第六幕 運命の恋人:後編
レスカティエ教国、首都中央にて────。
「以上が、ゲオルギア共和人民連邦で起きている異変の詳細です」
「報告ありがと。下がっていいわよぉ」
部下のサキュバスからの報告を受け、改めて資料に目を通す。
紙の束全てを隅々まで目を通し、物憂げに小さな溜息をひとつ漏らす、たったそれだけの何気ない行為が途轍もない色香を伴い、雄性を刺激する甘い香りとなって空間に充満する。もしここに「まとも」な男がいれば、彼女の仕草ひとつを目にした瞬間に獣性に身を任せ飛び付かずにはいられない、そんな誰も抗えない魅力をこの女性は持っていた。
女の名は、デルエラ。かつて人間界最大勢力を誇ったレスカティエを堕とし、背徳と堕落の都に変えた大淫魔。魔界を治める魔王の第四子にして、現在人間界で最も大きな影響力を持った魔物娘だ。
教国裏のトップとして、表の女王フランツィスカには出来ない事をするのが今のデルエラの仕事だ。フランツィスカは自他共に認めるお飾り、言わば未だ存続を許される主神教や王族の威光を効率よく発信する為の装置であり、事実上の実権はデルエラが握って久しい。彼女がこの国を統治する真の王者であることは、もはや誰もが知る公然の秘密だ。彼女がその気になりさえすれば、その魅力と手腕を以て周辺各国を骨抜きにすることも容易に可能だ。
その彼女が、数多の人間を、政治を、宗教を、己が色に染め上げ手中に収めてきた大淫魔デルエラが……。
「はぁ、困ったわね……」
二度目の溜息、そして頭を抱えていた。
実際には右手をそっと額に添える程度の仕草だが、彼女を知る者がこれを見ればナーバスに陥ったその雰囲気に驚いたことだろう。つまりはそれだけの厄介事を今のデルエラは抱えてしまっているのだ。
抱える案件とは即ち、北の隣国・ゲオルギア連邦で起こっている出来事だ。
教国と連邦はつい二十年前まで敵対関係にあった。教国だけではない、かの国にとって竜の尾を越え南にある国は全てが敵視の対象だった。貴族たちを革命により虐殺して形成された連邦はその国風に逆らわず、統制、搾取、弾圧の三拍子揃った徹底した暴力による管理を主体とする政治が長く続き、ドラクトルの山々が無ければとっくに戦争を仕掛けられていたと言われるほど急進的な国家だった。その暴力革命を引き継ぐ旧体制が崩れたのが二十年前で、それからは以前のような攻撃的な外交はなりを潜めるようになった。
だが未だに反貴族の気風は根強く、富の占有を象徴するとして貴族階級を多数抱える教国や、その隣国のアルカーヌム連合王国に対する風当たりは強い。それら国民の感情を受け流し妥協点を探りつつ、やっとの思いで今回のトンネル開通計画を実行に移す段階まで持ち込んだのだ。そこに無視できない暗雲が現れたとなれば、計画を進めた第一の功労者としてデルエラの心労は計り知れない。
「デルエラ様、お客様がお見えになっております」
「悪いけど後にしてくれないかしら。今少し立て込んでるのよ」
「いえ、それがその……」
「……あぁ、来たのね」
そう言えば事前に目通りする相手がいたと思い出し、少し身嗜みを整え応接室へ向かう。知らない相手ではないが、公の立場で会うとなると少し畏まって行く必要性がある者だ。少し「仕事モード」で応対しなければならない。
「おそい」
応接室で待ち構えていた相手の第一声に、デルエラも普段緩ませている神経を引き締める。少なくとも公事の場においては魔界の第四皇女である自分より、目の前のこの男の方が立場が上だからだ。
「これから休もうかと思ってたところなのよ。ほらぁ、長く起きてるとお肌の美容に悪いでしょう? 寝たい時に寝て、食べたい時に食べるのが一番理に適ってるのよ」
「おまえの生活様式がどうこうなど今はどうだっていい。分かっているのか、おれがわざわざここに来た意味が」
「ええ、充分承知してるわ。王魔界の使者さん」
眼前に座す男は魔王の膝元、王魔界から来訪した使いの者。即ち彼こそは全魔界の頂点に君臨する魔王の勅命を携えた王の言葉を伝える者、そして今この場における魔界の全権代表者なのだ。公的なこの場においては、人間界の支配を「任されている」だけのデルエラより遥か上に属している。
「魔王陛下より預かったお言葉を伝える。心して聞け」
「はっ!」
そしてそれを象徴するように、上座に座る使者の前でデルエラが跪いた。彼個人に対してではなく、その背後に控える偉大な母に対し、デルエラは臣下の礼を取るのだ。
「『過日、北の雄たるゲオルギア共和人民連邦に対し行いたる所業、甚だ悪辣の極み。其のもたらした近況を知り得た我が心中、之も甚だ乱れ穏やかに収まることを知らず。汝の手腕に対する我が期待を裏切りしは、之に如何なる償いをもって応えるなりや』」
それは叱責の言葉。過去にデルエラがゲオルギアに対し行った「ある事」に対し、彼女の母である魔王が立腹している旨を伝えるものだった。だがそれは「今」のゲオルギアで起きている出来事に対してではない。
と言うのも、デルエラは連邦に対し既に「二度」の干渉を行っている。そのどちらも表の公式記録には残っていないが、確かにデルエラは確固たる目的を持ってかの国に対し手を出している。無論の事、表沙汰になれば内政干渉どころの騒ぎではない。場合によっては十年以上の歳月を掛けて築き上げた連邦との関係をご破算にしてしまう可能性すらあるのだ。彼女の母であり全人類との融和を目指す魔王としても、娘の行った綱渡りを見過ごすほど優しくは無かったのである。
「三十年前の『北海制圧』に、十年前の『十二星徒の乱』及び『蛇神事変』……確かにヤリ過ぎちゃった感は否めないわね。アレはアレで必要な事だったんだけれど」
「その事はもういい。今問題なのは、ドラクトルで起きていることだ。大陸各地へ散ったおれを含む王魔界の“耳”は、既に北の大国で起きた事件を掴んでいる」
「ええ、こちらもよ」
雪猩々……失われたはずの古代の魔物。それがドラクトルで動き出し、既に何人もの人間が被害を受けている事をデルエラもつい先ほどの報告で知り得た。かの怪物が出現しているポイントは、三ヶ国合同で進められているトンネル計画、まさにその現場なのだ。ゲオルギアの戦力では真冬の山で件の怪物を仕留める可能性は皆無に等しく、それを受けた王魔界はデルエラに対し一つの指令を下した。
「『雪山の怪物を可及的速やかに排除せよ。目的達成の手段は問わない』、それが陛下の命令だ」
「手段は問わない……イイのかしらぁ?」
「ああ、そうだ」
蠱惑的に口元を歪めるデルエラに、使者の男も静かに首肯する。つまりはそう言う事、初めからそのつもりでこの会合は執り行われているのだ。
「では第四皇女デルエラの名において命じます。国境を越えゲオルギア連邦に赴き、雪猩々を排除なさい」
「承知」
この時点を以て、男の肩書は「王魔界の使者」から「教国の兵器」へ変貌した。指揮権は魔王からデルエラへと移り、彼女が抱える案件を秘密裏に片付けるエージェントとして活動する私兵となった。
たかが一人、戦力として数えるなど不可能……常識で考えるならば、だが。
「期待してるわぁ。蛇神を仕留めた『星墜とし』の力、もう一度見せてちょうだい、ね?」
兵士、4000人。
勇者、300人。
竜種、100頭。
超人、十二体。
英雄、四人。
大魔獣、三頭。
偽神、一柱。
それがこの男の戦果だ。
「山ごとすり潰してもいいよな?」
地を裂き、海を割り、空を穿ち、その力は「星の一撃」に匹敵する。王魔界最強の戦士、雪猩々対策の任を負い「三度」に渡る北地征伐へと赴く。
自分の中にある一番古い記憶は、母が自分の名を呼ぶ優しい声だ。
「レオ」
頭を撫でる柔らかな感触。絶対の安心感を与えてくれた手の温かさ、それに身を委ねた幼いあの日。もうどんな日常だったのかさえ頭のどこにも残っていないが、きっと母は優しい人だったのだと心で分かる。
「レオ、可愛いレオ」
その温かさに身を任せ、何も考えず甘い匂いを胸一杯に吸い込む。ただそれだけで己の心が安らぎの極地へと旅立てる。この後に極大の恐怖が迫って来るとも知らずに……。
「レオ、わたしのレオ。絶対に守るから」
体が震える。地も、空も、この世の全てが鳴動する。二本の足は己の体重を支えることも出来ずに膝を崩し、グラグラと揺れに揺れる天地に必死に支えを欲した。
それを支える母の肩越しに目を凝らす。だが見えるものは何も無い。
幼いレオの視界に広がるのは、白。深く、濃く、そして透き通った白。世界の全てを容赦なく塗り潰すその色彩は、レオの記憶よりも更に深い魂の奥底に大きな爪痕を残した。
それが、「あの日」に起きた出来事の一部……。世界を押し潰す“白”によって何もかもが破壊された、原初の記憶。
この目から“白”が消え去った時、母の姿は既に無かった。自分の前から家族を、人生を、記憶を奪い去った“白”だけが残った。
「……ん、うぅ……あ」
気絶から目覚めれば、決まって視界に飛び込むのは知らない風景だ。気絶自体、経験が二度しか無いので何とも言えないが、どうやら自分は寝ている間にどこか知らない場所に連れて行かれる星の下に生まれているのかも。そんな風に考えながらレオは上半身を起こし周囲を見回した。
体内感覚が正しければ恐らくは朝か昼前だが、生憎と正確な時間は分からない。というのも、ここは大陽の届かぬどこかの地下であり、仕事柄嗅ぎ慣れた湿気を含んだ土の臭いが妙に懐かしく感じられた。だが今自分が押し込められている穴は作業員が掘ったトンネルではなく、人が手を付けた痕跡が微塵も無い。何か巨大な生物が力尽くで刳り貫いたのか、立ち上がったレオが少し頭を屈めれば通れるぐらいの空間だった。
自分が横たわっていた場所を観察する。柔らかな枯葉が敷き詰められたそこを掘り返すと、出て来るのは木の実の山。どうやらここは寝床ではなく餌を溜め込む穴蔵と見た。当然、この餌場を作ったのは……。
「俺は保存食ってことかよ、畜生が」
何の気紛れかあの怪物は自分を食べず、こうして穴蔵に押し込めただけのようだった。幸い今、穴蔵の主は縄張りの見回りか新たな狩りの最中か留守にしている。脱出するなら今しかないと恐る恐る出口に這い出し……。
「うへぇ! こりゃ……」
素っ頓狂な声を上げるのも無理は無かった。洞穴の外は一面の銀世界、昨夜からずっと振り続けてきた雪が降り積もっただけでなく、今なお穴の外では轟々と雪が吹雪いていたのである。伸ばした手の先すら見通せない豪雪の下に踏み出せば、ものの十分もしない内に道を見失い遭難するのは目に見えている。そうでなくてもこの雪の中を歩く内に体温を奪われ、生きたまま氷の彫像にされてしまっては元も子も無い。
結局、怪物の巣穴を脱する気力を失ったレオは絶望と諦観に項垂れ、しばらく何をするでもなく無言の時間を過ごした。その内心はまるで処刑の時を待つ罪人の気分で、いつか確実に訪れる死に怯える心すら麻痺しようとしていた。その間も雪は止む様子を見せず、それどころか時間が経つごとに吹雪の勢いは増していくばかりだった。
「くそっ! 何だって俺がこんな目にあわなきゃならないんだ!」
だが混乱を経て少し冷静になると、今度は一転して沸々と怒りが込み上げてくる。自分だけがこんな理不尽な境遇に置かれていることが腹立たしく思えて仕方がない。そうなると不思議なもので、死んでたまるかと気力活力が湧き上がり、それに応じて意識しなかった空腹を腹の虫が訴えて来る。
都合よく寝床に蓄えられていた木の実を思い出し、それを適当に鷲掴みにして口に頬張る。どうせ長くない命なら、せめて憎きあの怪物の食い扶持を減らしてやろうと息巻いて、むしゃむしゃと山の恵みを貪り始めた。結構美味しいのが尚更に腹が立つ、こんな旨いものを取っているなら山の人間など襲わずともいいだろと毒づくが聞く者はいない。
手一杯に掴み取った木の実を食べ終えると、腹が膨れれば眠くなるのが動物のサガとばかりに目蓋が落ちる。食い散らかした木の実の皮もそのままに、猛然と降り続ける外の雪を無視するように膝を抱えてうたた寝を始めた。
「へっ……昔は散らかして、よく先生に怒られたっけ」
片付けが苦手だったレオはいつも神父に怒られていた。食べたら食べっぱなし、遊んだら遊びっぱなし、悪ガキではなかったが後先考えない自分勝手な行動にいつも神父は手を焼いていただろう。その度に親身になり叱ってくれる彼を、レオは記憶には無い父の姿を重ねて見ていた。
だが、その度にレオの心に浮き彫りになるのは顔も知らぬ「母」のことだった。声だけ記憶にあるから、なおのこと神父と対比して自分から欠けた家族と言う存在が大きく伸し掛かる。
今分かった。自分が神父の誘いを蹴ってここに残ろうとしたのは、彼の言葉に幻滅したからではない。本当は、彼といることで「母」を思い起こされ、それに苦悩するかもと恐れたからだ。記憶が無いからこそ日々を平穏に過ごせていたのが、記憶を刺激される事で崩れるのを防ぎたかったのだ。
だが人生とは不思議なものだ。記憶の復活を避けて町を出たはずが、身を寄せたこの山こそ自分の始まりの場所だったとは……。
「ままならねぇよなぁ……」
自分は何か言い得ぬ力でこの山と結び付けられているのではとさえ考えてしまう。
「レオ、ちゃんと片付けないと」
「ああ、そうだなぁ先生……悪ぃな」
夢見心地のまま寝言のように幻影に相槌を打ち、レオの意識は微睡に消えようとしていた。次に目が覚めた頃には怪物の餌になっている自分を想像しながら……。
…………。
…………。
…………。
……。
……。
いや、ちょっと待て。待ってくれ。
今さっきここに居たのは、“誰”だ?
幻聴、夢、微睡が聞かせた有り得ない音……最初はそう思っていた。だが違う、今さっき聞こえた声は確かに現実のもので、つい今しがたここには“誰か”がいたのだ。
その証拠に、食い散らかしたままだった木の実の皮が消えている。
「誰だ……誰か居るのか!? おい、いるんだったら返事ぐらいしろよ!!」
恐慌にも似た感情に駆られるままにレオは洞穴の外に向かって声を張り上げた。白銀の山は彼の問い掛けに答えることなくしんしんと雪を降らせるだけで、声も雪に掻き消されてどこにも届かなかった。
幻覚か、あるいは死を前にしてあらぬモノでも見たのか……。そう考え直し穴蔵の奥へ踵を返すレオ。
その足元に……。
「うぉ!? な、なんだ……!」
出口に背を向けた瞬間、外から何かが投げ込まれた。片手で持ち上げられるそれは柔らかな毛皮を持ったウサギで、既に血抜きされた形跡があった。
つまり、外にいた誰かが狩った獲物を投げ込んだのだ。
「っ!!?」
すぐさま穴を飛び出し、視界を遮る白の中を声を上げながら駆けずり回った。雪猩々に浚われたとばかり思っていたが、ひょっとすればあの穴は狩人が獲物を溜め込むのに使っている場所なのかも知れない。そう思い居ても立ってもいられず、自分に獲物を分け与えてくれた狩人を探し雪山に躍り出た。
「誰かぁーっ!!! 誰か、いるんだろ! ここだーっ、ここにいるんだぁーーー!!!」
掻き消す雪の勢いに負けじと声を張り上げ、遠くの誰かに見つけてもらおうと両手を大きく振った。零下にも関わらずレオの体温は上昇し、噴き出す汗と熱は湯気となって立ち昇った。穴にウサギを放り込んだ猟師はきっと近くにいる、こちらの存在に気付いてくれれば麓までの道に連れて行ってくれると信じて。
「おーーーい!! おぉぉーーーぃい!!!!」
だが、呼べども呼べども返事は無かった。次第に声は涸れ体は冷え、一転して体が震えに包まれる。一度穴蔵に戻ろうとして来た道を引き返すも、猛吹雪は足跡を埋め尽くし、白銀の帳は僅か数メートルも離れていないはずの穴蔵さえ隠してしまっていた。
右も左も忌み嫌う白に囲まれ、極限の環境下でレオの精神は急激に摩耗していった。このままでは雪山で凍え死にという笑えない最期になってしまう、凍りつき千切れ飛ぶ意識を必死に繋ぎ止めながら、記憶にある帰り道を探り当てようとした。
「はぁ……はぁ……はぁ…………」
呼吸は浅く、感覚は徐々に長くなる。唇は紫を通り越しとっくに真っ青だった。
もう駄目だと諦め、脚は力を失い体が前に倒れる。冷たい雪の上に伏した体は吹雪に覆い隠され、レオは一人孤独に冷たい死を迎えようとしていた。
「ダメ……!」
その体を、優しく抱き留める者がいた。
「……ぅ……」
大きく、柔らかく、そして温かい。こんな深い雪山で自分以外の誰かを身近に感じられたことに、それまでの不安と混乱は消え、レオは温かみに身を委ねていた。
凍りつく目蓋をこじ開けその正体を見極めようとするも、ひょいと軽々持ち上げられたレオが感じられたのは、その者が雪を踏み締める度に聞こえる毛皮の擦れる音と、自分の体を支える部分の羽毛に似た柔らかな感触のみだった。
雪は更に激しく降り積もる。レオをその深奥に閉ざそうとして……。
レオの体は寒空に晒した石のように冷え固まっていた。流れ出た汗は氷となり、全身の関節の自由を奪い熱を消し、今にもその命の灯火さえ泡沫となってしまいそうだった。
「このままじゃ、いけない……」
穴蔵にレオを運び込んだ者は、彼の体が思っていた以上に弱っているのを確認し、すぐに対処に当たった。
問題は無い、元来“彼女”の種族はそれを行うことに長けていた。
「レオ、今すぐ……助けてあげるから」
頭から全身を隠すように被っていた毛皮を剥ぎ取り、その身を晒す。解放された体表から溢れ出すのは、“彼女”が持つ体の熱と、更に着込まれた白い毛皮。鞣した皮が身を守る為ならば、これはまさしくこの厳しくも恐ろしい雪山を生き抜く天然の防寒着。そしてそれは、“彼女”の体から直接生み出されていた。
白い毛皮はそれ自体が意志を持つように、瞬く間に“彼女”の全身に広がり、まるで雪ダルマのような風貌になった。全身を覆い隠した毛皮は“彼女”の身を守る為ではなく、今その目の前で寒さに震える男の為のモノ。本来なら「備わっていないはず」の力を強引に引き出し、レオの為だけにそれを惜しみなく発揮した。
「レオ……あぁ、レオ! かわいそう、こんなに凍えて……。でも大丈夫……あたしが、必ず……」
凍えて身を縮ませるレオを抱きかかえ、全身の毛皮を使ってその体全てを包んだ。手も足も、頭もすっぽりと毛皮で包み、僅かに顔だけを覗かせ呼吸を遮らないようにして。
寒気を遮断する天然の防寒着は見る見る間にレオの失われていた体温を呼び戻し、血の気が無かった素肌の表面には健康的な肌色が戻ってきた。レオと“彼女”、二人は互いの体温を交換し合うように強く抱き合い、ものの五分もしない内に死にかけていたレオは息を吹き返した。
「レオ、レオ! 可愛いレオ。よかった、あぁよかった!」
これで死の心配は無くなったと、胸を撫で下ろす代わり抱きかかえたレオの背中を何度も摩る。本当に嬉しそうに、赤ん坊をあやす様に……。
「あんたは……」
「喋っちゃダメ! 大丈夫、大丈夫だから……ね。怖かったよね、レオ。でも、もう安心して」
「誰なんだ……あんたは」
ここで初めて“彼女”の顔を見たレオは、自分を温めてくれた人物が人間ではない事を知った。
白銀の毛皮は冷気を寄せ付けず暖かな熱を保ち、険しい山肌と深い雪原を踏破する丈夫な四肢、そして標高のある山に住まいながら健康的に焼けた小麦色の肌。熊にも似た生態の彼女らは古くよりこの雪山に棲む、人間の良き隣人……イエティだった。
なるほどこの洞穴はこのイエティの住まいだったのか。納得を得ると同時に次の疑問がレオに浮かび上がる。
「俺とあんたは、前にどこかで会ってんのか……? 誰なんだ? 同じ孤児院にいたか? それとも、ひょっとして……」
まるで自分を古い知己のように名を呼ぶが、レオの記憶にイエティの知り合いはいない。少なくともこの十年においてはだが。つまり勘違いでなければ、このイエティは記憶を失う十年より以前に会った誰かと言うことになる。
「忘れちゃったの? 一緒にここで、この山で遊んだじゃない。かくれんぼ、おいかけっこ、ゆきがっせん……たくさん、たくさん遊んだでしょ? ……覚えてないの?」
「あー……その……すまん、俺は十年より前の記憶が、そのな……無いんだ。さっぱり、これっぽっちも」
一瞬、言うべきか言わざるべきか悩んだが、下手に誤魔化す意味が無いと考えて正直に告白した。その時にイエティが悲しそうな顔をしたのが印象に残ったが、嘘をついてもっと傷付けた事を思えば致し方ないことだった。
「そう……そうなの。かわいそうなレオ。あんなに、あんなに辛いめにあったのに……。あんなに、あなたの幸せを祈っていたのに……」
「…………教えてくれ。俺は、誰なんだ? あんたは、誰なんだ? ここで、何が起こったんだ!? 今ここで……何が起きているんだよ!!」
十年間、意図せず蓋をし続けた過去への疑問が次々と湧き出てくる。全ての真実を知る、恐らくたった一人の人物にレオは掴み掛るように一度に疑問をぶつけた。
雪山の少女はそれに嫌な顔ひとつせず、ゆっくりと、そして包み隠さず全てを語り始めた。
「あなたはレオ。あたしはアレーナ。あたし達は友達……お友達だった、十年前のあの日までは……」
「始まりは、十年前にこの空を通過したある物が原因だった」
この街、この国、いやこの大陸に生きるおよそ半数は“それ”を目撃したはずだ。十年前のあの日、いつもは忙しなく地上を闊歩し足元ばかりを注視していた全ての民は、あの瞬間だけは全ての目が天上に向けられていたと断言できる。
“それ”は何の前触れもなく現れた。
雲を貫き大気を切り裂き、真昼の太陽よりなお燦然とした輝きを伴って、音より速く飛翔したその光源は北の大地を眩く照らし出した。
ある者はこの世の終わりを予期し、ある者は天上に座す神々の祝福と捉えた。それが天空の遥か彼方、星海の果てより飛来したこの世ならざる物体であるとは露知らず、異星の使者は地上全土の生命を絶滅させる熱量を宿し、この星の大気圏をぐるりと一周半した後にゲオルギア上空へと達した。
轟音と光、そして熱を帯びた火球は大気との摩擦で徐々に質量を削りながらも、やがて地上に激突するは必至という所までになった。激突すればゲオルギアのみならず、地上全てが熱線と死の灰に侵され三日と経たず星の表面が焼き尽くされてしまう……人々がその真実に気付けた時には、流星は既に地上数千メートルの距離にまで迫っていた。
もはやこれまで、今日が滅びの日なのだと誰もが確信していた。
「だが、そうはならなかった。流星は地表に到達する事無く、上空で爆発四散。数百、数千に分離した星の欠片は、海に、空に、そして陸に降り注ぎ、大陸を三度滅ぼしてなお余りある力は跡形も無く霧散した」
火球は一瞬にして燃え滓の雨となり大陸の北半分、つまりは連邦全土に降り注いだ。その多くは年中氷に閉ざされた北海に落ち、陸地に降った大半も小指の先ほどの小石となり、人的被害は皆無だった。1000年に一度の天体ショーは世界滅亡の危機から一転、北海の奇跡、『星降る日』と呼ばれるようになり、毎年この日は祝祭日となっている。
こうして謎の流星は北方の空で華と散り、人々はそれを奇跡と称し記憶に鮮やかに残り続けることになった。
しかし、その裏ではある凄惨な事件が起きていた。
「当時、今のトンネル工事が行われている所より標高が高い場所……あそこにはかつて小さな村があった。人口は百人足らずで、夏はともかく冬場は麓までの道が完全に断たれる陸の孤島……それがあの子の生まれ故郷、だと思われる」
「思われる、ですか?」
「確かめようがないんだ。その村はもう……無くなっているんだ。村民数十名……皆、雪に埋もれて消えてしまっている」
爆散して散り散りになった星の欠片、その中でもある程度の大きさを保ったそれがドラクトルの峰に衝突し、山全体に甚大な雪崩をもたらしたのである。それは本来なら雪の通り道ではなかった山村もろとも飲み込み、木々を薙ぎ倒し森を削り、麓の手前でようやく停止した。星の欠片と言う文字通りの天災がもたらした災害に為す術などあろうはずがなく、村人は何が起きたか理解しないまま一瞬で死に絶えてしまったのだ。
「かつて隊長だった私に軍が与えた任務は、山に落下した星の欠片の回収。流星に含まれる未知の物質を解明したいという話だったが、被災した人々への配慮を欠いた指令に私はどうしても従えなかった。今行けば助かるかもしれない人命を軽んじ成果だけを追求する……そんな軍の在り方に嫌気が差し、私はそれに反して要救助者の捜索を独断で行った。人は私を義侠の男と言うが、実際は本当にただの反骨心だけの行動だったのだよ」
事実、男は誰一人救えぬまま下山を余儀なくされた。
唯一人を除いて……。
「そんな時、我々は彼女に出会った。全てが雪に埋もれたあの場所で、私達が来るのをただひたすら待ち続けていた雪の少女に……」
救助者を発見できないまま下山の途についた隊の前に現れたのは、一人の少女。雪深い山中にありながら一切の防寒着を身に付けず、代わりに白銀の体毛を持つその姿は雪国のゲオルギアにおいてはポピュラーな魔物娘だった。
残念ながら少女は要救助者ではない。だが彼女が抱える子供を見た時に、全てを察した。ほとんど生命の危機に瀕するレベルで衰弱した少年は、今すぐここで救助し山を降りなければならないほどの重体だった。
「私は唯一の生存者である少年を保護して山を降りた。名前を聞く間も無かったが、あの時少女は確かにこう言った……」
『この子を守ってあげてください。この子の名前はレオです』
「長寿で知られる魔物娘だが、恐らく見た目と年齢に相違は無く、私達にそう言い残した少女はレオより僅かに年上なだけの童だった」
「それで、その子はどこへ?」
「分からない。少し目を離した隙に掻き消す様に姿は無くなっていた。だが……彼女が居なくなった雪山を、何か巨大な獣の雄叫びが揺らしたのを覚えている」
今も耳に焼き付いて離れない、地の獄から轟くような、狼とも獅子ともつかぬ正体不明の声。
「今なら分かる、あれこそが我々が雪猩々と呼び恐れるモノだったのだと。理由は分からないが、十年前にあの山で何らかの変化があって雪猩々が生まれ、自分が取り逃がした獲物を探し続けていたんだ。そして、レオはここに戻って来てしまった」
野生のクマは一度見定めた獲物を必ず仕留めるまで止まらないという。あの雪山の怪物が埋もれた小村とどう関係しているのかは知らないが、これではっきりとした。
怪物はレオを狙っていたのだと。
「隊長! 全隊員、揃いました! いつでも行動開始できます!」
「よし! では……参りましょう」
「ああ……待っていろ、レオ」
竜尾山岳猟兵隊、総勢120名。目標、雪猩々が潜伏していると思しき山頂付近。
全ての作業員を避難し終えた軍は、これより山狩りを開始する。
全ての事を聞き終えてなお、レオの中には何か釈然としないものがあった。記憶を失った彼にとっては過去の出来事は全てが伝聞になってしまう。それでも確かに臨場感と言うのか、胸に響く何かがあるのは感じられた。言葉以上に、このイエティのアレーナが言った事が事実であると理解はしている。
だが……。
「レオはここにいちゃいけない。ね? 分かった? 雪が止んだら麓まで連れて行ってあげるから。あの時みたいに、ちゃんとあたしが……」
何故だろう、親しさの中に見えるよそよそしさ。攻撃的な意図は無いのだろうが、それが逆に違和感を醸し出す。その違和感は歯車の間に小さなゴミが挟まったような感じがして、レオの中に疑惑の種を植え付けるには充分だった。
「あんたは……何を隠してるんだ? 俺に知られちゃ困ることでもあるのか?」
「それは……。とにかく、レオはこの山を降りることだけを考えればそれでイイの。大丈夫、絶対に守ってあげるから」
何を追及しても返って来る言葉はそれだけで、アレーナが何を隠しているのかは明らかに出来なかった。
次の切り口をどう探そうかと思案して身を捩ると、五体を包む白毛の中に何か温かく湿った感触を手に感じた。何事かとまさぐる手の動きを強めると……。
「あっ……ぐっ!!?」
アレーナが苦悶に顔を歪めた。思わずレオが手を引くと、その手にはどろりとした赤黒い液体がこびり付いていた。
「おい、ケガしてるじゃねえか!?」
「へーき、へーき……。大丈夫、このぐらい」
「バカ言ってんな! 見せろよ、いくら魔物だからって手当ぐらいしとけよな!!」
そう言って体毛を掻き分け飛び出したレオは慌ててアレーナの傷を確認した。傷は彼女の胸、たわわに実った二つの乳房の間にあり、健康的な褐色の肌が抉られている様子は何とも痛々しいものだった。
「出血がひでぇ! お前よくこれで今まで何とも無かったな」
「魔物だもん、簡単に死んだりしないよ」
奥深くに何かが食い込み、本来なら魔物娘の回復で塞がれるはずの傷口が未だに閉じずダクダクと赤黒い流出を続けていた。強靭な肋骨を砕き肺の手前まで迫った傷は、食い込んだ物体がどれだけの力で押し込まれたかを雄弁に物語っていた。
これは何の傷だ? ナイフではない。刃物で切り抉ったというよりは、何か鋭いものが刺し貫いたような傷だ。肋骨に当たって威力が削がれなければ、今頃は心臓を貫く致命傷となっていただろう。
「大丈夫、痛くない……痛くないから、ね」
「何をしたらここまでになるんだか!」
回復を阻害する物体を一気に引き抜こうとレオの指が熱を持った傷口に触れる。溶かされるほど熱い血の猛りを指先に感じながら、レオは臆せずそれを引き抜いた。
それは指二本で摘まめるほど小さな物体だった。肉に食い込み、骨を砕いた衝撃で既に原型は無く、本来ならアレーナの命を一撃のもとに仕留めるには充分すぎる威力を持たされた物であることは確かだった。
「おい……何だよ、これ」
レオの顔は驚愕に変わっていた。形が崩れ元の姿とかけ離れていても、アレーナの体内より摘出した物体が何であるかは察しがついた。
小さく、黒く、そして重い。
それを見たアレーナはバツが悪そうに笑いながら、こう呟いた。
「神父さま、あたしだって気付いてくれないんだもん」
取り出したのは、先端が潰れた銃弾。
この国の兵士が十年使っている、ライフルの弾丸。
老神父が怪物に向かって撃った……弾。
「ああ、レオ……ありがとね」
「────!?」
それまで止め処なく溢れていたはずの血が止まり、身の毛も弥立つ粘着音を立てて傷口が塞がれる。明らかに常軌を逸した回復力を目の当たりにしたレオは思わず一歩退く。そして、その瞬間に見てしまった……アレーナの姿を。
獣人型の魔物娘は毛深い、それは事実だ。特に今は冬、そしてイエティは雪山や寒冷地を好んで生息地とする種族、毛深くて当たり前だ。
だが、それでも顔以外のほぼ全身を覆い隠すほどの毛は無い。しかもそれを自らの意思一つで伸縮させている。これは明らかに個体差という言葉を越えた何らかの異常に他ならない。
「ありがとぉ。レオは優しいね」
ゆらりと立ち上がるその姿を見て、レオは昔聞いた話を思い出す。
魔物の中には、その強大な魔力で「かつての姿」になれるモノがいると……。
「どうしたの、レオ?」
「っ……く、来るな……!」
「レオ? どうしたの? 何を怖がってるの? 大丈夫だよ、あたしがここにいるから」
「来るなぁぁぁあああああああああっっっ!!!」
命が助かった安堵から一転し、恐怖に駆られたレオは穴の外へと駆け出した。既に吹雪は収まり、穏やかでなだらかに曲線を描く雪原を脇目も振らず、何もかもが忌避する“白”に包まれた銀世界を、ただひたすら遠くを目指し逃亡した。
「レオ! レオ!!!」
背後から必死に呼び止める声も無視し、レオは駆け抜けた。下る斜面がどこに続いているのかも分からない。ただ、この全てが“白く”なった世界から一刻も早く抜け出したい一心だった。
息が詰まる。
身が裂かれる。
押しつぶされる。
ここにいては全てが水に溶ける砂糖の如くに漂白されてしまう。それに恐怖したレオの足はますますその速度を増し、転がり落ちるように山を駆ける彼は……。
「グルルルォォォォーーーーーー!!!」
その行く手を白き魔獣によって遮られた。
「うわああっ、来るな……!! 来るんじゃねえええええええ!!!」
昨日と全く同じ。本性を顕したイエティが、かつて雪山を闊歩した古代の姿でレオに迫る。大木を容易く捩じ切る二本の腕が、抵抗も虚しくレオの体を捉え────、
「レオにィィィ、手を出すなァァァァァァ!!!!」
雪猩々が伸ばした腕はレオに到達することは無かった。何故なら、人ひとりを握り潰す巨腕は、それと同じくらい大きな別の腕によって遮られたからだ。
突如出現した別の腕はレオの背後より伸び、山を揺らした怒声は彼を追って来たアレーナのもの。ならば、今目の前で忌々しそうに牙を剥き出し威嚇するこの怪物は……。
「お前は……『誰』なんだ!?」
「レオは下がって! 穴蔵に戻って、早く!!!」
前に飛び出したアレーナの姿は、歪だった。
優しく包み込んでいた羽毛のような毛は、その全てが鋼鉄の芯を埋め込まれた針金となり、それらがより固まって腕に纏わり巨大な獣の巨腕を象っていた。そしてそれは、よく見れば相対する雪猩々も同じ。見上げる巨体に肉は無く、大地を捉える脚も、獲物を屠る二本の腕も、全身の大半が針金の剛毛によって一つの巨大な姿を創造しているに過ぎなかった。
唯一つ、白毛に覆われていない顔面を除いて……。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァーーーッッッ!!!」
「『また』レオを奪いに来たのね。でも……そうはさせない!!」
紅の瞳を鈍く光らせ、唸り声とともに白煙が牙の間から漏れ出る。それはこの雪山を恐怖で支配するモノが、この瞬間に初めて見せる「敵意」の表れ。道行くものは全てが獲物でしかないはずの化け物が、ここへ来て対等な「敵」という存在を認識したのだ。
その全ての敵意は今、アレーナたった一人に向けられていた。
「レオ……」
零下の支配者を前に僅か数瞬、アレーナがレオに振り向く。全身が徐々に剛毛に覆われ、女性らしい細腕は見る見る間に雪猩々と同じものへと変化してゆく。おぞましい肉体の変化とは裏腹に、アレーナの表情は儚げな微笑みを浮かべていた。
「心配しないで、『お姉ちゃん』が守ってあげる」
それだけ言って最後、アレーナは弾丸の如く飛び出した。
腕が、脚が、背が、そして胴体全てが白剛毛に覆い尽くされ、変化に伴う発熱が周囲に霧となって吹き荒れる。
そしてその霧を突き破って出た影は……。
「ギィッィイイイイイ、ガァァァアアアアアアアアア!!!!」
雪山の怪物は、“二頭”存在していた。
言葉も、理解も、理性も無く、二匹の怪物はここに血みどろの争いを繰り広げるのだった。
ある「少女たち」の話をしよう。
少女たちは姉妹だった。同じ日に、同じ母の胎から生まれ、同じ日に親元を離れ、同じ山を住処とした。二人の仲は大変睦まじく、集落も作らず個体ごとに生活するかの種族にあって珍しい二人組の成獣となった。
二人はやがて山深くにある小さな村を見つけた。本来なら関わらずとも生きていけるが、いずれは伴侶を持つ身。わざわざ人里に降りたり、来るかどうかも分からない旅人を待つぐらいならと、二人はそろって村の外れに住処を設け村人との交流を図った。
村人は優しかった。閉鎖的な環境にありがちな排他的な者は誰もおらず、老いも若いも誰もが二人に優しかった。一緒に遊ぶ子供達の誰かを伴侶として迎える日を夢見ながら、姉妹は村人との交流を重ねていった。
あの日、村が雪崩に埋もれるまでは。
姉妹は必死になって生存者を探した。だが村全体を埋め尽くした雪は無情にもその命を潰し、姉妹は慣れ親しんだはずの雪によって何もかもを失ったのだ。
だが奇跡はあった。必死に雪を掘り起こし、たった一人の男の子を救うことが出来たのだ。それはいつも遊んでいた子供たちの中で一番年下な、皆にとっては弟分のように可愛がられていた子だった。姉妹は麓からの救助があるまでこの子と一緒に暮らすことを決めた。
現実は甘くなかった。水を飲み、最悪木の皮を齧ってでも生きられる姉妹二人と違って、助けた子供は人間、それもまだ非力な幼子、一度雪に埋もれ衰弱した体では一食抜いただけでも大変な事になる。しかし季節は冬、山の大半の獣は冬眠しており、実りは秋の盛りをとうに過ぎてしまっている。
二人は食物を探し山を練り歩いた。ある時は食べられる木の根を、ある時は厚い氷を割って獲った魚を、そして野ウサギやキツネを狩って肉を子供に与えた。だが少年の削られた体力を回復させるには足りず、二人は更に多くの食料を得るため山の奥深くへと足を踏み入れた。
ふと、鼻が何やら香しい匂いを感じた。その匂いにつられて二人の足は山頂近く、村を襲った雪崩が起きた場所へと引き寄せられていった。
そうして二人が目撃したモノ……“それ”が何だったのかは結局今でも分からない。
血のように赤黒く、周りの雪を溶かす熱を帯び、まるで生きているように脈動する“それ”を目に、まずは警戒心があった。自分達の知識や経験の中にはない謎の物体がもたらす威圧感に、二人はただ呆然と見つめるしかなかった。
しかし、匂いの発生源が“それ”だと知った時、まず姉の方がそれを手に掴み取り、脈打つその表面に歯を突き立てた。「こんなイイ匂いを放つモノが美味しくないはずがない」、果たしてその予感は的中していた。
肉のように厚みがあり。
魚のように瑞々しく。
果実のように甘かった。
いつしか妹もそれに加わり、自分達が保護した少年の存在すら忘れて、二人は一心不乱に“それ”を貪り食った。二人の理性は絶世の美味を前に麻痺し、ただ腹を満たそうとする本能のみでその手を動かし続けた。
そして妹が僅かに多くを口にして、満腹となった二人は山を降り少年の元へと帰った。自分達が一体何を口にしてしまったかなど全く考えもせずに。
時が過ぎ夜となり、姉妹を変化が襲った。
体の火照り、まるで地の底から噴き出すマグマを全身に浴びたような体温の上昇は、ある一つの事実を導き出していた。獣の血を引く宿命にあっては逃れえぬモノ、即ち季節外れの「盛り」がついてしまったのだ。何も珍しい事ではない、体は子孫を残す適齢期を迎え傍には同じく子孫をもたらす機能を持つ、あるいはもうすぐ持つであろうオスが一人、成り行きとしては当然の帰結だった。交わりによって精気を循環させれば失われた体力も元に戻る、どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのかと二人はすぐさま行動に移した。
生まれながらに淫蕩な血を秘める二人は、瞬く間に少年の獣性を導き出し、狭く暗い穴蔵で誰にも知られない淫猥な饗宴に傾倒した。ある時は姉が、ある時は妹が少年に馬乗りになり、その未熟なままの青い情動を思う存分に搾り上げた。何も分からないのは少年だけ、未体験の暴力的快楽は全ての絶望から目を逸らさせるにはうってつけだった。故郷を失った悲しみから一転、少年は奥深い山中で自分だけの楽園を手にする幸運に恵まれたのだ。
しかし、それは誤った見方だった。
様子がおかしいことに気付けたのは、その直後だった。人間同士の体力を消費するだけの交わりとは違い、ヒトと魔物は交われば交わるだけ精気と魔力が循環し生命力に満ち溢れるようになる。それはまる一日中交わった姉が肌で実感していた。
「妹」は、違った。
「おねーちゃん……あのねぇ、この子ねぇ、なんだかおかしいの。さっきまで元気だったのに、もうこんな大人しくなっちゃったぁ」
姉が見たのは、カラカラに乾いた枯れ木の上で呆然と呟く妹の姿。自分と同じ褐色の肌は白く濁りきった粘液でまみれ、狩りに出ている間ずっと交わり続けていたのだと分かった。
ならば何故、少年の体が枯れ果てているのか。全てを搾り出した雑巾のようにその股に押さえ込まれているのは、何故なのか。
妹の交わりはもはや魔物のそれでは無かった。一方的に己が快楽を貪り、少年の体力を回復するどころか、ただただ一方的に寿命をも削る暴力の具現。肉欲と形容することすら烏滸がましい、およそ知性ある存在が持つには相応しくない獣欲の顕れが妹の身に起こっていた。交われば交わるだけ、少年の身はやせ衰え死に近付く。
何かの間違いだと思いたい姉の心と裏腹に、妹は抑揚のない声でこう呟いた。
「ねー、おねーちゃーん……おナカ、減っちゃっタ。食べタい、食べたイ、タベタイ……。ネェ、『コレ』……タベテいーヨネぇ?」
そう言って指さした「これ」とは、他でもない自分が馬乗りにしている枯れ木のように痩せた少年の姿。
「タベタイナァ……タベタイ、タベタイ、タベタイ、タベタイタベタイタベタイタベタイヨォォォ。………………………………ネェ」
「喰 ワ セ ロ」
姉の行動は早かった。精気を回復せず体力だけを消費する交わり、それを繰り返した妹の体は突き出した腕で容易に倒れ、その隙に姉は少年を抱えて穴蔵を出た。
遠くへ、遠くへ、妹ではなくなったナニモノかに追いつかれないよう必死に少女は山を駆け下りた。妹の身に何が起きたかを考える余裕は無く、ただ怪物となった彼女から逃げることだけを考えた。
だが何よりも優先すべきなのは、この腕に抱きかかえた小さな命。
「レオ!」
暴力的な行為により全身が衰弱した少年に必死に呼びかける。呼び続けることで今にも途切れそうな意識を繋ぎとめようとした。故郷を失い、家族を失い、それでも絶望から立ち直ろうとしていた小さくも逞しい命。それは今や風前の灯火となり果て、肉体以上にその精神に大きな傷を負ったことをどんな言葉よりも雄弁に語って聞かせてくれた。
「レオ、可愛いレオ」
こんなことになってしまった事に何も適切な言葉が出ず、ただ愛しい名を呼ぶことしか出来ない。
「レオ、わたしのレオ。絶対に守るから」
それでも信じて欲しい、自分はあなたを守りたかった。傷つけるつもりは決して無かったのだと。
この僅か三十分後、少女は今まさに山を降りようとする兵隊に接触し、まだ意識が朦朧としたままの少年を預け自らは山に残った。一緒に山を降りることは出来なかった。
「食イモノ、ォォォ……食ワセロオオオオオオオオ!!!!」
この世のものとは思えない雄叫びとともに山を駆け下りる「かつて妹だったモノ」。太古の昔に魔獣と呼ばれていた姿を得た雪山の怪物を止められるのは、その同族をおいて他にいなかった。
これより十年、アレーナの孤独な戦いが始まった。
二頭の雪猩々こと、古代のイエティはその巨体をぶつけ合い、新雪を巻き上げて取っ組み合いの肉弾戦を繰り広げる。その様は生物の戦闘には見えず、雪を纏い白くなった大岩が衝突を繰り返すように思えた。実際巨腕が肉を払う音など、あまりの大きさに周囲の木々の枝が一斉に折れて降り積もった雪ごと吹っ飛んでいった。
魔王が代替わりするほどの永い時を経て、何の因果か先祖返りを果たした二頭の魔獣。だが片方があくまで姿を変えるだけの“変身”であるのに対し、もう片方は身も心も完全に獣に堕ちた“変化”という決定的な違いがある。姉は自らの意志で魔獣形態になれるが、妹は十年前の変化を境に一度も元の姿に戻ったことがない。
「グルルァァァアアアアアアアアアアッ!!!」
「ガァァァァアアアアアアアアアアアッ!!!」
二頭の力はほぼ互角。純粋な膂力や腕っ節の強さだけで言うのなら完全変化を遂げた妹が一枚上手だが、その軌道は攻撃本能に任せて振るわれる単調なものでしかない。だからこそアレーナは生きてこられた。同じ時期に異形の力を得た二人、理性を残したままその力を振るえるアレーナは故にこそ怪物を相手に互角の戦いを演じられたのだ。
そう、あくまで「互角」だ。
雪猩々の攻撃はアレーナに届かず、アレーナの腕は雪猩々を仕留められない。延々と攻防が続くことを千日手と言うが、事実二人はその三倍になる十年の月日を一進一退の正面からの殴り合いに費やしていた。こうしてぶつかり合うのも昨日今日の話ではない。この十年間、3600回、ただの一日も欠かすことなく姉妹は争い続けていた。幾度となく執拗に山を降りようとする怪物を止めるために、アレーナもその身を削ってそれを阻止しようとした。
春、盛りの花を血に汚した。
夏、深緑の山を駆けて腕を食いちぎった。
秋、実りの山でもぎ取ったのは相手の足。
冬、真白の銀世界をキャンバスに赤を撒き散らした。
そのサイクルを十回繰り返した。互いに傷付き、傷付け合い、ぶつかりあった暴虐の嵐は幾度となく互いの総身を微塵に挽き潰し、その度に理解できない力で再生を遂げ、また戦い始めた。
この十年、決着は一度もついていない。
その気になれば、姉は妹を仕留めらるのにも関わらず……。
「ギギッィィイイイ、ガアギギギガアアアアアアアアアアアアッ!!」
「グ、ヴァ、セ、ロォォォォォオオオオオオオオォォォォ!!!!」
口を開き飛び出す言葉は常に二つ、「レオ」、そして「喰わせろ」。一度標的に定めた獲物を食わずにはいられないのは獣のサガ、もはや口から出る言葉はオウムが人のそれを真似する以上の意味を持たない。それしか知らないから、「喰わせろ」と鳴いているだけだ。
アレーナはこの十年、ただ戦っていたわけではない。何度も、何度も、何度でも……「かつての妹」に呼びかけ続けた。姿が変わり、言葉すら忘れても、そのおぞましい肉体のどこかにかつてと同じココロがあることを祈って。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァーーーーー!!!!」
祈りは、踏み躙られた。
何度も、何度も、何度でも……相対する度にアレーナのたった一つ抱いた希望はことごとく押しつぶされた。
手を、足を、首を、頭を、目を鼻を耳を、噛み砕かれながらもアレーナは諦めなかった。どんなに形が変わろうとも、相対するこの怪物は自分の妹だったから。
だが、その迷いも今はっきりと途絶えた。
「グワゼ、グヴァッセェェ、グワゼロォォォォオオオオオオオ!!!!」
生き延びるためとは言え、かつて情を交わし稚拙ながらでも睦言を交わした相手のことさえ忘れ、今やただの食料としか認識できていない。肉欲が食欲に変わったことにも気付けていないのだ。
一縷の望みが絶たれ踏ん切りがついたか、十年の時を経てアレーナは遂に……。
「ウォォオオオオオオオオオオオオーーーッッッ!!!」
動きを止めるのではなく、息の根を止める為にその腕を振るった。生まれて初めて、妹を殺す決意をした。
もっと早くにこうしておくべきだったと、後悔の念も秘めて……。
わざと怯んで隙を見せて誘い込みをかける。弱った瞬間を見逃さない獣の論理で距離を詰めた雪猩々、その顔面にアレーナの拳が突き刺さる。
目鼻が潰れ歯は砕け、頭蓋は醜い音を立てて粉微塵に散った。通常、どんな生物とて頭部を破壊されれば死に至る。だが禁断の果実を口にした雪の姉妹は、特に姉以上の力を得た妹は「頭を潰した程度」では滅せない。
飛び散った肉片と全ての血が、不可思議な力に導かれ爆散した頭部を形成する。その異常な現象は単なる不死身による再生を越えた、時間の巻き戻しを思わせる復元の域に達する。神代の昔、無限の再生力を誇った不死の怪物のように、肉体から溢れ出る魔力は傷を完治させ全ての死を遠ざける。五体を微塵に砕いただけでは、“神話の片鱗”を、“旧き神の血”を受け継いだ怪物を打倒することは出来ない。
だがそんなこと、アレーナには関係ない。
「ウガァァ!! ガァッ、ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァ!!! ヴヴヴヴァァァアアアアアアアアアアアーーーーッッッ!!!!」
叩き、殴り、潰す。力、ただただ力にのみ訴える方法で、怪物を力尽くに屠殺する。頭が再生するなら二撃目には胴まで、腕が復活するのなら三撃目には肩を爆砕し、圧倒的な暴力に物を言わせて怪物の総身を潰し続ける。その行為はもはや「壊す」のではなく、「削る」と表現したほうが適切だった。
怪物の全身は徐々にヒトの形を失っていく。あれだけ山を揺らす雄叫びを上げていた口腔も今は影も形も無く、四肢はもぎ取り磨り潰され、胴は何重にも鯖折りにされ、終いには怪物の「全身」はアレーナの巨腕に収まる肉塊へと圧縮された。
最後まで残った肉の塊、それは心臓。赤黒く、瑞々しい滴りと濃厚な香り……それは奇しくも、あの日自分達が口にしてしまった禁断の果実と寸分違わぬものだった。
アレーナは、それが二度と復活しないようにと願いを込めながら……。
「────グァ、グ」
その口で、その牙で、そしてその喉で、最後に残った肉を喰らい尽くした。
滴る血も指で掬い取り、意地汚い乞食がそうするように、一片も残さずその全部を胃の腑に収めた。激戦の末に周囲に散乱した、それまで不気味に小刻みな震えを起こしていた肉片は、本体がこの世から消滅すると同時に糸が切れたようにぱったりと沈黙した。
こうして雪山の怪物は、あっさりと、呆気なく死に絶えた。
十年続いた骨肉の争いはこうして幕を下ろした。姉が妹を殺すという、どちらに転べども最悪の結末として。
何がいけなかった。初めは何が原因だった?
あの日、妹がひもじい思いをしないようにと、自分より多く食べさせたのが間違っていたのか?
あの日、匂いに惹きつけられて“あれ”を口にしていなければ……。
過ぎた時間は戻らない。過去には決して戻れない。そう分かっていても、悔恨の情は止めどなく溢れ続け、たった一人の肉親を失ってしまった事実が重く伸し掛った。
「アレーナ……」
「レオ」
逃げもせず、ずっとそこで全てを見守っていたレオに声を掛けられる。
この十年は彼を守る戦いだった。今はもう全てを忘れてしまったレオだが、出来ればこの姿を彼には見られたくはなかった。一度は愛した相手に、変わり果てた今の姿はどう映っているのか知るのが怖かった。だからこの十年一度も彼の前に姿を見せることが出来なかった。その成長も変化も見れないまま、ただ漫然と生死の境に身を置き続けるしか出来なかった。
そのジレンマも今日終わった。彼を襲う脅威が消え去った今、醜怪な自分がここに留まる理由も無くなった。怪物は怪物らしく討ち取られるか、孤独に朽ち果てるしかない。潔く彼の前から姿を消すだけだ。
だが次の一言が、アレーナの孤独への足取りを止めた。
「あんたが、俺の『母さん』だったんだな。あの日俺の名前を呼んでくれたのは、あんただった」
「っ! 思い出したの!? 十年前のこと!」
恐怖の象徴である白、その原点である雪猩々の戦いを目の当たりにしたことで記憶が蘇ったのか。だがそれは全く見当違いだった。
「いや、その……思い出したのは、あの時の声があんただったって事だけだ。あんたが俺の何で、もう片方の化け物が何だったのか、そもそもどうしてあんたはそんな力を持ってるのかとかは……てんで思い出せない」
事実は小説より何とやら。しかして、実際は物語のように何もかも筋が通る訳ではない。レオの蘇った記憶はほんの一部、それもこの山の惨劇全てを紐解くものではない。当然、彼自身の半生も分からず終いだ。
「でも分かることはある。あんたは、俺を守ってくれていたんだな。今も、昨日も、そして……これまでにも何度か。きっと俺が想像も出来ないくらいに、あんたは俺を守ってくれていたんだな」
例え与り知らぬところで起きたことだとしても、それが自分を想った誰かの行動ならば伝えることはたった一つ。
「ありがとう。俺なんかのために」
「……あぁ」
たった一言で済ませてしまうには長い時間と大きな犠牲があった。感謝の言葉一つで済ませられるほど、ここまでの道程は決して軽くはない。
それでも、たったそれだけの言葉でアレーナの生は報われる気がした。
レオが手を差し伸べる。それは傷付いたアレーナを癒そうとしてか、あるいは彼女の人知れない頑張りを労っての行動か。
アレーナは自分が醜い怪物の姿であることも忘れて、その手を取ろうと腕を伸ばし────、
一発の銃声が眉間を貫いた。
木々の奥から飛来した銃弾は、胸を貫いた一撃同様、吸い込まれるようにアレーナの額に突き刺さった。噴き出る鮮血が雪と木々、そして真正面にいたレオへと降り注ぎ、山々を揺らす巨体が地に倒れ伏した。
「アレーナ!!?」
弾丸が飛んできた方向を見れば、雪の白に紛れ風上からこちらを狙う兵士が数人。きっと山狩りに訪れた軍隊がこの周辺に多数存在しているのだろう。散策中に目標である雪猩々に出くわしたから先制に撃ち込んだのだ。それが彼らの任務。彼らからすればこの状況は、「凶暴な怪物と、その怪物に襲われる無辜の民」という構図以外の何ものでもない。
そう言えば、あの隊長は何と言っていた?
「アレーナ!! おい、アレーナ! 起きろよ!」
早く彼女を逃がさなければ、希少生物として軍に捕らえられ死してなおその肉体を解剖され調べ尽くされる。人畜無害なイエティが凶暴化した理由を解明するという名目で、全ての尊厳を奪い尽くされるかも知れないのだ。
五体が弾け飛んでも復活するその生命力があればきっと逃げられる、そう信じてレオは変身が解けて雪に倒れるアレーナを起こした。だが……。
「ううん、これで……いいの。あたしは、ここで終わる」
「何言ってんだ、逃げるんだよ! あんたは俺の恩人だ、それがこんなとこで終わっていいはずねえだろが!」
「違う……違うの。あたしはただ、レオの記憶に間借りしているだけ。思い出がないあなたに、たまたまあたしが滑り込んだだけなの。あたしは、レオ……あなたの特別でもなんでもないの」
「でも、それでもあんたは俺を助けた! 何度も手を差し伸べてくれた!」
「ありがとう、優しい子。でもね、これでいいの。これであたしは、やっと終われる」
怪物が倒れたことを確認し兵士がこちらに接近してくる。それを察知したアレーナはそっとレオを押して離れさせようとした。
「行って。レオは今までと同じに、レオだけの人生を生きて」
レオに伸びた腕を攻撃意志と受け取ってしまった兵士が再び銃口を向ける。引き金が絞られるまさにその瞬間、彼らを止めようとしたレオが身を躍り出した。
「やめろォォォォォ!!!」
僅か一瞬の出来事。
そして引き金は……。
「この一件、おれが預かる」
弾丸は出なかった。
引き絞られる指より、間に飛び出したレオの叫びよりもなお早く、一迅の風に似た何かが兵士たちを薙ぎ払った。数人の兵士は纏めって吹っ飛び、無様にも積もった雪に頭から突っ込む醜態を晒した。
何が起きたか分からないレオとアレーナをよそに、突然の乱入者は二人を急かす。
「早くこの場を離れろ。行け」
「行けってどこへ? ていうか、あんたは……?」
「どこへでも、好きなところへ行け。別の峰に行くも良し、山を越え南へ行くも良し、東伝いに霧の大陸を目指すのも良い。とにかく、ここには長居しないことだ。ここはもうお前たち二人が生きるには騒がしすぎる」
恐ろしい腕力でアレーナが掴み上げられ、ひょいと軽々レオに投げ渡す。作業場で鍛えられた体はアレーナの体を苦もなく抱きかかえ、後はこの場を離れるだけになった。
「何でそんな俺達に肩入れするんだ? あんたも前に俺とどこかで会ってんのか?」
「おれは、おれが昔この国でやらかした不始末の収拾をつけに来ただけだ。だが結局おれの出る幕じゃなかった。もうこんな寒い国には『四度』は来ないつもりだ」
謎の男は自分の倍以上の長さがある長柄の得物を振り回し、威圧するようにレオ達に催促する。もうこれ以上話すことはないらしい。
「……ありがとよ」
それだけ言ってレオは恩人を抱えて山を駆け上がった。やがてその気配が完全に消え失せてから男の視線が足跡を追う。
「行ったな」
「ちょっとぉ、なによあの対応? 聞いてないんだけど?」
白い空間に魔力の霧が集中し、本来この空間には存在しない者のヴィジョンを映し出す。遠隔地から魔力を飛ばし実体を投影する術、口で言う以上に高等魔術であり人間の使い手はそうそういない。あくまで「人間は」だが。
「任務を忘れてないかしら。雪猩々を排除しなさいって陛下に言われたんでしょ?」
「だからそうした。もう雪猩々はこの山にはいない。言われた通りに『排除』はしただろ」
「貴方ってそんなトンチっていうか、屁理屈を言うような子だったかしら? あの頃の純粋な貴方はどこに行っちゃったのかしらねぇ」
「お前もわざわざ“影”を飛ばして何の用だ。おれの監視か」
「まっさか! 私はただ前途ある人間と魔物娘の行く末を案じて、ちょーっと覗き見してただけよ。でも杞憂だったわぁ。あの二人が時を経て再び結ばれるのも、そう遠くはないかもしれないわ」
「そうか。おれにはその辺りの機微は分からないから、正直どうでもいい。任務は終了したから、おれはもう帰る」
「ダメよ! 差し当たって、貴方には山狩りを行っている部隊の皆さんに事情説明をする義務があるわ。それが終わるまで帰ってきちゃダーメ」
「……いつか殺す」
「その殺気は大事な時まで残しておきなさい。本国から連絡があり次第、貴方たち『五人』にはすぐにでも動いてもらうから。楽しみにしてるわぁ、貴方の全力をまた見られるその日を」
言いたいことだけ言って大淫魔の影は消えた。程なくして下の方から大人数の気配を感じ、王魔界の使者は面倒臭そうにわざとらしく溜息を吐いた。白い息が空に上がって消える様を見つめながら、ぼそりと呟く。
「ここは相変わらず寒い」
呟きも白い息となって空に散った。
その後、程なくして軍はレオの捜索を打ち切った。表向きには件の怪物に食い殺されたか、山中を遭難し彷徨った末に何処で死したものという見解に落ち着いた。
それから少しして今度は雪猩々の討伐任務も終わりを告げた。理由は、あれだけの被害をもたらした怪物がこの冬を境にぱったりと足取りを途絶えさせたからだ。被害が確認できない以上、軍としてはその行方を追うことは出来ない。検体を期待していた上層部の研究者たちを除き、雪猩々と呼ばれた怪物の話は下火になり、やがてはトンネル工事が再開する頃には噂にもならなくなっていった。
自分が世話をした元孤児を襲った不幸に、誰もが老神父に同情した。あの日、雪山から姿を消した二人の男女がどこへ行ったのかを知る者はいない。
だが不思議なことに神父はそれほどショックを受けた風は無く、時折自分の元に届く誰かからの手紙を読み穏やかに笑っている姿を町の人々が目にしている。
「以上が、ゲオルギア共和人民連邦で起きている異変の詳細です」
「報告ありがと。下がっていいわよぉ」
部下のサキュバスからの報告を受け、改めて資料に目を通す。
紙の束全てを隅々まで目を通し、物憂げに小さな溜息をひとつ漏らす、たったそれだけの何気ない行為が途轍もない色香を伴い、雄性を刺激する甘い香りとなって空間に充満する。もしここに「まとも」な男がいれば、彼女の仕草ひとつを目にした瞬間に獣性に身を任せ飛び付かずにはいられない、そんな誰も抗えない魅力をこの女性は持っていた。
女の名は、デルエラ。かつて人間界最大勢力を誇ったレスカティエを堕とし、背徳と堕落の都に変えた大淫魔。魔界を治める魔王の第四子にして、現在人間界で最も大きな影響力を持った魔物娘だ。
教国裏のトップとして、表の女王フランツィスカには出来ない事をするのが今のデルエラの仕事だ。フランツィスカは自他共に認めるお飾り、言わば未だ存続を許される主神教や王族の威光を効率よく発信する為の装置であり、事実上の実権はデルエラが握って久しい。彼女がこの国を統治する真の王者であることは、もはや誰もが知る公然の秘密だ。彼女がその気になりさえすれば、その魅力と手腕を以て周辺各国を骨抜きにすることも容易に可能だ。
その彼女が、数多の人間を、政治を、宗教を、己が色に染め上げ手中に収めてきた大淫魔デルエラが……。
「はぁ、困ったわね……」
二度目の溜息、そして頭を抱えていた。
実際には右手をそっと額に添える程度の仕草だが、彼女を知る者がこれを見ればナーバスに陥ったその雰囲気に驚いたことだろう。つまりはそれだけの厄介事を今のデルエラは抱えてしまっているのだ。
抱える案件とは即ち、北の隣国・ゲオルギア連邦で起こっている出来事だ。
教国と連邦はつい二十年前まで敵対関係にあった。教国だけではない、かの国にとって竜の尾を越え南にある国は全てが敵視の対象だった。貴族たちを革命により虐殺して形成された連邦はその国風に逆らわず、統制、搾取、弾圧の三拍子揃った徹底した暴力による管理を主体とする政治が長く続き、ドラクトルの山々が無ければとっくに戦争を仕掛けられていたと言われるほど急進的な国家だった。その暴力革命を引き継ぐ旧体制が崩れたのが二十年前で、それからは以前のような攻撃的な外交はなりを潜めるようになった。
だが未だに反貴族の気風は根強く、富の占有を象徴するとして貴族階級を多数抱える教国や、その隣国のアルカーヌム連合王国に対する風当たりは強い。それら国民の感情を受け流し妥協点を探りつつ、やっとの思いで今回のトンネル開通計画を実行に移す段階まで持ち込んだのだ。そこに無視できない暗雲が現れたとなれば、計画を進めた第一の功労者としてデルエラの心労は計り知れない。
「デルエラ様、お客様がお見えになっております」
「悪いけど後にしてくれないかしら。今少し立て込んでるのよ」
「いえ、それがその……」
「……あぁ、来たのね」
そう言えば事前に目通りする相手がいたと思い出し、少し身嗜みを整え応接室へ向かう。知らない相手ではないが、公の立場で会うとなると少し畏まって行く必要性がある者だ。少し「仕事モード」で応対しなければならない。
「おそい」
応接室で待ち構えていた相手の第一声に、デルエラも普段緩ませている神経を引き締める。少なくとも公事の場においては魔界の第四皇女である自分より、目の前のこの男の方が立場が上だからだ。
「これから休もうかと思ってたところなのよ。ほらぁ、長く起きてるとお肌の美容に悪いでしょう? 寝たい時に寝て、食べたい時に食べるのが一番理に適ってるのよ」
「おまえの生活様式がどうこうなど今はどうだっていい。分かっているのか、おれがわざわざここに来た意味が」
「ええ、充分承知してるわ。王魔界の使者さん」
眼前に座す男は魔王の膝元、王魔界から来訪した使いの者。即ち彼こそは全魔界の頂点に君臨する魔王の勅命を携えた王の言葉を伝える者、そして今この場における魔界の全権代表者なのだ。公的なこの場においては、人間界の支配を「任されている」だけのデルエラより遥か上に属している。
「魔王陛下より預かったお言葉を伝える。心して聞け」
「はっ!」
そしてそれを象徴するように、上座に座る使者の前でデルエラが跪いた。彼個人に対してではなく、その背後に控える偉大な母に対し、デルエラは臣下の礼を取るのだ。
「『過日、北の雄たるゲオルギア共和人民連邦に対し行いたる所業、甚だ悪辣の極み。其のもたらした近況を知り得た我が心中、之も甚だ乱れ穏やかに収まることを知らず。汝の手腕に対する我が期待を裏切りしは、之に如何なる償いをもって応えるなりや』」
それは叱責の言葉。過去にデルエラがゲオルギアに対し行った「ある事」に対し、彼女の母である魔王が立腹している旨を伝えるものだった。だがそれは「今」のゲオルギアで起きている出来事に対してではない。
と言うのも、デルエラは連邦に対し既に「二度」の干渉を行っている。そのどちらも表の公式記録には残っていないが、確かにデルエラは確固たる目的を持ってかの国に対し手を出している。無論の事、表沙汰になれば内政干渉どころの騒ぎではない。場合によっては十年以上の歳月を掛けて築き上げた連邦との関係をご破算にしてしまう可能性すらあるのだ。彼女の母であり全人類との融和を目指す魔王としても、娘の行った綱渡りを見過ごすほど優しくは無かったのである。
「三十年前の『北海制圧』に、十年前の『十二星徒の乱』及び『蛇神事変』……確かにヤリ過ぎちゃった感は否めないわね。アレはアレで必要な事だったんだけれど」
「その事はもういい。今問題なのは、ドラクトルで起きていることだ。大陸各地へ散ったおれを含む王魔界の“耳”は、既に北の大国で起きた事件を掴んでいる」
「ええ、こちらもよ」
雪猩々……失われたはずの古代の魔物。それがドラクトルで動き出し、既に何人もの人間が被害を受けている事をデルエラもつい先ほどの報告で知り得た。かの怪物が出現しているポイントは、三ヶ国合同で進められているトンネル計画、まさにその現場なのだ。ゲオルギアの戦力では真冬の山で件の怪物を仕留める可能性は皆無に等しく、それを受けた王魔界はデルエラに対し一つの指令を下した。
「『雪山の怪物を可及的速やかに排除せよ。目的達成の手段は問わない』、それが陛下の命令だ」
「手段は問わない……イイのかしらぁ?」
「ああ、そうだ」
蠱惑的に口元を歪めるデルエラに、使者の男も静かに首肯する。つまりはそう言う事、初めからそのつもりでこの会合は執り行われているのだ。
「では第四皇女デルエラの名において命じます。国境を越えゲオルギア連邦に赴き、雪猩々を排除なさい」
「承知」
この時点を以て、男の肩書は「王魔界の使者」から「教国の兵器」へ変貌した。指揮権は魔王からデルエラへと移り、彼女が抱える案件を秘密裏に片付けるエージェントとして活動する私兵となった。
たかが一人、戦力として数えるなど不可能……常識で考えるならば、だが。
「期待してるわぁ。蛇神を仕留めた『星墜とし』の力、もう一度見せてちょうだい、ね?」
兵士、4000人。
勇者、300人。
竜種、100頭。
超人、十二体。
英雄、四人。
大魔獣、三頭。
偽神、一柱。
それがこの男の戦果だ。
「山ごとすり潰してもいいよな?」
地を裂き、海を割り、空を穿ち、その力は「星の一撃」に匹敵する。王魔界最強の戦士、雪猩々対策の任を負い「三度」に渡る北地征伐へと赴く。
自分の中にある一番古い記憶は、母が自分の名を呼ぶ優しい声だ。
「レオ」
頭を撫でる柔らかな感触。絶対の安心感を与えてくれた手の温かさ、それに身を委ねた幼いあの日。もうどんな日常だったのかさえ頭のどこにも残っていないが、きっと母は優しい人だったのだと心で分かる。
「レオ、可愛いレオ」
その温かさに身を任せ、何も考えず甘い匂いを胸一杯に吸い込む。ただそれだけで己の心が安らぎの極地へと旅立てる。この後に極大の恐怖が迫って来るとも知らずに……。
「レオ、わたしのレオ。絶対に守るから」
体が震える。地も、空も、この世の全てが鳴動する。二本の足は己の体重を支えることも出来ずに膝を崩し、グラグラと揺れに揺れる天地に必死に支えを欲した。
それを支える母の肩越しに目を凝らす。だが見えるものは何も無い。
幼いレオの視界に広がるのは、白。深く、濃く、そして透き通った白。世界の全てを容赦なく塗り潰すその色彩は、レオの記憶よりも更に深い魂の奥底に大きな爪痕を残した。
それが、「あの日」に起きた出来事の一部……。世界を押し潰す“白”によって何もかもが破壊された、原初の記憶。
この目から“白”が消え去った時、母の姿は既に無かった。自分の前から家族を、人生を、記憶を奪い去った“白”だけが残った。
「……ん、うぅ……あ」
気絶から目覚めれば、決まって視界に飛び込むのは知らない風景だ。気絶自体、経験が二度しか無いので何とも言えないが、どうやら自分は寝ている間にどこか知らない場所に連れて行かれる星の下に生まれているのかも。そんな風に考えながらレオは上半身を起こし周囲を見回した。
体内感覚が正しければ恐らくは朝か昼前だが、生憎と正確な時間は分からない。というのも、ここは大陽の届かぬどこかの地下であり、仕事柄嗅ぎ慣れた湿気を含んだ土の臭いが妙に懐かしく感じられた。だが今自分が押し込められている穴は作業員が掘ったトンネルではなく、人が手を付けた痕跡が微塵も無い。何か巨大な生物が力尽くで刳り貫いたのか、立ち上がったレオが少し頭を屈めれば通れるぐらいの空間だった。
自分が横たわっていた場所を観察する。柔らかな枯葉が敷き詰められたそこを掘り返すと、出て来るのは木の実の山。どうやらここは寝床ではなく餌を溜め込む穴蔵と見た。当然、この餌場を作ったのは……。
「俺は保存食ってことかよ、畜生が」
何の気紛れかあの怪物は自分を食べず、こうして穴蔵に押し込めただけのようだった。幸い今、穴蔵の主は縄張りの見回りか新たな狩りの最中か留守にしている。脱出するなら今しかないと恐る恐る出口に這い出し……。
「うへぇ! こりゃ……」
素っ頓狂な声を上げるのも無理は無かった。洞穴の外は一面の銀世界、昨夜からずっと振り続けてきた雪が降り積もっただけでなく、今なお穴の外では轟々と雪が吹雪いていたのである。伸ばした手の先すら見通せない豪雪の下に踏み出せば、ものの十分もしない内に道を見失い遭難するのは目に見えている。そうでなくてもこの雪の中を歩く内に体温を奪われ、生きたまま氷の彫像にされてしまっては元も子も無い。
結局、怪物の巣穴を脱する気力を失ったレオは絶望と諦観に項垂れ、しばらく何をするでもなく無言の時間を過ごした。その内心はまるで処刑の時を待つ罪人の気分で、いつか確実に訪れる死に怯える心すら麻痺しようとしていた。その間も雪は止む様子を見せず、それどころか時間が経つごとに吹雪の勢いは増していくばかりだった。
「くそっ! 何だって俺がこんな目にあわなきゃならないんだ!」
だが混乱を経て少し冷静になると、今度は一転して沸々と怒りが込み上げてくる。自分だけがこんな理不尽な境遇に置かれていることが腹立たしく思えて仕方がない。そうなると不思議なもので、死んでたまるかと気力活力が湧き上がり、それに応じて意識しなかった空腹を腹の虫が訴えて来る。
都合よく寝床に蓄えられていた木の実を思い出し、それを適当に鷲掴みにして口に頬張る。どうせ長くない命なら、せめて憎きあの怪物の食い扶持を減らしてやろうと息巻いて、むしゃむしゃと山の恵みを貪り始めた。結構美味しいのが尚更に腹が立つ、こんな旨いものを取っているなら山の人間など襲わずともいいだろと毒づくが聞く者はいない。
手一杯に掴み取った木の実を食べ終えると、腹が膨れれば眠くなるのが動物のサガとばかりに目蓋が落ちる。食い散らかした木の実の皮もそのままに、猛然と降り続ける外の雪を無視するように膝を抱えてうたた寝を始めた。
「へっ……昔は散らかして、よく先生に怒られたっけ」
片付けが苦手だったレオはいつも神父に怒られていた。食べたら食べっぱなし、遊んだら遊びっぱなし、悪ガキではなかったが後先考えない自分勝手な行動にいつも神父は手を焼いていただろう。その度に親身になり叱ってくれる彼を、レオは記憶には無い父の姿を重ねて見ていた。
だが、その度にレオの心に浮き彫りになるのは顔も知らぬ「母」のことだった。声だけ記憶にあるから、なおのこと神父と対比して自分から欠けた家族と言う存在が大きく伸し掛かる。
今分かった。自分が神父の誘いを蹴ってここに残ろうとしたのは、彼の言葉に幻滅したからではない。本当は、彼といることで「母」を思い起こされ、それに苦悩するかもと恐れたからだ。記憶が無いからこそ日々を平穏に過ごせていたのが、記憶を刺激される事で崩れるのを防ぎたかったのだ。
だが人生とは不思議なものだ。記憶の復活を避けて町を出たはずが、身を寄せたこの山こそ自分の始まりの場所だったとは……。
「ままならねぇよなぁ……」
自分は何か言い得ぬ力でこの山と結び付けられているのではとさえ考えてしまう。
「レオ、ちゃんと片付けないと」
「ああ、そうだなぁ先生……悪ぃな」
夢見心地のまま寝言のように幻影に相槌を打ち、レオの意識は微睡に消えようとしていた。次に目が覚めた頃には怪物の餌になっている自分を想像しながら……。
…………。
…………。
…………。
……。
……。
いや、ちょっと待て。待ってくれ。
今さっきここに居たのは、“誰”だ?
幻聴、夢、微睡が聞かせた有り得ない音……最初はそう思っていた。だが違う、今さっき聞こえた声は確かに現実のもので、つい今しがたここには“誰か”がいたのだ。
その証拠に、食い散らかしたままだった木の実の皮が消えている。
「誰だ……誰か居るのか!? おい、いるんだったら返事ぐらいしろよ!!」
恐慌にも似た感情に駆られるままにレオは洞穴の外に向かって声を張り上げた。白銀の山は彼の問い掛けに答えることなくしんしんと雪を降らせるだけで、声も雪に掻き消されてどこにも届かなかった。
幻覚か、あるいは死を前にしてあらぬモノでも見たのか……。そう考え直し穴蔵の奥へ踵を返すレオ。
その足元に……。
「うぉ!? な、なんだ……!」
出口に背を向けた瞬間、外から何かが投げ込まれた。片手で持ち上げられるそれは柔らかな毛皮を持ったウサギで、既に血抜きされた形跡があった。
つまり、外にいた誰かが狩った獲物を投げ込んだのだ。
「っ!!?」
すぐさま穴を飛び出し、視界を遮る白の中を声を上げながら駆けずり回った。雪猩々に浚われたとばかり思っていたが、ひょっとすればあの穴は狩人が獲物を溜め込むのに使っている場所なのかも知れない。そう思い居ても立ってもいられず、自分に獲物を分け与えてくれた狩人を探し雪山に躍り出た。
「誰かぁーっ!!! 誰か、いるんだろ! ここだーっ、ここにいるんだぁーーー!!!」
掻き消す雪の勢いに負けじと声を張り上げ、遠くの誰かに見つけてもらおうと両手を大きく振った。零下にも関わらずレオの体温は上昇し、噴き出す汗と熱は湯気となって立ち昇った。穴にウサギを放り込んだ猟師はきっと近くにいる、こちらの存在に気付いてくれれば麓までの道に連れて行ってくれると信じて。
「おーーーい!! おぉぉーーーぃい!!!!」
だが、呼べども呼べども返事は無かった。次第に声は涸れ体は冷え、一転して体が震えに包まれる。一度穴蔵に戻ろうとして来た道を引き返すも、猛吹雪は足跡を埋め尽くし、白銀の帳は僅か数メートルも離れていないはずの穴蔵さえ隠してしまっていた。
右も左も忌み嫌う白に囲まれ、極限の環境下でレオの精神は急激に摩耗していった。このままでは雪山で凍え死にという笑えない最期になってしまう、凍りつき千切れ飛ぶ意識を必死に繋ぎ止めながら、記憶にある帰り道を探り当てようとした。
「はぁ……はぁ……はぁ…………」
呼吸は浅く、感覚は徐々に長くなる。唇は紫を通り越しとっくに真っ青だった。
もう駄目だと諦め、脚は力を失い体が前に倒れる。冷たい雪の上に伏した体は吹雪に覆い隠され、レオは一人孤独に冷たい死を迎えようとしていた。
「ダメ……!」
その体を、優しく抱き留める者がいた。
「……ぅ……」
大きく、柔らかく、そして温かい。こんな深い雪山で自分以外の誰かを身近に感じられたことに、それまでの不安と混乱は消え、レオは温かみに身を委ねていた。
凍りつく目蓋をこじ開けその正体を見極めようとするも、ひょいと軽々持ち上げられたレオが感じられたのは、その者が雪を踏み締める度に聞こえる毛皮の擦れる音と、自分の体を支える部分の羽毛に似た柔らかな感触のみだった。
雪は更に激しく降り積もる。レオをその深奥に閉ざそうとして……。
レオの体は寒空に晒した石のように冷え固まっていた。流れ出た汗は氷となり、全身の関節の自由を奪い熱を消し、今にもその命の灯火さえ泡沫となってしまいそうだった。
「このままじゃ、いけない……」
穴蔵にレオを運び込んだ者は、彼の体が思っていた以上に弱っているのを確認し、すぐに対処に当たった。
問題は無い、元来“彼女”の種族はそれを行うことに長けていた。
「レオ、今すぐ……助けてあげるから」
頭から全身を隠すように被っていた毛皮を剥ぎ取り、その身を晒す。解放された体表から溢れ出すのは、“彼女”が持つ体の熱と、更に着込まれた白い毛皮。鞣した皮が身を守る為ならば、これはまさしくこの厳しくも恐ろしい雪山を生き抜く天然の防寒着。そしてそれは、“彼女”の体から直接生み出されていた。
白い毛皮はそれ自体が意志を持つように、瞬く間に“彼女”の全身に広がり、まるで雪ダルマのような風貌になった。全身を覆い隠した毛皮は“彼女”の身を守る為ではなく、今その目の前で寒さに震える男の為のモノ。本来なら「備わっていないはず」の力を強引に引き出し、レオの為だけにそれを惜しみなく発揮した。
「レオ……あぁ、レオ! かわいそう、こんなに凍えて……。でも大丈夫……あたしが、必ず……」
凍えて身を縮ませるレオを抱きかかえ、全身の毛皮を使ってその体全てを包んだ。手も足も、頭もすっぽりと毛皮で包み、僅かに顔だけを覗かせ呼吸を遮らないようにして。
寒気を遮断する天然の防寒着は見る見る間にレオの失われていた体温を呼び戻し、血の気が無かった素肌の表面には健康的な肌色が戻ってきた。レオと“彼女”、二人は互いの体温を交換し合うように強く抱き合い、ものの五分もしない内に死にかけていたレオは息を吹き返した。
「レオ、レオ! 可愛いレオ。よかった、あぁよかった!」
これで死の心配は無くなったと、胸を撫で下ろす代わり抱きかかえたレオの背中を何度も摩る。本当に嬉しそうに、赤ん坊をあやす様に……。
「あんたは……」
「喋っちゃダメ! 大丈夫、大丈夫だから……ね。怖かったよね、レオ。でも、もう安心して」
「誰なんだ……あんたは」
ここで初めて“彼女”の顔を見たレオは、自分を温めてくれた人物が人間ではない事を知った。
白銀の毛皮は冷気を寄せ付けず暖かな熱を保ち、険しい山肌と深い雪原を踏破する丈夫な四肢、そして標高のある山に住まいながら健康的に焼けた小麦色の肌。熊にも似た生態の彼女らは古くよりこの雪山に棲む、人間の良き隣人……イエティだった。
なるほどこの洞穴はこのイエティの住まいだったのか。納得を得ると同時に次の疑問がレオに浮かび上がる。
「俺とあんたは、前にどこかで会ってんのか……? 誰なんだ? 同じ孤児院にいたか? それとも、ひょっとして……」
まるで自分を古い知己のように名を呼ぶが、レオの記憶にイエティの知り合いはいない。少なくともこの十年においてはだが。つまり勘違いでなければ、このイエティは記憶を失う十年より以前に会った誰かと言うことになる。
「忘れちゃったの? 一緒にここで、この山で遊んだじゃない。かくれんぼ、おいかけっこ、ゆきがっせん……たくさん、たくさん遊んだでしょ? ……覚えてないの?」
「あー……その……すまん、俺は十年より前の記憶が、そのな……無いんだ。さっぱり、これっぽっちも」
一瞬、言うべきか言わざるべきか悩んだが、下手に誤魔化す意味が無いと考えて正直に告白した。その時にイエティが悲しそうな顔をしたのが印象に残ったが、嘘をついてもっと傷付けた事を思えば致し方ないことだった。
「そう……そうなの。かわいそうなレオ。あんなに、あんなに辛いめにあったのに……。あんなに、あなたの幸せを祈っていたのに……」
「…………教えてくれ。俺は、誰なんだ? あんたは、誰なんだ? ここで、何が起こったんだ!? 今ここで……何が起きているんだよ!!」
十年間、意図せず蓋をし続けた過去への疑問が次々と湧き出てくる。全ての真実を知る、恐らくたった一人の人物にレオは掴み掛るように一度に疑問をぶつけた。
雪山の少女はそれに嫌な顔ひとつせず、ゆっくりと、そして包み隠さず全てを語り始めた。
「あなたはレオ。あたしはアレーナ。あたし達は友達……お友達だった、十年前のあの日までは……」
「始まりは、十年前にこの空を通過したある物が原因だった」
この街、この国、いやこの大陸に生きるおよそ半数は“それ”を目撃したはずだ。十年前のあの日、いつもは忙しなく地上を闊歩し足元ばかりを注視していた全ての民は、あの瞬間だけは全ての目が天上に向けられていたと断言できる。
“それ”は何の前触れもなく現れた。
雲を貫き大気を切り裂き、真昼の太陽よりなお燦然とした輝きを伴って、音より速く飛翔したその光源は北の大地を眩く照らし出した。
ある者はこの世の終わりを予期し、ある者は天上に座す神々の祝福と捉えた。それが天空の遥か彼方、星海の果てより飛来したこの世ならざる物体であるとは露知らず、異星の使者は地上全土の生命を絶滅させる熱量を宿し、この星の大気圏をぐるりと一周半した後にゲオルギア上空へと達した。
轟音と光、そして熱を帯びた火球は大気との摩擦で徐々に質量を削りながらも、やがて地上に激突するは必至という所までになった。激突すればゲオルギアのみならず、地上全てが熱線と死の灰に侵され三日と経たず星の表面が焼き尽くされてしまう……人々がその真実に気付けた時には、流星は既に地上数千メートルの距離にまで迫っていた。
もはやこれまで、今日が滅びの日なのだと誰もが確信していた。
「だが、そうはならなかった。流星は地表に到達する事無く、上空で爆発四散。数百、数千に分離した星の欠片は、海に、空に、そして陸に降り注ぎ、大陸を三度滅ぼしてなお余りある力は跡形も無く霧散した」
火球は一瞬にして燃え滓の雨となり大陸の北半分、つまりは連邦全土に降り注いだ。その多くは年中氷に閉ざされた北海に落ち、陸地に降った大半も小指の先ほどの小石となり、人的被害は皆無だった。1000年に一度の天体ショーは世界滅亡の危機から一転、北海の奇跡、『星降る日』と呼ばれるようになり、毎年この日は祝祭日となっている。
こうして謎の流星は北方の空で華と散り、人々はそれを奇跡と称し記憶に鮮やかに残り続けることになった。
しかし、その裏ではある凄惨な事件が起きていた。
「当時、今のトンネル工事が行われている所より標高が高い場所……あそこにはかつて小さな村があった。人口は百人足らずで、夏はともかく冬場は麓までの道が完全に断たれる陸の孤島……それがあの子の生まれ故郷、だと思われる」
「思われる、ですか?」
「確かめようがないんだ。その村はもう……無くなっているんだ。村民数十名……皆、雪に埋もれて消えてしまっている」
爆散して散り散りになった星の欠片、その中でもある程度の大きさを保ったそれがドラクトルの峰に衝突し、山全体に甚大な雪崩をもたらしたのである。それは本来なら雪の通り道ではなかった山村もろとも飲み込み、木々を薙ぎ倒し森を削り、麓の手前でようやく停止した。星の欠片と言う文字通りの天災がもたらした災害に為す術などあろうはずがなく、村人は何が起きたか理解しないまま一瞬で死に絶えてしまったのだ。
「かつて隊長だった私に軍が与えた任務は、山に落下した星の欠片の回収。流星に含まれる未知の物質を解明したいという話だったが、被災した人々への配慮を欠いた指令に私はどうしても従えなかった。今行けば助かるかもしれない人命を軽んじ成果だけを追求する……そんな軍の在り方に嫌気が差し、私はそれに反して要救助者の捜索を独断で行った。人は私を義侠の男と言うが、実際は本当にただの反骨心だけの行動だったのだよ」
事実、男は誰一人救えぬまま下山を余儀なくされた。
唯一人を除いて……。
「そんな時、我々は彼女に出会った。全てが雪に埋もれたあの場所で、私達が来るのをただひたすら待ち続けていた雪の少女に……」
救助者を発見できないまま下山の途についた隊の前に現れたのは、一人の少女。雪深い山中にありながら一切の防寒着を身に付けず、代わりに白銀の体毛を持つその姿は雪国のゲオルギアにおいてはポピュラーな魔物娘だった。
残念ながら少女は要救助者ではない。だが彼女が抱える子供を見た時に、全てを察した。ほとんど生命の危機に瀕するレベルで衰弱した少年は、今すぐここで救助し山を降りなければならないほどの重体だった。
「私は唯一の生存者である少年を保護して山を降りた。名前を聞く間も無かったが、あの時少女は確かにこう言った……」
『この子を守ってあげてください。この子の名前はレオです』
「長寿で知られる魔物娘だが、恐らく見た目と年齢に相違は無く、私達にそう言い残した少女はレオより僅かに年上なだけの童だった」
「それで、その子はどこへ?」
「分からない。少し目を離した隙に掻き消す様に姿は無くなっていた。だが……彼女が居なくなった雪山を、何か巨大な獣の雄叫びが揺らしたのを覚えている」
今も耳に焼き付いて離れない、地の獄から轟くような、狼とも獅子ともつかぬ正体不明の声。
「今なら分かる、あれこそが我々が雪猩々と呼び恐れるモノだったのだと。理由は分からないが、十年前にあの山で何らかの変化があって雪猩々が生まれ、自分が取り逃がした獲物を探し続けていたんだ。そして、レオはここに戻って来てしまった」
野生のクマは一度見定めた獲物を必ず仕留めるまで止まらないという。あの雪山の怪物が埋もれた小村とどう関係しているのかは知らないが、これではっきりとした。
怪物はレオを狙っていたのだと。
「隊長! 全隊員、揃いました! いつでも行動開始できます!」
「よし! では……参りましょう」
「ああ……待っていろ、レオ」
竜尾山岳猟兵隊、総勢120名。目標、雪猩々が潜伏していると思しき山頂付近。
全ての作業員を避難し終えた軍は、これより山狩りを開始する。
全ての事を聞き終えてなお、レオの中には何か釈然としないものがあった。記憶を失った彼にとっては過去の出来事は全てが伝聞になってしまう。それでも確かに臨場感と言うのか、胸に響く何かがあるのは感じられた。言葉以上に、このイエティのアレーナが言った事が事実であると理解はしている。
だが……。
「レオはここにいちゃいけない。ね? 分かった? 雪が止んだら麓まで連れて行ってあげるから。あの時みたいに、ちゃんとあたしが……」
何故だろう、親しさの中に見えるよそよそしさ。攻撃的な意図は無いのだろうが、それが逆に違和感を醸し出す。その違和感は歯車の間に小さなゴミが挟まったような感じがして、レオの中に疑惑の種を植え付けるには充分だった。
「あんたは……何を隠してるんだ? 俺に知られちゃ困ることでもあるのか?」
「それは……。とにかく、レオはこの山を降りることだけを考えればそれでイイの。大丈夫、絶対に守ってあげるから」
何を追及しても返って来る言葉はそれだけで、アレーナが何を隠しているのかは明らかに出来なかった。
次の切り口をどう探そうかと思案して身を捩ると、五体を包む白毛の中に何か温かく湿った感触を手に感じた。何事かとまさぐる手の動きを強めると……。
「あっ……ぐっ!!?」
アレーナが苦悶に顔を歪めた。思わずレオが手を引くと、その手にはどろりとした赤黒い液体がこびり付いていた。
「おい、ケガしてるじゃねえか!?」
「へーき、へーき……。大丈夫、このぐらい」
「バカ言ってんな! 見せろよ、いくら魔物だからって手当ぐらいしとけよな!!」
そう言って体毛を掻き分け飛び出したレオは慌ててアレーナの傷を確認した。傷は彼女の胸、たわわに実った二つの乳房の間にあり、健康的な褐色の肌が抉られている様子は何とも痛々しいものだった。
「出血がひでぇ! お前よくこれで今まで何とも無かったな」
「魔物だもん、簡単に死んだりしないよ」
奥深くに何かが食い込み、本来なら魔物娘の回復で塞がれるはずの傷口が未だに閉じずダクダクと赤黒い流出を続けていた。強靭な肋骨を砕き肺の手前まで迫った傷は、食い込んだ物体がどれだけの力で押し込まれたかを雄弁に物語っていた。
これは何の傷だ? ナイフではない。刃物で切り抉ったというよりは、何か鋭いものが刺し貫いたような傷だ。肋骨に当たって威力が削がれなければ、今頃は心臓を貫く致命傷となっていただろう。
「大丈夫、痛くない……痛くないから、ね」
「何をしたらここまでになるんだか!」
回復を阻害する物体を一気に引き抜こうとレオの指が熱を持った傷口に触れる。溶かされるほど熱い血の猛りを指先に感じながら、レオは臆せずそれを引き抜いた。
それは指二本で摘まめるほど小さな物体だった。肉に食い込み、骨を砕いた衝撃で既に原型は無く、本来ならアレーナの命を一撃のもとに仕留めるには充分すぎる威力を持たされた物であることは確かだった。
「おい……何だよ、これ」
レオの顔は驚愕に変わっていた。形が崩れ元の姿とかけ離れていても、アレーナの体内より摘出した物体が何であるかは察しがついた。
小さく、黒く、そして重い。
それを見たアレーナはバツが悪そうに笑いながら、こう呟いた。
「神父さま、あたしだって気付いてくれないんだもん」
取り出したのは、先端が潰れた銃弾。
この国の兵士が十年使っている、ライフルの弾丸。
老神父が怪物に向かって撃った……弾。
「ああ、レオ……ありがとね」
「────!?」
それまで止め処なく溢れていたはずの血が止まり、身の毛も弥立つ粘着音を立てて傷口が塞がれる。明らかに常軌を逸した回復力を目の当たりにしたレオは思わず一歩退く。そして、その瞬間に見てしまった……アレーナの姿を。
獣人型の魔物娘は毛深い、それは事実だ。特に今は冬、そしてイエティは雪山や寒冷地を好んで生息地とする種族、毛深くて当たり前だ。
だが、それでも顔以外のほぼ全身を覆い隠すほどの毛は無い。しかもそれを自らの意思一つで伸縮させている。これは明らかに個体差という言葉を越えた何らかの異常に他ならない。
「ありがとぉ。レオは優しいね」
ゆらりと立ち上がるその姿を見て、レオは昔聞いた話を思い出す。
魔物の中には、その強大な魔力で「かつての姿」になれるモノがいると……。
「どうしたの、レオ?」
「っ……く、来るな……!」
「レオ? どうしたの? 何を怖がってるの? 大丈夫だよ、あたしがここにいるから」
「来るなぁぁぁあああああああああっっっ!!!」
命が助かった安堵から一転し、恐怖に駆られたレオは穴の外へと駆け出した。既に吹雪は収まり、穏やかでなだらかに曲線を描く雪原を脇目も振らず、何もかもが忌避する“白”に包まれた銀世界を、ただひたすら遠くを目指し逃亡した。
「レオ! レオ!!!」
背後から必死に呼び止める声も無視し、レオは駆け抜けた。下る斜面がどこに続いているのかも分からない。ただ、この全てが“白く”なった世界から一刻も早く抜け出したい一心だった。
息が詰まる。
身が裂かれる。
押しつぶされる。
ここにいては全てが水に溶ける砂糖の如くに漂白されてしまう。それに恐怖したレオの足はますますその速度を増し、転がり落ちるように山を駆ける彼は……。
「グルルルォォォォーーーーーー!!!」
その行く手を白き魔獣によって遮られた。
「うわああっ、来るな……!! 来るんじゃねえええええええ!!!」
昨日と全く同じ。本性を顕したイエティが、かつて雪山を闊歩した古代の姿でレオに迫る。大木を容易く捩じ切る二本の腕が、抵抗も虚しくレオの体を捉え────、
「レオにィィィ、手を出すなァァァァァァ!!!!」
雪猩々が伸ばした腕はレオに到達することは無かった。何故なら、人ひとりを握り潰す巨腕は、それと同じくらい大きな別の腕によって遮られたからだ。
突如出現した別の腕はレオの背後より伸び、山を揺らした怒声は彼を追って来たアレーナのもの。ならば、今目の前で忌々しそうに牙を剥き出し威嚇するこの怪物は……。
「お前は……『誰』なんだ!?」
「レオは下がって! 穴蔵に戻って、早く!!!」
前に飛び出したアレーナの姿は、歪だった。
優しく包み込んでいた羽毛のような毛は、その全てが鋼鉄の芯を埋め込まれた針金となり、それらがより固まって腕に纏わり巨大な獣の巨腕を象っていた。そしてそれは、よく見れば相対する雪猩々も同じ。見上げる巨体に肉は無く、大地を捉える脚も、獲物を屠る二本の腕も、全身の大半が針金の剛毛によって一つの巨大な姿を創造しているに過ぎなかった。
唯一つ、白毛に覆われていない顔面を除いて……。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァーーーッッッ!!!」
「『また』レオを奪いに来たのね。でも……そうはさせない!!」
紅の瞳を鈍く光らせ、唸り声とともに白煙が牙の間から漏れ出る。それはこの雪山を恐怖で支配するモノが、この瞬間に初めて見せる「敵意」の表れ。道行くものは全てが獲物でしかないはずの化け物が、ここへ来て対等な「敵」という存在を認識したのだ。
その全ての敵意は今、アレーナたった一人に向けられていた。
「レオ……」
零下の支配者を前に僅か数瞬、アレーナがレオに振り向く。全身が徐々に剛毛に覆われ、女性らしい細腕は見る見る間に雪猩々と同じものへと変化してゆく。おぞましい肉体の変化とは裏腹に、アレーナの表情は儚げな微笑みを浮かべていた。
「心配しないで、『お姉ちゃん』が守ってあげる」
それだけ言って最後、アレーナは弾丸の如く飛び出した。
腕が、脚が、背が、そして胴体全てが白剛毛に覆い尽くされ、変化に伴う発熱が周囲に霧となって吹き荒れる。
そしてその霧を突き破って出た影は……。
「ギィッィイイイイイ、ガァァァアアアアアアアアア!!!!」
雪山の怪物は、“二頭”存在していた。
言葉も、理解も、理性も無く、二匹の怪物はここに血みどろの争いを繰り広げるのだった。
ある「少女たち」の話をしよう。
少女たちは姉妹だった。同じ日に、同じ母の胎から生まれ、同じ日に親元を離れ、同じ山を住処とした。二人の仲は大変睦まじく、集落も作らず個体ごとに生活するかの種族にあって珍しい二人組の成獣となった。
二人はやがて山深くにある小さな村を見つけた。本来なら関わらずとも生きていけるが、いずれは伴侶を持つ身。わざわざ人里に降りたり、来るかどうかも分からない旅人を待つぐらいならと、二人はそろって村の外れに住処を設け村人との交流を図った。
村人は優しかった。閉鎖的な環境にありがちな排他的な者は誰もおらず、老いも若いも誰もが二人に優しかった。一緒に遊ぶ子供達の誰かを伴侶として迎える日を夢見ながら、姉妹は村人との交流を重ねていった。
あの日、村が雪崩に埋もれるまでは。
姉妹は必死になって生存者を探した。だが村全体を埋め尽くした雪は無情にもその命を潰し、姉妹は慣れ親しんだはずの雪によって何もかもを失ったのだ。
だが奇跡はあった。必死に雪を掘り起こし、たった一人の男の子を救うことが出来たのだ。それはいつも遊んでいた子供たちの中で一番年下な、皆にとっては弟分のように可愛がられていた子だった。姉妹は麓からの救助があるまでこの子と一緒に暮らすことを決めた。
現実は甘くなかった。水を飲み、最悪木の皮を齧ってでも生きられる姉妹二人と違って、助けた子供は人間、それもまだ非力な幼子、一度雪に埋もれ衰弱した体では一食抜いただけでも大変な事になる。しかし季節は冬、山の大半の獣は冬眠しており、実りは秋の盛りをとうに過ぎてしまっている。
二人は食物を探し山を練り歩いた。ある時は食べられる木の根を、ある時は厚い氷を割って獲った魚を、そして野ウサギやキツネを狩って肉を子供に与えた。だが少年の削られた体力を回復させるには足りず、二人は更に多くの食料を得るため山の奥深くへと足を踏み入れた。
ふと、鼻が何やら香しい匂いを感じた。その匂いにつられて二人の足は山頂近く、村を襲った雪崩が起きた場所へと引き寄せられていった。
そうして二人が目撃したモノ……“それ”が何だったのかは結局今でも分からない。
血のように赤黒く、周りの雪を溶かす熱を帯び、まるで生きているように脈動する“それ”を目に、まずは警戒心があった。自分達の知識や経験の中にはない謎の物体がもたらす威圧感に、二人はただ呆然と見つめるしかなかった。
しかし、匂いの発生源が“それ”だと知った時、まず姉の方がそれを手に掴み取り、脈打つその表面に歯を突き立てた。「こんなイイ匂いを放つモノが美味しくないはずがない」、果たしてその予感は的中していた。
肉のように厚みがあり。
魚のように瑞々しく。
果実のように甘かった。
いつしか妹もそれに加わり、自分達が保護した少年の存在すら忘れて、二人は一心不乱に“それ”を貪り食った。二人の理性は絶世の美味を前に麻痺し、ただ腹を満たそうとする本能のみでその手を動かし続けた。
そして妹が僅かに多くを口にして、満腹となった二人は山を降り少年の元へと帰った。自分達が一体何を口にしてしまったかなど全く考えもせずに。
時が過ぎ夜となり、姉妹を変化が襲った。
体の火照り、まるで地の底から噴き出すマグマを全身に浴びたような体温の上昇は、ある一つの事実を導き出していた。獣の血を引く宿命にあっては逃れえぬモノ、即ち季節外れの「盛り」がついてしまったのだ。何も珍しい事ではない、体は子孫を残す適齢期を迎え傍には同じく子孫をもたらす機能を持つ、あるいはもうすぐ持つであろうオスが一人、成り行きとしては当然の帰結だった。交わりによって精気を循環させれば失われた体力も元に戻る、どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのかと二人はすぐさま行動に移した。
生まれながらに淫蕩な血を秘める二人は、瞬く間に少年の獣性を導き出し、狭く暗い穴蔵で誰にも知られない淫猥な饗宴に傾倒した。ある時は姉が、ある時は妹が少年に馬乗りになり、その未熟なままの青い情動を思う存分に搾り上げた。何も分からないのは少年だけ、未体験の暴力的快楽は全ての絶望から目を逸らさせるにはうってつけだった。故郷を失った悲しみから一転、少年は奥深い山中で自分だけの楽園を手にする幸運に恵まれたのだ。
しかし、それは誤った見方だった。
様子がおかしいことに気付けたのは、その直後だった。人間同士の体力を消費するだけの交わりとは違い、ヒトと魔物は交われば交わるだけ精気と魔力が循環し生命力に満ち溢れるようになる。それはまる一日中交わった姉が肌で実感していた。
「妹」は、違った。
「おねーちゃん……あのねぇ、この子ねぇ、なんだかおかしいの。さっきまで元気だったのに、もうこんな大人しくなっちゃったぁ」
姉が見たのは、カラカラに乾いた枯れ木の上で呆然と呟く妹の姿。自分と同じ褐色の肌は白く濁りきった粘液でまみれ、狩りに出ている間ずっと交わり続けていたのだと分かった。
ならば何故、少年の体が枯れ果てているのか。全てを搾り出した雑巾のようにその股に押さえ込まれているのは、何故なのか。
妹の交わりはもはや魔物のそれでは無かった。一方的に己が快楽を貪り、少年の体力を回復するどころか、ただただ一方的に寿命をも削る暴力の具現。肉欲と形容することすら烏滸がましい、およそ知性ある存在が持つには相応しくない獣欲の顕れが妹の身に起こっていた。交われば交わるだけ、少年の身はやせ衰え死に近付く。
何かの間違いだと思いたい姉の心と裏腹に、妹は抑揚のない声でこう呟いた。
「ねー、おねーちゃーん……おナカ、減っちゃっタ。食べタい、食べたイ、タベタイ……。ネェ、『コレ』……タベテいーヨネぇ?」
そう言って指さした「これ」とは、他でもない自分が馬乗りにしている枯れ木のように痩せた少年の姿。
「タベタイナァ……タベタイ、タベタイ、タベタイ、タベタイタベタイタベタイタベタイヨォォォ。………………………………ネェ」
「喰 ワ セ ロ」
姉の行動は早かった。精気を回復せず体力だけを消費する交わり、それを繰り返した妹の体は突き出した腕で容易に倒れ、その隙に姉は少年を抱えて穴蔵を出た。
遠くへ、遠くへ、妹ではなくなったナニモノかに追いつかれないよう必死に少女は山を駆け下りた。妹の身に何が起きたかを考える余裕は無く、ただ怪物となった彼女から逃げることだけを考えた。
だが何よりも優先すべきなのは、この腕に抱きかかえた小さな命。
「レオ!」
暴力的な行為により全身が衰弱した少年に必死に呼びかける。呼び続けることで今にも途切れそうな意識を繋ぎとめようとした。故郷を失い、家族を失い、それでも絶望から立ち直ろうとしていた小さくも逞しい命。それは今や風前の灯火となり果て、肉体以上にその精神に大きな傷を負ったことをどんな言葉よりも雄弁に語って聞かせてくれた。
「レオ、可愛いレオ」
こんなことになってしまった事に何も適切な言葉が出ず、ただ愛しい名を呼ぶことしか出来ない。
「レオ、わたしのレオ。絶対に守るから」
それでも信じて欲しい、自分はあなたを守りたかった。傷つけるつもりは決して無かったのだと。
この僅か三十分後、少女は今まさに山を降りようとする兵隊に接触し、まだ意識が朦朧としたままの少年を預け自らは山に残った。一緒に山を降りることは出来なかった。
「食イモノ、ォォォ……食ワセロオオオオオオオオ!!!!」
この世のものとは思えない雄叫びとともに山を駆け下りる「かつて妹だったモノ」。太古の昔に魔獣と呼ばれていた姿を得た雪山の怪物を止められるのは、その同族をおいて他にいなかった。
これより十年、アレーナの孤独な戦いが始まった。
二頭の雪猩々こと、古代のイエティはその巨体をぶつけ合い、新雪を巻き上げて取っ組み合いの肉弾戦を繰り広げる。その様は生物の戦闘には見えず、雪を纏い白くなった大岩が衝突を繰り返すように思えた。実際巨腕が肉を払う音など、あまりの大きさに周囲の木々の枝が一斉に折れて降り積もった雪ごと吹っ飛んでいった。
魔王が代替わりするほどの永い時を経て、何の因果か先祖返りを果たした二頭の魔獣。だが片方があくまで姿を変えるだけの“変身”であるのに対し、もう片方は身も心も完全に獣に堕ちた“変化”という決定的な違いがある。姉は自らの意志で魔獣形態になれるが、妹は十年前の変化を境に一度も元の姿に戻ったことがない。
「グルルァァァアアアアアアアアアアッ!!!」
「ガァァァァアアアアアアアアアアアッ!!!」
二頭の力はほぼ互角。純粋な膂力や腕っ節の強さだけで言うのなら完全変化を遂げた妹が一枚上手だが、その軌道は攻撃本能に任せて振るわれる単調なものでしかない。だからこそアレーナは生きてこられた。同じ時期に異形の力を得た二人、理性を残したままその力を振るえるアレーナは故にこそ怪物を相手に互角の戦いを演じられたのだ。
そう、あくまで「互角」だ。
雪猩々の攻撃はアレーナに届かず、アレーナの腕は雪猩々を仕留められない。延々と攻防が続くことを千日手と言うが、事実二人はその三倍になる十年の月日を一進一退の正面からの殴り合いに費やしていた。こうしてぶつかり合うのも昨日今日の話ではない。この十年間、3600回、ただの一日も欠かすことなく姉妹は争い続けていた。幾度となく執拗に山を降りようとする怪物を止めるために、アレーナもその身を削ってそれを阻止しようとした。
春、盛りの花を血に汚した。
夏、深緑の山を駆けて腕を食いちぎった。
秋、実りの山でもぎ取ったのは相手の足。
冬、真白の銀世界をキャンバスに赤を撒き散らした。
そのサイクルを十回繰り返した。互いに傷付き、傷付け合い、ぶつかりあった暴虐の嵐は幾度となく互いの総身を微塵に挽き潰し、その度に理解できない力で再生を遂げ、また戦い始めた。
この十年、決着は一度もついていない。
その気になれば、姉は妹を仕留めらるのにも関わらず……。
「ギギッィィイイイ、ガアギギギガアアアアアアアアアアアアッ!!」
「グ、ヴァ、セ、ロォォォォォオオオオオオオオォォォォ!!!!」
口を開き飛び出す言葉は常に二つ、「レオ」、そして「喰わせろ」。一度標的に定めた獲物を食わずにはいられないのは獣のサガ、もはや口から出る言葉はオウムが人のそれを真似する以上の意味を持たない。それしか知らないから、「喰わせろ」と鳴いているだけだ。
アレーナはこの十年、ただ戦っていたわけではない。何度も、何度も、何度でも……「かつての妹」に呼びかけ続けた。姿が変わり、言葉すら忘れても、そのおぞましい肉体のどこかにかつてと同じココロがあることを祈って。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァーーーーー!!!!」
祈りは、踏み躙られた。
何度も、何度も、何度でも……相対する度にアレーナのたった一つ抱いた希望はことごとく押しつぶされた。
手を、足を、首を、頭を、目を鼻を耳を、噛み砕かれながらもアレーナは諦めなかった。どんなに形が変わろうとも、相対するこの怪物は自分の妹だったから。
だが、その迷いも今はっきりと途絶えた。
「グワゼ、グヴァッセェェ、グワゼロォォォォオオオオオオオ!!!!」
生き延びるためとは言え、かつて情を交わし稚拙ながらでも睦言を交わした相手のことさえ忘れ、今やただの食料としか認識できていない。肉欲が食欲に変わったことにも気付けていないのだ。
一縷の望みが絶たれ踏ん切りがついたか、十年の時を経てアレーナは遂に……。
「ウォォオオオオオオオオオオオオーーーッッッ!!!」
動きを止めるのではなく、息の根を止める為にその腕を振るった。生まれて初めて、妹を殺す決意をした。
もっと早くにこうしておくべきだったと、後悔の念も秘めて……。
わざと怯んで隙を見せて誘い込みをかける。弱った瞬間を見逃さない獣の論理で距離を詰めた雪猩々、その顔面にアレーナの拳が突き刺さる。
目鼻が潰れ歯は砕け、頭蓋は醜い音を立てて粉微塵に散った。通常、どんな生物とて頭部を破壊されれば死に至る。だが禁断の果実を口にした雪の姉妹は、特に姉以上の力を得た妹は「頭を潰した程度」では滅せない。
飛び散った肉片と全ての血が、不可思議な力に導かれ爆散した頭部を形成する。その異常な現象は単なる不死身による再生を越えた、時間の巻き戻しを思わせる復元の域に達する。神代の昔、無限の再生力を誇った不死の怪物のように、肉体から溢れ出る魔力は傷を完治させ全ての死を遠ざける。五体を微塵に砕いただけでは、“神話の片鱗”を、“旧き神の血”を受け継いだ怪物を打倒することは出来ない。
だがそんなこと、アレーナには関係ない。
「ウガァァ!! ガァッ、ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァ!!! ヴヴヴヴァァァアアアアアアアアアアアーーーーッッッ!!!!」
叩き、殴り、潰す。力、ただただ力にのみ訴える方法で、怪物を力尽くに屠殺する。頭が再生するなら二撃目には胴まで、腕が復活するのなら三撃目には肩を爆砕し、圧倒的な暴力に物を言わせて怪物の総身を潰し続ける。その行為はもはや「壊す」のではなく、「削る」と表現したほうが適切だった。
怪物の全身は徐々にヒトの形を失っていく。あれだけ山を揺らす雄叫びを上げていた口腔も今は影も形も無く、四肢はもぎ取り磨り潰され、胴は何重にも鯖折りにされ、終いには怪物の「全身」はアレーナの巨腕に収まる肉塊へと圧縮された。
最後まで残った肉の塊、それは心臓。赤黒く、瑞々しい滴りと濃厚な香り……それは奇しくも、あの日自分達が口にしてしまった禁断の果実と寸分違わぬものだった。
アレーナは、それが二度と復活しないようにと願いを込めながら……。
「────グァ、グ」
その口で、その牙で、そしてその喉で、最後に残った肉を喰らい尽くした。
滴る血も指で掬い取り、意地汚い乞食がそうするように、一片も残さずその全部を胃の腑に収めた。激戦の末に周囲に散乱した、それまで不気味に小刻みな震えを起こしていた肉片は、本体がこの世から消滅すると同時に糸が切れたようにぱったりと沈黙した。
こうして雪山の怪物は、あっさりと、呆気なく死に絶えた。
十年続いた骨肉の争いはこうして幕を下ろした。姉が妹を殺すという、どちらに転べども最悪の結末として。
何がいけなかった。初めは何が原因だった?
あの日、妹がひもじい思いをしないようにと、自分より多く食べさせたのが間違っていたのか?
あの日、匂いに惹きつけられて“あれ”を口にしていなければ……。
過ぎた時間は戻らない。過去には決して戻れない。そう分かっていても、悔恨の情は止めどなく溢れ続け、たった一人の肉親を失ってしまった事実が重く伸し掛った。
「アレーナ……」
「レオ」
逃げもせず、ずっとそこで全てを見守っていたレオに声を掛けられる。
この十年は彼を守る戦いだった。今はもう全てを忘れてしまったレオだが、出来ればこの姿を彼には見られたくはなかった。一度は愛した相手に、変わり果てた今の姿はどう映っているのか知るのが怖かった。だからこの十年一度も彼の前に姿を見せることが出来なかった。その成長も変化も見れないまま、ただ漫然と生死の境に身を置き続けるしか出来なかった。
そのジレンマも今日終わった。彼を襲う脅威が消え去った今、醜怪な自分がここに留まる理由も無くなった。怪物は怪物らしく討ち取られるか、孤独に朽ち果てるしかない。潔く彼の前から姿を消すだけだ。
だが次の一言が、アレーナの孤独への足取りを止めた。
「あんたが、俺の『母さん』だったんだな。あの日俺の名前を呼んでくれたのは、あんただった」
「っ! 思い出したの!? 十年前のこと!」
恐怖の象徴である白、その原点である雪猩々の戦いを目の当たりにしたことで記憶が蘇ったのか。だがそれは全く見当違いだった。
「いや、その……思い出したのは、あの時の声があんただったって事だけだ。あんたが俺の何で、もう片方の化け物が何だったのか、そもそもどうしてあんたはそんな力を持ってるのかとかは……てんで思い出せない」
事実は小説より何とやら。しかして、実際は物語のように何もかも筋が通る訳ではない。レオの蘇った記憶はほんの一部、それもこの山の惨劇全てを紐解くものではない。当然、彼自身の半生も分からず終いだ。
「でも分かることはある。あんたは、俺を守ってくれていたんだな。今も、昨日も、そして……これまでにも何度か。きっと俺が想像も出来ないくらいに、あんたは俺を守ってくれていたんだな」
例え与り知らぬところで起きたことだとしても、それが自分を想った誰かの行動ならば伝えることはたった一つ。
「ありがとう。俺なんかのために」
「……あぁ」
たった一言で済ませてしまうには長い時間と大きな犠牲があった。感謝の言葉一つで済ませられるほど、ここまでの道程は決して軽くはない。
それでも、たったそれだけの言葉でアレーナの生は報われる気がした。
レオが手を差し伸べる。それは傷付いたアレーナを癒そうとしてか、あるいは彼女の人知れない頑張りを労っての行動か。
アレーナは自分が醜い怪物の姿であることも忘れて、その手を取ろうと腕を伸ばし────、
一発の銃声が眉間を貫いた。
木々の奥から飛来した銃弾は、胸を貫いた一撃同様、吸い込まれるようにアレーナの額に突き刺さった。噴き出る鮮血が雪と木々、そして真正面にいたレオへと降り注ぎ、山々を揺らす巨体が地に倒れ伏した。
「アレーナ!!?」
弾丸が飛んできた方向を見れば、雪の白に紛れ風上からこちらを狙う兵士が数人。きっと山狩りに訪れた軍隊がこの周辺に多数存在しているのだろう。散策中に目標である雪猩々に出くわしたから先制に撃ち込んだのだ。それが彼らの任務。彼らからすればこの状況は、「凶暴な怪物と、その怪物に襲われる無辜の民」という構図以外の何ものでもない。
そう言えば、あの隊長は何と言っていた?
「アレーナ!! おい、アレーナ! 起きろよ!」
早く彼女を逃がさなければ、希少生物として軍に捕らえられ死してなおその肉体を解剖され調べ尽くされる。人畜無害なイエティが凶暴化した理由を解明するという名目で、全ての尊厳を奪い尽くされるかも知れないのだ。
五体が弾け飛んでも復活するその生命力があればきっと逃げられる、そう信じてレオは変身が解けて雪に倒れるアレーナを起こした。だが……。
「ううん、これで……いいの。あたしは、ここで終わる」
「何言ってんだ、逃げるんだよ! あんたは俺の恩人だ、それがこんなとこで終わっていいはずねえだろが!」
「違う……違うの。あたしはただ、レオの記憶に間借りしているだけ。思い出がないあなたに、たまたまあたしが滑り込んだだけなの。あたしは、レオ……あなたの特別でもなんでもないの」
「でも、それでもあんたは俺を助けた! 何度も手を差し伸べてくれた!」
「ありがとう、優しい子。でもね、これでいいの。これであたしは、やっと終われる」
怪物が倒れたことを確認し兵士がこちらに接近してくる。それを察知したアレーナはそっとレオを押して離れさせようとした。
「行って。レオは今までと同じに、レオだけの人生を生きて」
レオに伸びた腕を攻撃意志と受け取ってしまった兵士が再び銃口を向ける。引き金が絞られるまさにその瞬間、彼らを止めようとしたレオが身を躍り出した。
「やめろォォォォォ!!!」
僅か一瞬の出来事。
そして引き金は……。
「この一件、おれが預かる」
弾丸は出なかった。
引き絞られる指より、間に飛び出したレオの叫びよりもなお早く、一迅の風に似た何かが兵士たちを薙ぎ払った。数人の兵士は纏めって吹っ飛び、無様にも積もった雪に頭から突っ込む醜態を晒した。
何が起きたか分からないレオとアレーナをよそに、突然の乱入者は二人を急かす。
「早くこの場を離れろ。行け」
「行けってどこへ? ていうか、あんたは……?」
「どこへでも、好きなところへ行け。別の峰に行くも良し、山を越え南へ行くも良し、東伝いに霧の大陸を目指すのも良い。とにかく、ここには長居しないことだ。ここはもうお前たち二人が生きるには騒がしすぎる」
恐ろしい腕力でアレーナが掴み上げられ、ひょいと軽々レオに投げ渡す。作業場で鍛えられた体はアレーナの体を苦もなく抱きかかえ、後はこの場を離れるだけになった。
「何でそんな俺達に肩入れするんだ? あんたも前に俺とどこかで会ってんのか?」
「おれは、おれが昔この国でやらかした不始末の収拾をつけに来ただけだ。だが結局おれの出る幕じゃなかった。もうこんな寒い国には『四度』は来ないつもりだ」
謎の男は自分の倍以上の長さがある長柄の得物を振り回し、威圧するようにレオ達に催促する。もうこれ以上話すことはないらしい。
「……ありがとよ」
それだけ言ってレオは恩人を抱えて山を駆け上がった。やがてその気配が完全に消え失せてから男の視線が足跡を追う。
「行ったな」
「ちょっとぉ、なによあの対応? 聞いてないんだけど?」
白い空間に魔力の霧が集中し、本来この空間には存在しない者のヴィジョンを映し出す。遠隔地から魔力を飛ばし実体を投影する術、口で言う以上に高等魔術であり人間の使い手はそうそういない。あくまで「人間は」だが。
「任務を忘れてないかしら。雪猩々を排除しなさいって陛下に言われたんでしょ?」
「だからそうした。もう雪猩々はこの山にはいない。言われた通りに『排除』はしただろ」
「貴方ってそんなトンチっていうか、屁理屈を言うような子だったかしら? あの頃の純粋な貴方はどこに行っちゃったのかしらねぇ」
「お前もわざわざ“影”を飛ばして何の用だ。おれの監視か」
「まっさか! 私はただ前途ある人間と魔物娘の行く末を案じて、ちょーっと覗き見してただけよ。でも杞憂だったわぁ。あの二人が時を経て再び結ばれるのも、そう遠くはないかもしれないわ」
「そうか。おれにはその辺りの機微は分からないから、正直どうでもいい。任務は終了したから、おれはもう帰る」
「ダメよ! 差し当たって、貴方には山狩りを行っている部隊の皆さんに事情説明をする義務があるわ。それが終わるまで帰ってきちゃダーメ」
「……いつか殺す」
「その殺気は大事な時まで残しておきなさい。本国から連絡があり次第、貴方たち『五人』にはすぐにでも動いてもらうから。楽しみにしてるわぁ、貴方の全力をまた見られるその日を」
言いたいことだけ言って大淫魔の影は消えた。程なくして下の方から大人数の気配を感じ、王魔界の使者は面倒臭そうにわざとらしく溜息を吐いた。白い息が空に上がって消える様を見つめながら、ぼそりと呟く。
「ここは相変わらず寒い」
呟きも白い息となって空に散った。
その後、程なくして軍はレオの捜索を打ち切った。表向きには件の怪物に食い殺されたか、山中を遭難し彷徨った末に何処で死したものという見解に落ち着いた。
それから少しして今度は雪猩々の討伐任務も終わりを告げた。理由は、あれだけの被害をもたらした怪物がこの冬を境にぱったりと足取りを途絶えさせたからだ。被害が確認できない以上、軍としてはその行方を追うことは出来ない。検体を期待していた上層部の研究者たちを除き、雪猩々と呼ばれた怪物の話は下火になり、やがてはトンネル工事が再開する頃には噂にもならなくなっていった。
自分が世話をした元孤児を襲った不幸に、誰もが老神父に同情した。あの日、雪山から姿を消した二人の男女がどこへ行ったのかを知る者はいない。
だが不思議なことに神父はそれほどショックを受けた風は無く、時折自分の元に届く誰かからの手紙を読み穏やかに笑っている姿を町の人々が目にしている。
16/01/10 12:06更新 / 毒素N
戻る
次へ