第六章 暴食の勇者:後編
ある男の話をしよう。
男は小さな町の片隅に住む夫婦に授かった子供だった。年々若者が町を去って行く少し寂れた町で、男はその年で初めて生まれた男の子として可愛がられた。両親を始めとする大人たちや、年上の少年少女に頭を撫でられるのが好きな子供に成長していった。
男は褒められるのが好きだった。両親が喜ぶ顔を見るのが何よりも好きだった。六歳で町外れの農家に出入りするようになり、町の人々が飲む牛乳を配達する仕事を始めた。来る日も来る日も遠い道のりを車を引く重労働が出来たのは、誰かに褒められたいと幼心に健気な想いを宿していたからだろう。
幼くして働き者だった男を皆が褒め讃えた。これから生まれる子供達にもお前の働きを見習うよう言い聞かせよう、そう言ってくれるほど誰もが男のことを良く想ってくれていた。毎日毎日、力仕事に従事する、少年と呼ぶにも若すぎる彼を人は親しみと敬意を込めて「小熊」と呼んだ。
精を出していたのは力仕事だけではない。自分より年下の子が病気になれば背負って隣町の医者まで連れて行き、田畑を持っている者が倒れればその代わりに収穫し、世話になった老人が眠りについた時はその墓穴を掘る作業にも参加した。自分が動くことでより多くの人々の為になる、そうすれば皆に喜んでもらえると信じていた。
男は町の誇りを謳われ、幼くして皆の感心を一身に集めることになるのは至極当然だった。
しかし、転換は突如訪れた。
始まりは、男が通っていた農家からだった。牛舎に飼われていた牛たちが謎の病に罹り、次々と死亡するという事件があった。後の世に言うところの牛疫だ。本来爆発的な感染を見せるその病が何故かその農家だけを襲い、牛や豚を始めとする多くの家畜を手放す憂き目に見舞われた。そのショックから家主は倒れ、大黒柱を失った一家は経営の借金を返せず離散、農家だったその家は数週間であばら家になった。男が仕事を始めて二年目のことである。
人の役に立つことを信条としてきた男は、次の仕事場として町の大工に弟子入りする。生来の真面目さを活かして教えられる技を素早く吸収していった。その成長速度は目を見張るものがあり、弟子入りから一年目には簡単な椅子を作れるぐらいに腕を上げ、それまでと同じように誰もが男の成長を喜んだ。両親も勤勉な息子のことを誇りに思い、惜しげもなく息子の後押しをしてくれた。
その年の冬、町は不穏な病の影が覆っていた。発熱と咳が止まらない百日咳にも似た風邪の一種が蔓延し、老若男女の別なく住民の大半がそれに罹った。と言っても死に至るような重篤な病ではなく、数週間大人しくすればそれで完治する程度のものだった。だが昼間から老いも若いも揃って床に伏せり誰も外を歩かない様はとても不気味だった。そしてその光景は、そこから先の未来を暗示していたのかも知れない。
ある日、男は師匠と共に隣町に赴き泊まり込みで仕事をした。老朽化した橋の一部を修繕するというもので、一日で終わる簡単な仕事のはずだった。実際仕事は滞りなく終わり、報酬を受け取って帰った男を待っていたのは──、
全てが炭と灰に変貌した町の姿だった。
原因不明の出火、乾燥した空気に乗って火の粉は瞬く間に町全体を覆い全てを焼き尽くした。大半が木造だった家屋は燃料以上の意味を持たず為す術などなく住人らの棺桶となり、町の人口の九割を道連れにこの世の地獄を顕現した。
死体の殆どは焼け落ちた家の中で発見された。逃げなかったのか? 否、逃げられるはずがない、彼らは皆病の身だったのだから。体力を限りなく削っていた病は彼らから逃げる力まで奪い、抗う暇も与えられないまま大火は彼らを容赦なく襲っていたのだ。そしてまるで初めからそれが目的だったかのように、人間を焼き尽くした後はそれまでの猛威が嘘だったように消え去り、後には黒焦げになったあらゆる残骸だけが残された。
田舎町を襲った悲劇を前に人々は嘆くだけだった。元々人口も少なかったところへこの火事、燃え残った瓦礫や死体の処理でさえ人手が不足した。いつ終わるとも分からぬ作業、自分達の寝泊りする場所すら確保できず飢えと寒さは彼らの心さえも蝕み始めた。
ふと誰かが聞いた、火はどこから出たかと。
この火事はそもそも謎、というより納得できない部分が多すぎた。火はどこか一箇所から広がったのではなく十数ヶ所、それもどれも屋内からの出火という証言が幾つもあった。生き残った者の僅かなそれら証言を繋ぎ合わせ導き出された答えは……。
最初に燃えていたのは男が作った椅子や家具などであることを突き止めた。
それが一つや二つなら単なる偶然と捉えられただろう。だがそれが十や二十もあったなら……偶然がそれだけ重なれば人はそれを必然と同じように扱う。
一度犯人探しが始まればそれが何の意味も実体も持たないものであっても、人々は納得を得るまで止まらない。根拠無き推論、証拠無き疑いの目は未だ十歳にも満たない男に全て注がれることになった。
犯人はひょっとしてこいつか? そう言えば例の潰れた農家にもこいつが通っていたな。
そんな謂れのない疑いが口をつくのを寸前で食い止めたのは、男のこれまでを良く知る彼らの良心だったのかも知れない。あんなに自分達の役に立ちたいと真面目に過ごしてきた彼が放火などするはずがない、と。第一火事が起きた時には男は仕事について隣町まで行っていたじゃないか、それに農家の牛は病気だった、まさか子供が病気を引き起こしたとでも言うのか。
そんな常識的な反論を心中で繰り返せる程度にはまだ余裕があった。それに男自身もこの火事で両親を失っていることを思うと、心無い中傷を面と向かってする者など皆無だった。少なくともこの時点では……。
すぐにそんな余裕は崩された。
季節外れの大雨が降り始めたのはその直後のことだった。まだ家屋を建て直すどころか瓦礫の撤去すらままならぬのに、追い打ちのような雷雨が町の上空のみを覆った。風と冷水で体温は急激に下がり、奇跡的に逃げおおせた者は病を再発し次々に倒れていった。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、全てを失った自分達に対する神の所業を皆が呪っていた。
このままでは皆の命が危ない、そう危惧した男は隣町に避難することを提案した。雷雨はこの町のみに降り注いでいるが隣町は影響を受けておらず、そこで一時的にやり過ごそうと言った。二つの町を繋ぐ橋は修繕を施したばかり、川面までの距離もある谷に掛かっているので濁流に流されるという心配もないはずだと説得した。
隣町は川を挟んだ向こう側に位置し、少し遠いが背に腹は代えられないと皆が男の提案を呑んだ。動けるものだけを選別するという苦渋の決断の後、比較的若い者のみで構成された集団は隣町を目指して移動を開始した。憎らしい雨雲は追い風に乗って彼らを追い、距離を歩けば歩くほどに雨足は更に激しさを増していった。この季節はこんな方角に風など吹かないはずなのに……。
無限にも思える行軍が続き、やっとの思いで一行は隣町に続く橋までやってきた。橋は無事だった。当然だ、これを修繕するためについ最近まで作業をしていたのだから。
元々行商の列も通るからこの人数でも大丈夫、そう考えながらぞろぞろと橋を渡り始めた。言いだしっぺの男は先頭に近い場所から師匠と共に各部を点検しながら移動し、程なく男は橋を渡り終えた。
安堵と共に二歩三歩と歩いたところで雨足が弱まっていることに気付き、ふと空を見上げれば、曇り空を照らす青白い閃光が見えた。
それが稲妻と気付いた時、男の背後を雷光が貫いた。
火炎など比にならない全てを穿つそれは、まさに光のギロチン。まだ渡る途中だった人々を乗せた橋は刹那で断頭台に変貌し、まるで見計らったかのように橋に最も多くの人間が差し掛かった瞬間に……そして、男が渡り終えた時に落雷した。
刹那の地獄は橋上の十数人を瞬く間に殺戮し、消し炭となった彼らは断末魔の叫びも上げぬまま川底へと墜落した。辺りは人肉を焼いた異臭が立ち込め、止みそうだった雨は一転し再び盆をひっくり返したような豪雨になった。
偶然も二度三度続けば必然となる。牛疫の農家、原因不明の病とそれを狙ったような大火事、そしてこの橋の上……もはや疑う余地など無く、その全ての状況に関わりを持っている一人に目が向けられる。
“やっぱりそうだ……。こいつは!”
“呪われてるんだ! 町に災いを運ぶ疫病神なんだ!”
“消えろ! 去れ、悪魔め!! 二度と姿を現すんじゃない!!”
加護や呪いが迷信ではなく現実に存在するこの世界で、それを持つ者は前者は賞賛を、後者は忌避を持って見られる。だがどちらも自分達には無い力を持つ者への恐れが多分に含まれており、最後に辿り着く場所は同じだ。即ち、マジョリティに反するあぶれ者として排斥されるのだ。そこに善悪など関係ない、一度異端者と認定されてしまえばそれこそが排斥の理由そのものとなる。
自己の生存と異物の排斥、この二つが組み合わさればほんの数時間前まで親しくしていた者でさえ簡単に石持って追い出してしまう。例えその相手が十にも満たない子供であろうとも……。
「違う……違う、おれのせいじゃない! おれは何もしちゃいない!」
背中を襲う石礫が届かなくなるまで男は走った。道なき道を突っ切って、普段通る道ではなく林を真っ直ぐに横切って隣町に駆け込んだ。隣町の人々もこちらの惨状を聞いていたのか、男を暖かく迎えてくれた。
だが男はここに長居するわけにはいかなかった。こうしている間にも橋を渡った者たちもここへ来る、そうしたらまた石を投げつけられてしまう。それだけが怖かった。
しかし、結果的に男のそれは杞憂に終わった。
避難民を迎えに行った者たちが確認したのは、崩落した橋から町までの僅かな距離の間に身ぐるみを剥がされ打ち捨てられた骸の山だった。
男が行商や旅人を狙った賊の襲撃から逃れられたのは、奴らが待ち構えていた道を通らなかったからだ。
誰もが男を幸運な子だと持て囃した。だが男は知っていた。自分が幸運なんじゃない、水が低きに流れるようにより運の悪い者へと厄介事がなだれ込んだだけに過ぎないと。そしてその原因が恐らく自分自身にあるということを。
男を受け入れた隣町もまた、徐々におかしくなり始めた。
狩りに出かけた猟師は熊に襲われ、妊婦は馬車馬に突然蹴られ、それまで治安の悪くなかった場所にも盗賊が出始めるようになった。それらの被害者は皆例外なく死に絶え、たった一ヶ月で町の人口は半分に激減した。それらが全て自殺や事故、病死、下手人がはっきりしている他殺などだった。だが人々はやがて気付く……頻発するそれらの被害者全員が何らかの形で男と接触していたことに。
すぐさま男は捕えられ、町一番の教会へと連行された。男にとって幸運だったのは、その教会には人に加護や呪いがあるかを判別する能力を持った神父が赴任しており、問答無用の魔女裁判が行われる心配が無かったことである。
しかし、その「幸運」こそ……。
男にとって最大の「不幸」の始まりだった。
人々の勝手な風評は凄まじかった。あの場に居合わせた者なら誰から見ても明らかな事故、なのに世間での悪評は止まることを知らず、「サーカス団は夜な夜な客を猛獣に食わせていた」と号外に書かれる始末だった。挙げ句の果てには団員らのあることないことを書き連ね、特に槍玉に挙げられたのは団員の実に三分の一を占める魔物娘たちだった。
空中曲芸のハーピーは拐かした客を人身売買している……。
ジパング出身の妖狐は貴族の愛人である……。
元騎士のデュラハンは殺人鬼で今までに五十人以上殺している……。
挙げていけばキリが無いが、どれも風説や噂の域を出ない何の証拠もないデタラメばかりだった。だが民衆にとってはそれが真実か否かなど然したる問題ではなく、耳に届く全ての言葉は自覚的に、あるいは無自覚の悪意によって加工されて口から排出されていく。人の不幸は蜜の味、悪意の悲劇を第三者の視点から見るのは最大の娯楽と知る故に、彼らの下品な欲求を止められはしない。
そうした娯楽を背後から操る存在が存在するとは知りもしないで……。
だがそうした悪意の流布とは別に、奇妙な噂もあった。
件のサーカス団の近辺を全身を覆い隠した謎の覆面男が徘徊し──、
「それって、もろ俺の事じゃん?」
例のごとく仕事を抜け出して路地を行く彼は、耳に飛び込むそれら噂に対しぶつくさ文句を垂れていた。自分だって好きであんな格好をしている訳じゃないと、いい気になって噂を流している連中に言ってやりたい気分だった。
今日この日、とある吸血貴族の屋敷を取り囲む王国の兵士あり。屋敷の周辺に陣取る彼らをどうにかしてどかし、その吸血鬼を連れて抜け出るきっかけを作れと言うのがミゲルからの命令だった。
「簡単に言ってくれるよな。俺ってば荒事は苦手だっつってんのに」
ああ、荒事は苦手だ。体はそれほど鍛えていないし、武器の扱いはもちろん徒手空拳の腕など街中のチンピラにも劣るだろう。しかも武装さえしていない今ほいほいと出ていけば、瞬く間に兵士に身柄を取り押さえられるだろう。
こんな風に。
「あでっ、あででで! ちょ、ちょっと待って! 待て待て待て待てっ、分かった! 分かったから! 違うんです、普段お国のために働く皆様を労おうとハイ嘘ですごめんなさい! アァ、人の関節はそんな方向にギャー!?」
国の重要人物が軟禁されている場所に出ていき兵士たちに「おう、元気でやってる」なんて肩を組めば当然だ。すぐさま不審人物として組み伏せられ、頭を押さえられ手も肩の間接を極められる形で地面に突っ伏したのが僅か二十秒後のことである。これがミゲルなら大立ち回りを演じるし、自分達の中には五秒で血の河を作る者もいるが、一度に取り押さえに来る二十人を相手に正面から迎え撃てなど出来るわけがない。別にミーシャが特別弱いということではないのだ。
だが勘違いしてはいけない。ミーシャは彼らを「倒す」ことはできないが、「排除」することは出来るのだ。それには十秒も五秒も、一秒だって掛からない。触れてしまえば全てが終わる。
本日のミーシャの服装。
半袖。
半ズボン。
マスク、無し。
帽子、無し。
包帯、無し。
彼の素肌に触れている人数、多数。
「ウッ……!?」
変化は急激だった。突然ミーシャを押さえていた兵士の一人がうめき声を上げて後ずさり、よろよろと民家の壁際まで歩くと……。
「う、げぇええええええええ!!」
盛大に胃の中身をぶちまけた。未消化の物だけでなく、今まさに湧き出ている胃液も全て出し尽くす勢いで兵士は嘔吐し続けた。
何事だと隊長らしき男が様子を確認しようと近付く。そして更なる被害者が出る。
「あぁ、あああぁぁあああぁ……」
実に情けない声を上げて倒れる兵士数名。皆なぜか内股で、一様に腹と臀部を押さえている。腹痛かと覗き込んだ隊員らの鼻に漂う悪臭は……。
「おー、くせーくせー。ゲロとクソと小便を同時にぶちまける気分はどうよ?」
その名、コレラ。インフルエンザ、ペストと並び、最も多く人類を死滅せし病魔の使徒。胃と腸内の水分を強制的に排出させられ、肌も萎むほどの脱水症状はヒトを三日で確実な死に至らしめる。
不治の病に罹った隊員を別の場所に収容する必要に迫られ、ミーシャの思惑通りに彼らは現場を離れざるを得なくなった。その隙にミゲルと吸血姫が屋敷を離れる。
「じゃあな、リーダー。お姫さんを送り届けたらまた落ち合おうや」
「ミーシャ、分かっていると思うが私の不在中は……」
「承知してるって。そっちが戻る頃にはこっちも仕事終わらせるさ。そしたらいつもの格好に戻るよ」
「分かっているならそれでいい。では行きましょう、閣下」
変装したミゲルと吸血鬼の姫が街の喧騒に消えるのを確認し、ミーシャも自分の目的地へと向かうことにした。
できるだけ人と会わない路地裏を選んで通り、たまに飛び出してくる子供たちを絶妙なタイミングで回避しながらその足は確実にサーカス団へと向かっていた。
別に肩がぶつかったところで全面的に困るのは向こうなのだから気にする方が阿呆なのだが、そうは言ってられない事情がある。
さっきも述べたように、ミーシャ自身が発生する災厄を決めている訳ではない。分かっているのは触れた人間が最終的に死ぬことと、同時期に触れた人間を一度に死に追いやる何かが起こるという事だけである。
例えば大地震やそれに連動する火災など、多数の人間に確実な死を与えるだけの現象が発生する。当然そうなれば被害を受けるのは接触を受けた者だけには限らず、予測困難な事態が多発してしまう。つまり、下手に大勢の人間と接触すればこちらにも二次被害が及ぶ可能性もあるのだ。ミーシャ一人に掛かる時間と労力を問わなければ、彼単独で国の首都機能を完全ダウンさせることも出来るだろう。だがそれでは国家解体という目的は成し遂げても、教会は貴重な戦力まで失うことになりかねない。
「結局、いつもの服装とやってることは変わらないんだよな、っと。見えてきたな」
ちょうど都合よくテントの裏手に出て来れた。以前と違い公演も行っていないせいか物静かで、小道具や動物を入れていた檻もテントの中に仕舞われてすっきりした状態だった。面倒なのは動物の世話をしているはずのシュエリーの姿が見えず、恐らく中にいると推測できた。
これがゴードンなら躊躇なく中に入って数分後には仕事を完了しているのだろうが、中途半端な仏心を起こしたミーシャは極力無関係の者まで巻き込むのは避けたかった。と言って、実際は面倒な事態に発展するのを避けたかっただけだが。
だが謹慎を命じられている彼らが外に出る機会が無いことぐらい重々承知していた。ミゲルにはああ言ってしまったが、これはひょっとすると長丁場になりそうだ、
「どーすっかなぁ」
「なにがー?」
「あのテントの中に入る方法だよ」
「ふ〜ん」
「…………」
「……?」
「……え、何してんの?」
「お買い物〜」
いつの間に背後に回っていたのか、そこには今まさにミーシャが目的とする人物、レンシュンマオのシュエリーがいた。手にはパンを詰め込んだ紙袋を抱え、自身が言ったようについさっきまで買い物に出かけていたことが分かる。
「サーカス団員は謹慎の身って聞いてたんだが」
「うん。でも食べないと死んじゃうよ?」
「まあ、お上も飢え死にしろとまでは仰ってないからな。それにしたって一番目立つお前さんが出てってどうするよ」
「? あなた……どこかで会ったことある〜?」
「はあ? 何言って……ああ、この格好で会うのは初めてか」
両手で口と額を隠し、目元だけを覗かせる。すると記憶に符合する顔を思い出したのか、首を傾げていたシュエリーの顔が輝く。
「あー! ミーシャ! 今日は涼しい格好だね〜」
「覚えててくれてありがとよ。そっちは相変わらずモフモフな毛だな」
「えへへ〜。触る〜?」
「いや、今は遠慮しておくよ。それより、何と言うか……災難だったな」
「うん……」
少し気まずい沈黙が降りる。つい昨日まで盛況だったサーカスも今は静かになっており、その寂れた裏手をしばし二人で眺める。
ふと、シュエリーが口を開いた。
「あの子はねぇ、わたしが入団した時から一緒にお仕事してたの。こんな小さな頃から一緒だったんだよ」
「熊同士、気が合ったのか」
「うん……」
やはりあの時ミーシャの服を破った際に熊も触れてしまっていたのだろう。畜生に自分の境遇の幸不幸を判断できるとは思っていないが、それでも気の毒なことをしたと感じてしまう。
「伤心……。とっても、悲しいぃ」
「……運命なんだよ。誰が悪いわけでもない、なるべくしてそうなったんだ。熊も、あのおっさんも……」
「運命?」
「そう……起こってしまった事柄に理由はない。あるとすれば、それは『きっかけ』だけだ。直接的な原因はこれこれこうだった……それで、はいお終い」
水は低きに流れる、それを一番良く知っているからこそミーシャは自分で理由を求めることを止めた。何故そうなったかではなく、何が原因でそうなったのか、それを知っている故に彼はそれ以上の追及は決してしない。
代わりに待っているのだ。愚鈍で蒙昧な彼らが、いつか必ず真実に気付けるその時を……彼は待つことに決めた。そして未だその真実に到達した者はいない。
「でも……それって、とっても悲しいことだよ?」
「そうでもない。人は忘れる生き物だ。多分、魔物のあんただって忘れることもある。だろ? 五年や十年前の昨夜何を食ったかを忘れるように、誰だって皆忘れちまえばハッピーなのさ」
「なら、ミーシャはどうして悲しい顔をしてるのぉ?」
指摘による動揺を隠すためか身じろぎしてわざとらしく咳払いする。これだから獣人系の魔物とは関わりたくないのだ、彼女らは揃って勘が鋭い。
「ミーシャは……忘れられないの?」
「……別に。忘れられないことの一つや二つあるだろ」
「さっきと言ってること違うよ〜?」
これがからかい半分で言ってくるんならミーシャもあしらえるが、屈んでこちらを覗き込んでくるその表情はとても不安そうで、心の底からこちらを心配していることが見て取れる。
この顔が恐怖と絶望に歪む様をミーシャは何度も見てきた。それらを一朝一夕で忘却の彼方に追いやれるほど図太い神経には出来ていない。
頭の隅にこびり付いていた記憶が呼び覚まされていたミーシャの眼前に、ずいっと何かが近付けられた。香ばしい焼きたてのパンの香りが鼻に広がる。
「これあげるね〜」
「おい、これって団員の食事だろ?」
「いいの、いいの〜。そうだぁ、一緒に食べよう。ね?」
純真な疑うことを知らない心がミーシャに近付く。その行為が食虫花に誘われる羽虫の如きとは微塵も知らずに、彼女の大きな熊の手が……。
「行こ」
ミーシャの手に触れた。
「……ああ、行こうか」
ミーシャは右手に毛皮の暖かさを感じながら、ミーシャはシュエリーに手を引かれてサーカス団へと足を踏み入れた。
勝手に入っていいのかと思ったが、会場内は人っ子一人おらず、団員は寝床を兼ねた馬車の中で酒や賭け事に興じているようだった。たまに掃除に来る奴もいるが部外者のミーシャに対しても大らかで、問答無用で追い出すことはしなかった。それどころか聞いてもいないのに今まで公演した場所でのことや、自分達の昔話などを語ってくる。
「おや! 珍しいな、シュエリーが男連れ込んでんぞ!」
「うそだろ!? あのお堅いシュエリーがかよ!?」
「だれだれ? どんな人!?」
すると話を聞きつけたのか手空きの者が何人もやって来ては物見遊山とばかりにミーシャに寄ってたかる。どこから来た、とか。職業は、とか。シュエリーとはどんな関係だとか、まあそんなある事ない事を聞かれまくった。
しばらくわいわいと談笑していると、話題はそれぞれの過去に向けられた。そうなると必然、話の流れでミーシャにもしつこいぐらい昔の話をねだられる。同じ釜の飯ならぬ、同じ店のパンを食べた者同士のよしみとでも言うのだろうが、自分の昔語りなど単なる不幸自慢……いや、「幸運自慢」にしかならないと知っている。そこで好機とばかりに話題をシュエリーに逸らした。
「そっちのシュエリーはどうなんだよ。東の大陸から来たってもっぱらの噂だけど?」
「おうおう、聞いて驚きなよミーシャの旦那ぁ! こいつこんなトボけた面してるがな、向こうじゃあお国付きの外交官様だったんだぜ? 信じられるかよ!」
「へえ、そりゃすごい」
「昔の話だよぉ」
どうやら隠している訳ではないらしい。これで八年も行方を掴めなかったと言うのだから、教会の密偵の腕も程度が知れる。とは言え事後にはなってしまったが事実確認はできた。これで遠慮なくここで「事故」を引き起こせる。
「それにしても、外交官か。お給金に不満でもあったのか?」
「職務怠慢とやらでクビ切られたんだとさ。まあこいつはこんなおトボけた面しちゃいるが、根は真面目さ。だからどうも職務怠慢ってのがピンとこないわけよ。そこんとこどうなんだよ、シュエリー?」
「つーん! 人の過去を勝手に喋る人には話しませーん」
「あらら、嫌われたな」
「そういうあんたはシュエリーに気に入られてるな。こいつってば見た目はこんなんだが浮ついた話なんて全然ないんだぜ?」
一度シュエリーの話になると皆もその話題に夢中になる。それはつまり彼女が団員から愛されているという証拠で、人や魔物という以前に彼女の魅力がそうさせている証だった。
ふと、遠い過去に置き去りにしたはずの記憶と重なって見える。そんな可能性など有り得ないと捨てたはずの憧憬が無遠慮に視界に広がってしまう。
だから、断ち切れねばならない。
「なあ、みんな。ここでこうして出会えたのも何かの縁だ。互いの親交の証に、ここはひとつ握手をさせちゃくれないか」
それをきっと、人は「悪意」と呼ぶのだと思う。
誰が持ち込んだのか酒を飲みながらの談笑は何時間も続き、客席や床には空になった酒瓶がいくつも散乱、散々酒宴を楽しんだ団員らは完全に潰れていた。
「普段はここまで呑まないんだけどね〜」
泥酔して眠りこけている彼らを片腕で軽々と抱え、客席に座らせていくシュエリー。その様子を自身も酒の回った赤ら顔で見つめるミーシャ。今ここで言葉を交わしているのは最初の二人だけだった。
「呑まなきゃやってらんないんだろうさ。こんな状況だし」
「そうなのかも〜」
全員を片付け終えたシュエリーがミーシャの隣に戻る。昨日今日の間柄なのに、なぜかこれが互いの定位置に思えてくる。少なくともそう感じられるぐらいの距離に二人はいた。
「さっきからずっと聞きたかったんだ。何だってあんたは俺に興味を持つのさ。魔物特有の一目惚れってんなら、お門違いだから他所行ってくれ」
「……似てるの。わたしに」
「あんたに?」
「わたしはね……期待に応えられなかったの」
霧の大陸は遥か昔から戦乱による興亡が絶えず繰り返されてきた。強ければ生き、弱ければ死ぬ、自然界の弱肉強食を今に引き継ぐ修羅たちがひしめき合い、誰も彼もが覇権を握らんと競い合う群雄割拠の煉獄の世、それが霧の大陸の内情である。
敵は打ち倒し支配するもので、決して和解や併合による解決はないとするのが常。そんな国々でシュエリーら外交官の仕事とは、戦乱を収める調停員としてではなく、政治的外圧やスキャンダルにより更なる火種を生み出す事にこそあった。和平を結ぶふりをして敵国の将軍を篭絡し、後宮に仕える身分に扮し情報を第三国に流したり、実態は完全にスパイだった。
シュエリーが真っ当な外交官として仕事を成功させたのは、西側諸国との不可侵条約締結のみ。海外勢力の介入を嫌う大陸の国々の思惑が一致したからこそ実現したことだが、内部での仕事の全ては「失敗」に終わり、国同士の戦乱は拡大の一途を辿った。
レンシュンマオは平和を好む穏やかな種族、だからこそ彼女は唯一無二の強者を決める果て無き戦いを憂い、ある時ついに……。
「お国の密命に逆らい敵国との和平を『成功』させちまった……か。本当は相手が反発するのを口実に攻め込むはずが、それが出来なくなったと。あんたが応えられなかった期待ってのは、命令に背いた国のことか」
「ううん……違う」
戦乱の続きを期待していた国ではなく、戦乱の終わりを切望していた民衆にシュエリーは応えたかった。戦乱の長期化により疲弊するのは結局民草だけだ。国を支える為の重税を課され、戦が始まれば人手として駆り出され、国を侵す者達が真っ先に狙うのも彼らだ。彼女が幼い頃を過ごした竹林も戦火は容赦なく焼き払い、今は何も残っていない。そんな戦乱にあえぐ彼らの希望を現実にしたくて、血の滲む努力の末に敵国との和平を勝ち取った。
長く続いた戦いの終結を民は喜んだ。彼らの暮らしを守ることが出来たのだと、故郷を失う悲しみを覚えさせずに済んだのだと安堵した。
だが、密命に背いた彼女を国は許さなかった。
表向き失敗に終わった過去の条約締結を今更になって引き合いに出し、戦乱が長引いた責任を追及された彼女は国にいられなくなった。民が望むものと国が望むものは必ずしも一致せず、自身が国家に反逆した罪で問われる前に逃げ出した。その後国は彼女が必死の思いで結んだ和平をたった二年で反故にし、民は再び泥沼の戦乱に引きずり戻された。
「んで、あんたは戦争が今も続いてるのは、そん時自分が逃げ出してしまったからーとか思ってんの? 自分が逃げずに残ってたらどうにか出来たのにーってか?」
「何か出来たんじゃないかな〜って、そう考えちゃう時があるの。でもその時はいつも何も出来なくて逃げ出したことが……自分で自分の居場所をなくした事が、とても、とても、悲しくなるの」
「……月並みな言葉だけど、あんたは悪くないはずだ」
「ありがと。でも、ミーシャはわたしと同じ目をしてる。ミーシャ、あなたも……自分の居場所をなくしちゃったの?」
「…………っ」
針を打ち込まれたように僅かに顔をしかめる。
これだから勘が鋭いくせに鈍感な獣人系は嫌いだ、目ざとい上にズカズカと人の内側に入り込んでくる。別に心の内を暴かれたり、その心理を勝手に共感されることに対して羞恥的な憤りを覚えるわけじゃない。そんなことで顔を赤くして拒絶するほど子供ではない。
ミーシャの内にあるのは、苛立ちだ。歯がゆい思いに頭を乱暴に掻きながら大きな溜息を漏らす。
「はぁー……どうして分かんねえかなぁ」
「ミーシャ……?」
「別に……。ただ、思ったより賢くないんだなって思っただけだよ。あんたと俺が同じ? バカ言うなよ。あんたほどの奴が、何をどうすれば俺なんかと同じになる。寝言は寝て言えよ」
「ミーシャ?」
「あんたは曲がりなりにも期待に応えられた。けど俺はいつまでたってもそれが出来ないでいる……なんでか分かるか。この十年ちょい、今まで誰一人として俺に『期待』してくれないからだ。当たり前だぜ、掛けられもしない『期待』に応えられるほど俺も器用じゃないんだからな」
ミーシャが何を言いたいのか分からず戸惑いだけが満ちていく。そんな彼女の動揺を見抜いてかミーシャも薄ら笑いを浮かべ薄気味悪い雰囲気が周囲に漂う。
ふと、風が吹いた。テントは閉め切られているはずだから風など無いはずなのに、どこからか入り込んでくる大気の流れ。シュエリーの発達した嗅覚はその風に含まれる不穏な気配を察知できた。
「この臭い……?」
「あぁ、今回はそういう趣向なのね。大方、誰かの不始末ってとこか。そんじゃ俺はそろそろお暇しますかね」
「あっ、ミーシャ!」
焦げ臭い臭気から事態の顛末を予測したミーシャは自分だけさっさと席を立って去ろうとした。火事が起きているのだとすれば一人で動くのは危ないと呼び止めようとしたシュエリーだが……。
浮かせた腰を阻むものがあった。胸と腹を押さえつける不可視の何かが彼女の体を席に縛り付けていた。
「なに、これ!?」
「あんまりトロいもんだから、ちょいと仕掛けさせてもらったぜ。本当ならこんなことしなくたっていいんだが……悲しいけどこれ、お仕事なんだよな」
ここに月の光でも差し込んでいればミーシャの五指から伸びる五本の細糸に気付ただろう。東方の毛倡妓の髪をベースにアラクネ種の粘着糸を乾燥させた物を編み込んだ、魔道師イルムの作りし小道具の一つ。目で捉えることすら難しい微細な糸。本来それは首に巻き付けて窒息と斬首を兼ねる暗器なのだが、そんな物に頼らずとも目の前で勝手に相手が息絶えてくれるミーシャにとっては無用の何とやら。
ならばこれは何のための装備なのか。決まっている、相手を確実に「事故死」させるための拘束具だ。
「あんたにはここで確実に死んでもらう。あんたに昔都合の悪い事実を握られたと思い込んでる連中がいてさ、まあ災難だと思って諦めなよ」
「ミーシャは、最初からそのつもりで……」
「いいや、昨日あんたと出会ったのは偶然だよ。でもそうなるとあんたの運命は昨日の時点で決まってたことになるな」
会場には遂に臭いだけでなく黒煙が立ち込め天井付近は毒気が行き場を求めて充満し、その勢いは一秒ごとに尋常ではない速度で増していった。奥の方からは煙の発生源である火がテントの布地や小道具を燃やし、そちらもいずれこの空間を焼く大火になることが容易に想像できた。
黒煙による窒息死か、猛火による焼死か、どちらにせよこのままここに居れば全員が死ぬのは確実だ。その前にせめて他の団員たちだけでも逃がそうとするが、開きかけた口をミーシャが塞ぐ。
「待てよ、ここの連中はさっきまで呑みまくってたんだぜ? そんなんで火事だーって騒いでみろ、昨日のおっさんみたいに全身の骨バッキボキになってお陀仏だぜ。どうせ同じ死ぬのなら気持ちよく眠ったまま逝かせてやるってのが人情だろ」
「まさか、あの人のことも?」
「だーかーらー! 偶然、たまたまだって言ってんだろ。仮にあのおっさんとここに居るこいつらの共通点が『俺に触ったから』っつって、それで俺のせいで死んだなんてどうして言い切れる。お門違いも甚だしいぜ」
わざとらしい、口では自分じゃないと言いながらその実、いかにも自分こそが下手人だと吹聴するような物言い。言葉を聞いた者ならばこの状況を仕組んだのが彼であると理屈抜きで確信するだろう。そしてシュエリーもまたミーシャこそが犯人だと確かな自信を得ることになってしまった。
だが、それと同時に不可解なこともある。
「本当に……済まないと思ってるんだぜ? ああ、かわいそうになぁ……あんたは何にも悪くねえのになぁ」
自分のせいじゃないと嘯きながら、同時に彼は罪悪感を覚えている。煽りや嫌味ではなく、心の底からこうなってしまったことを悲しんでいる。無視できない齟齬、矛盾、意図不明の言動はまるで何かを狙っているようでもあり、その不透明な言葉と行動の不一致が今度はシュエリーを苛立たせた。
自分は悪くない、だけどこうなってしまったのは責任がある、でも一番近くにいるのにしてやれることは何も無い……一体こいつは何がしたいんだと誰もが感じることだろう。
「ミーシャは……何がしたいの?」
「何もしたくない。むしろ、何かをして欲しくてウズウズしてる。あの雨の日から、教会に突き出された時からずっと、俺はずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずーっと、気が違うほどずっとずっとずっとずっとずっとずっと前から、ああそうだよ待ってるんだよそうなんだよ。何でどうして誰も気付こうとしない、気付いてるはずなのに何だって知らないフリするのかなぁ」
タガが外れたようにまくし立てる様は狂気のそれだが、ミーシャは狂気に浸かってはいない。狂気とは意志の発現、心の強弱、それがある方向に向きある一定のラインを越えて初めて形を成すもの。狂信の暗殺者とは違い自ら動くことを止めたミーシャに狂気は降りてこない。彼はどこまでも「異常な正常者」で、欲しがるだけの一般人でしかない。
だからこそ彼はこの現状が我慢出来ないでいる。早く早くと急かしても一向に動こうとしない連中に苛立ちを隠せずにいる。欲しがるモノをいつまで経っても貰えない子供のように。
「チャンスをやってもいい」
不意にそんな事を言い出した。目的は何だと訝しむシュエリーを放置して勝手に話が進む。
「俺の『なりたいもの』を当てられたら、それを解いてやるよ。後は自分の運に賭けて一人で逃げるも良し、酔い潰れたこいつら引っ張って行くも良し、お好きにどうぞ。タイムリミットは火がこっちに回ってくるまでだ」
自分の力に絶対の自負があるからこその余興とでも言うのか、どうせ答えられない、あるいは逃げられやしないと高を括っている。もうその顔にさっきまでの罪悪感はなく、一転して面白い見世物でも見ているような愉快そうな表情でシュエリーを哂う。「答えられるものなら答えてみろ」と言っているようだ。
熱くなる頭を抑え、シュエリーは悩んだ。彼の「まっとうに倒錯した」その精神を理解するには一朝一夕では到底時間が足りず、恐らく当てずっぽうでは決して納得を得られない手合いであることは充分に分かっていた。彼の単調に見えて複雑な心理を解き明かす鍵を拾い集めようと、普段使わない呆けた頭を必死に回転させた。
そもそも彼は何の目的でここにいる? 触れただけで相手を死に追いやるのなら適当な理由をつけてこの場を去ればいい。だがそうしないのは何故だ。
自ら死を与えた人間の最期を看取るつもりか? いや、彼はそもそも自分で死を与えたつもりはないと強弁している。それにそんな高尚な精神を持ち合わせているような輩ではないことぐらい、誰にだって想像がつく。
大病を患った者の耳元で、「お前は死ぬぞ」と連呼しているようなものだ。そんな輩が抱く目的など嫌がらせ以外の何ものでもない。つまりそこに介在しているのは純然たる悪意でしかない。
「ほぉらほら、もう時間がないぞー? 早くしないと俺も焼け死んじゃうよー」
「っ!」
火はその速度を緩めることなく円形会場を舐めるように燃やし尽くし、ミーシャの内なる悪意を表すようにシュエリー達を確実に追い詰める。仮に火がここまで来なかったとしても、焼け落ちたテントの下敷きになるのは明らかだ。そうなれば当然シュエリーや団員たちだけでなく、事の発端となったミーシャも同じ運命を辿るだろう。
徐々に迫り来る炎と熱された空気が焦りを加速させる。自己保存の本能が脳の中を原初の感情で満たす。それは即ち生命の危機に対する恐怖と、今この状況に己らを追い込んだ者に対する怒りだ。すぐ隣で軽佻な薄ら笑いを浮かべているミーシャに対する怒りが腕を動かそうとするが、食い込んだワイヤーがそれを抑え込んで離さない。その様子を見て更にミーシャが愉快そうに哂う。
「無駄無駄ぁ。やめなって、みっともない」
「……ぅぅ。許さない……我可真的不原谅你哦ォォォー!」
「ははっ、何言ってるか全然分かんね。けど……あんたがすんげぇ怒ってるってことだけは分かったよ。んで? あんたは俺をどうしたいのさ? 顔真っ赤にして肩プルプル震わせて、その力んだ腕はどうしたいのさ? って、そんなんじゃ答えられないか。じゃあ特別にちょいとだけ緩めて……」
その意図を確かめようとミーシャの指が糸を操り、雁字搦めにされていたシュエリーがある程度の自由を得た。
瞬間──、
「──ごぼッ!!?」
サーカス団で軽業の一環として間接を操る技を持ったシュエリーは瞬時に肩を外し、緩んだワイヤーの隙間から熊の豪腕を突き出した。人間を越える膂力、しかも獣人系の腕力を顔面で受け止めたことでその体は重力を無視して客席を飛び出し、今まさに燃えているステージの中央まで吹っ飛ばされた。偶然か必然か、これだけ燃え広がっているにも関わらずミーシャが落ちた場所だけなぜか燃えておらず、彼の身は未だ無事だった。
「おぉーっ、痛ぇ! 痛ぇなあ! 思いっきり殴ってくれちゃって……」
「ミーシャが悪いんじゃない! どうして、どうしてここまでヒドいことができるの!? この人たちを弄んで、それで……何が面白いの!!」
「ああ、面白いね。面白くて涙がちょちょ切れそうだよぉ!! こーんなに俺が大っぴらにしてやってるってのに、お前ら誰一人として気付かないってかぁ! 嘘だろ、冗談も大概にしてくれよ! 俺バカだからよぉ、はっきり口にして言ってくれねえと分かんねえんだよ」
炎がミーシャの周囲を取り巻くが、まるで意思を宿したかのように決して彼に燃え移ろうとしない。彼の悪意から発生したからこそ、発生源である彼を害せないとでも言うのだろうか。
「でもまあいいか。俺をぶん殴ったってこたぁ、そりゃつまり『そういうこと』でイイんだな。糸も切れちまったし、恥ずかしがっていつまでも答えを言わないシュエリーちゃんに模範解答くれてやるよ」
両手を上げ、パチパチと炎が木々を焼く音を拍手代わりに、小熊は高らかに宣言した。
「俺は、『悪』になりたい」
「悪……?」
漠然とした、それでいて確かにそうと答えたミーシャの真意を計りかねる。
そも、「悪」とは何だ?
「侮蔑され、拒絶され、罵倒され、嘲笑され、軽視され、あらゆる存在に害を与え、あらゆる存在に不利益を撒き散らす、存在そのものが誰の為にもならないマイナスの塊……それが『悪』。俺がこの十数年、焦がれに焦がれ続けた称号だ。誰からも認められず、誰からも必要とされず、誰もが排したいと願う、そんな存在に……俺はずぅーっと成りたかった」
陽の光を浴びる輝かしいモノではなく、唾棄すべき汚濁に塗れた存在への憧れ。それが小熊の内に眠る悪意の正体。それが彼自身の力と融合した瞬間から、彼は多くの存在にとって看過し難い悪性腫瘍へと変貌を果たした。もはや彼は歩く毒沼、意志を持ち悪意を以て害を為す生命の敵対者へと進化してしまったのだ。
「てめえらバカばーっか!! ここにこんなご立派な悪の権化がいやがるってのに、揃いも揃って節穴ばっか、目ん玉どこ付いてんだ!? ああ、だからか! そんな鈍っちい脳足りんな頭がお弱いさんだから、俺みたいな奴のアホみたいな運命に引っかかるのか! 納得したぜ、災難だったなぁ! 全部ぜぇんぶ! てめえらのせいじゃねえか!! そんな目にあってるのも、今死にそうなのも、皆みぃーんな、自業自得ってやつだぁ!! ハハハ、可笑しくって笑いが止まらねえや! ヒャーハハハハハハハハァ、ハーッハッハッハッハッハッハ!!」
「……ッ!!!」
「おやおやぁ? シュエリーちゃん、どしたのぉ? 仲の良い皆のことバカにされて頭に血が昇っちゃったかなぁ? でもキミだってその『おバカ』な連中に入ってんだぜぇ? 『ミーシャはわたしと同じ目をしてる』、『あなたも自分の居場所をなくしちゃったの?』……っぷ、ププ、クススッ、ギャーハハハハハハハハッ!! ちょいと陰のある優男演じたつもりが、シュエリーちゃん的にはドハマリってかぁ? そいつはざんねーん、嘘ですよーぅだ!!」
「あなたは……ッ、わたしの心を……!!」
「だぁーかぁーらぁー、お優しいシュエリーちゃんはいつまでイイ子ちゃんぶってるんだよ? 目の前の諸悪の根源を止める方法なんざ、もう何十通りも思いつく時間をやってやったろ? だったらよぉ……このピーチクパーチクうざったい口を止めたいだろ、なあ? なあ? なぁあ!?」
シュエリーの胸に天井に充満する黒煙と同じくらいドス黒いものが充満する。全てを投げ打って平和をもたらした故国が再び戦乱に立ち返ったと聞いた時、それ以上の義憤が今の彼女を突き動かす原動力となっていた。相手が理由なき悪意によって害をもたらすなら、自分は根拠ある義心によってそれを断つ……それが「正義」と呼ばれるものだと信ずる故に。
熊の手が客席を組み上げる角材を無理矢理引き抜く。ヒトを黙らせるには充分、そこに魔物の怪力が加われば打たれた部分は微塵に砕け散るだろう。それを両者ともに十二分に理解できている、理解した上での相対である。
「やっとかよ、待ちくたびれたぜ。一体何年待たせりゃ気が済むんだよ、俺は最初からここにいたんだぜ」
「何を言ってるの……」
「『お前ら』だよ。今の今まで俺に見向きもしなかった、馬鹿で阿呆で愚かなお前らの事を言ってるんだよ」
もはや言葉も意味をなさない、ヒトの形をした悪魔であるミーシャを止めるには息の根そのものを断つしかない。
「俺をぶっ殺せばひょっとすればこの運命が変わるかもなあ?」
呵呵とあざ笑う小熊に対し遂に人熊猫の腕は猛然と振り上げられ、悪を断罪する正義の柱はその頭蓋を叩き潰──、
「間に合ったか」
──さなかった。
どこからともなく飛翔した銀の刃が角材を切断し、ミーシャは寸前で事なきを得た。飛来した刃はそのまま直線上の柱に深々と突き刺さり、そこから二人の視線が発射位置を特定する。
「意外とお早いお帰りで、リーダー」
炎上する会場に駆け込んだのは、七人の勇者が団長、ミゲルであった。吸血姫を送り届けに王都を出たはずの彼がなぜここに?
「胸騒ぎがしたから戻ってみれば……。殺す相手に殺されようとするのは、君の悪い癖だと前にも言ったはずだぞ」
「リーダーには感謝してるぜ。行き場のなかった俺をそばに置いてくれたもの好きはあんたぐらいだ。だけどなぁ、そうじゃない、そうじゃないんだよな俺が求めていたのはよ」
「ミーシャ、君は……」
「ああもう、うざったいな! 引っ込んでろ!」
ミーシャが睨みつけると、一迅の風が吹いてミゲルに迫った。炎を乗せたそれはミーシャの意志に従うかの如く渦を巻いてミゲルを包み、彼の動きを封じる。
今この瞬間、ミーシャの力は悪意というピースを得て完全に彼の手足となった。災いの根源となるものならば火も水も思いのまま、彼の意思一つで街を疫病の海に沈めることさえも可能となった。生きとし生ける全てを蔑むモノ、それが今のミーシャだった。
「さあやれよ。『悪』はここにいるぞ! 誰かにそれを背負わせりゃ、てめえらそれで満足なんだろ! てめえらが今のこの状況を望んだんだ! 尻ぐらいてめえで拭きやがれ!!」
「殺すなっ! 彼を……ミーシャは、本当は……!!」
「やれ!! ほら、どうした? 俺のことが憎いんじゃなかったのか! やれよ!! 腰抜けが!!」
「……!!」
人間、土壇場でその本性が見えてくる。どれだけ仮面を被り演技で取り繕っても、いや、そうしている奴は特にそれが剥がれ落ち易い。本心の発露として浮き彫りになるそれを抑えることが出来なくなるからだ。
シュエリーが感じ取ったのは……生への執着とは正反対、生物として有り得ないデストルドーへの執念、それがミーシャから渦巻くのを感じた。自己保存という最低限の生理機能さえも破棄した、もはや生物と呼ぶことすら躊躇われるレベルの破滅願望の波動だ。
それを感じると同時に、シュエリーは今までのやり取りを振り返った。
最初からそのつもりでここに居たのだとすれば、彼のあの言葉はまさか──、
「やれぇぇぇええええええええええええええーッ!!!!」
怒号が赤々と燃え上がる舞台を揺らし、そして「絶望」が訪れた。
天井を覆っていた布が熱膨張で遂に内側からの圧力に耐え切れず、巨大な風船が割れるように熱された空気が解放、その衝撃でテント全体が崩れ始めた。天井の穴に向かって上昇気流が吹き荒れ、それと同時に入り込んできた冷たい外気が会場全ての炎を攪拌し巨大な竜巻を形成した。
「ヒャハハハハ! こりゃあ傑作だぜ!! 燃えろ燃えろぉ、嵐よもっと吹けぇ!! ギャーッハッハッハッハッハッハッハァッ!!」
外気と混ざり合った熱気はミーシャの哄笑とシンクロするように激しさを増し、一切合切全てを宵闇の空に灰にしてバラまこうとしていた。
シュエリーも、ミゲルも、泥酔したままの団員たちも、ミーシャ自身でさえも吹き飛ばさんと轟々と渦巻く烈風は小さな瓦礫や焼け焦げた布を巻き上げて天高く上昇し──、
そして、あっさりと消えた。
「あ……?」
「風が、やんだ?」
それまでの猛烈な嵐がまるで嘘のように、風は一瞬にして収まってしまった。誰一人として死んでいない、それどころかケガらしいケガもなく、団員らは未だに眠りこけたままだ。
「どういうことだ? まだ終わっちゃいねえだろ!」
「いいや……終わりだよ、ミーシャ」
「んだと!?」
噛み付こうとした矢先、鼻先を冷たい何かがかすめた。その時にやっと外から流れ込んだ空気が湿っている事に気付き、天を見上げれば月を包み隠す黒雲が空を覆っていた。遠方からはゴロゴロと稲妻の音が聞こえ、程なくして小さな雫は盆をひっくり返したような豪雨に変じた。
「やめろ……。やめろ、やめてくれぇぇ!!!」
雨は天井を失った舞台の炎を駆逐し、三分とかからずに燃えかすは完全に鎮火されてしまった。もうこれで誰も死ぬことがなくなったのだ。
だが安堵すべき場面でミーシャは天に命乞いするように雨が上がることを祈っていた。それまでの悪意がなりを潜め、遂には突っ伏して絶望の表情に変わる。
「嘘だろぉ……。なんで、なんだよぉぉ……あともうちょっとだったじゃねえか……! なんで……なんで俺の望む通りになってくれないんだよぉ!」
悔し涙を浮かべ、行き場を失った感情を乗せた拳が何度も何度も地面を叩く。豹変したその姿にシュエリーもどうしていいか分からず、ただ嘆くミーシャをオドオドとその周りをうろつくしか出来なかった。
ミゲルだけは違った。
「君が言ったんじゃないか。運命だ、偶然だ、理由なんかない……と。君のその力で引き起こされる事象は何の理由もなく全てを不幸にさせる、ただそれだけのものだ。それは即ち、『理由が無いことが理由』の現象だ。だが君はそこに『悪意』という『理由』を付け足そうとした。そうすることで己を悪という型に嵌めようとした。それこそが君の敗因だ」
無理を通せば道理が引っ込む……理解できない事象を無理に理屈をつけて説明しようとすれば齟齬が生じるように、力自体は善でも悪でもない「ただの流れ」でしかない。それに一側面の「悪」を付け足したことで「流れ」は変化し、力の出力は変質してしまった。
ミーシャが自分を悪で在れと願う限り、彼の禍津の力は二度と発現しない。そして悪である理由そのものを失ってしまった彼は、もはや何者でもなくなった。
「なんで今更なんだよ……! あの時は降ってくれなかったじゃないか! ああぁ、あああああああああああああぁああぁぁぁあぁぁあぁあぁぁぁーっ!!!!」
「ミーシャ……」
泣き崩れるその小さな姿にシュエリーも初めて彼の真意を知った。そして、その望みが永遠に絶たれてしまった事も。子供のように泣き叫ぶその悲痛な声が、彼の背負っていたものの大きさと重さ、そして悲しさの全てを物語っていたことにようやく気付いた。
雨は止まない。小熊の悲しみを代弁するように、ずっと、ずっと、降り続けていた。
馬車に連れ込んでからもミーシャの慟哭は止まらなかった。ベッドに腰掛けたシュエリーの膝に顔を突っ伏して号泣し続けた。軽佻浮薄な普段の態度は仮初で、本当は外の雨に打たれることさえ耐えられない弱々しい今のこれこそが、彼の真の姿なのかもしれない。
その頭を子供を慰めるように何度もシュエリーの手が撫でた。何も言わずに、ただ静かに、彼が話してくれるのを待った。
やがて外の雨が上がる頃、ぽつりぽつりと口を開いてくれた。
「がっかり……させたんだ」
かつて彼を教会に突き出した町の住人はミーシャが呪われていることを密かに期待していた。呪われていれば自分達の不幸に納得を得られる、死んでいった者達にも言い訳が出来る、そう考えていた。
結果はシロ。加護や呪詛を判別する神父の審問は彼を「ただの人間」と判断した。不当な罪の一切を免じたその言葉にミーシャは救われる気持ちだった。自分は呪われてなんかいない、これで町の人々の誤解もとけたと喜び勇んだ。
だが理由の有無と、それを納得できるか否かは別の問題だった。
人々は戸惑った。今まで犯人と思っていた人間が実は犯人でも何でもなく、ただの無関係な無辜の者と知らされたことに愕然となった。
なら自分達に降りかかるこれは一体何なのだ? どんな理不尽があってこんな目にあう?
行先を失った戸惑いは、審問を行った神父が一週間後に病死したことで絶望に変わった。悲劇は確かにミーシャによって引き起こされているのに、あらゆる要素が彼に原因がないという不条理な結論を突きつけた。まるで災害、嵐や地震で受けた被害を誰のせいにも出来ないように、鬱屈した重苦しい絶望は人々から排斥の正当性さえ奪い尽くした。
ミーシャに触れた者は死ぬ、だがミーシャに原因はない。理由も無く、意味も無く、ただ理不尽に……形無き悪意だけが満ちていった。
「俺は……皆に、『納得』して……俺のせいだと知って欲しかった……」
今でも目に焼きついて離れない彼らの失望の表情。災いを排斥する事すら許されなくなった事への深い諦念。それら全てに付随する「理由はないが受け入れろ」という理不尽に対し彼らは失望していた。
失望とは即ち、期待外れ。「ミーシャが悪い」という期待に応えられなかったが故の失望。
それは誰かの期待に応える事を生き甲斐にしてきたミーシャにとって耐え難い苦痛だった。例えそれが自分の側に正当性があったとしても、誰かをがっかりさせる自分にこそ原因があると信じて疑わなかった。
「首を括ることも考えた……。でも、それじゃあダメだ。誰も納得しない……」
真っ当な理由を、正当な意味を、納得できる何かを……彼らに与えたかった。
だから、自分は「悪」になる──。
不幸を呼び、災いをもたらし、病をばら撒く……そんな存在になることで、彼らの絶望の矛先を自らに向けたかった。そうすることで彼らは姿無き理不尽に怯えず、形を得た悪意に対する牙を持てる。
この肉は不浄、この血は汚濁、そしてこの魂は猛毒。
悪は誰からも必要とされないからこそ、「悪を排斥するという意思」の許に必要とされる……そんな存在にミーシャはずっとなりたかった。
「なれないよ、そんなの……」
水は低きに流れる。だが生きるモノは高みに昇ろうとする。それに逆らい穢れを一身に纏うような生き方など、どんな聖人君子にも出来やしない。仮に出来たとすれば、それこそイキモノをやめてしまうしかない。救いをもたらしたいから悪徳の王となる……そんな歪んだ生き方を出来るほどヒトは器用ではない。
その証拠にミーシャはシュエリーから離れようとしない。十数年ぶりに触れることの出来た他人の温もりからすげなく離れられるほど、彼の心は丈夫に出来ていない。とっくの昔にボロボロに崩れた心を、必死に繋ぎ合わせたツギハギだらけなそれをどうにかして耐えているに過ぎない。
「ミーシャはとても、とっても悪い人。自分にウソついて、追い詰めて、そんなの……何が楽しいの? なんにも楽しくないよ? もっと……もっと、楽しいことして生きられないの?」
「もういい……もうなにもしたくない……。放っておいてくれ」
「それは、ムリ。わたしは絶対にミーシャを……見捨てたりなんかしてあげない」
そう言って肩を掴み引き寄せ、強く抱き締めた。
霧の大陸には「萬句言語吃不飽 一捧流水能解渇」という諺がある。「万の言葉は飢えを満たさず、一滴の水は渇きを癒す」という意味だ。今のミーシャに必要なのは言葉ではなく、干涸らびて亀裂が入った心に染み込む「一滴の水」だ。
シュエリーは決意した。自分がその水になる。地下深くに潜り込んでしまった彼の心を、地上に汲み上げる呼び水になると……。
「ね、ミーシャ……知ってる? メスの熊はねぇ、オスをお尻に敷くとっても怖い動物なんだよ〜」
古今東西、傷心の男を癒す手段など相場が決まっている。
「イイコト……しよ?」
陽を知らない純白の肌が露わになり、ミーシャを包み込んだ。
熊の愛情表現はかなりアグレッシブだ。巨大な腕で意中の相手をがっしりと掴んで絶対に離さず、キスする以上に顔を激しく突き合わせ首筋や肩に噛み付く。捕食行動に近いそれは「お前は私の物だ」と誇示せんばかりに過激を極める。
レンシュンマオは普段は鈍重なイメージが付きまとうが、実際は熊に似た魔物娘。ゆえにその愛情表現もヒトの身には激し過ぎる。
「んッ……むゥ……!」
シュエリーの黒腕は右手一本でその胴体と頭を同時に押さえ込んでいた。抱き寄せる勢いそのままのキスはミーシャの舌も飲み込むぐらい強烈な吸引で、意図してか知らずか呼吸器を麻痺させる一撃は彼の体から抵抗を奪った。
元々何もしたくないと言っていただけに彼の体は身じろぎ一つせず、雄ならばむしゃぶりつかずにはいられない魅惑の肢体を前にしても食指が一切動かなかった。ここまで来ると筋金入りだ、傷心とかではなく心此処にあらずといった感じだ。
そんな事はお構いなしにシュエリーが覆い被さる。黒腕の爪が服を切り裂き、露わになったその胸板に自分の肌をこすり合わせ、顔にも舌を這わせ満遍なく舐め上げる。自分の匂いを移すことで所有権を主張する、文字通りの「ツバをつける」行為だった。
フサフサした腕も腰や下腹部を丹念に撫でる。それは愛玩動物にするようなものではなく、相手の性感を刺激する大陸仕込みの房中術だ。気を相手に送り込み下半身をその気にさせる、現役時代には使わなかったハニートラップの手練手管を初めて使ったが、効果は抜群だった。
「アイヤァ……! すごぉい」
下着ごとズボンをずり下ろせば、頭をもたげるのは大蛇かはたまた東海より出てし蓬莱山か。むせ返る雄の香にあてられたシュエリーの頬が酔ったみたいに紅潮する。過敏になった獣欲は全身を総毛立たせ、もういてもたってもいられない。
「ミーシャ……ごめんね、もうガマンできない! あ……あああっ!!」
ミーシャに跨って屹立した先端を秘所に充てがい、一気に腰を下ろした。ズルリと内臓をかき分ける感触の後、先端は一瞬で牝熊の最奥に到達、体内を駆け巡った電流と脳髄から染み出る快楽が全身を多幸感で包んだ。
快楽に震える体がすぐさま上下を始める。
「ミーシャ……! ああっ、ミーシャぁぁ!!」
「っ……!!」
一往復するたびに脳髄を焼き切る快楽を得ているのはミーシャも同じ。だが今の彼はまだ理性が優勢にあり、残り少ない気力を振り絞り必死に抵抗していた。
左手が虚空を足掻く。なにか掴む物は無いかと探っていたが、それをシュエリーが捕えた。
「にげ、ないでぇ! わたしは……あっ! あなたを……傷付けたりしない……よ?」
シュエリーの右手がミーシャの胸に触れる。大して鍛えられてもいない胸板にはこの世全ての不条理と理不尽を背負う覚悟が宿っている。それだけの悲しい覚悟を背負わせた硬く冷たい心を解きほぐすように、シュエリーは胸を撫でる。
「もういいんだよ? もう頑張らなくたって……いいんだよ?」
「……!!」
ミーシャの右手が伸ばされる。逃れようとした左手とは違い、それは真っ直ぐ自分に跨る彼女に向かって伸び……。
「だま、れぇえええッ!」
「がっ──ぅ!!?」
シュエリーの喉笛を握りつぶす。
「誰にもォ……誰にも、俺の心を理解させない! 俺の決意は俺だけのもの……俺はなるんだ、『悪』にぃぃぃ!!」
握力それ自体はシュエリーの気道を塞ぐほどではない。だが恐ろしきはその執念。討たれるべき存在になるという決意、具現化した破滅願望の衝動が小熊に最後の力を振り絞らせている。
嗚呼、なんて悲しい生き様。
だからこそ、シュエリーはこう言った。
「頑張ったねぇ……えらいよぉ、ミーシャ」
胸に置かれていた手が小熊の頭をそっと撫でた。
最後に頭を撫でられたのは、いつだったか。
最後に自分を褒めてくれたのは、誰だったろうか。
もう、何も……思い出せない。
「うわぁぁぁああああああああああっ!!!!」
昔、確かにここにあった大切なものを黒い何かが押しつぶしてしまった事を知り、ミーシャはまた泣いた。
みんな自分から離れていく……寂しい、寂しい、本当はずっと自分のそばにいて欲しかった。でも自分は災いを運ぶから、みんなの近くにはいられなくて、みんなもどんどん離れていって……本当は、本当は……。
「うん……うん。悲しい時はいっぱい、いーっぱい泣いてもいいんだよ。ミーシャはずっと一人で頑張ってたんだから」
本当はずっと、誰かに頭を撫でてもらいたかっただけで……。
「わたしがずっとそばにいてあげる。ミーシャの手を握っていてあげる。だから、ね? 悲しまないで」
涙を拭く柔らかな手の感触に身を委ねながら、遠く異国の言の葉が小熊を癒した。
「我喜欢上你了……。一直在你身边」
呪われた小熊は、今はもうどこにもいない。
かくして呪われた小熊は断崖絶壁をひた走らずに済んだってわけだ。偽善者ってのもなかなかタチが悪いが、偽悪者も似たり寄ったりって話だったな。
劇場炎上の事件のあと、不思議なことにサーカス団に対する謂われない批判は綺麗になりを潜めちまった。王都を去ってしばらくは地方を遊行していたらしいんだが、街の連中の要望もあってすぐに戻ってきた。今じゃ年に二回、三日続けての公演も定番になってら! 今度懐と時間に余裕があったら見てきなよ、きっと損はしないぜ!
演目の目玉は何と言っても人熊猫の棒さばきよ! 続く猛獣芸も見逃せねえ! 別に俺はサーカスの回しもんじゃねえからな。
そうそう、猛獣の仕込みやってる奴なんだが、こいつがまた変わっててな。なんと全身を隈なく覆い隠した黒子が鞭を振るってるんだ。誰も顔を見ないし、そいつに触れてもいけない、触れたが最後生きては戻ってこれない……って設定らしい。
その顔無しの猛獣使いと花形のレンシュンマオはデキているみたいなんだが……あ? なに、気になることがある?
悪であることをやめたのなら、また不可思議な力で今度こそレンシュンマオは不幸な目に会ったんじゃないかって?
おいおい、お客さん! 破滅願望のある男に引っかかった女、もうそれ以上の不幸があるかね?
それに仮に不幸だったとしても、もうあの二人は離れないさ。
ほら、見てみなよ。お手て繋いで笑ってるぜ。きっと二人はもうとっくに幸せなのさ。
男は小さな町の片隅に住む夫婦に授かった子供だった。年々若者が町を去って行く少し寂れた町で、男はその年で初めて生まれた男の子として可愛がられた。両親を始めとする大人たちや、年上の少年少女に頭を撫でられるのが好きな子供に成長していった。
男は褒められるのが好きだった。両親が喜ぶ顔を見るのが何よりも好きだった。六歳で町外れの農家に出入りするようになり、町の人々が飲む牛乳を配達する仕事を始めた。来る日も来る日も遠い道のりを車を引く重労働が出来たのは、誰かに褒められたいと幼心に健気な想いを宿していたからだろう。
幼くして働き者だった男を皆が褒め讃えた。これから生まれる子供達にもお前の働きを見習うよう言い聞かせよう、そう言ってくれるほど誰もが男のことを良く想ってくれていた。毎日毎日、力仕事に従事する、少年と呼ぶにも若すぎる彼を人は親しみと敬意を込めて「小熊」と呼んだ。
精を出していたのは力仕事だけではない。自分より年下の子が病気になれば背負って隣町の医者まで連れて行き、田畑を持っている者が倒れればその代わりに収穫し、世話になった老人が眠りについた時はその墓穴を掘る作業にも参加した。自分が動くことでより多くの人々の為になる、そうすれば皆に喜んでもらえると信じていた。
男は町の誇りを謳われ、幼くして皆の感心を一身に集めることになるのは至極当然だった。
しかし、転換は突如訪れた。
始まりは、男が通っていた農家からだった。牛舎に飼われていた牛たちが謎の病に罹り、次々と死亡するという事件があった。後の世に言うところの牛疫だ。本来爆発的な感染を見せるその病が何故かその農家だけを襲い、牛や豚を始めとする多くの家畜を手放す憂き目に見舞われた。そのショックから家主は倒れ、大黒柱を失った一家は経営の借金を返せず離散、農家だったその家は数週間であばら家になった。男が仕事を始めて二年目のことである。
人の役に立つことを信条としてきた男は、次の仕事場として町の大工に弟子入りする。生来の真面目さを活かして教えられる技を素早く吸収していった。その成長速度は目を見張るものがあり、弟子入りから一年目には簡単な椅子を作れるぐらいに腕を上げ、それまでと同じように誰もが男の成長を喜んだ。両親も勤勉な息子のことを誇りに思い、惜しげもなく息子の後押しをしてくれた。
その年の冬、町は不穏な病の影が覆っていた。発熱と咳が止まらない百日咳にも似た風邪の一種が蔓延し、老若男女の別なく住民の大半がそれに罹った。と言っても死に至るような重篤な病ではなく、数週間大人しくすればそれで完治する程度のものだった。だが昼間から老いも若いも揃って床に伏せり誰も外を歩かない様はとても不気味だった。そしてその光景は、そこから先の未来を暗示していたのかも知れない。
ある日、男は師匠と共に隣町に赴き泊まり込みで仕事をした。老朽化した橋の一部を修繕するというもので、一日で終わる簡単な仕事のはずだった。実際仕事は滞りなく終わり、報酬を受け取って帰った男を待っていたのは──、
全てが炭と灰に変貌した町の姿だった。
原因不明の出火、乾燥した空気に乗って火の粉は瞬く間に町全体を覆い全てを焼き尽くした。大半が木造だった家屋は燃料以上の意味を持たず為す術などなく住人らの棺桶となり、町の人口の九割を道連れにこの世の地獄を顕現した。
死体の殆どは焼け落ちた家の中で発見された。逃げなかったのか? 否、逃げられるはずがない、彼らは皆病の身だったのだから。体力を限りなく削っていた病は彼らから逃げる力まで奪い、抗う暇も与えられないまま大火は彼らを容赦なく襲っていたのだ。そしてまるで初めからそれが目的だったかのように、人間を焼き尽くした後はそれまでの猛威が嘘だったように消え去り、後には黒焦げになったあらゆる残骸だけが残された。
田舎町を襲った悲劇を前に人々は嘆くだけだった。元々人口も少なかったところへこの火事、燃え残った瓦礫や死体の処理でさえ人手が不足した。いつ終わるとも分からぬ作業、自分達の寝泊りする場所すら確保できず飢えと寒さは彼らの心さえも蝕み始めた。
ふと誰かが聞いた、火はどこから出たかと。
この火事はそもそも謎、というより納得できない部分が多すぎた。火はどこか一箇所から広がったのではなく十数ヶ所、それもどれも屋内からの出火という証言が幾つもあった。生き残った者の僅かなそれら証言を繋ぎ合わせ導き出された答えは……。
最初に燃えていたのは男が作った椅子や家具などであることを突き止めた。
それが一つや二つなら単なる偶然と捉えられただろう。だがそれが十や二十もあったなら……偶然がそれだけ重なれば人はそれを必然と同じように扱う。
一度犯人探しが始まればそれが何の意味も実体も持たないものであっても、人々は納得を得るまで止まらない。根拠無き推論、証拠無き疑いの目は未だ十歳にも満たない男に全て注がれることになった。
犯人はひょっとしてこいつか? そう言えば例の潰れた農家にもこいつが通っていたな。
そんな謂れのない疑いが口をつくのを寸前で食い止めたのは、男のこれまでを良く知る彼らの良心だったのかも知れない。あんなに自分達の役に立ちたいと真面目に過ごしてきた彼が放火などするはずがない、と。第一火事が起きた時には男は仕事について隣町まで行っていたじゃないか、それに農家の牛は病気だった、まさか子供が病気を引き起こしたとでも言うのか。
そんな常識的な反論を心中で繰り返せる程度にはまだ余裕があった。それに男自身もこの火事で両親を失っていることを思うと、心無い中傷を面と向かってする者など皆無だった。少なくともこの時点では……。
すぐにそんな余裕は崩された。
季節外れの大雨が降り始めたのはその直後のことだった。まだ家屋を建て直すどころか瓦礫の撤去すらままならぬのに、追い打ちのような雷雨が町の上空のみを覆った。風と冷水で体温は急激に下がり、奇跡的に逃げおおせた者は病を再発し次々に倒れていった。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、全てを失った自分達に対する神の所業を皆が呪っていた。
このままでは皆の命が危ない、そう危惧した男は隣町に避難することを提案した。雷雨はこの町のみに降り注いでいるが隣町は影響を受けておらず、そこで一時的にやり過ごそうと言った。二つの町を繋ぐ橋は修繕を施したばかり、川面までの距離もある谷に掛かっているので濁流に流されるという心配もないはずだと説得した。
隣町は川を挟んだ向こう側に位置し、少し遠いが背に腹は代えられないと皆が男の提案を呑んだ。動けるものだけを選別するという苦渋の決断の後、比較的若い者のみで構成された集団は隣町を目指して移動を開始した。憎らしい雨雲は追い風に乗って彼らを追い、距離を歩けば歩くほどに雨足は更に激しさを増していった。この季節はこんな方角に風など吹かないはずなのに……。
無限にも思える行軍が続き、やっとの思いで一行は隣町に続く橋までやってきた。橋は無事だった。当然だ、これを修繕するためについ最近まで作業をしていたのだから。
元々行商の列も通るからこの人数でも大丈夫、そう考えながらぞろぞろと橋を渡り始めた。言いだしっぺの男は先頭に近い場所から師匠と共に各部を点検しながら移動し、程なく男は橋を渡り終えた。
安堵と共に二歩三歩と歩いたところで雨足が弱まっていることに気付き、ふと空を見上げれば、曇り空を照らす青白い閃光が見えた。
それが稲妻と気付いた時、男の背後を雷光が貫いた。
火炎など比にならない全てを穿つそれは、まさに光のギロチン。まだ渡る途中だった人々を乗せた橋は刹那で断頭台に変貌し、まるで見計らったかのように橋に最も多くの人間が差し掛かった瞬間に……そして、男が渡り終えた時に落雷した。
刹那の地獄は橋上の十数人を瞬く間に殺戮し、消し炭となった彼らは断末魔の叫びも上げぬまま川底へと墜落した。辺りは人肉を焼いた異臭が立ち込め、止みそうだった雨は一転し再び盆をひっくり返したような豪雨になった。
偶然も二度三度続けば必然となる。牛疫の農家、原因不明の病とそれを狙ったような大火事、そしてこの橋の上……もはや疑う余地など無く、その全ての状況に関わりを持っている一人に目が向けられる。
“やっぱりそうだ……。こいつは!”
“呪われてるんだ! 町に災いを運ぶ疫病神なんだ!”
“消えろ! 去れ、悪魔め!! 二度と姿を現すんじゃない!!”
加護や呪いが迷信ではなく現実に存在するこの世界で、それを持つ者は前者は賞賛を、後者は忌避を持って見られる。だがどちらも自分達には無い力を持つ者への恐れが多分に含まれており、最後に辿り着く場所は同じだ。即ち、マジョリティに反するあぶれ者として排斥されるのだ。そこに善悪など関係ない、一度異端者と認定されてしまえばそれこそが排斥の理由そのものとなる。
自己の生存と異物の排斥、この二つが組み合わさればほんの数時間前まで親しくしていた者でさえ簡単に石持って追い出してしまう。例えその相手が十にも満たない子供であろうとも……。
「違う……違う、おれのせいじゃない! おれは何もしちゃいない!」
背中を襲う石礫が届かなくなるまで男は走った。道なき道を突っ切って、普段通る道ではなく林を真っ直ぐに横切って隣町に駆け込んだ。隣町の人々もこちらの惨状を聞いていたのか、男を暖かく迎えてくれた。
だが男はここに長居するわけにはいかなかった。こうしている間にも橋を渡った者たちもここへ来る、そうしたらまた石を投げつけられてしまう。それだけが怖かった。
しかし、結果的に男のそれは杞憂に終わった。
避難民を迎えに行った者たちが確認したのは、崩落した橋から町までの僅かな距離の間に身ぐるみを剥がされ打ち捨てられた骸の山だった。
男が行商や旅人を狙った賊の襲撃から逃れられたのは、奴らが待ち構えていた道を通らなかったからだ。
誰もが男を幸運な子だと持て囃した。だが男は知っていた。自分が幸運なんじゃない、水が低きに流れるようにより運の悪い者へと厄介事がなだれ込んだだけに過ぎないと。そしてその原因が恐らく自分自身にあるということを。
男を受け入れた隣町もまた、徐々におかしくなり始めた。
狩りに出かけた猟師は熊に襲われ、妊婦は馬車馬に突然蹴られ、それまで治安の悪くなかった場所にも盗賊が出始めるようになった。それらの被害者は皆例外なく死に絶え、たった一ヶ月で町の人口は半分に激減した。それらが全て自殺や事故、病死、下手人がはっきりしている他殺などだった。だが人々はやがて気付く……頻発するそれらの被害者全員が何らかの形で男と接触していたことに。
すぐさま男は捕えられ、町一番の教会へと連行された。男にとって幸運だったのは、その教会には人に加護や呪いがあるかを判別する能力を持った神父が赴任しており、問答無用の魔女裁判が行われる心配が無かったことである。
しかし、その「幸運」こそ……。
男にとって最大の「不幸」の始まりだった。
人々の勝手な風評は凄まじかった。あの場に居合わせた者なら誰から見ても明らかな事故、なのに世間での悪評は止まることを知らず、「サーカス団は夜な夜な客を猛獣に食わせていた」と号外に書かれる始末だった。挙げ句の果てには団員らのあることないことを書き連ね、特に槍玉に挙げられたのは団員の実に三分の一を占める魔物娘たちだった。
空中曲芸のハーピーは拐かした客を人身売買している……。
ジパング出身の妖狐は貴族の愛人である……。
元騎士のデュラハンは殺人鬼で今までに五十人以上殺している……。
挙げていけばキリが無いが、どれも風説や噂の域を出ない何の証拠もないデタラメばかりだった。だが民衆にとってはそれが真実か否かなど然したる問題ではなく、耳に届く全ての言葉は自覚的に、あるいは無自覚の悪意によって加工されて口から排出されていく。人の不幸は蜜の味、悪意の悲劇を第三者の視点から見るのは最大の娯楽と知る故に、彼らの下品な欲求を止められはしない。
そうした娯楽を背後から操る存在が存在するとは知りもしないで……。
だがそうした悪意の流布とは別に、奇妙な噂もあった。
件のサーカス団の近辺を全身を覆い隠した謎の覆面男が徘徊し──、
「それって、もろ俺の事じゃん?」
例のごとく仕事を抜け出して路地を行く彼は、耳に飛び込むそれら噂に対しぶつくさ文句を垂れていた。自分だって好きであんな格好をしている訳じゃないと、いい気になって噂を流している連中に言ってやりたい気分だった。
今日この日、とある吸血貴族の屋敷を取り囲む王国の兵士あり。屋敷の周辺に陣取る彼らをどうにかしてどかし、その吸血鬼を連れて抜け出るきっかけを作れと言うのがミゲルからの命令だった。
「簡単に言ってくれるよな。俺ってば荒事は苦手だっつってんのに」
ああ、荒事は苦手だ。体はそれほど鍛えていないし、武器の扱いはもちろん徒手空拳の腕など街中のチンピラにも劣るだろう。しかも武装さえしていない今ほいほいと出ていけば、瞬く間に兵士に身柄を取り押さえられるだろう。
こんな風に。
「あでっ、あででで! ちょ、ちょっと待って! 待て待て待て待てっ、分かった! 分かったから! 違うんです、普段お国のために働く皆様を労おうとハイ嘘ですごめんなさい! アァ、人の関節はそんな方向にギャー!?」
国の重要人物が軟禁されている場所に出ていき兵士たちに「おう、元気でやってる」なんて肩を組めば当然だ。すぐさま不審人物として組み伏せられ、頭を押さえられ手も肩の間接を極められる形で地面に突っ伏したのが僅か二十秒後のことである。これがミゲルなら大立ち回りを演じるし、自分達の中には五秒で血の河を作る者もいるが、一度に取り押さえに来る二十人を相手に正面から迎え撃てなど出来るわけがない。別にミーシャが特別弱いということではないのだ。
だが勘違いしてはいけない。ミーシャは彼らを「倒す」ことはできないが、「排除」することは出来るのだ。それには十秒も五秒も、一秒だって掛からない。触れてしまえば全てが終わる。
本日のミーシャの服装。
半袖。
半ズボン。
マスク、無し。
帽子、無し。
包帯、無し。
彼の素肌に触れている人数、多数。
「ウッ……!?」
変化は急激だった。突然ミーシャを押さえていた兵士の一人がうめき声を上げて後ずさり、よろよろと民家の壁際まで歩くと……。
「う、げぇええええええええ!!」
盛大に胃の中身をぶちまけた。未消化の物だけでなく、今まさに湧き出ている胃液も全て出し尽くす勢いで兵士は嘔吐し続けた。
何事だと隊長らしき男が様子を確認しようと近付く。そして更なる被害者が出る。
「あぁ、あああぁぁあああぁ……」
実に情けない声を上げて倒れる兵士数名。皆なぜか内股で、一様に腹と臀部を押さえている。腹痛かと覗き込んだ隊員らの鼻に漂う悪臭は……。
「おー、くせーくせー。ゲロとクソと小便を同時にぶちまける気分はどうよ?」
その名、コレラ。インフルエンザ、ペストと並び、最も多く人類を死滅せし病魔の使徒。胃と腸内の水分を強制的に排出させられ、肌も萎むほどの脱水症状はヒトを三日で確実な死に至らしめる。
不治の病に罹った隊員を別の場所に収容する必要に迫られ、ミーシャの思惑通りに彼らは現場を離れざるを得なくなった。その隙にミゲルと吸血姫が屋敷を離れる。
「じゃあな、リーダー。お姫さんを送り届けたらまた落ち合おうや」
「ミーシャ、分かっていると思うが私の不在中は……」
「承知してるって。そっちが戻る頃にはこっちも仕事終わらせるさ。そしたらいつもの格好に戻るよ」
「分かっているならそれでいい。では行きましょう、閣下」
変装したミゲルと吸血鬼の姫が街の喧騒に消えるのを確認し、ミーシャも自分の目的地へと向かうことにした。
できるだけ人と会わない路地裏を選んで通り、たまに飛び出してくる子供たちを絶妙なタイミングで回避しながらその足は確実にサーカス団へと向かっていた。
別に肩がぶつかったところで全面的に困るのは向こうなのだから気にする方が阿呆なのだが、そうは言ってられない事情がある。
さっきも述べたように、ミーシャ自身が発生する災厄を決めている訳ではない。分かっているのは触れた人間が最終的に死ぬことと、同時期に触れた人間を一度に死に追いやる何かが起こるという事だけである。
例えば大地震やそれに連動する火災など、多数の人間に確実な死を与えるだけの現象が発生する。当然そうなれば被害を受けるのは接触を受けた者だけには限らず、予測困難な事態が多発してしまう。つまり、下手に大勢の人間と接触すればこちらにも二次被害が及ぶ可能性もあるのだ。ミーシャ一人に掛かる時間と労力を問わなければ、彼単独で国の首都機能を完全ダウンさせることも出来るだろう。だがそれでは国家解体という目的は成し遂げても、教会は貴重な戦力まで失うことになりかねない。
「結局、いつもの服装とやってることは変わらないんだよな、っと。見えてきたな」
ちょうど都合よくテントの裏手に出て来れた。以前と違い公演も行っていないせいか物静かで、小道具や動物を入れていた檻もテントの中に仕舞われてすっきりした状態だった。面倒なのは動物の世話をしているはずのシュエリーの姿が見えず、恐らく中にいると推測できた。
これがゴードンなら躊躇なく中に入って数分後には仕事を完了しているのだろうが、中途半端な仏心を起こしたミーシャは極力無関係の者まで巻き込むのは避けたかった。と言って、実際は面倒な事態に発展するのを避けたかっただけだが。
だが謹慎を命じられている彼らが外に出る機会が無いことぐらい重々承知していた。ミゲルにはああ言ってしまったが、これはひょっとすると長丁場になりそうだ、
「どーすっかなぁ」
「なにがー?」
「あのテントの中に入る方法だよ」
「ふ〜ん」
「…………」
「……?」
「……え、何してんの?」
「お買い物〜」
いつの間に背後に回っていたのか、そこには今まさにミーシャが目的とする人物、レンシュンマオのシュエリーがいた。手にはパンを詰め込んだ紙袋を抱え、自身が言ったようについさっきまで買い物に出かけていたことが分かる。
「サーカス団員は謹慎の身って聞いてたんだが」
「うん。でも食べないと死んじゃうよ?」
「まあ、お上も飢え死にしろとまでは仰ってないからな。それにしたって一番目立つお前さんが出てってどうするよ」
「? あなた……どこかで会ったことある〜?」
「はあ? 何言って……ああ、この格好で会うのは初めてか」
両手で口と額を隠し、目元だけを覗かせる。すると記憶に符合する顔を思い出したのか、首を傾げていたシュエリーの顔が輝く。
「あー! ミーシャ! 今日は涼しい格好だね〜」
「覚えててくれてありがとよ。そっちは相変わらずモフモフな毛だな」
「えへへ〜。触る〜?」
「いや、今は遠慮しておくよ。それより、何と言うか……災難だったな」
「うん……」
少し気まずい沈黙が降りる。つい昨日まで盛況だったサーカスも今は静かになっており、その寂れた裏手をしばし二人で眺める。
ふと、シュエリーが口を開いた。
「あの子はねぇ、わたしが入団した時から一緒にお仕事してたの。こんな小さな頃から一緒だったんだよ」
「熊同士、気が合ったのか」
「うん……」
やはりあの時ミーシャの服を破った際に熊も触れてしまっていたのだろう。畜生に自分の境遇の幸不幸を判断できるとは思っていないが、それでも気の毒なことをしたと感じてしまう。
「伤心……。とっても、悲しいぃ」
「……運命なんだよ。誰が悪いわけでもない、なるべくしてそうなったんだ。熊も、あのおっさんも……」
「運命?」
「そう……起こってしまった事柄に理由はない。あるとすれば、それは『きっかけ』だけだ。直接的な原因はこれこれこうだった……それで、はいお終い」
水は低きに流れる、それを一番良く知っているからこそミーシャは自分で理由を求めることを止めた。何故そうなったかではなく、何が原因でそうなったのか、それを知っている故に彼はそれ以上の追及は決してしない。
代わりに待っているのだ。愚鈍で蒙昧な彼らが、いつか必ず真実に気付けるその時を……彼は待つことに決めた。そして未だその真実に到達した者はいない。
「でも……それって、とっても悲しいことだよ?」
「そうでもない。人は忘れる生き物だ。多分、魔物のあんただって忘れることもある。だろ? 五年や十年前の昨夜何を食ったかを忘れるように、誰だって皆忘れちまえばハッピーなのさ」
「なら、ミーシャはどうして悲しい顔をしてるのぉ?」
指摘による動揺を隠すためか身じろぎしてわざとらしく咳払いする。これだから獣人系の魔物とは関わりたくないのだ、彼女らは揃って勘が鋭い。
「ミーシャは……忘れられないの?」
「……別に。忘れられないことの一つや二つあるだろ」
「さっきと言ってること違うよ〜?」
これがからかい半分で言ってくるんならミーシャもあしらえるが、屈んでこちらを覗き込んでくるその表情はとても不安そうで、心の底からこちらを心配していることが見て取れる。
この顔が恐怖と絶望に歪む様をミーシャは何度も見てきた。それらを一朝一夕で忘却の彼方に追いやれるほど図太い神経には出来ていない。
頭の隅にこびり付いていた記憶が呼び覚まされていたミーシャの眼前に、ずいっと何かが近付けられた。香ばしい焼きたてのパンの香りが鼻に広がる。
「これあげるね〜」
「おい、これって団員の食事だろ?」
「いいの、いいの〜。そうだぁ、一緒に食べよう。ね?」
純真な疑うことを知らない心がミーシャに近付く。その行為が食虫花に誘われる羽虫の如きとは微塵も知らずに、彼女の大きな熊の手が……。
「行こ」
ミーシャの手に触れた。
「……ああ、行こうか」
ミーシャは右手に毛皮の暖かさを感じながら、ミーシャはシュエリーに手を引かれてサーカス団へと足を踏み入れた。
勝手に入っていいのかと思ったが、会場内は人っ子一人おらず、団員は寝床を兼ねた馬車の中で酒や賭け事に興じているようだった。たまに掃除に来る奴もいるが部外者のミーシャに対しても大らかで、問答無用で追い出すことはしなかった。それどころか聞いてもいないのに今まで公演した場所でのことや、自分達の昔話などを語ってくる。
「おや! 珍しいな、シュエリーが男連れ込んでんぞ!」
「うそだろ!? あのお堅いシュエリーがかよ!?」
「だれだれ? どんな人!?」
すると話を聞きつけたのか手空きの者が何人もやって来ては物見遊山とばかりにミーシャに寄ってたかる。どこから来た、とか。職業は、とか。シュエリーとはどんな関係だとか、まあそんなある事ない事を聞かれまくった。
しばらくわいわいと談笑していると、話題はそれぞれの過去に向けられた。そうなると必然、話の流れでミーシャにもしつこいぐらい昔の話をねだられる。同じ釜の飯ならぬ、同じ店のパンを食べた者同士のよしみとでも言うのだろうが、自分の昔語りなど単なる不幸自慢……いや、「幸運自慢」にしかならないと知っている。そこで好機とばかりに話題をシュエリーに逸らした。
「そっちのシュエリーはどうなんだよ。東の大陸から来たってもっぱらの噂だけど?」
「おうおう、聞いて驚きなよミーシャの旦那ぁ! こいつこんなトボけた面してるがな、向こうじゃあお国付きの外交官様だったんだぜ? 信じられるかよ!」
「へえ、そりゃすごい」
「昔の話だよぉ」
どうやら隠している訳ではないらしい。これで八年も行方を掴めなかったと言うのだから、教会の密偵の腕も程度が知れる。とは言え事後にはなってしまったが事実確認はできた。これで遠慮なくここで「事故」を引き起こせる。
「それにしても、外交官か。お給金に不満でもあったのか?」
「職務怠慢とやらでクビ切られたんだとさ。まあこいつはこんなおトボけた面しちゃいるが、根は真面目さ。だからどうも職務怠慢ってのがピンとこないわけよ。そこんとこどうなんだよ、シュエリー?」
「つーん! 人の過去を勝手に喋る人には話しませーん」
「あらら、嫌われたな」
「そういうあんたはシュエリーに気に入られてるな。こいつってば見た目はこんなんだが浮ついた話なんて全然ないんだぜ?」
一度シュエリーの話になると皆もその話題に夢中になる。それはつまり彼女が団員から愛されているという証拠で、人や魔物という以前に彼女の魅力がそうさせている証だった。
ふと、遠い過去に置き去りにしたはずの記憶と重なって見える。そんな可能性など有り得ないと捨てたはずの憧憬が無遠慮に視界に広がってしまう。
だから、断ち切れねばならない。
「なあ、みんな。ここでこうして出会えたのも何かの縁だ。互いの親交の証に、ここはひとつ握手をさせちゃくれないか」
それをきっと、人は「悪意」と呼ぶのだと思う。
誰が持ち込んだのか酒を飲みながらの談笑は何時間も続き、客席や床には空になった酒瓶がいくつも散乱、散々酒宴を楽しんだ団員らは完全に潰れていた。
「普段はここまで呑まないんだけどね〜」
泥酔して眠りこけている彼らを片腕で軽々と抱え、客席に座らせていくシュエリー。その様子を自身も酒の回った赤ら顔で見つめるミーシャ。今ここで言葉を交わしているのは最初の二人だけだった。
「呑まなきゃやってらんないんだろうさ。こんな状況だし」
「そうなのかも〜」
全員を片付け終えたシュエリーがミーシャの隣に戻る。昨日今日の間柄なのに、なぜかこれが互いの定位置に思えてくる。少なくともそう感じられるぐらいの距離に二人はいた。
「さっきからずっと聞きたかったんだ。何だってあんたは俺に興味を持つのさ。魔物特有の一目惚れってんなら、お門違いだから他所行ってくれ」
「……似てるの。わたしに」
「あんたに?」
「わたしはね……期待に応えられなかったの」
霧の大陸は遥か昔から戦乱による興亡が絶えず繰り返されてきた。強ければ生き、弱ければ死ぬ、自然界の弱肉強食を今に引き継ぐ修羅たちがひしめき合い、誰も彼もが覇権を握らんと競い合う群雄割拠の煉獄の世、それが霧の大陸の内情である。
敵は打ち倒し支配するもので、決して和解や併合による解決はないとするのが常。そんな国々でシュエリーら外交官の仕事とは、戦乱を収める調停員としてではなく、政治的外圧やスキャンダルにより更なる火種を生み出す事にこそあった。和平を結ぶふりをして敵国の将軍を篭絡し、後宮に仕える身分に扮し情報を第三国に流したり、実態は完全にスパイだった。
シュエリーが真っ当な外交官として仕事を成功させたのは、西側諸国との不可侵条約締結のみ。海外勢力の介入を嫌う大陸の国々の思惑が一致したからこそ実現したことだが、内部での仕事の全ては「失敗」に終わり、国同士の戦乱は拡大の一途を辿った。
レンシュンマオは平和を好む穏やかな種族、だからこそ彼女は唯一無二の強者を決める果て無き戦いを憂い、ある時ついに……。
「お国の密命に逆らい敵国との和平を『成功』させちまった……か。本当は相手が反発するのを口実に攻め込むはずが、それが出来なくなったと。あんたが応えられなかった期待ってのは、命令に背いた国のことか」
「ううん……違う」
戦乱の続きを期待していた国ではなく、戦乱の終わりを切望していた民衆にシュエリーは応えたかった。戦乱の長期化により疲弊するのは結局民草だけだ。国を支える為の重税を課され、戦が始まれば人手として駆り出され、国を侵す者達が真っ先に狙うのも彼らだ。彼女が幼い頃を過ごした竹林も戦火は容赦なく焼き払い、今は何も残っていない。そんな戦乱にあえぐ彼らの希望を現実にしたくて、血の滲む努力の末に敵国との和平を勝ち取った。
長く続いた戦いの終結を民は喜んだ。彼らの暮らしを守ることが出来たのだと、故郷を失う悲しみを覚えさせずに済んだのだと安堵した。
だが、密命に背いた彼女を国は許さなかった。
表向き失敗に終わった過去の条約締結を今更になって引き合いに出し、戦乱が長引いた責任を追及された彼女は国にいられなくなった。民が望むものと国が望むものは必ずしも一致せず、自身が国家に反逆した罪で問われる前に逃げ出した。その後国は彼女が必死の思いで結んだ和平をたった二年で反故にし、民は再び泥沼の戦乱に引きずり戻された。
「んで、あんたは戦争が今も続いてるのは、そん時自分が逃げ出してしまったからーとか思ってんの? 自分が逃げずに残ってたらどうにか出来たのにーってか?」
「何か出来たんじゃないかな〜って、そう考えちゃう時があるの。でもその時はいつも何も出来なくて逃げ出したことが……自分で自分の居場所をなくした事が、とても、とても、悲しくなるの」
「……月並みな言葉だけど、あんたは悪くないはずだ」
「ありがと。でも、ミーシャはわたしと同じ目をしてる。ミーシャ、あなたも……自分の居場所をなくしちゃったの?」
「…………っ」
針を打ち込まれたように僅かに顔をしかめる。
これだから勘が鋭いくせに鈍感な獣人系は嫌いだ、目ざとい上にズカズカと人の内側に入り込んでくる。別に心の内を暴かれたり、その心理を勝手に共感されることに対して羞恥的な憤りを覚えるわけじゃない。そんなことで顔を赤くして拒絶するほど子供ではない。
ミーシャの内にあるのは、苛立ちだ。歯がゆい思いに頭を乱暴に掻きながら大きな溜息を漏らす。
「はぁー……どうして分かんねえかなぁ」
「ミーシャ……?」
「別に……。ただ、思ったより賢くないんだなって思っただけだよ。あんたと俺が同じ? バカ言うなよ。あんたほどの奴が、何をどうすれば俺なんかと同じになる。寝言は寝て言えよ」
「ミーシャ?」
「あんたは曲がりなりにも期待に応えられた。けど俺はいつまでたってもそれが出来ないでいる……なんでか分かるか。この十年ちょい、今まで誰一人として俺に『期待』してくれないからだ。当たり前だぜ、掛けられもしない『期待』に応えられるほど俺も器用じゃないんだからな」
ミーシャが何を言いたいのか分からず戸惑いだけが満ちていく。そんな彼女の動揺を見抜いてかミーシャも薄ら笑いを浮かべ薄気味悪い雰囲気が周囲に漂う。
ふと、風が吹いた。テントは閉め切られているはずだから風など無いはずなのに、どこからか入り込んでくる大気の流れ。シュエリーの発達した嗅覚はその風に含まれる不穏な気配を察知できた。
「この臭い……?」
「あぁ、今回はそういう趣向なのね。大方、誰かの不始末ってとこか。そんじゃ俺はそろそろお暇しますかね」
「あっ、ミーシャ!」
焦げ臭い臭気から事態の顛末を予測したミーシャは自分だけさっさと席を立って去ろうとした。火事が起きているのだとすれば一人で動くのは危ないと呼び止めようとしたシュエリーだが……。
浮かせた腰を阻むものがあった。胸と腹を押さえつける不可視の何かが彼女の体を席に縛り付けていた。
「なに、これ!?」
「あんまりトロいもんだから、ちょいと仕掛けさせてもらったぜ。本当ならこんなことしなくたっていいんだが……悲しいけどこれ、お仕事なんだよな」
ここに月の光でも差し込んでいればミーシャの五指から伸びる五本の細糸に気付ただろう。東方の毛倡妓の髪をベースにアラクネ種の粘着糸を乾燥させた物を編み込んだ、魔道師イルムの作りし小道具の一つ。目で捉えることすら難しい微細な糸。本来それは首に巻き付けて窒息と斬首を兼ねる暗器なのだが、そんな物に頼らずとも目の前で勝手に相手が息絶えてくれるミーシャにとっては無用の何とやら。
ならばこれは何のための装備なのか。決まっている、相手を確実に「事故死」させるための拘束具だ。
「あんたにはここで確実に死んでもらう。あんたに昔都合の悪い事実を握られたと思い込んでる連中がいてさ、まあ災難だと思って諦めなよ」
「ミーシャは、最初からそのつもりで……」
「いいや、昨日あんたと出会ったのは偶然だよ。でもそうなるとあんたの運命は昨日の時点で決まってたことになるな」
会場には遂に臭いだけでなく黒煙が立ち込め天井付近は毒気が行き場を求めて充満し、その勢いは一秒ごとに尋常ではない速度で増していった。奥の方からは煙の発生源である火がテントの布地や小道具を燃やし、そちらもいずれこの空間を焼く大火になることが容易に想像できた。
黒煙による窒息死か、猛火による焼死か、どちらにせよこのままここに居れば全員が死ぬのは確実だ。その前にせめて他の団員たちだけでも逃がそうとするが、開きかけた口をミーシャが塞ぐ。
「待てよ、ここの連中はさっきまで呑みまくってたんだぜ? そんなんで火事だーって騒いでみろ、昨日のおっさんみたいに全身の骨バッキボキになってお陀仏だぜ。どうせ同じ死ぬのなら気持ちよく眠ったまま逝かせてやるってのが人情だろ」
「まさか、あの人のことも?」
「だーかーらー! 偶然、たまたまだって言ってんだろ。仮にあのおっさんとここに居るこいつらの共通点が『俺に触ったから』っつって、それで俺のせいで死んだなんてどうして言い切れる。お門違いも甚だしいぜ」
わざとらしい、口では自分じゃないと言いながらその実、いかにも自分こそが下手人だと吹聴するような物言い。言葉を聞いた者ならばこの状況を仕組んだのが彼であると理屈抜きで確信するだろう。そしてシュエリーもまたミーシャこそが犯人だと確かな自信を得ることになってしまった。
だが、それと同時に不可解なこともある。
「本当に……済まないと思ってるんだぜ? ああ、かわいそうになぁ……あんたは何にも悪くねえのになぁ」
自分のせいじゃないと嘯きながら、同時に彼は罪悪感を覚えている。煽りや嫌味ではなく、心の底からこうなってしまったことを悲しんでいる。無視できない齟齬、矛盾、意図不明の言動はまるで何かを狙っているようでもあり、その不透明な言葉と行動の不一致が今度はシュエリーを苛立たせた。
自分は悪くない、だけどこうなってしまったのは責任がある、でも一番近くにいるのにしてやれることは何も無い……一体こいつは何がしたいんだと誰もが感じることだろう。
「ミーシャは……何がしたいの?」
「何もしたくない。むしろ、何かをして欲しくてウズウズしてる。あの雨の日から、教会に突き出された時からずっと、俺はずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずーっと、気が違うほどずっとずっとずっとずっとずっとずっと前から、ああそうだよ待ってるんだよそうなんだよ。何でどうして誰も気付こうとしない、気付いてるはずなのに何だって知らないフリするのかなぁ」
タガが外れたようにまくし立てる様は狂気のそれだが、ミーシャは狂気に浸かってはいない。狂気とは意志の発現、心の強弱、それがある方向に向きある一定のラインを越えて初めて形を成すもの。狂信の暗殺者とは違い自ら動くことを止めたミーシャに狂気は降りてこない。彼はどこまでも「異常な正常者」で、欲しがるだけの一般人でしかない。
だからこそ彼はこの現状が我慢出来ないでいる。早く早くと急かしても一向に動こうとしない連中に苛立ちを隠せずにいる。欲しがるモノをいつまで経っても貰えない子供のように。
「チャンスをやってもいい」
不意にそんな事を言い出した。目的は何だと訝しむシュエリーを放置して勝手に話が進む。
「俺の『なりたいもの』を当てられたら、それを解いてやるよ。後は自分の運に賭けて一人で逃げるも良し、酔い潰れたこいつら引っ張って行くも良し、お好きにどうぞ。タイムリミットは火がこっちに回ってくるまでだ」
自分の力に絶対の自負があるからこその余興とでも言うのか、どうせ答えられない、あるいは逃げられやしないと高を括っている。もうその顔にさっきまでの罪悪感はなく、一転して面白い見世物でも見ているような愉快そうな表情でシュエリーを哂う。「答えられるものなら答えてみろ」と言っているようだ。
熱くなる頭を抑え、シュエリーは悩んだ。彼の「まっとうに倒錯した」その精神を理解するには一朝一夕では到底時間が足りず、恐らく当てずっぽうでは決して納得を得られない手合いであることは充分に分かっていた。彼の単調に見えて複雑な心理を解き明かす鍵を拾い集めようと、普段使わない呆けた頭を必死に回転させた。
そもそも彼は何の目的でここにいる? 触れただけで相手を死に追いやるのなら適当な理由をつけてこの場を去ればいい。だがそうしないのは何故だ。
自ら死を与えた人間の最期を看取るつもりか? いや、彼はそもそも自分で死を与えたつもりはないと強弁している。それにそんな高尚な精神を持ち合わせているような輩ではないことぐらい、誰にだって想像がつく。
大病を患った者の耳元で、「お前は死ぬぞ」と連呼しているようなものだ。そんな輩が抱く目的など嫌がらせ以外の何ものでもない。つまりそこに介在しているのは純然たる悪意でしかない。
「ほぉらほら、もう時間がないぞー? 早くしないと俺も焼け死んじゃうよー」
「っ!」
火はその速度を緩めることなく円形会場を舐めるように燃やし尽くし、ミーシャの内なる悪意を表すようにシュエリー達を確実に追い詰める。仮に火がここまで来なかったとしても、焼け落ちたテントの下敷きになるのは明らかだ。そうなれば当然シュエリーや団員たちだけでなく、事の発端となったミーシャも同じ運命を辿るだろう。
徐々に迫り来る炎と熱された空気が焦りを加速させる。自己保存の本能が脳の中を原初の感情で満たす。それは即ち生命の危機に対する恐怖と、今この状況に己らを追い込んだ者に対する怒りだ。すぐ隣で軽佻な薄ら笑いを浮かべているミーシャに対する怒りが腕を動かそうとするが、食い込んだワイヤーがそれを抑え込んで離さない。その様子を見て更にミーシャが愉快そうに哂う。
「無駄無駄ぁ。やめなって、みっともない」
「……ぅぅ。許さない……我可真的不原谅你哦ォォォー!」
「ははっ、何言ってるか全然分かんね。けど……あんたがすんげぇ怒ってるってことだけは分かったよ。んで? あんたは俺をどうしたいのさ? 顔真っ赤にして肩プルプル震わせて、その力んだ腕はどうしたいのさ? って、そんなんじゃ答えられないか。じゃあ特別にちょいとだけ緩めて……」
その意図を確かめようとミーシャの指が糸を操り、雁字搦めにされていたシュエリーがある程度の自由を得た。
瞬間──、
「──ごぼッ!!?」
サーカス団で軽業の一環として間接を操る技を持ったシュエリーは瞬時に肩を外し、緩んだワイヤーの隙間から熊の豪腕を突き出した。人間を越える膂力、しかも獣人系の腕力を顔面で受け止めたことでその体は重力を無視して客席を飛び出し、今まさに燃えているステージの中央まで吹っ飛ばされた。偶然か必然か、これだけ燃え広がっているにも関わらずミーシャが落ちた場所だけなぜか燃えておらず、彼の身は未だ無事だった。
「おぉーっ、痛ぇ! 痛ぇなあ! 思いっきり殴ってくれちゃって……」
「ミーシャが悪いんじゃない! どうして、どうしてここまでヒドいことができるの!? この人たちを弄んで、それで……何が面白いの!!」
「ああ、面白いね。面白くて涙がちょちょ切れそうだよぉ!! こーんなに俺が大っぴらにしてやってるってのに、お前ら誰一人として気付かないってかぁ! 嘘だろ、冗談も大概にしてくれよ! 俺バカだからよぉ、はっきり口にして言ってくれねえと分かんねえんだよ」
炎がミーシャの周囲を取り巻くが、まるで意思を宿したかのように決して彼に燃え移ろうとしない。彼の悪意から発生したからこそ、発生源である彼を害せないとでも言うのだろうか。
「でもまあいいか。俺をぶん殴ったってこたぁ、そりゃつまり『そういうこと』でイイんだな。糸も切れちまったし、恥ずかしがっていつまでも答えを言わないシュエリーちゃんに模範解答くれてやるよ」
両手を上げ、パチパチと炎が木々を焼く音を拍手代わりに、小熊は高らかに宣言した。
「俺は、『悪』になりたい」
「悪……?」
漠然とした、それでいて確かにそうと答えたミーシャの真意を計りかねる。
そも、「悪」とは何だ?
「侮蔑され、拒絶され、罵倒され、嘲笑され、軽視され、あらゆる存在に害を与え、あらゆる存在に不利益を撒き散らす、存在そのものが誰の為にもならないマイナスの塊……それが『悪』。俺がこの十数年、焦がれに焦がれ続けた称号だ。誰からも認められず、誰からも必要とされず、誰もが排したいと願う、そんな存在に……俺はずぅーっと成りたかった」
陽の光を浴びる輝かしいモノではなく、唾棄すべき汚濁に塗れた存在への憧れ。それが小熊の内に眠る悪意の正体。それが彼自身の力と融合した瞬間から、彼は多くの存在にとって看過し難い悪性腫瘍へと変貌を果たした。もはや彼は歩く毒沼、意志を持ち悪意を以て害を為す生命の敵対者へと進化してしまったのだ。
「てめえらバカばーっか!! ここにこんなご立派な悪の権化がいやがるってのに、揃いも揃って節穴ばっか、目ん玉どこ付いてんだ!? ああ、だからか! そんな鈍っちい脳足りんな頭がお弱いさんだから、俺みたいな奴のアホみたいな運命に引っかかるのか! 納得したぜ、災難だったなぁ! 全部ぜぇんぶ! てめえらのせいじゃねえか!! そんな目にあってるのも、今死にそうなのも、皆みぃーんな、自業自得ってやつだぁ!! ハハハ、可笑しくって笑いが止まらねえや! ヒャーハハハハハハハハァ、ハーッハッハッハッハッハッハ!!」
「……ッ!!!」
「おやおやぁ? シュエリーちゃん、どしたのぉ? 仲の良い皆のことバカにされて頭に血が昇っちゃったかなぁ? でもキミだってその『おバカ』な連中に入ってんだぜぇ? 『ミーシャはわたしと同じ目をしてる』、『あなたも自分の居場所をなくしちゃったの?』……っぷ、ププ、クススッ、ギャーハハハハハハハハッ!! ちょいと陰のある優男演じたつもりが、シュエリーちゃん的にはドハマリってかぁ? そいつはざんねーん、嘘ですよーぅだ!!」
「あなたは……ッ、わたしの心を……!!」
「だぁーかぁーらぁー、お優しいシュエリーちゃんはいつまでイイ子ちゃんぶってるんだよ? 目の前の諸悪の根源を止める方法なんざ、もう何十通りも思いつく時間をやってやったろ? だったらよぉ……このピーチクパーチクうざったい口を止めたいだろ、なあ? なあ? なぁあ!?」
シュエリーの胸に天井に充満する黒煙と同じくらいドス黒いものが充満する。全てを投げ打って平和をもたらした故国が再び戦乱に立ち返ったと聞いた時、それ以上の義憤が今の彼女を突き動かす原動力となっていた。相手が理由なき悪意によって害をもたらすなら、自分は根拠ある義心によってそれを断つ……それが「正義」と呼ばれるものだと信ずる故に。
熊の手が客席を組み上げる角材を無理矢理引き抜く。ヒトを黙らせるには充分、そこに魔物の怪力が加われば打たれた部分は微塵に砕け散るだろう。それを両者ともに十二分に理解できている、理解した上での相対である。
「やっとかよ、待ちくたびれたぜ。一体何年待たせりゃ気が済むんだよ、俺は最初からここにいたんだぜ」
「何を言ってるの……」
「『お前ら』だよ。今の今まで俺に見向きもしなかった、馬鹿で阿呆で愚かなお前らの事を言ってるんだよ」
もはや言葉も意味をなさない、ヒトの形をした悪魔であるミーシャを止めるには息の根そのものを断つしかない。
「俺をぶっ殺せばひょっとすればこの運命が変わるかもなあ?」
呵呵とあざ笑う小熊に対し遂に人熊猫の腕は猛然と振り上げられ、悪を断罪する正義の柱はその頭蓋を叩き潰──、
「間に合ったか」
──さなかった。
どこからともなく飛翔した銀の刃が角材を切断し、ミーシャは寸前で事なきを得た。飛来した刃はそのまま直線上の柱に深々と突き刺さり、そこから二人の視線が発射位置を特定する。
「意外とお早いお帰りで、リーダー」
炎上する会場に駆け込んだのは、七人の勇者が団長、ミゲルであった。吸血姫を送り届けに王都を出たはずの彼がなぜここに?
「胸騒ぎがしたから戻ってみれば……。殺す相手に殺されようとするのは、君の悪い癖だと前にも言ったはずだぞ」
「リーダーには感謝してるぜ。行き場のなかった俺をそばに置いてくれたもの好きはあんたぐらいだ。だけどなぁ、そうじゃない、そうじゃないんだよな俺が求めていたのはよ」
「ミーシャ、君は……」
「ああもう、うざったいな! 引っ込んでろ!」
ミーシャが睨みつけると、一迅の風が吹いてミゲルに迫った。炎を乗せたそれはミーシャの意志に従うかの如く渦を巻いてミゲルを包み、彼の動きを封じる。
今この瞬間、ミーシャの力は悪意というピースを得て完全に彼の手足となった。災いの根源となるものならば火も水も思いのまま、彼の意思一つで街を疫病の海に沈めることさえも可能となった。生きとし生ける全てを蔑むモノ、それが今のミーシャだった。
「さあやれよ。『悪』はここにいるぞ! 誰かにそれを背負わせりゃ、てめえらそれで満足なんだろ! てめえらが今のこの状況を望んだんだ! 尻ぐらいてめえで拭きやがれ!!」
「殺すなっ! 彼を……ミーシャは、本当は……!!」
「やれ!! ほら、どうした? 俺のことが憎いんじゃなかったのか! やれよ!! 腰抜けが!!」
「……!!」
人間、土壇場でその本性が見えてくる。どれだけ仮面を被り演技で取り繕っても、いや、そうしている奴は特にそれが剥がれ落ち易い。本心の発露として浮き彫りになるそれを抑えることが出来なくなるからだ。
シュエリーが感じ取ったのは……生への執着とは正反対、生物として有り得ないデストルドーへの執念、それがミーシャから渦巻くのを感じた。自己保存という最低限の生理機能さえも破棄した、もはや生物と呼ぶことすら躊躇われるレベルの破滅願望の波動だ。
それを感じると同時に、シュエリーは今までのやり取りを振り返った。
最初からそのつもりでここに居たのだとすれば、彼のあの言葉はまさか──、
「やれぇぇぇええええええええええええええーッ!!!!」
怒号が赤々と燃え上がる舞台を揺らし、そして「絶望」が訪れた。
天井を覆っていた布が熱膨張で遂に内側からの圧力に耐え切れず、巨大な風船が割れるように熱された空気が解放、その衝撃でテント全体が崩れ始めた。天井の穴に向かって上昇気流が吹き荒れ、それと同時に入り込んできた冷たい外気が会場全ての炎を攪拌し巨大な竜巻を形成した。
「ヒャハハハハ! こりゃあ傑作だぜ!! 燃えろ燃えろぉ、嵐よもっと吹けぇ!! ギャーッハッハッハッハッハッハッハァッ!!」
外気と混ざり合った熱気はミーシャの哄笑とシンクロするように激しさを増し、一切合切全てを宵闇の空に灰にしてバラまこうとしていた。
シュエリーも、ミゲルも、泥酔したままの団員たちも、ミーシャ自身でさえも吹き飛ばさんと轟々と渦巻く烈風は小さな瓦礫や焼け焦げた布を巻き上げて天高く上昇し──、
そして、あっさりと消えた。
「あ……?」
「風が、やんだ?」
それまでの猛烈な嵐がまるで嘘のように、風は一瞬にして収まってしまった。誰一人として死んでいない、それどころかケガらしいケガもなく、団員らは未だに眠りこけたままだ。
「どういうことだ? まだ終わっちゃいねえだろ!」
「いいや……終わりだよ、ミーシャ」
「んだと!?」
噛み付こうとした矢先、鼻先を冷たい何かがかすめた。その時にやっと外から流れ込んだ空気が湿っている事に気付き、天を見上げれば月を包み隠す黒雲が空を覆っていた。遠方からはゴロゴロと稲妻の音が聞こえ、程なくして小さな雫は盆をひっくり返したような豪雨に変じた。
「やめろ……。やめろ、やめてくれぇぇ!!!」
雨は天井を失った舞台の炎を駆逐し、三分とかからずに燃えかすは完全に鎮火されてしまった。もうこれで誰も死ぬことがなくなったのだ。
だが安堵すべき場面でミーシャは天に命乞いするように雨が上がることを祈っていた。それまでの悪意がなりを潜め、遂には突っ伏して絶望の表情に変わる。
「嘘だろぉ……。なんで、なんだよぉぉ……あともうちょっとだったじゃねえか……! なんで……なんで俺の望む通りになってくれないんだよぉ!」
悔し涙を浮かべ、行き場を失った感情を乗せた拳が何度も何度も地面を叩く。豹変したその姿にシュエリーもどうしていいか分からず、ただ嘆くミーシャをオドオドとその周りをうろつくしか出来なかった。
ミゲルだけは違った。
「君が言ったんじゃないか。運命だ、偶然だ、理由なんかない……と。君のその力で引き起こされる事象は何の理由もなく全てを不幸にさせる、ただそれだけのものだ。それは即ち、『理由が無いことが理由』の現象だ。だが君はそこに『悪意』という『理由』を付け足そうとした。そうすることで己を悪という型に嵌めようとした。それこそが君の敗因だ」
無理を通せば道理が引っ込む……理解できない事象を無理に理屈をつけて説明しようとすれば齟齬が生じるように、力自体は善でも悪でもない「ただの流れ」でしかない。それに一側面の「悪」を付け足したことで「流れ」は変化し、力の出力は変質してしまった。
ミーシャが自分を悪で在れと願う限り、彼の禍津の力は二度と発現しない。そして悪である理由そのものを失ってしまった彼は、もはや何者でもなくなった。
「なんで今更なんだよ……! あの時は降ってくれなかったじゃないか! ああぁ、あああああああああああああぁああぁぁぁあぁぁあぁあぁぁぁーっ!!!!」
「ミーシャ……」
泣き崩れるその小さな姿にシュエリーも初めて彼の真意を知った。そして、その望みが永遠に絶たれてしまった事も。子供のように泣き叫ぶその悲痛な声が、彼の背負っていたものの大きさと重さ、そして悲しさの全てを物語っていたことにようやく気付いた。
雨は止まない。小熊の悲しみを代弁するように、ずっと、ずっと、降り続けていた。
馬車に連れ込んでからもミーシャの慟哭は止まらなかった。ベッドに腰掛けたシュエリーの膝に顔を突っ伏して号泣し続けた。軽佻浮薄な普段の態度は仮初で、本当は外の雨に打たれることさえ耐えられない弱々しい今のこれこそが、彼の真の姿なのかもしれない。
その頭を子供を慰めるように何度もシュエリーの手が撫でた。何も言わずに、ただ静かに、彼が話してくれるのを待った。
やがて外の雨が上がる頃、ぽつりぽつりと口を開いてくれた。
「がっかり……させたんだ」
かつて彼を教会に突き出した町の住人はミーシャが呪われていることを密かに期待していた。呪われていれば自分達の不幸に納得を得られる、死んでいった者達にも言い訳が出来る、そう考えていた。
結果はシロ。加護や呪詛を判別する神父の審問は彼を「ただの人間」と判断した。不当な罪の一切を免じたその言葉にミーシャは救われる気持ちだった。自分は呪われてなんかいない、これで町の人々の誤解もとけたと喜び勇んだ。
だが理由の有無と、それを納得できるか否かは別の問題だった。
人々は戸惑った。今まで犯人と思っていた人間が実は犯人でも何でもなく、ただの無関係な無辜の者と知らされたことに愕然となった。
なら自分達に降りかかるこれは一体何なのだ? どんな理不尽があってこんな目にあう?
行先を失った戸惑いは、審問を行った神父が一週間後に病死したことで絶望に変わった。悲劇は確かにミーシャによって引き起こされているのに、あらゆる要素が彼に原因がないという不条理な結論を突きつけた。まるで災害、嵐や地震で受けた被害を誰のせいにも出来ないように、鬱屈した重苦しい絶望は人々から排斥の正当性さえ奪い尽くした。
ミーシャに触れた者は死ぬ、だがミーシャに原因はない。理由も無く、意味も無く、ただ理不尽に……形無き悪意だけが満ちていった。
「俺は……皆に、『納得』して……俺のせいだと知って欲しかった……」
今でも目に焼きついて離れない彼らの失望の表情。災いを排斥する事すら許されなくなった事への深い諦念。それら全てに付随する「理由はないが受け入れろ」という理不尽に対し彼らは失望していた。
失望とは即ち、期待外れ。「ミーシャが悪い」という期待に応えられなかったが故の失望。
それは誰かの期待に応える事を生き甲斐にしてきたミーシャにとって耐え難い苦痛だった。例えそれが自分の側に正当性があったとしても、誰かをがっかりさせる自分にこそ原因があると信じて疑わなかった。
「首を括ることも考えた……。でも、それじゃあダメだ。誰も納得しない……」
真っ当な理由を、正当な意味を、納得できる何かを……彼らに与えたかった。
だから、自分は「悪」になる──。
不幸を呼び、災いをもたらし、病をばら撒く……そんな存在になることで、彼らの絶望の矛先を自らに向けたかった。そうすることで彼らは姿無き理不尽に怯えず、形を得た悪意に対する牙を持てる。
この肉は不浄、この血は汚濁、そしてこの魂は猛毒。
悪は誰からも必要とされないからこそ、「悪を排斥するという意思」の許に必要とされる……そんな存在にミーシャはずっとなりたかった。
「なれないよ、そんなの……」
水は低きに流れる。だが生きるモノは高みに昇ろうとする。それに逆らい穢れを一身に纏うような生き方など、どんな聖人君子にも出来やしない。仮に出来たとすれば、それこそイキモノをやめてしまうしかない。救いをもたらしたいから悪徳の王となる……そんな歪んだ生き方を出来るほどヒトは器用ではない。
その証拠にミーシャはシュエリーから離れようとしない。十数年ぶりに触れることの出来た他人の温もりからすげなく離れられるほど、彼の心は丈夫に出来ていない。とっくの昔にボロボロに崩れた心を、必死に繋ぎ合わせたツギハギだらけなそれをどうにかして耐えているに過ぎない。
「ミーシャはとても、とっても悪い人。自分にウソついて、追い詰めて、そんなの……何が楽しいの? なんにも楽しくないよ? もっと……もっと、楽しいことして生きられないの?」
「もういい……もうなにもしたくない……。放っておいてくれ」
「それは、ムリ。わたしは絶対にミーシャを……見捨てたりなんかしてあげない」
そう言って肩を掴み引き寄せ、強く抱き締めた。
霧の大陸には「萬句言語吃不飽 一捧流水能解渇」という諺がある。「万の言葉は飢えを満たさず、一滴の水は渇きを癒す」という意味だ。今のミーシャに必要なのは言葉ではなく、干涸らびて亀裂が入った心に染み込む「一滴の水」だ。
シュエリーは決意した。自分がその水になる。地下深くに潜り込んでしまった彼の心を、地上に汲み上げる呼び水になると……。
「ね、ミーシャ……知ってる? メスの熊はねぇ、オスをお尻に敷くとっても怖い動物なんだよ〜」
古今東西、傷心の男を癒す手段など相場が決まっている。
「イイコト……しよ?」
陽を知らない純白の肌が露わになり、ミーシャを包み込んだ。
熊の愛情表現はかなりアグレッシブだ。巨大な腕で意中の相手をがっしりと掴んで絶対に離さず、キスする以上に顔を激しく突き合わせ首筋や肩に噛み付く。捕食行動に近いそれは「お前は私の物だ」と誇示せんばかりに過激を極める。
レンシュンマオは普段は鈍重なイメージが付きまとうが、実際は熊に似た魔物娘。ゆえにその愛情表現もヒトの身には激し過ぎる。
「んッ……むゥ……!」
シュエリーの黒腕は右手一本でその胴体と頭を同時に押さえ込んでいた。抱き寄せる勢いそのままのキスはミーシャの舌も飲み込むぐらい強烈な吸引で、意図してか知らずか呼吸器を麻痺させる一撃は彼の体から抵抗を奪った。
元々何もしたくないと言っていただけに彼の体は身じろぎ一つせず、雄ならばむしゃぶりつかずにはいられない魅惑の肢体を前にしても食指が一切動かなかった。ここまで来ると筋金入りだ、傷心とかではなく心此処にあらずといった感じだ。
そんな事はお構いなしにシュエリーが覆い被さる。黒腕の爪が服を切り裂き、露わになったその胸板に自分の肌をこすり合わせ、顔にも舌を這わせ満遍なく舐め上げる。自分の匂いを移すことで所有権を主張する、文字通りの「ツバをつける」行為だった。
フサフサした腕も腰や下腹部を丹念に撫でる。それは愛玩動物にするようなものではなく、相手の性感を刺激する大陸仕込みの房中術だ。気を相手に送り込み下半身をその気にさせる、現役時代には使わなかったハニートラップの手練手管を初めて使ったが、効果は抜群だった。
「アイヤァ……! すごぉい」
下着ごとズボンをずり下ろせば、頭をもたげるのは大蛇かはたまた東海より出てし蓬莱山か。むせ返る雄の香にあてられたシュエリーの頬が酔ったみたいに紅潮する。過敏になった獣欲は全身を総毛立たせ、もういてもたってもいられない。
「ミーシャ……ごめんね、もうガマンできない! あ……あああっ!!」
ミーシャに跨って屹立した先端を秘所に充てがい、一気に腰を下ろした。ズルリと内臓をかき分ける感触の後、先端は一瞬で牝熊の最奥に到達、体内を駆け巡った電流と脳髄から染み出る快楽が全身を多幸感で包んだ。
快楽に震える体がすぐさま上下を始める。
「ミーシャ……! ああっ、ミーシャぁぁ!!」
「っ……!!」
一往復するたびに脳髄を焼き切る快楽を得ているのはミーシャも同じ。だが今の彼はまだ理性が優勢にあり、残り少ない気力を振り絞り必死に抵抗していた。
左手が虚空を足掻く。なにか掴む物は無いかと探っていたが、それをシュエリーが捕えた。
「にげ、ないでぇ! わたしは……あっ! あなたを……傷付けたりしない……よ?」
シュエリーの右手がミーシャの胸に触れる。大して鍛えられてもいない胸板にはこの世全ての不条理と理不尽を背負う覚悟が宿っている。それだけの悲しい覚悟を背負わせた硬く冷たい心を解きほぐすように、シュエリーは胸を撫でる。
「もういいんだよ? もう頑張らなくたって……いいんだよ?」
「……!!」
ミーシャの右手が伸ばされる。逃れようとした左手とは違い、それは真っ直ぐ自分に跨る彼女に向かって伸び……。
「だま、れぇえええッ!」
「がっ──ぅ!!?」
シュエリーの喉笛を握りつぶす。
「誰にもォ……誰にも、俺の心を理解させない! 俺の決意は俺だけのもの……俺はなるんだ、『悪』にぃぃぃ!!」
握力それ自体はシュエリーの気道を塞ぐほどではない。だが恐ろしきはその執念。討たれるべき存在になるという決意、具現化した破滅願望の衝動が小熊に最後の力を振り絞らせている。
嗚呼、なんて悲しい生き様。
だからこそ、シュエリーはこう言った。
「頑張ったねぇ……えらいよぉ、ミーシャ」
胸に置かれていた手が小熊の頭をそっと撫でた。
最後に頭を撫でられたのは、いつだったか。
最後に自分を褒めてくれたのは、誰だったろうか。
もう、何も……思い出せない。
「うわぁぁぁああああああああああっ!!!!」
昔、確かにここにあった大切なものを黒い何かが押しつぶしてしまった事を知り、ミーシャはまた泣いた。
みんな自分から離れていく……寂しい、寂しい、本当はずっと自分のそばにいて欲しかった。でも自分は災いを運ぶから、みんなの近くにはいられなくて、みんなもどんどん離れていって……本当は、本当は……。
「うん……うん。悲しい時はいっぱい、いーっぱい泣いてもいいんだよ。ミーシャはずっと一人で頑張ってたんだから」
本当はずっと、誰かに頭を撫でてもらいたかっただけで……。
「わたしがずっとそばにいてあげる。ミーシャの手を握っていてあげる。だから、ね? 悲しまないで」
涙を拭く柔らかな手の感触に身を委ねながら、遠く異国の言の葉が小熊を癒した。
「我喜欢上你了……。一直在你身边」
呪われた小熊は、今はもうどこにもいない。
かくして呪われた小熊は断崖絶壁をひた走らずに済んだってわけだ。偽善者ってのもなかなかタチが悪いが、偽悪者も似たり寄ったりって話だったな。
劇場炎上の事件のあと、不思議なことにサーカス団に対する謂われない批判は綺麗になりを潜めちまった。王都を去ってしばらくは地方を遊行していたらしいんだが、街の連中の要望もあってすぐに戻ってきた。今じゃ年に二回、三日続けての公演も定番になってら! 今度懐と時間に余裕があったら見てきなよ、きっと損はしないぜ!
演目の目玉は何と言っても人熊猫の棒さばきよ! 続く猛獣芸も見逃せねえ! 別に俺はサーカスの回しもんじゃねえからな。
そうそう、猛獣の仕込みやってる奴なんだが、こいつがまた変わっててな。なんと全身を隈なく覆い隠した黒子が鞭を振るってるんだ。誰も顔を見ないし、そいつに触れてもいけない、触れたが最後生きては戻ってこれない……って設定らしい。
その顔無しの猛獣使いと花形のレンシュンマオはデキているみたいなんだが……あ? なに、気になることがある?
悪であることをやめたのなら、また不可思議な力で今度こそレンシュンマオは不幸な目に会ったんじゃないかって?
おいおい、お客さん! 破滅願望のある男に引っかかった女、もうそれ以上の不幸があるかね?
それに仮に不幸だったとしても、もうあの二人は離れないさ。
ほら、見てみなよ。お手て繋いで笑ってるぜ。きっと二人はもうとっくに幸せなのさ。
15/09/20 10:42更新 / 毒素N
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