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第十一章 星と世界:後編
 「突然だが、湖の魚は海では生きられない。逆も然り。まあ常識である程度は想像の範疇だろうとは思うが、一応これを念頭に入れてこれから私が述べる一連の報告に耳を傾けてほしい」

 「ナメクジを思い浮かべるといい。あれに塩を掛けると縮む事は余りにも有名だが、そもそも何故そうなるかご存知か? 体表の塩分濃度を調節しようと体内の水分を吐き出した結果、あの哀れな陸上軟体生物は斯様にも滑稽な姿を晒してくれるのだよ」

 「魚もまた同じ。淡水に生きる種が海水域に進出しようものなら肉体はみるみる間に萎み、人間で言うところの脱水症状を引き起こして死に至る。逆に海水魚を淡水に放てば、雪崩込む水分が体内の塩分を過剰に薄め塩分不足で同じ結末になる。原理こそ違うが、人間が大量に汗をかくのと同じだな」

 「さて、それを踏まえた上でもう一度説明しよう」

 「今回私はこの試みを実行に移すにあたり、この国の要地にいくつかの『淡水』を形成した。変質した環境下における彼らの変化を観測し、過程を検証し、結果を記録するためだ。その目論見は諸君らの尽力もあり大事なく成就し、一定の成果を上げつつある」

 「しかし、これから諸君らに話すことは既に定例会で挙げられている報告とは直接の関わりが無い事を先に言わせてもらおう」

 「結論から述べるなら、放棄したエリア・ドゥヴェナーツァチより脱走者が出た」

 「静粛に。諸君、どうか静粛に。事態は確かに不測のものではあるが、この事態はこの計画及びこれまでの成果を脅かすものではないと断言しよう。むしろその逆、この事件は今後の計画進行において重要な転機となるだろう」

 「放棄したとは言えエリア・ドゥヴェナーツァチはかつて盛況な『淡水』の地。既に独自の『生態系』が築かれた今、その環境下より抜け出した『魚』がどうなるのか……諸君ら、興味が湧かないか?」

 「だが問題が皆無というわけではない」

 「知っての通り、外交下手な我らが無能なる最高評議会はこの計画がもたらす成果について懐疑的だ。戦場の空気も計算式の解も知らぬ俗人共に財布の紐を握られた身としては、実に、実に実に忌々しいことだ」

 「もしこの事態が椅子を温めることしか出来ない無能らの知るところとなれば、奴らが幅を利かせてくることは容易に想像できる。諸君、それは非常に、非常に由々しき事態だ」

 「というわけでだ、諸君。まことに残念だが、水槽から出た『魚』を回収する。その後に経過を観測し、過程を検証し、結果を記録しよう」

 「では諸君……」

 「楽しい楽しい、『狩り』の時間だ」





 「ひとまずは、これでいいだろう。偶然とは言え、この我輩が王都に来ていた幸運を喜ぶのである」

 突然の吐血の後に失神したコニィが担ぎ込まれたのは医者ではなく、一人の魔道師が経営する金物屋だった。彼はアマナの旧い友人の連れ合いであり、実家兼工房で鍛えられた金物を売りに遥々王都までやって来る。今日はたまたま来ていたところを、共通の友人である同僚の男の提案で診療所として使わせてもらったということだ。

 「いやぁ〜、助かっただよ。さすがは魔道師さま! 持つべきは友人だべなぁ!」

 「今度我輩に業務外の仕事を押し付けてみよ、その義足に神経を鑢掛けする猛毒を仕込むのである」

 「済まない魔術師殿。この礼はいつか必ず」

 「金銭など不要。普段からうちで鍛えた蹄鉄を贔屓にしてもらっているのでな、たまに家に顔を見せてくれるだけで構わんのである。その方が家内も喜ぶ」

 差し当たりコニィの体には回復の魔術が込められたマジックアイテムがこれでもかと装飾され、奥のベッドに絶対安静として寝かしつけられた。喉に溜まっていた血は全て吐き出させ、呼吸困難まで引き起こしそうになっていた容態は一応の安定を見せている。

 「まあ一ヶ月と言ったところか。よくも人体をここまでボロボロに出来るものであるな、今生きているのが不思議なくらいだ」

 「……何で言わなかっただ? アマナ」

 「言えると思うか?」

 「そりゃそっか」

 同僚もコニィの日々の働き振りは知っていた。だからこそ、彼が重篤な病に侵された身であると知れば間違いなく止めただろう。残酷なことに、それはこの無垢な少年の望むところではない。

 「予兆はあったんだ。会ったばかりの頃は咳き込んでばかりで、でも最近はそんなことも無くなって……」

 「だがそれは続いていた。どう見てもこの小僧の病状は昨日今日でぶり返した程度ではない。先天性か、あるいはよほど不健康な暮らしぶりだったか……」

 含みを持たせた言葉と共に魔道師の視線がアマナに向けられる。その心底まで見透かすような目に当てられてアマナは身じろぎながら顔を逸した。

 この期に及びアマナはコニィの素性については沈黙を貫いた。それは彼らを信用していなかった訳ではなく、あくまでコニィの身を案じての判断だった。彼の秘密がどこから漏れるか分からない以上はそうするより他になかった。

 「とは言え、それも短い間で済む話か。我輩がこの小僧につきっきりになる必要も無いだろう。数日もここにいれば充分か」

 「何から何まで……。だが、完治にひと月か。流石は魔術師殿、ここまでの重体をたったそれだけで……」

 「ああ、一ヶ月だ」



 「一ヶ月で、この小僧は死ぬ」



 一瞬、空気が凍った。いや、それが本当に一瞬だったのか実際には数分も経過していたのか、それを判別する能力すら欠如していた。アマナの理性に相当する部分がその言葉の意味するところを理解してしまうことを全力で拒んでいた。

 だが悲しいかな、短刀のように短く適切で、この上なく残酷なまでに簡潔なその言葉はあらゆる過程をすっ飛ばし、真実結論のみを出していた。即ち、是言葉通りの意味合いだ。

 「いや…………いや、ちょっと、待ってほしい……! 話が、違うっ!?」

 「何が違う? 我輩、はっきりと言ったはずだが。今生きているのが不思議だと」

 「魔道師さまや、それは言葉が一言も二言も足りなさすぎなんだな」

 「そうか」

 「違う、違う違うっ!! そうじゃない!! なんで……どうしてコニィが死ぬことになるんだ!? 一ヶ月で治ると……!」

 「勘違いしているようだから言っておこう。我輩は一ヶ月で小僧が完治するとは言っていない。むしろ、これだけの重体でどうして生き続けられると思った?」

 そう言って魔道師は懐から出した紙をアマナに投げつけるように渡した。そこには判で押したような几帳面な字がびっしりと紙面を埋め尽くし、それら全てがコニィの小さな体を蝕む病魔がもたらした残忍な結果を記したものだった。

 「消化器官と各内臓部位の機能不全及び重度の炎症。気管を初めとする呼吸器全般を侵食する結核に酷似した症状。全身の筋肉組織の変質による著しい運動機能の低下。他にも体内の各部に腫瘍、骨の密度強度は常人より弱く、末梢神経に至っては壊死を起こし掛けている」

 つらつらと並び立てられるのは紙面にも書き記されている病毒瘴気の百鬼夜行、あるいはその病が吹き荒れた痕跡。およそ唯一人の人体に起きた不幸として見るには悪意の片鱗すら感じられる、悍ましいと言い表すより他にない現状だった。

 「もう一度言う。何度でも言う。この小僧は、死ぬ。心臓が止まるか、息をすることを止めるか、脳髄が内側から溶け出すかは定かではないが、行き着く結末は皆同じだ」

 「…………」

 呆然となった頭に少しずつ現実が染み透る。全身の力が抜けて、その胴が地面に落ち着く。

 本当は薄々感じてはいた、この小さな少年の体が見た目ほど回復していないことなど。だがそれでも、それでもと、時が経つ内にきっと良くなって元気になってくれるのだと、僅かな希望を夢見ていた。

 しかし、その希望は断たれた。唯一の望み、あらゆる絶望を癒す特効薬たる「時間」は、もうこの少年には与えられていないのだから。

 「…………どうすれば、どうすればいい」

 「どうにもならん。治療も、延命も、事ここに至っては実を結ばん。むしろ、苦しむ時間を伸ばすだけなのである。貴様が真に小僧のことを想うのなら、あとは時の流れに全てを委ねるべきであるな」

 誰かが言った、時間は平等だと。今にして思えば何と欺瞞に満ちた空々しい言葉だろうか。天より与えられた時間が真に平等だというのなら、この無垢な少年は何故幼いとさえ言える身空で命尽きねばならないのか。どんな罪を犯し、どんな業を重ねたという証があるのか。

 しかして、その嘆きはアマナが捧げるべきものではなかった。

 「ぼくは……死ぬ、んですか」

 「っ! コニィ、お前気がついて!?」

 絞り出すようなか細い声は沈黙の中でよく通り、少年の意識が無事に覚醒したことを教えた。あるいは、覚醒「してしまった」というべきか。惜しむらくは、少年の精神と人格は自身に起きた出来事を知り、あまつさえその結末さえ理解してしまえるほどの冷静さがあったことか。

 「ですよね……。何となく、そんな気はしていたんです。おかしかったんですよ。今まで全部全部、こんな上手く行くはずない、きっとどこかで……落とし穴があるって……」

 「そんなことはない……そんなことはない。お前は、もっと、これからも、もっと……!」

 何か言わねばならないと感じていた。でも何も言えなかった。全てを理解した彼にはもうどんな慰めの言葉も意味を持たなかった。口にすればそれは地上のどんな罵詈雑言よりも悪辣で薄っぺらい偽善にしかなり得ない。もはや言葉で解決できる段階をとうに過ぎ去ったが故に。

 だと言うのに、この少年は……。

 「アマナさん……ありがとうございました」

 「なんの、ことだ」

 「ぼくに、こんな良くしてくれて。見ず知らずのぼくなんかのために……」

 「それ以上喋れば更に短い寿命をもっと減らすことになるのである」

 声は小さく嗄れて、一言一句を絞り出す度に命をすり減らしていくコニィ。だがそれでも彼は魔道師の警告を無視し、自分に寄り添うアマナに言葉をかけ続ける。

 「アマナさん。あとどれだけぼくの命があるのか分からないけど、一つだけ……お願いしてもいいですか?」

 「ああ。ああ、何だ? 私に出来ることなら何だってやる!」

 「ありがとうございます。その……」

 「あー、俺っちらはちょいと外出てるから! ほら行くだよ魔道師さま」

 「おい、ここは我輩の店だぞ。おい」

 コニィの言い淀む様から何かを感じ取った男二人が部屋を後にした。その背を申し訳なさそうに見送った後、コニィの目は再びアマナを捉えた。その目に見据えられたアマナはただ彼の言葉を待つ。恐らくそれがこの少年の遺言のようなものになると確信を秘めながら。

 「夢を、見ました。雪の景色、小麦畑、耕す土の匂い、懐かしい顔……。あんなに、あんなに嫌だったのに、逃げ出したのに……夢に見るのは故郷の光景ばかりでした」

 何を言わんとしているかは察せられる。アマナもそこまで鈍感ではない。自らの命の定めを知った時に人が思い浮かべるのは唯一つ、過去の記憶だけだ。自らの人生を振り返り逆行する、その果てに見るのは己の本質、自らが最期に何を求め欲するのかというところ。

 「帰りたいのだな……自分の、生まれた場所に」

 「わがままを言ってごめんなさい。もう最後なんだと思うと……どうしても」

 死にゆく運命を変えられぬというのなら、せめて最後はその望みに沿ってやるのが人情というものだ。しかし、そうと分かっていても頷き難い事情もある。

 「一度抜け出したお前が再びあの国に行けば、どんな目にあうか。それが分からないほど愚鈍でもないだろう?」

 「分かってます。けど、ぼくはもうそう望まずにはいられないんです。同じ命を落とすなら、せめて自分がよく知る場所で……」

 もはや事ここに至ってはコニィの意志を変えることなど出来ようはずもなく、アマナは説得の言葉を持たなかった。全ての覚悟が決まっている男にこれ以上どんな言葉を掛けろというのだろう。

 「ああ……お前の好きにするといい」

 結局、アマナが最後に出した言葉は明確な肯定でも否定でもない、どちらにも取れる曖昧な彼女らしからぬ返答のみであった。それ以外に彼女が出来たのは、水を持ってくると取って付けたような言い訳で彼の前から離れるだけだった。





 「随分と女々しいな。いや、元より女であるのだからそれも当然であるか」

 「盗み聞きとは趣味が悪いぞ。私としては友人の亭主がそんな俗な輩とは思いたくない」

 部屋を出ると店の主がアマナを待ち受けていた。この様子からすると室内でのやり取りは把握されていると思っていいだろう。

 「小僧の肌は白い。王国の北方、教国の民でもあそこまで色素の薄い肌は稀も稀。となれば、自ずとその出身も知れようというもの」

 「だとしたら……何か?」

 「一応、言っておこう。あの小僧にこれ以上の深入りは止めておくのである。これは貴様が家内の友人だからこその言葉と知るのである」

 「……あの国に、何が?」

 「知らん。知らんが、故にこそ断言できる。この世全てを知り尽くしたはずの我輩が、『知らぬ』と言うしかないその意味を今一度よく考えておくのである」

 「…………」

 「ではな。忠告はしたのである。後は貴様で考えよ。にしても……」

 何か含みのある言葉、そしてこの取って貼り付けたような薄ら笑い。アマナもそこそこ付き合いが長いので分かってしまう。こういう表情の魔道師はろくな事を口走らない。そして事実その通りになった。

 「お前ほどの者が、手元に置いたはずの男が逃れてしまうことを恐れて震えるとはな。なるほど、強がっても所詮は女ということか」

 「ッ!!」

 「? 何故怒る? こういう時は笑うものなのだろう。ジョーク、つまらぬ戯言なのである。ハッハッハァ」

 「……ああ、戯言だよ本当に」

 思わず口汚く罵りそうなくらい、そんな言葉を飲み込みながらアマナはこの人の心など分からぬ不躾な男に言う。

 「蹄鉄の替えを頼みたい。私の分が取ってあったはずだな」

 アマナは彼の忠告を無視することを決めた。





 三日後、アマナは纏まった休みを取ると旅支度を始めた。そして僅か一日の間に全ての準備を終えると、四日目の朝には王都を発った。何も知らない周囲には遠くの知人を訪ねるとだけ言っておき、己が半身とも言える馬車を駆って堂々と正門よりの出立だった。

 その荷台に一人の少年を乗せて。

 「すまない、またこんな無体な運び方をしてしまった」

 「いえ。大丈夫です」

 密入国者のコニィを連れ出すため、彼を積荷に偽装させての出立。予断を許さない彼を木箱に詰めるのは心苦しかったが、そうでもしなければ彼の願いは叶えられない。

 「まっすぐ北でいいんだな」

 「はい。あの山へ……。そこから先はぼく一人でも行けますから」

 「無茶を言うな。ちゃんと送り届ける、最後まで面倒を見させてほしい」

 荷台には数日分の食糧とワーシープの毛皮で作られた防寒着を乗せ、装いは完全に冬支度。目指すは北方、天然の要害たる竜尾の連峰。人馬と病人、片方は生きては戻らぬ死出の旅。

 「長旅になる。共を連れ立って行くのは久しぶりだ。どうかコニィさえ良ければ話し相手になってくれないか」

 「ぼくなんかで良ければ……アマナさん」

 気分が重くなる身の上話は前に聞いた。だから今度はその逆、山を越えゲオルギアに着いたら何をしようかと話し合った。

 「聞けばゲオルギアにはパンに具を詰めたものがあると聞く。確か名は……」

 「プィリジキですね。色んなのがありますよ。昔は母さんが良く揚げてくれました」

 「なに? 揚げるのか? 私はてっきり、パンと聞いていたから焼くのだと」

 「揚げるのと焼くのがあるんです。うちは揚げてました。もしよかったらご馳走しますよ? 上手く作れるかは分かりませんけど」

 死にゆく者と、それを見送る者とは思えぬほど微笑ましく、そしてささやかな会話。表面的な事情しか知らない者が見れば、これから待ち受ける悲惨な運命から目を背け傷を舐め合う行為にしか見えないことだろう。もちろん、二人の心中はその真逆だ。

 いずれ死すとしても、山を越えてすぐに命を落とす訳ではない。ならば出来るだけ早くコニィの望みを叶え、いずれ来るその時までを思うままに過ごそう……。それが二人で決めたことだった。

 悲しむ時は終わった。これからは、楽しいことだけを考えて生きよう、と。

 山の斜面は北方の寒風をもたらし、旅人たちを拒み続ける。北に行けば行くほどに寒さは厳しさを増し、風景を彩る程度だった雪も徐々に増えているようだった。途切れた街道の先には蹄と車輪の跡が轍となり、たった二人の旅路が遮られることもなく続いていく。

 とはいえ、アマナ一人ならともかく、今日一日で全ての道程を行くことは出来ない。山の手前、木々を分け入る手前辺りで野宿とした。

 「今夜はここで過ごそう。さて、火を起こすか」

 「手伝います」

 「ああ、すまない」

 荷台の中には予め藁が敷き詰められ、そこを寝床とすることで夜を越す。差し詰め簡易式の馬小屋といったところか。雨風も凌げる野宿となれば上出来だ。

 焚き火を挟んで二人の会話は続く。

 「そしたら父さん、ぼくを担いで一緒に川に飛び込んだんですよ。信じられます? 真冬で氷が流れてくるような川にですよ?」

 「ハッハッハ! 寒中水泳か! それは何ともはや、災難だったなぁ」

 「風邪をひかなかったのが不思議なくらいです。あれ以来どうも水辺は、ちょっと……」

 「分かる、分かるぞ。私も泳げないというほどではないが、体形ゆえに素潜りが出来ない。足も足で水を掻くには不便だしな」

 「アマナさんでも苦手なことがあるんですね。こほっ……こほ」

 「冷え込んできたか。そろそろ眠るとしよう。明日にはあの山の中腹辺りには行っておきたい」

 「はい……」

 敷き詰められた藁は適度に体温を保つ役割を持ち、常人より体温の高いアマナの馬の体が傍で眠るコニィの体も温めてくれる。姉弟のように寄り添って眠る二人は音の寒波をしばし忘れ、明日に待ち受ける厳しい道程を思いながら微睡むのだった。





 旅路は二日目にして過酷を極めた。

 大昔より多くの旅人を拒み続けた冬のドラクトル、その真の恐ろしさは山頂を乗り越え以北より迫る大寒波にこそある。乾いた寒気の突風は草木を一瞬で枯らし、山を乗り越え流れ込む雪は吹雪となって登山者に襲いかかる。

 まして季節は冬の真っ盛り、獣道ですら完全に雪に覆い隠されてしまう時期だ。そんな季節にこの厳しい連峰を越えようなど正気の沙汰で下せる判断ではない。

 「ここから先、馬車では無理か」

 ここにいるのは片や寒さに強いケンタウロスと、片や死に場所を求める半死人。ここに常人の判断を下せる者はいない。

 「車はここに置いていこう。ここからは私の足で踏破して見せる」

 綿を目一杯詰め込んだ防寒着だけを羽織り、後は僅かな食料と水、そして行商人から譲り受けたルートを記した地図を頼りに山越えを敢行する。旅することが多いアマナですら、これほど厳しい冬山を越えるのは自殺行為に等しい。

 だが彼女は行く。その背に今まさに消えることを選び取った小さな命を乗せて。

 道は険しい。加減を知らぬ吹雪は四つ足に支えられたその体を横殴りにし、大の大人の体当たりを喰らってもびくともしないアマナを大きく揺らす。大河の瀑布を思わせる吹き降ろしに、髪には霜が纏わり睫毛は凍った。最初は順調に動いていた脚も次第に自由を失い、一分かけて一歩踏み出すのがやっとな状況に陥るのにそう時間は掛からなかった。

 背後からの言葉は無い。腰に回した腕はしっかりとしがみ付いているので眠ってはいないだろうが、このまま雪中で立ち往生ともなれば幾重に防寒をしていても体力の減りは抑えられない。

 「今日一日でここを越えるのは無理か……! 致し方ない、あそこにお誂え向きな洞穴がある! 今日はあそこで野宿だ、それでいいなコニィ!?」

 声は聞こえないが、代わりに背中に二度頭を打ってきた。今はそれだけで精一杯らしい。

 四つ足のアマナが身を屈めずに入れるほどの洞穴は二人で過ごすには程良く、いつ止まるとも知れぬ吹雪が去るまで仮の住まいには充分だった。

 本来、アマナの膂力を以てすればここまで労する事は無かった。しかし、旅人が慣れ親しんだ山道は使えない。他でもない連邦の兵士がそこを固めているからだ。人が満足に通れると判断できる道は使えず、道なき道を無理にでも通らなければこの山越えは不可能だった。ともすれば通常の工程に掛かる三倍の時間を掛けねばならないかもしれない。

 当然の帰結として、地図に記されたルートは最難関。運が良ければ通れるが、その裏返し、「運が悪ければ」そのまま命を落としかねない茨の道だ。

 「…………」

 今一度、アマナは少年を見やる。毛皮に包まった彼は辛うじて呼吸こそしているが、いつ容体が急変するとも知れぬ身の上。そうでなくてもこの寒さは生身の人間には厳しすぎる。ここで山を降りるのが正常にして賢明な判断だろう。

 しかし……。

 「…………」

 「……いいのだな。私はお前を、君を連れて行ってもいいのだな?」

 振り返った瞬間にぶつかり合う視線、一瞬の交差だったがそれだけで互いの意志を確認し合うには充分だった。コニィの顔に恐れはなく、最初の決意に揺ぎはなかった。もはやその静かな目には狂気に近いものがあり、薄ら寒さを感じたのは決して気温のせいだけではなかった。

 そう、この期に及び怖じ気付いたのは何を隠そうアマナの方だった。

 「お前の……本当の望みは、それだけなのか?」

 アマナとて少年の死を本心から望んでいる訳ではない。心の奥底では一縷の希望を、起こり得る事など決して無いと理解していながらも、それが起こって何もかもが喜びの内に解決してしまわないかと夢想すらしている。都合のいい奇跡が起きてくれるのではと……。

 そんな事は有り得ない。世界はそんなに優しく出来てはいない。物事とは放置しておけば常に悪い方向へと転がり落ちて行くものなのだ。最悪が訪れる前に出来るのは対策を取り延命を試みるか、全てを受け入れ……あるいは諦めて……すっぱりと切り捨てるかの二者択一。だが往々にして後者を選び取る者は少ない。

 何の躊躇もなくそれを選ぶのなら、その選択をした者は異常、もしくは……。

 「なら…………どうすれば、いいんですか」

 「コニィ……」

 「ぼくは……何て答えれば、いいんですか」

 受け入れることを、諦めることを強いられただけなのかも知れない。

 「アマナさん、一言だけでいいんです……嘘だって、あのお医者さんが言っていたことは、出任せの嘘っぱちだって……言ってください」

 「そ、れは……!」

 言えない。彼女の信条がどうこうではなく、アマナという人物の心根がどうしようもなく嘘を吐けない。たった一人を一時安心させるための小さな偽りさえ、その口は告げずにいる。

 「言えませんよね。だって、本当のことだから。分かってる、分かってますよ……今こうして話してても、とっても苦しいんです。痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い……! 体が引き裂かれそうで、息をするだけで……!」

 思い返せば、コニィという少年はいつも笑っていた。だがそれは本心からの笑みだったか? 全てを諦めて、自分には届かぬものと思い知らされたが故の、渇いた空虚な笑みではなかったか。

 そんな弱々しい、精一杯の虚勢だけでここまで続けてきた彼が……本心から死を望むと、受け入れているとどうして思えたのか?

 「生きたいに決まってますよ」

 それは、小さな少年が初めて口にした生の肉声だった。

 取り繕うことを、装うことを止めて、己が死に恐怖するただ生身の子供がそこにいた。

 「死にたくない……。死にたくない、です。何でもします、何でもやります。何をすれば、ぼくは生きられますか。死なずに済むんですか!?」

 「コニィ」

 アマナが思っているほどコニィは強くないし、彼女がそう望んでいるほど潔くもない。

 「うっ……ごほっ、っが……!」

 突然、むせ始めたコニィが血の塊を吐き出す。鮮やかなものではなく、どす黒く濁ったヘドロのような血反吐は一気に地面を濡らし、全身を走る激痛にコニィは獣のような雄叫びを上げた。

 「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!! あああぁあああああああアアアアアァァァァーーーッ!!!!」

 全身を掻き毟り、苦しみ悶える様はもはや地獄の責め苦を科される亡者さながら。爪が剥がれ、肉が抉れても、その程度の感覚では肉体の内から滲み出る苦痛を止められず、叫びと共に吐き出される大量の血は更に短い彼の命さえ削り取っていった。

 「コニィ! しっかしろ、コニィ! コニィ!!!」

 「ああああっ、あああああ……!」

 痙攣を起こし全身を震わせる少年の口に、アマナは躊躇なく己の指を差し込んだ。噛み砕かんばかりに容赦なく食い込む歯など気にも留めず、ただひたすら、この小さな少年がこれ以上傷つくことを防ごうとした。

 たっぷりと五分以上にも及ぶ全身の痙攣は突然収まり、またいつ取り上げられるとも分からぬ一時の安息が与えられた。命そのものを削り取られる、ある種究極の拷問。そしてそれは心までをも削ってゆく。

 「ごめんなさい……アマナ、さん……。ぼくは、死ななくちゃいけない、のに……わがままばかりで」

 「何を、何を言っている! あれほど生きたいと言っていたお前が、何をそんな弱気な……!」

 「違うんです。違うんですよ……アマナさん。ぼく、本当は、こんなところに来たくなかった……。あの暖かい場所でずっと、過ごしていたかったんです。でも、ぼくが嘘をついたから……これは、罰なんです」

 「それは、どういう?」

 「…………怖かった。たった一人で、誰もぼくを知らない場所で……死んでいくことが、たまらなく、怖かった」

 「…………」

 「あなたに……そばに、いてほしかった」

 「っ!」

 一瞬、外の吹雪の音が止んだ気がした。

 混じり気無しの純心、それがコニィの偽らざる、本当の気持ちだと思い知らされた。

 「どこでも良かったんです。でも、ぼくの知っている場所は、アマナさんと暮らした場所と……この寒い山だけ。あなたと一緒に居たかったから……ぼくは、ぼくは……」

 「私と共に居るための、連れ出す為の方便だったのだな」

 街にいては仕事にかまける自分では、確かにこのか弱き少年の傍に居続けることは難しいだろう。人を真に死に至らしめるのは孤独と不安だと、きっとこの子もそれを分かっていたからこそ誰かが傍にいてほしいと願ったのではないか。

 「お前は、静かに終わるのではなく……その時を、誰かに見守ってもらいたかった……。ただそれだけなのか」

 ささやかな、死にゆく定めの者が今際の瞬間に抱く、ほんの小さな、それでいて切実な願い。

 人は、独りでは生きることも死ぬこともできない。

 コニィは終わる刹那に“誰か”を求め、その“誰か”にアマナは選ばれた。たったそれだけ、それだけの願い。

 その願いを、どうして嘘偽りと罵れようか。

 「……いいんだ。いいんだよ、コニィ。お前は悪くない……悪くなんかないんだよ」

 震える肩を、痛みに悶え苦しむその頭を優しく抱き留め、孤独と苦痛に苛まれるその心を救うように、アマナはコニィを抱き締める。痛みと寒さを和らげる温もりに少年の震えも徐々に収まっていった、

 「お前は、ここに戻りたかったんじゃない。ちょっと里帰り、“帰って”みたくなっただけ……だろう? 決して、暗く寒い、お前が聞かせてくれた辛い場所に“戻りたくなった”わけじゃない、そうだろう?」

 「許してください……。ぼくの、嘘を……」

 「いいや、私はむしろ嬉しいよ。私のような粗忽者をそこまで買ってくれているとは」

 「そこつ……? そんなこと。あなたは、優しくて、きれいで……とても、とても……」



 とても、美しい。



 「────」

 眩暈を感じたのは、きっと錯覚ではないだろう。かっ、と体温が上昇し顔が紅潮するのを止められない。自分が女だという自覚は当然としてあったが、ここまでそれを意識させられたことがあっただろうか。ましてやそれが、憎からずどころかいっそ愛おしくも思っている相手からの直接の言葉ともなれば……。

 「あぁ……嗚呼、いけないな、どうにも、その……ちょっと、あれだ」

 逆上せた血が顔から戻ってこない。それなりに長い時間を生きてきたつもりだったが、まだまだ未熟だ。何故なら、こんな気持ちになったのは初めてだからだ。

 知識としては知っていた。“こういう時”には“こういう反応”になるものだと、事前には分かってはいた。だが聞き及んでいたのと実際に経験するのではかなりの差があった。心臓の鼓動が耳にうるさく響くのを覚えながら、その鼓動の一つひとつが自分の寿命をすり減らしていくようにも感じられる。

 「お前は……悪い子だ。こんないい歳した女を捕まえておいて……」

 「イヤ、でしたか?」

 「嫌じゃない。嫌いではない。むしろ……そうだな、むしろ私は」

 抱きかかえた体をぐっと引き寄せ、震える小さな頭を両手で包み込みながら顔を近づけ……

 「────」

 「──……!」

 今度こそ、音が消えた。外の吹雪はもちろん、呼吸も、僅かな布擦れの音さえも。世界には二人だけが存在していた。

 唇同士が触れ合うだけの簡単で淡白な、淫靡さなど欠片もない、ただのキス。でもきっとそれだけで、二人の煩雑とした心の行く先を定めるには充分だった。

 「嫌、だったか?」

 「〜っ! 〜〜〜〜っっ!?!?」

 面白いぐらいに首が左右に旋回する。その様子がおかしくて口元が緩みそうになるが、そこを引き締めてアマナは問う。

 「はしたない女と蔑むか? 知り合ってそれほどの時も経っていないのに、唇を許してしまう女と失望したか?」

 「いいえ……いいえ! 夢みたいです。ぼくは……あなたを……」

 「夢なものか。お前は生きるんだ。これから先もっと、もっともっと……私と一緒に、な?」

 再びコニィを抱き寄せ、今度は躊躇いなく、そして最初よりも積極的にキスをした。

 げに不可思議は男女の仲。距離の遠近に関わらず、一度通じ合えば心は深く結びつく。そして離れられない。離れる男女など、即ち最初から結び付いてはいない。繋がった男と女の間にはこの世で最も強固な錠が掛かる。

 今日この日、ひと組の男女が結ばれる。





 ケンタウロスの性事情は、そのアグレッシブな日々の体力消費と違わず情熱的なものだ。何せ、どう睦言を交わそうが最終的に後背位に落ち着くあたり、原始的かつ動物的な情動を感じさせずにはいられない。体形的に、肉体的にそれ以外は出来ないのだから致し方ないのだが。

 もちろん、相手の如何に関わらずそこに行き着く。例え相手が筋骨隆々の大男だろうと、例え成長途中の少年とさえ呼べぬ子であっても、同じやり方を要求する。せざるを得ない。

 「ど、どうか? 何かおかしなところでもあったか?」

 「…………」

 体形的にどうしようもないとは言え、秘部を突き出す形というのはプライドの高いケンタウロス的にはかなり難易度が高い。人間同士でも恥部を晒すというのは中々にクるものがある。しかも相手が年端もいかない子供ともなれば、その胸に去来する背徳感は推して知るべしだ。

 性の経験に乏しい、というよりほぼ皆無であるコニィは自分の眼前に広がる光景に対し、完全に言葉を失っていた。恐らく、自分の目の前を占有する女性的器官については何ほども知らないだろうし、膨れ上がる青い情動との接し方に対しても無知である可能性がある。

 「あ、ぁぅ……」

 「ん。ああ、それとも、お前にはこっちの方が嬉しいか?」

 防寒着はいらない。外気と触れた瞬間、肌が硬直し鳥肌が立つが、そんなものは内側より溢れ出る熱に比べれば何の支障もない。むしろ最初はこっちから攻めておけば良かったと、遅きに失した気付きに恥じ入る心を隠すので精一杯だった。いきなり臀部から見せつけるというのは、我ながら混乱しているとしか言い様がなかった。

 小さくもなく、かと言って大きすぎず、適度なサイズの魅惑の果実が晒される。幼さ残る男児に性を意識させるには、むしろこっちの方がよっぽど効果的だった。

 「うわああ……!?」

 「フフフ、顔を赤くしたり青くしたりと忙しい奴だ。ほら、目を逸らすな。触ってみるか?」

 口調こそ問いかけだが、その手は早速少年の腕を取り自身の胸へと導いた。乾燥した外気とは真逆に、しっとりと湿った素肌は鍛え上げられた肢体からは想像もできないほど柔らかく、五指はゆっくりと沈み込むように吸い込まれた。その奥にはまるで骨など存在しないかのように。

 「やわら、かい……です」

 「だろう。いや、私自身も驚きを隠せない。もう少し固いと自分で思っていたからな。私の体も、女だったということか」

 「……………………」

 アマナの独白など耳に入っていないのか、コニィは目の前の膨らみを揉むことに全神経を集中させていた。およそ快楽と呼べるものをもたらさない稚拙な触れ方だが、その必死さがアマナに少年に対する愛おしさを更に募らせた。

 「もっと、もっと触れて欲しい。お前のしたいように、していいんだからな」

 「はい……!」

 理性の殻に覆われたコニィを少しずつ解きほぐしていく。

 年若い少年にとって女性の胸とは、性的興奮よりもまず母性を覚える。生まれて誰しも最初に口にするのが母の乳房なのだから然もありなん。満足な前戯など知りもしないコニィだったが、好きにしろと言われれば、当然そのような行為に出るのもむべなるかな。

 「ひあっ、急に舐めるのはっ……」

 「ご、ごめんなさいっ!?」

 「い、いや、いいんだ。少し驚いただけだ」

 舌のざらついた感触に思わずらしくない声が飛び出す。まるで腹を空かせた赤子がそうするように、母性の象徴たるその乳房に口を付けるのもまた道理。そこには相手を悦ばせようという下卑た意識は毛ほども無く、本当に「好きにしていい」と言われたのでそうしただけ、自分の内から滲み出る欲望に身を任せた結果だった。

 そう、欲望。どんな生物にも共通する最適解、それを導き出す絶対の数値。

 アマナは女、メスだ。その姿、その声、その仕草、その匂い、その肌、その肉、存在を構成する全てが、異性を惹き寄せる機能を全力で発揮する。知識や理性ではなく、これを前にすれば全てのオスは本能的に何をすれば正解なのか理解してしまえる。さながらそれは教えられずとも巣を作れる鳥のように、遺伝子に刻まれた絶対遵守の教えなのだろう。

 コニィも男、オスだ。もう理解は及んだ。何をどうすれば正解なのか、もう分かっている。

 「コニィ、私のことをどう思う? どんな風に思ってくれている?」

 「ぼくは……」

 「いや、自分から誘っておいてお前にばかり本心を問うのは筋が通らないか。私は言うぞ、聞いて欲しい」

 頬に両手で覆うように触れて視線を合わせる。今のアマナは「か弱い」。手は柔らかく、目は潤み、頬は紅く染まり、その姿はどこにでもいる普通の女性にしか見えない。普段の彼女から力強さを抜き取り女性的優しさのみを残せば、そこには着飾ることを知らぬ丸裸のオンナが現れる。

 女とは、着飾ってこそ女。それを止めれば残るのは母性のみ。オスを奮い立たせるにはベクトルを異にする母性のみ。しかし、その母性こそを何よりも求める者もいる。

 「お前が欲しい。お前に求められたい。私は……コニィ、お前が好きだ」

 「ああ、アマナさん……。ぼくもです」

 青い情動ははち切れんばかりに膨れ上がり、オスの本能がメスを自分の色に染め上げんと躍動する。自己保存の本能が加速し、重篤な我が身から種を残そうと加熱する。子孫を残したい、自分を想ってくれているメスがいる、準備は万端だ。

 「そう、そこだ……! そこの……っ! くぅ、っ、あああぁぁっ!!」

 「あ、つい! アマナさぁん……っ、熱いです!」

 何の滞りも支障もなく、当然の帰結とでも言うように、コニィはオスとしての本懐を果たした。誰にも教えられず導かれず、そうすることが正解であると自然と理解した。

 弱っていたはずの体は炉心に火種を加えられた内燃機関の如く、ただメスの肉を貪り味わい尽くす事にのみ特化した獣と化す。欲望と快楽に支配された肉体は、もはや年の大小と体格の強弱など関係なくその使命を果たす。

 だが人と獣の交わりには、唯一の違いがある。

 「コニィ……私のカラダは、どうだ? ぁあっ、気持ちイイか……?」

 「はい……。は、いっ……! 気持ちいいですっ! もっと、もっとしたいです!」

 年若い少年の胸を満たすのは、未知なる快楽に対する中毒的な喜悦と、僅かに残った理性の部分で感じ取る背徳感。年上の女性を、恩人を、その背後から好きなように弄ぶ……その事に対する罪悪感にも似た、寒気のような興奮が全身を総毛立たせた。

 痩せ細った己の両腕で胴を掴み、猛り狂わんばかりに膨れ上がった欲望は制御を知らず、原初の使命を遂行していく。即ち、「このメスを孕ませたい」という、全てのオスに仕込まれた絶対の教えだ。種の繁栄という至上命題を快楽という報酬をもって果たさせようとする生命の誓約。それが今のコニィを動かす炉心だった。

 しかし、当の本人にそんな小難しい理屈は端から頭の片隅にもない。生まれ落ちてこの方、感じたことの無かった快楽と、それを初めて愛しいと感じられる誰かと共有できている……未知の出来事に体と心は合一と乖離を繰り返し、凄まじい勢いで加速していくオスの本能はやがて理性を凌駕した。

 「ふぁあっ、くぅっ……! な、何か……! 何かぁ、でます! 出ちゃいます……っ」

 「もうか? もう出るのか? イイぞ、出せ、出してくれっ!! お前の全て、熱くて濃いモノぉ……ぜんぶ、全部ッ!!!」

 「ああぁ、うああーっ!!」

 瞬間、胎内で熱が弾ける。オスがメスを支配しようとする熱、肉と血を塗り替えんばかりに放出されたそれはアマナにもこれまで経験したことのない快感が総身を駆け抜けた。

 稲妻が落ちたような男性特有の瞬間的なものとは違う、溜め込んだマグマを一気に、そして長時間放出するようなメスにのみ許された至福の快楽時間。発情期に自分で処理していた時に得たものとは比較になり得ない、それをもたらした者が異性であるという事実がこれほどまでに肉体を心底から悦ばせるものだとは知りもしなかった。

 (こ、これが『まぐわい』……! 世の女性が夢中になるわけか)

 溢れ出る多幸感に肉体が酩酊を覚える。打ち込まれた熱塊は絞り出された快楽の証。衰弱の極みにある男が己の身を削って生み出した生命の素は、間違いなく己の肉体が快楽を得るに足ると証明してくれているようで、自分はメスとしての本懐を果たせたのだと妙に誇らしく思えた。

 「はぁ、はぁ……気持ちよかったか……コニィ」

 「は……い」

 心此処にあらずといった放心状態で、返事をするのがやっとという体のコニィ。自分より大きな体を相手にすれば体力の消耗はアマナの比ではないだろう。結合そのまま寄りかかって息を荒くしているのがその証拠だ。

 だから、彼はきっと疲労しているのだと、アマナは当然そう考えた。

 己の臀部を掴んだまま離さない小さな手、その力強さに考えは否定された。

 「コ……コニィ? どうした、疲れただろう、ほら休もう。な?」

 「ハァ……ハァ……!」

 アマナの考え違いは一つだけ。年若い身で極上の快楽を知ってしまえば、理性の箍など焚き火の前の蝋も同然だということをすっかり失念していた。

 「ふぐっ! コ、コニィ!? ちょ、ちょっと待ッ……きゃうううんッ!!?」

 随分と情けない声が出てしまったが、それも致し方ない。拙い動きだったとは言え確かに喜悦を覚えていた肢体は予期せぬ快楽に打ち震え、完全な不意打ちに今度はアマナが翻弄される側に回った。それまでに蓄積していた快楽も呼び水となり、一突きごとに脳髄が甘く痺れ酩酊を覚える。さっきまでは自分が好きにしていたのに、今度は「好きにされている」という逆転、その背徳感もまた興奮の一因だった。

 「アマナさんっ……アマナさんっ!」

 「んあ゛ッ! あうッ! あッ、あああーッ!!」

 腰を掴む手は力強く、突き上げる快楽は深く、アマナの肉体を甘く犯していく。次第に彼女の体からは余裕がなくなり、快楽への耐性は削れていく。テクニックも何もない、ただ引いて突き出すだけの単調な動きに対してメスの本能が嫌でも開花してしまう。

 「ふっ……ぐぅぅぅうっ!!」

 「あぁッ、ま……また、熱いのが……中にっ」

 程なくして熱い迸りが再びアマナの中を満たす。湧き上がる歓喜と充足感に疲労が下半身に染み渡り、実を結ぼうと子宮が本能で躍動する。

 もう自分の足で体を支えられず、快楽の震えで崩れ落ちる。心臓は早鐘となって胸を打ち、百里駆けても上がったことのない息はもう絶え絶えだった。その様は狩人に追い詰められた野生動物、快楽という弓矢は確かにアマナの心身を捉えていた。

 「アマナさぁ……ん。もっと、もっと……!」

 熱病に冒されたようにコニィの動きは止まらない。腰を抜かしたアマナの臀部を掴んで離さず、更なるスパートをかけてくる。朦朧とした目で尚も必死に女体を貪り喰らう様は、もはや完全に快楽と肉欲の虜であった。

 そしてアマナの方もまた、度重なる責めに体は限界を訴え始めていた。体力の、ではない。積み上げられた熱は確かな快楽となり、最後の一線、至上の頂きにその肉体は昇り詰めようとしていた。

 「もっ……もう、ダメだ! イクぞ、私も……イクぅッッ!!」

 「アマナさん……! アマナさん!! アマナさぁぁんッ!!!」

 「イクッ、イク、イクイク……!! ぁ……ッ、んん〜〜〜〜〜ッッ!!」

 野性入り乱れる情交の果てに、コニィは三度目の、アマナは初の絶頂を迎えた。

 吹雪はいつしか止んでいた。外の雪さえも融かすほどの激しい交わりが終わった後、二人は互いを抱き合いしばしの眠りに就いた。





 「帰ろう、コニィ。私たちが暮らした、あの暖かな街へ」

 雪が止み太陽が見える頃、アマナとコニィは下山を決めた。

 もうここにいる意味は無い。本心を語ったコニィの意志を尊重し、アマナは彼の傍にいる事を決意した。例え残り少ない僅かな時間であったとしても、独りで逝くことは無い。その最期まで支えると誓ったのだから。

 「少し、顔色が良くなったか?」

 「そうなんですか?」

 「私たち魔物との交わりは生命力を回復させ、寿命を延ばすと聞く。ひょっとしたら、お前の体も……」

 詳しいことはあのいけ好かない魔道師にでも聞けばいいことだ。今はただ、互いの思いが通じ合った喜びを分かち会えればそれでいい。

 「さあ、行こう。いつまた吹雪に見舞われるか分かったものじゃない。こんな寒いところとは早くおさらばするべきだ。コニィ、私の背に」

 「はい」

 力強く温かなその背に掴まり、コニィもまたこれからの日々を夢想する。愛し、愛される喜び。この寒い大地では得ることの出来なかった、人並みの幸せを遂に甘受できる、そんな当たり前の喜びを。

 白銀の大地を駆けるは勇壮なケンタウロスとその伴侶。行く手を阻むものは無く、駆ける度に舞い上がる粉雪ですら二人の前途を祝福しているようだった。

 「フフフ……」

 「ハハ……あはは!」

 別に何も可笑しくはないのに込み上げる幸福の笑み。通じ合えたこと、分かち合えたことがこれほどまでに幸せな気持ちにさせるとは露とも知らず、それを知ったが故に今はとても清々しい心持ちだった。

 自然と駆ける足は軽やかに、山野を抜け小川を飛び越し、少し見晴らしのいい開けた場所へと飛び出した。

 空が蒼い。雲一つない大空は燦々と陽光を大地に落とし、降り積もった新雪が跳ね返す光に一瞬視界が奪われる。

 白銀に染まった世界に満ちる音はアマナの足音と、その背に乗るコニィの笑い声だけ。

 後は何も聞こえない。鳥の声も、風の音さえも聞こえない。

 世界は静かだった。この世に二人しか存在しないみたいに。

 とても、静かだった。

 とても、そう、とても……



 いっそ不気味なぐらいに。



 沈黙を破ったのは、“雷”の轟音だった。

 「ッ!!!?」

 耳をつんざく轟音は、しかし雷雲の唸り声などでは断じて違い、まだ光に目を奪われていたアマナの鼓膜はその正体を瞬時に看破した。そして混乱するよりも先にこの場からの逃走を決意するのに、刹那の時も必要無かった。どうして“そんな物”がこんな所に存在するのか、そんな疑問は後で考えれば良かった。

 しかし、遅かった。

 「あ……がっ」

 駆け出そうとしたその瞬間、アマナは前のめりに倒れ込んだ。積もった雪に真正面から着地し、同時に背負っていたコニィも放り出された。

 「アマナさん! アマナさんっ!!?」

 「コ、ニィ……。無事か……」

 無様に転んでしまった事で彼を傷つけたのではと急ぎ駆け寄ろうとする。

 だが、出来ない。

 アマナは動くどころか、立つ事さえ出来なかった。

 「おい……。おいおい……何のジョークなのだ……これは」

 馬の胴は不可思議なぐらいに熱を持ち、それが己の動きを遮っていると気付く。恨めしげに己が半身を睨めば……。

 「嘘……ではないな」

 突如雪山に轟いた雷音の正体、それが彼女の体を穿っていた。遠方より飛来した鉛玉は常識を遥かに越えた速度で筋肉を貫き骨まで達し、傷口からは血に混じって不快な火薬の匂いが漂っていた。

 有り得ない。

 疾走するケンタウロスの下半身、それも狙ったように後ろ足の付け根、走行することも起立することも困難な部位への着弾。偶然による誤射ではない、これは意図した狙撃だと確信した。

 次の瞬間、不意に背筋が凍った。

 「ッ!? コニィーッ、伏せろォ!!!」

 野性の本能、大昔人類と争っていた頃の祖先の記憶。それは即ち、命の危機。「自分の命が狙われ脅かされている」という直感からの確信。本来なら我が身を守る為の危機察知能力を、アマナは自分に駆け寄ろうとする小さな少年への警告に使用した。

 そしてその意を汲んだように……。

 「っ────っ……!!」

 二発目は、彼女の胸を背中から貫いた。

 一瞬遅れた発砲音と共に噴き出す鮮血が雪を赤く染め、正確無比に左胸を射抜いた銃創はその最奥、命の源泉たる心の臓腑を抉り抜く凶猛な一撃だった。

 ともすれば即死、そうでなくても命を削り殺す一撃にその身を保つのは魔物娘でも難しく、文字通り凶弾に倒れるというのがおよそ誰もが予想する結末になるはずだった。

 「……………………」

 しかし、アマナは倒れなかった。貫通した銃創から湧き出る血を止める術を知らず、刻一刻と己の寿命が磨り減る中、もはやその意識は混濁の果てに沈んでいた。項垂れた頭が起き上がらないのがその証拠。

 それでも、彼女は倒れない。それはまるで、背後から己を狙い打った不埒者の魔の手から、目の前にいる少年を守り通す壁にならんとしているようにも見えた。

 誇りあるケンタウロスとして、何よりも愛しい男に無様な姿は見せられないと言わんばかりに……。

 アマナの目は、開かれなかった。

 「アマナさん! アマナさんっ!! ア……アマナさぁああああああーーーーーん!!!!」





 雪原に現れる影が複数。離れた木陰からわらわらと、むしろこれだけの数が隠れ潜んでいた事に驚く程、多くの人間がその正体を現した。

 「『馬』は沈黙。繰り返す、『馬』は沈黙」

 「確認した。撤収、狙撃班は速やかに撤収せよ」

 軍人らしき男の指示で木陰から様子を伺っていた者らが去っていく。抱えた鉄砲の口からは仄かに煙が立ち、それが二丁。アマナを狙い撃ったのは彼らだ。

 だがコニィにとってそんな事実はどうでも良かった。茫然自失となる彼の目にはもはや、雪原の真ん中で沈黙するアマナの姿しか見えず、何が起きたのか分からない混乱と、幸福から一転しての絶望に心は死に掛けていた。

 そんな彼の心境を知ってか知らずか、集団の中から一人の男が彼の前に立った。

 「博士、確認を」

 「ご苦労、伍長殿。ほうほう、これはこれは……」

 男はまるで機械の不調を確かめるように、コニィに対し無遠慮に手を延ばす。前髪を掴み上げ顔を確認し、下瞼を剥かせ、口に指を突っ込み歯の一本一本まで丹念に確認した。その仕草はまるで医者のようでもあり、少尉と呼ばれた者らが軍人である中、この男は一人異様な雰囲気を醸し出していた。

 身体検査のようなものはコニィが無抵抗だった為ものの二分で終わり、博士と呼ばれた男は確信を持ってこう告げる。

 「間違いない、ドゥヴェナーツァチの被検体だ。しかし、不思議なものだ。私の計算によれば彼はもう三時間ほど前に絶命している計算だったのだが…………ふむ、興味深い」

 博士の視線が次に沈黙したままのアマナに向けられる。そして再びコニィを見つめ、一人だけで思案顔のままぶつぶつと呟く。

 「なるほどなるほど。本来毒になるものをではなく、生命力そのままとして還元させることで……か。実に興味深い」

 「博士、被検体の移送を」

 「焦るな焦るな。私は解を求める途中だ」

 「しかし、既に領土を侵犯しております。ここに長居するのは些か危険かと」

 「政治、か。俗人の決め事など下らんが、無視すれば角が立つか。よかろう、撤収するとするか」

 博士と少尉の指示で集団が完全に引き上げる姿勢を見せた。

 だがここで初めてコニィが動く。

 「アマナさん……! いやだ、アマナさん! アマナさん!!」

 「ええい、暴れるな!」

 「腕を持つ。お前は足を」

 「いやだぁ!! あの人を置いて行かないで!! こんな所に、ひとりぼっちにしないで!!!」

 雪原に一人取り残されるアマナに手を伸ばし、泣き叫ぶコニィ。それを軍人が二人掛りで羽交い締めにして無理矢理に運んでいく。その間ずっと彼は叫び続け、その声は遠く竜尾の山々にまで響くようだった。

 「…………伍長殿、少しよろしいか。人手を割いて、あの馬も一緒に運んでやれ」

 「はっ」

 「それと、被検体はドゥヴェナーツァチではなく私の研究所に搬送してほしい。馬も一緒にな」

 「しかし、それでは」

 「被検体が生き存えた秘密を解明しておいて損は無い。研究成果として提出すれば君の上司の機嫌も収まるさ。それに、あの馬はまだ生きている」

 呆気に取られる少尉を尻目に博士は沈黙していたアマナに接近した。果たして、その目はいつの間にか見開かれ、怨念の篭った視線で自分の愛しい人を連れ去った男を睨んでいた。

 「私の……コニィ、を……返せ」

 「安心したまえ。返すも何も、君もこちらに招待しよう」

 「お前は……何者だ……。あの子を使って、何を……たくらむ」

 「その質問には答えるのは簡単だが、ここでは何かと不都合が生じる。君には大人しく、こちらに来てもらおう」

 冷たい鎖付きの首輪が掛けられる。魔力を拡散させる素材で作られたそれは、ただでさえ命を削られていたアマナの体から力を奪い尽くし、まるで犬畜生のように鎖で引かれる様は彼女のプライドさえも踏み躙った。

 「さあ、行こう。楽しい楽しい、北の国。我らの故郷へ。我らの戦場へ」



 「ようこそ、“我々”の領域へ」
17/04/14 02:18更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 訃報・自宅のパソコン、逝く。
 いや、正確にはネット接続機能がお亡くなりになった感じ。新しいの買わなきゃ(危機感)
 リアルが忙しくて、結局完結したのも新年明けて四ヶ月目っていうね。無事に年度末越えられて、これからは大手振って休みを満喫できるぞ!

 この後すぐ終章投稿しますんで、そしたら「二十二人編」無事完結と相成ります。

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