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第十幕 悪魔と塔:後編
 かつて、大いなる神話があった。

 魔王と呼ばれた存在が主神を下すより更に昔、世界は一度滅びかけていた。

 ゆっくりと、静かに、しかし確実に……北の氷海より始まったそれは世界を蝕み、地上の人間はもちろんの事、神々ですら事態を把握したのは最終局面を迎えた時だったとされる。唯一直前の際どい所で察知できたのは、当時既に地上の八割を手中に治めていた魔王とその娘達だけであり、彼女ら魔物娘の介入により世界が救われたという事実は神々のプライドを微塵に砕くものだった。

 世界は、滅びかけた。後に勃発する主神と魔王の争いですら滅亡はもたらされなかった。それは何故か。北海の『彷徨う島』から端を発した小さな事件が、どのような経緯を辿ったなら世界を滅ぼしうる大事変になるのか?

 それは簡単な話だ。

 発端となった者に「世界を滅ぼす意志」があったからだ。明白に、明確に、強固なまでに磨き抜かれた一つの意志はそのような大それた事を実行してしまえる。

 “四十の尖兵”を束ね、“三十六の精鋭”を従え、“十二の使徒”を引き連れて、神も魔も人さえの区別無く全てを滅ぼそうとした大罪人……それが当時の記録に残る、下手人についての唯一の記述である。

 その者がどんな意図があって世界を滅ぼそうとしたかは定かではない。その目的、構想、野望は今日に至るまで明らかになっておらず、ただ結果的に世界に滅亡をもたらそうとしたという部分だけが一人歩きするようになった。唯一当時の第四皇女の命を受けて直接対峙しこれを制圧した『一の英雄』も、敵の掲げるものが何であったかについては固く口を閉ざし、それは魔王を前にしても同様だった。

 その頑ななまでの秘密主義が功を奏したのか、北海で起きた事件の混乱は瞬く間に収束した。だが『英雄』の最大の功績は、敵を倒した事ではなく、ましてや戦後の魔界領土の拡大に貢献した事でもない。英雄は自らが遭遇したモノについての一切を語らないことで、後の世に“奴ら”が蔓延する事を防いだのだ。

 『英雄』は“奴ら”を打倒するのに十年も費やした。十年掛けて無作為な感染を阻み、その中枢を叩き、そして大勢の“奴ら”を遂にたった一人の“奴”になるまで絞り込んでいった。大地を割り、海を裂き、空を穿ち、星々すら撃ち墜とす攻防の果てにようやくそれを封じる事に成功したのだ。逆にそこまでしてようやっと封印という、生かさず殺さずの処置しか出来ないほどに“奴ら”のもたらす病理は深刻なものだったのだ。

 “奴ら”について、それを討滅した『英雄』はこう述懐する。

 「連中は『病』だ。形無く、実も無く、だがそこに確かに存在し、そして感染する。血と情で繋がる魔物より強く、教義と思想で繋がる信徒より広く……理想と論理で深く繋がるのが“奴ら”だ。“奴ら”の性質の悪さは個々の強さじゃない。爆発的な感染力と、それを可能とする妄念だ」

 『英雄』は“奴ら”を恐れた。“奴ら”の思い描く理想を、“奴ら”が復活する事を恐れた。だからこそ『英雄』は完全なる抹殺を目論んだ。二度と“奴ら”が日の目を見ぬよう、その存在が二度と歴史の中に浮かび上がらぬように。

 しかし、それに待ったを掛けた者がいた。

 「“彼ら”は人間よ。今日日珍しい、純粋な血を今に残すことに成功した人類種なのよ。根絶やしにしてしまうには惜しすぎるわぁ」

 後の新たな魔王、第四皇女・デルエラ。全ての人間を魔物の伴侶に、という彼女の掲げる思想が“奴ら”の絶滅を許さなかった。“奴ら”によって引き起こされた事態を知らない彼女ではなかったが、そこには魔界の重鎮たる者の考えがあった。

 「“彼ら”の力は必ず必要になるわ。いずれヒトが新たなステージに上がる為のキーとして、ね。今は……そうねぇ、少しだけ時期が早すぎただけなのよ」

 「“奴ら”は毒だ、病だ、害だ。その存在は誰の為にも、何の得にもならない。仮にそうなったとしても……おれは“奴ら”を、いや、“奴”を許さない」

 『英雄』と皇女の意見対立に周囲は戦々恐々となったが、最終的に面倒な問答を嫌った『英雄』の譲歩により事なきを得た。

 去り際に『英雄』はこう言い残したという。

 「次に“奴ら”が目覚めれば……おれはそれを滅ぼすぞ。確実にな」

 “奴ら”の価値を熟知していたのは皇女だったが、危険性を理解していたのは『英雄』だったことが後に証明されてしまったのだ。





 そして五百年……。難攻不落の監獄要塞『象牙の塔(シャトー・ド・イヴァール)』は今や、過去の怪物の再臨を待つ巨大な孵卵器と化していた。

 「かつて“我々”は世界の真理を掴み取った。森羅に神秘無く、万象に信仰無く、天地に立つはヒトのみをおいて他に無し。真にこの世界の覇権を握るのは二十万年も昔から人類だと決まっている」

 象牙の如き白などもはやどこにもない。部屋も、廊下も、壁も、天井も、ドアも、もはや囚人を収容しておく部屋だけではない、今や『象牙の塔』はその名に反する“黒”に侵された地獄と変化していた。光はない。音もない。暗闇という概念すら彼方へと追放するのは、全てを消し去る『無』の海嘯。この世界を構成する空間とか時間とかマクロなものから、元素や概念と言ったミクロで普遍的なものに至るまで、ここには全て何も『無い』。

 それらは全て、この男が破壊した。

 「旧きは滅びよ。新しきに道を譲れ。空気が淀めば換気をするのは常識だろう」

 あらゆる縛りも枷も、この男を繋ぐことは出来ない。人類最新の血統、その末裔はあらゆる点において全ての存在の先を行く。加速し続けるその妄念は全ての条理を蹂躙するが決して単なる破壊のためではない、轢殺した旧き理の上に新たな世界の秩序を創造する為にまずは破壊するのだ。

 そして今、その新世界創世に携わるのは彼一人だけではない。

 「スゴいわ、素晴らしいわ! あなたの知識は凄まじい、鳥肌が立つくらいに感動的よ!!」

 漆黒の空間で手を打って喜びを露わにするのは、男の薫陶を受けその理念を受け継ぎ「汚染」された、デーモンのオリガ。その満面の笑みに周囲の無明に対する恐怖は微塵もなく、もはや壁も消え重力さえ消失した無の空間を翼を羽ばたかせ悠々と旋回していた。

 深海を想像して欲しい。空気は無く、光は届かず、周囲を一分の隙も無く常に圧縮され続ける世界を。地表に生きるモノが入り込めば生物としての死ではなく、物質としての破壊現象を叩き込まれた末に抹消される空間、それが高等生物を許容しない深海という場所。

 オリガは今、そこにいる。

 この世のありとあらゆる責め苦、それを更に数千倍に濃縮還元したかのような地獄の具現、この世の形ある全ての存在を粉砕し、圧縮し、そして最小単位たる原子に至るまで拡散してしまう消滅の波動……そこに存在できるのはこの世ならざる虚数に満ちたナニカ以外には有り得ない。それはつまり、男の理に触れたモノは「この世のものではなくなる」ということに他ならない。オリガは今まさに、この世から逸脱した何かによってその存在を以前から大きく変化させつつあったのだ。

 「“我々”には、“我々”の理論を遍く世に広め、知らしめるという責務がある。それこそがこの世界を本来あるべき姿に戻す一番の良薬だ。今の世界の在り方は間違っている。球体が坂を転げ上がり、雨粒が天上に向かって逆流するが如き現象が世界全体で起きている。これは正さねばならない」

 男の指先が虚空を撫でる。無明の闇に光の筋が走り、指の動きに合わせてそこに文字を刻んでいく。魔術ではない、その光跡に一切の魔力は無く、幾多の魔術に長けたオリガですらその現象が何であるかを説明することは出来ない。この世界で唯一人、この男だけが扱える「技術」の片鱗、異界の端より漏れ出た力の破片が世界を蝕んでいる光景だった。

 「嗚呼、見える。土瀝青の大地を走る鋼の匣、聳え立つ混凝土の大森林が街を形成し、見上げる硝子の巨塔に人々が集う。天空を交差する力は人々の意識を乗せ、誰もが情報の受信者であり発信者となり、全ての人類は性別・年齢・国籍・主義・主張・宗教すらも超越した新たなステージに立つだろう。それこそが新世界の姿だ」

 男の目に今の世界は見えていない。自分が塗り潰した暗黒の無明もまた同じ、今のこの空間は失敗したキャンバスを大量の塗料で上書きしたものに過ぎず、男の理想はそれを下地とした新たな世界を描き出すことだ。式と解に満ちた万象を読み解く数理の世界……それこそがこの男が思い描く理想、新世界の絵図だ。

 そこに旧きは生きられない。

 「ねえ、もっと教えて。もっと、もっと、あなたの全てを。その瑞々しい知識を私に、どうか」

 オリガは今、酔っている。元来悪魔とは、契約者の望みを全て叶える手段を知り、それを可能とする知識を持ち合わせたこの世で最も万能に近い存在だ。もし彼女らデーモンが主神のように「全能」で、魔王のように「魔力」にもっと恵まれていれば、今頃世界は彼女らの天下だっただろう。

 そのデーモンは今や、魔界で最も旧い種族である彼女らでさえ知らぬ知識を前にただただ陶酔の極みにあった。さながらそれは未知なる美味に出会ったように、目の前のそれを堪能することしか頭にない。完食し飲み干しても次の皿を求めて暴飲暴食を繰り返す大食漢の如く、今のオリガには男のもたらす知識の数々が禁断の果実以上の甘い香りを放つものに感じられたのだ。それを味わえるのならこの無明の責め苦など取るに足らない涼風でしかない。

 「いいぞ、いいぞ悪魔よ。与えよう、幾らでも。授けよう、望むままに。我が理論を解する者は皆須らく“我々”の仲間だ。歓迎しよう、最新の“我々”よ」

 差し伸べられた手を取り愛おしそうに頬を擦り寄せるオリガ。それはまるで遥かな昔に存在したという聖人と、その聖人に赦しを乞う信徒の姿にも見える。だがその実態は世界を侵す「業病」に対し「悪魔」が傅くという、何の冗談だと言いたくなる構図が真実だ。

 「お前には“我々”の持つ技術の一部を分け与えよう。この“私”が新たな“私”となる為に、お前には働いてもらわないとな。いずれ来るべき新世界の礎となるのだよ」

 残ったもう一方の手がオリガの頭を撫でる。自分の知らぬ世界を見せてくれる男に麻薬のように依存する彼女は、もはやその真意がどうであるかなど考える余地すら残ってはいない。





 ある男の話をしよう。

 世界に戦いを挑み、神々を出し抜き、魔物を排そうとし、英雄によって討ち滅ぼされた一人の男の話を。

 男はかつては平凡な、何の変哲もない一人の人間に過ぎなかった。ただ余人と違う点を挙げるなら、男は国に仕える身分だった。その役職も彼の先祖から脈々と受け継がれたものであり、男がそうした立場にあったことも至極当然、何の変わり映えも無いことだった。

 男は最初から大それたことを考えていたわけではない。彼は国の命令に従い、日々成果を出すことを課せられた一公僕に過ぎなかった。日々をその事に費やし続けてさえいれば、彼はきっと満たされていたに違いなかった。

 きっかけは、たった一滴みの『果汁』だった。指先で掬い舐め取れるだけの『果汁』が全てを変えるきっかけだった。

 そのせいで男は十年という歳月を無駄にした。

 男が現世に戻ってきた時、彼が本来手にするはずであった成果と栄誉は全て他者に横取りされていた。長い時間を掛けて男が築き上げてきたものは全て無価値の烙印を押され、それまでの働きの一切を無視された上で国に切り捨てられた。絵に描いたような転落に周囲の者らも影響を受けまいと離れていき、男は何もかもを喪失する事となった。

 しかし、男に絶望はない。

 それから男は新たな目的を打ち立てた。その野望が何であったかは後に彼を討ち滅ぼした『英雄』により忘却の彼方だ。だが男自身はその計画について「世界に変革をもたらすもの」と周囲に吹聴していたという。

 そう、男には協力者があった。それも数人や数十人というチンケなものではない、最終的に小国一つに匹敵する数が男の下に集った。彼の掲げる理論はそれほどまでに画期的で、そして魅力的なものだったことがうかがい知れる。

 そうして集った彼らこそ、後に彼ら自身が“我々”と呼称する無銘の集団となる前身だった。

 “我々”とはその名の通り、不特定多数の者らから成る一つの巨大集団を指し示している。彼らは国家のように法に律せず、組織のようなルールを持たず、ただ盟主たる男の掲げる理論を更に広めることだけを理念に活動する無作為の集団だった。中心に据えられた男自身、支配にも指導にもまるで関心を示さず、実態としては「革新的な理論を構築する男」と「それを拡散発信する周囲」の集合体に過ぎなかった。

 大増殖を遂げるウイルスの如く爆発的に感染していった彼らの理論は、やがては北の大国を水面下から蝕み始め、軍事や政治の領域にまで自らの版図を広げようとしていた。

 そこに現れたのが『英雄』であり、その後の顛末は先に語った通りだ。“我々”と称する彼らは『英雄』に敗れ、彼らは一人残らず捕えられ封印された。そうすることで彼らの擁する理論が世界に広まることを防ごうとしたのだ。

 だが、その命までは奪わなかったのが『英雄』の、そして彼を送り出した第四皇女の唯一にして最大の失策だった。

 “我々”は、言うなればまさに病原体だった。体内で毒を生成する病原菌の如く、彼らは囚われの身となってなお自ら猛毒を精製し続けた。閉鎖された空間は瞬く間に蠱毒のように重度の異界法則に汚染され、“我々”を名乗る者だけが生存を許される世界が形成される。ただ閉じ込めるだけでは意味がない、事態を重く見た魔界側は封印をより完全なものとすべく新たな監獄を設けることにした。

 それが『象牙の塔』。難攻不落、脱獄不能の天空要塞。“我々”を封殺するためだけに用意された、口のないフラスコ瓶。そこに永劫閉じ込め続けることで、腐敗し、風化して、消え果てるその日まで封印することで彼らを抹消しようとした。



 しかし、それでも奴らは滅びなかった。



 閉じ込められたその場所で、奴らは繁殖を続けた。さながらそれはシャーレの上の青カビの如し。監獄という別天地を図らずも手に入れた彼らは、まるで動物のようにそこで乱雑な増殖を始めたのである。親と子、兄と妹、姉と弟、叔父と姪、伯母と甥……組み合わせは無数に、そして無作為に行われた。当然、何世代にも渡り交雑を繰り返す内に生まれ出てる子孫はやがて遺伝子の多様性すら失い果て、その血はいつしか劣性が優性を覆すという自然界にあるまじき結果を叩き出すに至り、その血統は先細りになり緩やかな滅亡を迎えるものと思われた。

 それこそが、奴ら最後の計画であるとは誰にも想像できず……。





 「これから赴くのは“我々”の中枢、連綿と続く“我々”が今日まで生き存えてきたその秘密だ。部外者でそれに触れることが出来るのはお前だけだ、光栄に思うといい」

 暗黒の空間、道なき道を浮遊するように移動しながら男はオリガを引き連れて最奥へと向かう。光すら届かぬ深海の、更にその奥底へと掘り進むように、新世界の理という猛毒に満ちた時空をひたすら歩み続けた。

 ここにはもう、何もない。時間も、距離も、いや彼ら自身が座す空間という概念すらも消し飛んだ。今の二人はこの世の「どこにもいない」状態だ。片や真世界の創造主、片や真世界に足を踏み入れ神隠しとなった悪魔、二人の存在は完全に外の世界から切り離され誰もここの様子を窺い知ることは出来ない。

 「かつて、“我々”は一人だった。たった一人から始まった。大いなる一、偉大なる始まり……始祖は“我々”に多くを授け、与え、そして導く存在だった」

 さながらそれは神の教えを与える教祖のように。だが教祖が「頂点」であるのに対し、指導者は「中心」という違いがある。頂点が欠ければ統制を失うのに対し、中心はまず欠け落ちることがない。脱落しても補充が効くからだ。頂点が自ら先導して下々を引き連れなければいけないのに対し、中心はその思想を発信する電波塔以上の役目を持たない。発信し続けるだけでそれに感応する素質を持つ者が自然と集まってくる。極論、「指導者」を「中心」とするタイプの集団には必ずしも先導するリーダーは必要無い。蔓延した思想が自然と形なき発信源となるからだ。

 「だが今は事情が違う」

 かつては“我々”だった彼らも、今ではこの囚われの男ただ一人だけ。つまりは新種でありながら絶滅の危機に瀕しているのだ。閉鎖された環境故に純血を保ってきた彼らは、その代償として新世界の住人が当たり前に持つ長大な寿命を持たない。それどころか何世代にも渡り近親交雑を繰り返した彼らは劣性遺伝子の働きで時間が経てば経つほど重篤な病を発症する危険性を抱えている。それは彼以外の“我々”が悉く病死したことからも充分に推察できることだった。

 「今や“我々”も世代交代の時だ。口惜しいと思う気持ちはあるが、巡り巡った再臨の時を私が私のままで迎えることは不安が残る。新しき時代は、新しき個体が引き継いでこそ真に活かされるのだ」

 「そう。ならさっそく、あなたの理想を叶えてあげるわ」

 そう言って追い縋ったオリガの細腕が男に絡みつく。地上の民を須らく堕落に導く悪魔の腕、それに触れられれば肉体だけでなく魂ですら至上の快楽への誘惑には抗えない。

 にも関わらず……。

 「旧い」

 ただ一言、それだけを口にしてその手を振り払った。

 「発想が旧い。行動が旧い。言葉が旧い。快楽を伴った有性生殖の真似事でこの私を絡め取ろうなどとは、数世紀遅れた考え方だ。第一、そんなことをしていては時間が掛かりすぎる、単純に非効率だ。“我々”の遺伝子はもはやこれ以上の多様性など必要としない。それは何故か。既に完成されたからだ、この五百年の間にな」

 確かに彼らは絶滅危惧種だ。肉体は進化の袋小路に入って久しく、その遺伝子はもはや生命体としての意義を成し得ないほど劣化の極みにある。今こうして彼が言葉を話し、自律して行動できていることそれ自体が奇跡に近い結果なのだと知らなければならない。

 だがそれでもなお、彼らに危機感はない。何故? 危機など無いからだ。彼の言葉は真実、嘘偽りは微塵も無く、その血肉も骨の髄も既に完成している。もはや「これ以上」は必要無いのだ。

 「そして更に、完成された私を以て真の“我々”は復活を遂げる」

 闇の最奥、新世界を紡ぎ出す波動を放つその源泉へと遂に到達を果たす。

 「さあ、刮目せよ。あれこそが“我々”の希望よ!!」

 何もかも飲み込み覆い隠す無明、その中心に在りながら“それ”は不自然なほどはっきりと存在感を放ち、オリガの視界に飛び込んできた。

 「復活を待っていたのは“我々”だけではない。この“私”もまた、同じく再生の時を待っていたのだ」

 それは、『残骸』……。

 四方から伸ばされた果ての無い鎖に繋がれし『残骸』。

 敗北し、破壊され、殺し尽くされた、この世で最も哀れな『残骸』。

 「始まりは、たった一人から始まった。ならばこそ、再起動する“我々”もまた始まりの“私”に還るべきなのは自明の理」

 「それが、『これ』だって言うの……!?」

 男の血統が五百年続く妄執の果てに執り行った所業、その集大成を前にオリガは続く言葉を失った。それは驚きであり、怒りでもあり、悲しみでもあり、喜びにも似ていた。それら全ての心の動態が一緒くたに混ぜ込まれた衝撃を前に絶句していた。だが不思議と嫌悪だけは全く無かった。むしろその逆、眼前のこれが悪魔よりも悪魔らしい所業の果てにあるものと理解した瞬間から、オリガは心の奥底から感動を覚えずにはいられなかった。

 「かつて“我々”は復活の時を夢見て虜囚の身に甘んじた。いずれ復活した“我々”が再びその理論を広げる時が必ず来ると、それだけを信じて耐え忍んだ」

 鎖の一本を手繰り寄せ、『残骸』がゆっくりとこちらに接近する。物言わぬそれは引き寄せているにも関わらず、何故か自分の意志で動いているような錯覚さえ感じさせる妖気を放っていた。

 「だが、それと同時にこうも考えた。果たして復活した時、始まりの一人に匹敵する……いや、始まりの一人を超える存在がその跡を継げるのかとな。不安とは常に未来に向けられるもの、“我々”は保険をかけた」

 始まりを再現できないのなら、始まりを利用してしまえばいいと。

 「ある者は腕を取った。ある者は足を。またある者は骨を取り、別のある者は皮を取った。鼻を、耳を、心臓を、肺を、神経を、その他の臓器を、全身述べ百数十ヶ所にも及ぶ部位を、切り分け、加工し、“我々”各自がそれを所持することで保存することとなった」

 それは狂気の発想。本来腐り風化する肉体を切断し、庭園の植物に接木するかのように移し替える。それも一人や二人ではない、かつてこの牢獄に閉じ込められた罪人全てに等しく分配されたそれらは世代交代の度に子孫の肉体を渡り歩き、五百年に渡りその鮮度を保ち続けた。やがて数を減らし、部位を継承する者の数が足りなくなった時、彼らは受け継いだそれらを再び元の形に組み上げ始めたのである。

 その結果出来るのが「これ」だ。敗北者の残骸、それを更に残骸にし尽くしたのが、このヒトの形をした器の正体だ。如何なる方法でかは分からないが、数世紀もの間ここに奉ぜられているにも関わらず『残骸』はまるで今そうなったかのように、新鮮な瑞々しさを保っていた。その事がより一層の不気味さを醸し出す。

 今やこの残骸はかつての姿をおおよそ取り戻しつつあった。あとは最後の血統を名乗るこの男が施術すればそれだけで復活を遂げる。

 だが、この残骸には「二つ」だけ足りない部分があった。

 「この“私”には意識の座たる脳が無い。頭部があり頭蓋骨まで備わっているにも関わらず、この“私”には人体の演算機関の役割を果たすはずの脳髄が無い。これは如何なる理屈か」

 一本の毛髪も生えていない頭部を指先がコツコツと叩く。内部が空洞だからなのかは知らないが、硬質な音が嫌なほど周囲に響く。そのことが余計にこの残骸の異様性を際立たせているようだった。

 「何故、脳髄を取っておかなかったのかと聞きたそうだな。愚問だ、“我々”に必要なのは知識と技術のみ。そこに付随する精神や意志、人格といった個我を特定する要素は不要だったからだ」

 始まりの中で唯一、その脳こそは廃棄の対象だった。旧きを嫌う彼ららしい選択、既に敗北を喫した敗者個人は必要ないと判断したのだ。世界を作り変えるほどの膨大な異端の知識は、一言一句違えることなく彼らのあいだで連綿と伝え紡がれ、もはや一個人の突出した能力に頼るなどという非効率的な事をせずともよくなっていた。

 再現された残骸は新たな創造主を迎え入れる器としてのみ機能する。そこに嵌め込まれる最後のピース、その持ち主は……。

 「ここに私が入る。完全な肉体に、完璧なパーツを埋め込むことで、“私”は完成される」

 男の指先が自らの側頭部を小突く。残骸とは違って中身が詰まった重い音が聞こえ、そこに詰まっている物こそが狂気の結晶体であることを暗に示しているようだった。

 「末梢神経は既に継承済みだ。後は脊髄ごと中枢神経を移植し、一本一本、丁寧に接続するだけ。それで“私”は完成する」

 「でもどうやって? 自分で自分の頭をパカパカ開くの?」

 「その為にお前に技術を授けた」

 無明の中にスラリと伸びる白銀の物体。男の手に握られたそれはスカルペルと呼ばれる医療行為に用いられる刃物。僅かに指先が触れただけでも皮膚を裂き筋肉を切断する鋭利な刃、それが意味するところはつまり……。

 「施術はお前が行え。お前が新たな人類の始まり、その母となるのだ」

 狂気は加速する。止めるものなど、どこにもいない。

 オリガは手にする。煌く刃に映るのは、目の前の男にも負けぬ喜悦の笑みを浮かべた顔だった。





 魂はどこに座すのか、誰しも一度は考えた事があるだろう。

 魔術的観点から語れば、魂は実在する。ゴースト系の魔物娘がそれを実証している。物質は確固たる存在としてこの世に存在するが、それ故に時の流れによって風化する。魂は常に曖昧模糊な形態を取り漠然としており、だからこそ永遠に残り続ける。

 だが魔術では魂の存在そのものは認められているが、その魂が肉体の正確にどの辺りに宿るのかについては謎のままだ。主神教においては魂は精神と共にあるとされ、精神は心に宿る、あるいは心を精神と捉える考えがある。

 そして、心は脳に宿る。ならば必然、魂もまたそこに宿るべきだろう。それが“我々”の見解だった。

 「やり方は以前教えた通りだ」

 それだけを言い残し、男の意識は麻酔に溶ける。ここから先はその生殺与奪を完全にオリガ一人が握ることになる。彼女は魔物娘、おまけにある意味では人間に最も忠実な隣人として知られるデーモン、億が一でも間違いは有り得ないだろう。

 そして当のオリガ本人にもそんなミスを犯す気など更々なかった。むしろその真逆、オリガは今まさにこの世のどんな快楽でさえも及びもつかない至上の愉悦を体感していた。

 彼女にとってこの男は自分より格上だった。単純な腕力の大小、魔力の強弱ではない。持てる知識が生粋の上位種たる悪魔であるはずのオリガを上回り、そのどれもが知りえないものばかり。格、単純な規格の話、オリガは目の前に横たわるこの男に「決して敵わない」。

 そんな男の命を、今自分だけが握っている……本来なら決して有り得ることのない逆転現象に、オリガは名状し難い興奮を覚えていた。己の知る限りにおいて最も全能に近い存在が、今こうして自分に頼っている……これが興奮せずにいられようか。

 「任せなさい、私が完璧なあなたを産み直してあげる」

 邪魔な毛髪を刈り揃え無防備に晒された頭部、そこに刃をあてがい薄皮を切り裂き、内部に閉じ込められている禁断の果実に手を伸ばす。かつて祖先がヒトに与えたモノが今、巡り巡って送り主の元へと戻ろうとしていた。

 麻酔が掛けられた男の肉体には低下した機能を補助する魔力結晶針が埋め込まれ、常時魔力を流して器官や細胞を活性化させている。特に目立つのは左胸に突き刺さる親指の太さほどある針。いやそれはもはや杭と呼ぶに相応しく、男の心臓を代わりに動かす役目を果たしていた。例えその臓器が十数時間後には必要なくなるのだとしても。

 人体を魚のように背開きにし、頭蓋と脊髄が露出し外気に触れる。そこからはスカルペルから鋸に持ち換える。人体で最も硬い部分を開くには、その手段も原始的かつ暴力的にならざるを得ない。丁寧に頭蓋を輪切りにし、掛ける指に少しずつ力を加えて取り外せば、そこには肌色とピンクを織り交ぜたグロテスクな器官がむき出しになる。

 ここからは裁縫の時間だ。晒された脊髄と残骸に埋め込まれた末梢神経を一本一本、丁寧に繋ぎ合わせる作業にかかる。魔術を使わず、髪の毛よりも細い繊維を使って縫合していく。

 接続した神経に魔力針を近づけると、接続先の残骸の指が五百年ぶりに動きを見せた。接続は成功だ。

 そこから黙々と神経を繋ぎ続け、脊髄から伸びる神経節の全てを移植完了する。そこからはいよいよ本番、そして総仕上げ……。

 「さあ……おいでなさい」

 その腕は愛し子を抱くように脳髄を包み込む。そして妖艶な湿り気を帯びた柔らかな唇が一瞬だけ器官に口付けを施し、そして離れる。唾液とも脳漿とも知れぬ液体が糸を引く様は、とてもグロテスクで、非道徳的で、そして……ただただ耽美なモノだった。

 真世界に生い茂る禁断の果実は、禁じられた匣の中に収められようとしていた。

 そして、今ここに旧世界の悪夢が再誕する。





 「――――――――」

 術後、新たな体を得た男は寝台に眠っていた。術式そのものは完璧に終わったが、脳髄と全身が完全に馴染むまでには時間がかかる。今は心臓が辛うじて自律して動いているだけで、呼吸すら外部の動力なしではままならない状態だった。

 しかし、それも数日、長くて一週間だけのことだ。

 “始まり”の体は元は確かにたった一人の物だった。いつかの復活を夢見た同志により保存と継承を兼ねてそれぞれに移植され、そして今日この日にその大願は成就された。無論その絵図は一筆で描けるほど単調ではなく、ここにこぎ着くまでに数多の“我々”が知恵を振り絞ったことは言うまでもない。

 移植された部位がいつまでもその状態を、具体的には“始まり”の体内に収まっていた状態を保っている訳が無い。適合しなければ拒絶反応で腐り落ち、適合すればその細胞は代謝により宿主の体に塗り替えられていく。代を重ねずともその内容は最初の一人とは掛け離れたものとなり、このままでは復活の時に再びそれを集結させてもツギハギだらけのガラクタに成り下がってしまうことを彼らは危惧していた。

 だからこそ、彼らは「似せる」ことにした。遺伝子の独自性を削ぎ落とし、それが肉体に反映されるまで徹底的にそれを行った。親子で、兄妹で、姉弟で、禁断の交わりを繰り返すこと十数世代、遂にその肉体は骨格や肉付きのみならず、末梢神経の太さから指先の微細な毛細血管に至るまで、肉体全ての部位を「共通の規格」に押し込めるという、常識の埒外にある発想でそれを実行した。結果、そこには血族に連なる者であれば部品のように肉体の互換性を発揮する、もはや人間以前に高等生物であるかさえ疑わしい存在が出来上がった。全ては今日、この日を迎える為だけに彼らはヒトであることすらやめてしまったのだ。

 繋ぎ合わせた部位は接続されると同時に脈動を始め、新たな宿主の誕生を祝福するように鼓動を打つ。一週間の後には肉体と脳髄は完全に馴染み、互いを補完し合う二つの器官は一つの存在に完成される。

 「だが、まだ未完成だ」

 気管まで押し込まれた酸素吸入管を引き抜き、男が告げる。術後から僅か三十時間後のことだった。

 「驚いたわ、もう動けるようになったのね」

 「腕と口だけだがな」

 自らの健康状態を示すようにはだけたシーツから男の腕が覗く。肉片を繋ぎ合わせたその腕は縫合糸によりツギハギだらけの醜い地肌が見え、およそまともな感性の持ち主ならとても生物の四肢とは思えない様相を呈していた。

 しかし残念ながら、ここにまともな感性の者はもはや存在しない。

 「今は骨格だけか。筋組織が癒着するにはまだ少し時間を要する。腕を上げるだけで精一杯というところか」

 「それだけでも凄いことよ。もう私の力は必要ないのかしらねぇ」

 「何を言っている。悪魔よ、お前にはもう一つ重要な仕事があるのを忘れたか」

 男の腕が自身の頭部へと伸び、目元を覆い隠していた包帯を取り去る。そして最後に残ったもう一つの足りない場所を指差す。

 「これが無ければ、“我々”は完成しない」



 目蓋の奥には闇があった。



 残骸で足りなかった部位は二つ。一つは残骸をヒトへと昇華させる器官である脳髄と、情報に変換した世界をそこに送る……眼球。

 脳髄は廃棄されたが故の不足、だが眼球に関しては事情が違っていた。

 「ここは、奪われた」

 包帯を結び直し隠しながら男は独白する。

 「壊され、殺され、滅ぼし尽くされた。この孔は人理で推し量れる領域にはない力、忌むべき禁じられた力により穿たれたモノ。敗北の証であると同時に、戒めでもある」

 かつて彼らの“始まり”を下した力、その影響は残り滓となった今なお強力に彼らを縛り付けている。五百年前に穿たれた孔は如何なる邪法によるものなのか、一切の再生を許すことなくその部位のみが滅ぼされた。「壊された」でも、「殺された」でもなく、「滅ぼされた」のだ。物体の消失、情報の失伝、文明の滅亡、過去の時間が圧縮され地層に埋もれる……それと同質の何かがこの肉体に降りかかった事をその傷跡が示していた。

 それはもはや人間の技では成し得ない奇跡、ある種の神業にも似た鏖滅現象の具現であり、残滓でしかないその痕跡を見せられただけでもオリガは総身を震わす恐怖に完全に飲まれてしまうほどだった。

 「過去に何度か“我々”の中でも優れた眼を持つ者が移植を試みた。だがその全てが失敗に終わった。一度奴によって滅ぼされたモノは、何をどう足掻いても復活することはない。汚染された土壌に草が生えないように……」

 「奴……? 奴って?」

 「敵だ。世界の敵、未来の敵、そして……“我々”の敵だ!」

 言葉に徐々に語気が強くなる。それはかつて敗北を喫した相手に対し並々ならぬ怒りと悔しさの表れを抱いている証なのだろう。シーツを握り締める手にも万力の力が篭もり、終始冷静を保っていたその口から同一人物とは思えない怨嗟が流れ出る。

 「ああ悔しい! おお口惜しい! あのような、あんなモノにかつて“我々”が敗れたなどと……! 有り得ない、否! あってはならないのだ、そんな事は!!」

 男は直接“敵”と相見えた経験はない。だが“始まり”を敗北に追いやった力は今まさにその体に刻まれ、五体を蝕み永劫の苦しみを与え続けている。その悶え苦しまんばかりの痛苦が今の男を突き動かす原動力だった。いや、男だけではない。“始まり”から全てを受け継ぎ脈々とそれを伝えてきた彼らの一人ひとりが、この怒りを共有してきたのだ。散逸した理論と技術も合わせ、その怒りすらも裔の男に結実する。

 肉体が復活を遂げた今、急務なのは欠けた部品を補完する手段だ。“始まり”の薫陶を受け継いだ“我々”では拒絶反応にも似た現象で根腐れしてしまう。

 「眼だ。完全を示す“我々”はその五体もまた完全でなくてはならない。不具のままで何を成せるという。この世の全てを計算し尽くすには、この世界を正しく見据える部品が必要不可欠だ」

 滅びは終わりではない。滅びは乗り越えてこそ、乗り越え踏破したその先には新世界で繁栄する力を獲得できるというのが男の理屈だ。遥かな昔に発生した微生物が猛毒の酸素を生み出し、大量絶滅を乗り越えた後の生物がそれを克服したように……逆境にこそ好機はある。

 「“我々”は諦めない。必ず……孵化の時を迎えて見せよう」

 敗北の証を塗り替える、それが男の新たな目的となった。





 復活に必要な最後のプロセス、それは難航を極めた。

 眼窩の奥に僅かに残る視神経、そこから培養した眼球はことごとく根腐れを起こしどれも肉体に定着することは無かった。塩に侵された大地が草木の生長を拒むように、男の知恵とオリガの術を嘲笑いながら“滅び”はあらゆる解決策を拒絶した。

 「何故だ、何故失敗する! 何が不足している、一体何が……!」

 人知を越えた力に計画を阻まれ続ける男は苛立ちを隠せない。とっくに肉体は大地を捉え、両腕に握られたチョークは壁面を埋め尽くす冴えを取り戻している。だが未だ欠けた最後の断片だけが肉体に戻らず、その肉体は完成しないまま時だけが過ぎていった。

 「焦りは禁物じゃなくって? 慌てる乞食は貰いが少なくなるわよ」

 「お前もその立派な角か翼をもぎ取られれば、この気分が理解できる。例え小指の先一欠片だけであろうとも喪失は喪失、そう容易く切って捨てることは出来んのだ」

 窘める物言いの男の顔には未だに包帯が巻かれており、彼が盲目のまま活動を続けていることを示していた。こうして言葉を交わしていても普段の生活でも何の問題もないが、男が言っているのはその部分ではないことはオリガにも理解できていた。

 要は彼も「男」なのだ。男には意地がある、プライドがある。その辺りの心理の機微とは時に女では計り知れないほど直情的かつ頑なであり、そして信じ難い爆発力をもたらす。言ってしまえば世の男の動く理由とは大半が自尊心であり、それはこの新世界の男ですら例外ではなかった。負けたままでは終われない……最後に勝つのは己だと証明する為、ただそれだけの為に論も理も超越した力を奮う、それが「男」という生き物だ。大義もあり使命もある、だがそれ以上にもっと大きな衝動に突き動かされるのが「男」なのだ。

 そして、そんな「男」の顔を上手く立てるのが「いい女」の条件だとオリガは心得ていた。

 「その気持ちがあるなら、あなたはきっと勝てるわ。だってこんなに必死に直向きに頑張っているんですもの」

 「困難とは乗り越えるもの。人類がその歴史で常に行ってきた道程、それが今私の前に立ち塞がっているだけだ。数多の凡俗が群れを成し乗り越えたものを、どうしてこの私に踏破できない理屈になる」

 力強い意志を感じさせる言葉はそのまま決意の表れ、何があっても目的を完遂させるという強靭な心がその言葉を紡がせているのは明白だった。

 だが……。

 「嘘ね」

 オリガの目は真実を浮き彫りにする。デーモンとしての能力ではない、これは女の勘というものだ。女を前に見栄を張るのが男なら、男が纏ったプライドという皮を丁寧に一枚ずつ剥がすのは女の役目だ。

 傲岸不遜を絵に描いたようなこの男の真実をオリガは見抜く。

 「あなたは今、怯えているわ」

 「怯える? この私が、一体何に、何故恐れ慄き怯える必要がある。未だ誰も成し得ない偉業を達成しようかというこの私に、恐れるものは微塵もない」

 口元に薄ら笑いすら浮かべて男はオリガの言葉を否定してみせる。誤解だと、杞憂だとその思惑をすげなく袖にする。

 しかし、悪魔の目は誤魔化せない。

 「なら、どうしてあなたは震えているのかしら」

 ほんの僅か、触れなければそれこそ分からないほどの微かな震え。それが男の本心を表した片鱗だと気付けないはずがなかった。

 「大きな力に押し潰されれば誰だって傷つくわ。今のあなたがそうよ。あなたに必要なのは時間よ、その傷を癒す時間なの」

 「……正直に、告白しよう。確かにお前が指摘するように私は恐れている。私にとって世界に変革をもたらす事など容易い、その道程で群れを成し行く手を阻もうとする輩などは単なる有象無象に過ぎない。いつの世も凡愚とは人の足を引っ張ることしか出来ない。そんな連中の何を恐れる事がある」

 絶対の自信、例えこの世の全てが行く手を阻もうとも決して屈したりはしないという不退転の決意。もし仮に実際、彼を除いた世界中が大挙して押し寄せその心身を踏み潰し蹂躙しようとも、彼は決して首を縦には振らないだろうと容易に思わせるほどだった。

 「だが、奴は違う。奴は“敵”だ、群れるだけしか能のない衆愚とは違う、正真正銘の“敵”。奴より硬い者は無く、奴より速い者もおらず、奴より強い存在もまたいない。その目に魅入られたモノは全て殺され、壊され、悉く滅ぼされる! あれが『英雄』だと? 馬鹿な、あんなものは英雄とは呼ばん! あれは化け物、怪物だ! “我々”が屈辱に塗れ地下に潜りながら営々と磨き上げてきた理論、それを知ったことかと踏み潰せるような輩がこの世に平然と存在を許されている……その事実それだけで既に恐怖だ!!」

 張り上げる声は怒気によるものではない。その証拠に顔は青く声は震え、男がさっきよりずっと強い恐怖に支配されていることを表していた。

 「恐ろしい……! 私は、恐れている!」

 「何を? “敵”と戦うことを?」

 「否! 戦いは避けられない。避けられないものをただ闇雲に恐るのは無能のやることだ。私は奴と相対する事を恐れているのではない、その先を恐れている! 私は敗北することが恐ろしい、敗北し平伏し、あらゆる可能性を摘み取られ、未来を押し潰されて、そして滅ぼされる……粉微塵に破壊されるよりも、残虐に殺し尽くされるよりも、なお恐ろしい結末が待っているのだ!!」

 「勝てばいいのよ」

 「いや、無理だ。私には分かる……奴に対し勝つとか負けるだとか、戦うという発想がそもそも致命的に間違えているのだ。そこを履き違えた“始まり”は敗れ去り、“我々”は無様に歴史の影に隠れる事となったのだ! あれと戦ってはならない、あれと対立してはならない、あれは……怪物だ。甘い考えと笑いたければそうしろ、私は戦わずして勝てる策を模索している」

 男の恐れ様は尋常ではなかった。それまで彼が取り続けていた尊大な態度も、その恐怖の裏返しと見れば哀愁を誘うものを覚えずにはいられない。まさに孤軍奮闘という言葉がこれ以上に似合う存在もまたいないだろう。

 だが、ならばどうしてそこまで恐れをなす相手を前に挑み続けるのか? 全てを放棄するか、そうでなくても小賢しく絡め手を用いるという考えには至らないのか、オリガにはそれが不思議だった。

 その疑問に男はさも当然とこう答えた。

 「決まっている。私は、より良き未来を創る為に戦っている。誰だってより心地よく、より快適に、そしてより清らかに生きたいと願うもの。私は私自身の意志で、私自身が成すべきと思っているからこそそれに貢献している。地位? 名声? 栄誉? 知らぬ知らぬ、纏めてどうでもいい、興が削がれるんだよ。私は私の意志で人類がより良き所へ行けるよう最善を尽くしているに過ぎない」

 恐れはある、怯えもある。だが男の動きを止めないのはそれ以上に強い目標達成への情熱と衝動。それだけを糧に男は絶対に敵わないと知る相手にも挑み続けられるのだ。敗北は終わりではない、ただ負けるだけなら幾らでも辛酸を舐め続けられる。死すら真の意味では終わりではない、意志を継ぐ者がいる限り何度でも復活できる。破壊もまた同じ、再生を経て再起は狙える。

 だが「滅び」は違う。地層に沈んだ文明が二度と蘇らないように、滅びは万物の終着地点、そこに至れば再起も後戻りも出来ない。男が恐れているのはそれだ、もう一度敗北したならば今度はどう足掻いても復活できない。今度は眼球どころか存在そのものを滅ぼされてしまいかねない。

 「私は滅びたくはない。それは私自身が生き残りたいからではない、私が滅びることで人類の繁栄がこの先千年も遅れる、それだけが私が唯一にして最も恐れることだからだ! 流れる水は河となり、やがていつかは海に至るように、人はもっと先に進まなければならないと知っているからだ!! 神を僭称する存在もこう宣った、『産めよ増やせよ地に満ちよ』と。ならば才有る者がその先駆けとなることに何の矛盾があるという!」

 そう語る男には、決意があった、情熱があった。理想も、主義も、覚悟も、信念も、およそ人間が行動を興す上で必要とされる精神的動機全てが満たされていた。

 恐れている? 戦えば負ける? 敗北必定? だからどうした、そんなものは歩みを止める理由にはならない。この身には成し遂げなければならない理想があると知っているから、どれだけ巨大な壁が立ち塞がろうとも止まる気は無い。

 「悪魔よ、私の心の迷いに住み着くモノよ。分かるか? 他者の欲望を喰らい、そこに間借りするだけのお前達には決して無い。これが人間だ。これがヒトだ。前へ、ただ前へ進むヒトの意志だ。私はそれを体現する者、五百年前も、今も、そして千年先でも変わらぬ事実だ」

 「素晴らしいわッ!!」

 思わず抱きつくオリガ。魔物娘が好む男性のタイプは様々だが、総じて彼女らの基準には「強さ」がある。腕っ節、知力、精神力、生命力、欲望……そうしたバイタリティに突出したオスを嗅ぎ分ける能力において彼女らは種族の別を問わない。それまで知識欲が根源の「魅力」は、たった今異性に対する「好意」に変じた。この男が持つ情熱を自分ひとりに向けさせたいと、オリガの女の部分が果てしなくそれを求めている。

 添い遂げたい、番いたい、目交いたい……言い方は色々だが、つまりはもう「我慢できない」ということだ。

 「ねぇ……イイでしょう? 私があなたを支える、その大きな理想をもっと、もっと遠くへ飛ばせるように。私があなたを連れて行くわ」

 「出来るか、お前に私を連れ出すことが。失墜した私を、幾万もの困難を乗り越え再び星の座に導くと?」

 「これは『契約』。私はデーモン、悪魔は必ず約束を守るものよ」

 「ならば対価に何を望む」

 オリガの手がそっと男の頬を包む。そして魔力を乗せた声で一言呟いた。

 「あなたの『全て』よ。可能性、時間、未来……これから先においてあなたが成すべき事柄その全てにおいて、私がその近くにいる。永遠にあなたを導き、その助けになり続けるのよ」

 「なるほど。私には万能たる悪魔の知恵が授けられるということか」

 頬を包む手にそっと男が触れ、二つの体温が交じり合ってお互いを高め合う。徐々に熱くなる温度は決して室温によるものではない。

 「それはいい、実にいい提案だ」

 「ならどうするの? ノるの? ノらないの?」

 「愚問だな」

 問われるまでもなく男の心中は決まっている。

 「勘違いするな。与えるのは私で、捧げるのはお前なのだ」

 男のスタンスは変わらない。彼こそが新世界の悪魔なのだから。





 ドウケツエビ、というエビの一種がある。カイロウドウケツと呼ばれる精巧な細工に似た海綿の中にオスとメスの番いで棲息し、一生をその中で共に過ごす。ウオノエという寄生虫は魚の口内に潜み、同じくオスとメスでそれぞれ上顎と下顎に寄生する。他のものは入り込む余地すらない、二匹の世界がそこに形成される。

 男とオリガは今まさにそれだった。

 「んう……っ。うくぅ……」

 漆黒の空間に淫靡に響くのは口付けの湿った音。二人の男女の唇が互いを貪り喰らおうとする音だ。情欲の猛りを隠そうともせず、ただ肉を喰らい合うことしか頭にない原始の姿になったオスとメスは、邪魔する者などいないこの偕老洞穴の中で存分に睦み合う。

 「っはぁ! ねぇ、キスは初めて?」

 「『も』、だ。私は最後の生き残り。他に相手がいない以上、経験のしようがないからな」

 「そういうカミングアウトは外では、んっ……しないほうがいいわよ」

 「事実を事実と言って何が悪い。それとも何か? 私はここで見栄を張った方が正解だったとでも?」

 「誰もそんなことは、あぁぁっ……言ってないわ、よ。ていうか、あなた……本当に見えてないのよね? 何か不思議な術で見えたりしてない?」

 「何故そう思う?」

 「何でってぇ……」

 男には眼球が無いのでオリガの姿など見えるはずがない。だがその手付き、指先の動きは目が見えていなければ説明できないほど正確にオリガに触れ、その敏感な部分を的確に責めていた。乳房を揉みしだき、先端を捻るように摘み、身を捩って逃げようとするその顎を掴み強引にキスをする。とても視覚を失った人間の動きには見えなかった。

 「匂い、音、手触り、別に目が無くとも他の感覚で補正は利くものだ。見くびるなよ」

 「それって、見えなくても私のことが分かるってことかしら?」

 「だとしたら? 気分でも害したか」

 「いいえ。とっても嬉しいわぁ」

 押し付ける唇は更に強く媚肉を喰らう。理性は削られ、二人は獣に堕ちていく。

 キスをしながらオリガは身をかがめ、唇は男の全身に隈なくキスの雨を降らせながら徐々に下半身に狙いを定めていく。白い手術着一枚だけ羽織った肉体はその主張を惜しげもなく発揮し、布越しだというのにオス特有の臭気が鼻腔を刺激する感覚にオリガは陶酔を禁じ得なかった。

 「今ラクにしてあ・げ・る」

 服を脱がして見える地肌はオリガが手塩に掛けて縫い直した体。縦横無尽、規則性の欠片も無く走り回る縫合の痕跡は痛々しさよりも、自分がこの体を完成させたのだという優越感をオリガに与えてくれた。手術痕に舌を這わせながらオリガの指先はブドウの皮を剥くように、男を覆い隠す布を引き剥がした。

 「ふわぁお……」

 驚きと感動、そして陶酔が入り混じった嘆息が熱く屹立したオスの象徴に降り掛かる。むわりと鼻を突く青臭いオスの匂い、魔物娘にとってそれは阿片以上の妙薬、一度肺いっぱいに取り込めばその心は桃源郷に置き去りにされる。赤々と張った先端は禁断の果実を思わせる熟れ具合であり、自分にメスとして魅力を感じてくれていることが堪らなく嬉しかった。

 「意外ね。誘っておいてなんだけれど、あなたにこんな『機能』があったなんて」

 「ヒトである以前に生物として当然の反応だ。何もおかしなことはあるまい」

 「いや、ほら、あなたの事だから全摘しちゃってるものとばかり……」

 「私は生物としても完全であらねばならない。生殖機能の喪失した生物など、私は一個の生命体としては認めない」

 「世の『勃たない』人が聞いたら嘆き悲しむわよ。まあ、その点あなたはご立派なモノだけれど……あ〜、はむぅッ」

 予備動作も準備運動も必要無い、いきなりの口淫。まるで子供が大好物である飴にかぶりつく様な、だがそれが妙齢の女性が男のペニスに対して行えば一瞬にして淫蕩という言葉も生温い獣欲を刺激する光景に早変わりする。

 「んぷっ! じゅるっ、ぢゅぢゅっ! んくっ! んん〜、ひもひいい?」

 「感度は、良好だ……! 快楽に漬け込むのはっ、お手の物というわけだな」

 男の経験が皆無ということを差し引いても、オリガのテクは極上の快楽をもたらした。躊躇いなく飲み込まれた器官は自在に蠢く柔肉の洗礼を受ける。根元まで容赦なくくわえ込んだ事でサオは言うまでもなく、最も敏感な男の部分は口腔とは全く異なる感触を持つ喉奥へと迎え入れられ、熱く張ったオスの象徴をそのまま飲み干さんばかりに強く、そして優しく愛撫した。無骨な手で自己発散させるのとはわけが違う、魂魄も溶かし込む純然たる快楽の暴力は大火の前に置かれたロウソクのように理性を消していく。

 ほどなく根元から脈動が始まる。暴れ馬のように跳ね上がる器官は喉を内側から押し広げる感覚を一瞬与えた後、予兆そのままに噴出した絶頂の証はオリガの体内すら染め上げる勢いで胃の腑へと流れ込んだ。反射的に飲み込もうと律動する喉の動きが意図せず更なる快楽を生み、たっぷり一分かけて全てを吸い出しやっと収まりを見せた。

 「〜〜〜……ッ、ぷはぁ! 五百年物の味ってこんななのね。カラダが火照っちゃうわ」

 「青い肌が火照ると言われてもな。だがまあいい、私も己の体の機能を再確認できた。確認作業の次は……実践だ」

 腰に手を回し抱き寄せれば、胸が密着し合い互いの鼓動が大きく体表を伝って興奮を高める。初めて見せられる男らしい振る舞いにオリガは、あっと短い叫びを上げて身を竦めるだけ。およそ男を弄ぶ悪魔とは思えないほど初心な反応に彼女自身も戸惑いと羞恥で更に赤くなった。青い肌がそれを悟らせなかったのは幸だったのか不幸だったのかは分からないが。

 身に付けている物を丁寧に脱がされ、その過程にもまどろこしさを覚えるほどにオリガの興奮は最高潮に達していた。もう「待て」は利かない。

 そして……。

 「ぁっ……きッ、たぁぁあああ〜〜〜ッ!!!」

 「っぐ……!」

 それまで魔物娘にあるまじき一切の下劣な感情を抱かなかった反動が、ここへ来て一気に爆発した。理性では何も感じずとも根っこはやはり魔物娘、男の一部を迎え入れたその瞬間にオリガはだらしなく達してしまっていた。男を一方的に弄ぶ悪魔の末裔とは思えないほどの乱れ具合、だが今のオリガにそれを省みる暇は無かった。

 「あぁ、なにこれぇ……なんだか、ヘンよぉ」

 魔物娘の淫蕩さは凄まじい、男に跨った彼女らはそれまで処女だった事など忘れて勢いに任せた乱暴な交わりを繰り返す。破瓜の痛みなどあって無きが如し。その彼女が、どうしたことか男の上でよがり狂っている。乱れているのはオリガだけで、組み敷かれているはずの男は打って変わって平静だった。魔性の肉壷にその身を捧げているにも関わらず、完全に本能と理性を切り離しているようでもあった。

 「どうした……悪魔の技巧とはこんなものだったか」

 その証拠に彼は哂っている。こんな程度なのか、期待はずれだと、人間では考えられない余裕に満ちた表情。平時であればきっとそれがある種の強がりだと気付けたはずだ。だが今のオリガは平静を欠いている、男の澄ました反応に下半身の熱とは真逆に焦りしか覚えなかった。

 だから乱暴になる。どれだけ情報伝達が速くなり、どれほど技術が進化し、どこまで文明が進歩しても、セックスの根幹は原始より何も変わらない。即ち、引いて打ち付ける、ただそれだけだ。ある種、闘争にも似たその動きは、真実闘争と変わりない。相手に与えるのがダメージか快楽かの違いだけで、それすらも自分がそれらを感じたいという意味では非常に利己的な行為の域を出ない。結果としての利他、帰結としての共生、表層的な繋がりしか生まれない。

 原始的、暴力的、退廃的……ただ互いに互いを打ち付けるその交わりに、嬌声などという色気は早々に消え去った。動物はセックスを楽しまない。彼らは種の存続に必要な行為としてそれを行うだけであり、そこに快楽は存在しない。いや、存在はしているが、それは結局のところ繁殖行為における副次的な効果がもたらすものに過ぎない。ただ必要だからそうする、それ以外は眼中にはない。

 「愛は、錯覚だ。交わりによって得られた快感が報酬系を司る神経を刺激し……それによって感じる幸福感を愛と勘違いする。肌を許した相手に依存する者が多いのは、要はそういうことだ」

 「今の私とっ、あなたのように?」

 「そうだ」

 「嘘よ」

 嘘だ、土壇場で照れ隠しするのは男も女も同じこと。その証拠に男は乱暴なままオリガを強く求め続けている。好いてもいない相手を気軽に抱けるほど男とは単純に出来てはいない。この男の胸の内にある極大の「愛」は、今確かに自分に向けられているのだとオリガは信じていた。

 交わす言葉は不要、どんなコミュニケーションよりも雄弁なるこの交わりに無粋な言葉は必要無い。ただ互いを高め合い昂ぶり合うこの刹那、二人の身も心もドロドロに融け合うだけ。

 限界は訪れる。今まさに迎えようとしている最高潮を前に、オリガもまた我を曝け出す。

 「ねぇ、え……! イッて……ねぇ、イッてよ……。『愛してる』って、『好き』だって言って聞かせて!」

 女を組み敷き侍らせるのが男の本能ならば、その男から愛の睦言を引き出すのは女の本懐。それも自分から先の売り言葉ではなく、相手から先に言わせた方がずっと価値がある。先に言った方が負けで、先に聞いた方が勝ち、実にシンプルで微笑ましく、それでいて真剣な勝負事だろうか。悪魔といえども所詮は女、人間を弄ぶ力を振るっていても最後はいつも彼らに出し抜かれると知りながら。

 だが、「悪魔」なのはこの男も同じことだった。

 「ああ、アイしているとも。世界を愛するように、お前のこともアイしているさ」

 面と向かえば気恥ずかしいはずのセリフでさえ事も無げに吐き、その魂を悦楽の泥沼に叩き落とす。浮上を試みる僅かに残った理性すら鎖で縛り付け、この漆黒の暗闇以上の暗黒、深海の底へと刹那の内に引きずり込んでしまう。それと相反するように肉体は奥底から噴き上がる快楽の大波によって急速に押し上げられ、叫び声を上げる間もなく……。

 悪魔はこれまでに経験したことのない絶頂を────、



 「だからもう用済みだ」



 視界が、闇に落ちる。瞳孔は光を捉えず、網膜は漆黒の彼方に消え去った。

 当たり前だ。

 「あ、──え……?」

 もはやその双洞に在るべき二つの眼は収まっていなかった。

 抉り取られれば見える可能性など万にひとつもありはしない。

 「私と同じ『目線』を得た気分はどうだ、悪魔よ。“我々”が、否、“私”が五百年間閉じ込められてきた世界だ」

 生暖かい液体が頬を流れ落ちる感触に、オリガは自分の身に起こった出来事を嫌でも思い知らされた。最後に見えた光景は己の視界を覆い隠す男の指。それが意味するところは即ち……。

 「あぁっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁああーーーーッ!!!!」

 遅れてやって来た激痛に脳髄が軋む。頭蓋を内側から削り取られるような痛みは、生まれながらに魂を堕落に誘う黄金比を持つデーモンを地獄に突き落とされたような表情にするには残酷なまでに過剰だった。一切の外科的技術を用いず暴力的に抉り出された今、男の手中にあった。紅玉のように爛々と生ある輝きを放っていた瞳はそれ以上の赤を誇る血に塗れ、指の間から垂れ下がる紐のような物体を伝って流れ落ちる様は悍ましい限りだった。

 「私は不完全であることは特に問題視しない。元より完全であるものなど存在しない、問題なのは未完成であることだ。柱を欠いた家屋を家とは言うまい、それと同じことだ」

 激痛に悶え苦しむ、つい先程まで情を交わした相手を気にも留めず、ここにはいない遠くの誰かに語り掛けるように独り言を呟く男。手にした禁断の果実の感触を確かめるように転がし、聞かれてもいない己の論理を語り続ける。

 「粗悪であることより、欠けている事の方が尚悪い。機能不全と機能しないことはまるで違う。私は今すぐ、そして確実に復活を遂げなければならない。その為にはもはや単一の部品が粗悪であるか否かなど些事だ」

 抉り取ったばかりの眼球は滴る血も相まって瑞々しい果実のような光沢を放ち、何も見えないはずの男がそれを品定めするように様々な角度から眺めるような仕草をする。そして満足でも不満でもない、「まあこんなものか」と言いたげに鼻を鳴らし、まだ悶え苦しむオリガに再び言葉を掛ける。

 「悪魔よ、お前は私の願いを叶えてくれた。誇るといい、お前はこの閉塞した世界を打ち破る、その偉大な一手を打ったのだ」

 「どう、してッ……! 何故……こんなことを。だってあなたは私を……!!」

 「おいおい、まさかとは思うが悪魔よ。この私が、真実本当にお前を愛したとでも思っているのか。お前のような、そこに存在していることそれ自体が、出来の悪い唾棄すべき奇跡にも似た旧世界の残骸であるお前達を……なぜ愛する必然性がある? 笑止千万、滑稽至極、かつてか弱き人類が生み出した妄念の集積、『悪で在れ』と望まれ願われたからこそ存在を許されているだけの霞の如きモノを、何故私が愛する事がある? 思い上がりも甚だしい。嗚呼、と言うよりもお前……」

 視界を奪われ真の暗闇に突き落とされたオリガは、自らの耳元に男の気配を感じた。今や互いに盲目となりながらも片や激痛に苛まれるオリガに対し、暗黒の中にあっても己を見失わない男は彼女の苦痛を嘲笑うかのようにこう告げた。

 「お前、誰だったかな? 忘れたぞ」

 「何言ってるのよ……私は……………………私は」

 「お前は? さあ、続きを言って見せろ。お前は、誰なんだ?」

 「…………」

 言い淀む。こんな簡単な事に答えられない事に困惑と苛立ちにも似た焦りが湧き上がる。だがもはや彼女にそれを答える術は無かった。

 「私は…………“誰”?」

 答えられない。答えられるはずがない。

 「誰でもない。もうお前は、お前をお前足らしめるモノを持たない」

 もうこの女に、名前は無いのだから。

 そして存在を構成する要素が欠ければ、後はそこから一気に瓦解する。それはまるで乾いた脆い砂山が端から崩れ落ちるように、一つを失った存在はもはや自己を保てない。

 「お前の髪はどれくらいあった? 肌の色は? 声のトーンは? 身長、体重、年齢、これまでの経験、記憶、親は誰で、友人は、知人は、ここでのお前の肩書きは、役目は、お前はどこの、何と言う者なのだ?」

 「────」

 つらつらと並び立てられる存在を構成する要素。矢継ぎ早に捲し立てられるそれらに対し、もはや彼女は何一つとして答えることは出来ない。

 何故なら彼女は『何者でもない』のだから。

 「悪魔よ、女よ。旧き残影、新しき世にいてはならない異物よ。この私の心の空隙が生み出した、初めからここには居なかった存在よ。もはや私の声すら届いていないだろうが、お前は最後の最後で私の役に立ってくれた。礼を言うよ」



 「だから、さっさと消えろ」



 それを最後に孵卵器には男だけが残った。他には何もない、誰もいない。だってそうだろう。ここには最初から彼しかいない。存在しないモノは実体がない、実体がないから存在もしない。鳥が先か卵が先か、その問いの果ての果てまで行こうとも示される真実はたった一つだけだ。

 ここにいた「誰か」はもういない。この世のどこからも一切の痕跡も残さずに消え果てた。それはまるで匣に封じ込められた猫の如し、閉じられた世界における唯一の観測者たる男が「存在しない」と結論付けた以上、もはやここに彼以外が存在する余地は消滅したのだ。究極の真実とはただそれ一つだけ、他に証明する手立てはない。

 唯一、その手に握られた二つの眼球を除いては。

 「私は最初から言っていたはずだ。私の創造する真世界に、旧き存在は不要だと。自分はその中に入っていないとでも思っていたのか。だとすれば思い上がり、いや、無知蒙昧とはこの事か」

 目蓋を覆い隠していた包帯が取り去られ、漆黒の眼窩が晒される。何も捉えていないはずの眼は孵卵器の外側を確かに見据え、今やその孔には代替の役目を果たす物が収められようとしていた。

 するりと何の抵抗も無く孔に入り込む球体は、それ自体がまるで生きているように眼窩の中をグルグルと悍ましく動いた後、やがてその奥にある脳髄とを繋ぐ回線とリンクしたのか収まるべき位置に到達した。今この時、完全とは言わぬまでも男は昔日の姿を取り戻し孵化の時を迎えたのだった。

 「ようやく……ようやくだ。ようやく私は、“我々”は世界に羽ばたく。世界よ、人類よ。私の意志を知れ、“我々”の理想を受け入れよ。それこそが私からお前たちに送る愛だ。私は世界を愛している」

 男は愛している。世界を、人類を、あらゆる可能性がもたらす無限の未来を。きっとこの先彼らが創り出して行くであろう素晴らしき世界を、彼は嘘偽り無く掛け値もなく愛している。そしてその描かれる未来の一助に自身がなれれば望外の喜びとさえ考えている。今や消し去った悪魔に語って聞かせた言葉に虚偽は無い。

 『未来』だけ、だが。

 『現在』はどうでもいい。『過去』など知った事ではない。男が心底愛するモノは唯一つ、これから先の未来のみ。それ以外はどうでもいいのだ。

 故にこそ、男は一掃する。今この地上を埋め尽くす、彼が言うところの旧き存在全てを。あらゆる神秘、あらゆる幻想、あらゆる奇跡と呼ばれるモノに属する存在全てを、この世から抹消せしめんが為に。

 「さあ行くぞ。真なる世界が私を待っている。人類に再び黄金の収穫期が訪れんことを」

 男は今一度、世界を終わらせに征く。

 誰よりも愛を語り、何者より愛を知らぬ悪魔は五百年の時を経て、今ここに解き放たれた。





 封印を解かれた男が外に出て最初に目にしたのは、どこまでも続く灰色の大地だった。埋め込んだ悪魔の瞳は正常に機能し、ここが自分の知る地上の如何なる光景にも無い天地と瞬時に見極める。

 だが恐れはない。戸惑いも、驚きも無い。むしろ脳髄は冷静にこの事態を俯瞰して見ていた。なるほど、自分を完全に封じ込めるというのならばこれぐらいの事はするだろうと。

 そしてその思惑を裏付けるように、光を呑む暗黒の天には一際大きく輝く星が見えた。青く、雄大で、そして全てを包み込む魅惑の星……そう、それこそは。

 「母なる大地も今や我が手の中に、か」

 象牙の塔、シャトー・ド・イヴァール……その正体とは、天地開闢より母なる青き大地を見守り続けた月のこと。古来よりあらゆる民族・種族から信仰の対象として崇められた、その内部を刳り貫き罪人を閉じ込める牢としたその不敬、それだけの事をしなければこの悪魔を封殺出来なかったその事実。史上最大の構造物でさえその役目を果たせなかった今、世界は再び終わりの時を迎えなければならない。

 かつて北海で起きた『星降る日』、それが「本来の目的」を果さんと鳴動を始めようとしていた。

 「はは、ハハハハハ、ハハハハハハハハハハハハッ!! 素晴らしい、実に素晴らしい!! これが貴様の見ていた世界か、『英雄』!! ハハハハ! 私は遂に貴様と同じ目線を手にしたぞ!!」

 かつて己を打倒した仇敵を思い出し、自らがそれと同等になったことに狂喜を禁じえない。異種の眼を手にした男の視線は此岸に在りながら彼岸を見通し、世界の未来をその目で確かに捉えていた。その目には人類がこの先辿り着くであろう光景が仔細に見えている。未来を満たす力と技の全てが己がもたらすもの、そしてその薫陶を受け継ぐモノで溢れている事も手に取るように理解できた。

 それはつまり、男が解放された時点で未来が確定してしまったと言うこと。男の思い描く理想世界には旧き存在はいない。そんなものはこれから彼自身の手で全て終わらせるから。その目にいずれ来たるべき理想の未来が映るということは、あの青き大地に住まう全てが人類以外は全てが消え果ててしまうということ。

 だが全てが決まったわけではない。

 「……今の私に見通せない未来がある、だと?」

 網膜に存在する盲点、そこに像が映らぬように遥か千年先まで見通すはずの眼に僅かにノイズのような部分があった。それを認識した瞬間、男の視界は強制的に現在に引き戻される。

 再び視界に飛び込む灰色の大地。そこにはついさっきまで存在しなかったはずの、男以外の影があった。どこに隠れていたのか、異常を察知してやって来たのか、あるいは本当に突然出現したのかは定かではないが、謎の影は男の目の前、驚く程近くにいた。

 それに対しやはり特に驚きもなく、男は得心の呟きを漏らす。

 「罪人、看守と来ればやはり門番がいるのは必定か。まさかたった一人にこの私の理想を阻めるなどとは……」

 男の言葉が止まる。余裕に満ちていたその表情と声が少し緊張を帯びたものに変わり、最初は訝しみ、次に値踏みし、そして最後には睨んでいた。

 「お前は私を……いや、“我々”を知っているな?」

 「…………」

 「どこかで出会ったか? あるいは、どこかで『造った』か? 誰だ、お前のようなのは覚えが──」

 「忘れたとは言わせない。例えお前が忘れても、この体、この血、この魂が知っている。お前はこの世にあっちゃいけないものだって」

 一歩、一歩、謎の影が距離を詰める。青き星の輝きを背に向かって来るその姿に迷いは一切なく、明白な唯一つの決意によってのみ動いていた。

 やがて逆光よりも互いの顔が見える位置に立った時、その者はこう告げた。

 「オレの名は『───』。お前が虐げた『───』と、お前を封じた『───』の……」

 それを聞き届けた時、男の顔が初めて驚愕に染まった。全ての因果、因縁、宿業が結実し今この場にある事を理解し、その驚きは……。

 「面白いッ!!」

 狂喜に変わった。

 「神秘もッ、幻想もッ、奇跡でさえも私は否定しよう! だがこの瞬間、運命だけは信じよう! でなければこんな巡り合わせは有り得ない!! 乗り越えるべき壁が向こうから到来してくるなどとはな!!!」

 誰もいない月の上。灰色の大地が映すのは末世の光景か、あるいは真世界の幕開けとなる真っ新な楽園か。

 「来るがいい、『英雄』!! 今度は私が勝つ! “我々”の勝利だ!!!」





 『神秘否定者』と『幻想体現者』、“最新”と“最強”は五百年の時を経て……再び相見える。
16/08/13 21:05更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 お ま た せ(三ヶ月振り)。エロ薄かったんだけどイイかな?
 ダラダラとやってきたこのシリーズも次の二話で完結。目を通してくださっている物好きな皆さん、暑さには気を付けてください。

 あ、そうだ(唐突)。コミケ三日目、イってきます。東M05aに皆集合!!

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