連載小説
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第12話 病巣切開【ジェイク・ザ・サージェン】
 街から距離を置き、街道からもほどほどに離れた田舎にて……。

 「先生っ、先生!! どうか、うちの子を助けてください!!」

 古めかしい廃墟、今はもう使われていない教会だったその建物の木戸を激しく打ち鳴らす女が一人。ここにいるのは神父や牧師の類ではない。

 「おやおやぁ、何かあったのかねぇ」

 間延びした声が扉の奥から届く。続けたごそごそと動き回る音の後、建物の主が扉を僅かに開けてひょっこりと顔を出した。

 「助けておくれよ先生!! うちの子が……うちの子が、馬に蹴られて……!!」

 「何やら大変なご様子ぅ。すこーし、待っててもらいましょうかぁ」

 扉を開けたまま奥に引っ込んだ男はベッド代わりに使っていた長椅子から上着を引っ掴むと、それを無造作に羽織り外へと出て来た。

 「ケガしたのは何分くらい前なんでしょうかねぇ?」

 「え、ええっと、もう三分くらい経ちました! あの子ったら、うちの亭主以外は手を付けられないってのに、馬小屋の掃除をしてて、それで……ああっ」

 「頭ぁ? それとも腹ぁ?」

 「あ、頭です! 血が出て、それで、あの……!!」

 「その後、どうなったのかなぁ?」

 「馬小屋の、藁が敷き詰めてありますから、そこに寝かせています。絶対動かさないように!」

 「ほうほうほう」

 この時代、動物絡みの事件や事故で命を落とす者は後を絶たない。その多くは狩りの最中にクマやイノシシなどの猛獣による被害だが、こうした農村においても全くの無縁ではない。馬や牛は労働力として飼っている家もあり、特に馬に関してはその神経質な性格を読み違え、落馬して体を打ち付けたり不用意に背後に立ってしまったことで蹴られるケースもある。

 半ばパニックに陥っている母親に連れられて辿り着いたのは、彼女の主人が管理している家畜小屋。そこには既に主人もおり、妻と同じく男の到着を待ち焦がれていた。

 「おおっ、先生! うちの倅を助けてやってください!」

 「どれどれ。おーっと、こりゃあ随分とハデにやったねぇ」

 案内された男が見たのは、母親の言ったように敷き詰めた藁の上に横たわった息子の姿。その頭部には押さえ付けるように布が幾重にも当てられ、既にそこには血がしみ込んでグシャグシャになっていた。

 放置すれば命に関わりかねない重傷、一刻を争う事態だが男の対応は終始落ち着ていた。当てられた布を外して患部を観察し、一目で傷の深さと適切な処置を模索する。

 「なるほどねぇ。ヒヒッ……大丈夫ですよぉ。この子は助かりますねぇ」

 「ほ、本当ですか!?」

 「こいつは馬の傷じゃないねぇ。柵の周辺見てくださいー。多分、興奮した馬にこの子がビビッて仰け反った拍子にすっ転んで、それで柵に頭ぶつけて切ったんでしょうねぇ。本当に馬に蹴られてたら頭は蹄鉄の形にベッコリですよぉ」

 指摘された通りに件の馬が入っている柵の周りを調べると、確かに一部にべっとりと血が付着している箇所があった。対する馬の脚には全く血が付いていなかった。

 「頭の傷は血がたくさん出ますから、驚くよねぇ。でも、ちょいとここを圧迫してやればぁ……ほーら、止まったぁ! ヒヒヒヒ」

 男の指先が傷口から少し離れた箇所を指の腹で軽く押す。一瞬だけ出血が増したが、直後にはそれまでが嘘のようにピタリと出血が止まった。だが痛みはそのままなので、当然子供の口からは悲鳴が上がる。

 「んー、木の破片とかも入ってない綺麗な傷口だぁ。それじゃあ、ちょーっとこの辺押さえててもらってぇ……」

 「ええ!? こ、ここですかい?」

 「うーん、こんなもんかなぁ」

 父親に止血を任せ、男は懐に無造作に手を突っ込むと数枚の植物の葉を出した。それらをこれまた大雑把に手の中で丸めると両手に力を加えて潰し、搾り上げ、染み出した汁を子供の傷口付近に塗り付ける。

 「こいつを患部に塗れば、あら不思議ー。見る見る間に出血が引いていく、野山に生える血止め草でござーい」

 緑色の汁が患部に滴ると男の言うように血は止まった。薬草の中には痛み止め効果を持つ物もあり、それまで激痛に苦しんでいた子供の表情も和らぐ。ある程度振りかけた後、潰した葉を直接傷口に当て、その上から包帯を巻いて固定し治療は完了だ。

 「終わりましたぁ。今後は様子見ですねぇ。薬草はすぐ枯れるんで、また来なきゃあ。眩暈、吐き気を訴えるようならご注意をぉ」

 「倅は、倅は助かるんですかい!?」

 「精々、患部に傷痕が残る程度ですねぇ。まぁ男の子なら、この程度は勲章ですよぉ」

 「何から何まで、本当にありがとうございます! 先生がこの町に居てくれなきゃ、今頃どうなっていたことでしょう」

 「さて、それじゃー、この子を屋内に運びましょうか。流石に馬小屋に放置はイカンでしょうしぃ。あー、先にこれ置いときますぅ。痛み止めの軟膏でさぁ」

 「はい! ああっ、流石は街の学校で学ばれたお医者さまだよ! ジェイク先生には感謝してもしきれないねえ!」

 夫婦の称賛を受けながら、男……ジェイクは少しはにかみながら、彼らの息子を抱きかかえ共に家の中へと入って行った。





 ジェイクなる医者は、元からこの田舎町の住民ではなかった。

 半年前、町の子供と老人たちが性質の悪い流行り病に罹り、誰も彼もが寝台から動けなくなるという事件があった。病気それ自体は大したことはない軽いものだったが、抵抗力の弱い幼子や老人らにとっては命取り、既に数軒の家々で犠牲者が出る騒ぎになっていた。

 そこにふらりと、風に吹かれる木の葉のように現れたのが彼だ。

 「生野菜をそのまま食べたなぁ? ヒッ、ヒヒ! それじゃー、腹も下すさぁ」

 そう言って病に苦しむ家々を見て回り、それぞれに自らが調合した虫下しの薬を置いて行った。初めは見ず知らずの者が押し付けたそれを皆が気味悪がって遠ざけたが、一人の母親が藁にもすがる思いで子にそれを飲ませた結果、効果覿面、体内に巣食っていた寄生虫を見事に排斥することに成功し、それを見た周囲も次々と薬に手をつけた。

 ジェイクの回診は続いた。

 「いけないねぇ。遊び盛りの子供が、鎖骨折ってるなんて一大事だぁ。誰も気付かないのかい?」

 ある時は小さな子供の体の異変に見ただけで気付き。

 「あー、そりゃ風邪じゃないねぇ。肺が傷んでるかもねぇ、用心用心。ヒヒヒッヒ!」

 初期症状の時点で病の本質を見抜き。

 「ははは、そりゃあんたぁ、病気じゃないよぉ。おめでた、って奴だぁ。覚悟しときなよぉ? あんた数週間はその苦しみを味わうんだからなぁ」

 女性からも信頼を寄せられ。

 「んー? 何だいお婆さんー? ここにはあんたの子も、孫も、皆いる。なんにも怖いことなんかありゃしないよぉ」

 そして、時には去り行く老人の世話を焼き、その最期を看取った。

 献身的なその行為に多くの人間が次第に心を許し、一ヶ月と半月経つ頃には彼は小さな町で誰もが頼る町医者になっていた。報酬は僅かな金銭、あるいは農作業に従事する住民が持ち寄る野菜や牛乳など。それさえも彼の側から要求してではなく、住民らの好意によって与えられる物であった。

 大きな街には適当に捏ねた粉末を薬と言って売りつけるヤブもいるという。なのにこの青年がこんな寂れた田舎で熱心に献身的な治療を行っていることを、不思議に思い訝しむ者もあった。

 「街はあんなに人がいるんだぁ、別に自分がやらなくても誰かがやりますからねぇ。それより、こういう田舎だからこそ、ちゃんとした治療をする人が要るんじゃないですかねぇ。ヒッヒッヒ」

 例によって間延びした声でそう答えた。

 街で医療を教える学校に通い、課程を修めた後に自分からこの町に医療を浸透させにきた奇特な人間……それがジェイクに対する皆の見解であった。

 彼はすっかりこの町に溶け込んでいた。

 「ふんふんふふーん」

 ジェイクの生活拠点は、廃宗教の流れで今は誰も管理する者がいなくなった教会を根城にしている。普段からここで寝泊まりし、食事などもここで済ませることが多い。屋外の開けた場所に簡易だがカマドを拵え、そこに診察した住民の好意で譲り受けた鍋を掛ける。既に中には野菜が浮かんでおり、これを抵当に茹で上げたスープが最近の彼の主食だ。

 「ズズ……んー、イイ感じに出汁も出てるなぁ。作物は採れ立てが一番ってことかぁ」

 我ながら美味く仕上がったことに、ほくほく顔のジェイク。懐から一本の紙巻タバコを取り出し火を点け、最後の出汁が出切るまでの間の時間つぶしを始めた。

 「……ふーぅ。五臓六腑に沁みるねぇ。おや、鳥さんこんにちは」

 「『その汚らわしい煙をこちらに吐くな』」

 不意に聞こえるのは全く別人の声。周囲にジェイク以外の人影は無く、ともすれば姿が見えない相手と会話する気味の悪い光景にも見える。だが来客は確かにジェイクの眼前にあった。それは一羽のカラスであり、嘴が開く度に出てくるのは馴染みのある鳴き声ではなく、明らかに意志を持った人間の声だった。

 「夕飯時に何の用かねぇ? 言い渡された任務ぅ? とやらは暇を見つけながらこなしてるよぉ」

 「『その様子なら、無事に潜伏できているようであるな。報告だ。先んじて貴様にはこの連邦に入り込んでもらったわけだが、つい先日、我等に引き続きカルロもようやく潜入に成功した。これでようやく現地の抵抗勢力と合流を果たせるのである』」

 「へーぇ。皆さん随分と早いご到着だぁ。ヒッ、ヒヒャ。世は全てこともなし。ほいほい、自分は言われたとおりにするだけさぁ」

 「『明日にはそこを発ってもらおう。事前に打ち合わせた通り、予定の合流地点で落ち合うのである』」

 「こっちもそろそろ地味な調査は飽きて来てたんでぇ、適当な所で切り上げますかねぇ」

 「『頼むのである。貴様が半年に渡って収集した周辺の情報は必ずや役立つであろうからな。では数日後にまた会おう』」

 それを最後にカラスは夕暮れ時の空へと飛び立った。次に会うのは「本人」とになるだろう。

 手にしたタバコの吸い殻を地面に掘った穴に入れる。鍋の中身はまだ煮えない。もう一本吸おうと懐に手が伸びる。

 「おや、先生! 夕飯ですかい?」

 「あらぁ今日も狩りですかぁ? 精が出ますねぇ」

 山に続く道から声を掛けて来たのは、この小さな町で唯一となった猟師の男。もうかなりの老齢のはずだが未だに野山を駆けて鹿やイノシシ、時には熊さえ撃つ元気なご老人だ。獣の肉や毛皮を売って生計を立てており、ジェイクも診察料代わりにと何度か肉を分けてもらったことがある。

 「ありゃりゃ、何だい何だい先生! 美味そうなシチーだと思いきや、肉が無いじゃないか! どれどれ、せっかくだから何か入れてやるよ! ほぅら、鹿肉で一番うまいトコだ!」

 仕留めて解体した鹿の肉をボドボドと鍋に放り込んでいく。鍋にはあっという間に肉の脂が浮かび、かぐわしい香りが周囲に流れた。

 「ヒャヒャ、美味しそうな肉だぁ。こりゃ、ありがたいことでぇ」

 「おうおう! たんと食いなせえ!」

 その後は二人で鍋の中身を食べ合い、しばしの歓談を楽しんだ。このように食物を分けてもらう程度にはジェイクは信用されており、時折このように食事の時に何かを差し入れてくれる住人がいるのだ。

 「この辺も昔はけっこう栄えてたんだがなあ。知らぬ間に随分と寂しい場所になっちまったもんさ」

 「昔は栄えていたぁ」

 「ああ! 昔はもっとたくさんの人が居たし、夫婦で移り住んでくる連中だっていた。遊び回る子供の数だってそうだし、家畜だって今よりずっと多かった。今より多くの人やら獣がここには住んでいたんだ」

 「それがいつしか減ってしまったぁ。ふんふん、いつから?」

 「さぁてねぇ。いつからだったかな? うーん」

 「あー、はいはい。ひょっとすると、もしかすると、十年前、だったりぃ?」

 ジェイクの指摘に老人は、「それだ」と膝を打った。

 「そうだ、そうだ! ちょうど十年前からだ! それまではこんなに『空き家は無かった』し、『山だってまだ賑やかだった』!」

 「そーぉ、ねぇ。ならさぁ、『彼女たち』はどこに行ったんだろうねぇ」

 「さぁなぁ。どこに行っちまったのやら」

 そろそろ鍋の底が見えて来た。二人の腹も満たされてゆき、辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていた。

 「さてと、そろそろお暇させてもらおうか。すまんな、勝手にご相伴に与っちまって」

 「辺りも暗くなっちゃったしねぇ。帰り道が心配だねぇ」

 「心配せんくても大丈夫だよ!」

 「あー、でも不思議に思うことがあるなぁ」

 「あ? なんだね?」

 「この辺、人の数こそ減りましたけどぉ、若い子や独り身の男だってそこそこ居るじゃない。山だってまだキレイだし、魔物の一人や二人が出会いを求めてここへ降りて来ないってのは、何だか不思議だねぇ?」

 「はぁ……? 年若い連中どうこうってのがどう関係してんのか、てんで分からねえけど、先生もおかしな事を聞くもんだなあ。魔物がここに来てって、まるで一緒に暮らすみてえに……」

 人の好さそうな笑みを浮かべる老狩人は事も無げにこう言い残し去って行く。

 「そんなの、『気持ち悪い』じゃあないかよ」





 草木も寝静まった深夜、廃教会の一室でジェイクは錆びだらけの燭台に立てたロウソク一本の明かりの下で、密かな日課を済ませていた。

 「はいけい、かくかくしかじか、まるまるうまうま、イニミニマニモ……。この国の『改革』は住民の意識レベルにまで浸透中、二つの種族の乖離は当局にとって順調に進行中……っとぉ」

 薄暗い室内でジェイクは羽根ペンを片手に持ち、広げた羊皮紙に何やら書き込んでいく。室内の薄暗さはロウソクの不足だけではない。彼が腰かける椅子の周囲にはタバコの吸い殻が大量に落ちており、さながら春の小道に湧き出た虫を想起させた。それだけの量を彼は毎日喫っており、室内に充満した煙がただでさえ頼りないロウソクの明かりを曇らせていたのだ。

 ふぅ、と紫煙を吐き出しながら利き手の動きは止まらない。口に咥えたそれが何本目なのか彼自身も数えることを放棄したが、それすらも見る見る内に短くなっていく。タバコの煙に覚醒作用などあるはずもなく、にも関わらず喫えば喫うほどにジェイクの執筆の速度は増し、ペン先の動きもキレを纏う。時刻は既に日付を越える頃合いだが、この調子だと一晩中喫い続けるだろう。

 「すぅ……ふぅ。すぅ……ふぅ」

 「…………ジェイク…………」

 「ふーぅ……。あー、また切れきまったかぁ。どうにもこれが無いと、頭が冴えないんだなぁ」

 「……ジェイク……」

 「仕方ないー、一旦中断して新しいのを巻きましょうかねぇ」

 「ジェイク」

 「んーん?」

 幻聴ではない。「まだ」それには早い。

 狭い室内のどこにも隠れ潜む場所がないのに、確かに聞こえるのは女性の声。澄んで、涼やかで、それでいて儚げな声はジェイクの頭上から降り注いでいた。

 「おやおやーぁ、声が聞こえるねぇ。ま、いっかぁ。タバコタバコぉ」

 「いけません、ジェイク。そのように『穢れた煙』を取り込むのは自らの寿命を損なう行為と知りなさい」

 するり、と薄暗い天井付近の闇から伸びた手がジェイクの顔を覆い、細い指が短くなったタバコを取り上げた。第二の人物は突然現れたのではない。ジェイクが礼拝堂で転寝している時も、彼が治療を施す間も、食事を作りそれを食している間も、彼女はずっとそこにいたのだ。

 「いけません、いけませんよ、ジェイク。それ以上自らの体に毒を溜め込むのは止めなさい」

 「これは薬……薬さぁ。今でこそ嗜好品の扱いだけどぉ、こいつが新大陸から持ち帰られた当時はぁ、ちゃあんと薬用だったんだからぁ」

 姿を見せず頭上に留まる同居人に対し紫煙で抗議するジェイク。彼の言葉に嘘はない。海を越えた西方新大陸から船乗り達が持ち帰った土産の中にあったタバコは、それを紹介した原住民らの使用法に則って初めは薬として用いられていた。嗜好品としての地位を確立した現在でも薬効についての論文が書かれているほどだ。

 だがその内に秘めた欺瞞を、彼女は暴く。

 「その葉は東方世界の王朝にて収穫された物のはず」

 ふわり、ふわり、と羽根が落ちた。鳥の物でもなければ、当然虫のそれでもない。薄桃色のそれは上質な絹を思わせる肌触りで、床に落ちて少しすると砂糖のように虚空に溶けて消えた。声の主は未だジェイクと同じ地平に立たず、変わらず彼の頭上から言葉を送り続ける。

 「おやーぁ、きれいな羽根だぁ。ヒヒ、ヒヒヒヒ。何だっけ、何だっけぇ? 何てったっけかなぁ?」

 「わたしは“ヨハンナ”。いつになれば、あなたは名前を覚えるのでしょう」

 古い揺り椅子にどっかりと腰を沈めたジェイクの視線が遂に頭上に向けられた。二対の目が互いの顔を直に捉える。

 ヨハンナ、と名乗る女性はまさにジェイクの頭上にいた。しかし、梁の上に乗っているのではない。ヨハンナの背には春の花弁を思わせる柔らかな光の塊、つまりは羽根が生えており、更に不可思議なことに羽ばたきもせずに空中に留まっていた。鏡映しのようにその体は上下が真逆になったままであり、ぶつかり合う視線も互いの姿を逆さまに映していた。

 白い手袋に白い履き物。風雪厳しい北国には有るまじき露出の多い服装に、同じくこの近辺では見られない少し小麦色に焼けた肌。ピンク色のアネモネを束ねたような髪は意外と長く、三つ編みにされたそれは重力に逆らい腰元まで届く。整った顔立ちは控えめに言って美女であり、まともな男ならマジマジと見つめられれば気恥ずかしさで目を逸らしてしまうだろう。

 だが外見的特徴だけではこの女を判断する材料に成り得ない。最大にして究極の特徴は二つ。まず一つは、ヨハンナの肉体を空中に留め置く力を発揮している、背中に広げられたその翼。それこそは彼女が人外の存在であり、尚且つ神聖な上位存在に仕える者としての力の一端。

 そしてもう一つは、その翼の更に後ろの矢筒に収められた、たった二本だけの矢であろう。

 「お暇そうだねぇ。羨ましいねぇ」

 キューピッド。愛の神・エロスに仕えるとされる天使の一種。それがこの廃教会の屋根裏に住まうヨハンナの正体。

 「別に暇をしているわけではありません」

 彼女がどれだけの間、この廃教会に住み着いているのかは分からない。この町を訪れたジェイクが根城として住み着いた時、彼女は今と同じくこうして屋根裏からその様子を見守っていた。何処へも行かない。迷える男女を結び付けるでもなく、さりとてエロス神の膝元に還るわけでもなく、ヨハンナはかなりの長い間ここに住み着いているそうだ。

 「『これ』は今日一日を働いた自分へのご褒美さぁ。ヒヒッ、ヒヒ! どうもこいつが無いと調子が出ないんでねぇ。日がな一日、屋内で過ごすよりかはよほど有意義な過ごし方だと思うぜぇ」

 「確かにわたしは、今となってはエロス様のご加護をもたらすことさえ難しい有り様です。昔はこの教会に訪れる人々に加護を与え、多くの夫婦を結び付かせましたが……」

 「主神教団の建物だろうー、これぇ? まあ、エロス様はその辺緩いそうだしぃ、いいのかねぇ」

 「良いのです。それよりも、今はあなたの体のことです」

 ここでようやくヨハンナが地に降り立つ。いや、正確には足と地面の間に頭一つ分だけ余裕があり、天使特有の空中浮遊によってジェイクと視線を合わせていた。その翼が僅かに動く度に花の香りに似た甘い芳香が漂うが、ことジェイクに限って言えばその程度の甘さでは揺らぐ事はない。

 「自分は医者さぁ。自分の体は自分が良ぉく理解してるよぉ」

 「医者? 以前、あなたが語った技術は、とても医者のそれには思えませんでしたが?」

 「ただ『本業』が、ちょーっと違うだけさぁ。ヒッ、ヒヒ!」

 「嘘はいけません。そんな医者は見たことも聞いたこともありません」

 「でも『最新』って自負はあるんだぜぇ?」

 「それは……長年ここに篭っていたわたしを、世間知らずと揶揄しているのですね」

 ジェイクは他にキューピッドの知り合いもいないのだが、彼女らは総じて自らの職務に忠実で、落ち着きがあり、良く言えば冷静、悪く言えば淡白で没個性的、決して暗くはないが淡々とした性格の者ばかりと聞いていた。だがこのヨハンナに関しては、このように口数も多くずいずいと押す物言いが目立ち、相手の言葉を曲解し嫌味を返す程度には感情豊かだ。会話も字面だけなら刺々しいが、意外とジェイクはこのキューピッドとの会話を楽しんでいた。

 唯一の不満と言えば、事あるごとにタバコを没収しようとすることだろうか。

 「良いですから、その毒の煙を渡しなさい。それはあなたの健康を害する物です」

 懐に忍ばせた最後の一本さえ容赦なく没収しようと詰め寄るヨハンナを避けるジェイク、そしてそれを背後から飛行して追うヨハンナ。狭い室内をグルグルと回る様は傍から見れば滑稽だが、やっている当人らは真剣だ。

 ジェイクにとってタバコの一本は死活問題、彼自身にとっては生き死にに関わるレベルの話だ。単に不健康だからという「軽い理由」だけで止められるものではない。そんな程度ならそもそも喫わない。

 あともう少しでタバコに手が届く。そうなれば即没収、というところで……。



 「キャアーーーーーーーッッ!!?!?」



 絹を切り裂くような悲鳴が小さな町を駆け抜けた。





 駆け付けた場所は教会のすぐ隣にある農家。昼間治療した子供の家とは違いニワトリを飼育し、お裾分けで貰うタマゴがジェイクの貴重な栄養源になって久しい。

 「痛え……!! は、腹が、痛ぇええ!!?」

 その家の息子が苦痛を訴えながら転げ回っていた。全身の血が逆流したように顔は真っ赤になり、周囲にはその際に吐き出したと思われる吐瀉物が散乱していた。

 「食あたり……じゃあ、なさそうだねぇ」

 「うげええ……!!」

 毒ではない。この時期に山で採れる植物類に毒を有する物は無いし、長年ここで生活する彼らが間違って献立に紛れ込ませるはずもない。

 取り敢えずジェイクは苦痛にもがく息子を何とか仰向けにさせ、問診を開始する。

 「激しい腹痛に嘔吐。でも吐瀉物の状態からしてぇ、消化それ自体は問題なしかぁ。お子さん、つい最近食事に関して変わった事とかあったのかねぇ」

 「そ、そういえば、今日は珍しく食欲が無さそうで……」

 「しかもこの熱ぅ……ふーむ。ちょいと、誰かお子さんの手足を押さえといてくれませんかぁ」

 両親は言われた通りに我が子の手足をがっしりと握り、それを確認したジェイクが息子の上着を脱がせその腹に指先を沿わせる。

 「ヒヒ! さてさてぇ、ここかなぁ? こっちぃ? これかなぁ?」

 「…………!?」

 「それとも……あー、ここだぁ!」

 「ぎっっ!!? ぎゃああああーーーーっ!!!!」

 最初は胸やらヘソの周囲を撫でまわしていたジェイクの指先が右脇腹に沈んだ瞬間、火が付いたように子供が悲鳴を上げる。それはこの正体不明の病気、その根源がその部分において猛威を振るっているという何よりの証左。

 「なるほどなぁ」

 「先生! 息子の病気は……!?」

 「あー、大っ変申し上げにくいんだけどぉ、この際ハッキリと言っておきましょうー。この子はもう、もう手遅れですなぁ」

 「て、手遅れ……? それは、どういう!?」

 「死ぬねぇ、確実にぃ。今晩か、明日か、それとも一週間後かは分からんけどぉ、このままだとこの子の余命も短いねぇ?」

 「そんなっ!? どうにかしてください、先生! いつものように薬でなんとか!!」

 「可哀そうにぃ。お薬で治せる範疇を越えちゃってるなぁ」

 診察結果についてジェイクは虚偽を言わない。彼の診察眼は高い確率で患者の状態を見抜き、その後どんな処置をすれば良いかもすぐに理解できる。その上でこの患者は救いようが無いと判断、投薬による治療は不可能と語っている。

 「胃の腑の更に奥、ついさっき指で押した辺りで内臓が炎症を起こしてるなぁ。このまま症状が進行すれば炎症は悪化ぁ、腹の肉や他の臓器まで浸食して壊死ぃ、内臓が一気に不全であの世行きですぅ」

 「……な……なんとか、何とかしていただけませんか!? ウチには他に二人の子がいますが、皆出稼ぎに行ってしまって、跡取りはもうこいつだけなんです! まだ世間知らずな三男坊ですが、こんなチンケな農家でも継いでくれると言った、私の息子なんです!! こいつが死んじまったら、私らも生きている意味がありません!」

 「ふーむぅ」

 「どうかっ、どうかお願いします先生ぇ!! どんなやり方でも構いません! 息子を……死なせないでください!!」

 「どんなやり方でも、ですかぁ?」

 ジェイクが身を屈め、足元に縋りつく父親に顔を近付けた。ニヤニヤと三日月の眼が息子と父親を交互に見比べ、同じ形に歪んだ口元から人を不快にさせるヤニの臭いを多分に含んだ呼気を放つ。微かに「甘い香り」を放つそれを漂わせながら、ジェイクは父親に念を押す。

 「どんなやり方でも、と仰いましたねぇ? 今、確かに! 本当に、ほんとーぉによろしいんですかいー? 出会って半年そこらの赤の他人ですよぉ、自分はぁ」

 「で、でも、先生はお医者さんでしょう?」

 「えー。えー、えー。その通り。だからこそ今一度お聞きしますぅ。ご主人……『どんな方法』でも使ってよろしいんですねぇ?」

 甘い、甘い香り。それは人の思考を蕩かせ理性を削る妖香。じわりじわりと滲むそれをまともに受けながら、父親は黙して首を縦に振るだけ。

 「ヒ……ヒッヒ、ヒヒヒヒヒ!」

 引き攣ったような、しかし満面の喜悦を篭らせた笑い声が夜の町に溶け込んで消える。契約はここに成立した。ここに来てようやく「本来の仕事」に取り掛かれる、その事実に途方もない悦びを覚えるからこそ、彼はただ哂い続けるのだ。





 「随分と安請け合いをしたのですね」

 治療を行うにあたり、ジェイクは子供を自身が根城にする廃教会まで連れ込んだ。長椅子に衣類を敷き詰めてベッドとし、その上に患者を寝かせる。その様子を礼拝堂の天井付近から見守っていたヨハンナが降りて来て、全ての事情を知って溜息と共にこの言葉をもらした。

 「この少年、もう手の施しようがありません。こうしている間にも衰弱が著しく進んでいます」

 「弱り切っているこの子はここに運ばなきゃ」

 「それは、どういう……?」

 「さてさてぇ、荷物の中から一式取り出してと」

 寝床にしている部屋に置物同然と化していた鞄。いつもジェイクが枕代わりに使っており、診察や治療の際にここから薬を取り出しているのを見たことがある。だが今更薬を煎じたところで意味は無い。それほどまでに病状は悪化しているのだ。

 「あとは窓も全部戸を立てて、っとぉ。カンテラもありったけ用意して明かりも確保ぉ。おー、それらしくなったねぇ! あり合わせでも何とかなるもんだぁ」

 「この余命幾許もない子供に一体何を?」

 「前に『どっかの誰か』にも言ったことがあるだろうけど、自分がやる事は唯一つ」

 鞄の留め具が外され、その中から幾つかの道具を取り出していく。いつもなら素材をその場で加工して薬を煎じるのだが、今回使うそれらは普段とは明らかに様相が異なっていた。

 「切り刻むのさぁ」

 刃物。

 刃物。

 次々に取り出す道具はカンテラの火を受けて鈍く輝く、刃物の群れ。決して大振りではないが、間違いなく人間一人を害するには過ぎたる数が並べられ、獲物に突き立てられるのを今か今かと待ち構えている。それらは草木を伐採するには貧弱で、食肉を加工するには細身で、まさに人体を傷付けることにのみ特化した、それ以上の性能はまるで与えられていないのだと容易に推察させるデザインをしている。

 「やめなさい。この子を、殺すのですか」

 「大丈夫だよぉ。痛くない、痛くない」

 「では、どのようにして人を傷付ける道具だけで、その子を救うと?」

 この時代の常識で考えて、それは無理だ。刃物は刃物、突き立てれば皮は裂け肉は切られ、血を流れ出させるだけの代物。それを迷わず手に取ったジェイクの指先を、小麦の手がそっと制した。

 「やめなさい」

 「もうこの子は死に体さぁ。たとえ山の薬草全てをこの口に詰め込んだとしてもぉ、もうこの子は助けられないー。じゃー、どうするぅ? お優しい皆々さまはぁ、この病に苦しむ子供をぉ……どう救う? どう助けなさる?」

 「…………」

 「ヒヒヒ! 答えは簡単だよぉ。“切り取る”のさぁ」

 手に取った刃物をズラリと子供の周辺に並べる。さながらその様は調理された食材を載せた皿、その周りに並べられる食器のよう。だがまだだ。まだこれは使わない。

 次に鞄から清めた布を出す。通気性に優れたそれをジェイクは自らの、そしてもう一枚を同じように子供の口元へと巻きつけた。

 「苦しいかぁ?」

 「う、ううん……」

 「そいつはぁ、よかった」

 ぽたり、ぽたり。子供の口元を覆う布に静かに滴が垂れ落ちる。ガラス瓶の中の液体が何らかの薬であり、それが気化した物が人の意識を刈り取るのに十秒と掛からない。

 「ひとーつ……ふたーつ……みーっつ……」

 痛みに呻きを上げていた子供が次第に静かになる。眠るのだ。汗が引き、呼吸が落ち着き、目蓋も落ちていく。

 「むーっつ……ななーつ…………はい、落ちたー」

 完全に意識が喪失したのを確認し、ようやく取り掛かる。これよりは異端の場、人が人を救うために生み出した外道の技が振るわれる。

 「さぁて、それじゃー……術式開始だぁ」





 その昔、主神の教えが隆盛を誇っていた時代、病気に対する人々の考えは現代と異なっていた。

 病気とは即ち、神がもたらす恵みあるいは試練を課した証であり、それを不遜にも外部からの介入によって克服するのは不敬の極みである……とする考えだ。人の寿命が神という絶対存在によって管理されていたが故の考えであり、古代において発達したはずの医療技術は東方世界に散逸、かつては本家本元だったはずの国々で医療技術は大きく後れを取ることになった。

 そしてそれは千年後の現在でも同様だった。魔術という人為的な奇跡の行使、魔界との融合を果たした風土、そして何よりも魔物との種族的な交わりが、かつては不治の病とされた多くの疾患を人類社会から駆逐したからだ。

 しかし、全ての病がこの世から消えたわけではない。

 「大昔、戦場で矢を受けた傷口が化膿して壊死手前にまで悪化した足を、ご先祖さまはどうやって治療してたと思うー?」

 カンテラの光を受けた刃が輝く。刃渡りは小さく、小指の爪ほどの長さしかない。「切る」ことにのみ特化し、貫いたり、折ったり、ましてや裁断するなどという機能は持たない。

 「切り落としたのさぁ、その足ごと。おかげで当時、戦場帰りの兵士には義肢持ちやぁ、『かたわ』の連中の多いこと多いこと。同じ時代の東方世界じゃー、化膿や壊死した部分だけを綺麗に切除する技術があったのにねぇ」

 ス、と刃が走り、消毒液を掛けられた皮膚の上に赤い線が浮かんだ。一息に切ることはしない。ゆっくりと、丁寧に丁寧に果実の皮を剥くようにやるのだ。

 「今じゃ、その東方もぶった切り療法さぁ。技術の研鑽はされず、便利な魔術があるからと、廃れちまったのさぁ」

 肉を切り開き、断面に止血の為の器具を取り付ける。

 「そりゃー、魔術は便利さぁ。風邪も頭痛も下痢も、大抵の病ならあっという間に治癒しちまうしぃ、骨折だって一瞬で治せるぅ。医者いらずってのはぁ、あながち間違っていないよぉ」

 脂肪の層を抜け、重要な血管や筋繊維を回避し、血で汚れた刃物を新しい物に交換しながら解体は続く。

 「だからこそ、この子のように初期症状が見逃されて明確な形を得るまでに悪化した病にはぁ、滅法弱いのさぁ。基本、魔術は生命力を活性化させるものが多いー。けど、ここまで悪化したらちょっとやそっと体力を回復させても無意味ぃ、元から断たなきゃ」

 流れ出る血を清潔な布で拭き取り、肉の部分の掻き分けが続く。

 「それに……魔術師が全員、ケガや病気の治療に長けているわけじゃーない。それどころかぁ、大昔の医療技術の失伝でぇ、体の中がどんな構造してるのかロクに知らない奴もいるぅ。結果、見当違いな部分を治療したりぃ、効果が不十分で何度も再発させたりなんてのがあるんだぁ。人体の構造を充分に理解して、尚且つ少ない回数で治療を行える医療術士なんてのはぁ、数える程度しかいないんだなぁ、これが」

 「魔術は後天的な知識や技術とは別に、生まれ持った特性も関わる部分です。魔術師として研鑽を積み、尚且つ人体に通じた医療術士ともなれば……なるほど、数は少ないでしょう」

 そこら辺は噂のグレイリア・サバトに期待かな、と淀みなく切り分けが進む。

 「だから、あなたは失われた技術を復活させたと?」

 「ってーのは、この技を仕込んでくれた師匠代わりの受け売りさぁ。自分はまぁ、たまたまこっちの方面に才能があったってだけでねぇ。別に信念とか情熱とかぁ、偉そうなこと言えるほど持ち合わせちゃーいないんだよなぁ」

 おっ目的の部位発見、とジェイクの目が光る。開腹状態を維持する為に開創器で術野を固定、その病原となる部位を白日に晒す。

 「これは……」

 「これは大腸さねぇ。胃で消化した食い物は細っこい小腸を通って、やがてここに、大腸にやって来るんだぁ」

 切り開いた術野に見えるのは、赤くぬらぬらとした蛇を思わせる器官。更にそこからジェイクの指先が大腸の端に当たる部分を指さした。

 「このピロンってなってる尻尾みたいなの。ここは虫垂ってんだがぁ、ぶっちゃけ人間には要らない場合が多い器官でさぁ、ここんトコに消化物の残り滓が蓄積すると炎症が起こったりするんだぁ」

 「では、この子の病気は?」

 「炎症はあっちゅー間に周辺の肉に伝染するぅ。病気が進行して腹膜を侵しでもしたら一巻の終わりぃ、腹痛・発熱・嘔吐のオンパレードの後に天国行きさぁ」

 通常、この病気が子供の時分に発覚することは稀だ。大抵は単なる風邪や腹痛と思われて処置が遅れ、この子のように炎症を起こしてからようやく気付くというパターンが多い。無論それまでに整腸効果のある薬草や、それこそジェイクが言ったような治癒魔術が上手い具合に効けば初期段階で病を抑えることも出来る。

 「まぁ、なっちゃったモンは仕方が無いから……スパっと切りましょうか」

 「……ひとつ、聞いても? あなたはその技術でどれだけの人々を救ったのですか?」

 「手術歴は、うーん、十人とちょっと? 腹ぁ掻っ捌くばかりでもないしぃ、ここまで大掛かりなのは片手で数えるぐらいかなぁ。幸いまだ誰も取りこぼしていないよぉ」

 「腕は確かと。なるほど、あなたの師は優れた人物だったようですね。その方もさぞ多くの人を救って……」

 「師匠は誰も治さなかった」

 「え……?」

 手に取ったハサミの先端が患部を捉え釣りあげる。パンパンに腫れ上がった患部と正常な部位との境目を正確に見極め、一寸の躊躇もなく刃を走らせた。

 「あの人は誰も助けなかったし、救わなかったし、治すこともしなかった。全部逆のことをやって来た。でも……あの人はそれで人様の役に立ってきたんだから、不思議なものだよなぁ……」

 手が止まった。それまで淀みなく、流れるように術式を行ってきたジェイクの腕が、両方とも完全に停止した。視線は術野ではなく、その上に吊り下げられたカンテラの火を茫然と見つめており、魂が抜けたような眼球は何もかもを飲み込む空虚さを秘めている。

 「ああ……腹が減ったな。第三号検体の解剖記録、あとで調書にまとめて……。ハシがほしい。師匠? 葉巻は書斎の棚です、お取りします」

 「ジェイク?」

 「ハシがほしい。ああ、奥様! そんなことをされては……。駄目だ、腹が減る。どういうことですか、どうして自分じゃないんですか? 自分が今まで貴方から教わって来た技は……ハシは?……いったい、なんのため…………。やだ、やめて奥様、そんなひどいことをしないで。そうだな、お前は悪くないんだ。この家はいずれお前が……。自分はどうせ、“半分”だから……」

 「ジェイク!」

 語気を強めた呼びかけに僅かだがジェイクの目に光が戻る。心ここに在らずといった感じだが、辛うじて取り戻したらしい理性を総動員し、ジェイクの指先が鞄を示した。

 「…………タバコ、タバコほしい……タバコ取って? 鞄に入ってる……お願い」

 確かに中身を検めると手術に必要な道具や薬の他に、見慣れた嗜好品が幾つか認められた。

 「ですが、これは……」

 だが既にヨハンナはこの小さくまとめられた包み紙の中身を知っている。これを素直に渡してしまうことが、果たして最終的にジェイクの利益となるのかどうか不安を覚え、一瞬その手が止まった。

 「お願い……お願い……おねがい」

 「……」

 「後生だよ……」

 「……分かり、ました」

 とうとう根負けしたヨハンナは摘み取った一本をジェイクの口へ運び、すかさずカンテラの火を近付けた。火が付いた瞬間にタバコは見る見る間に短くなり、ものの二息ほどでジェイクはそれを喫い果たしてしまった。その姿はそれまで息を止められていたように必死で、ともすれば陸に打ち上げられた魚が息を吹き返したようにも見えさせた。

 「すぅ…………ふぅ。すぅーーーーーーーーーーーーーーーー……ふぅ。はぁー……生き返ったぁ」

 「ジェイク」

 「ヒヒ、ヒヒフヒヒヒイヒ」

 時間にして二分にも満たないやり取り。取り乱した様子がまるで嘘のように鳴りを潜め、ジェイクはいつもの調子を取り戻していた。この半年間で慣れ親しんだ間延びした声で、しゃっきりとした指先は再び患部を捉える。

 腫れて肥大化した患部を切除し、あとは傷口と開腹部を縫合すれば終わりだ。縫合に用いる糸はアラクネやグリーンワームなどの吐き出した糸を加工した特殊なもので、傷の治癒と同時に肉体に吸収されるので抜糸の必要が無い優れものだ。

 「ちくちく……ちくちく……。よし、出血もガーゼの取り忘れも無いー。炎症の元凶は除いたしぃ、これでこの子も一安心。余命も数十年に伸びて、めでたしめでたしってやつだぁ」

 「お疲れ様です。これでこの子は助かったと?」

 「実を言えば、虫垂を除く技は簡単な部類なのさぁ。もちろん知識も腕もいるけど、分かり易く突出している部位を切ればいいだけだからねぇ。後は術後の経過を診ながら、合併症に気を付ける感じかなぁ」

 「経過を観察……ですか」

 「まあ病巣自体は取り去ったわけだしぃ、以後は投薬療法でも充分かなぁ。いくつか見繕って持たせておこうかぁ。あー、増血薬もいるなぁ。手術はとにかく血を失うわけだしぃ」

 「わざわざ患者を使い走りにせずとも、明日あなたが直接渡せば……」

 「明日、自分はここを離れなきゃいけないしねぇ」

 「…………それはまた、急ですね」

 いつか去るという話は聞いていた。元々が旅人のようなもの、この根城の廃教会にもいつまでも留まるはずがなく、奇妙な同居生活が程なく終わることは予感していた。そうでなくても半年もの間続いたことが逆に驚きだろう。ここに来た時と同じように、いつの間にか現れ、そしてまたいつの間にか去って行く。そういう人間なのだ、彼は。

 だがその動機がただの自由気ままな放浪ではないことも、ヨハンナは知っている。

 「その急な旅立ちは、先だってあなたと言葉を交わしていた鳥と関りがあるのですか?」

 「お呼び出しが掛かっちゃった」

 「この教会はわたしの庭のようなものですので。そうでなくとも一週間に一度、決まって夕刻、あなたが屋外で食事を作っている時、そこに魔力を纏った鳥や動物がうろつけば嫌でも気づきます」

 「他の誰にも気付かれてないかなぁ?」

 「ジェイク、あなたは……この国の人間ではないのですね。どこか遠くからやって来て、そしてまたどこかへと去って行く。違いますか」

 これが町の住人、生粋の人間相手に露見していたら問題だったが、ヨハンナであれば支障ない。むしろ今の今まで隠し立てしていた不義理を詫びるべきだろう。

 「自分は連邦の外からやって来た人間で、この国にちょいとした用事があって密入国したぁ」

 「随分と明け透けに言うのですね」

 「この町での自分の仕事も終わっちゃったぁ。診察のついでにこの町のある事ない事聞いて回ってるのは、まあまあ骨だったよぉ」

 ジェイクは診察の際に患者本人や、その家族らとの会話を楽しんでいた。だがそれは彼が単なる四方山話に興じたいからではなく、長年ここに住まう住人らの生活レベルでの細かい情報を収集するのが目的だったからだ。彼の仲間、使い魔をよこした魔術師が立てていた一つの予測、それを裏付けるための情報を。

 「あなたは、この国に何を?」

 「ここ十年間の『彼女ら』に対する締め付けの厳しさ。どうにも不自然、否さ不可解すぎると思うがねぇ」

 「…………」

 「あのお方も奇特だよぉ。この連邦という国で起こっている出来事の調査、および実力を伴う対処を行うべくってんで、自分達のような人間を工作員のように扱うなんて。ヒヒヒ! 魔物の皇女のお考えは正気の沙汰とは思えないねぇ!」

 その「あのお方」が如何なる者か尋ねるのは愚問というものだろう。彼女ら所謂ところの人外や魔物娘に対する扱いに心を砕き、尚且つ国家に対し秘密裡とは言えここまでの行動に打って出られる権力を持つ者となれば、国外の情勢に疎いヨハンナでも思い浮かぶ者は一人しかいない。逆に言えばその地位につく者を動かすだけの案件がこの国で起こっている、あるいは、これから起ころうとしているのだとも理解した。

 「戦うのですね」

 「自分は見ての通りですんで、精々が矢面に立つ連中の治療が関の山かなぁ。他に出来ることと言えば……同じ仲間に自分の技術を教えることぐらいかねぇ。うちの面子は魔術を使えない連中が多いんだよなぁ。芸は身を何とやら。知っているのとそうでないのなら、知っていた方がマシってこともあるって事よぉ」

 「立派な、立派な心掛けでしょう。ただ人を救って終わりではなく、諸人にその手段を伝授することで後進への助けとする。あなたの意志は確かに多くの人々の助けになりましょう」

 「助けになるといいねぇ」

 「では誰があなたを救うのですか?」

 「ヒヒ。ウヒヒヒヒ、ヒーッヒヒヒヒヒ」

 “煙”が切れていた時のことなど知らぬとすっとぼけ、ジェイクは引き攣った笑いを漏らすだけ。その姿にヨハンナは仕草以上に恐ろしさを覚えてしまう。だがどうしようもない。彼は決してふざけたり、陽気に振舞う能天気なだけの男ではない。



 何故なら、ジェイクは正気を失っているから。



 ここに来た時も、この半年間も、住人の診察をする時も、タバコを嗜み紫煙を吐き出し、そして時折その“効能”が切れて精神が不安定になる時も……その実、ただの一度として『正気であったことなど無い』。虚ろな空洞が如き瞳は己が纏う煙幕の動きを追うだけで、決して眼前の誰かを認識する事はない。その言葉は目の前の人物ではなく、『どこからか聞こえた』、『誰のものかも分からない音』に対して、ただ『自分の知っている事実』をポロポロと零しているに過ぎず、極論ただの独り言。垂れ流す言葉が辛うじて会話を行っているように見えるだけ。彼の意識を借りて周囲を識別すると、その認識下に「他人」は一人もいない。曲がりなりにも他国に潜り込んだ工作員が、外部の者にペラペラと内情を語って聞かせているのがその証拠。

 「……ジェイク、あなたは病んでいます」

 「ふーむぅ?」

 「病んだその身で、なぜ人様を救うことが出来るのでしょう。あなたの腕、その技術とは別に、あなたの精神はそれらを行使するに……」

 「安請け合いって、言ったよな?」

 雰囲気が変わった。カンテラの灯に向いていたヨハンナは、いつの間にか自分をしかと捉える双眸に気付く。幻惑と陶酔の煙に奪われていた虚無の瞳、それが今や煙でもタバコでもなく礼拝堂を照らすカンテラの灯を受けながら自分に向けられている。真っ直ぐと、揺れ惑うこともなく、光を正面から受け続けるそれはヨハンナも初めて見る物だった。

 「手遅れの子供、仮に助けられたとしても何の報酬もありゃしない。精々が貰える卵の数が一個おまけされる程度さ。そうでなくても一回の手術で道具は新調しなきゃだし、血止めや痛み止めの薬草だって数に限りがある。諸々を差っ引けば大赤字もいいところさ」

 「では、なぜ?」

 「頼まれたからさ。この子の父親に、大の大人が涙ながらに。自分達の『生きる意味』とまで言ってたんだよ?」

 汚れを拭き取った手が子供の頬を優しく撫でた。手術を乗り切った子に対するその仕草は慈愛に満ち、それを見つめる瞳もまたこの小さな子供を紛うことなく一つの存在と認識している目をしていた。

 「この子は親に愛されている。確かに、間違いなく、疑いようもなく愛されている。この世に無償の愛は無いなんて言われるけども、親が子に注ぐ愛だけは例外さ……無償かつ、無上のものさ。自分はそれを綺麗なもの、美しいものだと思った。だから引き受けた。報酬なら既に前払いで受け取っていたのさ」

 指先が懐に忍び込み一本のタバコを取り出す。カンテラの火で燻られた魔性の煙は一息吸って肺を満たし、ジェイクの正気を再び奪い尽くした。ものの五秒と経たずに彼の眼球は光を失い、乱された焦点は何も認めなくなる。もう彼は自分自身を識別できない。幻惑と陶酔の無明に自らを幽閉したのだから。

 「いーねぇ、いーねぇ。愛されてるって、いーいねーぇ。フヒ、ヒヒッヒヒヒヒヒヒ!」

 夜は耽る。救われた一人の子供と、救った一人の男。そして彼を見守る愛天使。三人が篭る廃教会を半月が夜天から見下ろしていた。





 翌日、ジェイクは廃教会から姿を消していた。礼拝堂の長椅子に横たえられた子供は健やかに眠り、その近くには世話になった近所に対する礼、そして急な旅立ちで診察が出来なくなった事への詫びを記した手紙。まだ診察が必要な人々への薬が置かれていた。

 彼がどこへ行ったのか知る者は誰もいない。そして、長らく廃教会に住み着いていた謎の住人が人知れず姿を消していた事実についても、誰も知らない。

 「すぅーーーふぅ。さてさてぇ、イルムさんに教えてもらった合流地点はどちらかねぇ」

 「ジェイク、ここから二里ほど北上した先に街道があります」

 「こりゃ遠いなぁ。途中で都合よく馬車が通ったりしないかねぇ」

 雪が降り積もった平原を行くのは、右手に大きめの鞄を持ち、全身から薬草と紫煙の入り混じった臭いを放つ男……ジェイク。

 そのすぐ背後に浮遊しながら追従するのは、エロス神より遣わされたキューピッド……ヨハンナ。

 ジェイクの目は何も捉えない。ただ自分の目の前が真っ白という事実と、地図のどの辺に自分がいて、どの方向に向かうべきなのか、ざっくりとした事しか分からない。自らが吐き出す蠱惑の煙に巻かれながら彼の両足はただ真っ直ぐに雪原を行く。

 そんな彼の両肩に手を添えて、ヨハンナは声を掛け続ける。自分の声を単なる“音”としか認識せず、話す言葉も単なる独り言、決してこちらに向けられたものではないと知りながらも、彼女は言葉を投げ続ける。

 「さあ、行きましょうジェイク。あなたの病みが癒える時まで、あなたの行く先を見守るとします」

 加護も祝福も無く、それにも気付かないまま男は行く。その手に人を救う刃を携えて。
19/03/13 10:02更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
「ヨハンナ」
種族:キューピッド
好き:人間観察
苦手:連邦当局の官憲
特技:姿隠し
天敵:特に無し

「ジェイク」
種族:人間
好き:喫煙
苦手:他人との会話
特技:診察と治療
天敵:弟

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