連載小説
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第一幕 皇帝と愚者:前編
 『皇帝と愚者 〜あるいは成り上がり王子と気狂い帽子屋のお話〜』










 アルカーヌム連合王国……そこは連合の名が示すように、元々この一帯の小国や諸侯が治める土地を束ねることで形成された国家である。様々な民族や文化を一所に纏め上げ共同体としての利益、即ち国益を確保する組織として完成してから既に200年が経過しようとしていた。

 大陸では数少ない建国当初からの親魔物国であり、街は魔物娘と人間たちが生活の場を同じくしている。まだ田舎などでは人間の里と魔物の里で分かれている事もあるが、それも住み分け以上の差別意識はなく至って平和である。昔は排他的な集落もあったが、今では極一部を残すのみとなっている。

 国力もそれなりのものがあり、反魔物派筆頭のレスカティエ教国を隣国に持ちながらその圧力に屈さず、遂に落日事件まで親魔物を貫き通して見せた。少なくとも列強と呼ばれる国々からの干渉を跳ね除ける外交力を持っており、加えて国外に弱みを見せない程度には内政も行き届いていた。

 物産以上の資源を持たないが、古くから貿易によって経済を成長させ、主に魔界の特産品などを同じ親魔物領間で売買してきた。最近では金融にも力を入れ始め、領内に存在する小国・サンミゲル公国とはかの国が建国した当初からの付き合いがある。

 こうして聞けば非の打ち所の無い理想国家に聞こえるだろうが、やはりそこは天下国家、肥大化した組織や集団とは常に矛盾や闇を孕むモノ。

 今この国は、建国から「三度目」になる存亡の危機を迎えようとしていた。

 「このままでは、いけないな……」

 総大理石の謁見の間にて宰相は一人呟く。一段高く作られた場所にはこの国で最も高貴な者だけが座ることを許された玉座があり、宰相はそこに腰掛ける人物に仕えている。

 だが今その玉座は空席だった。たまたま所用で外しているのではない、もうこの椅子はずっと使われていない。

 二十年間、この国には王がいない。

 「いけないな」

 もう一度呟くその声はさっきより深刻そうで、実際そうだった。

 北の諸国でも身分平等を謳いながら元首を置いている。国家というのは仲良しこよしの集団とは違い、常に民衆を引っ張るリーダーが必要だからだ。それは王政も軍事政権も、民主主義によって選ばれたものでも同じことだ。支配者を欠いた国は国としての体を成さない。

 これがまだ完全な民主政治ならすぐにでも有力者を募れるのだが、アルカーヌムは建国以来続く王の血筋によって運営されてきた。急ごしらえで体制を変えるのは危険な上に、国内の不穏分子を勢い付かせてしまう恐れもある。

 このまま放置すればアルカーヌムは慢性的に滅びの一途を辿ることになる。

 「そろそろ、本気で掛からなければ……」

 窓の外に見える王都の大通りは今日も賑わいを見せている。今日もこの国は平和だ。だがこの平和がいつまでも続くとは限らない。

 この平和を維持するにはやはり……王が必要なのだ。

 王冠を戴き玉座に座るに相応しい者、それは既にこの街にいる。





 この王都でも昼間から酒を掻っ込む穀潰しがいる。昼の営業時間に料理ではなく酒ばかり注文する輩が、どの料理屋にも必ず数人はいる。中には夜通し城門を守る仕事の衛兵もいるが、大半は手に職を持たないあぶれ者、その日の稼ぎも全て酒か博打に使ってしまう碌でなしがほとんどだ。

 そして大通りに面したこの大衆食堂にもそう言った連中がたむろしていた。昼間の賑わいを見せる真ん中ではなく、いつも決まって端の方に固まっている。金は払うので文句は言えないが、安酒しか注文せず時間が経つほど酔いが回って声が大きくなり、店にとっても他の客にとっても迷惑な連中だ。

 しかも酒だけでなく仲間内で賭け事をするので、かなりの時間をそこで過ごす。今日も四、五人でカードゲームにアツくなっているようだ。手札を組み合わせて一番強い役を作った者が勝つ、後の世でいうところのポーカーに似ている。

 「……レイズ」

 「んじゃ、こっちもレイズ」

 「このままで」

 「いいな? それじゃ……オープンだ!」

 札が出揃った事を確認しディーラーの指示でそれぞれの役を開示する。同じ役の者は無く、綺麗に総取りが決まった。

 「っかぁ〜! イケると思ってたのによぉ〜!」

 「そうそう上手くいくもんかい!」

 「へへっ、いただき〜!」

 勝った男が机の上に積まれた金を全て取り上げる。金と言っても何のことはない、この国で発行されている一番安い銅貨だ。荷物運びの仕事で数枚もらう程度の報酬、それを使って一時の娯楽に興じる。ちなみに最終的に勝った者は仲間内の飲み代を奢りという形で支払うので、結局は酒に浪費していることになる。

 ここにいるのは元々精力的に働いていたが脂が落ちてから職を失った中年男性ばかりだ。力仕事をするにはもう体力が足りず、かと言って特別頭が良いわけでもなく、病気や家庭の事情などやむにやまれぬ理由で一度職を失い、荷物運びやドブ浚いをしている者達だ。金を稼げるだけ乞食よりマシと見るか、乞食の方が汗水垂らさず生きられると見るべきか、それは意見の分かれるところだろう。

 人口の増加に伴い仕事にありつける者が減る現象は、今や王都だけでなく他の主要な街、別の国でも同じだった。成功を求めて上京してくる田舎の次男や三男坊、兵役が終わっても地元に帰らない者、異国から渡りそのまま商売の基盤をここで築く者、実に多種多様な人間がやって来た。

 それにより街では仕事の奪い合いが起き、より若く力強い人手を欲するようになった。結果、彼らのように中年と呼ばれる者、特にケガや兵役などを理由に一度職を離れた者はことごとく仕事を失う羽目になった。そうしてクビを切られた者には半ばイチャモンに近い理由で辞めさせられた者もいるという。

 だがこの中に一人だけ浮いている者があった。さっきのゲームではディーラー役でカードを配っているだけだった男がそうだ。

 「ほらほら、次もやろうぜ。またカード配るからよ」

 三十代後半から四十前半の男達の中に一人だけ、二十代になったばかりに見える若者が一人。他の面々とは共通点が無さげなその男は、むさ苦しい空間に違和感なく溶け込んでいた。男たちも自分の半分近く年下の彼を抵抗なく受け入れており、同じ釜の飯を食らった兄弟のように接している。

 「いやぁ、もうすっからかんのスカンピンさ。勘弁してくれや! あとはもう酒飲んで終わりにさせてくれ」

 「もうお開き? カードを使ったゲームはまだあるし、なんなら金を賭けずに……」

 「お前は本当に変わった奴だな、おれらみたいな連中とつるんでて楽しいかい?」

 無邪気に遊びをねだる青年に男たちも不思議そうに尋ねる。青年とこうして遊ぶようになったのはつい最近のことで、今日のように昼間から酒を飲んでいた彼らに声をかけてきたのが始まりだ。

 金もろくに稼げず不満を不味い酒でごまかす日々、そんな時間を楽しみに変えてくれたのがこの青年だ。仲間内でのギャンブルをするようになったのも、一人勝ちした者が飲み代を出すというのも彼の発案だ。二束三文の暮らしでも楽しみを見つけられると教えてくれた青年に男達は感謝すると同時に、いつも不思議に思っていることがあった。

 彼はいったい何者なのだろう?

 同年代の男達は交流を重ねる内にそれぞれの素性なり生い立ちなりを酒の肴代わりに語ったが、きっかけを作ってくれた青年に関しては殆ど知らなかった。昔の事を聞いてものらりくらりとかわされてしまい、分かっているのは……。

 「なあ、レイン」

 その名前と……。

 「昔、こういう食い物出すとこで働いてたんだ。だから飲んだくれの相手してる方が気が楽でさ」

 恐らく少年時分の僅かな過去のみである。

 「お前が普段何して過ごしてるのか前から興味はあったんだ。でも、お前ってなかなかそのへん喋らないからよ。あ、いやっ、別に根掘り葉掘り聞きたいわけじゃねえんだ! 言いたくねえコトの一つや二つ、誰だってあるからな! 悪い悪い!」

 「それにしても、飲んだくれたぁご挨拶だな。ま、事実だけどよ。でもその言い方だと、酔っ払いよりメンド臭い奴を知ってるみてぇだな」

 「まあ、その……色々とさ。ああ、もう行かないと。じゃあ、また明日!」

 唐突に何か思い出した風にレインが席を立ち、自分の飲み代を置いて食堂を後にした。今から仕事なのだろうかと残る面々も酒をちびちび呷りながらそう思う。

 だがここでもう一つ気になることがある。

 レインという青年は一体何の仕事をしているのだろう?

 自分たちと同じ荷物運びやドブ浚いをしているならどこかで顔を見そうそうなものだが、彼とはこの食堂以外で会ったことは一度もない。ギャンブルで口に糊しているのかとも思ったが、それにしてはいつも安定した金額を持ち歩いているようだ。本当に何の仕事をして収入を得ているのだろうか?

 だがそんな疑問も酒の酔いが回るに連れて頭の片隅からも抜け落ちた。分かっているのは、男達もレインといると楽しいということだけだ。それで充分だった。





 残った銅貨を数えながら店を出たレインの前に、ずいっと立ち塞がる者があった。邪魔だと文句を言ってやろうと頭を上げると、そこには見慣れた、そして一番会いたくない顔があった。

 「お探ししましたよ、レイン様」

 「はああぁぁぁ〜……酔いが醒めるからさ、ホント止めてくれよなこういうの。人が気持ちよく酒飲んだ後に、何が悲しくてあんたの顔を拝まなきゃならないのさ」

 悪態を吐きながら脇を通り抜けようとするレイン。しかし目の前の男はそこへ身を出して通せんぼする。



 「宮殿へお戻りを、レイン王子」



 「そのっ、『王子』ってのを止めろって言ってんだよ。宰相閣下さまともあろう御人が、この距離で耳が聞こえないんですかぁ〜?」

 レイン……その真の名を、「レイナード・レクス・アルカーヌム」。あるいは単純に「レイナード三世」。レインとは略称、ニックネームだ。

 そう、このさっきまで食堂の隅で中年男たちに混じってカードゲームに興じていたこの青年こそ、この国で唯一の王族直系の血を引く王位継承者、レイン王子その人である。

 「あなたが頷いてくれるまで、私は諦めませんよ」

 「ならオレはあんたが諦めるまで言ってやる。オレは、後は、継がないっ。木箱の隅に生えたカビぐらいの量の脳ミソでちゃーんと覚えときな!」

 自分を追ってわざわざ城下まで降りてきた宰相にそう吐き捨て、レインは大通りを離れ裏道に入ろうとする。

 「どちらへ?」

 「心配すんなよ、日暮れまでには戻る。しばらくはあの宮殿を宿代わりに使ってやるよ。しばらくは、だけどな」

 ひらひらと手を振って去って行くレインを宰相は見送ることしか出来ない。

 彼が王家の血を引いているなど、その立ち居振る舞いからは誰も判別できないだろう。実際、彼には王族に相応しい教養や知識、その他のスキルといった類は何一つ持ち合わせていない。単純な支配者としての格やカリスマなら、中央に住む貴族の御曹司の方がよほど優れている。

 「それも、致し方ないことか……」

 投げやりに呟く宰相の足が宮殿に戻る。レインの事は心配ない、宮殿から派遣した護衛が周囲を張っている。この場所を突き止めたのもその報告によるものだ。

 十年前、王家の家系図にレインの名は無かった。不義の子ではない。支配階級にありがちな落胤ではなく、レインは正真正銘、王の血統に名を連ねる資格を持つ者だ。

 家系図に名が無かったのは、単純に王家がその存在を知らなかったに過ぎない。

 レインは王都の外で生まれた。

 生まれざるを得なかった。

 かつてこの王国の裏で起きた「二度目の事件」によって、彼は血筋以外の全てを持たずに生まれてきた。

 王国の長い歴史の中で最も恥ずべき汚点……その結実が彼だ。出来ることなら支配階級のしがらみと無縁で生きていけるのなら、是非そうさせるべきなのだろう。

 だが何としても彼に王位に就いてもらわねばならない理由もあるのだ。

 「…………この香りは……」

 馬車にも乗らず徒歩で帰った宰相を出迎えたのは、鼻腔をくすぐる芳香。日頃嗅ぎなれたそれは芳醇な紅茶の香りで、匂いに誘われてその足はバルコニーへと誘われる。

 こんな時間に来客は無かったはず、そう思いながらも宰相の脳裏はこの香りの犯人を絞り込んでいた。

 「これはこれは閣下! 不思議のお茶会に迷い込まれましたかな」

 賓客を招いて晩餐会に使われる大テーブル、そこは今たった一人の贅沢な使用を許している状態にあった。座っている位置こそ下座だが、通常家主の許可なしには決して使用できないはずのそこを一部とは言え占拠し、あまつさえたった一人の茶会を開くその人物……。

 「本日はお日柄も良く、宰相閣下におかれましては今日この佳き日を如何お過ごしでしょう」

 「相変わらず口が回ることだな」

 その人物は、一言で言えば奇異な姿をしていた。どこかの洒落者が着るような燕尾服に身を着け、ズボンと靴も舞台役者が履くような上等な物に身を包んだその姿は、それこそ貴族の茶会に現れた紳士のよう。だが彼女は歴とした女性で、いわゆる男装の麗人という出で立ちだった。一番の特徴は頭に乗せた洒落た帽子で、屋内にも関わらず被ったままのそれは風もないのにフワフワと動いていた。

 本人の口調や役者掛かった言い回しはまるで役者。そして実際、彼女の王宮における役職はまさにその「役者」だった。

 「ジェスターの仕事も放棄して呑気に紅茶か」

 「放棄も何も、仕える主が不在なのですから仕方ないでしょうに。どこかの誰かさまがいつまでたっても口説き落とせないご様子ですので」

 「そこまで言うなら、是非君にも協力してもらいたい。男が男を口説くなんて、アルプでもない限りいい笑い話だ」

 「そうしたいのは山々ですが、生憎ワタクシは王室に仕えているわけではありません。卑賤なジェスターが仕える主は王ただ一人でございます。故に未だ王になられていない方にお仕えするのは契約違反でございます」

 「本当に口だけは達者だな」

 「外相時代の閣下に比べれば、ワタクシの弁舌などただのペラ回しに過ぎません。どうです、閣下。お疲れでしたら一杯いかが?」

 「いただこうかな」

 ジェスター……宮廷道化師と言えば通りがいいだろうか。文字通り宮殿や大きな屋敷に雇い入れる専属の道化師だ。従来の道化師がサーカスの観客を前に芸を披露するのに対し、ジェスターは主や屋敷を訪れる貴族たちに対し芸を見せる。そうして高貴な身分の者を楽しませるのが役目だ。

 だがそれはサーカスのピエロも同じこと。ジェスターが普通のピエロと違うのは、彼らが雇い主である王侯貴族に対しある程度の発言と行動の自由を持つところにある。

 古くより道化師とは「気狂い」の役を与えられている。狂気とは人倫の外を意味すると同時に究極の自由を表し、狂気の住人である道化師は雇い主に対し無礼な振る舞いをしても許される唯一の存在だ。無論限度はあるが扱いとしては「言葉を話す犬猫」みたいなもの。王侯貴族にありがちな道楽と言ってしまえばそれまでだが、ジェスターには単におかしな言動で娯楽をもたらす以上の意味合いを持たされている。

 彼女がジェスターとして召抱えられたのは三代前、当時の四代目アルカーヌム国王がまだ健在であった頃のこと。遠征に赴いたとある部隊が行軍中に何処となく姿を消し、およそ一週間後に前触れなく戻るという事件があった。「不思議の国」という異界に迷い込んだと知らされたのは、人間界に戻る際にくっ付いてきたマタンゴによってだった。

 「お懐かしいこと。ワタクシが女王のお怒りを買って国を追放され、それをたまたま通りがかった将軍殿に拾われてから幾十年……。こうして茶会の度に目にする街の風景も、すっかり様変わりしたものです」

 「あの時は驚いた。行方知れずだった部隊が帰ってきたと思えば、『戦利品』として君を陛下に献上するとは。陛下も陛下だ、それで一切を不問にされてしまわれた。マタンゴの変異種など人間界では聞かないからな」

 「『マッドハッター』、とお呼びください。マッドハッターのエレナと」

 そう言って初めて帽子を取って優雅にお辞儀する。だが頭と帽子の間からは粘ついた菌糸が伸び、そこでようやく彼女の帽子が装飾品ではなく、頭に自生した巨大なキノコであると覗い知れる。

 宰相とエレナは今やこの王家に最も長く仕える重鎮だ。片や政治を補佐する国家の次席、片や王に直接仕える道化師。ピエロと政治家ではあまりにアンバランスな組み合わせだがエレナの存在はアルカーヌム王家、いや、代々王位を継承した王にとって重要な役目を持つ。

 宮廷道化師とは常に主君の愚の側面を体現する。品行方正にして清廉潔白、清く正しく在らねばならない主君に対し、ジェスターは風刺と皮肉を織り交ぜることでその裏の部分を自覚させるのだ。それは単に公務だけでなく私的な生活面での事も含まれる。ある意味でジェスターとは主君に最も近い立場にあるのだ。

 更に屋敷の中だけではなく外の情勢にも対応しなければならない。いま社会で何が起きているのか、そしてそれに対しどう動くべきなのか、それらを風刺に変換して主君に教鞭を取る。道化という小馬鹿な役名とは裏腹に、その仕事は高い知識と教養が無ければ務まらないのだ。当然エレナはそれを可能とするだけのスキルを有している。

 「ワタクシはただ道化の役を演じているだけ。この先どなたが王になられても、ワタクシの役目は変わりません」

 「そんな君が役目を全う出来なかった時期があった」

 「…………」

 「王国の暗黒時代、知らないはずはない。当の君もこの場にいたのだから」

 「そこを突かれると、ワタクシも弱いのですけど……」

 「ならば君にも骨を折ってもらわねば。幸い君と殿下は知らぬ仲でもないことだし、上手く殿下をその気にさせられるはず」

 「手篭めにしろ、というのでしたらいくらでも。ですが王位を継ぐよう仕向けるのは容易くありません。閣下はワタクシのことを買い被り過ぎかと」

 「そんな下賎な真似はしなくてもいい。もう既に私からも説明はしたが、この国で何があったか……一番近くでその有様を見てきたもう一人の当事者として、それを語り聞かせればいい」

 今や人魔のるつぼとなり、男の平均寿命も大幅に上昇した現代、王宮に十年以上出入りしている関係者はこの宰相とエレナ以外には殆どいない。それがつまり何を意味し、王宮の中で過去に何が起きたのか……それを血筋を引くとは言え誰かに語るのは、王宮の恥を晒すことにもなる。

 しかし、紅茶を飲み終えたエレナは再び優雅に一礼すると、その提案を呑んだ。

 「ご随意に。それでこの国の行く末が決まるのでしたら……」

 「頼んだよ」

 宰相も紅茶を飲み干し休憩を終えて自分の仕事に戻っていく。

 「ああ、そうそう! 実はつい今しがた奥方がここにいらしたので、お茶を振る舞いましたところ甚くお気に入られたご様子で幸いでした。あの方もあのような表情をなされるのですね」

 「そうか、それはよかった」

 「ええ。いい茶葉を使っているとお褒めの言葉をいただきました。ですが茶葉は宰相閣下がお選びになった事をお伝えすると、何故か顔を赤くしてはしたなく走り去って行かれました。ワタクシ、何かお気に障ることでも言いましたでしょうか?」

 「君だって分かっているくせに。あの人は僕の事が『嫌い』なんだよ」

 そう呟く宰相の顔はとてもいい笑顔だった。





 レインがこの王都にやって来たのは半年前のこと。それまでは別の町に住んでいた。特に裕福でも貧乏でもなく、かと言って手に職持っているわけでもなく、食堂の男たちと同じように小さなギャンブルを行い、むしろそれを本業に口に糊して過ごしていた。

 もっと昔は違ったのだが、いつか気付けばそんなチンピラやゴロツキと同じ位置にまで身をやつしていた。殺しや盗みをしてないだけまともなのだろうが、善人になるだけの気概もなく、かと言って悪人になる根性もなく、ただ日々を惰性で過ごしていただけに過ぎない。

 そんなある日、自分を訪ねて王都からの使者が来た。使者と言えば聞こえは良いが、実際は強引に馬車に乗せられ半ば拉致に近い形で王都に連れて来られたのだ。道中延々と聞かされたのは、自分の親が五代目国王の実子ということ、自分が王家の血を引く者であること、そして空席となった玉座に座る第一の権利を有していること、それらを一方的に説明された。

 初めは手の込んだイタズラかと思った。だがとっくに死んだ親の名を知っていたこと、どこで見ていたかこれまでの暮らしを向こうが把握していたこと、そして何より自分を乗せた馬車が堂々と王宮に入ったことから、それらが紛れもない真実という事を突きつけられた。この国の事実上のトップである宰相に握手を求められてそれがイヤでも分かってしまった。

 そこから更に説明されたのはレインが生まれるよりも前、二十数年前にこの王国で起きたひとつの事件についてだった。

 何でもないよくある話、権力者同士のいざこざがあったというだけのこと。ただそれがよりにもよって王位継承者の間で勃発したことが問題だった。国内の勢力は二つに分断され、政治を司る貴族や官僚もどちらかの陣営に属することを迫られた。中立という耳障りのいい言葉で難を逃れようとした者は真っ先に粛清され、過熱する政争を止められる者は居なくなってしまった。

 もちろん、他に後継者候補がいないわけではない。遠縁を当たれば多少血は薄くなるが、継承権を持つ王家由来の者だってそれなりにいた。

 だが人間とは不思議なもので、例え互いにいがみ合っていても自分達の取り分が減る要因が現れると途端に協調姿勢を取る。王の実子である二人は自分達の邪魔になる他の有力者も陰で生命的、もしくは政治的に抹殺を繰り返し、次の王がどう転んでも二人のどちらかになるよう仕向けた。当然、一番邪魔なのは互いなのだが、膠着状態は十年に渡って続き王国は二人の王を抱えたまま薄氷の上を行き来するような政治が続くことになった。

 そして今からちょうど十年前、二人の後継者の争いはあっけなく終わりを迎えた。決着をつけたのは二人のどちらかではなく、当時国中で流行していた病だった。散々国家を騒がせた挙句に場外乱闘で共倒れしたことになる。結果、玉座は空席のまま、有能だった大臣や貴族はいなくなり、将来を期待されていた他の継承者も軒並み姿を消したまま、後には何も残らなかった。

 それから今日まで王宮は体制を維持しつつ、二人の暗君の残した混乱の後始末に追われた。その大半を取り仕切っていたのが宰相で、ここ十年の王国の政治は彼の舵取りで保っていたようなものだ。

 王都から離れて暮らすレインも噂程度には知っていた。人の乱れは政治の乱れ、政治の乱れは人の乱れ。昨今の政治が不穏な動きを見せていれば、誰だって王宮で何かあったんじゃないかというぐらいには勘繰る。だが大抵は自分には関わりないことと無関心に立ち返り、レインもその一人だった。

 「それが今やオレ自身が王宮に出入りする身……か」

 正門から堂々と入れる身分になったは良いが、どこで誰が見ているか分からないのでコソコソと裏口から入る。本当は王位継承を拒む手前、ここで寝泊りすることも辞退するのが筋なのだろうが、無理矢理連れてこられた迷惑料として宿代わりに使ってもバチは当たらないだろうと居座っている。

 人が聞けば、降って湧いた幸運に胡座をかくボンクラと思っても何ら不思議ではない。それについては何の言い訳も申し開きもしない。

 「オレは王家の人間だ。ここに住んでいて何の問題がある」

 義務を果たさず権利を甘受する、これこそ数有る人間の暮らしの中で最も楽な生き方だ。これ以上の贅沢は無い。

 用意された寝室でグラスに酒を注ぎながら夕暮れを一人鑑賞する。食い物や酒に困らず、暖かい寝床もあって、小遣い代わりに金もくれる。今までとは天地の差だ。

 「アルコールもよろしいですが、たまには夕日を観ながら紅茶というのは如何かな?」

 「あんたか……」

 ノックも無く入ってきたのは、主を失い自分と同じく惰性のまま日々を送るジェスター・エレナ。訊ね口調なのにその手には既にポットと湯気を上げるカップがあった。

 彼女とは王宮へ来た頃からの知り合いだ。今のように一人で酒を飲んでいるところへ押しかけ、そのままここをお茶会の場にしてしまった。同じ仕事の無い者同士、普段から言葉を交わす機会が多く、あの堅物宰相より物腰が柔らかいのもあって何かと馬が合う。

 「オレは紅茶なんかより酒の方が好きなんだがね」

 「まあまあ、そんなこと言わずに。殿下の大好きな濃い目にしておいたから」

 そう言ってソーサーに乗せられたカップを差し出される。芳醇な香りが鼻一杯に広がり、取り敢えず手に取って一口含む。

 「オレには味の良し悪しなんか分かんねえよ」

 「そう仰る割によくお飲みになる。お代わりもどうです」

 紅茶なんて色と匂いのついた白湯だと思っていたが、どうやらそれはとんでもなく狭い見識だったらしい。この王宮へ来て最初に学んだことは、紅茶はそれほどマズいものでもない、ということだ。貴族の連中はカッコつけて飲んでいるだけと思っていたが、少なくとも習慣にするほどには美味らしい。

 だがそこは王宮を離れ暮らしていたレインのこと、紅茶本来の風味など知ったことかとばかりに希少で高価な角砂糖をぶち込んでいく。

 「相変わらず味付けが荒っぽいですね。後を引かないスッキリとした味わいこそ紅茶の醍醐味だというのに」

 「うるさい。最初に言ったろ、味なんか分からないんだよ。こうした方が飲みやすいからそうしてるだけだ」

 「ですが、偏った摂取は体に毒にございます。ワタクシとしましては、将来お仕えする相手が満足に動くこともできない肥満体というのも……」

 「オレは王にはならない……」

 静かに、しかし確かな言葉でそう断言するレイン。視線こそかき混ぜるカップに注がれているが、それはまるで下らないジョークを口にした相手を咎めているようでもあった。

 「失礼。殿下がこの話をお嫌いなのをすっかり忘れていました。どうかお気を悪くなされませんよう」

 「もうとっくになってるよ。何度も言うが、オレは絶対に王にはならない。オレ以外の誰かがなるならそれでいいし、このまま王政なんて消えてくれれば最高だな。だけどオレが王になることだけは有り得ない」

 「前々からお聞きしたかったのですが、殿下は何故そこまで王位継承を頑なに拒まれるのですか? 平民から王族へ……つまらない暮らしから煌びやかな宮殿暮らし、絵に描いたようなサクセスストーリーではありませんか。そりゃあ、公務というのは肩身が狭く息が詰まるようではありますが……」

 「なあ、この国はオレが来るまで……てか、オレが生まれたぐらいの頃からあの宰相が切り盛りしてんだよな」

 「ええ。二十年前は政争で揺れる王宮内部を、十年前からは不在になった玉座と空席が目立ついくつかの大臣職を兼任されております」

 「んで、王位継承者はオレが繰り上がり一位ってだけで、実際は他にも候補はいるんだろ」

 「ええ。遠縁の遠縁のそのまた遠縁ぐらいになりますが」

 「優秀な宰相が政治を切り盛りして、玉座に着く資格を持つ奴も他にいる……。あのさぁ、これわざわざオレが王位継承する意味あるのか? あんたらの情報統制のおかげで、城下の連中だって玉座が空っぽなんてこと知らないんだろ? オレからすれば、ここまでオレにしつこく迫ってくるあんたらの方がどうかしてる」

 確かにレインは今現在、僅かに残った候補の中では最も濃い血を引いている。だが所詮それだけ、生まれ以外の何もかもが足りていないのだ。

 「確かに、殿下は支配者として必要な教養は何一つ身につけてはおりません。ですがそれはこれから身に付けて行けばいいだけのこと。王政の国々を見回せば、殿下よりずっと若く幼い年齢で王位を継いだ者もおりますれば」

 「いや、だからオレが言いてえのは、教養ゼロのオレを立てるよりもっと相応しい奴が他に……」

 「次の王に相応しいのは、殿下お一人でございます。ワタクシはそう信じております」

 「っ……」

 それまでの飄々とした口調から一転し、急に真剣な口調と表情でそう断言するエレナにレインは二の句が告げなくなる。ここまではっきりと期待をされて思うところがない訳ではない。しかも相手が世間一般で言うところの美女なら、これは男としては天に舞い上がるような気分になるだろう。

 だが、それでもレインの意志は固かった。

 「悪いけど、その期待には応えられねえ。あんたのことはそれなりに好きだし、こうして食っちゃべる相手には持って来いだ。友達みたいに思ってる。このままずっとこんな風に付き合いを続けられたら、その方がよっぽどいい。王族の務めを果たせってんなら幾らでもやる。テーブルマナー、帝王学、ダンスとかエスコートのやり方、お貴族さまの挨拶回りだってやってやる。だけど継承だけはナシだ」

 「それは何故……」

 「とにかくダメなんだ。オレは絶対に継がないし、継ぎたくもない。それは変わらないオレの意志だ」

 宰相に言い放ったように、エレナにもまたその決意を語る。この半年、変わらず言ってきたことだ。今更心変わりなどするはずがない。

 程なくして何事もなかったように他愛ない会話を楽しんだ後、来た時と同じような軽やかな足取りでエレナは部屋を後にした。

 「また参ります」

 優雅に帽子を取り一礼し、愉快なジェスターは言外にまた説得に来ることを含んだ言い方をする。

 「何度来たって同じだよ」

 憎らしげにそう言ってレインは懐からサイコロを取り出し、何をするでもなく手持ち無沙汰に転がり回す。

 生まれと賽の目だけはどうあっても変えられない、そんな事はとっくの昔から知っている。





 変化はさっそくその日の晩から表れた。

 「……なにこれ?」

 「何って、殿下仰ったじゃありませんか。王族としての務めを果たすのなら幾らでも、と」

 「だからって、こりゃあ……」

 使用人に連れられるまま食堂を訪れたレインの目に飛び込んできたのは、まるでそこだけ晩餐会に出席したように料理がズラリと並んでいるテーブルの有り様だった。スープに始まり肉料理から魚、デザートまで揃った本格的なフルコース。いつもはここまで豪勢ではない。

 「殿下は、ナイフとフォークの正しい使い方をご存知? ワインの嗜み方は? 二つ以上ある料理の正しい食べる順番は? 貴族は優雅に豊かなメニューを堪能しているようで、その実は味も感じないほどマナーに気を付けているとご存知? ほら、何もお知りでない。殿下には今日からみっちりと、まずは食事の作法から学んでいただきます」

 「いきなりだな……。作法なんか誰も見ちゃいない、食事ぐらい好きにやらせちゃくれないのかね。てか、あんたにマナーとか人に教えられるのか?」

 「ジェスターごときと侮りなさるな。伊達に三代に渡り王宮に出入りしていたわけではございませぬ。はてさて、殿下はちゃんと出来ますかな?」

 「バカにすんなよ。ナイフとフォークは外側から使うなんて、今時城下のガキでも知ってら」

 そう言ってさっそく皿を挟んで並んでいる食器に手を取り……。

 「ブブーッ! レイン選手、失格です!」

 「はぁ!? なんでだよ!!」

 「確かに食器は外側から使うのが基本だけれど、まず持ち方がよろしくない。枝っきれじゃあるまいし、そんな乱暴に握り込むのはダメですよ。それにこちらがご用意したナプキン、どうされました?」

 「邪魔だから退けた」

 「ナプキンは口元や指先の汚れを取るためにあるのです。それをそんな風にしてしまったら、何のために用意したのか分からないでしょう。ナプキンは膝にかけてください」

 「お、おう」

 「次にナイフとフォークの持ち方ですが、このように人差し指を……」

 背後に回ったエレナの手がそっとレインの手元に伸びる。ふと女性特有の甘い香りが鼻をくすぐる。これが元はキノコの臭いだというのだから、魔物娘とはおかしなものだ。

 「そうそう、お上手ですよ」

 「バカにしやがって」

 「いいえ、本当のことです。誰しも生まれや育ちの良し悪しは手元に表れるもの。そう言った部分でヒトの値打ちとは計られてしまうのですよ」

 「まあ、オレだって爪噛んでる奴とか、ちょっとどうかと思うしな……」

 エレナの説明もそこそこに早速ナイフが肉に切れ込みを入れ……。

 「はいストップー」

 「なんでだよっ!?」

 「殿下はディナーを演奏会か何かと勘違いされていらっしゃる? 肉を切り分けるだけでどうしてそんなカチャカチャと音が出るんです。食事時の雑音は最大のマナー違反、できれば音は全く鳴らさずにお召し上がりください。というかそうしてください、はいもう一度!」

 「えええぇぇぇ〜……」

 ほんの数十分前に自分が言った言葉を後悔しながら、レインは晩餐の予行練習としてその後二時間かけて延々とエレナの指導を受ける羽目になった。初めに味も気にならなくなると言っていたが、出された料理がすっかり冷めている事に気付いたのはそれこそ食べ終わってからだった。

 元が自分の撒いた種だけに拒むことも出来ず、結局は最後までつきっきりの食事という名の講義に耳を傾けることになった。

 だがようやく食後の酒にありつけてほっと一息。

 「何を安心なさっているのですか。まだまだ指導は続きますよ。明日からは更に厳しくイきますので、お覚悟を」

 「…………」

 いっそ指を切り落とせばマナーとかうるさく言われないかも。

 そんな事を本気で考えた一瞬だった。





 「感触はどうだった?」

 「まあ、殿下の今までが今まででございますから、やはり作法に関して事前の知識教養は皆無でした。しかし……」

 「しかし?」

 「血のなせる業でございましょうか、やはり殿下は教養を身に付けるだけの下地を持っておいでです」

 「その確信はどこから?」

 「お気付きですか……ワタクシが殿下にご指導した回数は、たった一回です。時間が掛かったのは単にお教えする事柄が多かったため。同じことを何度も指導する手間すら、あの方はお与えにならなかった」

 「やはり血筋というものは確かにあるのか」

 「あるいはご両親の躾が行き届いていらっしゃるか」

 「…………」

 「悔やんでいらっしゃるので? 二十数年前のあの日のことを」

 「悔やまない日があると思うか」

 「……いいえ」

 「明日からも頼む。かつて五代目をどこに出しても恥ずかしくない紳士に教育したその腕前、もう一度振るってくれ」

 「お任せを」





 次の日からレインへの本格的な教育が始まった。食事は三食付きっきりで指導し、言葉遣いや歩き方に至るまで徹底的に矯正し始めた。いつもはエレナの趣味で開かれるお茶会も容赦なくマナー修行の場に変え、正しい紅茶の飲み方や綺麗な茶菓子の食べ方まで教え込んだ。

 実技だけでなく座学も担当した。正しい文字の読み書きはもちろん、特に力を入れたのが歴史だ。王国がどのように建てられ、どんな歴史を歩み、現在に至るその背景を事細かに教えた。

 意外にも普段の言動はともかく、レインの態度は真面目だった。指導中でも無駄話や冗談を口にするので目立たないが、実際のスキルの修得率は砂地に水が染みるように彼の技能となり、エレナも内心ではその学習速度に驚嘆していた。

 しかし、それはあくまで教鞭を執っている間だけのこと。講義が終わったりすれば途端にそれまで教わったことなど忘れたとばかりに、また勝手に宮殿を抜け出しては大衆食堂や酒場に出入りしていた。単に道楽好きというわけでもなさそうだが……。

 「この時、王都で起きた一連の工作員事件をまとめて『七人事件』といい……」

 「ふわ〜ぁ」

 「はいアクビしちゃダ〜メ!」

 すかさず厨房からくすねた香辛料を鼻に振りかける。

 「ぶるぉはっ!!? ぶほっ、ぶぶッ……こ、ころっす、気か!!!?」

 「ご安心を。高級品の胡椒は使っておりません」

 「そういう、問題じゃ……うえっほ!! げぇはあっ!!!」

 鼻と喉がむずがゆいのを何とか堪え、涙目になりながらエレナを睨みつける。だが当の彼女は陽気に鼻唄を歌ってどこ吹く風だ。

 「だ、だいたい、歴史なんざ習って何になるんだか。昔のことなんか何の役にも立たねぇよ」

 「自分の住む国の歴史を知ることは数有る教養の中でも特に重要です。殿下は現在の王国と最も密な国交を結んでいる国をご存知ですか?」

 「サンミゲル。国主はアイリス大公。路地裏の浮浪者だって知ってる」

 「ではその国の成り立ちは? どういった経緯で王国の貴族だったアイリス陛下が建国に踏み切ったのか? そして陛下の一族と王国の関係は?」

 質問攻めに言葉が詰まり、それを見たエレナが薄く微笑む。

 「たった今、殿下は無知の烙印を押されました。たった一つ知らないことがあっただけで、です。教養とは身に付けておいて困ることはありません……お分かりで?」

 「あー、はいはい。分かりやしたよ」

 「よろしい。七人事件に関してより詳細にお知りになりたければ、宰相閣下にお尋ねを。おや、もうこんなお時間! では本日の講義はここまで」

 「今日は早いんだな」

 「今宵は大切なお客様を迎えますので、その準備をしなくてはなりません。殿下はお部屋で大人しくされますように」

 そう言えば週初めから宮殿の使用人たちが慌ただしく動いていたと思い出す。部屋に篭るか城下に遊びに行くのが日課なので見逃していたが、きっと客人を招いて夜中にお喋りというものではなさそうだ。恐らくはパーティー、それなりの数を迎え入れてのものだろう。

 (王宮でパーティーたぁ、随分とハデだな。昔は親戚連中でちょくちょくやってたらしいが、今更どちらさんをお招きするのやら……)

 だが自分には関係ないと見切りをつけたレインは言われるままに部屋に篭もり、事前に隠し持っていた酒を呷りながら時間を潰すことにした。王宮の思惑など関係ない、自分は最低限の責務だけを果たして後は若隠居と洒落込むつもりだ。煌びやかな貴族の世界はそれこそ宰相とエレナ、そしてまだ見ぬ新しい王様にでも任せておけばいい。

 自室のバルコニーから斜陽の街を一望し、レインは物思いに耽る。王宮と城下、距離にしてそれほど離れてはいない。だが今のレインにとっては何よりも遠い世界だ。

 平民から王族暮らしになったことがではない。もう十年も前から彼の心はこの王国から最も離れた場所に行ってしまっている。この王国の何もかもが自分の近くには無いと、彼の心は知っている。

 他人事なのだ。王都で暮らすよりも前から、彼の人生は無味乾燥のものとなった。何を見て誰と出会っても、まるで油絵を見ているようにリアルに感じられない。相手もそれを感じさせてくれないのだ。

 どうしてそうなったか?

 原因などとっくに分かっている。

 「殿下、失礼します」

 夕日が落ちる頃、再びエレナが現れた。隠れて酒を飲んでいたことを知ると少し困り顔になったが、彼女の後ろから続々と使用人たちが部屋に入ってくる。

 「何だこれ?」

 「お召し物を着替えていただきたく。この後のパーティーには殿下にも出席していただきたいので」

 「聞いてないんだが」

 「はい。ですので、今お伝えしました」

 「いや、そういう話じゃなくてだな……。って、おい! どこ触ってんだコラ!!」

 「パーティーに相応しい服装でお臨みいただくためです。ささ、お早くお早く!」

 あっという間に下着を残して全身ひん剥かれ、代わりにパリっとした礼服に身を包む。いつもと違う出で立ちに物凄い違和感を覚えながらも、上質な繊維の匂いを嗅ぎながら案外悪くないもんだと一人優越感に浸る。もっとも、服の違いなんて汚れているか清潔かぐらいしか分からないのだが。

 「てか、オレが出ていいのかよ」

 「このパーティーは殿下のお披露目も兼ねております。くれぐれも、ご客人方に粗相の無いように」

 「教育係の腕が良いんでね。そういうあんたは何か出し物でもあるのかい? 一応はピエロだったよな?」

 「ええ……最高の出し物をご用意させていただきました」

 「そのニヤついた顔やめろ」

 嫌な予感を全身で感じながら、使用人たちに連れられてレインは会場のホールへと向かった。

 あの表情、きっとロクなことを考えていない。この場にはいない宰相も同じ感想を抱いただろう。





 王宮内には賓客をもてなす空間がいくつかあるが、中でもこの大ホールは1000人規模での収容が可能で、過去には劇団を誘致して劇を開催したこともあるという。

 丸ごと三階が吹き抜けになっており、十数台のテーブルにはどれも色とりどりの食事が置かれ、その周囲を招待された客人らが談笑していた。一段高く設けられたステージでは、彼らの会話を邪魔しない程度に耳に心地いい音楽を楽団が奏で、使用人たちがグラスを乾かさないよう酒を注ぐ。

 男も女も煌びやかな衣装に身を包み、笑う仕草すら上品さを漂わせる生粋の貴族たちの宴会だ。

 「流石はお貴族さま、あんな高笑いしても姿勢が崩れやしねぇ」

 立食パーティーの様子を三階の高みから見物するレイン。客人への挨拶の仕方はとっくに教わっているが、宴に訪れた貴族がどんなものか見物したいが為に下には降りなかった。

 「おーおー、宰相閣下もお忙しいこと」

 一番の見世物は賓客たちへの挨拶回りに追われる宰相の姿だ。時折覗いているこちらに「君も降りてこい」と目配せしているが、それを無視して優雅に手だけ振っておく。きっと政務の合間を見つけてここにいるのだろう、いつも小うるさい事ばかり言ってくるのだからいい気味だ。

 時間を潰し適当なところで切り上げようと素知らぬ顔でワインを呷る。流されてこんな「馬鹿げた」宴会に参加させられたが、本当はこんな場所ではなく、昼間も薄暗い大衆食堂の隅であの中年たちと呑んでいる方がずっと気楽で性に合っている。

 「何をしておられるのです」

 なのにどうしてこの宰相はそんな囁かな望みさえ叶えさせてくれないのか。

 「何って、宴会を楽しんでるんだよ。それともなにさ、一人でチビチビやりたいならバルコニーに行けってか? ならそうさせてもらいましょうかね」

 「今宵の宴会は殿下主催という名目で行われております。主催者の王子が彼らの前に出なくてどうするのです」

 「オレはそんな話は聞いてない。そっちが勝手にやったことだ、オレが知るかよ。いーじゃねーか、皆好きに飲んで食って歌ってるんだ。存分に楽しんでもらって、さっさと帰ってもらおうぜ」

 「そういう訳には参りません。いいですから、こちらへ!」

 結局、一人の憩いの時間もそこそこに、レインは集まった貴族たちの前へと引きずり出される事になった。主催者の遅い登場に待ち侘びていた客人らが一斉に注目する。

 「あの方が……?」

 「ええ、きっとそう」

 「では、やはり……」

 口々に何か囁く彼らに聞き耳を立てるが残念ながらその内容は判別できなかった。だが悪意あるものではなく、表情や声音はその逆で、レインに対しパーティーの催し以上の期待を向ける眼差しがほとんどだった。彼らが一体何を期待しているのか分からず、内心困惑するも努めて表情には出さず微笑みを浮かべて手を振る。

 そこから十分ほど顔も名前も初めて知った相手に挨拶回りをし、堅苦しい空間にレインは辟易し始めた頃……。

 「お?」

 ステージの楽団が奏でる音楽が変わる。すると周囲の貴族たちがそれぞれ示し合わせたようにペアを組み、曲に合わせてホールの中央に集まる。ダンスパーティーの始まりだ。

 美しい男女が互いの手を取り腰に回し、軽やかにワルツを踊る。最初に乗り遅れた者も次の曲までに相手を見つけようと、テーブル周りや壁際はあっという間に男女の声掛けの場に変化した。

 通常、舞踏会では男の方から誘うのが望ましいとされる。女から誘うのははしたないと思われるか、あるいは女性からモーションを掛けさせる男の甲斐性を疑われる。よっぽど気取った人物でもない限り男も女も壁の花にだけはなりたくないはずだった。レインの周りにも同伴で訪れた貴族の子女が居り、彼から誘いの声がかかるのを心待ちにしていた。

 しかし、当のレインにその気はない。

 (オレは酒飲むのに忙しいんだっつーの)

 一曲目が終わり、二曲目が始まってもレインは動かない。彼からの声を期待していた女性らも次第に離れ、小うるさい宰相も仕事に戻り、レインはようやく静かに一人の時間を満喫できるようになった。

 このパーティーはレインの名で開かれている。だがレイン本人はそんな話は知らず、ここに居る貴族たちとも今日初めて会った者ばかりだ。相手にとっても見ず知らずの自分が開いた宴会に、どうしてここまでの人数が集まったのかそれだけが不思議だった。

 (『オレの』知り合いってことじゃねえわな。となると、やっぱりこいつら……)

 周囲の客人らの顔を一人ひとり確認しながら、レインはそれを記憶に焼き付けていく。

 もし、もし彼らがそうなのだとすれば……この宴会は、ただの「茶番」になるだろう……。そんな確信といってもいい予感を覚えながら。

 二曲目がそろそろ終わりに差し掛かる頃、空いたグラスに酒を注いでもらおうと使用人を探す。だがなかなか見つからず、代わりにその辺を適当にぶらついて時間を潰そうとした。

 ふと、甘い香りが漂うのを感じた。

 この匂いには覚えがある。どこで嗅いだのだったか……。

 「殿下……」

 「あ?」

 呼ばれて後ろを振り向くと、そこには……。

 「楽しんでおられますか?」

 「あんた……」

 ああ、そうだ。食器の持ち方を教えてくれた彼女の匂いだ。

 「どうしたんだよ。いつもの帽子も外したりしてさ」

 「ワタクシとて女、キレイに着飾りたいと願うこともあります」

 そう言って妖しく微笑むエレナ。着ているドレスはそこまで上等な物ではない。単に豪勢なだけなら招待されたマダムや子女の方がよほど立派な物を着こなしている。だが普段目立つ色合いの服を着ている事もあり、余分な装飾を削ぎ落とした今の姿はいつもとのギャップも相まって、レインにはとても新鮮で強烈で、とても、とても美しかった。

 出し物があるとは聞いていたが、まさかこういう趣向だとは思いもしなかった。不思議の国の住人は一筋縄では行かないらしい。

 「それはそうと殿下、見ていましたよ。どうして誰もお誘いにならないのです? ひょっとして殿下、アチラの方が不n……」

 「なんだって香水ふんだんに使って化粧濃い奴と踊らなくちゃならないんだ。あと、こんなとこで根も葉もないことを言うなよ、絶対言うなよ? フリとかじゃないからな?」

 「冗談です」

 「随分タチの悪いジョークだな、おい」

 「それより、どうしてダンスを申し込みになられないのです? レディの誘い方は以前少しだけ教えたはずですが」

 「別に。ノリ気しないだけだよ」

 「では、授業を始めます。さあ殿下、ここに見目麗しい淑女が一人、手持ち無沙汰に暇を持て余しています。如何なさいます?」

 「自分で淑女とか言うかよ、普通」

 呆れたようにわざとらしい溜息を漏らす。エレナと居る時はいつもこうだ、お茶会の時はとても女性とは思えないお下劣な事でも平気で口にするくせに、いざ教鞭を執ると人が変わったように真面目になる。だがそれは彼女に二面性があるとかではなく、彼女には裏も表もない。比べると失礼かもしれないが、あの酒場の中年たちと同じで気疲れしない気楽さを感じた。自然体で、飾らず、かと言って無様にさらけ出すでもなく、人が持つ自由の象徴……それがエレナだった。

 「オレは優しいから、『見目麗しい』って部分は否定しないでおいてやるよ」

 彼女に教えられたように手を差し出す。紳士的に、優しく。

 「一曲いかがですか」

 「よろこんで」

 ホールは見計らったようにレインとエレナ、二人だけの舞台になった。互いの手を取り合い、レインの右手はエレナの腰を、エレナの左手はレインの右肩をそれぞれ支え合い、ヴァイオリンの流麗な音色に合わせて軽やかに足を運ぶ。

 曲調は初心者のレインに合わせて簡単なワルツだが、当のレインにはそんな気遣いなど無用だった。ここ最近ずっと実技として執拗なぐらい踊りの基礎を叩き込まれていたのだ。自作の木偶人形を相手に何度も綺麗な姿勢を維持するよう指導を受け、足腰立たなくなるまでやらされていた。

 「お上手です」

 「そりゃどーも」

 指導の甲斐あって、相手の足を踏んづけるようなヘマもなく、レインとエレナの踊りは順調そのものだった。

 「ダンスの経験もあったんだな」

 「無ければ教えられません。と言いましても、殿方を教えるのは実は初めてです。以前は主に王家に連なる婦女子の方々に教えておりました。あの頃、五代目には専属の教師がおりましたので」

 「最初に踊った相手は?」

 「ワタクシを拾ってくださった将軍と。もしかして、嫉妬されているのですか?」

 「まさか」

 「フフ、ご安心を。当時、将軍は御歳六十でした。持病の腰痛で出席できなくなった奥方に代わり、ワタクシが代理としてお相手を務めたのです。殿下の腕はあの時の将軍より力強うございますね」

 「年寄りと比べられてもな。…………にしても」

 「はい?」

 「いや、女の体ってこんな……優しくて、温かで、柔らかいもんだったかな」

 「ええ」

 いつも紅茶ばかり飲んでペラペラと舌が回る姿。出会った時はどうしてそんなに喋ることが多いのか不思議に思ったが、腰に手を回す今ではその柔らかな肌の感触に驚いている。これまでにないほど近距離にいるせいか、キノコ頭の帽子はとっくに外しているはずなのにさっきから甘い匂いを感じて仕方ない。

 つい気恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。

 「ワタクシを見てください。そう、そうです。踊っている間だけは目の前の方を最愛の人と思ってください」

 「そう言うあんたはオレのこと『愛してる』わけじゃないよな?」

 「それは……」

 余裕綽々、いつも飄然とした態度を崩さなかったエレナが、ここで初めて揺らぐ瞬間を見た。レインとて当てずっぽうで返した訳ではない。これだけの近距離に来て初めて、彼もようやくエレナの態度がおかしい、いや「おかしかった」事に気が付けた。

 「あんた、馴れ馴れし過ぎたんだよ。オレのこと知りもしないくせに、オレを昔からの知り合いみたいに接してくる。初めはそういう性格とか思ってたけど、あんたの視線はオレを見ていない」

 「そのようなことは……」

 「誰なんだ……オレの後ろにいる誰を見てるんだ。いつものペラ回しはどうしたんだよ」

 「…………」

 曲がクライマックスを迎える。激しい動きから一転、レインがエレナを強く抱き寄せる。そしてこう問い詰めた。



 「オレの目はそんなにお袋と似てるのか」



 万雷の拍手にかき消され、エレナ以外にその言葉を聞けた者はいなかった。

 甘い匂いが消えた。
15/10/21 21:25更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 宰相は三代目との契約で『舌』を封じられています。

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