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第十一幕 星と世界:前編
 『星と世界 〜あるいは始まりと次に続く物語〜』










 アルカーヌム連合王国。諸侯が集うことで一大勢力へと成長を遂げた大陸の雄。多種族、多民族、多言語に多宗教、国家を構成する要素一つとって見ても多種多様に入り乱れ複雑な紋様を描く。

 全人口およそ二千万人。その内の約三割から四割が魔物娘であり、その伴侶となったインキュバスを含めれば比率は反転する。明緑魔界に属する故の豊富な物産を利用しての貿易が主な収入源で、隣国・サンミゲル公国との金融取引を含めれば大陸でも有数の裕福な国家としてその地位を確立している。更に隣接する国家にあのレスカティエを抱えながら建国当初からの親魔物領として知られ、昔から魔物娘とそれを愛する伴侶からはユートピアの如く語り継がれてきた西に置ける人魔の楽園でもある。

 国の中枢は諸侯を束ねる王室を頂点に、外交や経済を含む内政を選挙により選出された貴族が執り行うという珍しい政治体制を有する。後の民主主義の始まりとも言われているが、この時代は未だ政治は選ばれた一部の人民にのみ許された分野であり、政が国民主権に開放されるには更に二百年ほどの時間を要する。

 閑話休題。とにかくアルカーヌムという国は「それなりに」大国であるという認識を持ってもらえれば問題ない。後に西方大砂漠の古代王朝ネベウ・ホルアクティとの国交樹立、長く冷戦状態にあったゲオルギア共和人民連邦と停戦からの技術提供などを通じ周辺諸国との関係を重視、以後更なる成長を遂げ大陸情勢を牽引するまでの存在になる。西方世界における文化の発信地であり経済の中心地、それが後世の歴史学者及びその後身となる国家「アルカナ連合共和国」に生きる者らの共通認識となっている。

 とは言え、それらはまだ先の話。具体的には主神と魔王の決戦の後、「更に三百年ぐらい」後のこと。今はまだ過去。この国がまだ二人の王位継承者が政争の末に病没し、その混乱から立ち直ろうとしている十年の幕間の出来事。

 これは、賢王と称えられる七代目が迎えられるよりも……。

 砂漠の女帝が五千年の眠りから醒めるよりも……。

 極寒の竜尾山脈で姉妹が死闘に決着をつけるよりも……。

 遥か東の地で三人の『英雄』が発掘されるよりも……。

 当然、旧き世界を終わらせる悪魔が復活を遂げるよりも……。

 更に過去の物語である。





 人種と魔物の坩堝、アルカーヌムには様々な職業が渦巻いている。衣食住を賄う分野でさえ多種多様に存在し、王都の食事処だけでも大小併せて百は下らない。更にそれらの経営を維持する為に産業や工業も自然と発達し、国民の労働によって生み出される国力の大半はこの王都を初めとする各地の主要な都市によって賄われている。もし何らかの理由で王都の機能がダウンすれば、それだけで王国の政治的・経済的なパワーは失速の憂き目を見る。過去にあった『七人事件』がまさにそれであり、以来王国は外交上は穏健的な態度を保ちつつ外敵からの干渉を常に警戒しながら世代交代を行ってきた。

 だが内憂外患の言葉の通り、国体を揺るがす事態は国内から、それもよりによって国家の舵取りを行うはずの王室が発端となって起きた。後世に『二頭六代の暗政』とまで伝えられる暗黒時代、二人の王位継承者による骨肉の政争により王国の政治は乱れ、その飛び火を受ける形で幾人もの有能な大臣及び主力貴族らが粛清の憂き目にあった。おかげで暗君二人が揃って没した今もなお政治は乱れたままであり、粛清を生き延びた宰相とその細君が切り盛りし、そして陰ながらに宮廷道化師がその一助となる事で辛うじて細糸に吊り下がったような状況が続いていた。次に新たな王を迎えるまで十年の歳月を要する事になろうとは、この時はまだ誰も予想できないことだった。

 しかし、そんな王室の台所事情など下々が逐一知っているわけではなく、民衆からしてみれば毎日のように貴族が処刑台に送られていた時こそが暗黒時代であり、今となっては彼らの生活は平和そのものだった。数少ない大臣らの血を吐く努力により保たれた平和、その上で彼らは日々の自由を今日も謳歌しているのだった。

 そしてこれは、そんな王都にて商いを営むとある会社から始まる物語だ。

 「失礼、失礼! 荷馬車が通るぞ! 馬車が通る! 急いでいるのだ、ごめんよ!」

 朝焼けの静寂に包まれた王都の街道を威勢のいい大声を張り上げながら一台の馬車が駆け抜けていく。接近を察知した行く手の人々はさっと道を空け、慣れた感じで衝突を避けた。そのすぐ背後からガラガラと音を立てる車輪が猛スピードで通過し、あっという間に王都を取り囲む城壁の方角へと消えていった。

 「ったく、相も変わらず元気なもんだねぇ。商人も昔ほどはいなくなっちまったってのに、あんなに元気よく仕事を引き受けて……」

 「荷物の量じゃない、どんなに小さくても仕事は仕事……今時珍しい芯の通った気風のいい奴じゃねえか」

 「だな。ああいう奴がいてくれりゃ、王都が昔の活気を取り戻すのもそう先の事じゃねえのかもな」

 馬車が通っていった城門までの道を眺めながら商人たちは店を開いて今日も商売を始める。静かだった通りは少しずつ人々が集まり、昔日ほどではないが喧騒が満ちてきた。彼らの言うように王都に活気が戻るのも遠くはないのかもしれない。

 だが今回の主役は王都に住まう彼らではない。

 この物語の主人公は、たった今さっき街を飛び出していった荷馬車の主だ。いや、正確には主というよりは、荷馬車を引く人物というべきか。

 御者? いやいや、あの荷馬車に御者なんていない。そもそも馬車には誰も「乗って」いない。乗せられているのは荷物だけで人は乗ってはいない。では一体あの馬車の何者が主人公なのか?

 馬車を動かすのは御者ではない、馬だ。

 「本日天気晴朗なれども風強し! この時期は北の峰から吹き降りる寒風が身に沁みるなあ! ハッハッハッハ!!」

 馬は馬でもただの馬車馬ではない。人語を解し、下は四つ足、されど上は程よく引き締まり、恵まれた健康的な体躯から発揮される膂力は自分の十何倍はあるはずの荷車を軽々と牽引していた。

 ケンタウロスという種族は総じて誇りを重んじる傾向にあり、少し悪い言い方をすればプライドが高く頑固な部分がある。それが人間社会において馬車馬の真似事をしているなど、人魔の共存が始まって間もない頃は信じられない光景だった。彼ら彼女らが確かな相互理解を果たし、それぞれの持てる力を適所に振るうことを知ったからこそ成り立つ光景と言えるだろう。

 彼女の名は「アマナ」。王都に本部を置く運送会社に在籍する組員であり、その中で一番の稼ぎ頭。一度に大量の荷物を、しかも単独で運搬できるというケンタウロスの膂力を最大限に活かした運送スタイルはこれまでに多くの得意先や取引相手からも信頼が寄せられ、七日かかる道程をおよそ半分の四日で踏破したことさえある健脚はこれまで一度の故障もケガも無いほどだ。

 「ふむ! 受け取り場所は山中深くの村ときたか。そのまま越えるわけでなし、私の脚なら二日というところか。軽い軽い!!」

 遥か北に見える薄らと雪を被った峰。その中腹でのみ採れるという薬草を初めとする各種特産品の受け取りと運搬が今回のアマナの仕事だ。彼女にとってはいつもと変わらない楽な仕事、ほとんど行って帰って来るだけの簡単な内容だった。いつだったか新種の香辛料を運んだ時はどこで嗅ぎ付けられたか野盗に絡まれ続け、自慢の後ろ足で蹴飛ばしながらの強行軍だった。それを思えば大抵の仕事は簡単に思えてくるし、実際簡単だった。

 「急ぐこともない。鼻歌でも唄いながら行かせてもらおう」

 と言いながら傍目には結構な速度での移動だ。これが彼女の速達の秘密、何のことはない距離の如何に関わらずのほとんど全力疾走が彼女を超特急の配達屋に変えているのだ。故に彼女の配達する馬車は別名を『アマナ便』とさえ呼ばれ、得意先からは指名に次ぐ指名を受けるほど人気が高い。もちろん、荷物に対する配慮も欠かさない。

 アマナは元々は王都の外れに位置する森に住んでいた。本来なら労働を対価に金銭を得る街の暮らしとは縁遠いはずが、一族一番の変わり者と称されたその目線は常に人間達の暮らしを見つめ、いつしか気付けば彼女は街の住人になっていた。彼女にとって幸運だったのは、そうした行動にも理解を示してくれる友人がそれなりにいたことだ。誇りあるケンタウロスが率先して馬車馬をやっているなど昔気質の同族に知られれば絶縁ものだが、彼女に倣って少なくない同族がそれぞれ人里に下りて人々の生活に混じった。アマナはそのきっかけを作ったに過ぎない。

 何はともあれ、アマナが街の暮らしに馴染んでからかなりの時間が経つ。魔物娘である彼女はまだ年若い部類だが経過した時間は人間と同じ、それだけの時間が経過しているにも関わらず彼女は未だ独り身であった。

 ケンタウロスのアマナ、仕事が充実するあまり婚期を逃し続けているのが小さな悩みだった。

 「私もいい加減相手を見繕う時期か。とは言え、こうも忙しい仕事だと出会いもなかなか……」

 頭の片隅に追いやっていた難題を思い出し、鼻歌はいつの間にかその事への悩みの溜息へと変わっていた。公私の「公」の部分が充実しすぎるとプライベートが若干無味乾燥になってしまうのは、どうやら人間も魔物娘も変わりないらしい。なまじ仕事が性に合っている分、なかなか相手を探せないのが現状だ。そうこうしている内に目星い男性は残らず同僚にもらわれ、最近では入社時点で既婚者という者ばかりだ。後輩の一人にも精力的に働いてくれる男性がいるが、彼もまたダークヴァルキリーの妻を持つ身の上だ。片足が義肢でありながら馬車を引き同じように荷を運ぶ仕事に就いており、奥方もそれを陰ながらに支えている。ちょっとうだつの上がらない印象を受けるが、そこもまた愛嬌なのだろう。

 「私もせめて相手を持ってから街に来るべきだったか。嗚呼、若き時分の向こう見ず加減よ」

 とは言え誰でもいい訳ではない。誇りあるケンタウロスとして背中を預けるに足るほどの男となると、本腰を入れたところでそうそう見つかるものでもない。いい加減にまとまった休暇でも取って相手探しをするべきだろう。

 そんな事を考えながら山に続く道を疾走するアマナ。途中道々にある宿場町で適度に休憩を挟みつつ、すっかり顔なじみになった店員や久し振りに会った旅の途中の知人との会話を楽しむ。

 街道で旅人や商人が出逢えば必然的に異郷の話題で盛り上がる。決して効率や確実性のある情報伝達手段とは言えないが、この時代の旅人や商人、諸国を漫遊する吟遊詩人らがもたらす異国の話題は貴重な情報源とされ、新たな商売のきっかけは彼らの旅の体験談から得られることが多かった。実際アマナが運んだことがある新種の香辛料も、新大陸に辿り着いた船乗りらが持ち帰った代物だ。これより後世において大陸に花開く国際文化の爛熟は彼ら旅人や商人がもたらしたと言っても何ら過言ではない。

 「最近調子はどうだ。前々から言っていた噂の竜皇国には足を運んだか?」

 「いやぁ時期が悪かったよ。さすがは高原の大国、冬場に訪れるには気候も道程も厳しすぎた。登山口にも辿り着かない内に魔力酔いしちまったよ。新しい商売ルートの開拓は春になってからだな。アマナんところはすげえよな、そんな竜皇国まで仕事で行ってるんだろう?」

 「単に貿易の手伝いをしているだけだ。人足が足りないからと、隊商にうちの者を貸出しているに過ぎない」

 「まあこの季節の高原はなぁ。いい歳だろお前さん、あんま無理しなさんな。アマナはどうなんだい、最近調子出てないって聞いてるけどよ」

 「私がか? 誰だ、そんなホラを吹く輩は?」

 「いやいや仕事振りのことじゃねえよ。ほら、前に言ってたじゃないか。年内に相手を見つけて寿退社ってな」

 目を右上に泳がせこめかみを指で押さえながら、そんな事も言ったなと記憶を掘り返す。アマナ自身に自覚があるかどうかは定かではないが、ここ最近の彼女は行く先々で「相手が欲しい」という旨の発言を頻発していた。流石に寿退社云々については尾ひれ背びれだが、ゆくゆくは夫婦揃って馬車を引き大陸各地を駆け巡るのが夢だ。

 「年内、ねぇ。ありゃいつの、具体的には『何年前』の発言だったかなぁ?」

 「さてな〜。最近歳のせいでとんと記憶がな……」

 「ええい、茶化さないでくれ! 私だって自覚はしているのだ、自分の後先の考えなさについては」

 馬なのに猪突猛進とはこれ如何に、そんな下らないジョークも一瞬で消え去ってしまうほど、アマナは明確な焦りを感じていた。どうにも今日はそう言った方面の話題に転がりやすい。これは何とかして流れを変えようと半ば強引に話を切り替える。

 「そう言えばっ、最近北の話をめっきり聞かないな!? 東は霧の大陸にジパング、西は船乗りが見つけし新大陸、南は実り豊かな大森林ときて、何故北の話は耳に入らない?」

 アマナも気になってはいた。職業柄、耳聡いはずの彼女ですらこのところアルカーヌムより以北の話は全くと言っていいほど耳に入ってこない状態が続いていた。季節は秋の盛りをとっくに過ぎもうすぐ冬の只中、ましてやアルカーヌムの北側国境は「竜の尾」と呼ばれるドラクトルの連峰がそびえ立ち、好き好んで厳冬の大地に赴く者などいない。それでも全くの皆無ではないはず。こんなことは例年では経験したことが無かった。

 だが疑問を抱いていたのはアマナだけではなかった。

 「北は……ダメだ」

 ぼそりと、それまでの闊達な喋りとは打って変わり吟遊詩人の言葉が重くのしかかった。他の面々もその短い言葉に込められた真意を理解してか、意味深に頷いたり唸るだけであり、アマナただ一人が状況を計りかねていた。

 「北で何かあったのか?」

 「何かあったか、ていうか……。何が起こっているのか分からないってか。今あの国には誰も近づけねえよ」

 「国境を兵が固めてるんだ。山脈を越えるルートは全部塞がれて、許可を受けているはずの行商ですら通さねえと来たもんだ。今あの国を兵士以外が通行することは無理だよ」

 「山狩りでもやってるのか?」

 「いや、あの山で穴持たずの猛獣が出たなんて話は聞かないな。それならこっちに情報があってもいいだろう」

 この時代、田舎や山間における獣害は特に重大な問題だった。特に本来冬場に冬眠するはずの獣が徘徊する「穴持たず」は、食物の少ない季節ゆえに非常に気が立っており、積極的に人間でさえその爪牙の餌食にしようとする。

 だからこそ、そんな獣が出没すれば近隣にそれが知れ渡る。例えそれが国境として決められるほど高い山々での出来事でも、場合によっては隣国にも報せが入るはずなのだ。

 「情報統制……」

 ふとアマナが呟きを漏らす。だが何故そんなことをする必要があるのかという至極当然な疑問も同時に湧き、自然と雲散霧消した。幸いというべきか知人らの耳には届かなかったようで、不要な発言で彼らの不安を煽ることも無いまま久方振りの再会はお開きとなったのだった。

 目指す山村はドラクトル山脈のすぐ近くに位置していた。





 宿場町を離れたアマナの足は更に北へと向かう。山の斜面を吹き降りる風は更に冷たさを増し、向かい風の中を変わらぬ速度で馬車が駆けていく。石畳で舗装されていた道はいつしか砂利が混じるようになり、山に近づくにつれて悪路になっていく。

 その気になれば今日一日で村に辿り着けるが、そうなると現地の到着は夜になり村で一晩過ごさなければならない。村の者にも少なからず迷惑を掛けてしまうだろう。自分の脚ならそのまま一晩中駆け抜けて王都まで戻ることも可能だが、街道には夜盗も出没すると聞く。預かった荷に何かあっては自分一人の責任では負いきれない負債を背負うことになりかねない。この辺りなら野盗も獣も出ない。

 「旅道中の野宿は慣れっこだ」

 森に住んでいた頃から狩りで野宿をやっていた経験から、火打石で焚き火をたくなどお手の物だ。程なくして獣よけと暖をとるには十分な火力が賄えた。馬車の中には野宿用の薪も蓄えられている。彼女ほどの長距離を移動する運び手ともなれば道中の蓄えは必須、場合によっては一週間分の水と食料を積んで走ることもある。しかもそれで「片道分」だ。運送業とはいつの時代、どの国においてもハードワークと相場が決まっている。

 「今夜は冷えるか。大事無いとは思うが、一応防寒になるものを羽織っておこう」

 ワーシープの毛で作られたコートを羽織り、更に冷え込むだろう夜の寒波に備えて薪の量も増やす。四つ足の胴を横たえて、姿勢はリラックスしながらも周囲に対する警戒は怠らない。時期が時期とは言え、それでも野盗や獣は出没するものだ。用心に越したことはない。安眠効果もあるワーシープの毛皮を羽織っていれば、うたた寝でも十分な睡眠を摂れる。

 こくりこくりと、アマナの頭が舟を漕ぎ始める。夢現の中思い出されるのは懐かしい故郷の景色。森で狩りをし、草原を駆け抜け、風と一緒に走り続けたあの日々。走っているという意味でなら今も同じだが、あの頃は重い荷を背負わず体一つで駆けていた。今の暮らしに何ら不満はないが、あの頃のように身も心も自由になって駆け出したいと思う瞬間が無いわけではなかった。街に出て豊かな暮らしを知ったが、それと引き換えに少なくないしがらみも持ってしまったとふと感じることもある。

 (まあ、それも己で選んだ道。躊躇いも後悔もないさ)

 懐かしさをそっと胸の奥に仕舞い込み、アマナの意識は徐々に深くなる睡魔の静寂に身を委ねながら沈んでいった。

 そんな時だった。

 「……もし…………もし、そこのかた」

 声がする。その方向に反射的に動く耳が目で見るより先に相手との距離を捉えた。俯いていた頭を上げればそこには見立て通りに見ず知らずの部外者がいた。

 「すみません……。食べ物を、くれませんか」

 第一印象は、とにかく見窄らしいものだった。古代都市の壁画に描かれているみたいなボロ布を身にまとい、それで頭まですっぽりと覆い隠していた。僅かに見える足元は素足のままであり、ひと目でその者が尋常ならざる事情を抱えた存在であると見抜けた。

 「あー……うむ、私も旅の途中だからそれほど手持ちがあるわけではないが……」

 声からして男性、それもかなり年若い。ともすれば少年と言ってもいいほど特徴的に高い声音に、アマナは適当に茶を濁しながらも慎重にその様子を観察する。十中八九追い剥ぎの類ではないだろうが、それでも怪しいことに変わりはない。出来るだけ警戒心を表に出さずに対応する素振りをする。

 「旅の者か。見たところあまり遠出をする格好にも見えないが」

 「ええ、まあ……。すみません、自分の分はもう持ってなくて……」

 「ここで会ったのも何かの縁、少しで良ければ私のを分けてやろう」

 とりあえず怪しいには怪しいが、悪意は無いらしい。体力に恵まれた自分なら多少は食い分が減っても問題ないと、アマナは快く食料を分け与えた。そんなに味がいいわけではないが、それでも空腹よりはマシになるはずだ。

 「ありがとう……ございます」

 か細い声で礼を述べて、男の手がゆらっとアマナに伸びる。若い声とは裏腹に伸びたその手はまるで枯れ木か何かと見紛うほどに細く、皮膚は骨に張り付き節々が醜くその輪郭を浮き彫りにしていた。およそ生者にはあるまじきやせ細り具合に、引っ込みかけていたアマナの警戒心が驚愕とともに募り出す。

 (この男、本当に生きているのか? まるで死人だぞ)

 魔物娘として人間の生命力を感じ取れるアマナは、目の前の男がもはや今際のきわにある病人のような死に体であることを瞬時に見抜いてしまった。もはやこうして立って喋っていること自体が奇跡に近い状況だ。

 「ああ……ありがとう、ございます」

 食べ物を受け取った男はかすれる声で礼を述べると、それをゆっくりと口元へと運んだ。相変わらず顔はフードに隠れて見えないが、僅かに見える口元に向かって手が動き……

 不意に、止まった。

 そして……。

 「おい、どうし……っ!? おい、しっかりするんだ!! おいっ、おい!!!」

 男は食事を口にすることなく、それが唇に触れるか否かのところで何故か気を失い地に伏した。あまりに突然すぎる出来事にアマナはそれまでの警戒も忘れて傍に駆け寄り、その枯れ果てた体を抱き起こす。もはや呼吸をしていることすら怪しいほど微動だにしないその体は衰弱の極みにあり、このまま何もしなければその命が完全に尽きてしまうことを容易に判断させた。

 そして、この時初めてアマナは男の顔を拝むことが出来たのだった。





 「……………………ここ、は?」

 名も無き少年が目覚めたのは決して快眠故の覚醒ではなかった。むしろ目覚めとしては最悪の部類、その寝覚めの悪さは「あの時」を強制的に想起させるに足るもので、冬の寒さに固まった関節を強引に動かしながら上体を起こすと……。

 まずここが部屋ではない、それそのものが移動を続ける空間であることを知った。馬車の荷台は街道を行く度にガタガタと揺れ動き、その振動で目が覚めてしまったのだ。

 「おお! 気が付いたか!」

 目覚めた気配を感じ取って荷馬車の主が声を掛けてくる。今まさに帰路につくその姿は、気絶する前に自分に食料を分け与えようとしてくれたケンタウロスだった。

 「旅の道中で行き倒れるとはよく耳にするが、実物を目にしたのは初めてだ! 食い物を口にする前に気絶するとは、よほど張り詰めておったのだなあ!!」

 第一印象は、声が大きいということだった。早朝の雄鶏ですらもう少し加減を知っているのではと思いたくなるほど、とにかく声が大きかった。起き抜けの頭にガンガンと響く声量に完全な覚醒を促され、少年は痩せ衰えた我が身を何とか起こしてその元へと這い寄った。

 「む、まだ安静にしていろ! 目的の場所に着くまでもう少し時があるから、それまでは休んでおいた方がいい」

 「あなたが、ぼくを……?」

 「いかにも! 窮する者を捨て置いたとあってはケンタウロスの名折れ! アルカーヌムには眼前で倒れた者を見捨てて行くような薄情者は一人もいないと断言しよう!」

 顔は前を向いているのに相変わらずその大声は背後の少年によく届いた。気持ちのいいぐらい闊達な雰囲気を纏ったその女性の後ろ姿、その更に向こうには少年が今まで見たことがない景色が広がっていた。

 「うわ……!」

 「ハハハハ! 街を見るのは初めてか? 無理もない、東西南北を駆けずり回ったこの私でさえここまで立派な城壁にはまだお目に掛かったことがない!」

 まるで我が事のように喜びの声を上げ、仰ぎ見よとばかりにその手が掲げられる。その指先には冬の透き通る陽光を受けて煌く白亜の城壁があり、積み重ねられた長い歴史と人々の営みを感じさせるに十分な壮観さを誇って止まなかった。

 「アルカーヌム王都へようこそ。歓迎しよう、名も知らぬ旅人よ」

 「アルカーヌム……。そうか、ここが……」

 半ば呆然とした表情で呟く少年をよそに馬車は城門前、入都を待つ他の商人らの列に加わった。アルカーヌムでは信用のある商人に対し組合を通じて通行手形を発行しており、本来なら城門を通る際に必要な通行料の一切が免除されている。当然、アマナの所属する運送会社もそれを有しており、彼女も同様に城門を自由に行き来できる身分にあった。

 あくまで、「アマナ」はだが。

 「ああ、すまないが……」

 いよいよ検問……と言っても簡単な手形と本人確認だけだが……の順番が回ってきたとき、ふとアマナが少年に声を掛ける。それこそさっきまでと同じ変わらぬ調子で、彼女は事も無げにこう告げた。

 「納品リストにないモノを運び入れたとなれば私はお縄になってしまう。だから門を通るまで隠れてはもらえんか?」

 しれっとこの国の法律を犯しているという現状を教えられたのだった。

 城門は飾りではない。有事においては外敵を阻み、平時においてもまた関となることで人の出入りを管理している。国家による戸籍や家族登録という国民管理の概念が未だ無いこの時代、不審人物やそれらが属する組織団体の侵入を防ぐには入口でそれを排除する必要があった。通行料もその一部。纏まった金銭を持っているという事は、その金銭を得られるだけの真っ当な仕事に就いている、真っ当な人物である可能性が高い。言わば金を払って保証を買っているのだ。

 そこに人種不明、年齢不明、出身不明、何もかも不明な人間がふらっと現れれば言外に「捕まえてください」と言っているようなものだ。如何にアマナが擁護したところでそこはどうにもならないし、アマナ自身も不審人物の侵入を幇助したとして捕らえられる可能性が高い。故にここは良心が咎めるのを押してこっそりと通過する。少年の身分を明らかに出来ない以上、最も穏便な方法がそれしかないのだ。

 「やあ! アマナ! しばらく顔を見ないと思ってたが、どこほっつき歩いてたんだ?」

 職業柄、街の内外を行き来する機会が多くあるアマナは自然と城門勤務の者らと顔見知りになる。その会話は警護の任に就く者とは思えないほど気さくで、互いに慣れ親しんだものを感じさせた。

 「街道で昔馴染みに会っただけだ。ほれ、通行手形」

 「あいよ。んじゃ荷台を確認っと」

 手形を確認した次は当然荷台の点検に入る。だが警護の者は雨風を防ぐ仕切りをとっ払い簡単に内部を見回した後、すぐに閉めた。積み上げられた木箱の間に不審人物が隠れている事など、当然気付きもしない。

 「よっしゃ、通ってよし! んにしても、珍しい事があるもんだ。俊足のアマナが行き帰りに三日も掛かったなんてな」

 「だから言ったろう、旧い知人に会ったのだと。お勤めご苦労! それでは失礼する!」

 昔から何度もここを通り城門守護の者らからも覚えが良いからこそ通じた手段、それが誰にも憚ることなく堂々と正面から街に入るという選択肢。こうしてアマナは哀れな痩せ細った少年一人を無事に王都まで導く事に成功したのだった。





 王都に入って真っ先にアマナが向かったのは運送業者の詰所ではなく、彼女が住まうアパートメントだった。少し待っていろと言って彼女は自室に赴き、三分もしない内に戻ってきたその手には質素な服が一式あった。

 「女物の服装を好まなかった自分のセンスが、まさかこんなところで役に立つとはな。ほれ、いつまでもボロ布というのは格好がつかないだろう」

 そう言って投げてよこすのは生地をそのまま形にしたような簡素な服。柄も意匠ない、本当に着ることのみを求めたようなそれは男女兼用としてこの上なくピッタリな物だった。長身のケンタウロスが着るもの故かそれなりに丈もあり、それを着ただけで少年の膝下まですっぽりと隠れてしまうほどだった。

 「うむ、少しは見栄えが良くなったか! では私は商品の納品に行かなくてはならん。部屋の鍵は渡しておくから、私が帰るまでの間好きに過ごしていてくれ! ではな!!」

 矢継ぎ早にまくし立てまるで嵐のようにアマナは馬車を繋ぎ直して去っていく。後に残された少年の手には部屋を開ける鍵と、いつの間に捩じ込まれたかパンが持たされていた。怒涛の流れですっかり自分が空腹であることを忘れていた少年の腹は、ここへ来てようやくその目的を思い出したか盛大にその主張を再開したのだった。

 「……中に」

 とりあえず手持ち無沙汰に外をうろつくわけにもいかなかったので、言われた通りに部屋で待つことにした。部屋のドアは少年を住人としてすんなり迎え入れ、おそらく少年は生まれて初めて女性の空間に足を踏み入れた。

 中はとても質素というか、簡単な造りをしていた。服を渡された時点で何となく察してはいたが、さばさばした家主の性格をそのまま反映したように綺麗に小ざっぱりとしていた。必要最低限の家具だけが並べられ、唯一散らかっていると言っていい部分も藁を敷き詰めた寝台の周辺だけだった。そこだけが唯一、寝起きの際に体に纏わりついた藁が所々に散っているだけで、後は綺麗なものだった。

 窓を開け放つと冬のひんやりとした空気が人々の声と共に流れ込む。この時季に昼間とは言え好き好んで外気を取り入れようなど普通は考えないが、少年にとっては外の寒さなど何の苦も無い、それこそついさっきまでボロ布一枚を纏っているだけでも平気だったほどだ。これ以上の極寒を知る彼にとって王国の寒波など、まだ先のことであるはずの春の陽気すら感じられた。

 「ここは、とてもあたたかい……」

 少年の脳裏に思い出されるのは、全てが雪と氷に覆い尽くされた純白の世界。ありとあらゆる生命の存在を拒みそれを許さない、停滞と静止の地獄。あそこに比べればこの世の全ては等しく楽園に見える。



 北の大国、ゲオルギア共和人民連邦より少年は逃げてきた。



 ゲオルギア、あるいは単に「連邦」とも呼ばれる彼の国はその名の通り複数の小国が寄り集まって出来た国家である。天然の要害ドラクトル山脈を挟み大陸の北側に興ったこの国は、かつてそれぞれの国を統治していた政治的特権階級の一切を排除する革命という手段で一新され、烏合の衆となるはずだった国々は一つの主義思想の下に統一された過去を有する。

 “万民平等”……掲げる錦の美旗となって既に久しく、身分や出自に区別なしと耳障りのいい言葉は山脈以北の国々に伝播、瞬く間に同一思想の国家群を形成するに至った。血統によってのみ維持されていた支配体制を打破し、議会による民主政治を最初に取り入れた国としてゲオルギアは誕生した。人民が人民自身の手で政治を行うその在り方は一時は理想の法治国家として周辺国の注目を集めたほどだった。

 しかし、ある時を境に連邦はあらゆる国々との国交を絶った。外交はもちろんのこと、貿易は民間レベルまでほぼ完全に断たれ、山脈を越える手段を知る僅かな行商人や吟遊詩人だけが通行を黙認されている状況にあった。何の故があってそのような手段に出たのかは定かではないが、領土を侵攻されたわけでなし、周辺国は連邦に対して静観を決め込むことにしたのだった。それから十年、連邦の内情を真に知り得た者は誰一人として存在しない。

 唯一、その国から脱走してきたこの少年を除いては。

 「逃げたんだ……ぼくは、生きてあの国から……!」

 万感の思いで、自分の生命が今現在において保たれているという奇跡に震えを起こすほど歓喜する。一歩間違えれば、いや、逃げ出せる可能性など万に一つとして無かった。それが蓋を開ければ五体満足でここにいる。それを成し得たのが偶然であれ奇跡であれ自分は生きている、ならば運命に勝利したのは自分だ。

 アマナに持たされたパンを口一杯に頬張る。決して高くない安物の黒パンだが、同じ物でも連邦で食べたそれとはまるで異なる。咀嚼し空腹が満たされる度に脳裏にこびり付いた石の食感が拭われていく。かつて物を食べるということがこれほどまでに幸福に感じられた事があっただろうか。自分が今まさに生きているという実感に、麻痺しかけていた感情の動きも蘇ってくる。

 やがて腹が膨れれば自然と眠気がやってくる。流石に不在の家主を差し置いてベッドで寝るのは忍びなく、クローゼットを枕にもたれ掛かって眠ることにした。寝具として使うには固いものばかりだが、問題はない……石牢で眠るよりはよっぽど熟睡できる。

 「ごめんくださーい! アマナさーん、お届けですー!!」

 と、そうは問屋が卸してくれない。ここまで威勢良く呼び出された上、世話になった家主の留守を預かっている身の上でありながら狸寝入りを決め込むのはバツが悪いと思い、渋々ながら少年はその応対をするべく玄関に出た。

 「あの、アマナさんは、その……今は留守で」

 「ありゃ、そうですか。うーん、そいつは困ったなぁ。依頼主から本人に手渡しでと言われてるし。ここにいないとなると職場かぁ。でもあの人って一つ所に留まる事を知らないからなぁ〜」

 来訪者は手紙の配達人のようで、手にした手紙以外にも幾つかの配達物を抱えて忙しそうだった。

 「あの、ならぼくが預かっておきましょうか?」

 「え、でも……」

 「アマナさんに言われて留守を預からせてもらってますし、ちゃんと渡しますから」

 「はあ……。なら、お願いしますね」

 もう少し怪しまれるかと覚悟していたが案外すんなりと話は収まり、手紙を手渡すと配達人は次なる配達先へと急いで行った。代わりに手紙を受け取った少年はそれを棚に置き、自分は再びクローゼットを枕に睡眠に入る。そして程なくして心は涅槃に入り深い眠りの底へと落ちていった。

 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。

 何時間経っただろうか。自然と目を覚ました少年が見たのは、いつの間にか夜の闇に閉じた部屋の様子だった。人の気配はまるで無く、それはつまりここの家主が未だ帰宅していないことを意味していた。どうやら家の前で別れてから一度もここに帰ってきていないらしい。

 流石に家主不在がここまで続くことに不安を感じたか、少年は一度家の外に出た。街はいつしか昼の喧騒から夜特有の賑わいを見せ、すぐ近くの通りには一仕事終えた人夫たちが一日の締めに酒が飲めるところを目指してぞろぞろと歩く姿が見える。だがその中に恩のあるケンタウロスの姿は見えない。

 「……まさかっ」

 少年の脳裏に最悪のビジョンが浮かび上がった。

 今の自分は国外逃亡の咎がある、もしそれが誰かの察するところとなれば瞬く間にお縄にされるだろう。良くて強制送還、悪ければ即刻死罪……いや、この場合少年にとっての良し悪しは逆になるのか。どちらにせよ素性がバレれば少年にとって良い事は万にひとつも無い。自分の置かれている状況を理解した少年の行動は早かった。

 逃げよう。氷に閉ざされたあの国を逃げ出したように、ここから逃げよう。

 今の自分は九死に一生を得た身、それをみすみすこんな所で潰してしまう道理はない。生きる、生き延びてやる。地の果てまでも逃げ切って生きてみせる。

 着の身着のまま、少年は人ごみに紛れるように駆け出した。そのまま人の流れに乗ってどことも知れぬ場所へ逃げ落ちようとして……。

 「本当にすまなかった! この通りだ!」

 聞き覚えのある声に足を止められた。それは決して自分に向けられた言葉ではなかったが、その大きな声は不思議と少年の耳に残り、気付けば逃げるはずだったその足は声が聞こえた方向へと誘われるように動いていた。

 声の発信源は労せず見つかり、その様子を物陰からそっと盗み見る。その視線の先には奇妙な光景が広がっていた。

 「頭を上げてくださいよ、アマナさん! 実際の納期は余裕をもって調整してありますし、遅れと言っても他の業者さんに頼むよりずっと早く届けてくれたじゃないですか!?」

 「いや、実際の損益云々ではない、これは面子、信用の問題なのだ。私の『一日で届ける』という言葉を信用していただいたそちらには多大な迷惑を……」

 どうやら今回の荷運びは計画通りには行かなかったらしく、当初の予定を外れてしまったことを取引先に平謝りしているようだった。話を聞いている分には致命的な遅れにはなっていないようだが、どうにもアマナ自身の愚直な性格が非は己にあると譲らないのが真相のようだった。

 「それにしたって珍しい。アマナさんが遅れ……失敬、予定通りに行かないこともあるなんて。いったい何があったんですか?」

 店主のもっともな疑問に盗み聞きしていた少年が緊張で固くなる。もし彼女が自分の出自に関して既に何かを勘づいている節があるなら、自分は今すぐにでもここから逃げださなければならない。城門を越える手段など考えもつかないが、いざとなれば地下に潜伏するのも選択肢にある。残り一生を日の目を見れない場所で過ごす事になろうとも、命を奪われるよりは遥かにマシだから。

 「実はここだけの話なのだが……」

 アマナがそっと耳打ちの仕草をする。元の声が大きいのでその会話を拾うことに苦労はなく、少年の耳はその内容を容易に窺い知ることができた。

 その内容は……。





 アマナの所属する会社は王都ではそこそこ名前が知られており、規模こそ王国の経済を裏から牛耳っていると噂の『商会』よりはずっと格が落ちるが、その知名度と成長速度に関して言えば現存するあらゆる会社や団体の中でも群を抜いている。元は一個人が起した小規模の団体であり、今でこそ主流となっている運送業も最初は単発契約のみの後の世で言うところの日雇い・人材派遣に似た形態だった。人員もその日限りの労働者がほとんどで、今ほどの規模に成長するなど誰も思っていなかった。

 そんな街角のしがない運送屋を誰もが知る組織へ急成長させたのは、ひとえにアマナの功績によるところが大きい。どんな遠方でも短期間で仕事をこなす彼女の働きが評判となり、それが顧客を呼び続けた結果、店は王国ほぼ全土を活動圏内とする有数の運送屋として成長を遂げた。今では彼女の功績を称え、本店のドアに掲げられている蹄鉄は実際にアマナが使っていた物が看板代わりとして使われている。それほどまでに彼女の存在は店にとって大きなものだった。

 設立当初からのメンバーでもあるアマナ、その彼女が予定の配達に遅れたという事実は少なからず周囲を驚かせた。だが仕事に何ら支障が無かったことが幸いし、周りの者らも「まあ珍しいこともあるもんだ」と、軽く流す結果に終わった。それでこの一件は終わりを迎えたはずだった。

 だがそれとは別の事で、周囲は再び驚き惑うことになる……。

 「アマナさん、この荷物はどこに運べばいいですか?」

 「ああ、その運び先はこの地区だから……」

 「アマナさん、明後日に配達予定だったお得意さんからです。指定日時の変更を希望したいと」

 「うむ、分かった。後ほど担当の者に言っておこう」

 「アマナさん、お昼ですよ。一緒に食べましょう」

 「ハハハ、そう引っ張らずとも昼飯は逃げはしない」

 配達に遅れた例の日、それから僅かな休暇を挟んで戻ってきた彼女の傍らには何やら見慣れぬ人物がくっ付いていた。別にアマナが新人を連れてくるのは珍しくはない。彼女の人を見る目は確かだし、今一線で活躍している者の大半は彼女が声をかけた面々だ。

 だがそれでも、こんなことは今までに一度も無かったと断言していい。

 まさかあのアマナが男とつるんでいるなど。

 「ほら、落ち着いて食べろ。お前の食べっぷりは見ていて気持ちがいいが、それでも喉に詰まらせでもしたら大変だ」

 アマナとは孤高の存在だ。そこそこ人付き合いもあるし決して孤独ではないが、それでも特定の個人と長時間共に過ごすというのは稀だ。彼女自身のサバサバとした性格も後押しし、誰かと親密以上の関係に発展したという話も寡聞にして聞いた事はない。ましてや年頃の独身男性と連れ立っているなど、彼女が魔物娘であることを鑑みても考えられないことだった。

 今まさに、その「考えられないこと」が現実に起きていた。

 「たでぇまぁ〜。ひゃー、疲れただよ〜。この時期にドラゴニアの手前まで行けとか、無茶ぶりにも程が……」

 店のドアを開けて入ってくるのはドラゴニアとの貿易に向かった隊商に付き従っていた者達。先頭の者が王都に似合わぬ田舎丸出しの言葉遣いだが、既に彼はこの組合に入って古参の部類であり、片足が義足でありながらも馬車を駆って各地を走り回るやり手だ。今回の竜皇国への時季外れの貿易に際して集められた選りすぐりのタフネス達、それが義足の男を筆頭とした隊商組だ。

 「おお! おかえり。竜皇国の様子はどうだった?」

 「いやぁもう観光なんて楽しんでる状況じゃなかっただよぉ。寒いし空気は薄いし、逆に魔力は濃いわで、もうてんてこま…………ん?」

 背負っていた荷物を降ろしながら、ここでようやく彼らは見慣れぬ顔がアマナの傍にいることに気付いた。そして不思議がる表情は間もなく周囲と同じ驚きの顔に変わる。付き合いが長い分、今のこの状況が目を見張るものだと瞬時に理解したからだ。

 「ほへぇ〜! おでれぇたな。あのアマナさんが男を、しかも堂々と店に連れ込んでるだよ! 長いこと生きてると珍しいもんが見れるんだなぁ〜」

 「失敬な。私は別に逢引や逢瀬でここにいるのではない。むしろ、本気でそんな風に見られているとすれば心外だ。彼とは別にそんな関係ではない」

 「ほ〜ん……。んじゃま、そゆことにしとくだよ。にしてもお前さん、ここいらじゃあんまし見ない顔だな。名前は? どっから来なすった?」

 ここでようやく話題が少年本人に向けられた。そう言えば話題自体に気を取られ過ぎて、名を訊ねることさえ忘れていた。話題の渦中にありながらすっかり存在を忘れられていた少年はそれを不快に思うこともなく、むしろ清々しい笑顔で返す。

 「コニィです。昨日からここでお世話になってます。どうぞ、よろしくお願いします!」

 「正確には昨日は紹介だけで仕事は今日からだ。コニィは私が声を掛けた。年若いが気力と活力に溢れ、まさにこの王都の前途が形となったような傑物だと思わないか!」

 そう言いながらアマナはコニィの頭を撫で回す。人馬の膂力一杯で撫でるせいかコニィの頭はぐらんぐらんと左右に揺れ動くが、彼自身は嫌がる様子もなく、むしろ喜んですらいる。はにかんだ笑顔を浮かべているのが何よりの証拠だ。

 「昨日からこんな感じだ。何とかしてくれや。こちとらやもめ暮らしが長いってのによ」

 「出張組は辛いねぇ。んじゃ、俺っちは報告終わったら帰るだよ。カミさんが旨いメシ作って待っててくれてっからな」

 「おう帰れ帰れ! アマナも適当に切り上げて飯行ってこい。小僧をちゃんと案内してやるんだぞ」

 「ああ、分かっているとも! では行こうか、コニィ」

 「はい、アマナさん」

 連れ立って街に食事に出かける後ろ姿を同僚たちが微笑ましい顔で見送る。やがてその背中が街角に吸い込まれていくのを見届けた後、残った面々は二人の事について口々に語らうのだった。

 「ありゃ『背に乗せる』のも時間の問題だな」

 「いやいや、あのアマナだぜ!? ないない! 俺は『乗せない』方に賭けとくぜ」

 「言ったな? じゃあこっちは『乗せる』、だ。吐いたツバは飲めないぜ」

 「そっちこそ! こちとら負けがこんでるんだ」

 仲間の恋路を賭けの対象とする、魔物との共存がなせる国ではよく見られる光景だった。





 そんな仕事仲間のやり取りなど知る由もなく、街を行くアマナとコニィは揃って昼食を楽しんでいた。クラーケンの嫁を持つ主人が作るスミ入りパスタが名物料理の店だ。

 「いい連中だろう。ここでなら君も上手くやっていけると私は確信している」

 「はい。何から何まで、アマナさんにはお世話になりっぱなしで」

 「気にする事はない。旅は道連れ、世は情け、私と君があの場で出会ったのにも意味があることなのだ」

 コニィ……ドラクトルの山村に向かう道でアマナが出会った少年は、何の因果か今では王都の住人としての生活を始めていた。限界まで痩せ細り衰弱死手前だった肉体は十分な栄養が行き渡ったことで肉付きがよくなり、頬骨が目立っていた顔もふっくらとなり、血色は言わずもがな掠れていた声も前よりはっきりと利けるようにまで回復していた。

 「本当に……ぼくなんかの為に、ありがとうございます」

 「頭を上げろ。感謝されて悪い気はしないが、私は君に崇められたいがために手を差し伸べたわけではない。君が今こうしてここにいられるのは、君自身の幸運の賜物。それ以外の何でもない」

 「でも、きっかけを作ってくれたのはアマナさんです。国を飛び出したぼくにここまで……」

 ふと、アマナの手が先を制した。皆まで言うなというジェスチャーにコニィもはっとなって口元を押さえる。ここは食事処、どこで誰が聞き耳を立てていないとも限らない。不用意な発言は自らの寿命を縮めかねない。

 「『国元を離れた』……そうだろう?」

 「そう……ですね」

 政治的亡命以外での国外への無断逃亡は判明すれば重罪だ。特に今現在において排外主義に傾倒する連邦の知るところとなれば、即座に王国に身柄の返還要求の後、死罪が言い渡されるだろう。

 そして、その内情を知りながら匿っていたアマナもまた……。

 「あの日、アマナさんはお仕事に遅れを出してしまった理由を、ぼくのせいにはしませんでした。『旧い知人に会って話し込んでいた』なんて分かり易い嘘までついて」

 アマナはあの日、予定の日時を遅れたことを問われた際に決して少年の存在を口にしなかった。終始一貫して「知人との語らいに盛り上がった」とだけ話し、それで押し切った。周囲からの信頼篤いアマナの言葉を疑う者はおらず、同じようにコニィの紹介もまた彼女直々故に怪しまれることなく受け入れられたのだった。

 「私の口先ひとつで前途ある若人の未来が救えるのなら、己の立つ瀬など安いものさ。私よりも、君はどうなのだ。私に全てを話してしまって良かったのか?」

 逆にコニィの方は自分の出自を包み隠さずアマナに話した。自分が北の連邦より逃走してきたことを、自分が国外逃亡という重罪を犯した身の上であることを。そしてそれら全てを聞き届けた上で、アマナはコニィを匿うと決めた。バレれば連座で自らの首も絞めかねないと知りながらも、彼の身の安全を守り通すために迷わずそれを選んだ。

 「風の噂程度でしか聞いていなかったが、山脈の向こうはそんなにひどいのか?」

 「ひどいなんてものじゃないです……」

 元々、連邦が形成される以前、山脈以北の国々は農業が国家の運営を支えていた。年中通し極寒の気候が支配する地での農業は過酷を極めたが、さりとて他の生き方が出来るはずも無し、北の国々は時代を経るごとに進歩するどころか逆に袋小路に迷い込んでいた。そうして苦労の末に実らせた作物さえも、貴族たちは容赦なく奪っていった。

 そんな停滞と堕落が何世代にも渡って続いていた現状は、突如として起こった革命の火によって灰燼と化した。特定の指導者の手腕ではなく、何者かの発した思想によって突き動かされた不特定多数の人民は数世紀に渡って溜め込み続けた義憤を爆発させ、遂に自分達を虐げ続けた貴族を弑し、人民の人民による人民の為の政治を行える国を勝ち取ったのである。烏合の衆となるはずだった彼らは統一された思想の下に集い、更なる拡大侵攻を続けた果てに山脈以北に誕生したのがゲオルギアという一大国家だ。

 万民平等、あらゆる人種は階級を撤廃され宗教の軛からも解放される。搾取による圧政ではなく、人民自身による正当な統治による支配、まさに人が人を治める理想国家になるはずだった。

 しかし、理想は腐れ落ちた。

 「全てを国が管理するという名目で、ぼくらは全てを奪い尽くされました。代々麦を育ててきたうちの畑は政府の命令で綿畑に変えられました。一つや二つじゃないです、全ての畑は食べ物ではない作物を作らされ、そのための土地は民衆から接収するんです」

 「それでは民草は飢えるだけだ。彼ら自身の食い扶持はどうなる?」

 「初めは政府が食糧を配給してくれました。でも、接収する土地が増える度にそれは減らされてしまい、遂には……」

 家族がギリギリ食べていけるだけだった配給は次第に数を減らされ、時を置かずに半分になり、遂には麦の一掴み、豆の一粒さえも寄越さなくなった。依然畑に実るのは食用に適さぬ工芸作物ばかりで、民は自然と飢えていった。そうして持ち主のいなくなった土地を政府は容赦なく接収し、そこを更なる畑に変えた。生活に窮した人々は村を離れようとしたが政府は許さず、接収した土地を使って作った大農園か禿山の中腹を刳り貫いた坑道で強制的な労働に従事させられた。理想国家とは仮の姿、国民の生活を生き死にまで含めて全てを徹底した管理の下に置き規制する、弾圧と搾取と統制の圧政国家……それがゲオルギア共和人民連邦の偽らざる正体である。

 コニィもまた、そうした強制労働に駆り出された家の者だった。清貧を尊しとした農家はいつしか極貧に喘ぐようになり、生産性が落ちた事を理由に土地は接収、路頭に迷う家族は揃って鉱山での労働に従事させられた。来る日も来る日も痩せ細る体に鞭打たれながら穴を掘り続け、粗悪な黒パン一個だけを報酬に休みなく働かされ続けた。

 「抗しようとは思わなかったのか」

 「思いませんでした。住む場所も食べ物も取り上げられて、それでも誰も命までは取られませんでしたから……諦めちゃってたんです、これでもいいかって」

 最悪とは、「最も」「悪い」と書く。何が「最も」かそうでないかは比較対象が無ければ講じることは出来ない。自分を含む全員が同じ劣悪な環境に立たされていた彼の周囲を鑑みれば、思考が麻痺して正常な判断ができないのは無理からぬことなのだろう。

 しかし、そんな状況がいつまでも続くはずもなかった。

 「妹が……死にました。元町医者だった人が言うには、栄養失調……っていうんですか? 育ち盛りなのに満足に食べさせてもらえなかったからだって……」

 「それは……」

 「急に、怖くなったんです。それまでどんな酷い仕打ちをされても殺されはしない、命までは取られないって思い込んでたのが……死んだ妹が穴の外へ、掘り出した土と一緒に捨てられた時、自分もああなるんだって思って……」

 自分たちが労働力ですらない、ただの使い捨ての道具だと思い知らされてコニィは逃亡を決意した。もはや自分以上に衰弱し運命を待つだけの両親たちを捨て、彼は一人極寒の地獄を抜け出した。後ろ髪を引かれる思いよりも自分が生き延びることを選んだ。その事に後悔はない。

 「自分は『穴ぐらのイヴァン』になれたんです。死ぬだけだった穴の中から抜け出て、自由を手に出来たんです」

 「あー、失礼、その穴ぐらの何某とは?」

 「ぼくの故郷に伝わる、まあおとぎ話みたいなものです。山の坑に取り残されたイヴァンが自分の手だけで穴を掘り進め、やがては外に出て自由を得る……そんなお話です。故郷では『自由と闘争』の象徴として長く語り継がれてきました。でも、いつしか自由なんてどこにもないと思い込んでもいました……」

 それが家族の死をきっかけに爆発し、無力な少年は最後の力を振り絞り自由を勝ち取った。ここにこうして生きている事こそがその証左だ。

 「自由は在った……それを知れただけでぼくは満足です」

 最悪を知った少年は多くを望まない。薄暗い穴ぐらの中ではなく日の下で静かに過ごすことを叶えた彼にとって、今まさにこの時こそ天国にいるようなものだった。

 「アマナさん、本当に……本当に、ありがとうございました」

 「男児たる者がそう簡単に頭を下げるな。私に礼など…………ん、どうした? 大丈夫か!」

 「ごほっ、ごほっ!! ああ、気にしないでください、ただの風邪……ですから。っごほ!!」

 初めはコニィの言うようにただの風邪かと思ったアマナだが、咳き込み方が尋常ではないことにすぐ気付いた。喉の奥から絞り出すような、聞いていてこっちが息苦しくなるような咳にアマナはその小さな背をさすることしか出来なかった。

 たっぷり三分もの間コニィは咳き込み続け、ようやっと収まりがついた時彼の体は体力をひどく消耗した状態となっていた。ともすれば呼吸困難の一歩手前、水を飲んで落ち着きを見せた今でも大きく息をする度に隙間から空気が漏れ出るような音が聞こえている。吸って吐くごとに人を不安にさせるその音は、その呼吸器官に重大な疾患を抱えていることを雄弁に語っていた。

 「おかしいな……山を越えるまでは何ともなかったのに」

 「向こうとここでは気候が違いすぎる。慣れさえすればきっと良くなるだろうさ。それまでは、そうだな……引き続き私の部屋で暮らせばいい」

 「そんな、ご迷惑は……」

 「身寄りのない若人が助けなしに生きられるほど、ここも甘くはない。これから仕事場にも馴染むことを思えばむしろ好都合。もう既に君と私の関係も周知となったわけだしな」

 「えっ!? い、いや、あの……ぼくとアマナさんはそういう関係じゃない……です、よね?」

 文字通りの青息吐息から一転して真っ赤になった顔で吃りながら否定するコニィ。あくまで語尾が疑問形なのは彼自身そういったからかいに免疫が無い故か、あるいは助けてもらった事への恩義以上の何かを感じているからか。

 (おっといけない。相手は病人かもしれないというのに、私としたことが浮かれ過ぎだな。反省反省)

 これでは同僚らに若いツバメを捕まえたと持て囃されて当然だ。思えば自分も魔物的に見て「行き遅れ」に片足入れかけている部類、多少浮かれ気分だったのは認めるしかない。

 だが目の前の少年は魅力的なオスというよりは、むしろ保護すべきか弱い小動物の印象が強い。あくまで男性に対し使う表現ではないかも知れないが、触れただけで折れてしまいそうなガラス細工の彼には滾る激情をぶつける相手ではないと無意識に理解しているようでもあった。

 (私が守らなければ。それが、あの日この子に手を差し伸べた私の取るべき責任というものだ)

 イカ墨パスタを口いっぱいに頬張るその口元を丁寧に拭きながら、アマナは年齢に似合わぬ苦労を強いられたコニィの開けた前途に思いを馳せるのだった。彼は幸せになるべきだと、強く強く確信しながら。





 アマナとコニィの生活は、それこそまさしく「馬があった」ように大事なく順風満帆なものになった。ズボラではないが元々プライベートを重視しなかったアマナだが、コニィとの共同生活で私生活が充実するようになったためか以前より仕事ばかりに打ち込むことが無くなった。それは決して彼女が怠慢になったことを意味しない。むしろ公私のメリハリがついたことで仕事は前よりも捗るようになっていた。

 二人はどこへ行くにも、何をするにも一緒だった。長く一人で仕事をしていたアマナはコニィを相棒として扱い、自分の引く荷車に彼を乗せて共に仕事場へ向かい、そして同じ屋根の下で同じ食事をした。二人はそれまでも同じ時を過ごしたかのように違いに馴染みあい、徐々に二人をからかう者も減っていった。もちろんそれは二人の関係を祝福しないものではなかったし、それまで散々彼女のことをからかった手前、二人がそれ以上の関係へ進展する事を誰もが期待していた。

 だが片や青いとさえ言えぬあどけなさの残った少年と、片や男女の仲など匂わせもしないサバサバ系女性、どうにもこうにも進展は無いまま長閑で緩やかなな時間だけが過ぎていった。

 長閑な、このまま何も変わらないままでも良いと、そう思えるほどただ静かで平和な時間が二人の間を流れていった。一時は発作のように咳き込んでいた喘息らしき症状もしばらくすれば収まりを見せ、冷え込みを見せる冬にも難なく耐える様子だった。

 何も起こらない。何も変わらない。

 それでいい、このままでいい。静かで平穏な、何にも脅かされる事のない日常こそこの少年に与えられるべき最高の報酬なのだから。

 彼は今この瞬間を掛け値なしに幸せと言ってくれている。ならばその状況がいつまでも続くことだけを祈ればいいと、アマナは思っていた。

 その日はいつもと変わらぬ、よく晴れた日の正午だった。たまたま休日が重なった同僚宅に招待され昼食を共にする機会があり、アマナとコニィは連れ立って厄介になっていた。

 「どうだコニィ、もう仕事は慣れただか?」

 「ええ、おかげさまで。でもまだ皆さんにはご迷惑をお掛けしているようで、早く一人前になりたいです」

 「焦ることはありませんよ。お話を聞く限りでは頑張っておられるようですし、何よりアナタは物覚えがいい」

 奥の台所では早速奥方と仲良くなったコニィが昼食をこしらえる手伝いをしていた。鉱山で石を掘り出す作業をさせられていた男とは思えないほど、その指先は女のように細く奥方に教えられた通りに調理をこなす姿はとても様になっていた。

 「そういやぁ、コニィがうちに入ってどれくらいになるだ?」

 「二週……いや、三週目かな。言っている間にもう一ヶ月経つのかな。時間が経つのは早いものだ」

 「んだな。なあ、コニィよぉ。お前さん、自分の馬車を持ってみないかい?」

 「ぼくの、ですか?」

 この仕事において自分の車を持つということは即ち、独り立ちしアマナのように自分だけで仕事をする意味を持つ。独り立ちそのものは少し早めだが、早すぎというほどでもない。それこそアマナは入ってから一週間足らずで今のスタイルに落ち着いた。その彼女の元で仕事ぶりを眺めていたことを考えれば、一ヶ月で独り立ちを促したとして何ら不自然はない。後は本人の気持ち次第だ。

 しかし、その提案に待ったを掛ける者があった。

 「いや、それには及ばない。コニィには引き続いて私と一緒に仕事をやっていけばいい。なあ、コニィ?」

 「え、あ……はい、そうですね」

 一ヶ月足らずとは言え、コニィもアマナの性格については把握していた。自他共に自立心を持つことを良しとする彼女なら、きっと我が事のように喜び背中を押してくれると思っていた。だが実際に掛けられた言葉は予想とは正反対で、少なからずコニィを動揺させた。だが特に不都合があるわけでなし、彼女がそう言うのならと反発もせずに受け入れた。

 だがしかし、そこに真っ向から反する者もあった。他でもない提案者である同僚だった。

 「ちょいとおかしいな。俺っちはコニィに聞いてんのに、何でアマナから返事があるんだ? おかしいよなぁ?」

 「私はこの子の後見人、言わば保護者のようなものだ。その私が現状を鑑みた上でそう判断した、何か不自然か?」

 「コニィは器用だし物覚えもいい。分からない事は率先して聞いてくれるし、伸び代もあるし、何より他人に受けがいい。こんな上玉を後生大事に抱え込んでちゃ損だべ、早ぇとこ独り立ちさせたほうがいいとは思わないだか?」

 同僚の言っている事は間違ってはいない。使える人材に育て上がったのならそれを効率的に配置することに何の不自然もない。むしろ仕上がったものをいつまでも教育と称し手元に置いておくことの方が長期的には損な選択だ。

 だがなおもアマナは食い下がる。

 「とにかく、ダメなんだ。この子に独り立ちはまだ早い。しばらくは私が指導を重ねるから、心配は無用だ」

 「おおコワ! ちょーっと見ない間に随分とまあ色気付いちゃって」

 「何とでも言ってくれて構わない。とにかく、コニィに独立はまだ早いということだけ覚えてもらえればそれでいい」

 コニィの持病のことは周囲には言っていない。周知にすることで彼が疎外されることを防ぎたかった事もあるし、それによってその未来における選択肢が狭まってしまうことをアマナが危惧しなたからだ。幸いにも症状らしい症状はあの時の一回だけで、今では血色も良くなり回復したように見えている。だが男にしては未だに線の細いその姿が必要以上に保護意識を刺激するのか、アマナとしては彼を手放す気にはなれなかった。

 いや、「手放す」などと無意識にでも考えている時点で彼女の心は半ば決まっているようなものだろう。しかし、もう片方の当事者にとってその心中はすぐには察せられないものだった。

 「アマナさん! ぼく、やってみたいです!」

 「コニィ!? 君は自分が何を言っているのか……」

 「分かってます、分かってますよアマナさん。ぼく、いつも思ってたんです。このままじゃいけない、って。それにアマナさんだって言ってくれたじゃないですか。『お前はもっと何でもできるようになる』って」

 「言った、確かに言ったさ。でもそれは……!」

 その先は言えない。ここで今更「君の体を心配している」とでも言おうものなら、それは即ちあの日言って聞かせた言葉が嘘偽りに堕してしまう。誠心誠意、誠実さをモットーに生きてきた“今まで”のアマナなら決してしないはずの手落ち、その矛盾は今こうして彼女自身を揺れ動かすものとなって襲いかかった。

 今ここで彼女自身、理解してしまった。自分はこの少年の輝かしい前途を期待していたのではなく、か弱い彼が出来るだけ長く自分の近くにいる事を望んでいただけなのだと。誇りあるケンタウロスではなく、いつの間にか唯一人の「女」として接することを選んでいたのだと。

 「アマナさん。アマナさんから見て、ぼくはまだ頼りないですか? ぼくはあなたの期待に応えられるよう頑張りたいだけなんです」

 心中知らぬコニィの無垢な言葉が無慈悲な刃となってアマナの胸を抉る。私心で手元に置いていたことを自覚してしまった今、もはや言葉だけでなくその濁りなき眼差しすら正視に耐えぬほどの圧があった。

 暴き立てられる。自分の本性が、本音が、本心が……今まで表に出ることなど無かった、そもそも芽生えてすらいなかった黒い部分が白日の下に晒される罪悪感で心臓が押し潰されそうになる。二の句を告げられない、この純粋無垢な存在を前にすればあらゆる言葉は意味を持たない。

 「アマナさん、ぼくは…………」

 少年が振るう無垢で無慈悲な刃が続けざまに振るわれようとした。もう止めてくれと絶叫する寸前までアマナの心は追い詰められようとしている。今ここに快活で公正だったケンタウロスはどこにもいない、あるのは突きつけられた矛盾という名の罪科に戸惑うただの女だ。

 だが、その刃は振り下ろされなかった。

 「あ…………か、ぁ」

 「コニィ……? どうした?」

 「う……うぅ……!」

 アマナだけでなく当のコニィも確信していた。今この時が何よりも幸せであると。不幸であった分の幸福が一度に纏めてやってきているのだと、子供ながらにその至福を味わっていた。



 ならばこそ、頂に登った後は転げ落ちるのみ。



 口元を押さえていた手、指の隙間から胃の腑からせり上がった物が溢れ出す。叫びも呻きも無く、突然の嘔吐にアマナ達は何が起きたか一瞬分からず呆然と、それこそ目の前で蹲り背を丸め一切の声を発することなく臓腑ごと吐き出すようなその姿に戸惑う暇すら与えられていなかったのだ。

 やがてそれは一瞬にして真紅に染まった。「血が混じった吐瀉物」ではなく、「胃液が混じった吐血」に変貌した嘔吐現象はコニィに咳き込むことすら許さず、濡れた布を引き絞るように止めどなく、その体のどこにそれだけの量が入っていたのか驚愕するほど、床一面を真っ赤に染め上げて……。

 「ぁ…………────」

 子供が水溜りで飛び跳ねた時のような「ズチャ」という粘着質な音の後、コニィはぴくりとも動かなくなった。自らが吐き出した命の赤に俯せとなり、飾り気のない服がグロテスクな赫一色に染色される。

 「コニィ……?」

 返事はない。沈んだ鼻先からは気泡すら出てこない。全身に広がった血の赤に押さえつけられたように、その小さな背は微動だにしなかった。

 呼吸が、無かった。

 鼓動は、分からない。

 だが否応なしに理解した、いや、させられたことが二つある。

 「コニィ!!」

 少年の病は治ってなどいなかったこと。

 「コニィィィイイイイイイイイッッッ!!!!」

 そして、その病は少年の体を“取り返しのつかない”ところまで追い込んでいるということ。

 二人の幸せはここで終わる。

 ここから先、誰も「救われる」ことは無い。

 形も理由も無い絶望はすぐそこまで迫っていた。
16/11/10 02:34更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 オラオラvs無駄無駄、ではない最終章前編。十話が終わりの物語なら、今回は始まりの物語。
 「シリアス物の前日譚は基本的にハッピーエンドにはならない」の法則。何故なら、本編の連中がハッピーエンドを迎える為の踏み台にされるから。

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