連載小説
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第一幕 皇帝と愚者:後編
 「姫様……本当に、本当に行かれるのですね」

 「エレナ、私の友達……いいえ、母を亡くした私にとってあなたは、姉であり母でした。そんなあなたを残して行く私の身勝手さを許して」

 「もったいなきお言葉。ですが、どうかお考え直しください。王子たちの蛮行も宰相閣下がお止めになるはず」

 「いいえ……悲しいですが兄上たちはもう、行くところまで行かなければ気がすまないでしょう。王宮も今や安全な場所とは言えなってしまった」

 「姫様……!」

 「折角あなたにダンスを教えてもらったというのに、まったく活かせないままだった。もし次に会う時はまた一緒にお茶を楽しみましょう」

 「必ず……必ずやお迎えにあがります。どうかその日まで息災でいてください!」

 かつての約束は、果たせぬまま……。










 二時間ほどして夜会はお開きとなり、賓客たちがぞろぞろと帰っていく。その様子を主催者として見送るレイン。

 「どいつもこいつも……無駄に肥え太ったブタ野郎どもが」

 だがその表情は宴会が始まった当初のやる気のないものではなく、帰っていく客人の背をまるで親の仇のように睨みつけていた。

 「殿下……」

 「レイン王子」

 大ホールに残ったのはレインとエレナ、そして宰相の三人だけ。あとの使用人たちは下がらせた。どの道、最初に用があるのはこの二人だ。

 「プライベートパーティーだった。いくら王族の招待だって貴族たちも暇人じゃない、見ず知らずのボンボンのお披露目に式典でもないのにここまでの人数が集まるかよ」

 「それは、皆さん殿下のお知り合いで……」

 「オレは生まれも育ちも片田舎の安宿だ。そんなオレに貴族の知り合いがいるわけねえだろ。答えろよ……あの連中、誰の知り合いだ?」

 「…………」

 「答えられないか? だったら教えてやる。オレのお袋、アイナ・レーン・アルカーヌムの知り合い……そうだろ」

 五代目には三人の子供がいた。後に政争を引き起こす二人の王子と、年の離れた姫。王位継承権は三人に等しく存在していた。

 その末の妹こそ、後にレインを生むことになるアイナ姫その人である。

 「正直……オレは少し驚いてる。オレの知ってるお袋は社交的な人じゃなかった。一日中部屋にいて、ベッドに寝たきりで、誰かと話すどころか水を飲むのも億劫で、枯れ木のように痩せ細ったお袋が……こんなにたくさんの人に覚えていてもらっていたなんてな」

 「やはり、アイナ様は……」

 「やはり? やはりって何だ、白々しい事言ってんじゃねえよ。お前らは何年も前からお袋の居処を掴んでた、そうだろ? じゃなけりゃ、親父とお袋が死んで都合よくオレの前に現れたりするもんか」

 レイン自身、自分の母親がどこか浮世離れした人物であることは察しがついていた。流石に王家の人間とまでは分からなかったが、田舎町にひしめき合う連中とはどこか違う世界の人間であることは感じていた。

 だからこそ、自分の出自が明らかになって納得し……同時に怒りを覚えた。

 「本当なら、ここにこうして立っているのはオレじゃなくてお袋のはずだった。どうしてお袋が居ないか分かるか? お前らが見殺しにしたからだよ!」

 「それは違う!」

 「何が? どう違う? オレの伯父貴が二人して死んだのが十年前で、親父が事故で死んだのが七年前、お袋は病気に罹ってちょうど一年前に逝っちまった。あんたら十年も何してたってんだ、ええッ!? あんたらだけじゃない! 伯父貴の粛清から逃れた貴族が、お袋と親交があったって連中があんなにいたのに、あいつらは何をしていた!! 『お知り合い』ってのは相手の顔と名前だけ知ってる奴のことを言うのか!!」

 「彼らにも事情というものが……!」

 「事情、ねえ。そんなにあんたらは、一国のお姫様が平民と結ばれたことが気に食わなかったのか! 蝶よ花よと愛でられ国の行く末を背負った高貴な女が、よりにもよって逃亡先でケチな安宿を経営する男の妻になったことが、そんなに悪いことだったってのか!!?」

 「ちがう、そうじゃないんだ……」

 「もういいッ!! もうたくさんだ!!」

 昂ぶった感情のままに礼服を乱暴に脱ぎ捨ててレインはホールを去ろうとする。しかしそれに追いすがるエレナが行く先を阻んだ。

 「お待ちください、殿下!」

 「母さんを除け者にして飲む紅茶は美味いなぁ、おい? 伯父貴たちに手を焼いたそうだが、さっさと母さんを女王にしてしまえば良かったんだ」

 「姫殿下は……アイナ様は、自らのご意志でここを去られました。ご自分が王室に残ることで政争の更なる混乱を未然に防ごうと……」

 「そう言って、結局誰も伯父貴たちの暴走を止められなかった。母さんがここに残れば伯父貴のどっちかに殺されて直系の血は絶えていた、あんたらはそう言いたいんだろ? オレは別に母さんを行かせた事をとやかく言ってるんじゃない、オレの知ってる母さんならそうしたからな。その意志は尊重できる」

 結果だけを見ればアイナは次代へ血を残すことに成功し、混迷の王国への解決策を出すという偉業を達成した。彼女こそ王国の真の救世主として永劫語り継がれるべき存在であることは、ここに居る三人が一番理解している。

 「伯父貴が死んでから、母さんはずっと待っていた。混乱が収まりいつか王宮から、自分たち家族を迎えに来るはずだと……本気で信じていただろうなぁ」

 レインは今でも覚えている。病床に伏せった母はいつも窓の外を眺めて過ごしていた。今にして思えば、あの窓は王都の方角を向いていた。いつ来るとも分からない迎えを待ち続け、遂にそれが来ることもないまま彼女はこの世を去ってしまった。

 「待っていた……ああ、待っていたんだよ、母さんはずっとなぁッ!!! 母さんは自分が身を引くことでこの国を守ったかもしれないが、この国は母さんを守らなかったじゃないか……!!」

 「だから……それだから、殿下は王にはならないと?」

 「オレが王位に就かないのは、あんたらの為でもあるんだぜ? オレはこの国が嫌いだ……母さんを守らなかったこの国が、母さんを見捨てた連中がのさばるこの国が大嫌いだ。もしオレが王になれば、アルカーヌムの歴史はオレの代で閉じる。暗君の伯父貴たちと、暴君のオレのせいでこの国は終わるんだよ!!」

 「…………!」

 「でも安心しな。母さんはこの国が好きだった。この国を救う為に身を引いた母さんの意志を無にはしない。だから、次の王はオレ以外の誰かから選べ。オレは今まで通りに穀潰しで生きていく。……もうオレに構うな」

 吐き捨てるようにそれだけ言うと、とうとうレインの姿は見えなくなった。彼が去った後の静けさは、もう二度と彼がこの煌びやかな世界には戻ってこないことを暗示しているように感じられた。

 王位に就かない……つい半年前まで平民だったレインが下した決断の裏には、無念のうちに亡くなった母に対する弔いという重すぎる意味が込められていたのだ。

 「この国は姫を救わなかった、か。そう罵られても仕方のないことだ。これが誤解ならどれだけ救われただろう」

 「ですが、事実です。我々が手をこまねいている間に姫様は……」

 「殿下のあの様子ではこちらの言い分も聞いてくれそうにない。アイナ様は本当に良き母であらせられたようだ」

 「やはりあの時に何としてもお止めするべきでした……」

 「私がそうするよう頼んだとは言え、流れる水のように世を渡って来た君が、どうしてあそこまで殿下を気にかけるのか……不思議ではあった。きっかけ自体も君から作ったと聞く」

 「ワタクシを姉や母と慕ってくれた方……そんな御方の残された一粒種、どうして道化に甘んじていられましょう。ですがもう駄目なのです」

 二十余年前の約束を果たせないまま、帽子屋は正真正銘の道化に堕ちてしまっていた。包み隠すことを知らないエレナの人生においてそれは、唯一にして最大の恥ずべき記憶となってしまったのだ。

 夜は耽る。悲しみだけを残して。





 半年間ここに住んでいるレインだが、一度だけ私物を持ち出すため実家に戻ったことがある。と言っても母親が死んでからはボンクラ生活に磨きがかかり、金目の物はその大半を質に入れてしまった為身軽だった。

 持ち出したのはたった二つだけだ。父と母の遺品だけ。

 ひとつは事故で亡くなった父親が身に付けていた指輪だ。全体が金で出来た相当高価な代物で、安宿の経営者が持つには分不相応な装飾品だ。それもそのはず、元はこの指輪は逃亡してきた母・アイナが身に付けていた物。宿を潜伏先として選んだ彼女が宿泊代として預けたのを、父は売り飛ばさず後生大事に保管していた。その縁があって二人は身分の垣根を越えて結ばれたという。

 アイナの病は決して治らない悪質なものではなかった。効く薬と確かな腕を持つ医師に掛かり、静かに療養していれば生き存えたはずなのだ。当時は自分たちが王家の人間とは思いもしなかったから、これも運命と受け入れた。だがその実態は十年も母を放置した王宮の後手後手な対応も一因としてあったことを知り、レインはこの半年で王宮に対する不信を募らせていった。

 最初は面食らった王位継承の件も、時が経つに連れて戸惑いは怒りに変わった。

 「何が、次の王はあなただけです、だ……。バカにしやがって」

 生まれは平民でも恥は知っている。厚顔無恥という言葉が現実に存在し、その権化が自分に媚び諂う様は虫唾が走る。

 要は尻拭いをしたいのだ。二十数年前に起きた政争で王家直径の血は絶え、暗黒時代に終止符を打つには最も濃い血を引く者が王位を継ぐのがベスト。残った候補は言わば枝葉、直系の血を引くレインと比べれば有象無象、団栗の背比べでしかない。

 つまり、血統という他の一切を黙らせる要素を持つ第一候補が退けば、第二以下の候補達の間で再び後継者争いが勃発するのだ。それを分かっていたからこそ、宰相とエレナはここまで必死に説得を試みたのだ。

 だがそんな事情はレインにとって何の関係もない。母がならなかったモノに、何故自分がならなければいけないのか。例え目の前に山ほどの黄金を積まれようと、この世の美女全てが足元に傅こうとも、この心だけは絶対に変わらない。変えてはいけない。

 もし何らかの手段で強引に玉座に座らされれば、腹は決めている、伯父二人が行ったものなど目じゃない暴政を敷きこの国の歴史を終わらせるつもりだ。

 第二の後継者争いが起これば今度こそこの国は内から崩れる。壊れ行くこの国の姿を父母への手向けにするのも良いだろう。

 「保ってあと十年かな……。さらば、アルカーヌム」

 諧謔のようにそう呟きグラスの中を呷る。城下で買った安酒の方が旨いと感じるあたり、元からこの話は自分に縁が無かったのだろうと思うようになる。たまたま血筋という説得力を持たされただけで、それ以外では何の取り柄もないのだ。

 すると、ドアを叩く音が聞こえた。

 「殿下、よろしいでしょうか」

 声は予想を裏切らずエレナのものだった。

 「今日はもう疲れたんだ。悪いけど、また今度にしてくれ」

 「分かりました。それでは、また明日お邪魔させて……」

 「明日は城下に用があるから無理だ」

 「では、明後日……」

 「明後日もだ。その明日も、その次の日も、来週も、来月も……オレはあんたには会わない」

 「…………」

 「帰れ。道化は道化らしく、貴族相手に笑いを売ってろ」

 「……お休みなさいませ」

 部屋の前から気配が消える。本当にエレナが去ったと確信し、カバンの中から「二つ目」の遺品を取り出す。

 「母さん……あんた、バカだよ。友達を見る目が無かったんだ」

 取り出したのは帽子。女性が被る鍔の広い物。母が元気な時はいつもこれを頭に着けていた。

 鍔の内側には綺麗な刺繍でこう刻まれていた。

 Dear Ina. From Elena.

 親愛なるアイナへ。エレナより……。





 それからレインは元の生活に戻ってしまった。以前のように昼間から酒を飲み、博打をし、食堂や酒場をハシゴする毎日。それは母が死んで一人で暮らすことを余儀なくされたあの頃と同じものだった。

 あのダンスパーティーの後、エレナと宰相には会っていない。自分と同じく一日暇なエレナはともかく、あの小うるさい宰相も関わってこなくなり、王都に来てやっとレインは自由を手に入れることが出来た。

 日がな一日、馴染みの中年達とカードゲームに興じる日々がしばらく続くことになった。

 「よっしゃ! 今度もオレの一人勝ちだぜ!!」

 今日も今日とて、ケチな端た金で博打を打つ日々。王宮で作法の指導を受けていた頃と比べて、楽天的で、非生産的で、退廃的な時間だけが流れていく。

 「やっぱここでこうしている時が一番楽しいぜ」

 「人間、ダラダラと過ごしていられるなら、そうしていた方が一番だからなぁ」

 「まったくだ」

 いつしかここはレインにとって真の憩いの場になりつつあった。宿代わりに使うだけと言っていたが、今や本当に王宮は寝泊りするのに帰っているだけで、殆ど城下の人間として溶け込みつつあった。

 父と母が健在で、まだ宿を経営していた頃を思い出す。宿には昼日中から酒を飲む穀潰しがたむろしていたが、彼らもここにいる者達と同じ温かみがあった。ろくな仕事はしていないだろうが、そういう部分とは違うところで人情のようなものがあったのを幼心に理解していた。だからこういう庶民が集まる場所に惹かれるのだろう。

 出来ることなら、何も知らぬ一平民として生きていければ良かった。そうすれば自分は今もあの田舎の酒場で自由気ままに飲んだくれていられたのに……。

 (いや、いいか別に。オレはどうせ穀潰し、それなら今の方が将来を気にしない分気楽ってもんだ)

 寝泊りするには充分過ぎる宿、温かいベッド、うまい食事、尽きない金、そして昼間から意気揚々と遊べる相手……今のままでも充分以上に幸せじゃないか。

 そうだ、もっとこの幸せを享受しよう。実を結ばぬ無為な快楽と知っても、その無為に浸るぐらいでいよう。

 そう思いながら次のゲームを始めようとカードを切る。

 「なあ、聞いてくれ」

 ふと、仲間の一人が言った。

 「仕事が決まったんだ……。街のゴミ掃除じゃない、まともな給料が出る仕事が」

 そうか、良かったな……その時はそう言った。

 その次の日、別の仲間が言った。

 「実はよぉ、知り合いに商売を持ちかけられてんだ。ここじゃない別の町に行くことになるだろうな」

 そしてまた、別の日。

 「田舎に帰るよ。土いじりなんて何年もやってないが、まあ何とかしてやっていくさ」

 一人、また一人と、初めて会った時と同じようにあっさりと、男達は酒場から離れていった。

 所詮、自分達の繋がりは人生という道に設けられた接点、交差点に過ぎなかったのだ。たまたま道が交わり、たまたま言葉を交わす機会があり、そして時が経てば自然と過ぎ去っていく。川の流れと同じこと、最初から分かっていたことだった。

 結局、最後に残ったのはレインだけだった。

 誰でもなく、何にもなれず、ただ日々を無為に過ごすだけの彼が最後に残ってしまった。

 「クソ……!! クソ、クソックソクソ!! クソが……!!」

 置いて行かれた、この無意味で退廃的な溜まり場に一人だけ残されたことを、レインは恨んだ。筋違いと分かっていても、彼らには彼らの生き方があると分かっていても、自分だけが何にも成れないまま腐っていく現実を突きつけられたような気がした。

 「酒だ……酒もってこい!! こんなんじゃちっとも酔えねえよ!!」

 話し相手が減った代わりに酒の量が増え、カードの代わりにグラスを持つ回数が増えた。昼も夜も関係なくアルコールを呷り、店を追い出されれば賭場に出入りして散財し、たまに大勝ちしても卓を同じくした連中に気前よく酒を振る舞い、そして自分も相絆に与る。退廃的を通り越し、もはや彼が自堕落の極みにまで落ちた憂国の王子とは誰も思いもしなかっただろう。

 不意に故郷の懐かしい記憶が頭をよぎった。

 初めて酒の味を覚えたのは、十と少し。この国の感覚ではまだ子供、もちろん本来なら酒を飲んではいけない年齢。だがそこは風紀が緩い田舎のこと、飲んだくれの客に勧められたのをきっかけにコップの底に残ったのを一口含んだのだ。

 それを見て顔色を変えたのが母だった。しゃっくりが止まらない自分の手を引っ張って家に連れ戻し、何度も何度も頬を叩かれた。最終的に父が止めてくれたが、後で鏡を見てリンゴのように顔が膨れていたのを覚えている。

 母は強く、厳しく、そして清らかだった。あの何もかもが緩みきった田舎の雰囲気とは違い、母の周りだけはいつも厳かな空気が満ちていた。元は王家の箱入り娘、厳しい教養や作法を身に付けたのだからそれも当然だったのだろう。

 もちろん厳しい反面、優しくもあった。潜伏生活中に覚えたのか、彼女の作ってくれる料理は温かく美味しかった。母は父を慕い、父は母を愛し、自分はそんな二人の子供として生まれ育った。幼い自分にはそれで充分だった。

 だが父親が馬車にはねられこの世を去ってから、母は後を追うように痩せ細り、日に日に衰えていった。医者が言うには栄養失調で、簡単に言えば精のつく物を食べさせれば良いとのことだった。辺鄙な田舎にそんな上等な物があるはずもなく、事実上の余命宣告のようなものだった。それでも生き存えたのは彼女の気力による部分が大きかった。

 でも結局、王宮からの迎えを待たずして母は逝ってしまった。せめて迎えがあと一年早ければ、彼女は故郷の土を踏んでからこの世をされたものを……。

 「くだらねぇ……」

 どの道、王宮は母を迎え入れる気は無かったのだ。国外へ逃げた訳でもなく、兄王子が共倒れになって十年、探そうと思えばもっと早く見つけられたはずなのだ。それを狙いすましたように母が死んでからの出迎え……疑うなという方が無理な話だ。

 王宮は選ばれた者のみが住まうことを許される。かつて国の希望を背負った女はどこの馬の骨とも知れぬ男と添い遂げた、だから追放された……少なくともレインはそう考えていた。

 「バカにしくさりやがって……!!」

 夜、人通りが全く無くなった深夜の道を一人、千鳥足になったレインが帰路の途中。夕方からずっと飲み続けたおかげで右も左も分からず、目に映った光景を頼りに見覚えのある道をよろよろと歩く。息は重篤患者なみに絶え絶えで、顔は赤くなったり蒼くなったり大忙しだった。

 「ハァ……ハァ……ゥっ!? げぇぇえええ、がああぇええーーーっ!!!」

 足元の石に蹴躓いて体勢を崩した瞬間、吐き気に襲われ胃の中身を全部ぶちまける。と言っても液体しか詰まっていないので胃はあっという間に空っぽになった。これで少しは楽になったと再び足を踏み出す。

 しかし……。

 「なん……だ、こりゃ…………」

 急に目の前に壁が立ち塞がる。頭の冷静な部分ではそれが地面で、自分が倒れたのだと分かっている。だがどうしても手足が言う事を聞いてくれない。無理に四肢に力を込めると今度は頭が締め付けられるように痛む。

 (飲みすぎたな、こりゃあ……)

 遠のく意識を抵抗もせずあっさりと手放し、自分が作った胃液の水溜まりに突っ伏して泥のように眠ってしまった。





 「────……ここは?」

 「殿下! お気づきになられましたか!?」

 急性アルコール中毒で死線を彷徨い、回復して意識を取り戻した時には三日も経っていた。日付が変わっても帰って来ないレインを心配し、王宮総出で街を捜索、路地裏で気を失っている彼を運び込み医者に診せたのだ。

 「まずは何より安静第一ですな。数日もすれば起き上がれるようになりましょう」

 ちなみに当然だが、当分の間は禁酒を喰らう羽目になった。一歩間違えれば死んでいたのだから、断酒ぐらい安いものだ。それと同時に外出禁止も受ける。しばらくは使用人を監視に置いて養生しなくてはならなくなった。

 だが、それらは一筋縄では行かなかった。

 「君たち、何をしている」

 政務の合間に様子を見に来た宰相が、部屋の前でまごついている使用人たちを見咎めた。

 「早く殿下に食事を運ぶのだ」

 「そ、それが……王子は誰にも会いたくないと、仰せになって」

 「なら私が許可する。早く中へ……」

 「中から鍵がかけられて……」

 立て篭ったレインは誰とも接触を取らなくなった。脱走してくれていれば良かったのだが、どうやらその痕跡もなく、彼は寝室に篭ったまま完全に外部との接触を断ってしまった。

 つまりは飲まず食わず、このまま時間が経てば今度は餓死の恐れもある。何としてでも彼の健康と安全を……。

 「少し失礼をば……!!」

 宰相の脇を黒い風が通り過ぎ、扉の鍵穴には大きすぎる斧が突き刺さった。斧を投擲したのは、やはりと言うべきかエレナだった。

 「何……それ?」

 思わず宰相も畏まった言い方を忘れる。

 「この屋敷中の扉を開錠できる魔法の鍵でございます」

 「そんな物騒な鍵があってたまるか!? 危うく僕の腕まで切り落とされるところだったじゃないか!」

 「そこまでノーコンじゃありません。ともあれ、これで中に入れるようになりました。ささ、閣下どうぞ」

 「まったく、君という奴は……」

 刺さった斧を引っこ抜き、取っ手に手を掛けていざ中へ……。

 入ろうとした宰相は押し寄せる家具に押しつぶされた。

 「閣下? 閣下ー、大丈夫ですかー?」

 「五十年前だったら死んでたよ……」

 「こんな手の込んだ罠を仕掛ける所を見るに、殿下の病状も幾分回復されたご様子。閣下、ここから先はワタクシ一人にお任せいただきたく」

 「だが……」

 「お願いします。どうか……どうか」

 「…………一任しよう」

 言質を取ったエレナがドミノ倒しになった家具を乗り越えて部屋に侵入する。踏み台にした時に足下から「ぶみゃ」という奇妙な悲鳴が聞こえたが、とりあえず無視した。

 エレナとて踏み台にした相手を気遣わないほど非情ではない。逆だ、無視しなければならないほど彼女は急いでいた。

 部屋を開けた時に気付いた。普段からいい茶葉を選ぶ彼女だから気付けた。

 これはアルコールの臭いだと。





 突入したエレナが見たのは、窓辺で一人椅子に腰掛けながら今まさに酒を飲もうとグラスを持つレインの姿。注いだその表面はまだ完全にアルコールが抜けきっていたいのか、震える手の振動で波が出ていた。

 「……入ってくんなよ……」

 鬱陶しそうにこちらを向くその目は、とても虚だった。

 この半年、彼が見せていた顔は、本来の彼自身のカオではない。初めて会ったその時、目は窪みに濃い隈が表れ、頬骨が張り出し、髪はバラバラ若いのに無精ヒゲを蓄え、格好はまるで浮浪者だった。これがあのアイナの息子だとは信じられなかった。その目の色を見るまでは。

 そこからあの全てを軽く見るあの言動が出てきた。いや、出てきたのではない、彼が「作った」のだ。この狭く苦しい、それでいて全てが虚飾に満ちた王宮……それを批判し、糾弾し、嘲笑う為に、彼は軽薄で諧謔に満ちたろくでなしの穀潰し王子になった。

 それは、そう、まるで……道化のように。愚の側面を現すピエロのように、彼はずっと真実を贅肉の下に隠してずっと批難し続けていたのだ。

 「何を今更驚いてんだよ……。お袋は……あんたの友達は、これよりもっとヒドかったんだぜ。あぁ、そっか……あんたらが迎えに来るより先に、お袋はくたばったもんなぁ」

 薄く笑うその顔は、もはやどちらが道化かも分からない。

 唯一つ確かなのは……。

 「何を……何をしておられるのです、あなたはっ!!」

 レインはとっくの昔に生きる気力を失くしているという事だけだ。

 エレナの手がグラスを叩き落としピシャリと音が響く。そんなに強く叩いたわけではなくしかも手の先なのに、痩せた体は椅子から転げ落ち本棚に激突、何冊かがそこから落ちた。

 「いっ……てぇなぁ……。なにすんだよ……」

 「どうしてそこまでご自分を追い詰めるのです!? 母上は……姫様がそのような事を望んでおられるとでも?」

 「あんたには、関係ないね……」

 「いいえ、関係あります! あなたは、あの方の……アイナ様の……!!」

 「その薄汚い紅茶臭ぇ口で母さんの名前を呼ぶんじゃねえ!! ぶっ殺されたいのか、アァッ!!? あんたは結局は何も出来なかったじゃないか!! ずっと待ってたんだぞ母さんは!!」

 その言葉に二の句が告げなくなる。確かに王宮はその気になればいつでも王女アイナを探すことが出来た。極秘扱いだったが、彼女が国内にいることも知る者はいた。他でもないエレナがその一人だった。

 だがそれが出来ない理由があった。単純で、どうしようもなく、そして下らない理由が。

 「確かに、殿下の仰るように、王宮内部でアイナ様を王位に就かせまいとする勢力が存在したのは事実です。当時は後継者争いの混乱が収まったばかりで、新たな火種とならないよう平和的解決を図り、その結果としてアイナ様の捜索が遅れる事になりました」

 「十年もな。結局、よそでガキをこさえたアバズレ王女なんか要らないってことだったんだ」

 「……いいえ。アイナ様をお迎え出来なかった本当の理由はそれではありません。その時の王宮はアイナ様にお子がいらっしゃる事も知りませんでした。アイナ様を遠ざけた理由、その真相はもっと残酷なものだったのです」

 「…………何だよ?」

 「アルカーヌムは代々、男性が王位を継ぐことでその血脈を今日まで伝えて来ました。既にそれが慣習となって久しく、暗黙の了解として国王は男性がなるモノとして広く認識される結果になり、それは王に傅く諸侯も同じ見解を示していました」

 世界を見渡せば女王が統治する国家も存在する。隣国レスカティエは傀儡とは言え女王を擁し、数多くの魔界国家はその殆どが女王による統治を行っている。

 だがやはり根底にある習慣として、女は家の所有物であり財産という見方が今も根強く残っている。それは上流階級になるほど顕著で、女であれば例え長子であっても政略結婚などにより勢力拡大の手段として使われることが大半を占める。そしてそれは王族にあっても例外ではない。後継者争いが起こらねばアイナも国内の有力貴族の元へ嫁ぐはずだったのだ。

 「じゃあ、何だよ……お袋は、ただ女だったから王になれなかったってことか?」

 「この国のどの法にも女は王になれないとは書いてありません。しかし、長い間に慣習として定着した不文律がアイナ様を玉座に座ることを善しとしなかった……。保守的な貴族の方々を説得するのに時間をかけ過ぎ、結局は彼らの思惑通りになってしまったのです」

 「は、はは……なんだそりゃ……はははは」

 くだらない、本当にくだらない。たったそれだけのつまらない事のために……。

 「ッ!!」

 「何を……!?」

 「はなせよぉ!!」

 隠し持っていたボトルをラッパにして呷る。ついこの間アル中で倒れたばかり、そんな事をすれば今度こそ……。

 「いい加減にしなさい!!!」

 高く振り上げられた右手が唸りを上げ、手を叩いた時以上の力でレインの左頬を打った。否さ、その力はもう殴ったと言っても良いだろう。道化でありながら決して気品と優雅さを捨てなかったエレナが、一切の飾り気を捨ててのフルスイングを決めた。

 「…………」

 強く叩かれて赤くなった頬をそっと撫でる。レインの表情は呆けたものだったが、それは叩かれた事にショックを受けているのではない。

 流れ出る涙は痛みによるものではない。

 「母さん……どうしてだよ、母さん……!! 母さん……母さぁぁ……!!!」

 コップ一杯に満たない酒を飲んだ時に自分の手も痛いほど叩いて叱った母はもうどこにもいない。どんなに酒を飲み酔いつぶれ、胃の腑が空になるまで吐き続け、博打に金を捨てるロクデナシになっても……もうあの頃のように母が怒ってくれる事は無いのだ。

 「父さんが死んで……母さんもいなくなって……! オレに何をどうしろって言うんだ!! なれるわけないだろ! 母さんがならなかったんだ、オレがなれるわけ……!!」

 「……それでも、あなたが王にならなければいけないのです」

 「だから……っ!!」

 「いつまで泣き言を言っているのです、レイナード!!」

 「っ!?」

 涙に濡れた顔に手を添え、うつむいた頭を優しく上げさせる。血を別けた二親を失い、その心は孤独と悲しみでボロボロに崩れ落ちようとしていた。愛する友の残した子をこんなところで再起不能にする、それはエレナにとって絶望に等しい事だった。

 落ち着いたのを確認して、燕尾服の懐から一枚の封筒を取り出す。少し色あせたそれの裏には……。

 「二年前、人伝てに回りまわってワタクシの元へ届けられた物です。二十年にもなる潜伏の間、姫様の安否を確認できたのはこれだけでございました」

 中を検める。少し厚みのあるそれは、田舎で生を閉じた母のそれまでが記されていた。

 兄二人の息の掛からない土地まで無事逃げおおせたこと。

 潜伏先として選んだ宿で、身に付けていた指輪を宿代として渡したこと。

 慣れない生活に戸惑いながらも、何とかやりくりして過ごしていること。

 ひどい風邪に悩まされた時に宿を経営する青年に助けられたこと。

 その縁で青年と仲良くなるも、素性を隠して付き合いを続けるのを心苦しく思っていたこと。

 だがその青年が受け取った指輪を金に替えず、大切に保管しいつか返そうと思っていたのを知ったこと。

 時を経て彼と結ばれ、そして子を成した。その子に王族の血を引く勇士レイナードの名を与えたこと。

 親子三人で慎ましくも幸せな家庭を築くことに成功し、しばし王家で起こっている混乱も忘れていた。

 だが幸せは長くは続かず、夫が事故で死んだのを皮切りに自分も病に蝕まれ、もう余命幾許もない窮地に立たされたこと。

 『この手紙を読んでいるということは、恐らく私は病でこの世を去った後になっているでしょう。もう一度生まれ故郷の土を踏めないことを残念に思います』

 「母さん……」

 『エレナにお願いしたいのは、私の息子のことです。兄上たちが薨御された今、王家の血を色濃く受け継ぐのはこの子だけです。私は夫にも素性を明かさず、息子にも同様でした。一度は市井の民として生かすことも考えました』

 「…………」

 『ですがこの国難にあってはこの子に流れる血がそれを許さないでしょう。私の友達、あなたに頼みたいのは、私の死後レイナードを王にしてほしいのです。王を産んだ母という功名心からではありません。この子はこの国の、そして私の希望。レイナードにはどうか日の当たるところを歩んでもらいたいのです』

 「母さ……ん……!!」

 『さようなら、私の親友。叶うのなら、もう一度あなたとお茶会を楽しみたかった』

 手紙はそれで終わりだった。二十年、知らぬ土地で生きてきた母の想いの全てがそこに刻まれていた。たった一人の友人に宛てた手紙にも弱音一つ吐かず、実に母らしい文面だった。

 「……あなたは、王になるべくしてここに居るのです。お母上を亡くされて悲しむ気持ちも分かります。ですが……ですが、きっとアイナ様はあなたが王冠を戴く瞬間を待ち焦がれていたに違いないのです。母親想いのあなた様にはそれが理解できるはず」

 「……だが、オレは……母さんのいない生活なんて……耐えられない」

 膝を抱え塞ぎ込むレイン。彼にとって母とはそれだけ大きな存在だったのだ。その母が死んだ今、彼自身も生きる気力など無い。

 だがその彼をそっと、覆うように抱き留めるものがあった。

 「ワタクシも悲しい……。悲しいです。この手紙を読んだ時、ワタクシがどれだけショックを受けたことか。あの方が亡くなっていたなど信じたくはなかった! 今まで見送ってきた方々と同じように、彼女もまたワタクシを置いて遠くに行ってしまったなど……! 本当はワタクシも、寂しくて、寂しくてっ……!!」

 あのいつでも笑みを崩すことのなかったエレナが、今や滂沱の涙を流してアイナの死を悲しんでいた。いや、悲しみはあった、だが道化という偽りの仮面を被ることを求められた彼女は、真の感情を出す事は許されなかった。

 だがエレナはアイナの死以上に、彼女の境遇、二度と故郷に戻って来られなかった事に対し深く悲しんでいた。エレナもまた故郷を追われた身、その辛さ悲しみを誰よりも知っている。その同じ悲しみを親友が抱いたまま亡くなった事が、何よりも辛かった。

 レインは初めて知った。母がこんなに誰かから想われていたことを。人の生き死にはその最期に悲しんでくれる者がいるかいないかで決まるという。ここには二人その死を悼んで涙を流す者がいる。なら母の人生には少しでも意味があったのだろう。

 「あなたは言った、母の意志を無にはしないと。なら、前をお向きなさい。強く生きるのです、レイナード」

 「オレは……」

 「答えなさい、母の意志とは何なのか。それを知った今、あなたはどうするべきなのか!」

 「…………」

 涙の沈黙、悲しみの静けさ。だがいつまでもそうではいられない。涙はいつまでも流れてくれない。涸れればそれが決断の時だ。

 「オレは…………王になる。ならなきゃいけないのか。母さんがなれなかった、王に」

 決意と呼ぶには程遠く、宣誓と言うには弱々しい。

 だがそれでも、この一年間冷え固まっていたレインの中で何か熱いものが灯ったのは確かだった。その証拠に、もう目は死んでいない。

 「お導きいたします。我らが新しき王よ。この命にかえても」

 悲しみを乗り越えるには時間がかかる。だがそれは、そう遠いことでもないようだ。





 それから、健康を回復したレインは再びエレナの指導を受け始めた。マナーや作法、冠婚葬祭、王家に近しい貴族への挨拶回り等、以前より精力的に取り込むようになった。

 と言っても、国の行く末を決める政務は未だ宰相に任せきりで、レインは王族としての勉強中という扱いだった。だからかつての王族に連なる者たちのように外部への露出も少なく、国外へ出ることも未だなかった。

 レインとエレナは常に共に行動した。エレナが教え、レインが学ぶ。バルコニーで一緒にお茶を飲む姿は、王宮では日常的な光景になって久しかった。

 そうして一年が経ち、二年が過ぎ、もうすぐ三年目になろうとする頃……。

 「オレは、王になる」

 各大臣や有力貴族らが集う晩餐の場にて、そう堂々と宣言した。それは集まってくれた客人らに対する宣誓と同時に、玉座不在の間ずっと国を動かしてくれた者達への労いの言葉でもあった。

 「ご決断されたのですね。やっと、私も肩の荷が降ります」

 「あんたにも迷惑をかけた。二十年ぶりの休暇を取って嫁さんと楽しんでくればいい」

 「それは殿下の戴冠を見届けてからとさせていただきましょう。日程を組み次第早速、近隣諸国への喧伝も。早ければ年内にでも戴冠式を執り行えましょう」

 「良きに計らえ、っと。散々オレを頭ごなしに叱りつけていた奴を顎で使うってのは、なかなかに奇妙な感覚だな」

 「本来はそれがあるべき姿。殿下の最初の仕事は大臣職の登用及び、地方の人事についての采配が主となるでしょう。二人の六代目による粛清で今は優秀な人材が足りない状況、一人でも多くの人間を確保したいところです」

 「二十年無休でやってたあんたが言うと重みがあるな」

 大テーブルに笑いが起こる。これでこの国は安泰だと誰もが確信していた。それは下座にちゃっかり居座っているエレナも同様だった。手塩にかけて育てた者がここまで頼もしくなったのだ。彼女の功績をここにいる誰もが知っている。
 

 「その人事について、今の内にオレから言っておきたい事がある」

 「おお、早速目星い逸材を見つけられましたか?」

 「いいや、その逆だ……」

 立ち上がったレイン。その背には王として気迫と覚悟が気焔となって吹き上がるようだった。



 「オレが王位を継いだ暁には、宮廷道化師というふざけた役職を永久に排除する」



 全員の視線がレイン、そして次にエレナに向けられる。エレナは食後の紅茶に手をつけ、その表情は帽子の影に隠れ容として知れない。

 「本来王宮とは清く正しく、そして誠実であるべきだ。道化は芝居小屋に行けばいい。この大理石の上を歩くには相応しくない」

 「ですがっ、ジェスター・エレナは四代目よって王宮への出入りを許され……」

 「四代目は四代目、オレはオレだ。旧弊とは正されるモノ、それが意味不明な役職であるなら切り捨てるのが当然だろ」

 「殿下!! それは、あまりにも……!!」

 「殿下をそこまで教育された彼女に対し、その仕打ちはあまりにも惨うございます!!」

 席を同じくした大臣たちから批難の声が紛糾する。長くこの国に使えてきた重鎮を、こんなところで容易く切って捨てる態度に誰もが難色を示さずにはいられなかった。

 当のエレナを除いては。

 「ご随意に」

 「ジェスター・エレナ!?」

 「お歴々、我々は誓い立てたはず……新しき王に付き従うと。これは王が下される最初のご命令、門出を汚すわけには参りません」

 「しかし、それでは……」

 「ワタクシは所詮、紅茶好きの気狂い帽子屋。殿下が築かれる新しき王宮には不要の存在です」

 帽子の奥から覗く顔はとても愉快そうに笑っていた。その表情に寂しさは無く、晴れやかな祝福の笑顔だった。

 「それではミナサマ、ご機嫌よう」

 そして演目を終えた役者がそうするように、優雅な一礼の後に彼女は晩餐会を後にした。宣誓の食事の場は、何とも気まずい雰囲気に包まれたまま終わりを迎えてしまった。

 だがそれでは終わらない。

 「どこへ行く。お前にはまだ罪状がある」

 「ざい……じょう?」

 「ああ。道化師という立場に甘んじ、歴代の王を愚弄し続けた罪だ」

 「殿下!!?」

 役職を奪い王宮から追い出すばかりか、そのうえ更に罪人の烙印まで押そうとする行為に他の大臣たちも思わず席を立った。しかし、周囲の使用人たちがそれを押し留める。

 「この上、ワタクシに何をなさるのでしょう」

 「すぐに済む。と言っても、あんた次第だが」

 「?」

 使用人が進み出て腕に抱えた籠をレインに差し出す。籠には布が被せられており、それを取り去って中身を取り出すと……。

 「まあ……」

 思わずため息が出た。それは他の大臣もそうだったが、エレナのそれは驚きより魅力によるものだった。

 「過去の罪状をほっぽり出し、お役御免でさようならなど認めるわけがない。それにあんたは王宮の秘密を知りすぎた、今手放せば他国にある事ない事吹き込むに決まっている。それを防ぐには、これからずっとあんたを目の届くところに置いて監視するしかない。要は飼い殺しだよ」

 手にしたのは花束。言っている事はとても物騒なのに、手に持ったそれに目が向いて離れない。

 「王宮と王国の未来を預かる者として、その仕事はオレが引き受ける。オレの目の黒い内、あんたはずっとオレに見張られる」

 どこへ追い出される事も無いし、誰かに置き去りにされることもない。

 「これからずっと、そうずっと……永遠に」

 共にいられなかった人達の分も合わせて。

 「ここに居てほしい。オレの傍で、ずっと……ずっと」

 カーネーションの花束に一輪だけ紛れた別の花。どこの温室から引っこ抜いてきたのだろう、それを想像すると笑ってしまう。

 イチゴの花言葉……「幸せな家庭」。

 「結婚したい。あんたと」

 「…………えっ。あー…………えっ?」

 急転直下、怒涛の展開に不思議の国のペラ回しでさえも頭がついてこれず、一瞬間の抜けた声が出てしまった。

 「あー、ハハ……イヤですねぇ殿下。ミナサマの見ているところで、こんなイタズラは……」

 「イタズラなら宰相は呼ばねえ。大事な話だから、今ここでしてるんだ」

 「いえね? こういうのはですね、ほら、もっと順序立ててと言いますか、その……。あるじゃないですか、色々と下準備というアレが?」

 そう言って笑いながらわざとらしく額の汗を拭うが、ハンカチはとっくに胸ポケットから落ちている事にも気付いていない。顔は笑顔だが相当パニクっている。その証拠に酒も飲まないのに頬がどんどん紅潮していくのが丸見えだ。

 「気のある女へのコナの掛け方もあんたが教えてくれた。だから、こうしてるんだ」

 「……ワタクシは……その……」

 「友達の息子なんて眼中に無かったのか」

 「そんなことはっ!」

 「だったら、聞かせろよ。返事を」

 頼もしくなったと同時に押しの強さも手に入れて、花束を手にグイグイ迫るその姿に対し、エレナの意識は他の一切など気にならなくなっていた。今はただ、レインの姿しか見えず彼の声しか聞こえない。

 不思議の国にいた時なら笑って流せたのに、人間社会に毒されてすっかりウブになったエレナは照れ隠しだけで精一杯で、カラカラになった口から一言的外れたことを言うのでやっとだった。

 「ワタクシでよろしいので……」

 「よろしいから声をかけてんだろ。あんたとは、王と道化でもなく、教師と教え子でもない、もっと親しい関係になりたいんだ」

 「………………ふぅ……では、失礼をば」

 エレナの細い指がカーネーションに紛れた、たった一輪のイチゴの花を取る。そしてそれをそっとレインの襟に飾るように差した。

 「謹んで、お受けさせていただきます。レイナード様」

 ここに婚約は成り、二人が夫婦となることを誰もが喜んだ。正式な結婚の日取りも戴冠式と合わせて執り行うと決め、今宵の晩餐はお開きとなった。





 「殿下もお人が悪い」

 夜、寝室のベッドに寝転びながら呟くエレナ。赤面していたあの慌てようはどこへやら、今はもうすっかり元の調子を取り戻していた。寝巻き姿で仰向けになる様は何とも艶かしい。

 「大臣方がお集まりの場であの様なお戯れを……。あれでは断るに断れません」

 「分かった。じゃ、明日は離婚調停だな」

 「冗談です! 本気になさらないでください!」

 「そっちこそ」

 「フフ……変わられましたね、殿下」

 「変えたのは、あんただ」

 湯浴みを終えたエインが椅子に腰掛ける。湯気と一緒に立ち込めるオトコの香りを、エレナが鼻一杯に吸い込む。

 「ヤローの臭いなんて嗅いでどうするのさ」

 「好いた相手の匂いほど、芳しい香りはありません。殿下もどうです?」

 「ん」

 短く肯定したレインがそっと近付き、豊満な胸に顔を埋める。そして聞こえるほど大きく鼻で息を吸い込み、二秒ほど息を止めて吐き出した。

 「遠慮がないのですね」

 「ガキみたいに戸惑うほうが好みかい」

 「もっと、もっとワタクシを味わってくださいな」

 「ん」

 教鞭を振るっていた時、いつもこの匂いを近くに感じていた。糖とも蜜とも違う、鼻の奥に絡みついて喉に透き通る不思議な香りだ。マッドハッターはマタンゴの変異種と聞く。男を誘う胞子か何かでも出しているのだろうか。

 胸元を堪能した後は更に濃い匂いを求めて、鼻を擦るように肌に密着しながら移動する。

 首筋、耳裏、汗が染みやすい肘や膝、毛一本生えていない脇に至るまで、甘い匂いが発する部位を徹底的に責めた。エレナの言った通りだ、意中の相手の匂いはどんな香木や香水よりも芳しく、魅力的で、そして中毒性がある。

 最終的に鼻は彼女の頭に辿り着いた。普段から帽子を被っているせいか、そこだけ特に匂いが濃い。一息吸い込むだけで麻酔を打たれたみたいに頭にモヤが掛かる。

 「あら? コレはなんでしょうか」

 「うおっ」

 体臭の催淫作用により知らない内に猛り立っていた股座に、そっとエレナの手が伸びる。服越しにタマも竿も包むような手つきに思わず腰が引けてしまった。だがそれに負けじと頭皮を揉んで少しでも匂いを堪能しようとする。

 ひとしきり股間を撫でた後、エレナがやっと手を引っ込める。そして匂いの染み付いた手をそっと嗅ぐのだ。

 「はぁぁぁ……〜〜ッ!!」

 恍惚と陶酔で身を震わせる。興奮で彼女の股の間もとっくに液が染み出し、顔を近づけるまでもなく淫靡な香りが部屋中に広がりつつあった。

 「殿下、匂いだけでは満足できませんでしょう。さあ……おいでください」

 そう言って上着をはだけさせると、普段は男装の下に隠れていた乳房が露わになる。その豊満で柔らかな半球は、まるでカサが開く前のキノコみたいだ。興奮の汗がそこから拡散し、レインの理性をヤスリ掛けで削っていく。

 だが腰布だけは外さない。最後の一線を踏み越えるのはいつだって男の役目だ。

 「ああ」

 股を隠す上品なそれを、わざわざ足に沿って脱がせるなど悠長なことはしない。プレゼント箱の紙を引き裂くように、レインの手は乱暴に破り捨てる。

 そして露わになった秘部を目にした瞬間、彼はケモノになった。

 歯をむき出しに、しかし決して立てず、肉食獣が肉を貪るように濡れそぼった蜜壷の全てを味わおうとする。貪欲に、下品に、そして情熱的に、次々と泉のごとく溢れ出るそれを、舌で舐めとり指で掬いながら飲み干そうとする。

 初めは必死なその様子を見て楽しんでいたエレナだが、次第に彼女の体も追い詰められる。執拗な責めは陰部にむず痒い快楽を蓄積させ、下が媚肉を這い回る動きに呼応して丸まった爪先がピクピクと痙攣してしまう。だが反射的に引き締まる末端とは違い、太源の付け根は快楽に筋肉が緩みっぱなしだ。

 「で、殿下……ちょっと、お待ちくださ、ぁぁぁ!?」

 「レイナード……名前で呼べ」

 「レ、レイ……あぁ、ダメです、そんなこと……!」

 「名前呼ぶくらいで何を今更……」

 「ちが、そうじゃなくて……!! ァァ、ダメ……ダメです、ってば!」

 快楽が削るのは理性だけではない、閉じる足はレインの顔をより股に強く押さえつける事になり、そして遂に────、

 「ふぁ────!?」

 決壊した。

 少し漏れ出たが最後、止める術などありはしない。警鐘を鳴らす理性、必死に停止信号を送る脳の命令を無視し、迸る大河は漏出を止めず最後まで出し切り……。

 「う……うぅ、っひぃ……!」

 きゅっと固く閉じた目尻に薄らと涙が光る。情事の最中、それも前戯だけでここまでの痴態を一方的に晒してしまった事を恥じていた。

 不思議の国を追放されたとは言え、エレナにも魔物娘としてのプライドがある。そのエレナの見立てによればレインは間違いなく初心者、汚れを知らない童貞だ。無垢な男の勢いに押されて先手を譲ってしまったが、次こそは魔物娘の意地にかけてでも彼に至高の快楽を与えんと決意する。

 だが決意に開いた眼は不可思議な光景を見た。

 「あ、れ……?」

 継承祝い兼婚約祝いと称し飲み食いした事もあって、先ほどかなりの量をはしたなく放出してしまった。きっとレインの顔どころか頭も濡らし、シーツ一面もそのはずだと思っていた。

 しかし、真白のシーツには有色の痕跡はどこにもなく、今まさに二人が座っている場所の汗以外で湿っている部分は無かった。

 「……まさか……」

 顔に染み付いた愛液を手に取って丁寧に舐めるレインを見つめ、あるひとつの予測が湧き上がる。その視線に気付いたレインは今までに見たこともないような安らかな微笑みを浮かべこう言った。

 「ごっそさん」

 「────」

 エレナのプライドが砕け散った瞬間である。

 優しく押されベッドの上で組み敷かれながら、ふと確信めいた予感を覚えた。夜の生活ではこの男の尻に敷かれ続けるだろうと。

 乳房を捏ね回されながら、下腹部を押分ける感覚に息を呑む。だが緊張は一瞬、後はもう流れでどうにでもなる。

 「はは、キツいな……! 未通女って奴かい?」

 「殿下こそ……んぁ、単調な、腰使い……!」

 「名前で呼べっての!」

 「ンぁあああ!? そんなっ、きゅ、に……つよく!!」

 「言ってみなよ。レイナード……レイン。ほらぁ!!」

 「レ……レイ、んんっ、ああああぁぁーーっ!!!」

 「聞こえねぇって!!」

 偶然ではない、名前を呼ぶ絶妙なタイミングで腰を突き出して妨害してくるのだ。エレナも律儀に要求に答えようとするものでから、それを面白がってレインも何度も邪魔をしイタチごっこになる。

 もしこれが全く別の相手だったなら、今頃ひいひい言っているのは男の方だっただろう。だが相手がレインに限り、親友の遺児と交わるという背徳感、そして年下の男にイイ様に遊ばれる被支配感、その二つが退廃的で破滅的な快楽をエレナの中で生み出すことになった。

 結果、テクニックは単調でも心理面で既に完全敗北を喫し、今やエレナが堕ちるのは時間の問題だった。

 「レイ、ン……!! レイン、レインレインレインッ!! レイナードぉぉっ!! もうダメッ! ワタクシ……もぅ、もう……!!」

 「いいぜ、ほらぁ……イケよ! みっともなく、はしたなくヨガってイっちまいなよ! オレもイクぞ、あんたの匂いを嗅ぎながら……!」

 ラストスパートで互いに小さな衝突を繰り返し快感を高め合う。

 そして、最後の瞬間に強く抱き合い、レインがエレナの髪の匂いを大きく吸い込んだ刹那────、

 「ッヒィ……!? ァァッ、アアアアアアアアアァァァァーーーッッ!!!」

 「〜〜〜っ!!」

 全身が総毛立つ身震いと同時に、エレナはレインを絞り上げ、レインはエレナの匂いを吸い込んだ分だけ彼女の中を染めた。互いが互いを塗り替えんばかりの交わりは一旦ここで小休止となった。

 饐えた匂いが充満する寝室で、疲労色濃い互いの息遣いだけが聞こえる。しばらく息を整える時間が経ったが、先に口を開いたのはレインだった。

 「好きだ。愛してる」

 「はぁ、はぁ……。それ、今言われますか」

 「本当はさっき告った時に言うべきだったんだが、その……小っ恥ずかしくてよ。……あんたは?」

 「愛していますよ、レイナード。アイナ様のお子としてではなく、一人の男性として。ですが、ワタクシと結ばれても子供は女しか生まれません。それでよろしいのですか」

 「言ったろ、古臭い習慣は潰すって。オレとあんたのガキが男だろうが女だろうが、他の連中に文句は言わせない。二人目のアイナは、もういらないんだ」

 固く決意を新たにするレイン。その横顔にかつての親友を見たか、エレナがそっと抱き寄せる。

 「イイ匂いだ」

 「心ゆくまで」

 お互いを枕にして、王と帽子屋は最初の夜を共に過ごした。





 七代目国王、レイナード・レクス・アルカーヌムの王位継承に王国国内と、親交のある近隣諸国は喜びに沸き立った。若き王の玉座に不安の声も一部では存在したが、彼がその政治手腕を発揮するとそれらは徐々に下火になっていった。

 彼はまず雇用の創出として各街を結ぶ街道の増設や新設、補強などを行った。それまで街道とは明確な括りや区別がなく、中には石畳を敷いただけや、人の足で踏み均されただけのものなど、その差異はまちまちだった。

 その街道を補強し画一化、更に各街道には一定距離ごとに宿場町を設け、そこにも雇用を出した。そうすることで職にあぶれる者を減らし、地方と中央を結ぶパイプを太く長くすることで国全体の税収増加と景気上昇を実現した。

 次に行ったのは民法の改訂である。それまで刑事では厳しく法が定められていた王国だが、民事に関しては元が諸侯の集まった連合王国であったことから地方によって差があり、それらの出身者が入り混じる王都では婚姻や相続に関する部分でトラブルが頻発していた。

 若き国王は各地方の法学者たちを一堂に会し、およそ五年の歳月をかけてバラバラだった各地方の法律を統一し、それを絶対の法として徹底させるようにした。

 この時作った法典に制定されていた「王国民の資格」という部分が、世界の国々に「国籍」という概念をもたらす事になったと後世の学者たちは推察している。

 そしてそれらの仕事が一段落した時、彼は遅れること数年目にしてようやく故郷の母、アイナ・レーン・アルカーヌムの国葬を執り行うことが出来た。





 「それにしても、まさかそなたが玉の輿に乗られるとは思わなかったぞ、帽子屋」

 ある日、王宮で開かれた晩餐会で共に食事を楽しむのは、かつて王国から独立し、今はサンミゲル公国の元首となったアイリスだ。長く王国を見守り、そして共に歩み続けた者として、彼女とより深い親交を結ぶため……というのがこの晩餐の趣旨だが、アイリスにとっては古巣で今や勝手知ったる他人の家。応対するレインも公私を分け、昼間の仕事モードはどこへやら、今はすっかり食事を楽しんでいる。

 ちなみに互いの国の宰相は別室で控えている。あの二人が旧い仲とアイリスに聞かされ、世間は狭いものだとまた一つ見識を高めるレインだった。

 「あの時、アイリス陛下に引き抜かれていたらワタクシは今頃もしがない道化を演じていたことでしょう」

 「よく言う。時に、レイナード殿は大層な酒好きと聞いている。今宵の晩餐に合えばとこちらで手に入れた品があるのだが」

 「是非に。ですが、昔は浴びるほど飲んでいたが、今は嗜む程度に留めている。飲み過ぎると妻が怒るからな」

 「なるほどな」

 「それに最近は妻の影響で酒より美味なモノを覚えた」

 「それはそれは。よろしければ、好みが何かお聞きしても?」

 その質問にレインは爽やかな笑みを浮かべこう答えた。

 「レモンティーだ。エレナの出すレモンティーは格別に美味なので、とても気に入っている。あれは……至高の甘露だ」

 王の舌を唸らせた一品、そのレシピを知ろうとアイリスや宰相、その他大臣や貴族たちが「レモンティー」の作り方を訊ねたが、エレナは絶対に答えなかったという。
15/10/25 10:38更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 マザコンをこじらせたニートを家庭教師が矯正し、立派な匂いフェチ&おもらしフェチに育てたお話。なぁにこれぇ(困惑)

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