しばらくの間繰り広げられたのは不毛な謝り合戦。
ですが、何となく。
ご主人様と私が似たもの同士な気がして、少しだけ可笑しな気分になりました。
「……これ、見舞いの品です。迷惑じゃなかったら、受け取ってください」
紙袋の中から出てきたのは、フルーツゼリーの箱でした。
「本当は、花にしようかと思っていたけれど。雑菌がついているから衛生面で問題があるって断られた」と、ご主人様は申し訳無さそうに頭を下げていました。
「開けても、いいですか?」
「どうぞ。そのためにもってきたので」
飲食については禁止されていないので、ご主人様に許可を求めつつ箱を開けます。
中に入っていたのは、橙色や桃色、紫色の色鮮やかなゼリーでした。中で果物がふるふると震えています。
精を常食すると言っても、味覚がないわけではありません。ましてやうまれてこのかた捕精剤で身体を満たしてきた身にとっては、ちょっとしたご馳走です。
「その……一緒に食べませんか?」
「え、ええっと。その、貴女に食べてもらうために買ってきたわけで……」
「一緒に、食べたいんです」
箱の中に入っていた透明なプラスチックのスプーンと橙色のゼリーのカップを渡すと、若干おずおずしながらご主人様は受け取ってくれました。
わたしも、それを確認してからスプーンと桃色のゼリーを手に取ります。
「いただきます」
小さく一礼し、透明なフィルムを剥がしてから一口含みます。
甘く、じんわりととろけていくゼラチンの感触に、おもわず小さな笑みが浮かんでしまいました。
ご主人様も、私が食べるのを見てから、ゼリーを口にします。
しばらくの間スプーンを動かす、静かな時間が流れました。
「−−その。ありがとう。そして、すまなかった」
半分以上、ゼリーをおなかに入れた頃でしょうか。
沈黙を破るようにしてご主人様が、ぽつりと呟きました。
「いえ、飛び込んだのはわたしの勝手ですし」
「……いや、そうじゃないんだ」
わたしの言葉を遮るように、ご主人様は首をふりました。
その顔は、うつむき加減だったせいか。よく見えません。
ただ、わたしの言葉を止めるほどの何かが、込められていました。
「今から話すことは……私の勝手な妄想かもしれない。魔物が居て、この世界の女性に化けているものがいるなんて。友人の、ダイムノヴェルみたいな話を真に受けてしまったのだから」
「……」
「だが。私はそれを信じてしまった」
言葉を切ったご主人様が、顔を上げます。
黒い瞳が、わたしの瞳を深く見つめていました。
「今まで『ロミ・ケーキ』で、私なんかの相手をしてくれて。ありがとう。ずっと、私の姉を演じてくれて、ありがとう。……君がずっと、私の相手をしてくれていた。私にはそう思えてならないんだ」
ご主人様は、深く頭を下げました。
その様子を私はただ、見つめることしか出来ませんでした。
否定することも出来ました。
そうすれば、魔物について知られることもなく。ただの妄想で済ますことが可能でした。
ですが、わたしはただ黙ってそれを、聞いていました。
答えないこと。それが肯定という答えになりました。
「……その、もし、ですけれど」
しばしの静寂。
それをもって漸くわたしは口を開くことが出来ました。
何かを喋ろうとするたびに、色々な言葉が引っかかって、
−−もっと、話したいことがありました。
ご主人様のことをもっと知りたかった。いろいろなことを話して欲しかった。
いっしょに楽しい話をしたかった。悲しみを、苦しみを分け合いたかった。
ーーもっと、謝りたいことがありました。
姉の姿を騙っていたこと。勝手に記憶を読んでいたこと。
月の出ない日の時なんて、殆ど嘘ばかり話していたこと。
それらがごちゃ混ぜになって言葉にならずに引っかかっては消えていきます。
全てを話すには、きっと凄く時間がかかることだと。そう思いました。
「良かったら、また」
ですから、今のわたしが言わなければならない言葉はたった一つだと思いました。
「『ロミ・ケーキ』にいらっしゃってください」
「え、ええっとそれは……。嬉しいけど、でも私は君に迷惑をかけたわけで……」
照れたようすで顔を逸らしたご主人様に向けて小さく首を振ります。
わたしにとっての幸せは。ご主人様と一緒に居ることなのですから。
「……ありがとう。これからも、よろしくお願いします」
その言葉にわたしは微笑んで−−
「わたしからも−−よろしくお願いします。ご主人様」
−−
「……ちょっとばかり時間を借りていい?」
「は、はい」
ご主人様がお見舞いにいらしてくれた日の晩。
回診に来たリッチのお医者さんが無表情に告げました。
「お客さん」
「この時間に、ですか?」
時計は既に深夜の時間帯をさしていました。
病院の都合上基本的に見舞いに来られる時間というのは昼に限定されているため、こんな時間に人が来るということに、わたしは訝しげな声を上げました。
「うん。貴女の知っている人」
「有澤社長ですか?」
「いや、あの人はああ見えて忙しい。主に部下いじりの方向で」
「……」
「とにかく、お客さん。私は席を外すからしばらく二人きりで話すと良い」
「はあ……」
医者である彼女が、部屋を出るのと入れ替わりで入ってきたのは、女性でした。
灰色を帯びた茶色の髪が見えました。
ご主人様と同じ、大きめの黒の瞳が見えました。
アンデッド系の魔物特有のやや血色の悪い肌が、見えました。
「はじめまして」
「は、はじめまして……」
たしかに、初めて会う相手でした。
しかしわたしは、彼女のことを知っていました。
この病院で行っている研究はネクロマンシー。
だから、ある意味この来客は必然だったと言う事に、今更気がつきました。
「ーー弟と夫が、お世話になったみたいで。ありがとうございます」
そこにいたのは、私の化けていた相手……。
ゾンビとなったご主人様の姉が、わたしに穏やかな表情を向けていました。
「私は、逃げてしまったから。あの人の気持ちからも、弟の気持ちからも、娘の気持ちからも……全部」
「……はい」
「でも、逃げたら……何も出来ないって気づいて。それが死ぬ数秒前の意識で。その未練で生き返って。だけど、別れてしまったあの人や迷惑をかけてしまった弟ににどんな顔で会えば良いのかわからないままここに居座って。また、逃げてしまったの」
すまなそうな、困ったような笑み。
ご主人様が、いつも見ていた表情でした。
いつも逃げてばかりだと、ご主人様がため息をついていたのを思い出しました。
だれも傷つけたくない。
嫌われたくない。
そんな感情が、わたしの中にもあるそんな弱い心が彼女を苛んでいたのが伝わってきました。
「だけどね、貴女が弟を、洋子を護ってくれたって聞いて……私は何やってんだろって思っちゃったの。私が勇気を出して、あの人の元に行けばよかっただけの話だったのに。そうすれば、貴女は傷つかずに済んだのに」
「そう、だったのですか」
「……ねえ、貴女」
「……はい」
「弟の事、洋子のことを……お願いしてもいいかしら」
「随分、自分勝手なんですね」
「……ええ。私でも凄く自分勝手なことを言ってるって分かってるわ」
……随分、身勝手な話でした。
逃げて、押し付けて。
暗に、弟と娘を置いて。あの男と二人で過ごしたいと言っているようなものです。
「分かりました」
しかし、わたしは小さく頷きました。
わたしの思うとおりなら。ご主人様は、きっと彼女を−−。
意識が戻ってから3日がたった朝。レースのカーテン越しに注ぐ日の光で、わたしは目をさましました。
そして覚醒と同時に襲い掛かる下腹部の鈍い感触が不快で、眉をしかめます。
腕に刺さった点滴のおかげか、痛みはあまりないですが、それでも刺されたと言う実感はぞっとするものでした。
「全く、無茶しちゃって。死んだらどうするつもりだったの?」
わたしを担当した医師(卓越したネクロマンサー技術を持つリッチさんです。魔物資本の病院では日々死による離別を克服すべく、また侵略の尖兵を増やすべく女性のアンデッド化が進んでいます)は懐の径箱をかたかたとゆらしながら、意識を取り戻した。わたしの額をこづいてきました。
そうして、数日間のあいだ、私はずっと入院して過ごしていました。
特に趣味といえる趣味もない身なので、ただ、寝て起きて寝て過ごすだけ。引きこもっていた頃となんらかわらない生活です。
「……失礼します」
「はい」
昼過ぎくらいになって、病室のドアがノックされる音が響きます。
看護師の方と一緒に入ってきたのは、私のご主人様でした。
左手には、小さな紙袋が握られていました。
「その、アポイントのとり方とか分からなかったから。直接来たのですが……迷惑だったでしょうか」
「いえ、大丈夫です。暇をもてあましていましたので……こちらこそご心配をかけてすみませんでした」
「しかし、その。傷の原因になってしまったのは身内の不手際ですし……」
「私が飛び込んでしまったばかりに」
ご主人様が頭を下げるのに合わせて。わたしも頭を下げます。
しばらくの間繰り広げられたのは不毛な謝り合戦。
ですが、何となく。
ご主人様と私が似たもの同士な気がして、少しだけ可笑しな気分になりました。
「……これ、見舞いの品です。迷惑じゃなかったら、受け取ってください」
紙袋の中から出てきたのは、フルーツゼリーの箱でした。
「本当は、花にしようかと思っていたけれど。雑菌がついているから衛生面で問題があるって断られた」と、ご主人様は申し訳無さそうに頭を下げていました。
「開けても、いいですか?」
「どうぞ。そのためにもってきたので」
飲食については禁止されていないので、ご主人様に許可を求めつつ箱を開けます。
中に入っていたのは、橙色や桃色、紫色の色鮮やかなゼリーでした。中で果物がふるふると震えています。
精を常食すると言っても、味覚がないわけではありません。ましてやうまれてこのかた捕精剤で身体を満たしてきた身にとっては、ちょっとしたご馳走です。
「その……一緒に食べませんか?」
「え、ええっと。その、貴女に食べてもらうために買ってきたわけで……」
「一緒に、食べたいんです」
箱の中に入っていた透明なプラスチックのスプーンと橙色のゼリーのカップを渡すと、若干おずおずしながらご主人様は受け取ってくれました。
わたしも、それを確認してからスプーンと桃色のゼリーを手に取ります。
「いただきます」
小さく一礼し、透明なフィルムを剥がしてから一口含みます。
甘く、じんわりととろけていくゼラチンの感触に、おもわず小さな笑みが浮かんでしまいました。
ご主人様も、私が食べるのを見てから、ゼリーを口にします。
しばらくの間スプーンを動かす、静かな時間が流れました。
「−−その。ありがとう。そして、すまなかった」
半分以上、ゼリーをおなかに入れた頃でしょうか。
沈黙を破るようにしてご主人様が、ぽつりと呟きました。
「いえ、飛び込んだのはわたしの勝手ですし」
「……いや、そうじゃないんだ」
わたしの言葉を遮るように、ご主人様は首をふりました。
その顔は、うつむき加減だったせいか。よく見えません。
ただ、わたしの言葉を止めるほどの何かが、込められていました。
「今から話すことは……私の勝手な妄想かもしれない。魔物が居て、この世界の女性に化けているものがいるなんて。友人の、ダイムノヴェルみたいな話を真に受けてしまったのだから」
「……」
「だが。私はそれを信じてしまった」
言葉を切ったご主人様が、顔を上げます。
黒い瞳が、わたしの瞳を深く見つめていました。
「今まで『ロミ・ケーキ』で、私なんかの相手をしてくれて。ありがとう。ずっと、私の姉を演じてくれて、ありがとう。……君がずっと、私の相手をしてくれていた。私にはそう思えてならないんだ」
ご主人様は、深く頭を下げました。
その様子を私はただ、見つめることしか出来ませんでした。
否定することも出来ました。
そうすれば、魔物について知られることもなく。ただの妄想で済ますことが可能でした。
ですが、わたしはただ黙ってそれを、聞いていました。
答えないこと。それが肯定という答えになりました。
「……その、もし、ですけれど」
しばしの静寂。
それをもって漸くわたしは口を開くことが出来ました。
何かを喋ろうとするたびに、色々な言葉が引っかかって、
−−もっと、話したいことがありました。
ご主人様のことをもっと知りたかった。いろいろなことを話して欲しかった。
いっしょに楽しい話をしたかった。悲しみを、苦しみを分け合いたかった。
ーーもっと、謝りたいことがありました。
姉の姿を騙っていたこと。勝手に記憶を読んでいたこと。
月の出ない日の時なんて、殆ど嘘ばかり話していたこと。
それらがごちゃ混ぜになって言葉にならずに引っかかっては消えていきます。
全てを話すには、きっと凄く時間がかかることだと。そう思いました。
「良かったら、また」
ですから、今のわたしが言わなければならない言葉はたった一つだと思いました。
「『ロミ・ケーキ』にいらっしゃってください」
「え、ええっとそれは……。嬉しいけど、でも私は君に迷惑をかけたわけで……」
照れたようすで顔を逸らしたご主人様に向けて小さく首を振ります。
わたしにとっての幸せは。ご主人様と一緒に居ることなのですから。
「……ありがとう。これからも、よろしくお願いします」
その言葉にわたしは微笑んで−−
「わたしからも−−よろしくお願いします。ご主人様」
−−
「……ちょっとばかり時間を借りていい?」
「は、はい」
ご主人様がお見舞いにいらしてくれた日の晩。
回診に来たリッチのお医者さんが無表情に告げました。
「お客さん」
「この時間に、ですか?」
時計は既に深夜の時間帯をさしていました。
病院の都合上基本的に見舞いに来られる時間というのは昼に限定されているため、こんな時間に人が来るということに、わたしは訝しげな声を上げました。
「うん。貴女の知っている人」
「有澤社長ですか?」
「いや、あの人はああ見えて忙しい。主に部下いじりの方向で」
「……」
「とにかく、お客さん。私は席を外すからしばらく二人きりで話すと良い」
「はあ……」
医者である彼女が、部屋を出るのと入れ替わりで入ってきたのは、女性でした。
灰色を帯びた茶色の髪が見えました。
ご主人様と同じ、大きめの黒の瞳が見えました。
アンデッド系の魔物特有のやや血色の悪い肌が、見えました。
「はじめまして」
「は、はじめまして……」
たしかに、初めて会う相手でした。
しかしわたしは、彼女のことを知っていました。
この病院で行っている研究はネクロマンシー。
だから、ある意味この来客は必然だったと言う事に、今更気がつきました。
「ーー弟と夫が、お世話になったみたいで。ありがとうございます」
そこにいたのは、私の化けていた相手……。
ゾンビとなったご主人様の姉が、わたしに穏やかな表情を向けていました。
「私は、逃げてしまったから。あの人の気持ちからも、弟の気持ちからも、娘の気持ちからも……全部」
「……はい」
「でも、逃げたら……何も出来ないって気づいて。それが死ぬ数秒前の意識で。その未練で生き返って。だけど、別れてしまったあの人や迷惑をかけてしまった弟ににどんな顔で会えば良いのかわからないままここに居座って。また、逃げてしまったの」
すまなそうな、困ったような笑み。
ご主人様が、いつも見ていた表情でした。
いつも逃げてばかりだと、ご主人様がため息をついていたのを思い出しました。
だれも傷つけたくない。
嫌われたくない。
そんな感情が、わたしの中にもあるそんな弱い心が彼女を苛んでいたのが伝わってきました。
「だけどね、貴女が弟を、洋子を護ってくれたって聞いて……私は何やってんだろって思っちゃったの。私が勇気を出して、あの人の元に行けばよかっただけの話だったのに。そうすれば、貴女は傷つかずに済んだのに」
「そう、だったのですか」
「……ねえ、貴女」
「……はい」
「弟の事、洋子のことを……お願いしてもいいかしら」
「随分、自分勝手なんですね」
「……ええ。私でも凄く自分勝手なことを言ってるって分かってるわ」
……随分、身勝手な話でした。
逃げて、押し付けて。
暗に、弟と娘を置いて。あの男と二人で過ごしたいと言っているようなものです。
「分かりました」
しかし、わたしは小さく頷きました。
わたしの思うとおりなら。ご主人様は、きっと彼女を−−。
16/04/19 16:13更新 / くらげ
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