連載小説
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第11話 別働二人【ストレンジ・ジャーニー】
 「何だいアンタ、外から来たのかい。珍しい、今どき旅人なんて」

 生産に重きを置き、それに伴う労働を第一に据えるゲオルギア連邦において、娯楽の為の場所は少ない。金銭の遊戯は堕落を生むとして賭博は禁じられ、反宗教の気運によって国内に教会の類も無く、多くの人々は日々鬱屈とした感情を溜め込んでいた。

 だが人が集まれば法や官吏の目を盗み、非合法な娯楽の場を作り出す。そしてそうした鬱憤を解消するのに打って付けなのは、今も昔も変わらない。即ち、女と酒だ。

 「お上は山脈を封鎖したって聞いてたが、ありゃデマだったのかねぇ。見たとこアンタ、この国の人間じゃあるめえ」

 ここは酒場。町の角の寂れたボロ家、その地下に続く道を出入り口にした非公認の場所。街の一部の物好きや、郊外の農家が個人的に造った酒を提供する隠れ家だ。営業時間は夜とは限らない。いつどのタイミングで開くかは店主だけが知っている。僅かな常連だけがその情報を共有し、それに合わせて出入りをする。

 だが時たま、一見の者が入り込むこともある。つい今しがた入店したばかりの新顔が一人、身に纏った上着や帽子に付いた雪を払い落とし、丈夫な大木を切り割って作ったカウンターへと寄り掛かった。遠方から来たであろう見知らぬ客人に対し、店主は気さくに話し掛けながらも度数の高い北方ならではの酒で出迎える。

 「んっ……ふぅ。温まる。これは、火酒(ウォッカ)かな?」

 「へー、イイ呑みっぷりだ。よそから来た奴ぁ、たいていこの安モノで潰れちまうんだが」

 「初見の客に駆け付けの一杯で安物を出すのかい? ヒドい店だ、ここは」

 「この程度で潰れちまうようじゃ、ウチの国の酒を味わう資格はねぇさ。好きなモン頼みな。値段は一杯……」

 「いや、ボトルでもらおう」

 懐からすらりと伸びた手の先が何かを弾いた。キィン、という澄んだ音とともに空中に投げ出されたそれは、追う店主の視線を受けながら今まさに飲み干された器へと見事に投入された。覗き込み指先が拾ったそれを見て、店主の目が見開かれる。

 「おいおい、ボトルでだってぇ? 悪い冗談だ、ボトルどころかこの棚のモン全部でも釣り合わねえ! アンタ、こいつが何か知ってて寄越すのか!」

 「何って、金貨だろう。いいよね、金貨。キンキラキンに光るのはほんと、綺麗だね」

 あっけらかんと言ってのけるが、万国共通の最高貨幣である金貨を一介の旅人がほいほいと気軽に使えるものではない。時勢やそれを鋳造した国などにもよるが、それこそ店主の言うように店の売り物を差し出してもまだお釣りを出さなければいけないほどの価値があるのだ。

 しかも、旅人が投げて寄越したのはタダの金貨ではない。

 「こ、こいつぁ!? 公国の刻印じゃあねえか!!」

 「見たことあるんだ」

 「こう見えて昔はケチな商人だった。ああ……間違いねぇ、裏面の剣十字と月の意匠、そして表に彫られた女の横顔は……噂に聞く吸血公爵、アイリス姫だ。若い頃にちらと見た程度だったが、まだこの幻の金貨が流通してたのか」

 「有名だね、公爵閣下さまは。良いよ店主、安酒のお代に受け取ってくれたまえ」

 金融業で栄えた大陸の金庫番ことサンミゲル公国、そこで鋳造された金貨は最も質が良いとされる。ますますもって根無し草が懐に忍ばせているものではない。

 「…………アンタ、ただの旅人じゃあるまい? 一体……」

 「こ、ここに、いいい……いたのか」

 店主の追及を遮って二人目の客が現れる。長くここで違法酒場を経営している店主だが、いつの間に入り込んだこの二人目にはその奇怪な出で立ちに不快さを隠し切れない。

 「さ、ささ探したぞ……“ビー”」

 「やあ、“カルロ”。君があまりにもノロマだったので、先にお邪魔させてもらっているよ。まずは一杯どうかな。聞けばこの国独特の歓迎らしいよ」

 ビーと呼ばれた青年が厚着からも見て取れるスラリと伸びた背丈に対し、カルロなるこの男はただ奇怪。まずその体躯が妙だ。吃音がひどくて聞き取り辛いが、声からして恐らく年齢は店主よりは若い。にも関わらず、大きく湾曲した背は肉体が何某かの障害を抱えていることを示し、頭は大きく垂れ下がり視線は股座を向いているのではと思わせるほど。そんな背中にこれまた大きな荷物を背負い、左手には体重を支えるための杖が握られているせいで、一歩動く度にゴトゴトと騒音をまき散らし不快感を煽る。カルロなる男はビーから差し出された器を寒さで震える手で受け取り、大した確認もせずに一気に呷る。

 「ん、む……ぐ!? ぶぼ……っ!!?」

 「アッハハハハ! 火酒をそんな勢いで飲むものではないよ。カルロ、君はそんな強い人間じゃあないだろう」

 「げほっ、ぅえっほ……!! ひ、ひひひ人が、わっ悪いぞ、ビー」

 ビーは事もなげに飲み干した火酒だが、カルロには刺激が強すぎた。口に含み喉に流し込んだ瞬間に大きく咽返り、その拍子に胃の中身まで少しばかり吐き出す。イタズラの張本人はケラケラと笑っているが、店側としてはたまったものではない。

 「アンタら、ここを路地裏の掃き溜めかなんかと勘違いしてんのかい。上客だと思ってたんだが、あんまふざけるようなら……」

 「悪かったよ、店主。ところで訊ねたいんだが、この辺りに宿は無いかな?」

 「宿だぁ? んな上等なモンが交易路からも遠いこんな寂れた所にあると思うかい。まともな宿を取りたけりゃ、それこそ首都にでも行きな」

 「つまり、『まとも』でなければ候補はあると」

 「候補というかだな、まあウチのことだ。上の商店を改装して今はちょいとした寝泊まりの場にしている」

 「手広くやっている。いいだろう、では私達で一泊……」

 「お、おお、おい! ビー、まま待て!」

 とんとん拍子に進みかけていた話に待ったを掛けたのは、それまで押し黙っていたカルロだった。ひどい吃音だがハッキリとした声にビーも彼に向き直る。

 「何だい? 長旅で疲れているだろう、少し早いがここで休める場所を確保しておこうと思ってね」

 「き、ききょ拒否する。さっさ先を、いい急ぐべき……休んでいいいる、暇は、ななっない」

 二人は当然観光や交易でここを訪れたわけではない。相応の理由があってこの地を訪れ、そしてそれは急を要するものだった。いざとなれば野宿の用意もあるし、実際ここまでの道程ではそのように過ごしてきた。目的地が目前の今、多少無理をしてでも先を行くことをカルロは優先している。

 だが、相方のビーの方も、はいそうですかとはいかない。

 「カルロ、君が勤勉で労働意欲に溢れた人間なのは分かっているよ。でも、よくよく考えてほしい。同じ一夜を過ごすのでも、寒空の下の野宿と雨風を凌げる一泊、君はどちらが好みかな?」

 「こ、こ好みとか、好ききき嫌いの話じゃ、なない。時間の話、急いだ方がい、イイということ。よ、夜を徹して行けば、ああ明日の朝には……」

 「そいつはお勧めできねえな。今夜から明け方にかけて、山から降りる風が吹雪を運んでくる。この町ぁ、ちょうどその通り道よ。山中ほどじゃねえにしてもだ、雪がビュウビュウの中を夜通し歩くのは酷だぜ」

 「つまり、どの道足止めは食うわけだ。それなら……より『快適』な方がイイだろう?」

 「む、むむぅ……」

 言い負かされ丸め込まれてしまったカルロは押し黙るしかない。帽子の鍔の奥でビーは微笑み、商談が成立した店主が棚の奥から鍵を取り出す。

 「飯も風呂もないが、それで良けりゃ好きに使え」

 「助かる。お代は幾らかな?」

 「結構だ。もう充分すぎるほどもらってる。ついでに棚から好きな酒を持って行きな」

 店主の手にはビーが支払った金貨が握られており、代わりに放り投げて寄越した鍵をビーが受け取る。

 「さ、行こうか。カルロ」

 「わ、分かった」

 部屋へと続く階段を先行するビーに対し、観念したような重い足取りでカルロも続く。木造りの段差を踏み締めるごとに階段の軋み、布擦れ、背負った荷物の音の混声合唱が階段の狭い空間に鳴り響く。常人なら不快に思うそれらの音を受けながら、それでもビーは陽気に微笑む。

 まるで、この先に面白い玩具がある事を知っている子供のように。それで早く遊びたいとでも言うように。

 やがて二人は鍵を使って部屋に入り、それぞれの場所に荷物を置く。

 「思っていたより綺麗だ。うん、安心した」

 部屋は簡素な造りだった。燭台も無ければクローゼットもなく、小さなベッドは身を縮こまらせても大の大人が二人で休むには小さかった。然もありなん、個人が経営する宿泊施設などそんなものだろう。幸いにも窓やドアの立て付けは悪くないので、隙間風に震えながら休む羽目にはならないようだ。

 「でも少し寒いかな」

 「ま、待っていろ。すす、すぐに……」

 カルロが背負っていた荷物は雑嚢とは違い、木を加工して造られた箱のようなものだった。取っ手や蓋がいくつもあり、それらのどこに何が入れられているかはカルロと、これを「作った」者だけが知っている。彼はその中から封がされた小さな瓶と太い紐、そして火打石を取り出し、封を解いた瓶の中に紐を通し、しばらくしてからその先端に火打石で火を灯した。細やかではあるが無いよりはマシ。これで少しは部屋も温まるだろう。

 「まるでビックリ箱だ。カルロの箱には何でも入っているんだね」

 「ななな何でもは、ない。あるものしか、なななない」

 「いつか覗いてみたいね」

 「や、ややめろ! ひひ、人が無闇に、てててを触れては、いけないっ」

 「なら私は『半分』だからイイってことだ」

 「そういう、意味じゃ、ないっ」

 「フフフ。ああ、すごい! 本当に暖かくなってきた。やっぱりカルロは頼りになる」

 室温の上昇に伴い上着を脱いだビーは、それを事もあろうにカルロの荷物の上に被さる様に捨てた。当然彼としては先ほどから自儘なビーの行動に流石に苛立ち、屈んだ腰を精一杯に上げて相方を睨み付ける。

 しかし、それこそがビーの狙いとは露知らず。

 「ん……」

 「ぐ、ぅ!?!?」

 顔を上げたカルロと、それに合わせて身を屈めたビーの、互いの距離がゼロになった。粘膜同士が触れ合う湿った音が一瞬だけ部屋を満たし、そして一瞬だけだった。

 「な、なななななんな、何をするっ!」

 「何って、まあほら、その……ナニだよ。いい加減に“溜まってる”んだ。君も、そして私もね」

 「ビー……!」

 「いいや、違う、違うよカルロ。教えたはずだ。二人っきりの時は?」

 「…………ベ、“ベアトリス”」

 厚着をやめて露になったビー……いや、ベアトリスの姿。短く整えられながらもサラリと流れる金髪に、研磨された紅玉を思わせる瞳。そして豊満だが肥えてはおらず、引き締まりながらも痩せぎすではない、見る者全ての羨望と獣欲の視線を集めずにはいられない肉体の持ち主がそこにいた。

 ビーはベアトリスの略称、つまりは女。男装の麗人、と言えるほどの異装ではなかったが、耐寒の為の厚着が体つきを隠し本人の話口調も堂々とした勇ましさ、さらには紛らわしいその名前に初見の店主はすっかり男二人だと思っていたようだ。もっとも、当の本人に隠しているつもりは微塵も無かったのだが。

 「なあ、良いだろう? カルロ。五日、五日だ! 想い合う男女が触れ合わずにいた期間としては長すぎる……そうは思わないか?」

 「ま、待て! かかか勘違いするな!」

 「勘違い? 何が? どこが? 少なくとも私が君を想っていることは、私自身が良く理解しているよ。この胸の高鳴りがその証さ。対する君はどうかな、カルロ」

 細くしなやかな指先が、歪んだ下男の纏う布を引き剥がしていく。決して乱暴ではないが、力強いその動きはこれから起こる事は何をもっても変えられないと暗示しているようだった。

 「ベア、ベアトリス!」

 そしてそれが暗示ではすまないということを、カルロは身を以て知っている。

 「私は知っている。君の雄々しさを、力強さを、私は全部知っている。私の唇も、乳房も、そして……フフ、『ここ』も全部君が最初に手を付けてくれたんだから」

 蠱惑的に微笑みながら自らの雌の部位を撫で上げる仕草は世の男の理性を削り、それはカルロも例外ではない。今までと同じだ。これまでに何度も二人はこのやり取りをし、そしていつも決まった結末に落ち着く。

 「じゃあ、ベッドに行こうか」

 耳元の囁きが決定打となった。もうカルロは逆らえない。惑い揺れ動く指を優しく取り、ベアトリスが寝台へと導いていく。

 微笑む顔、その口元から見える犬歯は人間のそれと比べて長く鋭く……それはまさしく「牙」であった。





 ダンピール、あるいはダムピール。それがこのベアトリスの種族。ヴァンパイアと人間の混血種であり、吸血鬼の血を引きながらヒトとしての特徴を色濃く残す変わり種の魔物娘だ。

 「あぁっ、そう、そうだよ……! カルロ、カルロぉっ!!」

 彼女らは黙ってさえいれば普通の人間と変わりない。淫蕩さを多分に含み、男との交わりが行動原理にある他の魔物娘とも違って、思考も言動も人間と大差ない。だから普通に友人や知己として付き合う分には何の支障も感じさせない。

 だがどれだけヒトに近かろうと魔物は魔物、その裡には常とは異なる熱量が秘められている。

 「もっと……もっとぉ! んあっ!?」

 日もまだ沈み切らぬ時間帯、窓から微かに差し込む薄明かりが照らすベッドの上で、二人の男女が交わり合う。一人は美女、由緒正しき吸血貴族の血統を受け継ぎし美貌の持ち主。古い寝台がギチギチと立てる音に合わせて髪と肌は揺れ動き、滲み出た汗が飛び散る度に果実を思わせる甘い香りが充ちる。偉丈夫を思わせた堂々たる振る舞いも今は昔、母親譲りの美貌を色情と快楽に甘く歪ませ、体内を流れる淫猥な血のなせるままにダンピール・ベアトリスは愛しい男の責めを甘受する。

 問題は、その男の方だ。

 「カルロッ……! ああっ、カルロぉぉ!!」

 寝台の上でベアトリスを押し倒し、組み伏せるのは当然相方のカルロ以外にはない。だがもし嬌声に誘われた何者かがドアの隙間、あるいは窓の方からこの部屋を覗き見た時、不埒な出歯亀は己の行為の成果に落胆しただろう。

 露になった皮膚は薄汚れ所々にシミが目立ち、脱ぎ捨てたボロボロの衣服をそのまま皮膚に張り付けたような煤けた色合い。押し倒すベアトリスの胸や腰に触れる手の指先は、地中深くに埋まった木の根を思わせるほど歪に捻じ曲がり、快楽どころか恐怖と不快を与えるような手付き。特徴的だった大きく屈んだ背中からは今にも突き破りそうにクッキリと背骨が浮かび上がり、辛うじて人型を保った肉塊が女の上に覆い被さる様は巨大な虫が餌に群がるような醜悪さでしかない。

 そして極め付けは、その顔だった。

 醜い。ただただ、醜い。

 絵にも描けない、二目と見れない、などとは良く言ったもの。目は左右で違う方向を向き、鼻は曲がり耳は潰れ、半開きになった口からはまるで小石を適当に並べたようなガタガタの歯並びが覗く。一度人の顔に整えた粘土細工に棍棒を振り落としたような、醜悪という言葉も陳腐に落ちる顔面。目を背け思わず口元を覆うであろうそんな輩が、餌を貪る豚の思わせるように息を荒くし、大きく湾曲した体が前後に激しく動く度に不揃いな歯の間から涎を垂れ流す、まさにこの世の悍ましさを一身に集め凝縮し、人型をなせばこのようなモノが出来上がるのだろうという見本。

 だが、そんな事実は当の組み伏せられたベアトリスには全く意味を成さない。

 「カルロッ、ほら、カルロ! キスを……」

 醜悪な怪物が魅惑の肢体を貪る図、ではない。肉欲のままに相手を意のままにすることをそう呼ぶなら、この場合はベアトリスがそれを行う者だ。醜い野獣が美女を喰らっているように見えて、その実は一貫してペースを握っているのは女の方なのだ。美醜など端から問題視していない。ヒトが決めた何の根拠もない配偶条件など、ヒトの血を引きながらヒトならざる彼女には意味など無いから。

 胸をくすぐる睦言も、甘く蕩ける接吻も、肉の交わりでさえも、ベアトリスがもたらす全ての快と悦は、対極に全ての醜さを掻き集めたこのカルロという男のためだけに振舞われるのだ。

 「ぐっ……ベ、ア……ト」

 「あっ! 何だい……っ? はは、もう達してしまうのか? あ、っは。イイよ! おいで、ガマンなんてしなくていい」

 自らの内を抉る男の変調を逐一もらさず、ベアトリスは全てを受け入れる。それまでずっとダンマリを決め込んでいたカルロの動きが加速し、自らを解き放つ最終地点まで一気に駆け上がる。

 「そ、そうっ、そうだよッ! キて、ほしい……っ。あああ……! あ、ああああああっ!」

 この世で最も醜い男の下で美女もまた高みへと昇り詰めようとしていた。母親から受け継いだ両の目は喜悦に爛々と妖しい光を灯し、紅潮した肌の照りがそれを証明する。

 そこから先は「いつも」と同じだ。カルロの鼻息の間隔が規則的に短くなり、内に抱えた熱の昂ぶりが最高潮を迎えるのに十秒と掛からない。

 「イク……イってしまう……あ、ああああっ!!」

 そして、同時に二人は絶頂へと達した。大いなる虚脱感を味わいながらカルロは倒れ、自分の内側にじわりと熱が広がるのを覚えながらベアトリスはそれを受け止める。密着し合った互いの体からは堰を切ったように汗が噴き出し、滲み出た体液の饐えた匂いと合わさって何とも言えない香りが二人の鼻腔を満たす。

 「いつも」と同じ。何もかもが同じで、何も変わらない二人の儀式が今日も終わった。

 「はぁ、はぁ。ねえ、喉が渇いたよ」

 「……ん」

 「ああ、ありがとう。んっ……んっ……はっ。君も飲むかい?」

 「い、いらない」

 最初に店主から買った酒瓶を手に取って渡す。激しい運動の後に飲む物ではないが、彼女にとってはそれこそ水と大差ない。上体を起こすと器に注ぎもせず直接口をつけるその姿に、付き合いの長いカルロも流石に閉口していた。

 「あ、あ明日は日の出と、いいい一緒に出る。はっ早いが、もう休もう」

 「もう? 夜は長いよ。せっかくこうして閨を伴にできるというのにね。散々『おあずけ』しておいて、まさかこの程度で終わらせようなんて……そんな酷なこと、考えていないだろう?」

 細い指先、その刈り揃えられた爪の先端がカルロの肌を掻く。つぅ、と人差し指が唇から喉元、肩を通り胸板の乳頭付近をいじらしく弄ぶとカルロが身を捩る。もっと、もっとと、男を捕らえて離さぬ魔性の誘い。然もありなん、彼女こそはダンピール。半血という特徴そのままに魔物の一種族として確立されているその意味、それこそは彼女らの価値や行動原理ではなく、在り方それ自体がヒトではない証左。

 「さあ、続きをしよう」

 「…………」

 「愛しているよ、カルロ」

 「っっ! や、やめて、くれっ!!」

 ベアトリスの誘いを如何なる理由、あるいは強靭な意志によってか、カルロはそれを断った。ずんぐりと湾曲した体を起こすと、きょとんとしたままのベアトリスには目もくれず、もう体温が抜けて冷たくなった衣服を身に纏っていく。

 「みみ店の主人にっ、街までのみみみ道を、っ聞いてくる」

 振り返ることなく素っ気なく振る舞うカルロを、ベアトリスは見送るだけだ。これも「いつも」のこと。彼は決して自分からは求めない。求めるのはいつだってベアトリスの方で、カルロはそれに応える形でしかない。義務感でそうさせているに過ぎなかった。

 「きき、きみの好意は、僕には重い」

 閉じられる寸前のドアからカルロの声だけが通る。

 「めめ、迷惑っなんだよ……“ビー”」

 突き放す物言いのままにカルロは部屋を出ていった。後に残されたのはベアトリスと、扉を閉める瞬間の風で少し炎を揺らしたランプだけ。情を交わした男女の部屋としては寂しささえ感じさせる。

 「嫌われてしまったか。まあ、いい。いつものこと」

 そうなのだ。「いつも」のこと。「いつも」のように彼を振り回し、「いつも」のように彼を求め、そして「いつも」彼の機嫌を損ねて終わる。

 だがそれでいい。何だかんだと最後には自分のところへ来てくれると分かっているから。何も寂しくはないし、悲観することでもない。

 ただ……

 「いつになったら、君は心を開いてくれるのかな?」

 ほんの少しだけ……物足りなさを覚える。





 北極圏にほど近い連邦では日が傾いてから夜が訪れるのが早い。石ころが坂を転げ落ちる速度で日が沈み、あっという間に周囲は暗闇に包まれる。そして暗くなると同時に山肌を降る寒風が容赦なく平野に流れ込み、夜間から明け方にかけて多くの雪を降り積もらせるのだ。

 当たり前だが、この土地では夜間の外出、あるいは長距離の移動は比喩ではなく命取りになる。

 「来た……」

 だが人間以外であればこうして厳しい環境下でも行動できる。遠方より飛来する一羽の鳥がそれだ。

 遠見眼鏡でそれを発見したカルロは振り上げる杖の動きで位置を知らせる。するとそれを発見した鳥は急降下し、彼の特徴的な背中の頂に脚を下ろした。タカかワシか、それともトビか、重要なのはこの鳥の種類ではない。これを遣いに寄越した者との接触のためにカルロは風が吹き始めた外へとやってきたのだ。

 「『首尾はどうであるか』」

 人の声がする。発生源は今まさに背中に留まった鳥の嘴で、この鳥が魔術師の放った使い魔であることが見て取れる。

 「と、滞りなくっ。無事に、予定通りっ、です」

 「『珍しいこともあったものである。鈍足な貴様の足で予定通りに事が運ぶとはな』」

 「ははははい!」

 「『まあ良い。何はともあれ、貴様で最後である。明日には我輩らも現地の抵抗勢力と合流し、指定の地点で貴様らを順次拾っていく手筈になっている』」

 「『安心するのである。戦いなど、貴様にそんな大それたことは望まぬ。今回の貴様はただの運び手、ただ黙して我輩らの強行軍を手助けすればそれで良い』」

 「そっ、れは、もう。分かって、ます」

 「『預けておいた例の物は?』」

 「だ、大丈夫……です。一番『奥』に、ふふ封じて、ありますっ」

 「『ならば良し。合流する際には追って伝える。遅れるなよ? 一番先に辿り着いた“J”はもう半年も待ちぼうけだそうである』」

 「かっかか、必ず!」

 「『さらば』」

 定時連絡、という名の釘刺し。仲間内で肉体に障害を抱えているのはカルロただ一人、後は全員五体満足だ。そうした事への負い目もあってか、隙間だらけの歯の間から出た溜息が白く凍って空に消えた。

 「はぁ」

 憂鬱だ。辿り着けるかどうか、ではない。今回の件で今しがた報告できなかった事柄が一つだけあり、それを隠し立てしてしまっていること、それがどう足掻いても明るみに出てしまうことが分かっているからこそ憂鬱なのだ。

 憂鬱だ。とにもかくにも、カルロは憂鬱な感情に埋め尽くされていた。正直なところ、部屋に戻る事さえ億劫だった。何故なら部屋には彼女がいるのだから。

 カルロとベアトリスの付き合いはそこそこ長い。だが親しいかどうかと聞かれたなら、「別にそれほどでも」とカルロは答えただろう。カルロは自分の醜悪さを充分以上に理解している為、男女を問わず避けられることはもちろん、彼自身もそういった付き合いを極力避け続けてきた。生きていく上で少数の相手と少ない言葉を交わしはすれど、それこそ親友や気の置けない間柄、ましてや肉体関係を持つまでに至るなど欠片も考えてはいなかった。年に何回か顔を合わせても所詮そこまで、カルロにとってベアトリスは悪く言えば有象無象ほどの扱いでしかなかったはずだった。

 だからこそ、ある日を境に彼女が自分に女として迫って来た時は、驚きよりも困惑があった。

 (いったい、何を考えているのか……)

 それは時折言動が魔物に傾く彼女に対しての呆れか、あるいはなし崩し的に関係を持ってしまった己の頼り無さへの自嘲か。一度でも魔物と関係を持ってしまった以上、その末路は決まったようなものだ。彼女の「放蕩癖」は自分だけでなく関係者全員が諦めていることだが、あれはあれで人を見る目は養っている。そのお眼鏡に適ったことは余人にしてみれば幸運、否さ光栄なことなのだろうが……。

 (ナンセンス、だ)

 少なくともカルロにとっては違う。突き放した物言いも今に始まったことではなく、はっきりと迷惑と言ったことも一度や二度ではない。「経緯不明の好意」を向けられて手放しで喜ぶほどカルロは彼女のことを信頼できていないし、これが同じ人間なら新手の詐欺か何かと腹も括れたが、その疑惑も彼女の種族が煙に巻いてしまうので余計に分からない。

 (よそう……考えても、しょうがない)

 分からないなら、それでいいじゃないか。無理に「分かろう」として痛い目を見るのは、もう懲りただろう?

 そんな憂鬱と諦観が一緒くたに入り混じった感情を抱えたまま部屋への帰路につく。とりあえず、掛けられる全ての言葉を無視して眠るとしよう。さすがの彼女も寝た子を起こすほど無粋な真似はしないだろうから。

 ふと、気付く。

 「か、風が……消えた」

 あれだけ吹き荒んでいた寒風が凪いだ。それは時間にして二、三秒ほどだったが、確かに風が吹き止んで周囲は一切の静寂に包まれていた。厳しい自然がほんの刹那の瞬間にだけ見せる素のままの世界を目の当たりにする。

 カルロは自らが目撃したその光景に、どこか不気味なものを感じていた。





 「…………カルロ、気付いているかな?」

 浅い眠りを起こすのはベアトリスの呼び声。決して大声ではなかったが、わざわざ耳元で息を吹きかけられれば嫌でも目覚めてしまう。

 「なっ、なんだ!?」

 「しぃー……。静かに、カルロ。どうか静かに」

 開いた視界のすぐ前にベアトリスの顔があったことに驚きの声を上げるが、すぐにそれを小指を当てられ「静かに」のジェスチャー。その顔がいつになく真剣そのものだったので、カルロも黙って耳を澄ませた。

 「…………」

 「分かるかな?」

 「あ足音……ぜっ、全部で五人……全員、お、男」

 訓練で鍛えた聴覚が建物の周囲を取り囲む気配を察知する。時刻は未明、まだ地平線に夜明けの兆しも見えない頃。来客にしては不自然で、仮にそうだとしてもこんな早くから訪れるようなものではない。何やら厄介事の種に思える。

 「……叩いた。意外だね」

 気配が店の前に移動し、程なくして戸を叩く音がここまで届く。叩き起こされる店主の気配も壁越しに感じ、それが玄関口まで移動する。物々しい雰囲気を感じながらも二人は極力気配を消し、事の成り行きを静観する腹積もりだった。

 戸が開けられると同時に建物の周りを囲むように配置していた他の者らも続々と集い、何やら言い争う声が聞こえ……。



 銃声が闇夜を切り裂いた。



 耳をつんざく轟音の後、迅速に動こうとしたのはカルロの方だった。「このような事態」を想定していなかった訳ではない、むしろこの国に入る以前からその事について警戒はしていた。まさか入ってすぐにその洗礼を受けるとは。取り敢えず厄介事に関わる気は無いので、事前に確認してあった裏口への最短ルートを目指す。

 近くにいた相方にもその意思は伝わっているだろうと、先んじての行動だったが。

 直後に聞こえた窓を開け放つ音が全てを台無しにしたと気付く。

 「っ、ビー!!」

 声は届いていない。豪快に開かれた窓と、そこから流れ込む冷気に乗って彼女の残り香だけが、彼女がどんな行動に出たかを容易に想像させた。

 「あ、あのっ……馬鹿!?」

 すぐさま予定を変更してカルロも後を追う。不具の身では限られているが、それでも悠長にしている暇は無い。どうにかこうにか窓をよじ登り外へ転がり出ると、半ば這いずる様に騒動のあった場所へと駆け付けた。

 そこで目にしたのは……。

 「何者だ! どこから現れた!!」

 暗がりでも分かる。事前に察知した五人の男はそれぞれが武装、しかも銃を装備しており、つい今しがた聞こえた銃声はその誰かが放ったものだった。だが押込み強盗の類ではない。少数とは言え野盗風情が銃など持てるはずが無い。

 だが五人の男らの意識はカルロよりも、その直前に現れたベアトリスの方に注がれていた。

 「店主!? 店主、しっかりしろ!」

 誰が撃たれたかなんて想像を働かせるまでもなかったことだ。戸口に寄り掛かるの店主の腹からはダクダクと鮮血が溢れ出し、瀕死の彼に駆け付けたベアトリスが必死に呼び掛けていた。もう既にその周囲には血溜まりが出来上がり、どうあっても助からないのは素人目にも明らかだ。

 「その男は内通者として外患を招いた疑いがある。庇い立てするならお前たちもこの場で処分する」

 「さ、逆らうんじゃ、ねえ……。こいつらぁ、秘密警察……軍の狗だ。しょっ引かれるだけじゃぁ……すまねえぞ」

 死に体の店主の警告も聞かず、憤怒の気炎を上げるベアトリスが立ち上がる。

 「お前達に……恥は無いのか。銃後に置くべき無辜の民を、あろうことかその先端に立たせた挙句、疑いだけでそれを撃つなど……!」

 ベアトリスは貴き血を受け継ぐ者だ。持てる者の責務、ノブレス・オブリージュは生きる上での規範であり、それは生家から出奔している現在でも変わりない。民草とは守護の対象であり決して弾圧してはならない。仮にそれが罪を犯す者ならば、それに見合った罰を与え更生の機会とすべきと心得ている。断じてこのように虐げるものではない。

 「北の国は平等と公正を掲げ、今最も先進的な人々の住まう地だと私は聞いていた。なのに、これはどうしたことか。その平等に愛はなく、その公正に正義はない!」

 「貴様! 連邦の体制批判とはいい度胸だ! 反逆罪に問うぞ!」

 「独裁、寡頭政治、大いに結構!! それが最終的に民草の益になるのなら如何様にもするがいい。だがお前達が傷を負わせたこの御仁には一宿の恩義がある。故に……」

 ベアトリスの体から魔力が噴き上がり、周囲を圧する。

 「ここで私が誅する。覚悟するといい」

 啖呵を切って対峙するベアトリス。だがそれと対照的に置いてけぼりを喰らったカルロは過酷な展開とその早さに頭を抱えた。穏便に済ませたかったが、事ここに至ってはもはやどうしようもない。情事と同じで、一度火が付いた彼女を止めることは出来ないのだから。

 なら自分のやるべきことも理解している。

 「ベアトリスッ!!!」

 カルロの背負う荷物、いくつもの引き出しを設けたその匣を乱暴に地面に置き、杖の先がその側面を叩いた。重厚な木同士のぶつかり合う乾いた音の後、引き出しの一つが内側から弾けるように開き、中身を射出した。取り出し、ではなく「射出」。そう表現するのが最も適切で、飛び出した物体は計算され尽くした軌道で男達の間をすり抜け飛翔し、ベアトリスの両手に収まった。

 それは双剣。天候が悪く月の光など無いにも関わらず、使い手であるベアトリスの魔力を受けて銀色の輝きを揺らめかせるそれは、刃が全て高純度の魔界銀を鍛えて造られていることを意味していた。

 「貴様ぁっ、魔物だったのか!!?」

 「至急、委員会へ報告を!! 伝令鷹を!!」

 ベアトリスから一番離れた場所にいた一人が駆け出した。

 「いい、かせない!」

 「何だ、貴様……うおおお!?」

 それを見て再びカルロの杖が唸りを上げる。匣を叩くと先とは別の引き出しが開き、中から紐状の物体が飛び出し絡みついた。それらは生きた蛇にも似た動きで纏わり、足掻けば足掻くほどその四肢をきつく締めあげ束縛する。

 「よくやったよ、カルロ! 後で沢山ほめてあげよう!」

 孤立無援が確定し浮足立つ彼らを、待ってましたと言わんばかりにベアトリスが狩り尽くす。無論、殺しはしない。魔界銀を加工した武器は肉体を一切傷付けず、刃はまるで水を通るようにすり抜けるだけ。だが刀身を通じて濃厚な異種の魔力を流し込まれた彼らの肉体からは自由が奪われ、次々と再起不能にさせられるだろう。

 「こ、のおおっ!!」

 「遅い!」

 ベアトリスの剣技は戦闘というよりは舞いに近い。常人には決して届かぬ速度で駆け出す彼女は一瞬で男達の懐に入り、途切れず流れる軌道はその脇腹に、胸に、首に刃を走らせていく。更にそこから接近すると右足を軸に一回転、両手の刃は脇に立ち塞がっていた二人を同時に斬る。

 これで一気に三人始末した。瞬く間に五人の敵は最後の一人へと追い詰められた。

 「ば、化け物めえ……!」

 「私は寛大だ。化け物扱いは不問にしよう」

 悠然と足を進める彼女に圧されて隊長格だった男は思わず後退する。口調はどこまでも穏やかで優しげだが、そこには隠しても隠し切れない憤怒がある。

 「だが、最初にお前は何て言ったか覚えているかな。もう一度聞かせてもらえると助かる。私は生け捕りにして? うん、うん…………男は殺す?」

 逆鱗というのは誰にでもあるという話。哀れこの男はベアトリスのそれに触れてしまったが故に、許される事はない。

 さくり、と刃が眉間を貫く。銀を通して沁みる魔力が脳髄とそこに収まる精神を侵し、男は気絶し新雪に倒れた。時間にして二分と経たずに秘密警察の者らは制圧、戦闘とも呼べぬ一方的なやり取りがこうして幕を閉じた。

 「ふぅ。終わったよ、カルロ。すまないが、急いで店主を……」

 「ベアトリスッ、よけろぉーーーッッ!!!」

 カルロの大声に目を見開いたベアトリスが見たのは……。

 「死ね、化け物めぇ……!」

 最初にカルロが動きを止めた男。その手に握られた銃の先端が、今まさに自分の頭部を狙っていた。

 轟く二度目の銃声。

 大地に倒れるベアトリス。

 最悪の光景にカルロが言葉を失い立ち尽くす。

 「あああ……!」

 「ハッ、ハハハ! ざまあ見ろ、化け物が! アハ、ハハハハハハ!」

 「少し静かにしてくれ」

 「アハ、は……!?」

 銀色一閃、投擲された刃に貫かれ男は間抜けな顔のまま沈黙した。銃弾は回避行動で倒れたベアトリスの髪を僅かに削っただけで、店の壁、石と木で出来たそれを貫通して室内に到達していた。

 「お、お前は、油断、ししし、しすぎだ」

 「申し訳ない。だがお小言は後にしてくれ。今は店主の方を……」

 「や、やめておけ。そいつは、もう……」

 辛うじて息はあったが、所詮それは「辛うじて」というだけのこと。店主の体はとっくに冷たくなり、体温調節もままならぬほど多くの血を失っているのは明らか。そして、ただの人間がそんな状態に陥ればもうどう頑張っても命の保証はない。

 「へ、へへ……精々、店の酒を、没収されるだけ…………と、思ってたんだが」

 店主の手は難く握られており、ベアトリスがそれを開くと中から見覚えのある物が出て来た。

 「これは、私が支払った……」

 「ドジ、踏んだぜぇ……。今のご時世で、こんなん持ってちゃ……はは、外国の手先と思われても、しかたないか」

 血に塗れながら金色に輝くのは、酒代としてベアトリスが渡した金貨だった。遠く南のサンミゲル公国で発行された貨幣。それは決してこの国では流通していない、そしてするはずがない代物だった。

 最初は違法な酒場が経営されているという情報で動いていた秘密警察は、身体検査の折にこれを発見したのだろう。店主が外国の勢力と繋がっており、これはその情報のやり取りの報酬で貰い受けた物だと判断、そして彼がスパイと断定した。

 「私の、浅はかな行為で!」

 「いい、ってことよ……。アンタは品物を買って……こっちは、お代をもらった。釣銭返せねえのが、癪だが…………それで、アンタが負い目を覚える事ぁ、ねえよ」

 「店主……」

 「それに、掛かった疑惑ってのも……あながち間違いじゃあ、ねえしなぁ。なあ……アンタら、タダの旅人じゃあ……ねえん、だろ?」

 火酒を飲み干した時と同じ質問。あの時はカルロの合流でそのまま流れたが……。

 「…………私たちは、山脈を越え南に位置するレスカティエ教国の密命を受け、この国の体制を破壊する為に遣わされた者だ」

 「……はっ……はは、そいつぁ……ご大層なこって」

 予想を越える答えに瀕死の店主も驚きに目を開いた。秘密をばらしてしまった事にカルロは三度頭を抱えたが、ベアトリスはそんな彼の様子など知りもしない。

 「…………確かに、昔はこんなんじゃ、なかった。商人の端くれだった頃ぁ……山の向こうに行って、色んなモンを見て、夢持って暮らしてたぁ。でも……でも、よぉ…………今の若ぇ奴らぁ、外の国のことなんざ、誰に聞いたって知らねえんだ。行ったことが、ねえんだとよ」

 「連邦は山脈を越えた国々との交易を断っている。単に移動することも許していない」

 「らしい、なぁ……。あの時、見ていた夢は……この国が最初に見ていた、自由って夢は……どこに消えちまったんだろうなぁ」

 目は焦点が定まらず口は半開き、喋る言葉は吐く息と一緒に力なく漏れ出る。もう長くない、次の瞬間に事切れたとしてもおかしくない。

 「なあ、アンタら…………いつか、この国は……変われるのか……? こんなシケたとこで……コソコソせず、皆と酒を酌み交わせる…………そんな世の中に……」

 「ああ、必ず」

 強く手を握り頷き返す。もうその姿さえ見えていないだろう店主は、微かに微笑み……。

 「そいつぁ…………夢みてぇ、だ……」

 それが最期の言葉だった。項垂れた頭につられて手からも力が抜け、もう握り返すこともしない。その口が言葉を発することはなく、その目が開かれることも二度とない。

 「死んだ、か」

 「ああ……亡くなったよ」

 秘密警察の連中をまとめて縛っていたカルロの声に、ベアトリスの意識も現実に引き戻される。そう、これが現実。今日、世間話に興じた相手も、明日には命を落とす。その土地に生きる人々は国家を成り立たせる装置、歯車に過ぎず、正常に動かなければいとも容易く処分する。

 「これが、北の実状だというのか」

 「そそ、そうだ。この国はっ、人と、ひ人とも思わない」

 「…………カルロ、先を急ごう。一日、一刻でも早くこの国の歪みを正さねばならない」

 双剣を鞘に納めながらベアトリスは立つ。その瞳は義憤に満ち、その口元はこみ上げる哀しみを堪えて唇を噛み締めていた。

 「……よ、予定の地点までっ、二日はかかる」

 「長いな」

 「休みなく、いい行けば、丸一日だ」

 「負担は掛けさせない。適度に休んで、適度に急ぐとするよ。だがその前に……」

 取り出すのは二つの器と、ここへ来た時に店主から買い取った酒瓶。かつてこの国では誰もが愛飲していた穀物から蒸留したそれを、静かに器に注ぎ、意図を理解したカルロも黙ってそれを受け取った。

 僅かに顔の高さまで掲げた後、示し合わせたように一気に呷る。最初に含んだ時と同じように焼ける熱さを覚えたが、今度は吐き出さない。夜間の厳しい寒さを酒精で乗り切る先人らの知恵を総身に感じながら、故人を偲ぶ献杯とした。

 「いつか日の下でも堂々と酒を飲むことの出来る世に」

 「ああ……」

 再び風が止んだ。今度は長い。今の内にここを離れよう。そうどちらが言い出すでもなく二人は歩き始める。降り積もった新雪に足跡を刻んでいく二人。その行方を知る者はここにはいない。

 「カルロ……君だけは、何があろうと守り通すからね」

 「……そうか」

 一人決意を新たにするベアトリスとは対照的に、カルロの胸中は落命した店主へのある種、羨望にも似た気持ちがあった。

 綺麗な死に顔だった。きっと自分にはあんな死に顔はできない。夢を見ながら死ねる彼とは違い、もうこの世のどこにも夢や希望は無いと知っているからだ。だからきっと、死ぬ時も自分は醜い亡骸を晒して終わるのだろう。

 そんな時でさえ……。

 (こいつは、その口で『愛している』なんて言うんだろうか?)

 そんな妄想を思い浮かべながら、やはり憂鬱な感情に支配されるカルロであった。
19/01/18 03:41更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
「ベアトリス」
種族:ダンピール
好き:カルロ
苦手:礼儀作法
特技:レイピアもしくは■を用いた決闘
天敵:両親

「カルロ」
種族:(まだ)人間
好き:物品の加工や修理
苦手:人ごみ。衆目を集める場
特技:五日ぐらい無言で過ごせる
天敵:ベアトリス

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