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第七幕 力と戦車:後編
 廃村の決闘から二年後、世の情勢はまるで変わらなかった。相変わらず地方は不作が続き、町の治安は悪化、官僚たちの腐敗は今なおもって何の改善もなされていなかった。地方を治める領主も領民に重税を強いて生活を苦しめ、上納をごまかし私腹を肥やすのが当たり前となっていた。

 一応、変わった事もあった。石を投げれば賊に当たるとまで言われていた大陸の現状を重く見た国々は、示し合わせたように治安強化の名目で各地に兵を投入、賊の取り締まりに大きく寄与した。盗賊は次第にその数を減らし、結果的に各地の治安は守られたかのように見えた。

 実態はより悪化していた事に気づけた者は少ない。

 確かに賊は減った。何百人も綱紀粛正の下に惨殺処刑され、それを見せしめとすることで後の抑止としたことは事実だ。だが賊が減り内患が排されるということは、次に国家の目は外を向く。即ち、これまで小康状態だった国家間での小競り合いが再び始まることを意味し、各国は裏で密かに軍備増強の策を練っていた。

 そこで国が目をつけたのが、本来粛清するべき盗賊たちだった。職に溢れ食い扶持を求めて賊となった彼らを私兵傭兵として抱えることで、訓練による時間の浪費を避けそれでいて精強な戦力獲得を狙ったのだ。

 この動きをいち早く察知した盗賊の一角が、リンシン率いる豺狗団だ。大規模な盗賊狩りが始まると一転して軍に味方して同業者を炙り出し、それらの貢献をもって団員全てが州兵の一派として正式に迎えられるという大快挙を成し遂げた。今や「豺狗隊」と名を改め、各地を哨戒する兵士としての役目を果たしていた。

 鯛は腐っても鯛、賊は着飾っても賊。しかし盗賊時代から厳格な掟で縛られていた豺狗隊は兵士に成り上がると同時に急激な方針転換を遂げ、同じ成り上がり兵士が権力を後ろ盾に暴虐の限りを尽くすのに対し、逆に彼らを取り締まる側に回った。そうして彼らは領内の有力者に名を売り、瞬く間に領主お抱えの私兵になるまでに急成長を果たしたのである。

 「流石は餓狼と呼ばれた男、手際が良いな」

 「礼には及ばんさ、領主様。それがオレらの仕事だ」

 この日もリンシン率いる隊は不穏分子の一斉征伐に赴き、見事にそれを成功に導いた。迅速かつ正確、その仕事ぶりには彼らを雇った地方領主ですら舌を巻くほどだった。

 「だが反体制派のアジトを炙り出すためだけに村一つを焼くとはな。容赦がないのはいいことだが、田畑まで焼くことはなかろう」

 「連中は日がな一日、土いじりをすることしか出来ない者たちだ。ただ追い払っただけでは戻ってくる、ぶち殺して間引いてもその内別の奴が同じことをする。だが飯の種を無くしちまえば話は別だ」

 「しかし、いたずらに田畑を焼けば税収が減る。その辺りの策はあるのか?」

 「心配すんなって、税なんてのは有るところから搾り取れば済む話だ。山の民からは米と薬草を、海の民からは魚と塩を、町の連中からは金を取ればいい。近く都で大規模な普請作業もあると耳にした、適当な若い連中を捕まえて労働力として献上すれば、帝の覚えも良くなるだろう」

 「田畑を焼かれ食うに困った下民どもは自ら進んで労働力となる、か。そこまで考えて……末恐ろしい男め」

 「カハハ! ではオレは早速課税の知らせをしてくる。連中の青褪める顔が楽しみだぜ」

 殴る蹴るばかりが武術ではないように、腕っ節の強さだけが力ではない。リンシンにとって力とは勝利すべき武器であり、彼にとって勝利とは己以外の全てが地に伏した光景こそを差す。方法や過程などどうでもいい、最終的にその結果さえ手に入れられるなら「他には何もいらない」のだ。

 師との二度目の衝突の際に彼が言い放った事、天を握ると豪語したその表明通りに全てはリンシンの思惑通りにことが進んでいた。

 「祭りだ祭りだ。肉山脯林、酒池肉林、栄枯盛衰……我が拳は既に天意に届いたり。クフフ、ハハハハ、アーッハッハッハハハハハハハ!!!」

 天は荒れ、地は乱れる。餓狼の夢見た世界は目前まで迫っていることを、この時はまだ誰も知らなかった。





 「…………」

 レイファは沈んでいた。二年前に二度目の敗北を喫して以来、いつも彼女は何か抜け落ちてしまったような表情をして遠くを見つめていた。何をするでもなく石段に腰を下ろし、遥か遠くの竹林を眺めながら溜息を吐くその姿は、とても梁山の一等星には見えないほど小さなものだった。

 武を止めたわけではない。敗北の日からも鍛錬は欠かさず行っている。だがそれだけだ。ただ拳を握り、ただ蹴りを繰り出し、ただ決まった型を取ってそのまま終わる。熱も無ければ身も入っていない、ただの木偶の坊と化していた。

 「だらしがないのう。それでも儂の跡を継ぎ長老となる者か」

 時折様子を見に来た老師が諭す風に口を出すが、改善の様子は見られない。

 「…………風の噂で、あれは官になったと聞きました」

 「ますますもって、我ら武林の侠とは相いれぬ。上手く世情を読んだつもりじゃろうが、義という寄る辺無き大樹にいくら擦り寄ろうと無意味なこと、奴の末路は決まったも同然よな」

 今は乱世、どこかしこで戦乱が巻き起こる激動の時代、国一つが興ったり滅びたりなど世の常となって久しい。そんな時代にあっては玉体に縋り付こうが無意味、むしろ滅ぶ時には一蓮托生、寄る辺と見定めた己自身も運命を共にせざるを得なくなる。梁山泊が今日まで生き存えてこられたのには、そうしたいずれ滅びる共同体に阿らなかったのも理由の一つだ。

 レイファはそこが納得いかなかった。我が身一つで地に立つ事だけを望んでいたはずが、何故今になって権力などという分かり易い別の力を求める必要があるのか? たかだか一領主として名乗りを上げるくらいなら、わざわざ官の下に付かずとも力尽くで首をすげ替えるぐらいの事は仕出かすのがリンシンという男ではなかったか?レイファにはどうしてもその辺りが腑に落ちなかった。

 しかし、そうした悶々とした考えはすぐにかき消される。今更問うたところで何になる、余計なことなど考えないように思考に蓋をした。今の己には何も出来ないのだと言い聞かせて。だが結局は同じ疑問が湧き上がり、また冷静になってそれを封じる、その繰り返しがずっと続いていた。それが二年も続けばこの老師でなくても諌めたくなろう。

 「うじうじとじれったいのぅ。天下の神虎も、やはり女じゃったか」

 「老師、今の私は気が立っている。心にもない事を口にしてしまう前に、今は一人にしてほしい」

 「やれやれ、そこまで余裕を欠くほど『せんち』になってしもうたか。手の施しようが無いわい」

 「なら放っておいてくれ。頼む」

 「じゃが、おぬしの悩みの種は程なく消え去ろうて」

 「? それは、どういう……」



 「死ぬぞ、あの小童」



 長老の口から飛び出した言葉にレイファが初めて表情を変える。それを見た長老は逆に呵呵と一笑に付した。

 「ようやっと顔を見せたのう。それでこそわざわざ顔を見に来た甲斐があったというものじゃわい」

 「老師、今の言葉はどういう……?」

 「どういう意味も何も、言葉通りじゃ。梁山の面汚し、神虎の弟子、そしておぬしの息子であるあの男は近く死す定めよ。世を見定める占いの結果にそう出た。遅くとも半月、早ければ数日のうちにな」

 「おっしゃる意味が……」

 「あの性分じゃ、戦場で己より強い者に出会うか、あるいは何かしらの不幸があるかじゃな。都では流行り病が蔓延しておるとも聞く。いや、あるいは自害という事も有りうるか」

 「そのようなことが!」

 「無い、と? 本気でそう言い切れるか? あの手合いは自らの壁を高く盛るものじゃ。天才じゃからこそ苦労を知らぬ、天才じゃからこそ挫折を知らぬ、天才であるからこそ……己の限界を考えず自滅の道をひた走るものじゃ。いずれ出会うことになるだろう、己の限界以上に高く険しい壁を前に『天才』は二つの道を示される」

 即ち、挫折か克服か。それは今まで大ケガをしたことが無く痛みを知らない赤子が、生まれて初めて転ぶのと似ている。全身を擦りむき痛みに耐えながらでも立ち上がるか、地に伏したまま泣き叫ぶかで全てが分かれる。しかし、得てして若くから天才と称される者は総じて遅れてやって来た挫折に弱い。乗り越えられれば誰もが認める「本物」となるが、そうでなければ……。

 レイファは、しばし言葉を紡げなかった。

 あのリンシンが死ぬ。義など知らぬ、情など顧みぬ、理など糞食らえを地で行き、自らを育てた師ですら足蹴にする恐れなど知らぬ痴れ者。物を盗み、真を偽り、命を殺す、およそ人が為せる限りの悪逆をやり尽くし、今なお権力に擦り寄り更なる悪道を突き進む餓狼……そんな彼が、命を落とす。

 有り得ない。

 何故かそんな言葉が口をついて出そうになった。それが驚きによるものなのか、それとも言葉では言い表せない未練がそうさせるのかは分からない。だが結局それらは口から飛び出すことなく、湧いた唾と一緒に飲み込まれた。背後の長老はいつの間にか姿を消し、石段の影はレイファだけとなっていた。

 「っ……」

 じくり、と右腕が痛み始めた。十二年前に大敗を喫したあの日、その記憶が痛みと共に蘇る。もはや存在しないはずの指先が捻じ曲げられ、筋をちぎられ骨をへし折られた感覚が、未だにこの肩に染み付いたまま離れない。古傷が突然痛むなど今までと同じこと、何の変わり映えもないはずだった。

 「っっ、はぁ……!!」

 だが今日は特にひどい。ぎちぎちと神経を骨ごとヤスリ掛けされるような断続的な激痛、それが天候も崩れていないのにずっと半身を苛んでいた。

 宿敵が永遠にいなくなれば、この痛みは消えてくれるだろうか?

 武林の虎はただ黙って耐えることしか出来なかった。





 「ガキの頃、自分より年上の相手をボコボコにしてやったことがあった」

 雇い主にそう語り始めたリンシンは、今は都に続く道を歩く最中だった。馬車に御者として乗り込み、車には主人である領主を乗せ、その背後百メートルに渡って長蛇の列が続いていた。

 一行は都に税を納める道中だ。差し出す税は人足、つまりは労働力。領内の村々や町から強制的に徴収した人員がぞろぞろと、都に続く道を歩かされていた。

 「それで、何で痛めつけた?」

 「どうにもそいつがナメた口を利くもんで、我慢ならずにカッとなっちまった。鼻を潰して、前歯もぶち割って、前髪も皮ごと引っこ抜いてやったよ。あんだけイキがってた奴が、最後には小便垂れ流してオレに許しを乞うザマなんか最高だったね」

 「そこまでするのか」

 「ああ。だがまぁ、どうしたもんかオレの怒りは収まらなかった。それから何度も何度もそいつをぶん殴った。指十本反対に捻じ曲げて、手足も竹細工にして、タマも片方潰してやった。だがそれでもオレは怒り足りなかった」

 結局あの場は飛び出した師傅レイファによって止められ、喧嘩相手は事なきを得た。もしあそこで彼女が止めてくれなければ、リンシンは三年早く殺人を経験することになっていただろう。少なくともその時の彼は、故意ではなく確実に相手を屠殺するつもりで臨んでいたし、そのまま最後まで突き通すつもりでいた。

 「今までゴロツキ共を飽きるほど相手取って来たが、あいつらが『ぶっ殺す』っていうのは所詮脅しだ。出来るだけテメェを強く見せて、あわよくば相手がビビってくれねーかなって期待してる腰抜けの遠吠えだ」

 「貴様は違うとでも?」

 「もちろん。わざわざ口にして意思表示しなけりゃ出来ないってのは三流のすることだ。オレは違う。騙りも、盗みも、殺しも、いちいち吠えるまでもなく無拍子でやってきた。頭ん中には常に『メンドくさい』と『ぶっ殺す』しか選択肢なんざありゃしねぇ」

 「それではまるで……」

 「そうだ、獣だ。初めて相手をボコった時に実感した、自分はヒトの心根なんざ持ち合わせてないんだってな。ムカついた、我慢ならなかった、だからぶっ殺した……いつだってオレの世界は単純にそれだけの理屈で出来ていた。突き詰めれば世の全てはそんなもんさ、強い奴の理屈だけが正義だ」

 獣は理屈を持たない。言葉を話せないからではない、彼らはその力だけを持って全ての筋を通す。個々を分け隔てる唯一は、どちらが強くどちらが弱いか、ただそれだけでしかない。至ってシンプルかつ分かり易い世界だ。

 「一丁前に理屈臭く大義がどうの、情緒がなんだ、論理がどうしたと、そんなことをぬかす奴は死ねばいい。もしオレが地上の征服者になれりゃ、そん時はそんな屁理屈を捏ねるような口先野郎は真っ先に絶滅させる。そうだ、誰にもナメた口は利かせねぇ。オレをどうこうしたいってんなら、腕っ節で挑んで来やがれってんだ」

 「ま、まあ貴様の言い分も分からんではない。しかし、何と言うか意外だ。餓狼と呼ばれ死肉すら漁る貴様によもやそこまでのプライドがあったとはな」

 「プライドなんてカッコの良いもんじゃねえ。これは単に男の意地ってだけだ」

 「意地か。ふん、それもよかろう。あと二日もあれば都に着く。地方にはない珍しい物でも眺めて無聊を慰めるのだな」

 馬車と護衛隊、そして引き連れられる労働者たちの行列は少しずつ都への途を進んでいた。

 「ああ、楽しみだ。楽しみだねぇ」

 餓狼の笑みは獣の笑み、獣は極上の獲物を前にした時だけ微笑みを見せる。

 二日後、一行は滞りなく都にたどり着き、後は税を納めるだけとなった。街の外環を守る衛兵が荷の検査をしている間、その窓口を副官に任せて領主とリンシンは先に宮殿の主に挨拶をしにいく。

 「いいか、くれぐれも粗相はするな」

 「わぁーってるよ。俺は護衛だ、黙ってオマエの後ろについてるだけさ」

 分かっていればいい、その言葉を最後に二人は宮殿までの長い石段を登り始めた。この無駄に無意味に長い石段は、「己こそが天に最も近い」とする為政者の意志を如実に表し、事実そのつもりで建造させたのだろう。遠く異国の伝承には、天まで届く塔を建てようとした人々の傲慢に神が怒り、雷を落とし塔を破壊せしめ、二度とそのような事ができないよう彼らの言葉を乱したとされる。そう言う意味では、この大陸の権力者たちは未だ神の怒りとやらには触れていない事になるだろう。

 だがリンシンに言わせればそれは当然のことだった。

 神が律し、罰するのはヒトのみ。この世の地獄と化し餓鬼と畜生が犇めく三悪道たるこの霧の大陸では、如何なる悪行も神罰の対象とはならない。ヒトが罪を犯すのは悪でも、ヒトならざる愚物がいくら悪逆を為したところで神は咎めもしない。それはそういうモノだから、救いようなどありはしない。神などとっくの昔に見放している。

 やがて長大な石段を登り切ると、目の前に銘木を丸ごと一本使い削り出した巨大な門が現れ、垂らされた鎖を十人掛かりで引いてようやく開けばそこから更に道が続いていた。元々山だったこの場所を中腹まで削ってなだらかにし、その上に豪奢な庭園と宮殿を構えさせたのがこの国の王が住まう場所だ。当然、そのために何千何万という労働力を国中から掻き集めた。より端的に言えば、自国民に鞭打って造らせたのだ。

 こんな程度のことは霧の大陸ならどこにでもある。己の権勢を誇りたいがためだけに、無駄にデカい宮殿や墳墓を造らせる。その過程で何万という人間が飢え死にしようとも知ったことではない、むしろ下界の惨状など見えていないのだろう。

 少し長めのハイキングをやらされること三十分、ようやっとリンシン達は山の頂上に構えられた王の宮殿へと足を踏み入れることが出来た。総大理石の床は鏡のように磨かれ、どこぞの山から掘り当てた玉石を柱に加工し、見上げる玉座を飾る装飾はその全てが黄金で彩られていた。目に痛く、鼻に突き刺さるような豪華さに流石のリンシンも驚嘆に目を見開いたほどだった。

 その玉座の前に跪き、この国を統べる王に絶対服従の意志を示す。

 「面を上げい」

 許しを得て顔を上げれば、これまた巨大な玉座に相応しい装飾に身を包んだ男が一人。頬杖をついて侍女に持たせた皿から果実を頬張る姿は、民という雑草を刈り取り己の取り分だけを求める醜悪な収穫者を思わせた。

 「んー? 前に連れ歩いていた小姓はどうした?」

 「は! あれは陛下に献上すべき税に手を付け横領したものとして処罰いたしました。いやはや、全くもって部下には恵まれませんで……」

 嘘だ。確かに税を着服するにはしていたが、それは領主であるこの男も同じこと。元より自分達の財布に入れる分も考えての重税なのだ。それを今になって咎めるのは、この領主がリンシンという新たな駒を得たからだ。

 「ほう、その下郎が件の『餓狼』か。ふむ、近う、近う寄れ」

 興味を抱いた王の言葉にリンシンが数歩前に進み出る。二年前とは違い整えられた髪と顔、それを見た王は一言……。

 「なんとまあ、痩せさらばえた山犬よな」

 そう言って嘲笑った。扇子で口元を隠しこそすれ、その奥に醜い感情が浮き彫りになっていることは明白だった。

 「曲りなりにも狼を名乗る男、それなりに見窄らしいと予想はしていたが、よもやここまでとはな。特にその目……なんぞ猫にでも引っ掻かれたか? フホホホホ!」

 「梁山の神虎を猫とは、陛下はなかなかに剛の者でいらっしゃる。あの爪牙に掛かって目蓋の薄皮一枚を削られただけで済んだのは、大陸広しと言えどもこのオレだけです」

 「梁山か。ハっ、武道に入れあげた時代錯誤の知恵遅れなど恐るるに足りんわ。痩せ衰えた山犬風情にも劣るとは、音に聞こえた神虎とはただの与太話であったか。さもありなん、所詮は虎に成り損なった猫か」



 「今、何つった? ア?」



 風もないのに窓が揺れ、磨かれているはずの天井から塵が落ちる。

 「震源」は他でもないリンシンだ。王を見上げるその顔は笑顔だが、石膏で塗り固めたように微動だにしないその表情の奥にはこの世のどんな金属を加工して作られた鎖でも繋げない、野蛮で巨大極まりない獣性を隠し持っていた。その波動は何の影響か物理的な力を伴って音もなく空間を塗り潰し、あらゆる生命活動を蹂躙する不可視の乱流となって吹き荒れる。もしここが屋外なら、周囲には小鳥の死骸が山と積み上がっていただろう。

 街角のゴロツキが石礫、そこそこ鳴らした山賊を鉄砲に例えるなら、今こうしている間にも膨れ上がるリンシンの殺気はまさに「大砲」。決して長くない導火線に今まさに火が点けられようとしている事を知り、傲岸不遜の体現者だった王は初めて慌てふためいた。

 「ホ、ホホホホ! この国で餓狼の名を知らぬ者は無い! 実物を前にして興奮し、あらぬことを喋ってしまったようだ。そなたを山犬などと愚弄したのは失言であった、許せ」

 「…………ご理解いただけたのなら幸いだ」

 「ホホホ……なかなかに肝の太い奴を手懐けたものよな」

 「お、恐れ入ります!」

 空間そのものを揺らしていた波動が一転して消失し、玉座に静けさが戻る。闘気だけで相手の心臓を鷲掴みにするバケモノを前に、この国の王は二度とこの男を貶すような事は言うまいと「見当違い」な自戒を課したのだった。

 しかし、リンシンの興味はとっくに王から別のものへと向けられていた。

 「時に陛下、ひとつお聞きしても?」

 「許す、申してみよ」

 「陛下の左右に侍る『それ』……なんでしょうかね?」

 リンシンの視線の先には、玉座の左右を固めるある物体があった。

 「ほう、こやつらが気になるのか。良いだろう。おい、客人に挨拶をしろ」

 王の指図に従い、それらが軽く頭を下げる。

 ヒトの形をしたそれは全身を隙間なく覆う甲冑の姿をしており、手には槍を携えていた。もしかしなくても護衛だろうが、リンシンが気になったのは二人の出で立ちだった。

 「異国の剣奴を側仕えにするとは、陛下は物好きでいらっしゃる」

 漆黒の甲冑は総鋼鉄製であり、徹底的に防御性のみを追求したその装備は煌びやかさを兼ねる霧の大陸のそれとは明らかに違っていた。昔何かの書物で見た西方の戦士が装着する鎧と思い当たり、その中身が異邦人だということもリンシンは見抜いていた。

 「なに、ほんの気紛れだ。西方の何某とか言う国からわざわざ来訪したのを、この私の元で食客として招いたのだ。こう見えてなかなかに腕の立つ者らでな、ともすればそなたより強いかもしれんぞ?」

 「ご冗談を」

 この世に己より強い者など存在しない。その事を一点の曇りなく信ずるリンシンは国王の言葉を鼻で笑い飛ばしてみせたのだった。

 そしてそれは、極上の獲物を確実に食い尽くせる事への確信を得た笑みでもあった。

 その夜、リンシンと領主は宮殿で歓待を受けた。地方に戻るのはここで一晩過ごしてからという運びになり、田舎では決して味わう事の出来ない美味珍味を食べ漁り、餓狼は久方ぶりの満腹感に酔いしれていた。

 肉を喰らい、酒を飲み、美しい女の踊りも楽しんだ。貧困と戦火に民草が喘ぐ世とは思えない豪勢な晩餐をひとしきり楽しみ、リンシンは先に寝室で休もうと共も付けずに廊下を歩いていた。

 今宵は月がよく見える。こんな日はどんちゃん騒ぐよりは、部屋で一人静かに酒でも嗜もうと思っての行動だった。適当に引っ掴んで持って来た瓢箪には酒がたっぷりと入っており、盗賊時代には決してありつけなかった美味に一人舌鼓を打つ楽しみに、柄にもなく心は浮かれていた。

 ふと、道の先で何かを見つけた。

 「よう、アンタは宴に顔出さないのかい?」

 廊下の先でまるで置物のように佇立しているのは、昼間玉座の前で目にした国王の護衛。宴会の席に一人しかいなかった所を見るに、こちらは片割れのようだ。

 「…………」

 「無視かい。愛想悪いねぇ、そんなんじゃ女にモテねぇよアンタ」

 「…………」

 「辛気臭ぇ奴」

 何を言っても何の反応も示さない鎧男に興味を無くして、リンシンは脇を通り過ぎる。国王はこの男達を腕が立つなどと評していたが、それっぽい装飾に身を包み無言で動じなければ誰だってそこそこ強く見えるものだ。

 ただそこに立っているだけ、そう思ってリンシンも無視を決め込んだ。

 「おまえは、この国をどう思う?」

 その矢先に、鎧の中から反響してくぐもった声が聞こえた。初めて言葉を喋ったこと、その内容がこの国の現状について聞かれたリンシンは殆ど反射的に答えていた。

 「『糞』、この一言に尽きる。んでオレらは、ほっかほかに湯気が立つバカデカい糞にたかる蛆虫だ」

 「自分もその頭数に入れているのか」

 「オレはクソの国のクソムシがひり出したクソの溜池から生まれたクソ野郎だぜ? この国の糞を端から順番に並べりゃ、まずはオレが先頭だ。誰にも先は譲らねぇ」

 「そうか。大した気構えだ」

 「アンタはどうなんだ? わざわざ西から海越えて来たんだろ。西方極楽浄土ってのは嘘っぱちだったかい」

 「おれは逃げた事はない。この国には用があって赴いた。おれ達の求めているものがこの宮殿の蔵に眠っていると聞いてな。だがあの穀潰しに足止めを食らっている」

 穀潰しとは、もしかしなくても国王のことだろう。下々から巻き上げた税を私利私欲のためだけに使う、確かに穀潰しだ。そんな輩に用心棒代わりにされている現状をこの鎧の男は快く思わないらしい。

 「あっそ。そりゃ災難で。せいぜいこの国がぶっ倒れるまで甲斐甲斐しく世話してやんな。オレはもっともっと上を行く。片田舎のケチ臭い領主の小間使いなんかで終わるもんかよ」

 「そうか。それがお前の人生なら、好きにすればいい。だがな、ひとつ言っておく……」

 すれ違い際に鎧の男は甲冑に覆われた顔を近付け、老人のように嗄れた声でリンシンに言った。

 「おれは『嘘』を見抜く。恥をかく前にその癖は直しておけ」

 廊下に硬質な音を響かせながら鎧の男は去っていった。その背が角を曲がるまで睨みつけ、リンシンは苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちする。

 「クソが。だからどうしたってんだよ」

 餓狼のつぶやきを聞いた者はいない。





 その日、都は珍しく霧が晴れ快晴の空に恵まれた。数週間ぶりに降り注いだ太陽の光は遍く全てを平等に照らし、雲上の神々に腐り果てた地上の姿を見せつける。

 「飢えに苦しみ、渇きに悶える……都ともあろう場所がこの有様か」

 街を歩けば誰も彼もが路端に横たわる姿を嫌でも見せられ、飢餓による腹水で風船のように膨らんだ腹を抱え地面の塵を舐めるように食べ漁っていた。

 「お恵みを……お恵みを」

 「すまない、今の私は誰かに施しを与えられるほど物を持っていないのだ」

 縋り付く乞食をどうにか説き伏せ先を急ぐのは、全身をぼろ布で覆った一人の女性。乞食の指が引っ掛かった拍子にそれが脱げ落ち、全身が露わになり見えるのは獣人の姿。その体に右腕は無く、隻腕の人虎であった。

 「本当にすまない……」

 後ろ髪引かれる思いでレイファは街の更に先を行く。進めば進むほどに糞尿と屍の入り混じった悪臭が吐き気を誘い、彼女の眉間のシワが更に深くなる。

 「この国はいつからこんな……いや、初めからこうだったか」

 力ある者、支配者が悪に走れば必然、国という構造は破綻する。王は圧政者であり為政者ではなく、税は搾取以外の意味を持たず、民とは無限に富を生み出す生産工場と成り果てた。もはやこの地にあって力無き者などヒトに非ず、有形無形の力を持つ者だけが己の生存を可能とするのだ。

 二年前に弟子が口にしていたこの世の真理を目の当たりにしながら、レイファは街の中枢、丘の上に建造された宮殿を睨み上げていた。下々の財産を収奪し一点に集めたような場違いなほど豪華な建造物に、レイファの義侠心はメラメラと義憤に燃え上がろうとしていた。

 しかし、今日彼女がここにいるのは邪悪な国王を討ち滅ぼすためではない。わざわざ梁山の山中から三日三晩かけて都にやって来たのは、やはりかつての弟子のことだった。

 「リンシン……お前はなぜここに?」

 与り知らぬところで宣託を受けたかつての弟子を追い、レイファは都に赴いた。立ち込める悪臭に僅かに香るその匂いは、男が二年前の別離より更なる成長を遂げている事を教えてくれた。師である己などとっくに超越した力量を持つに至ったその成長を、やはり素直に寿ぐことが出来ずにいる。

 だからこそ解せない。残り香となってなお精強な匂いを放つ強きオス、しかしてその強さを振りかざせど決して胡座はかかぬあの餓狼が、何故にその命を散らさねばならぬのか。

 もしもまた、彼が間違った道を、今度は己の命すら手放す道を突き進むとなった時……自分はそれを止められるだろうか、今度こそ。

 「愚問か……」

 破門したとは言え一時は弟子だった男、そして自分はその師だった女。邪道に走る弟子を止めるは師の責務、それは何度敗れたところで変わりない。

 今理解した。占いが餓狼の死を示したということは、何者かによって命を落とすことも有り得るということ。そしてそれこそが導かれるようにこの地に赴いた己に課せられし使命だと、レイファは確信した。

 その確信を胸に抱き、決意とともに拳を握り締め天を仰ぎ見る。

 レイファの視線が上を向くと全く同時に、宮殿の屋根が崩れ火を噴いた。





 あらゆる言葉は意味を持たない。

 率直に、直裁に、はっきりと結論だけを述べるならば……。

 「たった今より、この国はオレが貰い受ける。玉座と冠を明け渡し、旧弊の王は退陣されるがよろしい」

 ある意味では大方の予想を裏切ることなく、餓狼のリンシンは国家に対し反乱を引き起こした。

 この国を治める王が座るべき黄金の玉座を簒奪し、本来の主である国王はその眼下でみっともなく慌てふためくという逆転現象が起こっていた。

 「こ、ここ、これはっ、どういうことだ!! 誰の許しを得て珍の玉座に汚らしい尻を乗せておるぅぅぅ!!!」

 「さっきも言ったろうがよ。反乱だよ、反乱! 革命、クーデター……分かるかなぁ? テメェが治めたこの国は、テメェの粗チンより短い歴史がたった今、今日ここで閉じるんだ。閉幕、閉廷! こっから先はナシだナシ! 古い王様の時代は終わったんだよ」

 「ふふ、ふざけるなぁぁぁあああ!! 誰ぞ、誰ぞあるか!! この不埒者を珍の玉座から引きずり下ろせ!! 爪を毟り、鼻を削ぎ、生皮を剥いで生きたまま吊るせぇぇええええええーッ!!!」

 国王の命令に応じて屋敷を固めていた兵士達が続々と玉座の前に集う。手に手に剣や槍を携え、謁見の間に濃厚な殺意が充満する。

 じりじりと兵士たちは距離を詰め、怨敵を討ち滅ぼさんと全ての武器を一斉に構えた。

 国王に向かって。

 「ほ、ぁ!!?」

 突然の事態におかしな悲鳴が上がる。だが目の前に起きている光景は幻覚でも何でもなく、国王の命令で召集された数十名の兵士は、全員が手に持った武器を国王に向けていた。

 「アホか。オレが単騎でこんな事を仕出かすとでも思ったのかい。よく見ろよ、そいつらは昨日オレが税として献上した人夫どもだ。ただの人夫じゃねぇ、マヌケ領主の下で雑務をこなしながら、盗賊団征伐の裏でちょいちょい引っこ抜いておいた選りすぐり共だ」

 「な、な……!?」

 「あー、ついでに言っとくとだな、都の衛兵に、周辺各地の州兵、その他地方のお偉いさん……国境周りの兵を除いて、みんなオレが買収しといたから」

 「そんなことが、できるわけ……!!」

 「オマエは溜め込み過ぎたんだよ。釣った魚に餌やらない典型、とにかく搾ることしか頭にない。そんな奴にホイホイと尻尾振る奴がいると思うか? 旨みが無ぇんだよ、オマエの下に居たってな」

 「この……っ!」

 「加えて、テメェはこの数年で兵士の数を減らしてるからな、こっちがバラまく餌も少なくて済んだ。理由を当ててやるよ、兵隊にやる金が無いから人員削減に走るしかなかった……違うか?」

 「なぜ貴様がそれを!?」

 「たりめーよ、そうなるよう仕向けたのはオレだ。オレが梁山を出て六年、何の考えもなしに盗賊稼業をやってたと本気で思ってんのか?」

 「……まさかぁ!!」

 国王の脳裏に浮かんだのは、迂遠とも取れるリンシンの長大な計画、その一端だった。

 「そうだ。物盗りなんざもののついで、オレの本命はこの国の財政をぶっ叩くことだった。その為にオレはとにかく各地の村や町を襲って人を間引き、田畑を焼いて税の収入源を断った。小間使いになってからも反体制勢力の炙り出しって名目でそれを繰り返し、結果この国の財布は穴だらけ、オマエはまんまと兵の削減って悪手を打っちまったのさ」

 「そこまで……そこまでするのか!」

 「当然だ! オレは『餓狼のリンシン』、狙った獲物は必ず仕留める! それが人だろうと物だろうと、国だろうと関係ねぇ! 梁山を出たあの日から、オレは今この瞬間を迎えるためだけに生きてきた!!」

 「目的はぁ、目的はなんだ!! 金か? 女か? 地位、名誉、権力……何がいい、何でもくれてやる、だからどうか命だけは……!!」

 「どれも要らねぇよ」

 リンシンが指を鳴らす。兵士の一人が槍の先端を国王の脇腹に突き刺した。

 「ぎゃあああああああああーーーっ!!!」

 「オレが欲しいのはこの国だけだ。小難しい屁理屈で世の中渡ろうなんて狡辛い考えは要らない、オレが求めるのは力だけだ! どいつもこいつも力を求めて横溢し、殴り、喰らい、殺し合い、最後には純粋な強者だけが残る混沌!! 誰も彼もが最強になるべく闘争に明け暮れる修羅道、それがオレが求めた光明だ!!」

 法など無い、秩序も無い、善性も消失した。己の力を己の為だけに行使する阿修羅が満ち満ちる混世の魔境、それこそが餓狼の追い求めた理想の果て。

 「その上で、全てが混沌に消える現し世でこのオレが天を握る! 完全無欠のオレを崇め、最強無敵のオレを讃え、究極至高のオレを奉り、唯一にして絶対の力を持つこのオレを有象無象が神聖視する世界……それがオレの目指す桃源郷だァッ!!!」

 ただ壮大、ただただ広大無辺……餓狼の夢を聞かされた国王に許されたのは、己とのスケールの圧倒的な差を思い知らされた事による放心、ただそれだけだった。

 狂っている。この世は既に地獄、権力を持った者達による闘争が何世紀も続いている。だがそれは一部の選ばれた者達による闘争で、一見して無秩序に見えるその戦いにも一応のルールというものが存在している。存在していたからこそ、この地では強者と弱者という区切りが存在し、闘争とは強者にのみ許されたある種の特権的な行為だった。

 だがリンシンはその区切りを取っ払う。

 暴れればいい、群れればいい、虐げ、壊し、殺し、三千世界に暴虐の嵐を巻き起こせばいいと本気で思っている。もはや彼の世界に強者弱者の別は無く、理想とするそこには誰もが己の力のみを頼りに闘争を繰り広げる修羅と羅刹しか存在していない。その上で最後に残った者が強者であると認める寛容さと、最後にはそれすら己が踏み潰すと豪語する絶対の自信が同居していた。

 「オレが新しく創る世界に、テメェは要らねぇんだよ。さっさとおっ死ねや」

 魔霧の狼の言葉に玉座を守護する兵士が一斉に剣を振りかざす。もはや精神を手放した国王はそれを脅威と思う心さえ放り投げ、ただ呆然と己の顔を映す白刃を見つめ返すしかなかった。

 そしてリンシンの手が振り下ろされると同時に、十数の剣先は零落した王に向かって墜落し……。

 「そいつには先約がある。悪いが返してもらうぞ」

 それまで王の居た床を削った。

 刹那、文字通りの目にも留まらぬ瞬間の出来事。その間に国王の体は並み居る兵士達をすり抜けて、玉座の殆ど手前に移動していた。

 「アンタらか」

 疲弊した国王、その両脇には黒甲冑が二人。用心棒として雇われていた異国の戦士が国王の元へと馳せ参じていた。重厚な鎧を着込んだ上で神速の動きは驚嘆に値するが、リンシンが意外に思ったのは彼らがこの場面で姿を現したことに対してであった。

 「忠義立てご立派だがな、テメェの命を張るほど金貰ってんのかい。どけよ、死にたくなけりゃすっこんでろ」

 「生憎、そういうわけにもいかない。こちらにはこちらの都合がある」

 「ああそうかい。じゃあ、一緒に死ねや」

 再び兵士達が武器を構え、一斉に鎧男たちに雪崩込んだ。山犬の群れが鹿に喰らい付く様を思い浮かべながら、手始めにこの国をどうするかを考えて数瞬目を閉じ思考し……。



 次に目を開けると眼前から兵士が消えていた。



 「……………………うん?」

 杜撰な間違い探しのような目の前の光景に、一瞬リンシンの意識が遅れた。まるで神隠し、玉座の前を埋め尽くさんばかりだった兵士は一人残らず餓狼の前より姿を消し、たった今さっき殺せと命じたはずの国王と鎧男の三人は平然とその場に立っていた。

 「弱い。その上、愚鈍。喧嘩を売る相手の力量も計れないほど困窮しているのが現状か」

 鎧の男の片割れは、どこから取り出したか剣を握っていた。呪いの魔剣か祝福の聖剣か、ゆらゆらと妖しい蒸気を漂わせる刀身は振るわれた瞬間にあらゆる障害を蒸発せしめる熱量を秘め、それをもってこの場の兵士を文字通り一掃したことを暗に物語っていた。その証拠に謁見の間の四方を囲う壁には紙吹雪のように薙ぎ払われた兵士達が積み上がり、天井には頭から突っ込みそのまま屋外へ飛ばされた者らが屋根に折り重なり、玉座のすぐ手前リンシンの足元にも数人が突っ伏していた。

 刹那、本当に僅かな空隙、餓狼が瞬きした次の瞬間に状況は激変していた。事の重大さをすぐさま理解したリンシンは、しかして決して慌てず、それでいて驕ることもなく悠然と玉座から立ち上がる。

 「『そっち』と話すのは初めてだな。どうよ、そんな穀潰しとは縁を切ってオレのところに来いよ。金も、酒も、女だって思いのまま。オマエらなら、そうだなぁ……オレの次ぐらいには強くなれるさ」

 「黙れ。蛮族と話す口は持たない。その獣臭い身の程を弁えて腐肉でも貪っていろ」

 「キツいねぇ。たかだが痩せっぽちの賊崩れを吹っ飛ばしたぐらいで、まあ随分とイキがってくれたもんだ。ぶっ殺すぞ、オマエ?」

 巨大な玉座を一足で飛び越え、甲冑の男の前に降り立つリンシン。そしてそのまま拳を振り上げ、鋼鉄の顔面に一発……。

 「そこまでだ」

 打ち込めなかった。

 突き出した拳は剣の男を打つ前にもう一人の手で遮られた。嗄れた声はつい昨日言葉を交わした方、鉄甲に覆われた冷たい手は餓狼の拳をいとも容易く防いだのだった。

 リンシンは今度こそ驚愕と戦慄を覚えずにはいられなかった。リンシンは相手を下に見ても、決して侮りや慢心とは無縁の男だった。今放った拳も本来なら鋼鉄を粉砕し、打ち込まれた勁で相手は全身が内側から爆散するという凄惨な最期を遂げるはずだった。

 ところが拳は受け止められ、鎧は破壊されず、それどころか相手は腕の骨一本とて折れた様子がない。しかも掴まれた拳は溝にはまった車輪のように微動だにせず、リンシンの意志を無視したように離れなかった。

 「おまえはそれを連れて蔵に行け。こいつの相手はおれがしておく」

 「偉大なる同志(ダヴァーリシシ)にして我が師(ウチーチェィリ)、あなたほどの方がそのような雑事を……」

 「早くしろ。おれの気が長くないことは知っているだろう」

 「……分かりました。ではご武運を」

 「おいゴラァ! なにシカトしてくれてんだテメェ! 待ちやが……!」

 「おまえの相手はこっちだ」

 掴まれた拳を引き剥がそうと悪戦苦闘するリンシンには一瞥もくれず、剣の男は国王を脇に抱えて宮殿の奥、宝物庫がある方向へと走っていった。

 実際のところ、リンシンにとって国王が生きていようが死んでいようがどうでも良かった。既に戦端は開かれ間もなくこの大地は混沌の修羅道に入る。そうなれば旧弊の王などに肩入れする勢力など無く、その後の混沌を平定して己を頂点とした世界を創造するのがリンシンの目的であるからして、もはやその生死はさして重要な案件ではなくなっていた。

 だが一度行動に移したことを横槍入れられたのは我慢ならない。餓狼の激情は今や、この異国の騎士に全てが向けられていた。

 「ちょうどいい!! 異国の剣奴を討ち取ったとなりゃオレの名にも泊が付く! 望み通りにぶっ殺してやらァァァアアアアアアア!!!」

 全身で練り上げた勁が炸裂し、宮殿は一瞬にして半壊した。

 これが街中で人虎が見た光景の裏で起きた出来事である。





 遅かったと呟いてレイファは駆け出した。彼女が弟子の思い描く絵図、その一端を理解した時には既に事態は動き出してしまっていたのだ。

 この時点でレイファは、リンシンの目的が戦争を引き起こすことだと思い込んでいた。結果的に起こることだけを捉えればその認識で間違いはないし、白昼堂々と国盗りなどを敢行すればその隙に乗じて他国が攻め入る。大陸の各勢力は玉突き事故の如く衝突を繰り返し、あらゆる国家、宗教、民族が入り乱れての大戦争が勃発するのは火を見るより明らかだ。

 巻き起こる暴虐の嵐は大陸を舐めるように埋め尽くし、この地に戦場を通り越した地獄が具現する。大義も名誉も誇りも無く、あらゆる生命は暴虐の炎を前に燃料として消費されるだけだ。

 そんなことは絶対に許してはならない。餓狼の悪逆をこれ以上野放しには出来ないと意気込みを新たにし、山野を駆ける鹿の如く石段を踏破、吹き飛ばされて完全開放された門をくぐり「餓狼に倒され気絶している兵士達」を飛び越えて、雷の華は宮殿に進入を果たした。

 これより始まる混乱の中心、その場所に辿り着いたレイファが目にした光景は……。

 血の海に沈むリンシンの姿だった。





 リンシンは必殺技や奥義を持たない。衝撃操作の域にまで昇華させた発勁法はあらゆる防御を貫いて敵の全身を破壊し、逆にリンシンに対する全ての攻撃は接触面を通じ拡散される。そんな最強の矛と無敵の盾を両立させた餓狼には奥義を有するまでもなく、全ての戦いは行う前から決着がついているに等しいものだった。

 結果、餓狼は構えすら必要としなくなった。攻撃は必殺、守りは鉄壁、そんな彼はもはや特定の型さえも放棄することが許される。梁山のみならず武林の歴史においてもその境地に達する者は稀も稀。自身がそう豪語するように、リンシンはまさしく天賦の才に愛された武術の麒麟児であった。

 故に、この時もリンシンの取った行動は唯一つ。ただ「死角からの強襲」だ。神虎から学び、多くの修羅場を乗り越え洗練された歩法は水の動きと風の速さを兼ね備え、肩肘張っただけでぶつかる距離にありながら流れるように背後に移動する。

 そして間髪入れず、がら空きの背にさっき防がれた以上の力を乗せて拳を放ち────、



 次の瞬間、リンシンの体は壁を突き破っていた。



 「ぐぼぉええっ、がふぁ、がああああ……!!」

 血液混じりの反吐をぶちまけながら、混乱を押さえて冷静に分析する。今、自分の体に、何が起こったのかを。何の事はない、ぶち抜いた大穴から見える敵の姿はこちらに向かってすらりと片足を伸ばしており、こちらが攻撃するより早く向こうの迎撃が当たったに過ぎない。

 それはいい。攻撃の軌道を先読みされるのは間々あることだ。問題は自分の体に迎撃のダメージがもろに入った、その理屈が分からない。どれだけ鋭い拳も、どんなに重い蹴りも、その全てを勁に換えて受け流す……それが破られた、それはリンシンがそれまでに築き上げた優位性全てを一瞬で押し潰す純然たる脅威だった。

 「それがどうした。たまたまテメェが『オレの予想より速く』、攻撃が『オレの予想より大きい』だけじゃねぇか」

 そう、たったそれだけだ。スペックだけ上回っている連中ならごまんと見て、そして勝って来たという経験がリンシンにはあった。そしてそういった基本性能だけ振り回す相手との戦いに勝つ方法はたった一つ。

 相手より速く、硬く、強くなれば済む話だ。

 「打死你ィィ!!」

 限界まで前屈みの姿勢を取り、重心の赴くままに全てを速度に捧げる。

 前へ、前へ、ただ前へ。一歩踏み出すごとに速度は更に増し、末端が早くも音の壁に接触する範囲にまで迫った。敵の撃滅を全面に押し出して、さっきのように死角に回り込むなどと搦手は使わず、愚かしいほど真っ直ぐに正面を攻める。その姿はまさしく獣、雄叫びにも似た気迫の声は波動となって放出され、攻撃意志を汲み取った鎧男の右手が迎撃姿勢を取る。

 そして、それこそがリンシンの狙いだった。

 (かかったな阿呆がァッ!!!)

 迎撃体勢を確認したリンシンは僅か、本当に僅かに自らの速度を落とした。眉の毛先ほどの微々たる差だが、矮小な差分が勝敗の行方を左右する戦いの場においてそれは決定的な影響をもたらした。

 迎撃の直前に速度を落とせば、当然手足は到達するはずであった本体ではなく虚空を薙ぐことになる。相手の気迫を見越しての攻撃が逆に残像を打つという行為に終わるのだ。後はがら空きになったその隙を突く形でいくらでも攻撃を打ち込める。

 つまりはフェイント。リンシンの策は見事に功を奏し、鎧男の黒腕は見事にリンシンの眼前で風切り音を上げながら大きく宙を削った。



 その指先は音速の十倍を優に越えていた。



 まず最初にリンシンが感じたのは、顔面いっぱいに張り手を食らったような衝撃だった。目蓋が押さえられ、鼻が曲がり、唇がめくれ上がる。体表の前面を隈なく舐めるように衝撃が伝導し、突風が型取りするように己の体を掻き分ける感覚を受けて思わず体が仰け反る。

 次に訪れたのは自分の背を押す強烈な引力。その正体は風、今しがた自分の体を突き抜けた空気の流れが、今度は逆流してくる。結果今度は体が前のめりになり、僅かに半歩だけ意図せず足が前に出る。

 鎧男が待ち構える、前へ。

 「……」

 「あっ」

 やべぇ。

 続く言葉を呟く暇すら与えられず、リンシンの体は突き上げる衝撃を受けて舞い上がった。

 時間にして僅か十数秒、その間にリンシンは大地が丸い様を見せつけられてから墜落した。

 「…………なんじゃこりゃ」

 自分が突き破り、そして突き抜けた天上の大穴を見上げながら、餓狼は努めて冷静に状況の分析を行った。

 これも別に特別おかしなことは起こっていない。ただ蹴り上げられただけだ。

 それが「あと少しで雲が掴める」という高さだったことを除けばだが。

 「…………フヘッ」

 奇妙な笑いが漏れ出る。決して面白おかしくて笑っているのではない。言うなれば、出来の悪い子供騙しな与太話を聞かされた時のような、「何言ってんのお前」というような鼻先の笑いだ。

 胸の内に芽生える“予感”。それが確かなものかどうかを確認する為に続いてリンシンが取った行動は、擬死。師の目をも欺いた死んだふりは呼吸のみならず、気の流れを掌握して短時間だけなら心配の動きをほぼ完全に停止させる。高所からの落下を経験した人間は「普通」は死ぬし、それぐらいの常識は持っていた鎧男はリンシンに三度目の背を向けた。

 その隙を逃さず四肢をバネに跳ね上がり、再び獣の走破形態となり一切の音を殺して駆け抜けた。神速を越え仙人が成すという縮地の域、その僅か手前にまで達した餓狼の動きを止められる者などこの大陸には存在しなかった。

 この男を除いて、だが。

 真後ろから飛び掛るのをどんな妖術か事前に完璧なタイミングで察知し、僅かに体をずらしリンシンの足を黒い手が掴む。

 全身の血液が上半身に逆流するのを感じながら、リンシンの体は棒切れのように地面に叩きつけられた。

 「ハ……ガァ……!!?」

 一度や二度ではない、人ひとりを軽々と持ち上げる腕力はそのまま連続してリンシンを叩きつけた。傍目には大きい布束を水切りしようと何度も振り回すみたいに、そして人体が激突したとは思えない衝撃で大理石の床は恐ろしい勢いで耕された。

 およそ振り回される回数が二十に到達する頃、ようやくリンシンの体は解放された。最後の叩きつけでその体は蹴鞠のように床をバウンドし、玉石の柱に体がめり込んでようやく停止する勢いだった。

 代わりに確信は得られた。ずり落ちる体を俯瞰する精神で支えながらリンシンは得心する。

 こいつは、強い。国王が腕が立つなどと自慢していたが、実際はそんなレベルで収まるような相手ではなかった。

 (オレの攻撃を『見る前から迎撃余裕です』ってか……。ふざけんじゃねぇぞ、先制より先に迎撃決めるとかありえねえだろフツー)

 今は受けた攻撃によるダメージを勁に発散させているからまだマシだが、それで“これ”だ。大部分の衝撃を受け流して、全体から見れば残った僅かな残留ダメージだけを受ける、それだけで全身の細胞が金切り声を上げさせられているのだ。

 (これはヤバい、短期決戦に持ち込まないとこっちが殺られる)

 この期に及び、ここまで痛めつけられてなおリンシンの闘志は折れもしなければ陰りもしない。ここまで来たのに、否、「まだ始まってすらいない」我が大願を潰されてたまるかと、温存する全ての力を振り絞って立ち上がる。

 賢者ならここで戦いを避けるだろう。愚者なら力量を知って逃げ去る。だがリンシンは最後まで敵対を選んだ。彼は賢者でも愚者でもない、ただ一匹の餓狼であるゆえに。

 「一匹狼を気取るか、死に急ぎの阿呆が」

 自然界に決して一匹狼など存在しない。群れをはぐれたオオカミは狩りも出来ずに飢えて死ぬ。鎧の男にとってリンシンは、真実の餓狼そのままの姿を写しているように思えたのだろう。いっそ苦しませずひと思いにと、慈悲の心で握られた黒の拳が振り下ろされ……。

 「阿呆は……テメェだぁあああああああああああああ!!!!」

 瞬間身を屈めて回避したリンシンが渾身のカウンターを繰り出した。彼お得意の発勁、体内を蹂躙するそれを己が立つ力すら全て変換して練り上げ、突き出した左の掌打が大砲となり射出される。対甲冑武術・鎧通しの原理に則って防御機構を貫通した衝撃は細胞の一片に至るまで蹂躙し、人体を完熟果汁エキスに変貌せしめる猛悪の一撃となって鎧の中を吹き荒れる。餓狼の必殺の拳は今、黒甲冑のその無防備な腹に確かにクリーンヒットすることが出来た。

 そして、それをもって……。

 リンシンは敗北した。





 虎の見た光景はまさにその瞬間の出来事であった。

 「リンシン……?」

 拳は華麗に決まった。達人や素人を問わず、十人中十人が餓狼の勝利を確信する画。肉も切らせず骨を断つ、理想的なまでのカウンターアタックは師のレイファですら惚れ惚れとする土壇場での逆転劇となるはずだった。

 しかし、硬き物に拳を突き立てればどうなる。当然、打ったこちらの手が損傷を受ける。リンシンの体に起きた現象はまさにそれだった。

 「────ご、ば──」

 確かに、確かに攻撃は決まった。勁は鎧を貫通し、その内側に隠れた肉に確かに届いた。

 だが、それだけだ。

 「ご、がぁ──は、ああ────」

 鎧男は防御出来なかったのではない、「する必要がなかった」のだ。餓狼のように特別な才能や技法による衝撃の受け流しや分散でもなく、ただ次元違いに硬い己の肉体を盾にしただけ。石に泥団子をぶつけても石は傷つかないように、打ち込まれた勁は鎧男の「鎧以上に強靭な」皮膚を一ミリも通らず、衝撃伝導による拡散すら許さずその全ての熱量を跳ね返したのだ。

 そう、跳ね返したのだ。

 筋肉を散乱させ、骨格を粉砕し、神経を断裂させ、内臓を破裂させる、人体破壊の究極……その全てが、リンシンの五体に逆流した。

 結果、こうなる。

 もはやリンシンは肉袋だ。ガワは形を保っているが、脳と脊髄と心臓、肺の一部、左腕を除く四肢の僅かな骨だけを残し、体中の穴という穴からは「それ以外」が一気に噴出した。倒れた拍子にその勢いは一気に増し、もはや水を詰めた革袋を落としたように液状化した中身が床に血の泉を作り出すほどだった。

 「ふざ、け……じゃねぇ、ぞ……」

 「驚いた。そんなナリでまだ言葉を発するのか。いよいよもってヒトをやめかけているな」

 床に倒れ伏したリンシンを動かすのは生命力ではない。もはや風前の灯となった彼は気力だけで己を奮い立たせている。三分の一だけ残った肺は酸素循環の要としての機能を放棄し、もはや言葉を発する吹子としてだけ機能していた。

 「ぽっと出の、テメェなんかにぃ……! オレの、オレの野望を……邪魔されてぇぇ……!!」

 「昨日より少し『地』が出てきたな。だが解せない。何をそこまで躍起になる? 何がおまえをそこまで駆り立てる?」

 「テメェにぃ……関係、あるか……!!」

 「ああ、無いな。だが……そっちの人虎ならどうだ?」

 リンシンはここでようやくレイファの存在を確認した。殆ど潰れかかった眼が二年ぶりに相見えた師の姿を捉え、対するレイファは死に体となった弟子の姿を目の当たりにして立ち竦んでいた。

 「隻腕の神虎……耳にしてはいたが、なるほどな。これがおまえの師というわけか。ならば今一度、その面前で吠えてみせろ。お前の野望……この魔霧の地を混沌の坩堝に落とそうというその大願を」

 鎧男の冷たい足がリンシンの頭に乗せられる。ただそれだけで彼の体は動きを封じられた。

 「そしてそれが、真っ赤な嘘だとな」

 突きつけられた言葉にリンシンの顔色が変わる。

 「っ……テ、メェ!!」

 「呼吸、脈拍、視線の動き、体温の変化……全てが教えてくれる、おまえは何か『嘘』を吐いているとな」

 「だまれ、ぇ……!」

 「二つ名の餓狼はただの格好付けか? 獣に大義は無い、名誉も無い、情も、論理も、およそこの世界を知性あるものとして生きるに必要な一切を持たない。それでこそ獣、それでこそ餓狼、だというのにおまえは最後の最後で馬脚を現したな」

 「だまれぇぇええええっ!!! がっは、ごぶ、べあぁ……ッ!!」

 「もういい、リンシン それ以上喋っては……!」

 「アンタはぁ、黙ってろ……! それ以上何か、言ってみろ……喉笛噛みちぎるぞ……!!」

 瀕死という言葉も生ぬるい状態に陥ってなお、リンシンの殺意は更に巨大に、熱く、研ぎ澄まされていった。もはや内臓と血液のシェイクにされた腹の中身が肛門から垂れ流れているのも関せず、ただ人の身には有り余る殺意を天井知らずに膨らませる様はもはや怪物と言って差し支えなかった。

 その生き汚い姿を見せて興が冷めたのか、鎧男は一言……。

 「はぁ……無様だな。無理もない、弟子がこれでは師の腕も知れるというものだ」

 「ッ……────」

 「梁山に咲く雷の華、『神虎』とは張子の虎の意味だったか。フハハ、ハハハハハ」



 「いま何て言いやがったぁぁああああああああああああああアアアアアアアアーーーッッッ!!!!!」



 死に体の餓狼が息を吹き返す。もはや全身は徹底して破壊され、立ち上がるどころか呼吸していることが奇跡の領域にありながら、激昂したリンシンは頭を押さえつける足を押し上げるという偉業を成し遂げていた。

 「ふざけんじゃねぇッ!! 殺してやる……ぶっ殺してやらぁ!! 鼻を削いで、歯ぁぶち割って、生皮剥いでぶっ殺してやる……!! テメェが、テメェなんかが知った風な口利いて……ッ、オレの『誇り』を踏み躙ってんじゃねぇぞォォォォオオオオッ!!!」

 それは魂からの憤怒だった。傲岸不遜、唯我独尊を地で行く梁山の麒麟児、餓狼に落ちてなおその才覚を輝かせ続け、その全てを己の欲望を満たすためだけに費やしたリンシンの、渾身の怒りが露わになっていた。

 これに困惑したのはレイファだ。

 自分の知る弟子はこんな男じゃない。

 自分が育てた子はこんな少年ではなかった。

 自分の知る餓狼と呼ばれた男は、こんな義憤に燃えるような男ではなかったはずだ。

 代わりにさっきまで彼女を鼻で哂っていた鎧男の方がこの現状に深い理解を示していた。

 「それがおまえの真実か。ああ、なるほどな。おまえはそういう男だったか」

 納得を得た、そしてどこか悲しげな声音でそう呟く男。兜の奥に隠れた瞳は今なお以て自分に渾身の殺意をぶつける餓狼を見下ろしながら、その真実を吟味していた。

 「おまえの目的は『この国を乗っ取ること』でも、『混沌を制し己が支配者になること』でも、ましてや『真の最強が己だと証明すること』でもない。なあ、餓狼……いや、『美しい星』よ……」

 全ての嘘を見抜いた男の言葉は、痩せさらばえた山犬の本心をここに曝け出した。

 「おまえはただ、『師の名誉を守りたかった』だけなんだな」





 初めて怒りに染まった日の事を今でも覚えている。気付けば相手の胸倉を掴み、他の数人に重傷を負わせた後だった。

 謝れ、謝れ、と何度も頬を叩かれたが、絶対にそれは出来なかった。してはならなかった。だって、それをしてしまったら、自分の非を認めたら、相手の言った事を真実と認めてしまうことになるから……。

 “お前の師匠は本当に強いのかよ?”

 “強いんだったら、どうして町の悪者を倒さないんだ”

 “どうして戦争をしている悪い国を止めに行かないんだ”

 “本当は弱いんだろ! 口だけのお山の大将なんだろ!”

 “弱いんだ、弱いんだ! お前の師匠は弱虫の猫なんだ!”

 「オレの師傅は、弱くなんかねぇ……弱くなんかねぇんだ」

 毎日毎晩、物心ついた時から共に過ごした自分には分かる。彼女がどれだけ高潔で、優しく、強い人であるかを知っている。彼女の強さは本物だと、その教えを受け継いだ自分が誰よりも深く知っている。

 だから、何も知らない者に否定されたことが堪らなく腹立たしかった。そんな事を曰う相手に怒り、そんな奴を力で屈服させる事が悔しくて、そして師の誇りを汚された事が悲しかった。

 強い弱いをどう思うかは人の勝手だ。自分が激怒したのは、まるで世の中が不安定で争乱に満ちているのは梁山泊が動かないからだ、百八の好漢が何もしないからだ、お前の師匠が弱いからだ……そう全ての悪を擦り付ける卑劣が何よりも許せなかった。

 自分が弱ければ、そうでなくても人並みの実力なら、ほらオレの師傅は強いじゃないかと自己完結できた。だが、なまじ師以上の才覚に恵まれていたことが、その小さな疑惑を確信めいた歪みに変えてしまった。

 弟子の自分が、師に劣るはずの己が師の腕を奪うという矛盾に、少年の心は狂気に振り切れた。

 だってそれを受け入れたら、あの日言われた言葉が真実になってしまうから……。

 師の弱さを認めてしまえば、この世に蔓延る理不尽全てが彼女の責任にされてしまうから……。

 「だったら……オレが守るしかねぇだろうが」

 この身にもはや大義は無く、名誉も無く、情愛も、誇りも、道理さえも持ちえない。我は獣、肉を喰らい骨を噛み砕く、醜悪なる獣だ。我が爪は人々を切り裂き、我が牙は国を喰らう。

 我が臓腑は民草の怨嗟が詰まり、憎悪という糞尿を垂れ流しながら更に肥え太る。美しい星は今や地に落ち、正道を外れ世に仇なす一匹の餓狼と成り果てる。

 この身が総ての悪逆を成し得て、悪徳の王となりしその暁には……。

 最強の我を倒せ。

 無敵の我を討て。

 完全なる我を滅ぼせ。

 「師傅……待ってるぜ。アンタがオレのとこに来るまで、ずっとな」

 嗚呼、偉大なる君よ、どうか終焉を。そして地獄を生き延びた有象無象どもよ、彼女を讃え、崇め、奉れ。やがて斃れる我が屍を踏みつけながら、梁山の神虎は紛うことなき義侠の星であったと知れ。

 餓狼の真実は、たったそれだけのことだった。





 リンシンが八年もの間隠し続けた真実は、どこまでも愚かで、歪で、それでいて純粋なものだった。

 「たった……たったそれだけの為に、お前は……」

 「たったそれだけが、こいつにとっては何よりも重かったのだ」

 真実を搾り出し、全ての気力を使い果たしたリンシンは血の海に沈み、もはや一言も発することはなかった。全身を破壊されながら立ち上がってみせた彼は、その足に掴みかかったまま静止していた。

 「仁義八行を汚し、生あるものを殺め、あらゆる悪行に手を染めてなお、魂だけは獣に堕ちなかった」

 餓狼と恐れ蔑まれた男、そんな彼にとって自分を拾い上げてくれたレイファの存在は他の何よりも重たかった。それこそ、その名誉と誇りを傷つけられれば、国を滅ぼそうと思い立つほどに。

 「……なんだ、それは? それが、そんなものがお前を突き動かしていたのか!? 答えろ、起きろリンシン!! お前には私がそんな小さく見えたのか!? 弟子に……子に守られねばならぬほど弱く見えたのかっ! 答えろ、答えてくれ……! リンシンっ、リンシン!!!」

 レイファが左腕で抱き寄せ何度その名を呼んでも、弟子がそれに応じることは無かった。

 「愚か者め……このバカ、バカ者がぁぁ……」

 どこまでも愚かで、歪で、不器用で、そして純粋であったがゆえに、餓狼は他の生き方など選べなかった。皮肉にもそれが彼を畜生道に落とさなかった。仁も義も誠も、己の生までをも、たった一人を『英雄』にする為だけに全てを投げ打って見せたのだ。

 我が師に誇りを。

 「誰がそんな事を望んだッ!」

 我が母に誉れを。

 「お前は、お前という奴は……!」

 全ての栄光を、あなたに。

 「リンっ……シン…………!!!」

 息子に対しレイファができたことは、冷たくなりつつあるその体を出来るだけ強く抱き締めるだけだった。抜け出る魂をここに繋ぎとめようとするように。

 「同志、回収完了しました。やはり国王が私物化を……」

 宝物庫の方角からもう一人の鎧男が戻ってくる。手には何やら包みを抱えており、その中身を確認している。初めからそれが目的で国王に近づいていたらしい。

 「では自分はこれを皇女殿下に献上しますので、同志は……」

 「いや、待て。一つだけこいつにくれてやろう」

 そう言って鎧男が包みから一個だけ取り出したものをレイファの前に差し出した。

 それは桃。しかし、優れた嗅覚を持つレイファはそれがただの果実ではないことに気付いていた。むせ返るような甘い香りと溢れ出る魔力を宿したそれは、よもや伝説に聞く……。

 「華清池の辺に生える神仙の果実、蟠桃だ。食わせずとも果汁を吸わせるだけで死者すら蘇ると聞く。餞別にくれてやる」

 「我が師よ、そんな勝手なことを!? そのような蛮族、生かしておけばどんな災厄をもたらすか……」

 「決めたぞ。おれは決めた。こいつを『三人目』に迎え入れる」

 「正気ですか!?」

 レイファにはこの男たちが何を話しているのか分からなかった。だが差し出された果実は気付けばその手に収まり、それを見て満足したのか鎧男は最後にこう言い残して去っていった。

 「十年経ったらまた来る。その時までに、おれ達と轡を並べられるようにしておけと伝えろ」

 悠然と去る黒い背中二つ。その姿は瞬きの一瞬に幻のように消え去り、半壊した宮殿にはレイファだけが残された。

 餓狼の反乱劇はここにその幕を下ろしたのだった。





 結論から言えば、リンシンは復活を遂げた。神仙の実である蟠桃の力も然ることながら、早期復活の何より大きな要因はあの時点で彼がまだ死んでおらず、辛うじてでも生きていた事にあった。

 「流石のオレも、もうお陀仏かと思ったね。神経ぶつ切り、骨は粉末、内臓液状化…………うん、なんで死んでないんだオレ?」

 「…………」

 「いやぁ、蟠桃さまさまだねぇ! そんなのが蔵にあるんだったら、二つ三つくすねても良かったのにな」

 「…………」

 「せっかく蘇ったんだ。まだオレの息のかかった連中がいる内に、第二第三の策を動かさなきゃな。今回はたまたま邪魔が入ったが、次はもっと上手く、もっと過激に、もっと凄惨に……」

 奥深い山中にひっそりと建つ山小屋で臆面もなく乱世への足掛かりを築こうとするリンシン。復活したとは言え未だに傷は深く予断を許さない状態にありながら、包帯の隙間から僅かに覗く目は獣欲と暴性を秘めた輝きが宿っていた。

 レイファにあるのは、もはや呆れだった。

 「お前は、まだそんな事を言っているのか」

 「アンタは何か勘違いしてるな。オレのことを善人だと思ったか? 本当は義に篤いが、何か事情があって偽悪ぶってるんだと思ったか? 甘いんだよな、オレは餓狼だぜ。この世は力と言った言葉に嘘は無ぇ、オレはオレの望むままに盗み、壊し、殺してきた。自分のしたことを悔いた事は無いし、今更間違ってましたなんて殊勝な態度に出るとでも思ったかい」

 「そう言って私の負の感情を煽るのはやめろ。もう惑わされないぞ」

 「惑わすたぁ、ひどい言い草だ。オレはいつでも本気だったさ。本気で、アンタを餓狼殺しの英雄に仕立て上げるつもりだったのさ」

 口調の穏やかさとは裏腹に、リンシンの拳は包帯が破れるほど強く握られ、それが怒りによるものだと見て取れた。

 「『テメェの師は意気地なし』と言われて、怒らない弟子がいるかよ。『テメェの母親はろくでなし』と言われて、キレない子がいるかよ。『テメェの女は弱っちいカス』だって言われて、それでもオレには退けってのか! 出来る訳がねぇだろ!!」

 「リンシン……」

 その結果、彼は世界を恨んだ。謂れのない不当な評価からレイファを守ろうとした。それが自らが人道に外れるものと知っていても、止まることは選ばなかった。

 「オレはどんなに蔑まれようと構いやしない、どうせ糞まみれで生まれたんだからな。だけどアンタは違う、オレを育て教え導いたアンタが、そんな不当な扱いを受けてイイはずがねぇだろ! オレの師傅は最強。オレの母親は正義。オレの女は、オレが惚れた雷の華は天下に比する者の無い美しい女だって、分からせてやらなきゃいけなかった」

 「リンシン、お前という奴は……。ん? 待て、今何と……?」

 「師傅は最強で、母さんは正義だ」

 「その後、その後は何と!?」

 「……あっ、あー! きずがいたむなぁー!! じゃオレ寝るから起こさないで! 具体的にはもう八年ぐらい放置してくれると有り難い!!」

 宿題を忘れた子供のように下手くそな言い訳をして毛布を被り込んで狸寝入りを決め込む。しかもこの機会を逃せばまた八年も雲隠れする気でいると知り、流石のレイファもここで「息の根」を止めなければと掴みかかった。

 「いい加減にしろ! 聞かれた事には答えろと、私はちゃんと教えたはずだぞ! 言え、言わないか!」

 「ぐぎぎ……! ケガ人相手にマジになって掴みかかるとか、見損なったぞ師傅!!」

 「ああそうだ! 私はお前が思うほど清くなどないし、正しくないし、強くもないのだ! それらはお前が勝手に抱き勝手に押し付けた幻想に過ぎない」

 「師傅……」

 「だが、同時にすまない。私は、たった一人が抱いた幻想にも馴染めない、師としても母としても未熟な者だったのだ。なればこそ……」

 そっと寄り添い、傷付いた胸に顔を押し当てる。それは師が弟子を寿ぐのでも、まして母が子を慈しむのとは全く違う雰囲気だった。

 「私は、女としてお前の理想で在り続けたい」

 それが真実を知ったレイファの心の内だった。師としてではなく、母としてでもなく、たった一人の女として唯一の男の為に報いられる存在でありたいと願うものだった。

 師弟ではなく、親子でもなく、これより二人は真に獣となる。情欲という肉を貪る一匹の獣に……。





 人生全てを武に捧げたレイファの初めてのキスは、どことなく生臭く血の味がした。普通なら不快感を催すはずが、目の前の男が飲み込んだ汚濁の一部でも受け入れられたような気がして少し満たされる気がした。

 続いて服を脱ぐ。胸元と股間を隠すそれを左手で器用に取り去る。男の下半身を覆う物も情緒の欠片もない乱暴さで取り去り、寝所の上には全裸の女と包帯姿の半裸男という倒錯した光景が広がった。

 「少し見ぬ間に、逞しくなったな」

 「それはどっちに言った言葉だよ?」

 「『どっち』もだ」

 熱く、大きく、そして高く屹立する怒張に目が釘付けになる。お互い裸など子供の頃に風呂で見たぐらいで、それから随分と様変わりした男の姿にレイファは湧き出る唾を飲み込むだけで精一杯だった。

 体が熱くなる。今まで意識しなかった男の“雄”にあてられて、自身の“雌”が今生で初めての盛りを迎えて燃え滾る熱さに身が包まれた。

 今すぐこれを握りたい。無用の長物と化していたこの膨らみで挟み込み、牙を隠したこの口で丁寧に舐め上げてあげたい。誇り高き武闘種族にあるまじき下品な劣情が種の保存欲求と共に止めどなく胸の内から溢れ出し、レイファはたまらなくなってそれに愛おしそうに頬擦りをした。むせ返る雄の匂いを胸一杯に吸い込み、吐き出した吐息を塗りつけるように顔全体でその熱を確かめた。思わぬところで子の成長を見届けられた事に歓喜を覚えながら、柔らかな唇が膨れ上がったカサに触れる。

 「ちゅ……」

 「おっ!?」

 「ハッ、なんだその反応は? 散々悪事で鳴らした男が情けない声を上げるな……!」

 鈴口に触れる程度の軽い接触、にも関わらずリンシンは電撃を受けたようにびくりと反応する。その仕草がくせになって、舌を使い丁寧に先端を重点的に愛撫する。汗に似た塩の味が口に広がるが、それすらも甘露に感じるほど今のレイファは燃え上がっていた。

 「女慣れしてなくて悪かったな。生憎、んなことに縁が無かったからよ」

 「嘘をつけ、村々で女を拐かしていただろう」

 「あれは皆、野郎共に報酬でくれてやった。オレはお手付きなんてした事もされた事も無ぇ」

 確かにレイファの嗅覚はリンシンから異性の匂いを何一つとして感知しなかった。それはつまり、餓狼と呼ばれ空前の悪党と恐れられたリンシンが青い果実であることを示し……。

 「男が操を立てて悪いかよ。オレにとっての女は、今も昔もこれからもアンタだけだ」

 「……っ。あっ!」

 心臓が一際大きく波打ち、全身がこれまで以上に熱を帯びる。鼻から垂れ出た熱い液体が己の血液だと気付くと、今度はそれが恥ずかしさの熱に早変わりした。それを見たリンシンが大笑いする。

 「ブッハハハハ! 何だよそれ! 興奮して鼻血って、うはは、初めて見たぞおい! ギャーハハハハ!」

 「う、うう、うるさいな!! 悪いか、悪いのか!」

 「いいや、むしろ……アンタの意外な一面を知れて役得だぜ。やっぱりオレに見立てに狂いは無かった。アンタはこの世で一番美しく、優しく、可愛い女だ」

 「か、かわっ!? 師をっ、親をからかうつもりかお前!」

 「今は男と女だ。こっちはケガ人なんだ、ヤるんならちゃんとそっちが主導権握ってくれないとな」

 「〜〜〜ッ! 言われずとも……。あ、あああッ、んぁ!」

 リンシンの雄を自らの秘所に導くと、それをくわえ込んだ。すんなりと体内を掻き分けられた感触に全身が総毛立ち、絶頂には程遠いはずの腰がガクガクと痙攣を起こす。

 「はぁぁぁっ、あぁぁ〜〜〜!」

 「なにへばってんだよ。ほら、さっさと動いてくれよ、『媽媽』」

 「お前なぁ……ん、あ! いや、ちょっと待て。冷静に考えて重傷人のお前にこのようなことは……はっ」

 「ほんと今更だな! じゃあこうしよう。このままお互いにぴくりとも動かずに過ごそう。南の島に住む土人はそうやって交わると聞いたことがある」

 「そんな方法が……ふぁ!?」

 重傷のはずなのに力強い腕で抱き寄せられ変な声を上げてしまう。股にくわえ込んだモノが秘所を掻き回し、身悶えする小さな快感が腰を打った。

 動かずに交わるなど聞いたことがない。だがリンシンに無理な負担を掛けずに済むのならと、レイファは大人しく抱き枕にされることにした。八年振り、喧嘩別れした期間も含めれば実に十年振りになる添い寝に懐かしい記憶が次々と蘇ってくる。

 (本当に、逞しくなったな)

 いつの間にか厚くなった胸板に抱かれ、その奥で熱い血潮を送り続ける心音に耳を澄ませた。この強く逞しい肉体を己が鍛えたのだと思うと誇らしい。そして、その逞しい胸に身を預けている今の何と至福な時間であることか。幼かった少年はいつしか大人になり、立派な男としてここにいる、それが堪らなく嬉しくそんな相手に抱かれている事実に名状し難い興奮を覚えて止まない。武闘に生きる魔物娘の本能がこの男の全てを欲して疼いていた。

 だが今は動けない。くわえ込んだ熱を帯びた塊を意識してしまい、身を焦がすようなじれったくてもどかしく、くすぐったい感覚がじくじくと敏感な部分を責め続けた。

 「ん……は、ぁ。ふ……」

 「どしたよ、もじもじして。ションベン? 何か垂れ流さないと収まりつかないのかよ」

 「違うっ! そこまで緩くないっ!」

 「だったら、ほらよ。もっと近くに寄れ。そして昔みたいに抱き締めてくれよ、なあ」

 「ふぁっ、ちょっと待……くぁ〜ッ」

 腰は一切動かさず、ただ抱き締められただけ。それだけで脳天と子宮を一本の杭で貫かれたように体がピンと張り詰め、快楽の電流が全身を駆け巡った。

 しかし、今や体はリンシンにひしと抱き留められ、その快楽に身をよじることすら許されない。行き場を失った快楽は徐々に、少しずつレイファの肉体の奥に蓄積されていった。

 一時間。少し眠る。

 二時間。少し喋る。

 そして三時間経つ頃、二人の体は激変に晒されていた。

 「はーっ、はーっ、はーっ……」

 「ふぁ、ああっ! ひあああっ!?」

 夏の盛りはとうに過ぎ、布団の上で繋がり合い抱き合って横たわるだけの二人は、いつしか互いに雑巾を絞ったような汗が噴き出し、灼けた鉄を突っ込まれたみたいに上昇する体温で息も絶え絶えになっていた。

 しかし苦しみは感じない。むしろその逆、二人は今やかつて味わった事のない快楽の奈落へと引きずり込まれ、その精神は桃源の最果てを目指して飛翔していた。

 「なんだ、なんだこれは……! ああっ、し、知らないっ! こんなの知らない……っ!? 交わりがこんなにぃ、気持ちいなんてぇーッ!!」

 もはや意志など関係ない、二人の体と意識はドロドロに溶け合い真の意味での合一が成されようとしていた。古来より煉丹や房中術と呼ばれたものの秘奥に接しているとは露知らず、陰陽和合の理は今や二人を快楽を貪る獣以外の何者にもしなかった。

 やがて終わりが来る。昇り詰める感覚から一転、不意に足場が消失したような浮遊感にレイファが悲鳴を上げる。多幸感が恐怖に変わり、思わず支えを欲してリンシンをそれまで以上に強く抱き締めた。

 「ひ、ぃッ! だめ、だめだめだッ! お……おち、るッ!!? ひああーッ!」

 「いいぜ、ほら、来いよ!」

 ここぞとばかりに突き上げるリンシン。そして、その一突きをもって……。

 「ひ、ッ────ぁ!?」

 レイファは、決壊した。

 「ああああ゛ァァァッーーーッ! イクッ! イグゥゥゥアアアア゛ア゛ーーーッ!!」

 咆哮と同時に収縮と痙攣を繰り返す。未経験の蠢動にレイファ自身が為す術もなく翻弄され、チカチカと舞う星に視界を覆い尽くされて、半狂乱に陥ったように叫び続けた。それと同時に胎内を貫いていた怒張が一瞬膨れ上がり、一番奥に煮え滾る熱い生命を注がれる。間欠泉のように湧き上がるそれは快楽に打ち震えるレイファの最奥を容赦なく熱し、その事に彼女は雌として究極の幸福を覚えた。

 「あー、あーっ! ああ゛ーッ」

 ともすれば苦悶の断末魔だが、涙と涎と鼻水を垂れ流しながら男の胸に身を預けるその姿は、壮絶な快楽と幸福に身を浸しきったオンナの顔だった。

 同じく息切れするまで追い詰められたリンシンが、その頬を優しく撫でる。覆われた包帯で全容ははっきりとしないが……。

 「またオレの勝ちだな、レイファ」

 きっとそれは己の勝利を誇る笑顔だったに違いない。





 餓狼の目論見に反し、国王への反逆はあくまで霧の大陸の一角で起きた事件として幕を閉じた。周辺各国が介入するまでもなく、国王は再び玉座に就き何事も無かったように強権と重税で国民を虐げ始めた。

 しかし、その政権は二年も保たなかった。突如として一斉蜂起した革命勢力によって国内の権力者はその殆どが一掃され、僅か一月足らずの間に国王はその権勢を失墜、玉座を追われて国は新たな指導者を擁立し新生する事となった。

 後に第二戦国期と呼ばれるこの時代、新たな国主を立てたこの国は破竹の勢いで他国を打ち負かし、その全てを併呑して次々と征服し支配下に置いていった。戦場にあって王は自ら陣頭に立って指揮を執り、猪一番に戦場を駆けて武功を上げる姿に全ての兵士は乱世の希望を見出したとされている。

 そして戦国時代はこの十年後に終結。数多の国を征服し霧の大陸を手中に収めたその王は真なる覇者として皇帝を名乗り、大陸の全てを力によって掌握するという偉業を達成した。

 「豺狼帝」と呼ばれたその王は後世においては綱紀粛正と称し宮殿の官僚と、それに連なる地方貴族を一族郎党含め皆殺し、更には戦場での残虐行為を奨励した暴君として知られる事になる。

 しかし、課せられていた重税を適正なものに見直したり、鎖国状態にあった大陸を開放し西側諸国との平和的国交を樹立、その他にも治水や疫病対策、農地改革など内政と外交の両面で有能な結果を残した記録があり、名君と再評価されるのはそれから遠いことではなかった。

 皇帝になる直前、一人の男が“十年前の約束”として豺狼帝を訪ねに来た事が記録に残っている。

 再戦の結果がどんなものだったかは定かではないが、その時皇帝は一人では戦わなかったという。

 隻腕の人虎……それがかつて師であり、母であり、副官であり、そして皇帝唯一の妻だった事は広く知られ、後世の武侠小説では二人の半生を描いたものが数多く出版されることになる。
16/01/27 02:36更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 疲 れ た (半ギレ)
 バトル、バトル、バトル、(申し訳程度の)エロ。正直詰め込みすぎた、反省はしてる。だが私は謝らない(ショチョー)

 リンシン君は今シリーズで最初に考えたキャラ。ぶっちゃけ、こいつと鎧男を戦わせたいが為に今作を始めたと言っても過言ではない。

 第一話のレイン君を上回る驚異のマザコン。今回の一件も元を質せば、「ママを馬鹿にされたから」という行き過ぎた愛が溢れた困ったくん。
 なお恐ろしいことに、二人きりの時は「ママ」呼びである。

 今作最強三人衆の一人、「技のリンシン」。だいたいの相手には無策で勝てる。何らかの方法で勁を封じられても勝てる。相手が基本スペック百倍ぐらいでも、勝てる技術をその場で編み出して勝つ。放浪時代に自分より格上をばんばんぶっ倒してたりする。
 今回は相手が悪すぎた。クリ○ンとブ○リーぐらいの差。ぶっちゃけ十年あっても、百年経っても勝てない。

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