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第六章 暴食の勇者:前編
 はいはいはいはいっ! もう毎度おなじみになったが、今回も始めちゃおうか! この街で──(中略)──第六弾だあ!!

 はい、そこっ! もう団長終わったんだから消化試合だろ〜、とか言うな! まだ二人残ってるだろ〜!?

 まあまあ、皆まで言いなさんな! 分かってる、分かってるってぇ、何だかんだと言って皆やっぱり話の続きが気になるんだろう? だったら黙って聞いていきやがれ!

 金貸し、暗殺者、スパイ、魔術師、騎士と続き、教国の鉄砲玉は残すところ後二人! その内の一人は、もうこの間話した時にも出てきた団長の副官だ! 今回の主人公はその男だよ!!

 団長はまともだったが、一応六人目だってその範疇だ。ちょいと不真面目な部分もあるが、それだって良識の範囲内って奴だ。断言する、こいつは悪人じゃあない。

 だけど悪人じゃないって事と、そいつが良い奴かどうかってのは、全く別の話なんだよなぁ。

 今回はそんなお話……。『暴食の勇者 〜あるいは異国の人熊猫の話〜』

 はてさて、この勇者は何を食べ尽くすのだろうね……。





 「小熊のミーシャ」、それが男のあだ名だった。

 別に特別体格に恵まれていた訳ではない。とある小さな町で生まれたその年唯一の男子だった彼を、隣人らが「まるで熊の子だな」と言ったのが始まり。同年代の女子と比べて体格が優れているのは当然で、別に見上げるような大男に成長した事もない。

 ネタをばらせばそんな程度のこと。大人と呼ばれる年齢になった今、小熊と呼ばれるのは少々抵抗がある。だが悲しいかな、同業たちの間では既にそのあだ名で通ってしまっている。

 ミーシャという男は大変に不真面目な奴である。勤務中でも昼寝をかまし、ふらっと姿を消したかと思えば買い食いに興じ、月に一度「六人」揃って開かれる会議にも堂々と遅れて来る、そんな輩である。素行不良という言葉で片付けるには、どうにも責任感に欠けた奴なのだ。

 加えて彼自身、他の連中のように突出した能力に秀でているわけでもない。勇者になる前は兵士だったが、それでさえ安定した暮らしが出来そうだからという、如何にも現実を知らない田舎者丸出しな考えで入隊したに過ぎない。勇者で副団長と言えば聞こえは良いが、実際は普段から何の仕事もしていない穀潰しである。

 無能とか懦弱とか以前にやる気そのものが微塵も無い、万年冬眠を決め込んだ穴熊のような男……それがミーシャである。

 「……くぅ……ぐぉ〜……」

 今日この日、ミーシャはいつものように居眠りしていた。すぐそばには報告書と格闘するミゲルがいるのに彼を手伝うどころか労いの言葉一つ無く、甲冑を着込み立ったまま眠るという器用な芸当を披露していた。

 何のことはない、ミゲルが率いる騎士団の連中と夜通し博打をしていただけだ。負けが込んで熱くなりすぐに止められず、そのまま懐が素寒貧になるまで賭けてしまった。結局丸儲けしたのは胴元だけで、向こう十日は節約しなければならなくなった。

 「人間、自分の生まれと賽の目はどう頑張っても変えられない。これは真理だよ」

 そんな気持ちよく立ち寝をしていたミーシャの鼓膜を打つ声があった。書類整理を一段落させたミゲルが話しかけてきているが、安眠を妨害されたミーシャにとっては雑音でしかなかった。

 「はあ、そっすか」

 「なんだ、その間の抜けた返事は。いけないよ、教国の威信を背負った私達がそんなことでは。休息は取っているのかね」

 「ええ、まあ、つい今も」

 「嘘を吐きたまえ。明らかに疲れた顔じゃないか」

 「いや、これはあんたが長話するから……」

 決して自分が博打に入れあげていたからとは答えないあたり、彼もそこそこイイ性格をしている。ミゲルもミゲルでそんな事情を知らないはずはないのに、さも納得したように頷いて見せている。

 本来副団長にはトーマスが就く予定だったのだが、何故かミゲルの一存でミーシャが選ばれた。彼曰く、「一人ぐらい不真面目な者がいるほうが気が引き締まって良い」とのことだが、その効果のほどは推して知るべしである。

 「うーん、最近君も私に付き従って働き詰めだったからな。ちょうどいい、気分転換も兼ねて少し出てくるといい。聞けば街の広場にサーカス団が来ているとか。入場料は手間賃込みで私が出しておこう」

 そう言って気前良く貨幣の入った袋を机に置く。膨らみ具合からして飯代も含まれているのだろう、太っ腹なことだ。

 「遊んできてもいいってんなら、そうしますよっと。でもいいのか、リーダー一人で」

 「問題ない。私を誰だと思っている?」

 「はいはい。そんじゃ、お言葉に甘えて遊んできますかね」

 袋を受け取ったミーシャはいそいそと部屋を出ようとする。心なしか足元がスキップを刻んでいるようにも見えた。

 「ミーシャ!」

 「あん?」

 「身嗜みには気をつけろ?」

 「わぁーってるよ」

 忠告めいたミゲルの言葉にも手を振って応え、そのままミーシャの足は自室へと向う。

 騎士団の詰所は部屋数の関係から複数人で暮らす規則になっている。二人から三人が同じ部屋で生活し、それは隊長役のミゲルであっても同様だった。

 だがミーシャの部屋に同居人はいない。単に数合わせの問題ではなく、本来この部屋に入るべき者を他に皺寄せる形で空けており、彼は団で唯一の一人部屋を堪能できる身分にあった。別に彼がわがままを言ったとかではなく、これは七人の勇者全員が共有すべき規則、ルールなのだ。

 そう、決して破ってはいけない……ルールなのだ。

 「ふふふ〜ん、ふんふふ〜ん」

 陽気に鼻唄なんか歌いながら甲冑を脱ぎ、外出用の服装に着替える。それ自体は何の不思議もない。甲冑は教国から支給されているので、意匠が違うそれを着込んで歩けば衆目の的になる上に余計な外交問題まで引き起こす。

 クローゼットの奥から引っ張り出した私服は上下共に一着のみ。夏も冬もミーシャは長袖長ズボンしか着ないし、新調する時も似たような物しか買わない。それだけなら単に日に弱いか極度の寒がりかで済むのだが……問題はここからだ。

 「こいつが面倒なんだよなぁ〜」

 小棚から取り出したのは、ロールになった包帯。何回か使い込まれて汚れが目立つそれを解くと、両腕に丁寧に隙間なく巻きつける。腕だけでなく袖から覗いた指先の一本一本に至るまで爪も隠すように巻いていく。そして足、靴と裾の間に見える僅かな部分にもそれを巻く。手足だけを見ればマミーかと間違えそうだが、ミーシャは歴とした男である。

 だが四肢を隠しただけに終わらず、更に棚から出したのは大きな布が二枚。それを首に巻き鼻先まで隠し、もう一枚は頭に被る。短く刈り揃えた髪も全て中に入れ、眉毛も中程まで隠れるように被り込み、ミーシャの素肌は目元の僅かな部分だけを残して後は皆隠れてしまった。

 これでミーシャの姿は、夜中に出歩こうものなら十人中八人は亡霊と間違え、あとの二人は不審人物と見ても納得のいく格好になった。これが彼の外出する時の服装である。

 「さてと、行きますか」

 全身を覆い隠し、いざミーシャは街に繰り出した。

 太陽の光を受けると同時に体温の上昇を感じる。真冬でも息苦しさを感じる事もあり、ただ歩いているだけで全身の汗と不快感が凄まじいことになる。その上真昼間でも人の好奇の視線が突き刺さるため、はっきり言って今すぐにでも近くの服屋に駆け込み着替えたいところだ。

 だがそれは出来ない。してはならない理由が彼にはあった。

 宗教的な戒律?

 本人の性癖?

 あるいは感染症?

 どれも違う、そういう「理屈めいた」ものではない。ミーシャの“それ”を理屈をつけて説明することなど出来ない。

 「サーカスねえ。火でも吹くのかねっと」

 田舎にはサーカスは来なかった。彼らも商売でやっているから、収益が見込めない田舎町にまで来ることなど無い。

 意外にもミーシャという男、不真面目な性格に反して禁欲的な生活を心がけている。兵士となって上京してからも他の同僚が酒や女を買うのに対し、彼はせいぜい食い物を調達するぐらいにしか使わず、博打を覚えたのも王都に来てから。その博打だって自分に才能が無いと分かった今はあっさり止めようとも思っていた。

 なので柄にもなく少し楽しみでもあった。

 程なく通りを人の波に乗って歩いていると、原色が目立つ衣装とメイクを施したピエロがまさにサーカス団の宣伝をしていた。

 その誘導に従って行き着いた街一番の広場には、大きな赤いテントが建てられ、陽気な音色なのに調子が狂うそれでいて笑いを誘うファンファーレが来る人を迎えていた。

 「へぇ……」

 想像していた以上の光景にミーシャはマスク越しに溜息を漏らした。ピエロや楽団はもちろん、出迎えの団員には調教された動物たちもおり、演目を始める前からそのパフォーマンスの一端を見せてくれていた。中に入らずともこれを眺めているだけも満足できそうだ。

 もちろん、ここまで来たからにはじっくり演目を観覧してから帰るつもりだ。だがどうにも早く来すぎたか開演まで時間がある。その上いい席を確保しようと人でごった返しており、長蛇の列が出来ていた。これは入るだけでも長いこと待たされるのは目に見えている。

 「ちょいとそこいらを見て回りますか」

 物珍しさを売り物にしている連中だからきっと暇つぶしになるだろうと、適当に周囲をブラブラと歩きまわる。テントをぐるっと一周する頃には列も空くだろうと思い、そのままファンファーレから遠ざかるように裏へ裏へと足を運ぶ。表通りの喧騒とはまるで異なり、裏手は倉庫兼楽屋。開演までの時間を使って各々が休憩なり談笑なり最後のリハーサルなりを過ごしていた。

 「やあ! 今日も精が出ますなあ!」

 取り敢えず出会い頭に気持ちよく挨拶。挨拶は人間関係の基本だとミゲルに叩き込まれただけに声音だけなら爽やかだ。無論、台無しにしているのはその風体である。

 だがここはサーカスの裏手。奇妙な格好だけなら彼以上に奇天烈な連中ばかり。全身を覆い隠した目だけ妖怪など物の数にも入らない。

 「おうよ! 今日もオレの軽業で魅了してやらあ!」

 「へっ! 言うねえ! こっちのカワイコちゃんたちだっておめぇに負けねえよ!」

 「お前さんの飼ってたハトなら今頃この帽子の中でオネンネだよ!」

 そう言って陽気に笑い合う団員らの間を同じく笑いながら堂々と通り過ぎる。元々物珍しい格好をしている奴がそれより奇抜な連中に混じり一気に存在感を無くしてしまった。

 あれ、あんな奴うちの団にいたっけ?

 そんな当たり前の疑問を抱く頃にはミーシャはとっくにそこより奥へと行った後だった。

 奥には猛獣を捕えた檻がある。





 檻には幼獣の頃より徹底的に躾けられた熊や虎、獅子などが収められていた。普段嗅いだことのない匂いを纏った珍客に皆一斉に意識を集中させ、獰猛な野生を隠し持つ視線がミーシャを貫く。

 「おお、怖ぇ」

 言葉とは裏腹にミーシャは檻の一つに近付き、中の獣をまじまじと観察する。獣の名はハイイログマ。かつてはグリズリーの名で知られていたが、今ではその名はもっぱら魔物娘の方を指す。こちらは正真正銘の獣であり、猛獣界の山林代表として知られる存在だ。ミーシャより二回りも三回りもある巨体がのっしのっしと閉じた空間をせわしなく歩いている。

 「俺が熊の子のわけねえよなぁ。いい加減この小熊ってあだ名を何とかしてほしいぜ。あんたもそう思うよなあ?」

 唯一ゴードンだけは自分を「大旦那」と呼ぶ。ミゲルの副官にして副団長という部分を言っているのだろうが、はっきり言って過ぎたあだ名だ。それはそれで肩身が狭く思える。自分はそんな大それた人物ではないと知るゆえに。

 「いっそ、俺が本当に熊だったらなぁ……」

 人の言葉を理解しているのか、熊の視線がぴたりとミーシャを捉える。飼い慣らされているせいか、こうして見るとつぶらな瞳が可愛らしく見えてくる。

 ミーシャの言葉に何の意味もないことなど、当の本人がよく知っていた。

 しばらく檻の主の様子を観察していたミーシャだが、やがて飽きると次の場所に行こうとし……。

 「ねぇ、なにしてるのぉ?」

 何者かが肩に手をかけた。

 「──ッ!!?」

 刹那、ミーシャの体が宙を舞った。

 攻撃ではない。勇者の加護により身体が強化され、常人の三倍以上の力を得たミーシャの脚はバッタの如く地を蹴り、熊を入れてあった檻の上に飛び乗った。住処を揺らされた熊が不快の唸りを上げるが、今のミーシャはそんな事をいちいち気にしてなどいられなかった。

 「わぁ! すご〜い。ニンジャみた〜い! にんにん!」

 背後からミーシャに声を掛けてきたのは、人間ではなかった。四肢に黒々とした毛を生やし、肌と髪はそれと対照的に色素が抜けたような純白。恐らくはベア属の魔物娘だと推測できるが、鼻の低い顔立ちやその他の特徴からグリズリーではない。特にそのこの周辺では見られない意匠の服装は、ここより遥か東方にあると聞く国の物に酷似しており、それらに該当する魔物娘は一種だけだ。

 それにしてもニンジャとは。確かに全身を隠しているのでそれっぽいのかも知れないが。

 「わたしぃ、レンシュンマオのシュエリー。ここで働いてるのぉ、你好ォ、よろしく〜」

 「よ、よろしく……?」

 特に求めたわけでもない自己紹介をされて少し調子が狂う。軽く会釈した時に見える胸元や服の端から見える生足がそそるが、今のミーシャはそんな事より彼女に触れられた肩を何度も触って確認していた。

 「大丈夫〜? 痛かったぁ?」

 「いや……何でもない。気にしないでくれ」

 「そう? う〜ん、あなたぁ……ここの人じゃないよねぇ? どこから来たの? 迷子さん?」

 「あー……そう、迷子なんだよ俺。ちょいと面白そうだから覗いてたんだ」

 「ふ〜ん」

 レンシュンマオという種族はアルカーヌムにおいてもかなり珍しい。刑部狸のように種族で商売をする訳でもなく、霧の大陸特有の武芸に秀でた魔物娘とも違い武者修行もしないので、生息地を離れたところで見かける事が少ないのだ。かなりおっとりした性格が東方では人気と聞くが、実際目の当たりにするとどうにもトロ臭い印象が拭えない。寝起きすぐみたいな間延びした口調がそれに拍車をかけている。

 「あなたも今日のサーカス見に来たんだよねぇ? 入口まで案内してあげるね〜。降りれる〜?」

 「ああ、大丈夫さ、こんぐらい……」

 そう言って、すとっと地面に降り立つ。手足の包帯が解けていないかを確認し、どこにも異常がないと知って安堵する。

 そう言えば挨拶がまだだったとこちらも名乗る。

 「俺はミーシャ。よろし──」

 「危ないよ〜」

 「ふぉぐっ!?」

 ノロノロとした口調とは正反対に疾風の如く伸びた獣の腕がミーシャを引き寄せる。何をするんだと文句を言いたかったが、すぐ背後から聞こえた布を引き裂く音にミーシャは青ざめた。

 「やっべ……!」

 慌てて背中に手を回す。右肩甲骨の辺りがスライスされ、肌が見えてしまっているようだった。すぐ背後からは熊が檻の隙間から手を伸ばしており、シュエリーが引き寄せるのが後一歩でも遅れていればミーシャの右肩は餌にされていただろう。

 取り敢えず鏡がないので分かりにくいが、痛みは無いから服だけが破れたのだろう。

 「大丈夫〜? ケガしてない〜?」

 心配になったのかシュエリーの手が伸びる。すると……。

 「触るんじゃねぇッ!!」

 「アイヤァっ!?」

 何が気に障ったのか突然大声を上げてミーシャが手を振り払う。その剣幕にそれまでのんびり口調だったシュエリーも思わず手を引っ込めておかしな奇声を発した。マスクと帽子で表情の全ては分からないがミーシャのそれが怒っていることだけは判別できた。

 「ごっ、ごめんなさぁい……」

 「い、いや、こっちこそごめん。どうにもその……人に触られるのが好きじゃないんだ」

 「ほんとぉ? ほんとに痛くない〜?」

 「ああ。痛くないし、そもそもケガしてない」

 「そう……よかったぁ!」

 終始おっとりとした感じだが彼女なりに心配してくれているようだった。それは気持ちとしては嬉しいのだが……ミーシャはその事を素直に喜べないようだった。

 自分を引っ掻こうとした熊をちらちらと見ては、何か拙いことをしてしまったように狼狽えているのが見て取れた。明らかな挙動不審、これではまるで負傷しそうだった我が身より熊の身を案じているようではないか。

 そして遂にはこう言い出す。

 「あのさー……悪いことは言わない、今からこいつをどっかの山にでも放さないか」

 親指が示すのは当然、檻の中の熊だ。シュエリーはかくんと首をかしげる。

 「この子はいいこだよぉ? ちょっとだけ、その……こーきしんおーせー? ってだけだよ〜」

 「あー、うん、分かってる。分かってるんだ。別にこいつが怖いとか、顔も見たくないからって訳じゃなくて、その……あぁ、何て言ったらいいんだ!」

 「???」

 要領を得ない物言いにシュエリーの首がますます傾斜してフクロウのようになる。

 ミーシャにだって分かっている。ここで真実ありのままに話さない限り彼女は納得しないだろう。いや、例え今この場で真実を話そうが彼女が納得するとは思えない。納得以前の問題としてそもそも自分の言葉を信用するはずがなかった。

 「……いや、いいんだ。変なこと言って悪かった。じゃあ……」

 「うん、またね〜」

 ひらひらと手を振るシュエリーに対し力なく返すミーシャ。その愛らしい仕草のシュエリーにちっとも心癒されなかったのは、彼の心に最後まで罪悪感があったからだ。

 彼女は知らないのだ。己に触れるというその意味を……。

 その意味を、真実を知った時には……。

 「きっと俺を憎むんだろーな」

 自嘲気味にそう呟き、小熊の足はテント入口まで戻った。

 ミゲルから預かった袋の中に小さく折り畳まれた指令書を発見するのはこの数分後のことである。





 「レディース・アンドゥ・ジェントルメン! 今日この日にこの不思議と怪奇の世界にお越しの皆様! ご機嫌よう。私は当サーカス団の団長を務めます、しがないピエロでございます。どうぞお見知りおきを」

 ミーシャが席を確保して座るとちょうど開演となり、でっぷり太ったピエロがステージで優雅に一礼していた。醜い体型とは裏腹に綺麗な姿勢で挨拶するあたり流石はサーカス団を束ねる者といったところか。

 「長ったらしい挨拶は抜きにして早速ご紹介いたしましょう! 当サーカスに住み着く奇々怪々な住人たちです!! おーいみんなー、出てこーい!」

 三文芝居のような掛け声と共に舞台袖から次々と団員が飛び出してくる。

 先頭を太鼓やトランペットを持った道化師の楽団が通り、その後を軽業師の行列が続く。何本ものナイフをジャグリングする者や、手や頭の上に何十個も積み上げた中身入りグラスを運ぶ者、互いの手と足を掴んだ二人組が車輪のように地面を転がる様などに、観客たちから早くも拍手が起こる。

 続いて登場するのは動物たちだ。猫や犬、サルはもちろん、紳士風の男がシルクハットを杖で叩くと鳥が飛び出し、その鳥が馬の上で絶妙なバランス感覚を披露していた役者の腕に留まり一緒に駆け抜けた。

 誰かがあっと叫んで天井を指差すと、そこには空中ブランコにまたがりながら手を振るハーピー達。ここは人と魔物が一緒に演目を披露することで有名なサーカスなのだ。

 観客への挨拶代わのデモンストレーションが終わると、再び団長が登壇する。

 「当サーカス団の奇怪で不思議な仲間達、そのパフォーマンスをどうか心ゆくまでご覧ください。えっ? もうさっきので出尽くしたじゃないかって? お客さん、それはちょいと早とちり! ショーはまだ長いんですよ。こんなのはまだ前座、お楽しみはこれからです!」

 懐から取り出したハンカチを手にかぶせ、その手がどこに隠していたのか一本の長い棒を取り出した。大人と同じぐらいの長さはある棒、それをまるでハンカチから取り出したようなマジック、簡単だがそれだけに客の意識は釘付けだ。何をする、次は何が飛び出すとそれだけに集中してしまう。

 「まずご登場いただくは当一座の花形! 遠く異国の地より訪れたる珍獣が見せる棒さばきをとくとご覧あれ!!」

 投げ捨てられる棒。だがそれを空中で掴む白黒の影。

 髪や肌の白さ、四肢の黒毛、魅惑のツートンカラー。異国情緒あふれる特徴的な衣装を身に纏いしは、霧の大陸より現れし大熊猫の化身。

 レンシュンマオのシュエリーがそこにいた。

 舞台袖から流麗な音楽が流れる。その独特な音色はヴァイオリンではなく、霧の大陸に伝わる二胡と呼ばれる弦楽器から奏でられることを知る者は少ない。そのメロディーに合わせてシュエリーの腕が棒を動かし始める。

 俗に言う演武。いやこの場合は棒さばきの動きを魅せるから、「演舞」と言った方がしっくりくるか。棒の両端が描く軌跡は時に直線を、特に曲線を、時には渦や螺旋を生み出し、さっきまでパレードの熱に湧いていた観客の心を静かに魅了する。たった一本の棒を操る動きだけがここまで奥深く、そして魅力的なものだと誰が想像しただろう。

 だがここはサーカス、ただ棒を振り回すだけには留まらない。袖から出てきたピエロがボールを持ってくる。それぞれ手に一個ずつ、計四つの玉を放り投げると……。

 「哈ァー!」

 独特の掛け声と共に棒が振られ、四つのボールを打つ。だがボールは客席へ飛ばずに上に跳ね上げられ、続く三つも次々に宙を飛ぶ。当然重力に従ってボールは落下するが、地面に接する前に再びそれらを棒が跳ね上げた。

 そう、これは棒術とお手玉の融合。東方の武と遊戯を組み合わせたシュエリーの舞だった。

 投げ入れられるボールの数は次第に数を増し、最終的に十個にまでなったボールが織り成す舞の世界。だがその終わりはあっけなく訪れた。

 「啊ー!?」

 これまた異国の不思議な発音で悲鳴を上げ、狙ったようにその頭にボールが連続して落下し直撃した。

 失敗だ。もちろんこれは狙ってやったこと。クライマックスに向けて緊張と興奮を高め、最後の最後で失敗することでそれを笑いへと変換させるのだ。その証拠に客席はボールの直撃を脳天に受けてわざとらしく千鳥足になるシュエリーに吹き出す笑いをこらえてもいない。

 魅了するパフォーマンスと笑いのギャップこそがサーカスの人気の秘訣。彼女はここの花形を名乗るに相応しい腕を思っていた。

 転がっていたボールはいつの間にかピエロが片付け、棒をくるくる回しながらシュエリーも袖に消えていく。万雷の拍手が彼女の背を見送り、今度は鞭を持った役者が躍り出た。

 次の演目は猛獣による芸のようだ。





 「あいつあんな事できたのかよ」

 客席から見ていたミーシャは心底意外そうに呟いた。てっきり彼女のことはサーカスの裏方で舞台には出てこないものと思っていたのだ。あのトロ臭い印象から一転し、棒を操る流れるような動きは確かに魅了されるものがあった。

 遠目で詳しくは分からなかったが、さっき言葉を交わした時の緩い感覚は既になく、棒を振るうその姿はとても活力に溢れていた。普段からあれだけ動ければ印象もだいぶ違うのだろうが、終わった瞬間に脱力してノロノロと去っていく姿は不覚にも心くすぐられるものがあった。

 ふと、袖に隠れる寸前にシュエリーが客席に振り向く。数瞬誰かを探すように視線を泳がせたあと、ミーシャを捉え……。

 「〜♪」

 「おぅ!?」

 手を振った。獣人特有の太く毛むくじゃらの手だが、垢抜けた笑顔でそれをやられると不意に心臓がドキッとしてしまう。

 いやきっと観客に対するサービスの一環なのだろう、そう思って頭の片隅に追いやろうとするが……。

 「おう兄ちゃん、あのレンシュンマオと仲よさそうじゃねえか!」

 すぐ後ろに座っていた中年の男が絡んでくる。真昼間から呑んでいるのか、顔を近づけてくるだけでかなり酒臭い息が顔に降りかかってきた。陽気なのはいい事だが絡み上戸は相手にするとひたすら面倒だ。早いとこ終わらせようと適当に相槌だけ打っておくことにした。

 「いや、あれはおっさんに手ぇ振ってくれたのさ」

 「おっ、分かってるじゃねえか! このサーカスは年に二回ここに来るんだがな、野郎どもはみーんなシュエリーちゃん目当てで来てるのさ! 見ろよ、あそこの連中の鼻の下をよぉ」

 「だらしない顔だな。手を振ってくれる女はみんな自分に気があるって思い込んでる顔だ」

 「だろだろ! あの飾らない素の感じに野郎どもはイチコロなのさ! その点兄ちゃんは分かってら、オレの大人の魅力ってやつにシュエリーちゃんも……」

 「はいはい、分かったから。次のショーが始まったぜ、ちゃんと観ろよ」

 「おぉい! ちゃあんと人の話聞けってママに言われなかったのかよぉ! そんなケッタイな格好しやがって、なあって、おい!!」

 酒のせいで気が大きくなったオヤジはミーシャのすかした態度が気に食わないのか、背後から頭をバシバシと叩いてきた。それほど力がこもっていないので痛くはないが、いい加減無視するにも鬱陶しくなってきた。

 もういっそ観覧をやめて席を立とうかと考え腰を浮かした、その瞬間──、

 「おい、服破けてんぞ? いいのかよ?」

 オヤジの手が肩に触れた。



 熊の爪で破かれたミーシャの服、そしてその露出した素肌に。



 「…………」

 「おーいっ、聞いてんのか!?」

 「……おっさん、あんた家族は?」

 「んあ? カミさんと、ガキが二人……」

 「そっか……。そりゃあ、お気の毒」

 「んだとぉ!? 昼間っから酔っ払ってる奴が亭主で、カミさんもガキも不幸だって言いてえのか!? 表出ろこの野郎!!」

 酒が回って興奮したオヤジがミーシャを立たせその胸倉を掴んだ。一触即発の空気に周囲も騒然となり、野次馬たちの目がサーカスから二人の揉み合いに向けられる。やめろやめろとオヤジを引き離そうとする者や、やっちまえと喧嘩を煽る者、騒ぎの熱は二人の周囲からやがてサーカスの会場全体へと異常な速さで広がっていった。

 だが熱くなっているのはオヤジと周囲だけで、発端となったミーシャ本人はうんざりしたように溜息を吐いていた。

 「誤解すんなよ、俺が気の毒だって言ったのはおっさんの家族じゃなくて……!」

 「ごちゃごちゃうるせぇやい!! こんのぉ……っ!!」

 遂にオヤジの手が拳を握りミーシャに殴りかかる。だが酔っ払いの繰り出す拳をやる気がないとはいえ勇者であるミーシャが避けられないはずもなく、拳は虚しく宙を打った。

 そもそも二人は前後に分かれた席を挟み、周囲に他の客もいるので足場がしっかりしない。こんなところで喧嘩など出来るかと男はミーシャに再度表に出るよう怒鳴りながら席を移動する。酒に酔った千鳥足は周囲の観客を押分けるうちに重心を失い、すり鉢状の客席と出入り口を結ぶ階段に出ると同時に……。

 足を滑らせた。

 「ギャアアアァァアアアアアアアァァァーーーッ!!!?」

 踏み外した足は重力と共にオヤジの体を引きずり、その体はまるでさっきの演舞のボールのように激しく弾みながら転がり落ち、足や肩、頭や腹を何度も打ち付けてその体に瀕死の重傷を刻み付ける。落下した瞬間に口から飛び出した絶叫も二、三段落ちる頃にはくぐもった悲鳴が断続的になり、そこから先は不気味なまでの沈黙を守るだけになった。

 横転と縦転を交互に繰り返す滅茶苦茶な転落が十秒ほど続いた後、オヤジの体は舞台へと投げ出された。全身打撲という痛々しい結果になったその体はピクリとも動かず、ひょっとしたら手足が折れているのかも、じっと激痛に耐えるように荒く息をしているだけだった。

 だが生きている。近くにいた者は男がまだ呼吸をし意識があることも確認し、応急処置を施すよう指示を出す。迅速な対応に周囲の者ら全員がほっと胸をなで下ろした。

 このままここで終われば、ショーの最中に起きたアクシデントとして済むはずだった。

 「終わらねーんだよなぁ」

 悲劇は、重なる。

 突如、場内に響き渡る唸り声。その発生源はつい今しがたまでステージで芸を披露していた猛獣たち。オヤジの叫び声と舞台に落下した音に驚いたのか、犬猫を始め猿もライオンも虎もみんな一様に混乱し同様と警戒の唸り声を上げていた。

 ピエロや飼育員が必死に猛獣を抑えるが、ただ一頭、その命令に従わないモノがあった。

 熊だ! 猛獣の中で唯一手を使う機能を持ったその獣は、首輪に繋がれた鎖を飼育員から引き剥がすと他のピエロの制止も聞かず一直線に男の元へと駆け抜け、そして──、

 「きゃあぁーーーーーッ!!!!」

 絹を裂いたような女性の叫び。

 後に、視線の先の惨状を詳しく語る者は多くいない。皆一様にその場で起きてしまった出来事について口を噤んだ。

 誰でもおおっぴらに語りたくはないだろう……。

 欠けた頭蓋の奥から乳白色のモノが零れ出している光景など。

 「客の一人に喧嘩を売り、その拍子に足を滑らせて転落。落ちた先で猛獣を刺激したことで頭をガブリ、ってか。おーやだやだ! あんなの人間の死に方じゃねーわな」

 混乱と悲鳴のるつぼと化した客席を人ごみに紛れて移動するミーシャ。その視界には舞台の上で起きていることなど興味はないと、財布袋から出した指令書を眺めている。

 「でもしゃーないか。それがあのおっさんの運命だったんだもんな。うんうん、仕方ないんだよこれは。お気の毒ー」

 紙を小さく折り畳み証拠隠滅に飲み込む。ゴワゴワした感触が喉を過ぎるのを待ってから、やっと視線がステージを見つめる。その目は悲しみに似た、いや、悲しみというよりは落胆に近い。そこに行ってはいけないと再三忠告したのに無視されたような、案の定災難に見舞われた奴を見た時のように、「あーあ」とボヤいているようだ。

 「馬鹿な奴、俺に触ったりなんかするからさ」

 斜に構えた物言いでブツブツ呟きながらミーシャの足は混乱に揺れるサーカスを出た。すれ違いで通報を受けた役人らが駆け込んでくる。だがこれは「事故」だ、犯人なんてどこにも存在していない。

 暴食の勇者は確かに何かを食らい尽くし、餌場を後にした。





 ミーシャに特別な力は何もない。勇者としての能力も、兵士としての技術も七人の中では最下位に位置する。

 トーマスのような金勘定に使う頭も、ゴードンのような暗殺にかける執念も、クリスみたいに人心掌握も出来ず、イルムのように魔術に心得があるわけでもない。団長のミゲルでさえはっきりと「君には何の素質も才能も無いのだな」と言ったぐらいだ。

 事実は能力と呼べるものは何も持たない。だがそれは細かく言えば間違いだ。

 より正確に言うのなら、「持っている力を能力と呼べるまでに扱えていない」というべきだ。

 ミーシャに宿っている力、それは……。

 「凶事を引き起こす」というもの。

 ミーシャの身体に触れた者は例えそれが爪先でも髪の毛一本であろうとも、触れた瞬間にその運命が定まる。

 運気が消え去るのだ。ミーシャに触れた、触れられた者は極端な不運に陥り、それによる不幸に見舞われて惨憺たる結果を押し付けられる。今までそうなって三日と保った者はおらず、皆何かしらの要因で一つ所の結末を迎えた。

 死、である。

 病死、事故死、自殺、他殺、その他過程を問わずミーシャと接触した者は皆例外なく同一の結末を迎えた。彼が配属した部隊は遠からず全滅し、交戦した敵もまた同じく全滅し、呪われた小熊と忌み嫌われるのに時間は掛からなかった。

 敵も味方も関係なく、その身に触れた全てに災厄を押し付ける力……。その死神の如き力を前に教会は戦慄した。彼は呪われているのではと嫌疑もかけられた。

 だが、ある謎が彼の力を更に不気味なものに変貌させた。

 「まことに不可思議なことですが、ミーシャの身には一切の霊的加護や呪い、もしくはそれらに準ずる魔術の類は一切感じられません」

 そう答えるのはヴァルキリーのシャムエル。天の遣いである彼女は天界から賜る加護や、それと対をなす悪魔の呪詛などを感知する能力がある。その彼女がミーシャは呪われてなどいないと太鼓判を押してしまった。

 それはつまり裏を返せば、ミーシャのそれは加護でも呪いでも何でもなく偶然が重なり「たまたま」引き起こされた結果ということになる。彼自身がそうしようとしてそうなるのではなく、あくまで偶然の産物だというのだ。そうとしか証明できないと……。

 理由なき悪意、原因なき結果、論なき証拠……ミーシャの“それ”を論理的に説明し証明することなど誰にも出来ない、彼はそういう存在であるが故に、“それ”はミーシャとは切っても切れない不可分の要素なのだ。

 災厄を避ける手段は唯一つ、ミーシャに直接触れなければ良い。幸いなことにミーシャの全身を覆い隠すことでのみ災厄の一切は起こらなくなる。だからこそ彼は外出する時、公務ではもちろん甲冑を装備し、私用の際には今日のように全身を隠す服装で臨むことを義務付けられている。もし命令以外で故意にそれを破ることがあれば、その瞬間に他の六人の任務はただちに「ミーシャの抹殺」に変更される。彼の力はそれほどまでに恐れられているのだ。

 何がどんな原理でどういう理屈かは分からないが、結果としてそうなることが確定している、こう聞くと恐れを通り越して理不尽しか覚えないレベルだ。

 だがミーシャ自身に当事者としての意識はない。

 「人生ってのは自分だけのもんだぜ? 何が悲しくて周りの迷惑だの何だのを考えながら生きなきゃいけないのさ。そんなのは懐に余裕のある奴か、もしくは阿呆のすることだよ」

 彼自身は極めて矮小な個人としての利益を甘受するしか能のない小市民である。自分が清い水を飲み、自分が綺麗な空気を吸い、自分が美味いものを食えればそれで満足する手合いだ。決して他人の不幸に蜜の味を覚える下種ではないしむしろ幾ばくか心を痛めてはいるが、所詮それまでである。自己の利益不利益と他者のそれを天秤に掛けるまでもなく、常にミーシャは己だけの都合しか考えない。

 「俺のせいで不幸に? 死んだのは俺のせい? あ、そう。あんたがそう思ってんなら、それでいいんじゃねーの? 責任? あんたそれ本気で言ってる? 悪路と分かってて進んでおいて、いざ馬車が横転したら、あんたは足元の石ころに文句を言うのか?」

 たまたま自分の隣にいた奴が、たまたま不幸な目にあい、たまたまそこで命を散らした。嗚呼、悲しい悲しい。辛かっただろうね、苦しかっただろうね、何も悪いことなんてしちゃいないのに、なんて可哀想な奴なんだ。まだ前途があったはずなのに、最後に出会ったのがこんな人間で済まないねぇ。

 「で? そいつの生き死にが俺とどう関わりあるってーの? 俺が野垂れ死んだところでだーれも困らねーように、そいつがどこでどんな最期を迎えたかなんてこれっぽっちも興味無いね」

 だって、そうだろう?

 「そいつは『偶然』そうなっただけだ。俺と出会ってどうこうって以前に、きっとそういう運命だったんだと思えよ」

 隣の庭の様子など興味無し。病んでいようが飢えていようが死んでいようが、おや災難だったな、まあ頑張れや……それで終わる。

 それがミーシャという男である。





 七人の勇者でミーシャのポジションは遊撃に位置する。

 経済面のトーマス。

 影響力を持つ民間人の暗殺をゴードン。

 国家機密や国政規模の要人の間諜と内偵をクリス。

 全体的な後方支援をイルム。

 この四人は基本的に裏方であり、表立って行動するのは団長のミゲル唯一人。ミーシャもどちらかと言えば裏に属するが、彼の場合は少し毛色が違う。四人がそれぞれ担当の任務を負っているのに対し、ミーシャは正真正銘のフリー。あのイルムでさえ研究の片手間に協力こそしていたが、ミーシャに限って言えば活動することが極端に制限されている。

 理由は言わずもがな、彼の特異な力のせいだ。ミーシャが肌を見せる姿で街中の人ごみを通るだけで、その街は確実に滅び去る。かつて彼が潜入と称して派遣された親魔物領のとある町は彼が足を踏み入れてから一週間でペストが大流行し、住民の九割が病死するという結果になった。当然、元凶の本人は無傷である。

 彼の仕事はその力を使い、魔物娘が出入りする場所で「事故」を引き起こすこと、ただそれだけである。

 人は凄惨な事故、しかもそれが原因不明の説明のつかない事象により引き起こされたと知ると、何か超自然的な力が働いたのではと邪推する。呪いや神の災い、そう言った超常的なモノに理由を求めたがる。

 人々の興味は勝手な捜査を始め、その安直な好奇心は事故が発生した場所が魔物娘の溜まり場になっていたと気付く。

 その二つと人々の恐怖が符合した時、風評という名の流行病が蔓延する。人々の根底にある神の教義というミームはその風評に触れることで思考をショートさせ、結果わかり易い「悪」にマイノリティは型嵌めされてしまう。

 魔物と協調するなど神がお許しにならない!

 魔物は人の敵、手を取り合えば天罰が下る!

 人と魔物を分裂させる起爆剤、それがミーシャの役目だ。

 「アホらし。世の中には理由のない事象なんていくらでもあるって、奴さんらは知らないのかね。なあリーダー、これがあんたの言ってる運命ってやつなんだろ?」

 「私はそんな意味でその言葉を使ったことは一度もない」

 「ふーん、そう。でも俺はそう思ってる。運命なんだよ、決まってることなんだ。だからそう、これは……仕方のないことなんだよ」

 薄ら笑いを浮かべたミーシャは諧謔的にそう言い放ち、破れた肩の服を指でなぞる。

 「これで久しぶりの任務は無事終了。猛獣による事故を防げなかったサーカス団は悪評が募り、ゆくゆくは潰れ、自分達で娯楽を失った国民の不満が膨れ上がる。その不満にちょいと方向性を加えてやりゃ、矛先は親しい隣人である魔物に向けられる……か。相変わらず教会の絵図はえげついねー。そこまでしてこの国を潰したいかよ」

 「それが任務だ。我々は我々に課せられた仕事をこなせばそれでいい」

 「ふーん。そう言って、リーダーも裏でこそこそやってるみたいじゃん。どーなのよ、そのへんの事情」

 「今の君には関係ないことだ。今の君にはな」

 「今の俺には、ね……。早くしてくれよ。じゃないと俺、『何にもなれなく』なっちゃうよ?」

 意味深な物言いにミーシャの言葉にミゲルも頷きを見せる。

 「心配するな。必ず、必ずこの私が君の『意味』を見つけ出してやる。そのためにも君には仕事を果たしてもらわなねば」

 ミゲルが新たな指令書を手渡してくる。

 「珍しいな、こうも連続で仕事のお達しなんて何年ぶりよ? しかもこの内容……。ゴードンあたりの仕事じゃん、これ」

 「ゴードンは別のヤマを抱えている。クリスも無理だ。今この任務を果たせるのは現状で君しかいない。それに、知らない相手でもないはずだ」

 指令書にはある人物を対象に「事故」を引き起こし、それを秘密裏に始末せよとあった。あらゆるマイナスの偶然を手繰り寄せ別の誰かにそれを押し付けるミーシャだからこそ可能な任務。同じ暗殺でもゴードンのそれが人為的なそれであるのに対し、ミーシャは正真正銘の事故を誘発してしまう。

 さぞかし相手も災難だと、その対象を確認するが……。

 「対象は元官僚。かつて霧の大陸の小国に仕え、何度かこちら西側諸国との外交にも参じた経験がある。だがもっぱらその仕事は同じ大陸に割拠する国々の調停員として動き、八年前に職を辞した後に放浪、以後は行方知れず。だがつい最近になって教会の子飼いが調査した結果、遂にその居場所を突き止めた」

 聞いたことがある……かの種族はその愛くるしい容貌を利用して外交官として登用され、派遣先の国の男を籠絡すると。霧の大陸に近い国々に親魔物領が多いのは彼女らのそうした働きがあるからだと。

 「対象の名はホァン・シュエリー」

 騒ぎが一段落したテントの影で異国の服を風に揺らしながら佇む影。物憂げなその表情は西に傾く夕日ではなく、もうすぐ月が見える東を見つめていた。まるで遥か彼方の故郷に想いを馳せるように……。

 「現在はサーカスの花形役者として人気を集めるレンシュンマオ」

 ふと、その顔がこちらを捉え、人懐っこい笑みを浮かべて手を振ってきた。昼間少し言葉を交わしただけなのにこちらの事を覚えてくれていたようだ。だが今は心なしかその笑顔も陰って見える。

 「彼女を、殺せ」

 「……りょーかい」

 運気を喰らう姿なき怪物が今、異国の人熊猫を飲み込もうとする。

 歩く災厄と化した六人目を止める手段など……存在しない。
15/09/12 01:23更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
「滅び行く者のために」、とか言わないミーシャ。

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