連載小説
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第七幕 力と戦車:前編
 『力と戦車 〜あるいは戦乱の風雲児と梁山の武人のお話〜』










 『力を示せ。貴様が真にこの地を統べるに相応しき器か、この眼でしかと確かめよう。

 我が求めるのは英雄だ。ただの戦士でも、加護を受けただけの勇者でもない。

 貴様が戦士なら敗北に沈め。勇者ならば神の走狗となれ。諸人ならばただ静かに生き、そして死ね。

 だが、もし貴様が自らの魂を燃やし、無窮の輝きを放つ真なる英雄であるのならば……。

 是非もなし、貴様の望みを叶えよう』



 冒険小説『比翼連理紀行』・英雄の巻、第二章『魔霧の狼』文中より抜粋。










 霧の大陸……そこは名の通り、霧に覆われた東方の大地。海流と気団がもたらす温度差と、大陸中に住み着いた魔物たちが発する濃厚な魔力がこの陸を覆う霧の源泉だ。年中を通し霧が包むこの地は古くより西側の人々から魔の地と恐れられ、その不気味さから西方の大国・レスカティエですら手を出せなかったほどだった。その結果、距離としてそれほど離れていないにも関わらず、大陸では独自の文化文明を生む土壌が形成されることとなった。

 まず一番の違いは、人魔の境が無いことにある。魔の地と恐れられていた大陸はその実、旧魔王時代より人と魔物が混在する真性の魔界であったのだ。大陸全土が魔界化して既に数千年の時が経過しており、古くより弱肉強食の理を今に受け継ぐ最後の魔境、それがこの地だ。ヒトの上位種として魔物が君臨した時代から、この地では東方特有のアニミズムと魔物を結び付け、単なる撃滅すべき絶対悪ではなく超常的な力を持った神仏修羅と同等のモノと見なすことで二種族は共存を可能とした。

 それは魔王の代替わりによって更に強固なものとなり、人魔一体となって統治される霧の大陸は西側列強の干渉を完全に遮断、その文化と文明、政治と宗教の一切を寄せ付けない事に成功した。陸を覆う霧は西と東の大陸を分断せしめ、ここに魔王とその娘達が思い描いた人魔の楽園を創造することとなった。

 だが、多くの人々と魔物の予想を裏切り、霧の大陸はその真逆を行った。即ち、安寧は訪れなかったのである。

 霧の大陸では元々、戦乱による国々の興亡が絶えなかった。古来より武を以て天に覇を唱え、力によって地を征服するという天下統一の野望を秘めた者が少なからず存在し、そうした者達が次々と台頭しては凋落を繰り返す歴史が続いていた。その戦乱は旧魔王時代から連綿と続いており、およそ2000年前に「始まりの皇帝」を名乗る男が天地を統べても、結局その死後に国は割れ、以降も力を持った勢力が皇帝・帝王・天子を名乗り戦乱の大義名分を得るという悪しき慣習だけが残った。

 戦乱を求める覇業は新たな魔王が台頭しても変わらないどころか、逆に加速していった。人魔が交わることでより強大な力を手にした、それまで支配や征服に興味すらなかったはずの武人と戦士ですら次々と名乗りを上げ、戦争は収束するどころか逆に拡大の一途を辿ったのである。

 西側列強は手を出さなかったのではない、「出せなかった」のだ。干渉した時に受ける飛び火が利益を大きく上回ると分かったからこそ、彼らは見に徹することを決めた。巻き起こったおびただしい戦火の光は大陸を覆っていた霧をも晴らし、秘められた大陸の全貌を明らかにした。炎と灰と残骸だけの陸地を目の当たりにした彼らは、以後この陸に興る国とは関わりを持たない決意を固めるに至ったのだ。

 こうして海外勢力の介入という横槍を未然に防いだ大陸は一切の懸念を抱かずに戦国の世へと突入していった。相も変わらず国同士は戦を繰り返し、ほんの数年から十数年の休息期間を経てまたそれを繰り返した。

 この世に現れた人外魔境、それが霧の大陸。

 故にこの地に生きる者の中には魔人の領域に片足を突っ込んでいる連中もいる。

 戦わなければ、強くなければ、力が無ければ生き残れないからこそ、生き残った血統は生物濃縮の如く自然と力を手にする。強ければ生き弱ければ死ぬ、自然淘汰の究極形、それが修羅の地たる魔霧の異境に満ちる弱肉強食の理であるが故に、強ければ突出して強く、弱ければ底辺を這いずるが如く弱い。

 もちろん、力ある者が常に戦乱を起こし弱者を虐げる側だったわけではない。中には仁義八行に通じる義侠たちの活躍もあって平穏がもたらされた時代もあった。だがこの地に生きる人間の気質がそうなっているのか、やはり平和は長く続かずすぐに逆戻りしてしまった。

 そうしたことが幾度か続いた後、賢明な彼らはいつまでも変わらない俗世に嫌気が差すと同時に、自分達がしていることの無意味さを悟って、人里離れた奥地へと身を隠すように移り住んだ。二度と騒乱とは関わりを持たずに済むようにと。

 それらの者達が最終的に身を寄せ集まったのが、地元では梁山と呼ばれた山々。そこに構えられた居とそこに住む武侠の彼らを人々はこう呼んだ……

 「梁山泊」と。

 多くは武を修めた者達が集った場所故か、初めは数人から始まった梁山の集団は同じ境遇の者達によって次第にその生活圏を広げ、やがては武を志しその道に生きる全ての者の聖地と崇められるようになった。

 東方世界における武術の源泉はその大半を霧の大陸に見出せる。拳法、剣術、槍術、棒術、弓、斧、鞭から投擲に至るまで、後に極東に受け継がれ変容したものを含めればそのバリエーションは多彩に富む。戦乱が絶えなかった土地だからこそ、自衛あるいは敵の速やかなる撃滅の為にそうした技術が急速に発展したのだ。既に体系化された流派と呼べるものだけでも数百種存在し、それらを修めた達人ともなれば一撃一撃が絶死を内包した魔人の拳となって振るわれる。

 更に新魔王の台頭により人型へと変化した魔物たちも、そうした武術を習得するようになった。有名どころではレンシュンマオの棒術、火鼠の徒手空拳、カク猿の酔拳、変わり種ではキョンシーの毒手などがある。彼女らは総じて自分より強いオスを伴侶として選ぶ傾向にあり、そうした理由から梁山泊の人口は徐々に増えていった。

 梁山泊は山全体を一つの集落とし、時に武門や流派同士の決闘はあれど、日々を平和にそしてその時間を技の研鑽に捧げ、静かに暮らしていた。

 いつしか、俗世で起きている混乱には目も向けずに……。





 梁山泊には達人と称される三十六の武人と、その直接の教えを受け継ぐ七十二の門弟、計百八の武闘家が存在した。皆優れた武術の使い手であり、それぞれの実力は伯仲、甲乙付けがたい好漢たちの集まりだった。

 その中において一人、突出した強さを持つ達人がいた。

 「勁とは、気に非ず。勁を効率よく発する為に筋肉を鍛えることは、全く無意味という訳でもないが的を外しているのも事実だ」

 そう言って拳を突き出し演武の型を披露する女性。山の麓に住まう子供達に時折こうして武を教えており、今日も彼女の周りには二十人ほどの童が押し寄せ神業を目に焼き付けていた。

 固い地面の上をまるで流水に身を任せる木の葉のように軽やかに足を運び、その緩やかな動きから一転、突き出す蹴りや拳は何もない虚空にまるで鉄砲のような音を響かせた。

 「例えば、ここに石がある」

 拾い上げた石は大人の顔ほどはあり、もう一回り大きければ岩と言っても差し支えないサイズと重さがあった。それを子供たちに見えるよう足元に転がし、適当にその一人を指さした。

 「ではそこの少年。これを素手で割ってみせい」

 「え、む、無理だよ!」

 「そうだ。無理だ。こんなものを殴れば手をケガするし、指も折れる。これが木の板なら割れるかもしれないが、それでも一ヶ月は手に包帯を巻き付ける事になるだろうの」

 どれだけ鍛えようと肉は肉、骨は骨でしかない。枯れ枝よりは丈夫だが所詮それまで、己より硬きものに後先考えず渾身の力を込めて殴りかかれば、痛い目を見るのはこちらだけとなる。

 「ならば『殴らなければいい』」

 すっと拳が石に触れた。勢いよく振り下ろすのではなく、握った拳骨でそのままそっと接触するだけ。およそ武術とは程遠い、攻撃にもなってない動作に童たちは不思議そうに首を傾げ……。

 次の瞬間、石が粉微塵に爆砕したことで驚愕に染まった。

 「力は骨より発し、勁は筋より発する。末端から末端への衝撃の推移、これこそが拳法における勁の基本にして真髄よ」

 言わば作用と反作用、体内もしくは体外で発生させた力の流れを末端へと移動させ発散させる技法、これを発勁と言う。最小の動きで最大のダメージを相手に与える技術であり、その性質上から主に拳法に取り入れられている。見た目には摩訶不思議な妖術の類に見えるだろうが、これは歴とした武術であり、魔力を用いずとも人体が硬きものを撃滅できる証左でもあった。

 これを極めれば俗に言う寸勁、接触して完全な静止状態からの衝撃伝導による攻撃も可能となる。わざわざ手足を加速させて打つなどと大仰な真似をせずとも相手を打倒できるのだ。

 「うわー、すげー!!? もっかい、ねぇ、もっかいやってよ!!」

 「ぼ、ぼくにも出来るようになるかな!?」

 「無論、鍛錬を積めば出来ぬこと等ないだろう。ヒトの持つ可能性は無限、お前達が怠惰にかまけることなく精進すれば……」

 武の一端に魅了された子供達が目を光らせ、彼女に更なる技の披露をせがんだ。女武人は大勢の子供らに取り囲まれて、少し困ったような笑みを浮かべながら、まずは簡単な型の構えから教え始めた。

 彼女の名は「レイファ」。百八の達人の一人にして、武侠の聖地梁山で最強の一人と称される武の頂である。梁山泊始まって以来の至高と謳われて久しい腕を持ち、その実力は他の107人を順番に休みなく相手取っても勝ち抜けると言われていた。

 レイファは人間ではない。梁山に住まう多くの者と同じように武術を志す魔物娘で、種族は人虎。獣の四肢と鋭い爪、そして強靭な心身を兼ね備えた天下に比するものの無い完成された武闘種族、その一等星が彼女だ。

 武術にあっては大陸のほぼ全てを修め、こと拳法に至っては北派の太極及び少林から、南派の洪家や詠春、その他にも虫魚禽獣の動きを取り入れた多種多様な象形拳に至るまで、およそ四肢を用いた徒手空拳の類全てをマスターした、史上稀に見る空前の達人……それが「華咲く雷」、「神虎」と称賛されしレイファという存在なのだ。

 「わっぱ共、今日私が教えたことを忘れるでないぞ。武は術、術は基本からだとな」

 「はーい! さよーならー、レイファせんせーい」

 週に二回ほど、彼女が麓の村に住まう子供達を相手に武術の稽古をつけている。いつ戦火が広がるか分からない昨今、いかに梁山の好漢が精鋭揃いとて無辜の民全てを守り通すことは出来ない。ならば己の身を己で守らせればと、一念発起したレイファが少しでも彼らの身を守る術になればと教え始めたのがきっかけだ。戦場ではやはりか弱い女子供から死んでいく、それだけは何としても避けたいと願うのは仁義に通じる者なら当然の考えだった。

 子供の学習速度が早いことを知るレイファは、彼らが次々と技を吸収する様子を見るのが何よりの喜びだ。武術に限らず何かに打ち込む者の姿は見ていて眩しく、そして滾る熱さがあった。それを感じられるだけで満足できる、レイファは根っからの武人であった。

 「ねー、せんせー」

 「うん、どうした?」

 「うん。あのね、えっとね……」

 皆がそれぞれの家に戻る中で一人、子供がレイファの前にやって来た。呼びかけたのはそちらなのに切り出す様子がなく、何故か周りをキョロキョロと忙しなく見回す姿に内緒話をしたいのかと、しゃがんで目線を合わせる。すると子供はそっと耳打ちするような仕草をして、レイファにこう聞いた。



 「なんでせんせーは、お手てが片方だけなの?」



 子供の視線はレイファの右肩、本来ならあるべきはずの腕の付け根に向けられていた。腕が通っているはずの袖はひらひらと風になびき、明らかに左腕と違うそれを不思議に思ったのだろう。

 「うん? あぁ、これか」

 指摘されて初めて気付いたような気軽さで、レイファが服の裾をめくって中身を見せる。やはりあるべき腕はどこにも無く、黄と黒の縞模様の毛皮に覆われた腕は肩口から先が綺麗さっぱりと無くなっていた。

 「これはな、昔どこかで落としてしまったのだ」

 「なくしちゃったの?」

 「ほんの六年前まではくっ付いていたんだが、ちょっと目を離した隙にポロリとな。今頃はどこを転がっているのやら」

 「ぼ、ぼくの腕もなくなっちゃう?」

 「ハハハ、お前は大丈夫だ! さ、要らぬ心配はしなくてもよい。腹が減ったろう、早く帰るといい」

 いたずらに怯えさせてしまった子供の頭をわしわしと撫でて送り出す。健在な左手を振ってその後ろ姿が家に入るまで見送った。

 「我ながら、もう少しマシな嘘はつけんかったのか」

 ふっと自嘲の笑みを口の端に浮かべ、レイファは梁山の帰路についた。

 デュラハンやリビングドールじゃあるまいし、腕や脚がそうそう簡単に抜け落ちたりするものか。文字通りの子供だまし。そんな三流の嘘を吐かねばならないのは、レイファにとって自身の右腕にまつわる記憶が苦いものでしかないからだ。

 「腕のことを尋ねられるのは癪か」

 山道を行く途中で唐突に出くわしたのは一人の老人。顔や手足は皺くちゃで、ほとんど直角に曲がった背を杖を突き、険しい梁山の山道には場違いな高齢者だ。

 だが老人を前にしたレイファはそれに傅き礼を取る。そして苦笑しながら言った。

 「盗み聞きとは良くなかろう、老師」

 「ほっほっほ! 人聞きの悪い。聞こえてしまったんじゃから仕方なかろうて。この歳になって最近ますます耳が良くなってな」

 「それはそれは、ご健勝でなにより」

 人の良い笑みの好々爺。彼こそはこの梁山における最年長者であり、全ての武人の頂点に輝く武聖、この梁山泊の長老その人である。

 御歳二百、魔物との交わりや魔物化によって寿命を伸ばす者は数あれど、純粋な生命力だけでここまでの長寿を実現したのはこの老人以外にはいない。それは即ち、彼が長年気功や煉丹などで己が身を鍛え続けた賜物であり、この皺だらけで背骨が曲がった五体には二世紀に渡り築き上げた武の全てが詰め込まれている。実力、経験、素質、全てにおいてレイファの遥か格上を行き、梁山全ての武人を導く師範である彼を恐れ多くも自分たちと同列には出来ないと、至高の百八星の中にすらその名を刻むことが無かったほどの傑物だ。

 当然、梁山一の古株である彼は何故レイファの右腕が無くなったのかも知っている。

 「何も知らぬ童の申すこと、何を癪に思うことがありましょう」

 「ふむ、ならば恥か? 己の一部を失ったことを未だ悔やみ、恥じておるのか」

 「恥など……」

 「無いと? では何故あの童に真実を言わなんだ。後悔も無い、恥辱も無いと言うのなら、何故下手に隠し立てすることがある? それはな、レイファよ、おぬしに後ろめたく疚しい気持ちがあるからであろう」

 老師の諭す言葉にレイファも押し黙った。彼女自身、自分の内なる影を全て自覚している訳ではない。自分の全てを弁えた気になるには彼女は若い。少なくともこの老師よりは。

 「堂々と言えば良いことだろうに。『一番弟子に千切り取られた』とな」

 「っ!」

 レイファが顔をしかめる。それは図星を突かれた不快からではなく、不意にかつての右腕があった場所に痛みを感じたからだ。

 幻肢痛、既に存在しない部位が痛みを覚えること。レイファは自らの過去に触れられる度に、失った右腕が猛烈な痛みを訴える。まるで責めるように、忘れることは許さないとでも言うように、あの日受けた痛みが今もそこに張り付いて剥がれないのだ。

 「痛いか、苦しいか。じゃがそれがおぬしの今の姿じゃ。自らの業で自らを得る、自業自得とな。あの日、儂の忠告を素直に聞き入れておれば……」

 「済んでしまったことをあれこれ言ったところで詮無きこと。私には、なぜ老師が今になってそのような事を仰るのか、真意が分かりませぬ」

 「無論、儂とてケチ臭く過去を掘り返すことはしたくなかったわい。じゃがのぅ、そうも言うておれんようになった」

 「と、言いますと?」

 「うむ、心して聞け」

 老師が言葉を区切って話す時、それは大抵厄介な出来事の前触れや、こちらが聞きたくない事を口にする時と相場が決まっている。かつて同じことがあったと思い返しながら、果たして今回はそのどちらになるかと身構えるレイファ。

 だが彼女の予想は外れる事になった。

 「『餓狼』が戻ってきた。既に三つの村が焼き討ちにあっている」

 厄介な事と、聞きたくない事、どうやら今回はその両方だったようだ。





 弱者が全て死すべき宿命にあるとは限らない。蟻はたった一匹では最弱だが、何千何万という軍勢となれば巨像ですら為す術なく地に伏す。他でもない人類自体がそうした弱者の寄り集まった姿であり、突出した強者は全体から見ればほんの一摘みでしかない。

 弱者が生き延びる唯一にして最大の策、それは「群れる」こと。そうして群れを成し、自分たち以外の更なる弱者を食い物にする事だ。極論、国家という存在そのものが「弱者の群れ」であり、三角構造の頂点に位置する連中は皆須らく「弱者を搾る弱者」でしかない。かの『強欲』が聞けば唾を吐き捨てるだろう、醜悪にして実直なまでの人間の本質がそこにある。

 そして、その現象は戦乱で疲弊した霧の大陸でも顕著だった。故郷を追われ職に溢れた根無し草が行き着くのは、山賊に海賊といったならず者の巣窟だった。真っ当な手段では稼ぐことはおろか自衛もままならない。ならば一つ所に寄り固まり暴力という鎧を身に纏うことで他人から収奪するより他に方法はなかった。

 結果、大陸の至る所で盗賊が徒党を組んで村々を荒らし回るようになり、その中には小国に匹敵するほどの勢力へと成長を遂げた者達もいた。それはつまり彼らがただの烏合の衆などではなく、一国の軍隊に匹敵する軍事力を身に付けるほど統率された集団という明白な証左だ。

 『豺狗団』と名乗る賊がまさにそれだ。ここ数年でメキメキと頭角を現すようになった盗賊の一派であり、内訳は二十人にも満たない少数精鋭でありながら、「山犬の如し」と恐れられるほど厳しく統率された動きで標的を襲い、州兵が駆けつけた時にはもぬけの殻という恐るべき連中だ。その多くにおいては軍や官憲の手から悉く逃れており、少数精鋭の強みを生かした電撃作戦を得意とする。

 迅速を尊ぶ彼らの獲物は行きずりの商人や旅の者などと小さな話ではなく、必ず自分達より多くの人間を、つまりは村や町を狙っている。これまでに幾十もの村々が襲撃にあい、その全てにおいて最後は火を放ち全てを焼き払っている。彼らが襲った後には草一本残らず、死骸すらも両脚羊(食用の人肉)として売り捌いたと言われており、顔と名前が割れている全ての者が周辺国含めて高額の賞金首に指定されているほどだ。

 だが彼らの恐ろしさは首に掛けられた札の額ではない。過去の一度、盗賊狩りを主任務とする州兵が彼らと交戦した記録が残っているのだが、結果は州兵の惨敗に終わった。百数十名の州兵が、たった二十人足らずの賊に返り討ちにされたのだ。奴らを討ち取るどころか有効な損傷一つ与えられず、数の有利を覆され、しかも正面から、文字通り手も足も出せないまま敗北を喫したのである。

 構成員それ自体は特別強いわけではない。統率のランクは有象無象の野盗より確かに優れておりそれに翻弄されたのは事実だが、あくまで集団戦術がそうであるというだけで、個々人の武威そのものは特に脅威ではない。事前調査でそのことを把握していた州兵は、本来なら大人数で取り囲み各個撃破という堅実なやり方で勝利を収めるはずだった。

 だが逃走ルートを先回りして対峙した瞬間、奇しくも最初に接触した先遣隊は皆同じ感覚を覚えたという。

 寒気、吐き気、冷や汗。それら全てが恐怖感情より派生した生理現象と気付いたのは、それから半刻も掛からなかった。

 春夏秋冬、一年のほぼ全てを厳しい訓練と任務に費やした兵士たち。振るう武器は剣に槍に弓矢、投石、遠方から仕入れた鉄砲まで持ち出しての大捕物。負ける要素など万に一つもあるはずがなかった。

 その彼らの奮闘は、豺狗団を率いる首領によって完膚無きまでに踏み潰された。

 敗走した百数十名の内、およそ三割はその首領単身によってもたらされた被害である。古の武者を天下無双と言い表すが、生き残った兵士らはそれを否定する。

 「ありゃ獣だ……人間じゃねえ、おら達はヒトの皮被ったケダモノを相手にしてたんだ! 勝てるわけがなかったんだ!!」

 曰く、「獣人」。

 曰く、「鬼」。

 曰く……「餓狼」。

 豺狗団を率いる頭目は、人間ではないともっぱらの噂だった。





 「どうにも、オレの言ったことを理解できてねぇ輩がいるみたいなんだよなぁ」

 ニヤニヤと下品な笑みを浮かべるならず者の集団、その中心となる場所で男は滔々と語り始める。彼らが陣取る場所は、つい昨日までは人々が生活を営んでいた川沿いの村だ。今はもう誰もいない。住民は全て男率いる盗賊団が一掃した。

 「オレがオマエらの頭になる時、オレは何て言った? 覚えてる奴手ぇ挙げてみな、はーい?」

 年齢は十代後半、老けて見ても二十になったばかり。恐らく行商人から強奪したであろう上物の布で出来た衣服を身に纏い、身長はそこそこだが体格は幾重にも重ねた服とは対照的に痩せており、ともすればまるで老人のような細い腕をダラリと下げながらゆらゆらと歩く姿は、さながら幽鬼の如き不気味さを有していた。

 ボサボサ頭はすっぽりと目線を前髪が覆い、見えるのは喋る口元だけ。しかし、口は常に歯を剥き出しにした凶暴な笑みを浮かべ、覗いた犬歯の鋭さがその猛悪さに拍車を掛けていた。

 男の軽い問い掛けに律儀に全員が手を上げた。とは言え、彼らとてノリの良さだけで付き合っている訳ではない。ここでふざけたりおどけたりすれば、その瞬間にそいつの頭が「破裂」すると知っているからだ。

 「豺狗団、鉄の掟その一ぃ! はい唱和ぁ!!」

 「「「「獲物は平等に! 取り分は山分け!」」」」

 「ケガした奴は安心しろ、薬代ぐらいは出してやる! 豺狗団、鉄の掟その二ぃ! せーのっ!!」

 「「「「仲間の持ち物を奪えばぶっ殺す!」」」」

 「ただし賭け事で勝手に儲けた奴から没収する時は別だ。はい、そのさぁん!」

 「「「「降伏した奴、寝返った奴もぶっ殺す!」」」」

 豺狗団は非常に統率の取れた賊で知られるが、その裏には頭目である男が課した厳格な掟が存在するからだ。たった今述べ上げた三つ以外にも、およそ十数項目にも及ぶ掟や戒律があり、それを遵守しない者は粛清することが認められている。「仲間内での賭博禁止」や「武器の手入れの義務付け」、「阿片の使用・売買・譲渡・所持の厳禁」と言った真っ当なものから、「消灯時間の順守」、「朝の挨拶の習慣化」など日常の些細なことまで事細かに定められる徹底ぶりだった。これらはどれか一つでも破れば厳罰に処される。即ち、死を以て償わせる。これ以上重い掟は同規模の盗賊団でも滅多に無い。

 たった一度でも破れば死刑、その結果豺狗団は男の台頭と同時にその数を一気に減らし、現在の少数精鋭に落ち着いた。

 「ピンポン、ピンポン! 大せーかい!! オマエらほんと大好き、愛してる! ま、毎朝全員で声張り上げるのが日課だもんな。覚えてなきゃ変だわなぁ」

 だがそれは言い換えれば、ここにいる者達は骨の髄まで新たな頭目に心酔しているということだ。頭が白と言えば白で、善と言えば善、どんな無理もその鶴の一声で道理に受け取ってしまうほど教育されており、男の命令一つでここにいる全員で殺し合うのも厭わない。かつて無秩序だった一介の名無し盗賊団は、男の手によってトップの命令は絶対を旨とする山犬の集団へと変貌したのだ。

 「でも……おっかしーなー。ここに一人、オレの言ったことが理解できない奴がいるなー。誰だぁ? そんな仲間外れはぁ?」

 男のわざとおどけた物言いに、野盗たちの下品な笑い顔が更に卑しいものに変わる。

 「なあ、そこのお前? そう、お前だよお前! なあ、なあって!」

 「ひぃ……!?」

 その中心で小さく縮こまって怯える一人を除いて、だが。

 標的を炙り出した周囲は一斉に道を開ける。聖人が海を割った異国の伝承の如く、遮るものの無くなったその中を頭目が悠々と足を運び、顔面蒼白のそいつの前までやって来た。

 「んーっと、オマエは確かつい最近入った新入りくんだったっけかな? えーっと名前は……いや、いい! やっぱいい! どうにもオレは人の顔と名前を覚えるのが苦手だからな。うん、自己紹介はいいわ」

 ぶっちゃけここにいる奴の半分ぐらい名前知らないし、と口にしながらまるで往年の友人にするように肩に腕を回し抱き寄せる。一見すれば断金の契で結ばれた友人同士だが、その片方は呼吸困難でも起こしたように顔は蒼を通り越し白くなり、冬でもないのに全身がガタガタと震えを起こしていた。

 「なあ、お前どこの田舎の出身だったっけ? 前に聞いた?」

 「じ、実家は小さな漁村で漁師を……」

 「あ、そう。じゃあ、お母ちゃんとか結構な肝っ玉さんだったりするのか」

 「へ、へぇい! 小せえ頃はよく頭をぶん殴られやした」

 「そりゃイイ。悪いことをしたらちゃんと叱ってくれる、イイお母ちゃんじゃねえの。父なし母なしのオレからすりゃあ羨ましい事この上ないねぇ! 精々お母ちゃんを大事にしてやんなよ」

 「はぁ、はい!!」

 「じゃあ次の質問なんだが……」

 詰問される男の肩に頭目の指が食い込む。メキメキと耳を覆いたくなる音を上げて鎖骨を軋ませるそれは、もはや人間の指ではない獣の牙に匹敵する圧力を隠しもしなかった。

 「あ、ぎがっ!!?」

 「おい、どした? 体の調子でも悪いのか? ん?」

 「あ、足が……足が、勝手に!?」

 鎖骨をへし折る強さで押し込まれる指だが、掛かる圧力は純粋に指の力だけであり、肩に直接体重を掛けて押さえ込むことはしていない。にも関わらず、食い込む指の力がまるでスイッチを押したかのように、男の両膝は脳髄の命令に逆らって地面に近付いていった。

 「そうそう、気分が悪いなら座れや。なにせ……これからミッチリとテメェには聞かなきゃいけない事があるんでなぁ!」

 「ひぃぃい!! すん、すんません!! すんませ……!!」

 「何がすんませんだ、言ってみろゴラァ!!! な・に・を、謝ってんだァ!!」

 頭の怒号が廃村に轟いた瞬間、その五指がついに男の肩の肉を抉りとった。万力のような、という比喩は飽きるほど聞くが、実際のそれを可能とする握力と腕力がここに存在し、それが人間の手によってもたらされた事それ自体が驚愕に値する。

 「ぎゃああああああああああぁぁあぁああ!!!?」

 獣に噛み砕かれたような傷口から間欠泉となって血液が迸る。断面をよく見れば鎖骨ごとへし折られており、頭目の異常なまでの怪力を雄弁に物語っていた。

 「よーしリフレッシュできたトコで、もう一回質問だ。ちゃんと答えろ、嘘は言うなよ? オマエの媽媽(ママ)は嘘ついたら閻魔さまに舌をぶっこ抜かれるって教えてくれたよなぁ?」

 「は、はひ……!」

 「声が小っせえんだよッ!! テメェの歯ぁ顎骨ごとブチ抜いて、一本ずつ丁寧にチンコの先に詰め込まれてぇか! ア゛ァ!!? イヤなら返事しろ、返事ィ!!」

 「はい、はいぃぃいい!!」

 抉られた肩の痛みなどとっくに忘れ、バネの壊れた人形のようにブンブンと首を縦に振り続けることでようやく怒りが収まったか、ボサボサ頭を掻き上げて鼻息が掛かるほど顔を近付け詰問を再開する。

 「よーしよしよし、そんじゃ仕切り直しだ。いいかぁ、嘘ついたら殺す。黙ったら殺す。言い淀んだり吃ったりしても殺す。こっちの質問にちゃあんと、正直に、てきぱきと答えるだけでいい。安心しろって、そんな難しいことは聞きやしないからよ。じゃあ最初の質問だ…………オレらを売って生き延びられると思ってたのか?」

 「っっ!!!?」

 事実確認などとうに飛び越えて切り出された問い掛けに、男の心臓が凍り付く。だが沈黙は許されない、答えを返さねば死ぬ。しかしこの質問に対し嘘偽りなく答えるということは、男の命運がここに尽きることを意味する。

 早い話、この男は裏切りを働いたのだ。豺狗団の動きは正確かつ迅速、盗みも殺しも襲撃から最短で十分以内に全てを終わらせてしまう。そんな連中を通報があってから取り締まるなど不可能、必ず取り締まる側は後手に回らざるを得なくなる。

 だが今回のヤマは違った。獲物を見定めた賊はその手前で州兵と遭遇した。事前の調査で州兵がその場所を巡回する事は有り得ないはずだったのにだ。それに戦っている最中に感じたことは、どうやら相手にとっては偶然の出会いではなくここで相対する事を前もって知り得ていたような迅速な対応だった。つまりそれは、盗賊団の中に身内の情報を売り渡した裏切り者が潜んでいる事に他ならない。

 「金か? 女か? それとも何だ、今更になって仏心起こしたとか、そんなお涙頂戴の改心話か?」

 「つ、次の襲撃場所を教えれば……お前だけは見逃してやるって……」

 「は? 何そのクソつまんねぇ理由。は? え? じゃあ何か、テメェは自分一人が足洗いたいが為にオレらを売り飛ばそうとしたと……。かぁーっ、つまんね! 金ならまだいい、誰だって自分だけ儲けたいからな。女もいい、美人を侍らせんのは男の夢だ。でもよ、それはねーだろ。今までさんざ悪いことしておいて、いち抜けする理由がてめえの保身って……ないわー、マジでないわ」

 心底つまらないものを見させられたとでも言うように、芝居掛かった乾いた笑みを浮かべ大袈裟に肩を竦めて見せる頭目。同意を求める視線に他の仲間たちもわざとらしくブーイングを垂れ、自分達の首領が下す処遇を今か今かと興奮した面持ちで待ち望んでいた。

 「オマエのせいでオレらは官憲どもとクソ面倒な追いかけっこをさせられた訳なんだが? そこんトコどうよ? あ?」

 「すい、すいませっ……! 許してくださいぃぃ!!」

 「許すよ」

 「何でもしま…………へ?」

 一瞬、聞き間違えたかと間抜けな顔をしたのは詰問されている一人だけでなく、周囲の男達も同様だった。頭目の移り気な性格を知ってはいるが、今まで裏切りや嘘偽りを許したことは一度もないのを知っているだけに、皆が意外さを隠せていなかった。そんな周囲の反応など意に介さず、頭目は静かに続ける。

 「許してやるよ。オレも気付いたのさ、締め付けるだけじゃ人はついてこない、適度に緩くしてやらねーとなって。そりゃこの時世だ、信じられるものが無くなって我が身可愛さに走るのは分かる、いや充分に分かる! オマエはなんにも間違った事はしちゃいない、悪いのはオマエにそうさせたオレ達の不甲斐なさだ。スマン! オマエ一人に辛い思いをさせたなぁ……許してくれ」

 「か、頭ぁ俺は……!」

 「てなわけだ。さっきからこそこそしてるそこのオマエ、いい加減出てこいよ。こっちは話終わったぜ?」

 ここでようやく、周りの賊たちもこの場に足を踏み入れた侵入者の存在に気が付いた。最初からそれに気付いていたのは頭目ただ一人、それは向こうも察していた。

 「流石は音に聞こえた盗賊団の首領ね! イイ勘してるじゃない!」

 廃屋となった民家の影から現れる乱入者。周囲は焼き尽くされ灰と炭だけ、その張本人である百戦錬磨の盗賊団を前に恐れを知らず飛び出したのは、全身を赤い装飾に身を包んだ見るからに勝気そうな少女だった。男所帯で日々を送る団員たちは思いもよらぬ珍客に、口笛まで吹いて囃し立てる。

 唯一、頭目を除いては。

 「勘が良くなけりゃ、こんな連中の手綱は握れないんでね。そんで、お嬢ちゃんは何の用なのよ。ここは道場じゃないんだ、他流試合ならよそでやんな」

 「へぇ、その口ぶり……わたしが何なのかお見通しってわけ」

 「ああ、分かるぜ。テメェと同じ臭いを昔潜り込んだ家の屋根裏で嗅いだ事がある。ありゃ何だったかな〜、暗くてよく分かんなか……ああ! 思い出した思い出した! 糞だ、ネズミの糞みてえな臭いがするぞオメェ!! 火鼠ってのはテメェのケツも満足に拭けねーのかよぉ! ギャーハハハハハハッ!!!」

 「あんたぁ……!!」

 逆鱗を容赦なく逆撫でされた少女が激怒し、その四肢に炎が灯る。四大や四元素に通じた魔物は数あれど、実際に炎それ自体を武器として用いる魔物は霧の大陸ではこの火鼠しかいない。ネズミなど矮躯と侮るなかれ、彼女らの高機動から一転し放たれる打撃は的確に急所を打ち、そこへ炎熱の類焼も加わる。インファイトの近接戦においては最難の一つと数えられる武闘種族だ。

 そんな相手を小馬鹿にした頭目だが、本気になった彼女を前にしても態度は変わらなかった。いやむしろ、怒髪を逆立たせる様子を見て手を打って喜んでいた。

 「おぉ怖ぇ怖ぇ! そんな拳骨にぶん殴られでもしたら、オレ死んじまうよ!」

 「問答無用よ! 罪もない人々の命と財産を奪う卑劣漢たち、このわたしの正義の鉄拳で……!」

 「御託はいいから、来るならさっさとしろよ。わざわざ名乗らないと自慢の拳を振り上げるお題目にできないってか。正々堂々がモットーの正義の味方は言うことはご立派だが……」

 「せぇぇぇいいっ!!!」

 これ以上挑発で耳障りな言葉を発する前に、飛び出した火鼠は一瞬にして盗賊団の懐へと飛び込んだ。地上の一条の流星と化した少女は他の賊には目もくれず、ただ一直線に頭目を捉えようと拳を振り上げる。僅か刹那の出来事、誰もその動きを目で追えず、自分の脇を風が通り抜けたような錯覚を覚えさせるほどの速度だった。

 そしてその速度を保ったまま減速せずに拳を突き出し、己の全体重と速度を掛けて頭目の腹に拳を直撃させた。

 「もらったわ!! 豺狗団の首領、討ち取ったり!!」

 炎熱の力など使うまでもない。悪を許さない全身全霊の一撃、それを無防備に受けたとなれば肋骨は砕け散り内臓はボロボロ、突き抜けた衝撃は背骨もろとも体幹を破壊せしめたという確かな手応えを火鼠は感じていた。今までに幾人もの盗賊を打倒してきた自分にとって、所詮悪名高いこの男もそうした有象無象の一人に過ぎなかったのだと少女は確信した。

 体表を打った拳の衝撃は五体の末端に至るまで伝導し、それが全身を隈なく蹂躙した時────、



 頭目の後ろにいた団員の腹が破裂した。



 「ふ、…………ぎょ、ら……!!」

 「え?」

 まるで水風船のように、一瞬膨らんだように見えた後に男の腹は爆裂して内臓と血の混合物を前面にぶちまけた。その男は、つい今しがた頭目が詰問していた裏切りを働いた団員であった。

 どちゃり、と血溜まりの中に倒れ伏す体。指がピクピクと痙攣しているが、もはやそれは神経の電気信号の混線以上の意味を持たない。飛び出した内臓や腸はまるで体内で爆弾を炸裂させたように細切れになっており、ガワと肋骨だけが綺麗に残った死骸はまるで、魚の開きを思わせる様を呈していた。

 一体何が? どうして? そんな疑問が火鼠の脳裏を埋め尽くす。だが何が起きたか分かっていないのは彼女だけだった。

 「いやぁ〜、素晴らしいもんだ! 武の真髄、確かに見させてもらったよ! はい、今の大技に感動した奴、拍手ぅ!」

 「は? いや、何を……?」

 ぱらぱらと起こる拍手に火鼠の混乱が更に加速する。だが頭目は更に追い討ちをかける。

 「『隔山打牛』、なかなか出来ることじゃない。拳の力を打ち込んだ相手じゃなく、その後ろにいる奴に作用させる高等技術……感動したね、久々にいいものを見られた。この国の武人もまだまだ捨てたもんじゃないな!」

 「いや、違っ! わたしじゃ……!!」

 「オマエだよ、何言ってんの? オマエが、こいつを、殺しちゃったの。分かるかなぁ? オマエは自分の武を見せびらかしたいが為に、うちから足を洗おうと州兵に密告までした勇気ある青年を……殺したんだ。オマエのせいだよ。つーわけでだ……」

 すっと火鼠の胸元に伸ばされる手。獣欲をまとった卑猥さなど欠片も無く、握り拳から僅かに突き出された中指の関節がそっと触れるだけの接触。

 「あ……」

 それが無防備に晒された懐に接近した頭目の腕と気付いた時にはもう……遅かった。ここは既に奴の射程圏内だ。

 「『お返し』だ、受け取っとけ」

 指が僅かに胸元に沈み……。

 火鼠の体は廃村の外れまで吹っ飛ばされた。

 「おーおー、飛んだなぁ! 見たか、新記録ぅ!!」

 運動量、作用反作用、力学、その他諸々の物理現象全てを無視したような動きに、盗賊たちは驚くどころか拍手でそれを讃えた。それはつい今しがた火鼠が武技を披露「させられた」時とは比べ物にならない、満場の喝采だった。

 「親分、拾って来ましたぜ!」

 「ん、ごくろーさん。女を殴っちゃいけねえと教えられたオレだが、そっちから仕掛けてきたことだ。悪く思うなよ」

 「なんで……」

 「何についての疑問かは知らねぇが、テメェの敗因は唯一つ、このオレを嘗めたことだ。盗賊団なんて卑劣な連中を率いている男なんざ、どうせ下っ端を顎で使うぐらいしか能がない貧弱モヤシ野郎とでも思ってたんだろ? アテが外れて残念だったな」

 「くっ!!」

 「おーっと自慢の炎は出さない方がイイぜぇ。さっきテメェに勁を打ち込んだ時に、ついでだから全身の経絡秘孔の繋がりもぐちゃぐちゃにしておいた。無理に炎を出そうとしたら内臓がコンガリ焼き上がるぜ?」

 経絡は魔力や気の通り道、秘孔とはそれらが結節し魔力を体外に噴出する部分。どちらも武術を齧ってチンピラに毛が生えたような輩がどうにか出来るものではないし、そもそも経絡秘孔を叩く技の使い手が少ない。しかもそれを教えるほどの腕となれば、この大陸でそこまでの使い手が集う場所は限られてくる。

 「まさかあんた、あの梁山泊の……!!」

 「さてと、話は終わりだ。おい! 適当に水ぶっかけておけ。絶対にこいつを乾かすんじゃねぇぞ。それさえ守れば、そうだな……後は好きにしろ、煮るなり焼くなり、抱くなりな」

 「なっ! ちょ、ちょっと待ちなさいよ! わたしをどうしようっていうの!!?」

 「ごちゃごちゃうっせぇな。テメェはこれから豺狗団共有のオモチャだ、飽きるまで遊び倒してやる。野良犬に手を噛まれたと思って諦めな。連れてけ」

 「いや……いやっ、イヤァアァアアアアアアアアアアアアーーーッ!!!」

 金切り声は少しずつ遠くなり、適当な廃屋に火鼠の少女は連れ込まれていった。これから数時間に渡り彼女は男共の慰み物にされた挙句、どこか適当な奴隷商人に高値で売りつけられるのだ。従順という言葉を知らない火鼠の心を完全に叩き折ったとなれば、いくら吹っ掛けても商人は喜んで金を出すと踏んでの判断だった。

 恐るべきは所業にあらず。真に恐ろしいのは、大陸でも一、二を争う武闘派種族である火鼠に対し怖気付くどころかそれを返り討ちにしたということだ。しかも相手の全力攻撃をその身に受けておきながら、謎の術でそれを無効化し、これまた謎の術で容易く捻り潰して見せた。武術など素人に毛が生えたぐらいにしか知らない他のチンピラにしてみれば、この頭目の使った技が何らかの妖術に見えたとしても不思議ではない。

 だがあの火鼠が口にした言葉を、一番近くにいた一人が耳にしていた。

 「お頭、梁山泊って……あの梁山泊でやすかい!?」

 「他にどの梁山泊があるってんだ、教えてくれよ」

 「ひやぁ、すんげぇや! 前々から強ぇ強ぇと思っちゃいたが、武の総本山で鳴らしてたとは驚きだ!」

 「別に鳴らしたってほどじゃねぇわな。適当に訓練して、適当に試合して、んで適当に山を下りただけの話だ。もうあの山に篭ってても得るものが無かったんでな。だが、ひとつだけオレが得たものがある」

 「なんすか?」

 興味津々の部下に気を良くした頭目は、再び牙を剥き出しにした笑みを浮かべこう言った。

 「この先大陸の歴史に刻まれるオレの偉大な名前だ」

 山犬の集団に一匹だけ混じった真性の猛獣、人は彼をこう呼んだ……。



 「豺狗団頭目、『餓狼のリンシン』だな」



 今日はやけに来客の多い日だと、頭目のリンシンは声のした方向に目を向ける。いかにも気怠いという態度のそれは、自分を脅かすものがこの世に存在しないことを知っているようであり、実際その事実を弁えているからこその傲慢だった。

 しかし、声の主を発見したリンシンの表情からこの時初めて笑みが消えた。単に獲物を食い荒らす捕食者の笑みから、対等以上の敵を前に戦士の鉄面皮へと変貌した。

 「これはこれは……随分と懐かしい顔があったもんだ。遊行にしちゃ、ちと寂しい格好だな」

 「か、頭? 知り合いですかい?」

 「おぅ、お前! 野郎どもに通達だ。今すぐこっからズラかれ。荷物になるから女は捨てとけ、イイな!」

 「へ、へぇ! ですけど、あの女は上物で……」

 「聞こえなかったか? 女は捨てろ。テメェらがみっともなくヘコヘコ腰動かしてる間に、ここはとっくに戦場になってんだよ!」

 リンシンの言葉に嘘は無い、彼は「決して」嘘偽りを吐かない。そんな彼がここまで真剣な様子で撤退を促すなど本来ありえないこと。つまり、ありえないだけの事態が今まさに起きようとしていることを察知した部下は、これ以上余計な事を言わず他の仲間たちに撤退の指示を知らせに駆け出した。

 来客改め、襲撃者はその跡を追わない。いや、正確に言えば追えないのだ。

 「ありゃ、追わないのかい?」

 「『餓狼』の脇を素通り出来るものなど、風以外に知らぬよ」

 「天下に名高い『雷の華』にそこまで言ってもらえるとは、オレも株が上がったもんだ」

 「ほざけ。『美しき星』も今は昔か」

 「当然だ。あれから何年経ったと思ってる、オレもいつまでもガキじゃない」

 「六年か。なるほど、星の光も陰るはずだ」

 対峙した二人の間から音が消え去る。ここにヒトはいない、いるのは二匹の獣だけ。

 『餓狼』と『人虎』。ヒトの形をした狼と虎の喰らい合いが、今始まろうとしていた。

 「昔、アンタに引っ掻かれた右目が疼いてしょうがない」

 「こちらもだ。お前に持って行かれた右腕が今になって痛み出す」

 「お互い苦労するなぁ……えぇ? 師傅(せんせい)」

 「嘗めるなよ、馬鹿弟子」

 どうして、何故、どこで間違った……もはやそんな疑問は口にしてはいけない。事ここに極まってしまった今となっては、互いに拳をぶつけ合うしか無いと知る故に。





 その昔、武林の虎は一人の子供を拾った。どこからともなく赤子の泣き声が聞こえ、助けを呼ぶそれに導かれて辿り着いたのは、戦で焼き払われた挙句に野盗に蹂躙された小さな村だった。男は殺され女子供は犯され、もはや生ある者などどこにもいないはずのこの村に、今まさに満身の力を込めて助けを乞う小さな命があった。

 野壷(肥溜め)の中には二人の人間、一人は息絶え、もう一人は落下の衝撃で生まれ出てしまった赤子だった。へその緒も切れていない未熟児、そんな童と呼ぶにも幼すぎる赤子が生きていられたのは、母親の体が落下の衝撃を和らげ、下に溜まった糞尿の熱が冬の寒さから身を守ってくれたからだ。しかしその幸運は長くは続かない、このまま誰も助けなければいずれ飢えて死んでしまうのは明白だった。

 それを哀れに思った虎は、自分が汚れるのも気にせず気付けば赤子を胸に抱いて元居た山へと戻っていった。

 しかし……。

 「何故だ、何故ダメなのだ!」

 突き付けられた現実は非情だった。

 「残念だが、梁山泊としてはその赤子を引き取ることは出来ん。そも梁山は武の聖地、決して子守の場ではない」

 「では、麓にある村に預け育ててもらえば……」

 「それもならん」

 「何故だ!? それではこの子に死ねと言っているのか!!」

 「そうだ」

 「何っ? 太師父、太師父は何処に!!」

 赤子を拾い帰った虎に待っていたのは、執拗なまでの周囲の圧力。その根源が武林の頂点に立つ者の指示であることを突き止めた虎は、その子を抱えたまま直談判に臨んだ。

 「儂はな、決して意地悪で言っておるのではない。その赤子には良くない相が出ておる。我が師にして先代長老、リーチェン仙の残した占術による確かな結果じゃ」

 「邪仙の残した術など信用なりませぬ!」

 「よいから聞くのじゃ。占いの結果、その赤子は北斗の一星、天枢の下に生まれておる。加えて熒惑(火星)が一番近いこの時期となれば、その赤子はいずれ争乱を呼び起こす覇の者になりかねん」

 「天枢星は激動の星、熒惑は戦災の星。無論のこと知らぬはずはありません。だが星の生まれに縛られて生きるばかりがヒトではない! この子の生き方はこの子自身が選ぶもの、それまでの道筋を正しき方向へ導けば悪しき流れに向かうことなど決してありはしない!」

 「そこまで言うのならばその赤子、おぬしが育てて見せい。善き子となればそれで良し。じゃが、もし悪しき者となり果てれば……分かっていような? 大陸にこれ以上の火種は要らぬのだ」

 「……分かりました。不肖このレイファ、必ずやこの子を仁義八行に通じた義勇溢れる豪傑に育てて見せましょう!」

 こうして紆余曲折を経て虎は赤子を育てる事にした。

 虎がまず初めに母親として行ったのは、我が子に名を与えることだった。出来るだけ佳い名を、その前途が明るいものとなるよう祈りを込めて、三日三晩寝ずに熟考した。

 そして……。

 「『琳星』……。ああ、お前の名前はリンシンだ」

 “琳”とは磨かれた美しい珠を意味し、転じて「美しく輝く星」という意味を込めた名前にした。生まれついた星など関係ない、ただこの子が明るい未来を生きていければそれでいい……そう願っての名付けだった。

 それから五年、レイファは母としてリンシンを育てた。武術もそこそこに子育てにかまけるなど、神虎も地に落ちたとまで言われたが、彼女は決して周りの風評に左右されることなく全ての時間を養子との時間に費やした。いつしか彼女自身、すくすくと成長を重ねる子供との時間を楽しむようになり、その成長がどこまで続くのかを見届けたいと思うようになっていた。

 そしてリンシンが五歳になったある日、転機があった。

 麓の村まで出かけた時、石段を降りていたリンシンが弾みで転げ落ちるという事件があった。幸いにも骨折などのケガは無く、多少の痛い思いをしただけで済んだ。しかし、周りが運の良さを口々に呟くのに対してレイファは違う部分を見ていた。

 (地面に落ちた時の動き、あれは受け身か? こんな小さな子が、しかもそれを無意識にだと?)

 ひょっとすれば見間違いかとも考えた。しかし人生のほぼ全てを武の研鑽に捧げたレイファの目は、我が子に秘められた才能を確かに見抜いたのだ。正しく宝玉の原石を掘り当てたことに、彼女の心は一つに決まった。

 「リンシン、私の下で武術を極めてみないか? お前ならきっと私を超えることが出来る!」

 「媽媽……うん、ボクやるよ! がんばるね!!」

 見込み通り、リンシンの成長は目を見張るものだった。コツを掴む素質とでも言うのだろうか、一度教えた事を二度も三度も教える手間すら与えず、砂地が水を吸い込むが如くに知識と技術を貪欲に修めていった。まだ五歳、遊びたい盛りの彼に鞭を打って厳しく指導したが、彼はそれに反発することなく従ってくれた。神虎が弟子を取ったと梁山では有名になり、他の門弟たちを相手に試合形式で訓練を積ませるようにもなっていた。

 武の道に邁進する少年の姿に、かつての長老の警告など誰もが忘れていた。

 しかし、少年が十歳になった頃……。

 「リンシン、何をしている!? やめろ、やめるんだ!! その手を離せ!!」

 連絡を受けて麓の村に駆けつけた師匠が見たのは、自分より年上の子供を殴り倒す弟子の姿だった。頬を腫らし、鼻血がだくだくと流れ、前歯も全てへし折り、レイファが教えた武の全てを暴力という形で行使していた。あと数分でも止めるのが遅ければそれこそ死者が出たとも思われるほどだった。

 「リンシン!! お前は、お前は何をしておるのだ!!」

 「だって師傅、こいつら弱いんだもん。弱いくせに何かごちゃごちゃうるさいからさぁ……ちょっと叩いただけ。イイでしょ別に。こいつらは弱いから負けたんだ、負けた奴をどうやったってボクの自由じゃん」

 「お前という奴は……! 謝れ……今すぐお前が傷付けたこの子達に謝れ!」

 「イヤだ」

 「はぁ!?」

 我が子として育て始めて十年、初めての反抗にレイファは驚いた。しかしその驚きは自分のした事を理解しない子への怒りに変わり、気付けばその顔に張り手を食らわせた。

 「謝れ! 謝れ、謝れぇ!! こんな事のために私はお前に武を教えたんじゃない!! 謝らんかァァアアア!!!」

 だが結局、両頬が赤く腫れ上がりその痛みで涙と鼻水を垂れ流しても、リンシンは絶対に頭を下げなかった。最後に口にした言葉は……。

 「ボクは悪くない……。悪くなんかないんだ」

 「っ……! 勝手にしろ!! お前なぞ知らん!!」

 頑として態度を変えない我が子に業を煮やしたレイファはそのまま彼を麓の村に置き去りにした。山の登り道、自分の後ろをついてくる気配を感じながら一切振り向かず、初めて夕食を別々に摂った。

 それから親子の交流はめっきりと減り、毎日の日課だった組手もやらなくなってしまった。事実上の破門だ。だがそれでも生活の場は同じであり、レイファが教えなくなっても幸い梁山には優秀な弟子を持ちたいと望む武人は数多く、それらの鍛錬に付き合う形でリンシンは特訓を続けることが出来ていた。

 そしてそこでの鍛錬が進むにつれて師弟の距離は更に離れてゆき……。

 二年後、十二歳となったリンシンは梁山を出た。

 別れ際に師の右腕を奪い取って。





 戦いは一方的だった。開戦から数分と経たず、燃え残った家が建ち並んでいた廃村は遮蔽物の全てが破壊され、ほとんど更地と化していた。その惨状はたった二人の武闘家の争いによるものとは到底思えず、まるで巨獣が怒りに任せて暴れ回ったような凄惨さだった。

 もう一度言う、戦いは一方的だった。

 一方的に……師が弟子を打っていた。

 「シィ!! セイッ!! ハァァァアアアアアッ!!!」

 隻腕の人虎が繰り出す攻撃はその全てが人体の急所を的確に攻めるものだった。顎への殴打、内臓破壊の体当たり、金的蹴り、どれも並の相手なら一撃受けただけでも苦しみ悶絶しのたうち回った末に敗北を喫する攻撃の数々。それらを呼吸する暇も与えずに繰り出し続け、もはやリンシンの体表で打たれてない部位など無くなっていた。

 肉は裂かれ、骨は砕け、内臓はズタボロにする技は、始まってからその全てをレイファだけが繰り出すという無慈悲なまでに一方的な戦況だった。

 そう、攻防という点だけ見れば……。

 「懐かしいなぁ、師傅。あの頃はこうして毎日、朝から夕まで組手をしてたっけ。アンタは本当にスゴイ人だよ」

 リンシンには、まるで効いていなかった。

 肉を打つ拳も、骨を折る蹴りも、内臓を破壊する体当たりも、全ての攻撃を防御もせず無防備に受け止めておきながら、彼が倒れる様子は微塵も無かった。一呼吸ごとに襲いかかる拳と蹴りの猛襲を両手を上げて迎え入れ、その姿はまるで心地よい風を全身で受け止めているようでもあった。そして事実、彼にとってはこの攻撃全てがそよ風程度にしか思えないのだろう。

 「やめておきなよ。オレは天才だ、この地上に並び立つ者などない、比類なき武才の持ち主だ。それは師傅、アンタも同じこと」

 「黙れ……」

 「オレとアンタの格付けは六年も前に済んでる。アンタじゃオレには勝てねぇよ」

 「黙れ!」

 「それとも、残ったもう片方の腕もオレにくれるのかい?」

 「黙らんかぁッ!!!」

 一際強い拳がリンシンの腹を打ち、発砲音にも似た強烈な打撃音が周囲に轟いた。

 次の瞬間、レイファの背後に立っていた巨木の燃え残りが突如弾け飛んだ。

 へし折れるというよりは、まるで内側から風船が破裂するような破壊現象。奇しくもそれは、火鼠の拳を受けた時にリンシンの部下の腹が破裂した時と全く同じものだった。

 「分からない奴だ。オレに拳が効かないことぐらい知ってるだろうに」

 「くっ!」

 レイファはリンシンから一旦距離を取り、彼の全身を隈なく観察した。結果、その五体に最初からダメージは蓄積しておらず、開戦直後からスタミナすら削れていない余裕だけを残していることが分かった。

 「オレの拳は水の拳だ。相手の攻撃を防いだり止めたりする必要なんざ無ぇ、水に拳を突き入れてもすり抜ける様に、オレの体はあらゆる攻撃を素通りさせ受け流す。こんな風に、なっ!!」

 自分で自分の頭を殴打する。一拍遅れて足元に埋まっていた大石に亀裂が入り、見事に砕け散った。

 これぞリンシンがあらゆる攻撃を防御なしで耐えられる理由。受けた衝撃を勁に変換し、体内器官を一切傷付けずに足を通じ地面に流れ、決してリンシンの体を脅かすことは無い。あらゆる物理攻撃、特に拳法によるダメージの一切を無効化するそれは武術における一つの到達点、勁という技術において紛う事なくリンシンが無敵である事を証明するものであった。

 「たった六年、それも独力でそこまでの域に達したか。物の怪め」

 「当然だ。何度でも言うが、オレは天才だ! この地上に並び立つ者のいない天凛に愛された男だ! 師が出来ることはオレにも出来る。師が出来ないことでもオレなら出来る! 出藍の誉れと胸を張ってくれよ」

 「ぬかせ。鳶が鷹を、とは耳にするが……虎が狼を育てたなど笑い話にもならぬ」

 「あらら、そこまで言うかね。師匠なら弟子の知らぬ間の成長ってのをもっと喜んで欲しいね」

 「お前はもう我が弟子などではない!! 武を悪しき事に利用し義侠の何たるかを忘れた貴様などが、神虎と謳われし我が弟子を名乗るなど虫唾が走るわ!!」

 「その虫唾が走る相手に六年前、腕をもぎ取られた事をお忘れなく。それに今更口幅ったいが、オレは今でもアンタを師匠だと思ってんだぜ?」

 「ほざくか、リンシンーッ!!!」

 これが六年前ならば、よくぞここまで、と言えただろう。弟子が先を行くのは師にとって望外の喜び、本来なら自分に出来ないことをやってのけるその技量を褒め称えるべきなのだろう。

 だが今や二人の道は分かたれた。師は正道、弟子は邪道を歩み、凶行に走り民草を虐げる賊に堕ちた弟子を裁くために師はここにいる。今の二人は同じ釜の飯を食べた親子でも、共に武の頂きを目指した師弟でもない。ただ単純に、敵同士だ。

 飛び出したレイファは腰を落としてそのまま体当たりを食らわす。当然その衝撃は全て勁に変わり、体内を通じて発散されリンシンにダメージは届かない。

 だがレイファの狙いは別にあった。殴打や蹴りなどの打撃技が一切効かないのであれば、他にやりようは幾らでもある。殴る蹴るばかりが大陸の武術ではない。

 体当たりはフェイント、本命はその背後に素早く回り込んでの羽交い絞め。擒拿と呼ばれる大陸独自の関節技は瞬時にリンシンの関節を封じ、喉に回された腕が気道を塞いだ。締め付ける力は虎にあって蛇の如し、一度極まれば逃れることなど出来ない緊縛となる。果たしてその効果は絶大だった。

 「い、息が……!! やめ、があああああっ!!」

 動きを封じられ呼吸を止められ、一転してリンシンは窮地に立たされた。このまま続ければいずれ脳が酸素不足に陥り、労せずしてレイファの勝利が確定する。それまでに一分と掛からない。

 「あがっ……ご……!」

 白目を剥き泡まで吹き、今にも絶命しそうだ。事実レイファはそのつもりでここにいた。

 邪道に堕ちた弟子の始末は師匠がつける。それは即ち、その命を以て全てのけじめをつけさせるのだ。それが周囲の反対を押し切り彼を拾い育てたレイファに、最初から課せられていた宿命。

 「……かっ……! ────────」

 そして遂に、餓狼はその息の根を止めた。天賦の才を持て余し邪道にひた走った悪辣たる狼は、母虎の怒りに触れてその命を終わらせた。腕を離すと糸が切れたように地に倒れ、六年に及ぶ因縁は呆気なくその幕を閉じたのである。

 ぴくりとも動かなくなった弟子を、息子を見下ろし呟く。

 「リンシン……何故だ、何故お前ほどの男が……」

 天地神明に誓ってレイファは己が育て方を間違えたつもりはない。血の繋がりは無く、腹を痛めて生んだわけではないが、それでも自分は息子に愛を注ぎ育ててきた。決して裏切りの徒に堕ちる可能性は無いはずだった。

 「どこで間違った……私に何が足りなかった……私は師としても、母としても未熟だったとでも言うのか!」



 「ああ、そうさ」



 がしっと足首を掴まれた瞬間、下半身の勁を操作されてレイファが体勢を崩した。刹那、その顔面に飛び出した膝が命中し彼女は感覚器官を一斉に潰される。

 「ぐふあっ!!?」

 「おいおい、対擒拿の呼吸法を教えたのはアンタだぜ師傅。弟子の死んだふりにも気付かねぇほど耄碌したってのかよ!」

 「ぐあああっ!!」

 仰向けになったその腹に全体重を込めた足が伸し掛る。急所を足蹴にされそのまま固定されるという武人にあるまじき失態、しかもそれが擬死という子供騙しを見抜けなかった事が敗因となればその名誉は死んだも同然だ。

 「無様だなぁ。『雷の華』、『神虎』と持て囃された梁山最強の達人が、今やオレの足元に転がる一匹の猫だ。悲しいよなぁ? 悔しいよなぁ? 手塩にかけて育てた弟子に足蹴にされるなんて、オレなら恥ずかしくって死にたくなるね」

 体を押さえつける足を通じて常時勁が流されており、レイファの内臓、血管、神経、経絡秘孔に至るまでをボロボロにしていく。常人なら再起不能、生命力に優れた魔物娘でも回復は容易ではない傷が何重にも体内を蹂躙し回す。

 「武は力だ、力は振るってこそ意味がある。この大陸を見ろよ! どこもかしこも盗賊が闊歩し、地方の領主はそいつらと結託して私腹を肥やし、官僚は権力欲しさに手前のイチモツちょん切って、何人もいる自称皇帝はそんな奴らに煽られるがままに天下統一だの覇業だのに邁進する。何でそんな事がまかり通るんだと思う? 全ては力だ、力を持つ奴に掛かれば黒は白になる、悪も善になるんだ! 義だ、情だ、理だとぬかして、お山に篭りきりのアンタらには世間ってもんが見えてねぇ。オレはそんなアンタらに嫌気が差したんだよ」

 霧の大陸は魔境だ、強ければ生き弱ければ死ぬ、原始の理を今に引き継ぐからこそ強い者こそが善であり正義なのだ。リンシンはその理に対しどこまでも従順に、そして純粋な男だった。

 「アンタはオレの育て方を間違えちゃいねえよ。ただな、アンタ自身が気に食わなかった。義理人情って綺麗事に縛られて、実力があるくせに何もしないアンタの在り方にほとほと呆れちまったのさ。アンタだけじゃねぇ、あのお山の連中みんなそうさ。口だけ達者な木偶の坊に足を引っ張られて人生終えんのは真っ平御免だね」

 「あがっ!!!」

 離れた足が今度は顔面を蹴り上げる。そしてその傷に唾を吐き捨てた。

 「オレは嫌だね。ナメられたまま尻尾下げて生きていくなんざ性に合わねぇ。オレはオレの思うままに力を振るい、この地に立つ。安心しな、アンタの誇りは『傷付ける』つもりはないし、これ以上地に『落ちよう』が無い。精々その武人の誇りとやらを後生大事に抱えたまま、縮こまって生きていくのがお似合いだ」

 「リン、シン……!」

 「さよならだ。オレの師、オレの母よ。路傍の石にまで落ちたアンタに、もう興味はない」

 それだけを言い残して、餓狼は去って行く。引き止めようとしても手は上がらず、呼び止めようにも胸は潰され声は出なかった。

 一人取り残されたレイファを、にわか雨が濡らしていく。左手が顔を覆うのは雨を凌ぐためではない。

 「リンシン……どうして、どうしてなんだっ」

 雨に紛れて流れ出る涙がじくじくと痛む右腕のせいなのか、それとも自分の手を離れて別の道を行く者への恨み言からなのか、それは彼女にも分からなかった。

 この日、虎は二度目の敗北に塗れた。
16/02/04 00:30更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 今作の最強候補の一人にして、唯一の「天才」。

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