連載小説
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第二幕 魔術師と隠者:前編
 『魔術師と隠者 〜あるいは見習い魔道師と森の賢人のお話〜』










 空飛ぶ靴、という物を目にしたのは十にも満たない幼い頃のこと。好事家の父が大枚はたいて購入したコレクションの中にそれを発見したのが始まりだった。

 ヘルメシューズという古代の神の名を与えられたそれは、飛行に必要な魔術を組むことでようやく飛べる魔女の箒とは違い、持ち主の魔力を燃料にするだけで浮遊し飛行できるという代物だった。つまり、バランス感覚さえしっかりしていれば誰でも扱えるということだ。

 幼いながらもどこかマセていた自分は、そんな馬鹿げた夢物語が実在するはずがないと高を括っていた。事実、大金を支払って手に入れた父がそれを履いて飛んでいる姿など見たことがなく、展示室という名の倉庫でひっそりとホコリを被っている物だった。

 だが同年代の他の子供たちにとっては、真偽はどうあれとても魅力的に聞こえたようだ。遊んでいる時に父親がそんな物を持っていると零した拍子に寄ってたかられ、見たい見たいの大合唱だった。仕方なく父に内緒で倉庫から持ち出し、翌日皆の前でそれを履いて見せた。

 見た目は何の変哲もないただの革靴で、空を飛ぶと聞いて羽根が生えているとでも思っていた連中は露骨にがっかりした様子だった。

 だがそれを履いた瞬間、自分の体はいとも容易く宙に浮き、綿毛のごとく風に乗って流されていった。

 そして同時に理解する。父が履いた所を見たことが無かったのは、この靴のサイズが子供用だったからだと。

 民家の壁にぶつかった拍子に靴は脱げ一緒に落下、地面に真っ逆さまに落っこちて頭を打ち、チカチカと星が瞬く視界の中でふと思ったのだ。

 「この靴は、どうやって作ったんだろ?」

 当然というべきか、その靴は魔術によって作られていた。靴を作った技術そのものは従来のものだが、素材を加工する段階で高度な魔術理論が編み込まれ、これを見たバフォメットが大層驚いていたのを覚えている。

 その日以来、自分は魔術の世界に引き込まれた。いずれ魔道に大成する人間になろうと決意し、全ての時間を魔術の修練に捧げることにした。魔術に関する蔵書を読み漁り、呪文を唱え、薬草の採取から魔界生物の研究といった分野にも、魔女やバフォメットらに混じって参加した。何度か貞操の危機もあったがそれは割愛しておく。

 魔術を極めれば何でも出来ると確信し、年を追うごとにその野望は膨れ上がっていった。いずれ自分が地上のあらゆる現象を解き明かし、魔術によってそれを自在に操る存在になるのだと本気で信じるようになった。

 だが今はとにかく経験を積まなくてはならない。その為にもまずはその道の先人に教えを乞うところから始めたいが、世界の頂点に立つには今現時点での最高峰を踏み台にしてのし上がる心づもりだった。魔道の本家本元、バフォメットですら唸らせる自分の習熟意欲に掛かれば、現時点での最高峰などゆくゆくは過去の人物になると確信していた。

 そして遂に……自分は最高峰の門戸を叩く。

 「貴様、名は?」

 「ニコ。いずれお前を越えてやる魔術師だ!」

 少年────ニコ。この時、弱冠十三歳。

 人間界最高の大魔道師を訪ね、遥々アルカーヌムまでやって来た彼の弟子入り奮闘が始まった。



 二年後、ニコの近況は最悪だった。



 食うには困らない。師匠となった男の元で住み込みの生活は決して贅沢はできないが、環境は快適そのものだった。

 だが……。

 「小僧、水汲みをしてくるのである。それが終わったら今度は薪割りなのである。ああ、そうそう、娘に飲ませる乳が足りん。買ってくるのである。家計を圧迫する訳にはいかんから、もちろん貴様の自腹でな。それと妻が仕掛けた罠も回収してこい。獲物はしっかり血抜きしておくのである。それが終われば今度は風呂釜の掃除をだな……」

 「いい加減にしとけよォォ、あんたぁぁぁーーーっ!!?」

 二年間、この男は魔術を教えてくれない。王都から離れた辺境の山奥で寝食を共にするようになってそれだけの年月が経つのにだ。

 ただ教えないだけではない。ニコはこの男が魔術を使ったところを見たことがない。一切、何もかも、金輪際、魔術の「ま」の字も披露した試しがないのだ。

 水汲みや薪割りなんて土を捏ねた泥人形にでも任せておけばいいのに、わざわざ不慣れな力仕事をこちらにさせるのだ。結婚相手が鍛冶屋だか何だか知らないが、どうして魔術を学びに来た自分がそんな家業を手伝わないといけないのだ。

 おまけに半年に二、三回は王都まで鍛えた品を卸しに行かされる。片道七日、不眠でも四日は掛かる道のりを重たい金物を載せた馬車に揺られながら同行させられ、着いたと思えば……。

 「我輩は別の用がある。店番は任せたのである。ああ、全部売れるまで帰ってきては困るのでな」

 「トンズラするよ? 売上全部持って夜逃げするよ、しちゃうよ!? なに全部こっちに押し付けようとしてんだゴラァ!!」

 数世紀後の真っ黒経営者と似たような事をしれっと言い放って先に帰り、数日も王都に置き去りにされてしまった事まである。もちろん、帰りは一人だ。

 たまに魔術師らしく何か薬を作っているかと思えば……。

 「これか? これはな、改良に改良を重ねた新種の排卵誘発剤なのである。これを服用すれば瞬く間に体が火照り発情し、七日七晩は交わり、そして確実に子を孕む。この研究は今までに八回成功を収めているのである。これを魔物の夫婦にやれば飛ぶように売れること間違い無しなのである」

 「師匠って子供何人いたっけー? まさか自分の嫁さん使って実験したんかい!? 謝れ、今すぐ八人もいる子供達に謝れ!!」

 「娘たちの分も作っておかなくては。もちろん、小僧にもな」

 「いらねぇよぉっ!!!」

 終始こんな感じだ。

 人類最高峰の腕と知識を持つ魔術師と聞いて門戸を叩き二年、魔術を教えてもらえないどころか、実態は完全に小間使い、タダ働きでいいようにこき使われているだけだった。

 おかしい……自分は魔術を修めに故郷を出て来たはずだ、それが何でこんな山奥で使用人の真似事をさせられているのか。こんなの絶対間違っている。

 二年もの間、魔術の研鑽は思うように行かない。研究を重ねようにもこんな山奥ではろくに資料も手に入れられず、共同生活の煩わしさから一人で研究するのも難しい。技術は師から盗むものと師匠の部屋や研究室を覗いたが、肝心のこちらが経験を積めそうな資料や蔵書は何一つ無く、無作為に夫婦共同で作られた道具で埋まりまるでガラクタ置き場と化していた。

 このままではいけない。これではいつまで経っても魔道を極めるなど夢のまた夢だ。せめて、この高慢ちきで師匠としての役目も全く果たさない怠惰な男の鼻を明かすことが出来れば……。

 ニコは決意した。必ずかの怠惰なモグリ魔術師を除かねばならぬと。

 「おい、ヤブ魔術師!! いい加減師匠としての責任を果たせゴルァ!!」

 「耳元でギャンギャン喚くな小僧。せっかく眠った娘が起きるのである」

 「んなことどーだっていいんだよぉ!! 勝負しろ、勝負!! 決闘じゃあああ!!」

 遂にある日、二年越しの不満をぶちまけたニコは、もう我慢ならないとばかりに師匠に戦いを挑んだ。魔術除けの術を編んだ帽子とローブ、右手には霊木を削って作った杖、左手には術式を起動させる魔道書、そしてローブや懐の中には魔法薬を大量に詰め込み、準備は万端だった。

 自信もある。ニコだってこの男ばかりに師事してきた訳ではない、この男以上の魔力の迸りを見せる術師は何人も見てきた。その経験則から見ると、師匠の力量はどう多めに見積もっても中の下といったところだ。伊達に世界最高の魔術師を目指してはいない、ニコは挑んだ時点で勝ちを確信していた。

 「やれやれ、みみっちい脳ミソの思いつきそうなことであるな。よりにもよって決闘とは。他にやり様などいくらでもあったろうに」

 「ごちゃごちゃ言ってないで、受けるのか受けないのかハッキリしろよ! まさか逃げるのか、若造からの挑戦も受けずに逃げるのかよ。それでも世界最高の魔術師かってんだ!」

 もちろんこれは見え透いた挑発だ。やる気がない相手をいくら打ちのめしてもニコのプライドは満たされない。せめて互いに全力だったという体裁の上でなければならない。もちろんそれには後で難癖を付けて来れないようにするためでもあった。互いに言い訳出来ない状況で勝敗を分ければ、自分の優位は誰の目から見ても明らかになるはずと考えたからだ。

 「さあ、どうする! 受けるのか、それとも受けないのか! 負けるのがイヤだから戦いませんってなら、早くそう言いなよ!」

 「そんな事をしている暇があれば、薬草の一つや二つぐらい採ってくるのである。我輩は眠いのである。昨夜も夜泣きした末娘をあやして疲れているのだ! 何故妻がしなかったか分かるか? 妻は家庭を支えるため日夜炉と向き合い、重たい金鎚を振るっているのだ、我輩よりお疲れなのだ。そんな家内を気遣い育児をこなすは夫として、そして子らの父として当然のことだと思わんか!」

 「その優しさの十分の一でもいいから弟子によこせ!! こっちだってなぁ、どっかの誰かさんが無茶させるもんで体のあちこちが筋肉痛でガッタガタなんだよ!!」

 「貴様はこの家の居候なのである。養ってもらっている分際で何を偉そうなことを。犬畜生の方がまだよっぽど役に立つのである。阿呆なことしておらんで、さっさと素材採集に行ってこい! 行き先はここである」

 そう言ってニコの言うことに取り合わず、ツルハシを二本と地図を渡してきた。場所はここより更に深く険しい荒れ山、そこは魔界銀の産地として知られる山だ。

 ふざけるな、ニコの中に怒りの炎が吹き上がる。

 「僕はあんたの、奴隷じゃない!! こんなことをするために、わざわざあんたに弟子入りしたんじゃない!! 故郷を捨ててこんな山奥に来たのはっ、僕が魔道の頂点に立つために必要だったからだ!! あんたの小間使いをしたり、サイクロプスの子守をするためにここにいるんじゃないっ!! あんたには、僕に秘術の全てを教える義務があるんだ!!」

 「義務とは、言うに事欠いて……。凡愚もここまでくると哀れで仕方ないな」

 「なんだと!?」

 「そもそも貴様、根本の部分で大きな勘違いをしている。我輩がいつ貴様なんぞを弟子にしたと言った?」

 「……は?」

 「ああ、わざわざ傍に置き寝食を共にさせたせいで勘違いしたか。なら教えてやるのである。見ての通りこの家は我輩と妻、そして子が八人の大家族だ。だから、まあそのなんだ、丁度いいところに使用人に使えそうな奴が来たと思ってな」

 「は? はぁ? はああああああぁぁぁぁっ!!?」

 衝撃の事実に開いた口が塞がらない。いや、ニコだってもしかしたらという程度には疑っていた。この男は自分を弟子にしたことを忘れているのではなかろうか、と。だがここまで面と向かって言われれば、そのショックは計り知れない。

 だが固まっていたのも数瞬、男の言葉を理解したニコの顔面が一気に赤くなり……。

 「ぶぅあぁぁかぁぁやぁろぉぉぉおおおおおおおおおおおおーーーっ!!!!」

 強烈なドップラー効果を伴いながらニコは駆け出した。途中すれ違った師匠の娘たちには脇目も振ら、二年間自分の部屋として与えられていた物置小屋に飛び込む。

 「バカやろう、バカやろう!! バカやろぉぉぉぉぉ!!!」

 罵倒の言葉すらまともに出てこないほどの怒りに突き動かされ、恐ろしい勢いで荷物を纏めた後……。

 「ばぁぁぁ、かぁぁぁ、やぁぁぁ、ろぉぉぉぉおおおおおおおーーー!!!!」

 最初から最後まで同じ言葉を吠えながら、若き見習い魔術師ニコは村へ続く道ではなく、更に奥に続く獣道を駆け抜けて去っていった。





 「ただいまー。あれ? ニコ君は?」

 「あの小僧なら出て行った。勝手に我輩の弟子になったつもりでいて、それを指摘しただけで勝手に出て行ったのである」

 「えぇ!? そ、そんな……! あの子のおかげでうちは大分助けられていたんですよ? 娘たちだってニコ君に懐いていたのに……。どうして弟子入りさせてあげなかったんですか?」

 「あいつは魔術の何たるかを分かっていない。そんな状態で知識と技術を詰め込んでも、所詮は木偶と変わらんのである。少しは根性がある奴かと思っていたが、あてが外れたのである」

 「ならどうしてそれを教えてあげないんです! あなたはいつもそう、肝心な部分を飛ばして結論だけを言うんですから……。あたしの時だってそうだったじゃないですか」

 「むぅ……それを言われると、我輩も弱る」

 「でしょう? ニコ君もまだ子供ですから、お腹が空けば帰ってきてくれると思う。だからその時には、あの子にちゃんと説明してあげてくださいね?」

 「善処するのである。それにしても……」

 二年間明け渡していた物置の中をしげしげと観察しながら、魔術師はぽつりと呟いた。

 「小僧め、よほど怒っていたのであるな。我輩の物まで一緒くたに詰め込んで持って行きおった」





 少年・ニコの野望は世界一の魔術師になることだ。二位でも三位でもない、一位だ。それもぶっちぎり、二位以下とは天地の差を持つ至高の魔術師に成りたかった。

 魔術師とは深淵に挑む者。条理を越えた奥底に眠る真理に触れる者として、その叡智は遍く全てに通じ思慮深く理解を得なくてはならない。

 「どこだ……ここ!?」

 ニコの計画性の無さは魔術師として致命的だった。山林の道なき道を勢いに任せて走り続けること一時間、彼は完全に道を見失っていた。周囲は木々や草が生い茂り、葉のざわめきや鳥の鳴き声がこだまして不安を駆り立てる様相を呈していた。

 せめて地図でも持ってくればと嘆いたが、この場合は地図よりパンを持ってくるべきだった。何せここは獣道からも外れた山中、地図なんか広げたところで現在位置など分かるはずもなく、目印になりそうな他の山もまともに見えないほど視界は遮られていた。

 とりあえず、一度落ち着く。日の高さと影の長さから時刻と方角を割り出す。そのまま山中の同じ場所をグルグル彷徨い歩くことだけは避けたかった。いざとなれば山中でも短期間はやりくりできる自信はあるが、いつ猛獣に襲われるか分からないこんな場所からはさっさと離れたかった。

 次に何か使える物は無いかとリュックの中を漁る。頭に血が昇った状態で詰め込んだので自分でも何を入れたか覚えがなく、私物の他に見覚えがない物もいくつかあった。

 その中に……。

 「遠眼鏡! やりぃ! これさえありゃあ……」

 それは、はめ込まれたレンズの屈折を利用して遠距離を見通す望遠鏡だった。ニコの物ではない、恐らくあの物置に仕舞われていた師匠の私物だろう。

 「どうせタダ働きだったんだ、バチなんか当たらないさ」

 盗人の理屈でそう曰いながら望遠鏡の調子を確かめる。見渡しが良さそうな木の上によじ登り、そこから道と思しきものを探した。

 「枝とか葉っぱが多すぎて見えないし……。よっし、こうなったら!」

 どうせ借りパクするのだからと開き直り、一度望遠鏡を分解する。そしてレンズに少し細工し……。

 「でぇきたぁ!!」

 組み立てたそれを使って再びレンズを覗くと、そこには山の地肌がそのまま見えていた。さっきレンズに仕込んだのは自作の透視魔術で、枝や葉っぱぐらいの遮蔽物なら無いも同然、分厚い城の壁も見通す自信があった。

 遠眼鏡改め、「透眼鏡」となったそれで周囲を見回すこと五分、ニコは山林に隠れた一本の細い道らしきものを発見した。透視の結果その周囲にはクマなどの影も無く、安全と判断したニコはそこを目指して移動を始めた。

 「なんだってこの僕がこんなことにならなくちゃいけないんだ! くそ、くそっ! これも全部あのエセ魔術師のせいだ!!」

 飛び出したきっかけはともかく、山奥で遭難しかけている事まで憎き師匠のせいにする。それもそうだ、二年という貴重な時間を棒に振ってしまった全ての原因はあの男にある。都合のいい使いパシリにされた事は恨んでも恨みきれない。わざわざ師事“してやった”というのに、あの男は弟子一人の教育すら満足にこなせないヤブだったのだ。

 あんな男は魔術師に相応しくない、自分のように学ぶことに真摯で真剣で意欲があり、且つ素質に恵まれた者こそが杖を握るに相応しいのだ。

 道は山間の谷に続き、向こう側に渡るための橋を探す。帰るという選択肢はない、もうあんな所に戻るつもりは更々無かったし、今はあの男から一歩でも遠く離れたかった。

 「橋……橋……あれぇ、無いなぁ」

 望遠鏡を活用して谷を隈なく探すが、橋はどこにもない。元々人の通行も無さそうな場所だ、橋があるとすればずっと下流の方だろう。食料も心許ないのに大きく迂回することを考えると気が滅入ってしまう。

 「仕方ないか」

 いざとなれば道中の木々や草を食べてでも行軍すればいい。食べられる草木ぐらい判別できる。そうしていざ橋を探して歩き出すが……。

 「あれ?」

 荷物をまとめ直して立ち上がったニコは、少し上流へ行ったところに橋が架かっているのを見つけた。

 「おっかしいなぁ、さっき望遠鏡で見た時は無かったと思ったんだけど……。ま、いっか」

 よく見ると橋はロープと板を組み合わせた簡単な物。きっと透視の術が遮蔽物と一緒に透視して視界に入らなかったのだと納得し、渡りに何とやらと橋のある場所まで急いだ。

 「ひぃぃ……!」

 上流の険しい谷に架かっていることから、橋の下はかなりの距離があり、しかも足場を支えるのは長く放置されっぱなしの木の板のみ。下を向いて思わず尻の穴がキュっと閉まる。

 「よ、要は足踏み外さなきゃイイわけだから……」

 情けなく左右に揺れる膝を叱咤し、恐る恐る最初の一歩を踏み出す。やはり腐っても橋は橋、少年一人の体重を支えるぐらいは大丈夫なようだった。取り敢えず片足乗せた時のバキッという音は聞こえないふりをしておく。

 手すり代わりのロープを掴み慎重に渡っていく。縄もよく見れば所々解れが目立ち、少し心許ない。

 「大丈夫……物理的に考えて、落ちるはずがないんだ……大丈夫」

 あまり深く考えないようにて少し急ぎ足で橋を渡る。ギチギチと脅すように鳴る板と縄の混声合唱から一秒でも早く抜け出そうと自然とその速度が上がる。



 それがいけなかった。



 ニコは気付く由など無かったが、実は対岸に掛けられた縄は既に腐っており、今や筋一本で持ち堪えている状況だった。そんな状態の橋の上を大荷物を背負い体重のある者がドスドスと走り回れば……。

 必然、こうなる。

 バツッ、という奇妙な音。ニコはそれが何かが切れた音とは思いもせず、驚いて思わずロープから手を離してしまった。それが彼の命運を別けた。

 「うわあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁーーーっっっ!!!?」

 偉大な星の重力に導かれ、絶叫が山々に木霊しながらニコの体は千尋の谷の底目掛けて真っ逆さまに墜落した。少し遅れて川面に着水する音が聞こえたが、彼の体は山を削る水流の中から浮かぶことはなかった。





 一口に魔物と言っても、実に多種多様な種族が存在する。魔王の代替わりによって、それまで知性がなく魔獣と呼ばれていた種族も総じてヒト型の姿を取るようになり、この世にどれほどの種類の魔物が存在しているのか正確な数は魔王しか知らないと言われている。

 地上全ての魔物は魔王の眷属とされる。というより、広義においては人類以外の知性ある生命体は(天使を除いて)皆魔物であるとさえ言われている。どれも総じて淫乱で、退廃的で、性の営みを何よりも重視する種族だと。

 だが厳密に言えばその定義は間違っている。かつてヒトでも魔物でもない種族がこの地上に存在し、その末裔は今も密かに生き続けている。

 エルフがその代表格だ。彼女らはかつて人類の亜種として認識され、新魔王の台頭後は魔物として数えられることもしばしばある。だが誇り高い彼女らは総じてヒトを下等なモノと見下し、純潔を重んじることから淫蕩な魔物娘を蛇蝎のごとく嫌う。

 自らをヒトでも魔物でもない、エルフという独立した種族と彼女らは自らを誇っており、その証拠に種族的に高い魔力に恵まれたかの種族は魔王の魔力に汚染されるのを防ぎ、数こそ少ないが男性のエルフも生まれている。特にその中でも「森エルフ」と呼ばれる純粋種のエルフは魔王が支配するより遥か昔から森に住まい、穢らわしい外界との接触を徹底的に断ち、閉じた集落で生活することで今日まで種族的純潔を保ってきた。

 エルフの「フィーネ」もその一人だ。

 フィーネは今や絶滅危惧種となって久しい森エルフの末裔だ。村一の狩人として幼い頃より野山を駆け回ってきた彼女は、今日も日課の狩りに出かける。持ち物は弓矢とナイフ、これだけだ。複雑な道なき道も難なく、草木の葉も揺らさぬ軽やかな足取りで彼女は自分の庭みたいないつもの山道を駆けていく。

 目に眩しい蛍光色の髪は穢れを知らぬ純粋なエルフの証。程よく引き締まった肢体は物心ついた頃より山々を駆けて鍛えたもので、足の速さならオオカミと競っても負けず、獲物を見定めるその目は闇夜のフクロウより鋭かった。

 「……っ」

 素早く風下に立ち、弓を引き絞り乾坤一擲……放たれた矢は一発で獲物を仕留めた。大きなイノシシである。

 仕留めた獲物を担いで山を少し下り、穏やかな沢に出る。そこで血を抜き皮を剥ぎ、適当な大きさに解体した肉を詰めて村に戻るのだ。血みどろの作業も手早く鮮やかにこなしていく様子は、見惚れるような美しさがあった。

 「……どうした?」

 肩に留まった小鳥が囀る様子に耳を傾ける。野生動物の言葉を理解できるエルフの能力は、この川の上流で何かあった事を鳥から聞き取った。一旦作業を中断して川を遡り、程なくして轟々と音を立てる立派な滝壺へとやって来る。

 ふと、目に付く物があった。水に浮かんでいるのは帽子、それもついさっき流れ着いた物のようだ。水面を見渡せば他にも幾つか滝に流れ落ちた小物が浮かんでおり、向こう岸の岩には……。

 「ニンゲン……」

 落し物の主らしき人物が引っかかっていた。滝壺から落ちた際に全身を打ったのか、遠目から見てもダメージは深刻だった。だが辛うじて息はあるようで、このまま放置すれば土左衛門になってしまうのは明らかだった。

 本来なら、下等で下劣な人間を助ける義理など無い。だがわざわざ鳥が教えてくれた手前、見捨てるのもやぶさかなので不本意極まりないが一肌脱ぐことにした。

 途中から一気に深くなる滝壺にも臆さず飛び込み、水を吸って重くなる着衣も難なく動かして、瞬く間にフィーネは気絶した人間を回収して岸まで戻ってきた。その年若さに自殺でも試みたのかと一瞬考えるが、小憎たらしい面構えを見るにそんな殊勝な性格ではない事を一瞬で見抜いた。

 すぐそばに生えていた薬草を摘み、それを口に含む。適当に噛み砕き捏ねたそれを吐き出して、少年の打ち傷にすり込んでいく。命に関わる大ケガは負っていないが、左足を骨折しており、これだけは薬草だけではどうにも出来なかった。

 「う……んん……っ」

 全身に染みる薬草のむず痒さに目を覚ましたのか、少年の目が開く。そして逆光の中にフィーネの顔を見上げ……。

 「……エルフ? エルフだ、本物だぁ……!!」

 全身の激痛も忘れたように驚きと歓喜の声を上げた。もっと間近で見ようと上半身を起こそうとするが、その顔が苦痛に歪んだ。

 「あ、足がっ!」

 「折れている。長生きしたければ動くな」

 少年・ニコはそんな忠告も聞こえないほど興奮していた。魔術に精通する者でなくてもエルフの存在は誰もが知っている。だが目の前にいるのは絶滅したとも言われていた森エルフだ。その純粋な魔力の気配から分かる。

 森エルフの末裔なんて、あの年中引き篭って何でもかんでも人任せにしていた師匠は見たことすらないはず。思わぬケガの功名に冷めやらぬ興奮のまま、ニコはエルフの少女に迫った。

 「あんた……名前は? 僕、エルフなんて初めて見たよ。どこに住んでるのさ? あぁ、ていうかその前に何歳? エルフって人間より長生きで若い時代が長いんだって? それって本当?」

 左足の痛みなどとうに忘れ、一気に畳み掛けるように質問を投げかける。探求する魔術師のサガとも言うべきだが、この場合は相手が悪すぎた。

 「下等なニンゲンに名乗る名前なんてない。去れ、ニンゲン。神聖な我らの森から疾く去ね」

 「は、はぁっ!? 何だよ! 助けたからってイイ気になってんじゃねえぞ!!」

 「イイ気になっているのはオマエだ。我らの森を土足で踏み荒らしておいて、よくもそんな汚らわしい言葉を投げてこれるな」

 ニコは思い出す。エルフとは非常にプライドが高く、常に上から目線で高慢ちきな種族だと。ともすれば自らをこの地上で最も優秀な種族と信じ込んでいると、彼女らと出会った多くの魔術師にそう評されている。

 ここは喧嘩腰になるよりも、出来るだけ下手に出て神経を逆撫でしない方が良さそうと判断。しかも、相手は魔術の世界でも貴重な絶滅危惧種だ、上手くすればひょっとして……。

 「わ、悪かった、ごめん! ほら、こんな事になったから、ちょっと気が立ってたんだ……本当にごめん!」

 「分かればいい。この先、川を下り二里ほど行けばニンゲンの村がある。さっさと行け」

 「ま、待ってよ! 僕の足見ろよ! 折れてるだろ、ポッキリと! こんなんで二里も行けるかよ!!」

 「木の枝でも拾って杖にしろ。オマエを助けたのは森の意思だ。でなければオマエなんかとっくに死んでいる」

 エルフは森の種族だ。彼女らは特定の神ではなく、自分たちが根を張る森全体を崇め奉っている。その崇拝は死生観にも強く表れ、一部の部族では死んだ際には墓も作らず野晒しにし、自らを苗床として森の繁栄の一助になろうとする儀式まであると聞く。森は彼女らにとって絶対の存在なのだ。

 「森の意思が僕を助けたって? じゃあ、ケガ人をほったらかして野垂れ死にさせるのは、あんたらの言う森の意思ってのに反してるんじゃないのかよ?」

 「なんだと?」

 「僕を助けてあげろって森が言ったんだろ? だったら、ちゃんと最後まで面倒見るのが筋って奴じゃないの?」

 「オマエのような穢れたニンゲンが森を愚弄するのか!」

 「いやいや、そっちが言いだしたんじゃないか。哀れな人間を一人助けてやると思ってさ……ね?」

 「…………」

 言い負かされてしばらく唸っていたが、フンっと鼻息を鳴らして背を向けてしまう。そのまま去っていくのかと思ったが、茂みに落ちていた木の枝を拾い……。

 「骨が繋がるまでだからな!」

 そう言って投げ渡した。

 こうしてニコはまんまとエルフの隠れ里に向かうことに成功したのである。

 「で……さっきも聞いたけど、名前は?」

 「訊ねる前にまずは自分から名乗れ」

 「僕はニコ。いずれ世界一の魔術師になる男さ。この僕を助けたことは一生忘れない、必ずお礼はするからな! 何だって言ってくれよ!」

 「フィーネだ。黙ってついてこい、耳障りだ」

 取り付く島も無いが、取り敢えずニコの密かな目的は達せられた。人間嫌いで知られるエルフ、しかも純粋種の森エルフの隠れ里に行けるとなって彼の心は興奮で沸き立っていた。並の人間では一月拝み倒しても絶対にこうはいかない。魔術師として大きな経験を積める事に早くも達成感を味わう。

 だが底知れぬニコの上昇志向は早くも次の目標を打ち立てていた。

 魔術に限らず、あらゆる事物にはその道に先立つ先人の教えを乞うところから始まる。先生と生徒、親方と見習い、そして魔術の世界でも師匠と弟子という古来より変わらぬやり方で深淵の術を伝えてきた。

 (確かエルフは自然体なままで精霊と交信する能力があるって聞いたぞ。森の何たらっていうのがそれの恩恵だとしたら……)

 胸に灯った野望を密かに燃やし、ニコはエルフの里に向かって歩き続ける。





 「駄目だ」

 エルフの里は誰でも足を踏み入れる訳ではない。里があるのは森の中だが、その道程は彼女らの力により巧みに隠蔽されている。その多くは、決まった手順で決まったルートを通らなければ集落への道は開かれないという物だった。

 長く険しい道をひいひい言いながら辿り着いたニコを待っていたのは、よそ者の気配を敏感に感じて飛び出してきた者たちの拒絶の言葉だった。神聖な自分達の里に下劣な人間を入れる訳にはいかないとのことだ。

 「フィーネ、どうして連れてきた? 部族の掟を知らないオマエではないはず」

 「そんな奴、そのまま川に流しちゃえば良かったのさ! その方が獣たちのエサになって森のためになる」

 「本人前にしてそこまで言うかよ、普通」

 分かってはいたことだが、予想以上の反発にニコもボヤく。

 純潔を重んじるエルフは種族そのものがある種の潔癖症みたいなものだ。自分達は崇高な種で、残りは有象無象、あるいはサルの一種としか思っていない。人間だって自分の部屋に我が物顔でサルが居着いていれば嫌な顔をする。彼女らにとっては人間がそれに当たるというだけだ。

 「足を折っている」

 「それがどうした? 獣は足が折れても狩りをする。ニンゲンが貧弱なだけ、どうしてそんな奴の治療をここでする必要がある」

 「治療はいい! 僕は魔術師だ、雨風凌げる場所だけあれば治療は自分で出来る!」

 「だったら尚更ここから去れ。山には風雨を避けられる場所はいくらでもある。洞穴でクマと寝床を伴にできるのならな!」

 「だ、だから! こうして頼んでるんじゃないか!」

 「穢らわしい口で汚れた息を吐くな! ここにオマエを迎える道理などない! とっとと去って、さっさとくたばれ!!」

 槍の柄でぐいぐいと押しやられる。何とか言いくるめられたフィーネと違い、彼女らはそもそも人間と言葉を交わすつもりが更々ない。部外者を排除することしか頭にはなく、遂には折れている足を思い切り叩く者まで現れた。

 「さあ、早く出て行け!!」

 「わっ!? ちょ、待って……!!」

 「何を騒いでおる!!」

 村の入口であわや揉み合いになりそうになった所、突如響いた声がそれを止めた。木々を揺らす大声は老人のそれで、驚きを隠せないエルフ達を割って現れた人物は確かに老婆だった。長命で知られ数十歳でも若々しい姿を保つエルフ、それがシワが目立つ老婆ということは、この老エルフはかなりの年齢だと容易に推察できた。

 「長老!!」

 「オババ……」

 「フィーネや……あまり、皆を困らせんようにせんといかんぞね」

 「ごめん……」

 「うぅむ。さて……人の子よ、本来この森は下劣で穢らわしいそなた如きが足を踏み入れて良い場所ではない。それは分かっておろうなぁ?」

 肌はシワと弛みが目立ち、目も細くなった老人。だが艶を残したままの白髪は絹のようにサラサラと風に流れ、そのアンバランスさがニコに言葉以上の圧迫を掛けてくる。

 だがここで臆しては目的は果たせないと、唾を飲み込んで真っ直ぐ顔を見据える。しばし互いに無言のにらみ合いが続いたが、やがて長老が再びフィーネに訊ねる。

 「滝に落ちたと言ったな、フィーネや?」

 「うん」

 「なら……入れてやりや」

 「長老っ、何を仰るのです!!?」

 「あの滝壷は底に岩が転がっておる。落下すればまず命はない。じゃが、この人の子は助かった。それはこの森が運を与えたからじゃ。森に生き、森に行かされる……人の子が生き延び、フィーネに拾われたのも森の導きじゃろうて」

 まさしく、鶴の一声。長老の言葉にそれまでの拒絶が嘘のように、ニコはエルフの村に迎えられた。だが内心ではやはり不満なのか、敵意の篭った視線は隠していない。

 藁葺きの簡素な作りの家々が建ち並ぶ集落。ニコが通りがかったのを見ると反応は二種、急いで家に飛び込んで閉じ篭るか、出入り口の連中と同じく睨みつけてくるかのどちらかだ。

 「足が治るまではここで寝泊りせい」

 「うわ……」

 ニコが絶句するのも無理はない。かつては馬を飼っていたのだろう、だがそこはもう馬は一頭もおらず僅かな藁だけが残された寂しい馬小屋だった。雨は凌げるが風は素通りしてしまう。

 「必要なものがありゃ言え。薬草ぐらいは分けてやろう」

 「ベッドとかは?」

 「藁なら腐る程あろうて」

 「ほんとに腐ってるんだよなぁ」

 取り敢えずまず最初に寝床作りから始めようとした。出来るだけ保存状態の良い藁を見繕ってかき集めるのだが、折れた足を引きずっての作業は遅々として進まない。

 見かねた長老がため息一つ漏らし……。

 「フィーネや。人の子の足が治るまで、お前が面倒見やり」

 「オババ! やだよ!」

 「お前が滝壺でこやつと出会ったも、森の導きあってこそ。森がこやつを生かし、お前がそれを助けた……ならば、最後まで責任を持つのじゃ」

 それだけ言って長老は去って行く。人間で言えば八十も後半だろうに、その足は杖もつかず健脚ぶりを見せつけていた。

 「…………」

 「だってさ? 僕と同じこと言ってたじゃないか」

 「っ!!」

 得意そうな顔でそう言うと、見事に機嫌を損ねたフィーネが周りの藁を全部かき集め、それをくしゃくしゃに固めて投げよこし、そしてそのまま肩を怒らせながら飛び出していった。弓矢を持っていたところを見るに、狩りの続きに行ったのだろう。

 だがなんとかエルフの隠れ里に進入することが出来た。これで大いなる野望の足がかりは出来た。

 「よっこらしょ……」

 杖にしていた枝を少し切り落とし、短い方を足に添える。その上から包帯を巻き、魔術で作った治癒水を上から掛け流す。これで腫れは引き痛みも和らぐはずだ。

 「よそ者の分際で出歩くのはいけないんだろうけど、構うもんか」

 短くなった杖をついてエルフの村を歩く。行き先はこの村で一番博識な人物の元、つまりはあの長老の住んでいる場所だ。みんな似たような家屋ばかりだが、一軒だけ屋根に羽飾りがあったので、恐らくそこだろうと目星をつける。

 「入ってくるでない」

 家の前まで来ると挨拶もしないのに先に牽制されてしまった。だが入室が許されていないだけだと開き直り、すぐ入口から単刀直入に要件を言った。

 「エルフには精霊と話せる力があるって聞いたんだけど、それは本当なの?」

 「それを知ってどうする?」

 「質問してるのはこっちだよ。それで、どうなのさ?」

 「…………」

 遠慮を知らない質問に気を悪くしたのか、重たい沈黙が流れる。これはまた取り付く島もないまま終わりそうだと、諦めて踵を返した時……。

 「そなたら人の子が精霊と呼ぶモノ……それらと言葉を交わす術は確かにある」

 「本当!?」

 「知って何とする、人の子よ」

 「僕は魔術師だ! 魔術師が精霊と交信する手段を得れば、やることは一つだけさ!」

 魔術師の中でも特に精霊と契約した術者を総じて「精霊使い」と言い、同じ魔術師の中でも抜きん出て強力な力を持つ。それは術者の実力に精霊の力が加わるからであり、多くの魔術師にとって自分だけの精霊と契約することは大きな目標の一つとして挙げられる事も少なくない。

 ニコもその一人だ。逆に彼の師匠は精霊どころか如何なる魔術的存在とも契約を結んでいない。そんな男の弟子が先んじて精霊契約を結んでしまえば、それはつまり弟子が師匠を越えたという何よりの証左となる。

 「そなたのように精霊と会話しようとする者を多く見、その内の幾人かは契約を果たした。じゃが精霊との契約は決して近道にあらず。何故に精霊と契りを結ぼうとする?」

 「僕はまだ十五だ。世間的にはまだまだ若造。そんな若造が精霊と契約を結んだとなれば、誰もが僕を評価し一目置かざるを得なくなる。魔術師としての経歴に箔がつくってものさ!」

 「何故名を上げたい?」

 「僕にとってその質問は、鳥がなぜ空を飛ぶのかとか、魚はどうして泳ぐのかってのと同じ事さ!」

 「ならば問いを変えよう。名を上げて何とする?」

 「……? 魔術師として大成するってのが僕の最終目標だけれど?」

 こいつは何を言っているんだとばかりに首を傾げるニコ。きっと厭世的な暮らしをしているせいで、二言目には俗物的としか言えない人種なのだろう。可哀想に。

 そんな風に勝手に相手のリアクションを想像していると……。

 「哀れじゃな、人の子」

 藁葺き越しからでも分かる、鼻で笑った声。まるで自分の尻尾を延々追いかける子犬を見たような、そんな笑い方にニコが反射的に抗議の声を上げる。

 「僕の何が哀れだって!? どうせ人間は自分たちには及ばないからって、上から目線で何でも計るんじゃない!!」

 ニコは高慢で鼻持ちならない、それでいて自分では何もせず相手の粗を探し扱き下ろす連中が大嫌いだった。魔術師になると宣言した時も、それまでに自分がどれだけ時間と労力を惜しまず努力したかも知らず周りの人間は足を引っ張ることしかしなかった。だから自分は故郷を捨てて異国の地で魔術修行に明け暮れた。魔術に懸ける覚悟と信念は誰にも負けない自負がある。

 これまでの道程を知りもしないで批判するだけしか能の無い輩を、ニコは絶対に看過しない。森の奥に居座り賢人を気取っているような連中に、自分の努力を否定させはしない。

 だがやはり長老の声は冷ややかだった。

 「そなたは物事の本質をまるで分かっとらん。まさしく、木を見て森を見ず……いや、この場合は森を見て木を見ずか。いずれにせよ、人の子よ、そなたには精進が足りぬのよ。今一度学び直すことよ」

 長老の声は最後まで聞こえなかった。

 ニコはとっくにそこを離れていた。





 ここまで彼を見てきた諸兄らにはもうお分かりだろうが、あえて明言しよう。魔術師としてのニコに特別な才能や素質は、何一つ無い。その正体は根拠なき自信に満ち溢れたただの凡才だ。

 まず性格が向いていない。深淵の真理を理解しようとする魔術師は総じて冷静沈着で、時には自らの生涯そのものを研究過程として解析し記録する客観性が求められる。だがニコは若気の勢いに任せて師の元を飛び出し、道を外れ山中を彷徨いかけた挙句に川に転落、エルフの里に入り込めたのも単なる幸運でしかない。全てが行き当たりばったりなのだ。

 次に魔術の腕だ。確かにニコは十の手前から魔術の修練に励み、同年代の術者と比較すれば腕はそこそこ立つ方だ。だが結局、「そこそこ」という程度で突出した何かに秀でているわけではない。修練を怠らなければ遅かれ早かれ到達可能な地点、そこに一足早く乗り込むことが出来ただけで、別に彼が特別優秀なわけでは決してない。

 ではなぜ凡才のニコがここまで精力的に活動できるのか。凡人にありがちな才能の壁にぶつからずにやってこれたそのワケは?

 簡単だ、彼は「努力」しているからだ。

 ニコは基本的にポジティブな人間だ。落ち込むという事を今までにしたことは無いし、他人からの評価も気にしたことはない。挫折が無い訳ではない、その挫折を「どうにかこうにか」してここにいる。今までずっとそうしてきて、これからもそうするつもりだった。

 例え面と向かって「お前は才能が無い」と否定されても、ニコは決して挫けはしない。

 なぜなら、自分は「努力」しているからだ。「努力しない者」が「努力する者」を貶すことは許されないし、「努力している」という部分においてニコは常に自らの精神的優位を保っている。即ち、努力という言葉を免罪符にあらゆる言動、及び物の考え方を正当化しているのだ。

 無茶をしても、「努力のためには仕方がない」。

 言い方が悪くても、「努力しているのだから悪くない」。

 結果が伴わなくても、「自分は努力して精一杯やったから」。

 自分の落ち度や努力不足、方法が間違っていたことは絶対に認めない。才能が足りなかった故の失敗も「次に活かそう」と曰いながら、実際はその失敗を早々に過去の事として忘却する行為以外の何ものでもない。

 努力という言葉の意味を履き違えた若人、それがニコという人物の本質だ。

 遠回しに精霊契約の件を断られたのも、自分に非があるとはまるで思い至らない。それどころか、魔道を極めようとする自分に協力しない長老の方を批難する始末だった。

 「どいつもこいつも、どうして僕の邪魔をする。僕の崇高な目的を遂げようとする手助けをしない!」

 鼻息荒く集落の道端や家屋の脇に自生している植物を片端から引っこ抜き、それを手記にスケッチしていく。どれも見たことのない植物だ。普段なら興奮で涎が止まらないところだが、今のニコは苛立ちに任せて乱暴にペンを走らせ、スケッチはかなり粗い。

 足が治ればやがてここから追い出されるだろう。その前に何としてでも精霊交信の秘密を知る必要があるが、口が固い上に排他的な彼女たちから情報を引き出すのは容易ではない。一番物腰が柔らかく話しやすかった長老があれでは、血気盛んな若い連中は余計に難しいだろう。そもそも口を利くどころか目も合わせてもらえない可能性が大きい。

 いや、ちょっと待てよ……。

 「いるじゃん、僕と口きいてくれそうな奴」

 ありがたくも長老直々のお達しで足が完治するまでの世話係として申し付けられたのが一人……。彼女は嫌でも言葉を交わすことになる。そこから突破口を開けば、あるいは。

 そうと決まればさっそく接触したかったが、生憎フィーネは狩りで出かけている。彼女が帰るまで植物のサンプルでも採りながら大人しく待とうと、リュックから保存容器を探し────、

 「……あれ?」

 間の抜けた声が口から飛び出した。

 容器はある。植物はそこに容れておけば良いのだが、リュックの中にしまっておいたはずのある物が無いことに気付き、ニコの顔からさっと血の気が引く。

 「無い、無い! 無い無い無いッ!!? 嘘っ、どこで…………あの川!?」

 川に流され滝壺に落ちるまでに、リュックの中身も幾つか流されてしまった。とすれば「あれ」もその中に……。

 こうしてはいられないとエルフの村を飛び出す。帰り道はどうするとか、そもそも見つけられるのかという部分はまるで考えず、折れた左足のつま先も使って走り出した。行きにあれだけ息を切らして登った山道も一気に駆け下り、驚くほどの短時間でニコの足は見覚えのある滝壺に着いた。

 だが斜面を駆け下りて辿り着いた場所には、先客があった。

 「……オマエ……」

 フィーネだった。こんな時でなければ長老の代わりに聞きたいことが山ほどあったのだが、今は彼女に構っていられない。水を飲もうとしていた彼女の脇を通り過ぎ、杖を放ってばしゃばしゃと川面に突き進んだ。石が転がる浅い川底を抜け、一気に深くなる滝壺へ何も恐れず進んでいく。

 「何をしている」

 「水泳にぃ……見えるっ!?」

 どうせ頼んだところで聞き入れるはずがないとニコも早々に会話を切り上げ、捜索に集中する。と言ってもやはり無理に動かせない左足は推進力にはならず、右足一本で体の舵取りをするのは予想以上に体力を削った。

 そして、ものの三十秒でその体は落水に巻き込まれて滝壺の中央に引きずり込まれる。

 「がぼぼぼぼぼぼぉぉぉーーーっ!!!?」

 喉に猛烈に水が入り込み思わず咳き込むが、その拍子に更なる大量の水が飛び込んでくる。水の流れに押されてどっちが上下かも分からない。大渦に飲み込まれたようにニコの体は水中でもんどり打っていた。

 せっかく拾った命もこんなところでドブに捨てるのかと今更後悔する。

 だがふとその体が水面に浮上する。自力による脱出ではない、溺れかけたニコを救出したのはやはりフィーネだった。

 「バカか、オマエ!」

 沈みかけていた体を抱きかかえられ、二人して水面に浮かび上がる。傍目には命を捨てるような行動に見え、フィーネも呆れを隠さず溜息を吐いた。

 「死ぬなら勝手に死ねばいい。でもここで死ぬな。ここは部族が水浴びに使う場所、ニンゲンの死骸で汚す訳にはいかない」

 「別に自殺したかったわけじゃない。ここで大事なものを失くしたかもしれなくて、それで……」

 「落し物だけでこんな愚かな事をするのか、ニンゲンは」

 「あれは……僕にとって命の次に、いや、命より大事な物なんだ!」

 そうだ、それを見つけ出すためなら命も惜しくはない。

 そんなニコの固い決意を見抜き何か感じるものがあったのか、フィーネは何も言わず彼を岸辺まで運んだ。

 痛めた足を傷つけぬようゆっくりと河原に横たえ、水に濡れた髪を手でかき上げる。たったそれだけの行為が妙に艶かしく見えてしまい、ニコは紅潮する頬をごまかして俯いた。

 ニコが俯いた瞬間、水面に何か大きな物がドボンと落ちる音がした。はっと驚き顔を上げるとフィーネの姿はどこにも無く、彼女が立っていた場所にはいつの間に脱いだのか服だけが残されていた。

 どこに行ったのかと周囲を見回そうとした時、滝壺に潜っていたフィーネが姿を見せる。

 服は川原に置きっぱなし、つまり今の彼女は正真正銘、生まれたままの姿だった。

 「なっ、なっ、なななっ!? ななん、なん、なんなん……!!?」

 何も恥じ入ることなく堂々と川原を歩きニコの前までやって来る。きめ細かい産毛すらない白い肌、水に濡れ肩や背に貼り付いた長髪、豊かに実った乳房や、その真ん中でツンと上向きになった乳頭、髪と同じ色をした股の茂みまで、何もかもが一切隠されることのないまま男の前にさらけ出されている様に、ニコの方が悲鳴を上げていた。

 「オマエの落し物はこれか?」

 裸に気を取られていたが、フィーネの手には水を吸って重くなった二足一対の靴があった。ニコの履いている物ではない、その靴は今のニコが履くには小さすぎた。そう、まるで子供用の靴だった。

 「それだ! それだよ! ああ、よかった……。助かった、ありがとう!!」

 「神聖な滝をニンゲンの私物で穢されたままにされたくなかっただけだ」

 「ああそうかい。って……ケガしてる」

 ニコが指差すのはフィーネの健康的な太もも。真白い肌に僅かな切り傷があり、一筋の赤い滴が流れ落ちていた。恐らく滝の中に残っていた木の枝か何かで傷付けたのだろう。

 かすり傷とはいえ、自分の落し物を拾うために傷を負った事について何とも思わないほどニコも薄情ではない。

 「僕が治してやるよ。お礼だと思って受け取ってくれ」

 指先に燐光が宿りユラユラと瞬く。呪文の詠唱すら必要としない初歩の術だ。

 そしてその前にフィーネが足を出す。

 「ん……」

 服も着ず、相変わらず全裸のままでだ。そんな状態で足を差し出すものだから、見上げた拍子に……。

 「ふぉおおうあぁあああっ!!?」

 服を着ろ、と言いたかったのだが思わず奇声を上げてしまった。遠くで驚いた鳥たちも悲鳴を上げて飛び立っていく。

 さっきからあまりにも堂々としているのでツッこむことすら忘れていたが、あられもなく裸体を、それも男に見せつけているというのにフィーネに一切の照れや恥じらいの素振りはない。そうすることに何の不都合があるのかと言わんばかりに開けっ広げだ。

 それもそのはず、フィーネはニコをオスとして意識していない。入浴中に犬が入り込めば誰でも驚くが、犬に裸を見られたからと言って絹を裂く様な悲鳴を上げる女性はいないだろう。つまりフィーネにとってニコとはそういう存在なのだ。乳房や乙女の花園を見られたからと言ってどうという事はない。

 そんな彼女の心中を知らず顔を赤くして俯きながら、ニコは穢れのないその肢に指先で触れた。じわりとした温かさが水で冷えた体に染み込み、少しだけフィーネが身震いする。

 「と、とりあえず血を止めただけだから。傷自体の治療は僕が作った薬があるから、そっちを使ってくれ」

 「必要ない。傷薬くらい自分で作れる」

 「お礼だって言ったじゃないか。ちょっとぐらい、素直に受け取ってくれよ」

 「……フン」

 不満そうに鼻を鳴らして、やっとフィーネも服を着る。そのまま先に帰ってしまうのかと思ったが、何故か彼女はニコの隣に腰を下ろした。腕一本分は離れた“隣”だが。

 「そんな靴がどうして大事なんだ」

 「この靴は……僕が魔術師になろうと思ったきっかけなんだ。これを履けば、空を飛べるんだ」

 「嘘だ」

 「本当だよ。でも、もう僕が履くには小さくなった。いや、僕の足が大きくなったんだ。この靴が今でも空を飛べるのかどうか、もう確かめようがない。でも本当だったんだ……本当に、これを履いて空を飛んだことがあるんだ」

 今でも鮮明に思い出せる、あの時の驚きを、衝撃を、そして感動を。

 「自分の身長が伸びたかと思った。爪先で地面を蹴ろうとしたけど、その地面が無かった。内臓が持ち上がる感覚に気分が悪くなる。でもそんなのは一瞬さ! 空気が地面になり、風が道になってくれる。あとはそこを辿れば飛ぶなんてのは簡単さ! どこへだって行ける!」

 エルフの知恵にも空を飛ぶ術は無い。翼を持つモノ以外で大空へ舞い上がれるのは、外法に手を染めた魔女やバフォメットだけと聞いている。人間の魔術師がそんな高度な物を作ったとは到底思えなかった。

 だが今のフィーネにとってそんな瑣末事は頭から放り出されていた。今や彼女の耳は部族の誰も教えてくれなかった、数百年も生きた長老ですら知りえない未知の語りに心奪われていた。

 フィーネは空を飛んだことがない。だがニコはある。自分が今まで想像すらしなかった世界を語るニコの言葉に、いつしかフィーネは耳を傾け静聴していた。穢らわしい生き物、聞くに値しない戯言……そんな横槍を入れる気などとっくの昔に消えていた。

 日が西に傾き森がオレンジに染まる頃、ようやくニコの壮大な空中飛行のエピソードが終わりを告げた。

 「だから僕は魔術師になると決意したんだ。この世の真理を解き明かせば、世界から不可能なんて言葉は消えて無くなるんだ。やってもいないくせに出来ないと決め付ける奴や、自分が出来ないからって他人の足を引っ張るような奴は真っ先にいなくなる! 今まで夢物語だって笑われてきた事も、全部現実にすることが出来るんだ! 分かる? これはとても凄いことなんだよ!?」

 熱く語るニコはまたも左足の痛みを忘れ、いつしか両の足で立ち上がり宣誓するように自分の夢を語り聞かせていた。真髄それ自体は子供の夢だが、その気持ちをそのまま今日まで持っていられたその純粋さには感服するものがあった。

 そしてフィーネは決してそれを馬鹿にはしなかった。一寸の虫にも五分の何とやら、であれば例え穢らわしくともその野望の大きさを頭ごなしに否定できるほど、フィーネ自身も長く生きてはいなかった。

 ニコの姿が眩しく見えるのは、夕日を背にしているからなのだろうか……。

 「だけどエルフの長老があんなに分からず屋だとは思わなかったよ。精霊と会話する方法を教えてくれれば、僕だって精霊と契約してもっと強力な魔術師に……」

 「オマエ、馬鹿だろ?」

 「なんだよ急に!?」

 「精霊と話せるようになっても、精霊と契約できるかどうかは別の話だ。オマエ、魔術師のくせにそんな事も知らないのか」

 「…………マジ?」

 交信は言わばテレパシーだ。例えれば顔を見ず声だけでやり取りしている状態に近い。契約にはより直接的、そしてより物理的な方法で臨む必要がある。より具体的に言えば、純精霊なり魔精霊なりと直に接触を果たした上で契約の術式を結ばなければならない。そんな事は魔術を使わないエルフですら知っていることだった。

 つまらないケアレスミスによって思い描いていた計画が水泡に帰し、ニコは真っ白に燃え尽き灰になっていた。





 それから完全に日が暮れる前に山道を登り、二人で集落に戻った。帰り道歩いている間ずっとニコはあからさまに落ち込んだままで、時折何かブツブツと呟くも、終始俯いたまま元気が無かった。

 「…………はぁ〜」

 「おい、オマエの寝床に着いたぞ。包帯を張り替えてやるから、早く横になれ」

 「あ〜……」

 藁を敷き詰めた寝床に倒れ伏し、ごろりと横になる。まるで体調不良の牛のような振る舞いにフィーネも呆れ顔だった。

 「だらしのない奴。しゃきっとしろ、しゃきっと!」

 「ごめん……今日はもう、そっとして。このまま寝たい……」

 「まったく。滝壺に飛び込んだ勢いはどうした」

 「うん、ごめん……」

 どうやら本格的にショックが大きすぎたようだ。これはいくら怒鳴ったところで逆効果だと、素早く包帯を張り替えてフィーネは自分の家に帰ろうとする。

 「ああ、傷薬、リュックに入ってるから持ってっていいよ……」

 「そう言えばそうだった」

 すっかり忘れていた事を思い出し、許可をもらってさっそくリュックの中身を検める。整理も何もされておらず、ぐちゃぐちゃの中身を漁りながらようやくそれらしき液体が入った小瓶を見つける。

 「塗り薬だから……多分しみるよ」

 それだけ言って毛布に包まり、ニコは就寝した。だらしないんだか根性があるのか分からない男に、フィーネは心中複雑だった。

 でも、悪い奴ではなさそうだ。

 汚れて、下等で、下劣……実は人間に会うことも初めてだったフィーネにとってそれは、話で聞くほどの悪評を持っているようには見えないというのが本音だった。

 軟弱な部分が目立つが、世話することはそれほど不快ではない。

 傷薬の返礼に何か精のつく獣の肉でもやろうと考えながら帰路につく。その道すがら、小瓶の中身を確認しようと蓋を開いた。

 中にはドロリとした粘度の高いピンク色の液体が詰められており……とても濃く甘い香りがした。
15/10/31 14:31更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 ニコ「にっこにっこにー♪」
 フィ「は?(威圧)」
 ニコ「ごめんなさい」

 ニコくんの師匠が気になる方は、よろしければ前作四話参照してください。

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