後編
―― 5 ――
「“巨人の枕”の山賊討伐、だと……?」
愕然とした表情で訊いたデュラハンに、白いものの混じった眉を歪めて男は頷く。不安げに揺れる赤い瞳と、固く引き結ばれ血の気が失せた唇が、双方の思いを表している。
問いただしたイライザはもちろん、グレゴールもまた自らが受けた任務に納得がいっていないのが明らかであった。
「それも北峰の? あちらはガルムの領域ではないか! 他領の山賊退治に、何故お前率いる精鋭を向かわせねばならないのだ!?」
「仕方あるまい。領主どのの決めたことだ」
「……なれば、私が領主に――クラウディオに直接掛け合って!」
ギリリと歯を軋らせ、身を翻しかけるイライザの肩を、グレゴールが掴んだ。
怒りに燃え上った瞳で睨みつけるも、男はゆっくりと首を振る。
「王から親書にて要求されれば、領主どのに逆らうことなど出来まいよ」
「親書……たかが小娘ではないか」
「そうだな。大恩ある前国王の一人娘である、というだけだ」
だけと言うが、その事実は巨大な壁となってイライザの意気を阻む。
領主の、早世した前国王に対する恩義は実に大きく深いものだ。国王という立場に対しては歯牙にもかけないところのある彼だったが、現女王に対しては下にも置かない態度を取っている。それもこれも、彼女が“前国王の一人娘”であるがゆえだった。
「しかし、これはどう考えてもおかしいぞ!」
「その通り、どう考えてもおかしい」
苛立ち紛れの言葉に頷かれて、イライザは目を見開いた。そんな彼女に大真面目な顔を向け、グレゴールは言う。
「出兵を要求する理由は言いがかりのようなものだし、時期も不可解だ。あの辺りには坑道が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。雪と氷に閉ざされている冬ならまだしも、こんなに暖かくなってから討伐を行っては、逃げ込んでくださいと言わんばかりだ」
「……山賊退治自体が、目的ではない?」
「そう考えるのが妥当だろうな。ゆえに危険は出兵する我らよりも、残るお前たちにある」
出兵の目的が、グレゴール率いる主力を引き離すことにあるのなら、それが成功した暁には、何らかの形で主都に危険が及ぶことになるだろう。
「しかし、何故だ? ……何故、彼女がそんなはかりごとを」
「分からん。俺の考えが杞憂で、本当に山賊を討伐する気なのやもしれん。あるいは……王ではない、別の誰かの企みということもありうるな」
しかめっ面で言った男に、デュラハンは頭を押さえてやれやれと首を振る。そして鼻の頭に皺を寄せると、心底嫌そうな声で言い放った。
「きな臭い話だ。実に……実に嫌な臭いがする」
「だが策に嵌められたとて、そうやられる我らではない。一方で“竜の眼”を狙うにしろ、暁の半分と宵が丸々残っていれば、落とすのは至難の業だろうよ」
言って、男がふと笑った。
「短ければ数カ月、長ければ半年、手合わせは出来ないことになるが……」
「既に三十三年も待っているのだ。今更半年ばかり増えたところで大差はないさ」
イライザもまた、柔らかく笑って応える。
嫌な予感は、ある。一歩間違えれば、これが永久の別れになる可能性も感じている。
それでも笑って再会を誓い、別れられるのがいつもの彼女たちだった。
だが、イライザの身体は無意識に動くと、男の胸元にすがりつき、首筋に顔をうずめてしまう。何時にない行動に彼は驚いたが、動いた彼女自身もまた驚愕していた。
ぽとりと、イライザのまなじりから熱いものがこぼれ落ちる。驚きに瞬くと、その数が増える。泣いていることを自覚した途端に、恐怖が喉を突いた。
何で私は泣いているのかと問う間もなく、心の奥底で何かが「恐ろしいのだ」と囁く。彼を失うことが恐ろしい。私が失われて彼に二度と会えなくなることが恐ろしいのだと。
昔も今も、自分の存在が絶対でないことをイライザは自覚していた。彼女よりも強い者は多く居る。グレゴールもその一人。
対してかつてのグレゴールは、イライザにとって絶対だった。彼よりも強い者が居ることが頭では分かっていても、心の何処かではその不敗を、不死性を信じていた。そう、彼女は自分のことだけ考えていれば良かったのだ。彼は必ず無事に戻ってくるのだから。
だが現在のグレゴールは、イライザよりも少し上か、同程度の力しかない。今度の別離においては、彼女は倍の心配をせねばならないのだ。彼と自分の両方の無事を。
細かく震える空色の髪を、ごつごつと筋張った手が緩やかに梳いた。温かな手のひらの感触に、彼女の嗚咽が小さくなっていく。
ああ、大丈夫だ。彼の手は、まだこんなにしっかりしている。まだこんなに温かい。
イライザが面を上げ、口角を上げる。応じて、男も笑った。
「……また」
「ああ、またな」
短く言葉を交わすと、揃って踵を返して、それぞれの戦いの場に向かう。
いつも通り、再会の約束を胸に。
そして、イライザとグレゴールの不安は“裏切り”という最悪の形で結実し――とある青年たちの活躍とそれぞれの尽力によって、幾つかの喪失を経たものの“めでたしめでたし”で幕を閉じた。
―― 6 ――
リンドヴルムのとある平原で、銀の騎士と黒い女騎士が相対していた。
銀の騎士の出で立ちは、全身鎧に優美な長槍、そして盾。ただし、胸元にいつもあった翼竜の紋章は見当たらない。決して華美ではない実用性重視の装備が、優れた体躯の騎馬も相まって、聖騎士さながらの立派で堂々とした装いのように見えた。兜の隙間から覗く眼は峻厳で、岩をも突き通しそうな鋭さがある。
男に比べると、女騎士の姿は軽装だった。つけているのは命あるように見える異形の鎧だが、それが防護しているのは主に上半身だけで、下は太腿が露出してすらいる。そんな装いに対して、騎乗している馬と長大な魔剣、禍々しい意匠の盾が酷く不釣り合いだった。兜はなく、空色の長い髪が風になぶられ散っている。
しばらく沈黙していた二人だったが、不意に銀の騎士が口を開いた。
「……何だ、お前は」
固い口調と剣呑な視線、そしてこれまでの付き合いからすればあんまりな言葉に、黒の騎士は瞠目する。が、相手の目元が言った途端に愉快そうに弧を描いたこと、また今の状況と台詞に覚えがあることに気づいて、不敵に笑った。
「魔王軍第七騎兵隊所属、イライザ・カランバインだ! 貴様を貰い受けに来た!」
大剣を空にかざし、高らかに名乗りを上げる。
男は芝居がかった口調で、首筋に手をやりながら応えた。
「ほう、こんなしがない一傭兵の首を所望か。妙なものを欲しがる奴も居るものだ」
「いや、首よりかは股間のモノのほうが……って何を言わせる!?」
当時は頬を染めて言ったものだが、今は胸を張って笑みすら浮かべている。
男も喉の奥でくつくつと笑って、ふと、温かみの籠った視線を彼女に投げかけた。
「あれから、随分と経ったな」
「ああ。……その馬も、もう四代目だったか?」
「そうだ。随分と助けられ、随分と世話になった――」
銀の兜は頷くと、はるか地平へ視線を投げた。過ごしてきた年月へ想いを馳せたのか、しばらく彼方に連なる山々を眺めた後、イライザへ向き直る。
「始めようか」
「ああ」
最小の言葉でやり取りして、互いに馬を走らせる。
幾度となく繰り返された手順で向かい合い、幾百と打ち上げられた硬貨が鳴る。
それを合図として、白黒二羽の飛燕が地を滑るように翔け出した。土煙を尾羽のようにたなびかせ、互いに一歩も譲らない速度でみるみるうちに距離を詰めていく。
そして、その勢いのまま火花を上げて衝突した。必殺の剣が、槍が、互いの盾を砕く勢いで打ち込まれる。甲高い金属の悲鳴が、平原にこだました。
「っチィ!」
「くっ!」
盾を構えた腕が吹き飛びそうになるほどの衝撃に揃って傾ぎ、それでも方向転換して、再度突進を図る。旋回にしろ突進にしろ、その速度にほとんど差はない。
それでも、二度目の衝突にして勝負が決した。
大剣の攻撃を受け止めたはずの銀の盾が、撥ね飛ばされ宙を舞う。男が呆然として左腕を見れば、先ほどの一撃で力を失った指が震えていた。
がら空きになった鎧の胸元を、大剣の腹が打つ。同時に意識も狩り取られて、闇に沈んだ。
温かく、柔らかいものの上に頭が乗せられている。
適度に弾力のある心地の良い感触に、ずっと昔にもこんなことがあった、などと男は心の中で呟いた。そうだ、鼻先をくすぐる花のような匂いにも、何処か覚えがある――。
「……大丈夫か?」
目を開けた途端に、鼻の先が触れ合いそうな距離にイライザの顔があった。長い睫毛と、その奥に広がる夕暮れの海のような瞳が大写しになっている。汗に混じって、ほのかに甘い匂いが鼻をかすめた。
普段のグレゴールであれば苦笑して退けようとしただろう。だが、起きたばかりのぼんやりとした頭は、それよりも眼前の顔に注意を向けていた。
「エリー……?」
無意識に口をついたのは、長く長く封じられていた名前。
驚愕で見開かれた鬼灯色の瞳にじわりと透明な雫が盛り上がり、重力に従って枯れた頬に落ちた。肌を打った涙の熱さに、グレゴールもまた息を飲んでイライザの顔を見据える。
そして、ぽつりと言った。
「何と言うべきか――うむ、久しぶりだな」
声もないままコクコクと頷くイライザの頬に骨ばった手が伸びて、涙を拭う。
そのまま無言の気合いと共に起き上がると、グレゴールは改めて彼女へと向き直った。
「随分と長い遠回りだった。いつの間にやら、こんな爺になってしまった」
「貴様がもっと早くに思い出していれば、私はあんな思いをせずとも済んだのだ」
自嘲するように呟いたグレゴールを、イライザは泣きながらも唇を尖らせ非難する。
「まあ良い。何にせよ、貴様はもう私のものだ」
白い腕がするりと伸びて、男の首に絡んで一気に引き寄せた。介抱のためか鎧を外されたところに豊満な胸を押しつけられ、首筋に顔をうずめられて、男は困ったように笑う。
「それにしても、今の今になって思い出すなんて……ずるいな、貴様は」
「すまん」
「私がこれまで頑張ってきたのが馬鹿みたいじゃないか」
「まことに、あいすまん」
はばかるものがなくなったからか、イライザは相手の身体をきつく抱きしめつつ文句を言う。
そんなイライザの髪を優しく梳きながらグレゴールは苦笑していたが、次の彼女の言葉に笑みをこわばらせ、たらりと冷や汗を流すことになった。
「――三十三年も待ったのだ。少なくともその十倍は愛してもらうからな」
「いや待て。常識的に考えて人の命はそんなに持たない。とりわけこんな爺では……」
狼狽するグレゴールに、イライザは抱く力を強め、全身を密着させながら耳元に囁く。
「サキュバスやバフォメットには劣るが、デュラハンの魔力と言うのもそう捨てたものじゃないぞ。インキュバス化してしまえば、魂が燃え尽きるまで永遠に楽しめるさ」
爛々と瞳を輝かせるイライザに、グレゴールは完全に腰が引けてしまっている。
さながら蛇に睨まれた、いや既に頭近くまで飲み込まれている蛙のようなもので、逃げられないことなど骨の髄まで分かりきっている。それでも無駄なあがきをせずにいられないのは、獲物の性分というものだろうか。
イライザの腕が首から腰へと動き力が緩んだ瞬間に、グレゴールは抱擁からするりと抜け出した。年甲斐もなく、老人とは思えない足で脱兎のごとく逃げ出す。
彼女を嫌っているわけではない。単に、得体の知れない恐怖を感じただけのこと。そんな男の感覚を知ってか、イライザは軽く溜息をつくとにやりと笑った。
「本当に今更だ。最初からそうして逃げていてくれれば、こんな苦労はしなかったものを」
言うと同時に姿が消えたかと思えば、次には走る男に背中から抱きついて動きを止めてしまう。逃げる男を捕えるのは、彼女たちデュラハンにとってはそれこそ十八番だった。
イライザは抵抗を諦めたグレゴールに抱きついて、体温と心音を堪能するように背中に顔を当てる。万感の思いはあっても言葉にならないのか、ただ強く強く抱きしめる。
猫に首根っこを押さえつけられた鼠そのものの表情で、男が喘ぐように言った。
「……出来れば、お手柔らかに頼む」
「むろん、無茶などしないさ。――まずは手始めとして、一月ばかり繋がったままでいようか」
その無茶な申し出に、流石に命の危険を感じたのか、グレゴールは反論を試みた。
「だから待て。そもそもこの身体では、お前の望むようなことが出来るかすら……」
「何だ、私の身体に一度も注ぎ込んでいないのに、貴様は枯れ果ててしまったと言うのか?」
眉をハの字にしたデュラハンが、男の股間に手をやって撫で上げた。途端、男の身体がびくんと跳ねて、彼女を驚かせる。軽く撫でられただけだというのに、稲光のような快感が彼の背筋を駆けのぼったのだ。
「ふふっ、枯れてなどいないじゃないか。見ろ、こんなに元気だ」
思春期の少年のように瞬時に硬くなったそこを、イライザが愛でるように撫でさする。更に、その下の睾丸にすくい上げるように手を当て、やわやわと揉んで言った。
「こちらも……くふふ、精がたっぷり詰まっているな。はははっ……間に合ったんだ、私は」
狼狽して息を飲んだグレゴールの手元に、肩を越えて何かがごろんと転がりこんでくる。
とりあえず受け止めると、完全に据わった赤い瞳と視線がかち合った。確かにこういう魔物だとは知っていたが、いざ目の前にすると中々衝撃的なものだ。
「いっぱいいっぱいつながって、たくさんたくさんだしてもらうからなぁ……」
一転して舌足らずな口調になってしまっている。そう言えば、あれだけ長く付き合っていたのに、こうやって魔物としての本能を曝け出したのは今回が初めてだった。
試しに抱えた頭を撫でてみると、表情が蕩けるのと同時に背中の身体が震えた。どういう理屈かは分からないが、離れていても感覚は繋がっているらしい。
と、そこで唐突に地面の感覚がなくなった。奇妙な浮遊感。過去に一度だけ、大魔道士によってもたらされたものと同じ感覚に、男は笑う。成程、確かに捨てたものではない魔力だ。
二人の周囲の空間が揺らいでいる。それが最高潮になったところで、中の人影がふつりと消えた。脱ぎ散らされていた鎧や武具も虚空に飲み込まれ、やや遅れて二頭の馬が続く。
巨大な魔力とそれを扱う技能を持った者だけに許された、転移魔法。かすかなひずみと、決闘の合図に使った銅貨を残して、彼女たちはこの地を発った。
この日を最後に、二人の“元”騎士団長は、人の歴史の片隅から完全に姿を消したのである。
――そして、一月の後。
数十年ぶりに魔界に戻ったデュラハンは、浅黒い肌の壮年の騎士を伴っていた。
以降彼女は夫と共に、不在だった間を埋めるように、騎士として魔物として、魔界の歴史の片隅に活躍を刻んでいくことになるのだが、それはまた、別の話。
『あなたが二十と五つになったら、わたしがもらってあげる』
『……いつもいってるよね、それ。ところで、なんで二十五さいなの?』
『わたしがいちにんまえになるためだよ。いっぱいがんばって、りっぱなきしになったらむかえにいくね』
『そっかぁ。……なら、ぼくもがんばってつよくなるよ』
『なんで?』
『おんなのこにまもられてちゃ、おとこがすたる。……って、せんせいがいってた』
『それじゃ、おたがいにがんばろっか』
『うん、まけないからね、えりー』
『ぐれっぐが二十五さいになったひのしょうご、むかえにいくから。わすれないでよ!』
『だいじょうぶだいじょうぶ。これだけまいにちいわれてたら、わすれることなんてできないよ』
―― おしまい ――
「“巨人の枕”の山賊討伐、だと……?」
愕然とした表情で訊いたデュラハンに、白いものの混じった眉を歪めて男は頷く。不安げに揺れる赤い瞳と、固く引き結ばれ血の気が失せた唇が、双方の思いを表している。
問いただしたイライザはもちろん、グレゴールもまた自らが受けた任務に納得がいっていないのが明らかであった。
「それも北峰の? あちらはガルムの領域ではないか! 他領の山賊退治に、何故お前率いる精鋭を向かわせねばならないのだ!?」
「仕方あるまい。領主どのの決めたことだ」
「……なれば、私が領主に――クラウディオに直接掛け合って!」
ギリリと歯を軋らせ、身を翻しかけるイライザの肩を、グレゴールが掴んだ。
怒りに燃え上った瞳で睨みつけるも、男はゆっくりと首を振る。
「王から親書にて要求されれば、領主どのに逆らうことなど出来まいよ」
「親書……たかが小娘ではないか」
「そうだな。大恩ある前国王の一人娘である、というだけだ」
だけと言うが、その事実は巨大な壁となってイライザの意気を阻む。
領主の、早世した前国王に対する恩義は実に大きく深いものだ。国王という立場に対しては歯牙にもかけないところのある彼だったが、現女王に対しては下にも置かない態度を取っている。それもこれも、彼女が“前国王の一人娘”であるがゆえだった。
「しかし、これはどう考えてもおかしいぞ!」
「その通り、どう考えてもおかしい」
苛立ち紛れの言葉に頷かれて、イライザは目を見開いた。そんな彼女に大真面目な顔を向け、グレゴールは言う。
「出兵を要求する理由は言いがかりのようなものだし、時期も不可解だ。あの辺りには坑道が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。雪と氷に閉ざされている冬ならまだしも、こんなに暖かくなってから討伐を行っては、逃げ込んでくださいと言わんばかりだ」
「……山賊退治自体が、目的ではない?」
「そう考えるのが妥当だろうな。ゆえに危険は出兵する我らよりも、残るお前たちにある」
出兵の目的が、グレゴール率いる主力を引き離すことにあるのなら、それが成功した暁には、何らかの形で主都に危険が及ぶことになるだろう。
「しかし、何故だ? ……何故、彼女がそんなはかりごとを」
「分からん。俺の考えが杞憂で、本当に山賊を討伐する気なのやもしれん。あるいは……王ではない、別の誰かの企みということもありうるな」
しかめっ面で言った男に、デュラハンは頭を押さえてやれやれと首を振る。そして鼻の頭に皺を寄せると、心底嫌そうな声で言い放った。
「きな臭い話だ。実に……実に嫌な臭いがする」
「だが策に嵌められたとて、そうやられる我らではない。一方で“竜の眼”を狙うにしろ、暁の半分と宵が丸々残っていれば、落とすのは至難の業だろうよ」
言って、男がふと笑った。
「短ければ数カ月、長ければ半年、手合わせは出来ないことになるが……」
「既に三十三年も待っているのだ。今更半年ばかり増えたところで大差はないさ」
イライザもまた、柔らかく笑って応える。
嫌な予感は、ある。一歩間違えれば、これが永久の別れになる可能性も感じている。
それでも笑って再会を誓い、別れられるのがいつもの彼女たちだった。
だが、イライザの身体は無意識に動くと、男の胸元にすがりつき、首筋に顔をうずめてしまう。何時にない行動に彼は驚いたが、動いた彼女自身もまた驚愕していた。
ぽとりと、イライザのまなじりから熱いものがこぼれ落ちる。驚きに瞬くと、その数が増える。泣いていることを自覚した途端に、恐怖が喉を突いた。
何で私は泣いているのかと問う間もなく、心の奥底で何かが「恐ろしいのだ」と囁く。彼を失うことが恐ろしい。私が失われて彼に二度と会えなくなることが恐ろしいのだと。
昔も今も、自分の存在が絶対でないことをイライザは自覚していた。彼女よりも強い者は多く居る。グレゴールもその一人。
対してかつてのグレゴールは、イライザにとって絶対だった。彼よりも強い者が居ることが頭では分かっていても、心の何処かではその不敗を、不死性を信じていた。そう、彼女は自分のことだけ考えていれば良かったのだ。彼は必ず無事に戻ってくるのだから。
だが現在のグレゴールは、イライザよりも少し上か、同程度の力しかない。今度の別離においては、彼女は倍の心配をせねばならないのだ。彼と自分の両方の無事を。
細かく震える空色の髪を、ごつごつと筋張った手が緩やかに梳いた。温かな手のひらの感触に、彼女の嗚咽が小さくなっていく。
ああ、大丈夫だ。彼の手は、まだこんなにしっかりしている。まだこんなに温かい。
イライザが面を上げ、口角を上げる。応じて、男も笑った。
「……また」
「ああ、またな」
短く言葉を交わすと、揃って踵を返して、それぞれの戦いの場に向かう。
いつも通り、再会の約束を胸に。
そして、イライザとグレゴールの不安は“裏切り”という最悪の形で結実し――とある青年たちの活躍とそれぞれの尽力によって、幾つかの喪失を経たものの“めでたしめでたし”で幕を閉じた。
―― 6 ――
リンドヴルムのとある平原で、銀の騎士と黒い女騎士が相対していた。
銀の騎士の出で立ちは、全身鎧に優美な長槍、そして盾。ただし、胸元にいつもあった翼竜の紋章は見当たらない。決して華美ではない実用性重視の装備が、優れた体躯の騎馬も相まって、聖騎士さながらの立派で堂々とした装いのように見えた。兜の隙間から覗く眼は峻厳で、岩をも突き通しそうな鋭さがある。
男に比べると、女騎士の姿は軽装だった。つけているのは命あるように見える異形の鎧だが、それが防護しているのは主に上半身だけで、下は太腿が露出してすらいる。そんな装いに対して、騎乗している馬と長大な魔剣、禍々しい意匠の盾が酷く不釣り合いだった。兜はなく、空色の長い髪が風になぶられ散っている。
しばらく沈黙していた二人だったが、不意に銀の騎士が口を開いた。
「……何だ、お前は」
固い口調と剣呑な視線、そしてこれまでの付き合いからすればあんまりな言葉に、黒の騎士は瞠目する。が、相手の目元が言った途端に愉快そうに弧を描いたこと、また今の状況と台詞に覚えがあることに気づいて、不敵に笑った。
「魔王軍第七騎兵隊所属、イライザ・カランバインだ! 貴様を貰い受けに来た!」
大剣を空にかざし、高らかに名乗りを上げる。
男は芝居がかった口調で、首筋に手をやりながら応えた。
「ほう、こんなしがない一傭兵の首を所望か。妙なものを欲しがる奴も居るものだ」
「いや、首よりかは股間のモノのほうが……って何を言わせる!?」
当時は頬を染めて言ったものだが、今は胸を張って笑みすら浮かべている。
男も喉の奥でくつくつと笑って、ふと、温かみの籠った視線を彼女に投げかけた。
「あれから、随分と経ったな」
「ああ。……その馬も、もう四代目だったか?」
「そうだ。随分と助けられ、随分と世話になった――」
銀の兜は頷くと、はるか地平へ視線を投げた。過ごしてきた年月へ想いを馳せたのか、しばらく彼方に連なる山々を眺めた後、イライザへ向き直る。
「始めようか」
「ああ」
最小の言葉でやり取りして、互いに馬を走らせる。
幾度となく繰り返された手順で向かい合い、幾百と打ち上げられた硬貨が鳴る。
それを合図として、白黒二羽の飛燕が地を滑るように翔け出した。土煙を尾羽のようにたなびかせ、互いに一歩も譲らない速度でみるみるうちに距離を詰めていく。
そして、その勢いのまま火花を上げて衝突した。必殺の剣が、槍が、互いの盾を砕く勢いで打ち込まれる。甲高い金属の悲鳴が、平原にこだました。
「っチィ!」
「くっ!」
盾を構えた腕が吹き飛びそうになるほどの衝撃に揃って傾ぎ、それでも方向転換して、再度突進を図る。旋回にしろ突進にしろ、その速度にほとんど差はない。
それでも、二度目の衝突にして勝負が決した。
大剣の攻撃を受け止めたはずの銀の盾が、撥ね飛ばされ宙を舞う。男が呆然として左腕を見れば、先ほどの一撃で力を失った指が震えていた。
がら空きになった鎧の胸元を、大剣の腹が打つ。同時に意識も狩り取られて、闇に沈んだ。
温かく、柔らかいものの上に頭が乗せられている。
適度に弾力のある心地の良い感触に、ずっと昔にもこんなことがあった、などと男は心の中で呟いた。そうだ、鼻先をくすぐる花のような匂いにも、何処か覚えがある――。
「……大丈夫か?」
目を開けた途端に、鼻の先が触れ合いそうな距離にイライザの顔があった。長い睫毛と、その奥に広がる夕暮れの海のような瞳が大写しになっている。汗に混じって、ほのかに甘い匂いが鼻をかすめた。
普段のグレゴールであれば苦笑して退けようとしただろう。だが、起きたばかりのぼんやりとした頭は、それよりも眼前の顔に注意を向けていた。
「エリー……?」
無意識に口をついたのは、長く長く封じられていた名前。
驚愕で見開かれた鬼灯色の瞳にじわりと透明な雫が盛り上がり、重力に従って枯れた頬に落ちた。肌を打った涙の熱さに、グレゴールもまた息を飲んでイライザの顔を見据える。
そして、ぽつりと言った。
「何と言うべきか――うむ、久しぶりだな」
声もないままコクコクと頷くイライザの頬に骨ばった手が伸びて、涙を拭う。
そのまま無言の気合いと共に起き上がると、グレゴールは改めて彼女へと向き直った。
「随分と長い遠回りだった。いつの間にやら、こんな爺になってしまった」
「貴様がもっと早くに思い出していれば、私はあんな思いをせずとも済んだのだ」
自嘲するように呟いたグレゴールを、イライザは泣きながらも唇を尖らせ非難する。
「まあ良い。何にせよ、貴様はもう私のものだ」
白い腕がするりと伸びて、男の首に絡んで一気に引き寄せた。介抱のためか鎧を外されたところに豊満な胸を押しつけられ、首筋に顔をうずめられて、男は困ったように笑う。
「それにしても、今の今になって思い出すなんて……ずるいな、貴様は」
「すまん」
「私がこれまで頑張ってきたのが馬鹿みたいじゃないか」
「まことに、あいすまん」
はばかるものがなくなったからか、イライザは相手の身体をきつく抱きしめつつ文句を言う。
そんなイライザの髪を優しく梳きながらグレゴールは苦笑していたが、次の彼女の言葉に笑みをこわばらせ、たらりと冷や汗を流すことになった。
「――三十三年も待ったのだ。少なくともその十倍は愛してもらうからな」
「いや待て。常識的に考えて人の命はそんなに持たない。とりわけこんな爺では……」
狼狽するグレゴールに、イライザは抱く力を強め、全身を密着させながら耳元に囁く。
「サキュバスやバフォメットには劣るが、デュラハンの魔力と言うのもそう捨てたものじゃないぞ。インキュバス化してしまえば、魂が燃え尽きるまで永遠に楽しめるさ」
爛々と瞳を輝かせるイライザに、グレゴールは完全に腰が引けてしまっている。
さながら蛇に睨まれた、いや既に頭近くまで飲み込まれている蛙のようなもので、逃げられないことなど骨の髄まで分かりきっている。それでも無駄なあがきをせずにいられないのは、獲物の性分というものだろうか。
イライザの腕が首から腰へと動き力が緩んだ瞬間に、グレゴールは抱擁からするりと抜け出した。年甲斐もなく、老人とは思えない足で脱兎のごとく逃げ出す。
彼女を嫌っているわけではない。単に、得体の知れない恐怖を感じただけのこと。そんな男の感覚を知ってか、イライザは軽く溜息をつくとにやりと笑った。
「本当に今更だ。最初からそうして逃げていてくれれば、こんな苦労はしなかったものを」
言うと同時に姿が消えたかと思えば、次には走る男に背中から抱きついて動きを止めてしまう。逃げる男を捕えるのは、彼女たちデュラハンにとってはそれこそ十八番だった。
イライザは抵抗を諦めたグレゴールに抱きついて、体温と心音を堪能するように背中に顔を当てる。万感の思いはあっても言葉にならないのか、ただ強く強く抱きしめる。
猫に首根っこを押さえつけられた鼠そのものの表情で、男が喘ぐように言った。
「……出来れば、お手柔らかに頼む」
「むろん、無茶などしないさ。――まずは手始めとして、一月ばかり繋がったままでいようか」
その無茶な申し出に、流石に命の危険を感じたのか、グレゴールは反論を試みた。
「だから待て。そもそもこの身体では、お前の望むようなことが出来るかすら……」
「何だ、私の身体に一度も注ぎ込んでいないのに、貴様は枯れ果ててしまったと言うのか?」
眉をハの字にしたデュラハンが、男の股間に手をやって撫で上げた。途端、男の身体がびくんと跳ねて、彼女を驚かせる。軽く撫でられただけだというのに、稲光のような快感が彼の背筋を駆けのぼったのだ。
「ふふっ、枯れてなどいないじゃないか。見ろ、こんなに元気だ」
思春期の少年のように瞬時に硬くなったそこを、イライザが愛でるように撫でさする。更に、その下の睾丸にすくい上げるように手を当て、やわやわと揉んで言った。
「こちらも……くふふ、精がたっぷり詰まっているな。はははっ……間に合ったんだ、私は」
狼狽して息を飲んだグレゴールの手元に、肩を越えて何かがごろんと転がりこんでくる。
とりあえず受け止めると、完全に据わった赤い瞳と視線がかち合った。確かにこういう魔物だとは知っていたが、いざ目の前にすると中々衝撃的なものだ。
「いっぱいいっぱいつながって、たくさんたくさんだしてもらうからなぁ……」
一転して舌足らずな口調になってしまっている。そう言えば、あれだけ長く付き合っていたのに、こうやって魔物としての本能を曝け出したのは今回が初めてだった。
試しに抱えた頭を撫でてみると、表情が蕩けるのと同時に背中の身体が震えた。どういう理屈かは分からないが、離れていても感覚は繋がっているらしい。
と、そこで唐突に地面の感覚がなくなった。奇妙な浮遊感。過去に一度だけ、大魔道士によってもたらされたものと同じ感覚に、男は笑う。成程、確かに捨てたものではない魔力だ。
二人の周囲の空間が揺らいでいる。それが最高潮になったところで、中の人影がふつりと消えた。脱ぎ散らされていた鎧や武具も虚空に飲み込まれ、やや遅れて二頭の馬が続く。
巨大な魔力とそれを扱う技能を持った者だけに許された、転移魔法。かすかなひずみと、決闘の合図に使った銅貨を残して、彼女たちはこの地を発った。
この日を最後に、二人の“元”騎士団長は、人の歴史の片隅から完全に姿を消したのである。
――そして、一月の後。
数十年ぶりに魔界に戻ったデュラハンは、浅黒い肌の壮年の騎士を伴っていた。
以降彼女は夫と共に、不在だった間を埋めるように、騎士として魔物として、魔界の歴史の片隅に活躍を刻んでいくことになるのだが、それはまた、別の話。
『あなたが二十と五つになったら、わたしがもらってあげる』
『……いつもいってるよね、それ。ところで、なんで二十五さいなの?』
『わたしがいちにんまえになるためだよ。いっぱいがんばって、りっぱなきしになったらむかえにいくね』
『そっかぁ。……なら、ぼくもがんばってつよくなるよ』
『なんで?』
『おんなのこにまもられてちゃ、おとこがすたる。……って、せんせいがいってた』
『それじゃ、おたがいにがんばろっか』
『うん、まけないからね、えりー』
『ぐれっぐが二十五さいになったひのしょうご、むかえにいくから。わすれないでよ!』
『だいじょうぶだいじょうぶ。これだけまいにちいわれてたら、わすれることなんてできないよ』
―― おしまい ――
11/08/28 19:05更新 / 具入りラー油
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