連載小説
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森の中、木々の間をいくつかの影が走っていた。
薄汚れた皮鎧に身を包んだ男たちだ。皆一様に髪も髭も伸び放題で、身だしなみに気を使った様子がほとんど見られない。
それは、彼らの職業が盗賊と呼ばれるものだからだ。僻地の集落を襲撃し、食料や金品を奪い去って次の土地を目指す。そんな日々を、つい先ほどまで彼らは送っていた。
だが、彼らは今現在無手で森の中を駆けており、その表情には恐怖が貼りついていた。
「はぁはぁはぁはぁ…!」
精神力だけで手足を動かし、心臓は破れんばかりに鳴っている。
止まりたい。倒れ伏して休みたい。
そんな欲求が意識の裏に滲むが、恐怖が全てを塗りつぶし、前へ前へとすすませる。
「ぎゃあ!」
男たちの一人が、枝の揺れる音が響いた直後に転倒した。
「あ、足が!足が!」
半ば悲鳴と化した声が響くが、誰も助けるどころか振り返りもせず、転倒した男から離れて行った。
「ま、待って…!助けて…!」
喘ぎ声と呼吸が重なり合い、遠ざかっていく仲間に向けて投げられる。だが、程なくして皮鎧に包まれた背中は、木々の間に消えて行った。
「あ、ああ…!」
足の痛みに目を向けると、ごく短い投げ槍が彼の足を貫いていた。下手に引き抜けば命に関わる。それどころか、全身の疲労は指一本さえ動かす気力を奪い取っていた。
「い、いやだ、いやだ…!」
しかし男は、全身の倦怠感も足の痛みも堪え、落ち葉が降り積もり雨にぬれて出来上がった地面に指を突き立て、仲間の走り去った方へ這いずった。
このまま転がっていては、あれが来る。
あの、恐ろしい―
「ああ、ここにいましたか」
背後から降り注いだ声に、男は身をすくめた。
そのままじっとしていれば見つからないかもしれない、という錯覚が脳裏に浮かぶが、首が勝手にひねられ、顔が背後に向けられていく。
そして、木々の葉を透かした緑の日の光を背にそびえたつ、巨大な影を彼は見た。
つい先ほど、森の中のアジトに現れ、槍と拳を振るい仲間の三割を負傷させた、鉄仮面の巨体がそこにあった。
「ひぃ…!」
男の喉の奥から吐息が漏れ、笛のような音を立てる。
巨大な影への恐怖に脚を貫く槍の痛みも消え去り、彼は両手足で地面を掻いて、後ずさろうとした。しかし、降り積もり朽ちた落ち葉は男の手足によってあっけなく掘り起こされ、男はただ手足を動かしただけに終わった。
「ああ、じっとしていた方が良いですよ。傷口が広がってしまいます」
巨大な影が、男に向けてそう語りかけた。
「もうしばらくすれば、私の部下がやってきますので、彼らに保護を…」
「狙え!撃て!」
影の言葉を遮るように、森の奥から声が響いた。
地面に倒れ伏す男に向けられていた顔が上を向き、木の葉越しの日の光に鉄仮面が晒される。
直後、マントとフードと鉄仮面で身を覆った巨体に、十数本の矢が突き立った。
「……!」
一度に集中した矢が、鎧に覆われた胴や腕や足は無論、喉や鉄仮面の覗き穴を刺し貫いた。
マントとフードに覆われた巨体が揺らぎ、後ろへゆっくりと傾く。
「やった…!」
地面に倒れ伏す男が、仲間たちの快挙に思わず声を漏らした。
だが、その巨体が積み重なる落ち葉の上に転がる寸前、矢の突き立った右足が退き、その巨体を支えた。
「うぅ…」
鉄仮面の奥からうめき声が響き、フードに包まれた頭がゆらゆらと左右に揺れる。
全身に突き立つ矢がなければ、まるで立ち眩みで倒れかけたという様相だった。
「ひるむな!第二射用意!」
木々の間から声が響き、弓がぎりぎりと搾りあげられる音が響く。
「てっ!」
瞬間、風を切る音が響き、再び十数本の矢が巨体に殺到した。
肘や膝、肩など鎧の継ぎ目に突き立っていく。だが、瞬間マントの外に出ていた右腕が跳ね上がり、右ひじを狙っていた矢を掴みとった。
「お返しします」
鉄仮面の奥から低い声がこぼれ、握った矢を森に向けて投げた。
「ぎゃあ!」
木々の間から悲鳴が一つ響き、木の枝を揺らしながら皮鎧の男が一人落ちていった。彼の肩には深々と矢が突き立っており、もう弓を引くことは無理のようであった。
「くそ!第三射!」
声が響いた瞬間、籠手に覆われた右腕が跳ね動き、右肩や胴、喉元に突き刺さった矢を引き抜いていく。
そして、矢を数本まとめて握った右腕を振りかぶり、森の奥に向けて思い切り振りおろした。
空を裂く鋭い音を立てながら、別々の方向へ矢が飛んでいき、ほぼ同時に悲鳴とうめき声が響いた。
木に登る者、茂みに身をひそめていた者。弓を手に矢を番えていた男たちが、腕や肩を撃ち抜かれていた。
「くそ、やっぱり無理だ!」
「俺ぁ逃げるぞ!」
数十本の矢を受けても直立し、立ちどころに数人を負傷させた大男に、盗賊の戦意は喪失し、弓を捨てて駆けだす者が現れた。
「お、お前たち逃げるな!目だ!目を狙え!」
震え声で叱咤するが、その言葉に一度駆けだした者を止めるほどの力はなかった。
「……」
鉄仮面の奥から小さな呼気が漏れると、彼は横に数歩歩み、生えている木の一本にマントの下から左手を伸ばした。
右手より二回りは大きい、巨大な左手が樹皮を掴み、幹に指を埋める。
すると、みしみしと言う音とともに樹木が持ち上がった。大量の土砂を抱いた根が露わになり、木の葉が揺れて舞い落ちる。
そして、彼は引き抜いた樹木を、そのまま前方へ投擲した。
土と落ち葉をまきちらしながら、山なりの弧を描いて、樹木が逃走する男たちの頭上を飛ぶ。数瞬の間をおいて、木々をなぎ倒しながら樹木が落下した。
頭上から降り注いだ土と樹木に、逃亡しようとしていた盗賊の足が止まった。
樹木が道を遮ったからではない。もはや、彼らに逃げ場がないことを、悟ったからだった。



ウィルバーが盗賊たちを引き連れ森を抜けると、既に彼の部下が集結していた。
護送用の馬車に、兵士達の乗る馬車、そして兵士達は武器を手に手に、今まさに森への進行を開始しようとしていた。
「ウィルバー様!」
兵士が顔を上げ、森から出て来た巨体に向けて声を上げた。
「ああ、皆さん。とりあえず盗賊は皆降参しました。捕縛と、官吏への引き渡しをお願いします」
「はっ…ですが、お怪我は…?」
ウィルバーの指示を受けた兵士が、ウィルバーの穴のあいたマントを目にしてそう問いかけた。
「大丈夫です。この鎧と主神の御加護により、怪我などありません」
「違う!こいつは化物だ!」
盗賊の一人が、ウィルバーの言葉に声を張り上げた。
「俺たちが弓矢で射ったのに、こいつは平然と立ってたんだ!お面の目穴から目玉にだって当てたのに、後から矢を引き抜いて『ああ、見えてきました』って…!」
「少々錯乱されているようですね」
なおも言葉を紡ぐ盗賊に、いくらか憐みを含んだ声で、ウィルバーはそう評価した。
「一通り落ち着かせてから、連れて行って下さい」
「了解しました」
「それで、次はどちらに?」
「それがですね、現在救助や討伐の類の要請がもうなくなりまして…」
ウィルバーの催促に、彼はいくらか申し訳なさそうに応じた。
「それに、イスタジア殿からウィルバー様に緊急度評価制度改正についての報告があるそうですので、これを機に一時帰還されてはいかがでしょうか?」
「ふむ…」
ウィルバーはマントの下で腕を組み、小さく呻いた。
出来ることなら、まだ助けを求める声には応えたかったのだが、もう依頼がないと言うのなら仕方ない。
「では、一時レスカティエに帰還するとしましょう」
「了解しました」
聖騎士の命令に、兵士は頷いた。



聖騎士の運用について、貴族や高僧の護衛ばかりが優先され、盗賊や魔物の討伐が後回しにされている現状を彼が知ったのは、数ヶ月前のことだった。
ウィルバーは部下の尼僧に、任務の緊急度評価制度の是正を任せ、自身は後回しにされてきた依頼をこなし続けていた。
ある時はドラゴンを脅し、ある時は盗賊団を壊滅させた。そして、盗賊団の捕縛や後始末を部下に任せて、彼は次の場所を目指す。
ここ数カ月、その繰り返しだった。
だが、ここにきて比較的緊急性の高いと思われる依頼がなくなったと言うことで、彼は久々にレスカティエに帰還したのだった。
城門を通り、街を抜け、自身にあてがわれた一室の扉を開く。数カ月ぶりに主を迎えた部屋は、掃除が行き届いており、埃一つ落ちていなかった。
「……」
ウィルバーは部屋に入ると、机に向かい深々と椅子に腰を下ろした。
尻と背もたれを支える柔らかな感触は、ここ数カ月縁遠い物だった。
「……」
聖騎士はふと思いついたように右手を机の上に置くと、右手を覆う籠手をじっくり見つめた。
矢の穴はもちろん、ここ数カ月の間に刻まれたへこみや穴など大小さまざまな傷があった。
ウィルバーは籠手の留め金に指をかけ、外した。籠手の下の腕が露わになる。
そこには、傷一つ残っていなかった。ドラゴンに引っ掻かれた時の深々とした爪痕も、リザードマンに切りつけられたときの刃傷も、盗賊たちに射抜かれた時の矢傷も、何一つ残っていなかった。
すると、不意にノックの音が室内に響いた。
「…どうぞ」
籠手を右手に当て、留め金を掛けながら、彼はドアに向けて呼びかけた。
「失礼します」
「ああ、イスタジアでしたか」
短い言葉とともに入って来た尼僧に、ウィルバーはそう呼びかけた。
「お久しぶりです、ウィルバー様」
「お久しぶりです。それで、制度改正の進行状況は?」
「はい、既に意見書の提出を行い、過去の任務の優先度がおかしいと言うことを周知しました。既に新制度の擦り合わせに入っています。優先度付け制度の改正は、もう時間の問題でしょう」
「そうですか。それはよかった」
ウィルバーの鉄仮面が、尼僧の言葉によって上下に揺れた。
「それでは、私も新制度の導入までもう少し頑張るとしましょう」
「いえ、その必要はありません。どうかウィルバー様は今しばらくお休みになって下さい」
「……それは、どういう意味でしょうか?」
イスタジアの気遣いの言葉に、ウィルバーの語気が変わった。
「いえ、ここ数カ月働きづめだったのですから、新制度の導入までお休みになられては、と…」
「何をおっしゃっているのですか。もうすぐだからこそ、動かねばならないのです」
イスタジアに向け、聖騎士は淡々と説明した。
「それとも、『もうすぐ新制度が導入されるから、それまで待っていなさい』と信徒を待たせるつもりですか?」
「いえ、そう言うわけではなく…単にここ数ヶ月ウィルバー様が働きづめなので…」
「私のことはどうでもよいのです」
イスタジアに向け、彼はそう告げた。
「私には、主神より授けられた肉体と、主神のご加護があります。ほんの数ヶ月、魔物や盗賊を相手にする日々を送ったところで、どうということありません」
ウィルバーは椅子から立ち上がると、ゆっくりと部屋の扉に向かって足を進めた。
「また何か依頼が入っているかもしれませんから、またしばらく留守にします。制度導入については、よろしくお願いしますよイスタジア」
そう尼僧に語りかけながら部屋を出ようとすると、扉の前に彼女が立ちはだかった。
「イスタジア?」
「ここは通しません…!」
ウィルバーより身の丈も低く、細い彼女の言葉だったが、そこには確かな決意が宿っていた。
「確かに、制度改正を言い出したウィルバー様が、率先して討伐などの任務に当たるのはもっともです。ですが、ウィルバー様は、もっと御自身を気遣ってください」
扉の前に立つ彼女は、鉄仮面の隙間を見据えながら、そう言った。
「イスタジア、先ほども言いましたが私には主神の御加護と祝福が…」
「主神の御加護と祝福があれば、この数ヶ月間不眠不休で歩き回り、魔物や盗賊の討伐ができると言うのですか!?旧魔王を滅ぼした、あの元勇者でさえ宿泊や野宿を繰り返しながら旅をしたんですよ!勇者の洗礼を受けていないウィルバー様が、その様な無理をすればどうなるか分かりますか!?」
「無理などしていません。適度に休憩を挟みつつ、任務にあたっています」
「ウィルバー様だけが先に目的地に向かい、後から来た兵士に魔物や盗賊を引き渡して、一人で次の場所へ向かっていると聞きました」
「……主神の祝福と御加護が、私に活力をもたらし、力を与えてくださっているのです」
「嘘はやめてください!弓矢で射られたり、ドラゴンに炎を浴びせられたことは聞きました!治癒魔法で傷を治せても、体力は補われないんですよ!?」
「…分かりました、イスタジア」
ウィルバーは、掴みかからんばかりの剣幕のイスタジアに向け、右手を掲げて見せた。
「よく、ごらんなさい。つい先日も、右手に矢を受けましたが、ほら」
傷だらけの手甲を外して、ほぼ無傷の右手を晒す。剥き出しの人差し指を握ると、彼はそのまま思い切り指をひねった。
「っ!?」
辺りに響いた鈍い音と、あらぬ方向へ曲がる人差し指に、イスタジアが目を見開く。
「ウィルバー様!?」
「大丈夫、です…!それよりこれを…」
いくらか苦痛の滲む声で呻くと、彼は折れ曲がった指をまっすぐにのばし、しばしの間をおいて指を離した。
骨が折れたはずだと言うのに、指はまっすぐに天井を指していた。
「主神の御加護により、傷の治りが早いのです。また、主神はこれだけにとどまらず、疲労の回復や骨格及び筋力の強化など、様々な御加護を授けてくださいました」
右手をおろし、籠手を当てながら彼は続ける。
「主神の御加護により、遠くの物音や声を聴き、尋常ならざる力を振るい、眠ることなく疲れを癒すことができるのです。私には力があり、助けを求める信徒がいる。だから、私がゆっくり休む暇はないのです」
「本当に…そうでしょうか…?」
尼僧が、安心させようとするウィルバーの言葉に首を振った。
「ウィルバー様は、主神の御加護だとおっしゃっていますが、実は違うのでは…?」
「…では、私の身を守り、手助けをしてくれるこの加護は一体だれが?」
「……高名な魔術師の家系の血筋…」
「っ!?」
迷いながらもどうにか紡ぎ出したイスタジアの言葉に、ウィルバーが鉄仮面の奥で息をのみ、小さく後ろに退いた。
「先祖代々魔力の側にいたため、魔物の魔力の影響をほとんど受けない。そして土の精霊は骨と力を強くし、水の精霊は傷と疲れを癒し、風の精霊が音と気配を伝え、火の精霊が炎や冷気を遠ざける。魔術師の家系の血の力と、精霊たちが、ウィルバー様の加護なのではないのでしょうか…?」
そこまで紡いだところで、イスタジアは聖騎士の放つ静かな怒りの気配に気が付いた。
「すみません…過去の任務について調べている間、ウィルバー様がご自身の出生について調べたと耳にしまして…」
「…それで、興味本位で私の生まれを調べ上げた、と?」
「…ウィルバー様の、力になろうと…」
僧衣の袖口を握りしめ、小さく体を震わせながら、イスタジアはそう言葉を搾り出した。
「ウィルバー様が…いつも、頼もしくて…でも、いつも不安で…助けになりたいと、いつも、いつも思っていて…」
イスタジアの声が徐々に涙声になり、発音も不明瞭になっていく。
「でも、いつも一人で先に動いて、私たち部下や、魔物や盗賊まで怪我させまい殺すまいと傷だらけになりながら頑張って…」
ぐすん、と鼻をすすり、彼女は続けた。
「ウィルバー様を守っているのが主神のご加護でも、精霊の加護でも、どちらでもいいんです…ですが、お願いです。どうか、もっと自分を大切になさってください…!」
震え声で、彼女は最後に顔を上げた。イスタジアの目は涙で潤んでおり、唇は小さく震えている。
だが、彼女の視線の先にある鉄仮面には、何の感情の気配も滲んでいなかった。
「……イスタジア…あなたの気遣いは、よくわかりました…ですが私は、休むわけにはいかないのです」
不意に、鉄仮面の奥からウィルバーの低い声が紡がれる。
「主神の御加護により遠くの声や物音が聞こえることは御存じですね?以前は、私を謗るうわさ話や人食い鬼の替え歌ばかりが聞こえていましたが、ここ最近はもっと遠くの声が聞こえるようになったのです。ほら、聞こえませんか?」
鉄仮面の前に指をかざして言葉を切ると、彼は顔を傾けた。
尼僧も耳を澄ませるが、聞こえてくるのは廊下を行き交う衛兵の足音と、僅かに響く街の喧騒ばかりだった。
だが、ウィルバーの口から紡がれたのは、イスタジアの耳を疑う言葉だった。
「ああ、今も助けを呼ぶ声が聞こえます…分かりますか、イスタジア。この間にも、助けを必要としている人々がこんなにいるのです」
「!?」
イスタジアの表情が微かに強張るが、ウィルバーは構うことなく続けた。
「私は、この御加護が主神の物だと信じていますが、精霊の物であっても構いません。助けを求める声が聞こえ、私には彼らを助けるだけの力がある。ならば、やるべきことは決まっているでしょう?」
ウィルバーの言葉に熱が宿っていく。
「ほら、まだ助けを呼ぶ声が聞こえます…助けにいかなければ…!」
「ま、待ってください!」
圧倒されかけていたイスタジアが、我を取り戻して声を張り上げた。
「ウィルバー様!あなたは疲れてらっしゃるのです!」
「しかし、助けを求める声が…!私が行かねば、信徒が…!」
「無理をしていてはウィルバー様の方が先にどうにかなってしまいます!」
ウィルバーを押しとどめようと、その巨体に組みつき、マントの端を握りながら彼女は続けた。
そうしなければ、この人は完全に壊れてしまう。
イスタジアの脳裏に、ウィルバーの覗かせた疲弊の片鱗に、彼を止めなければならないと言う義務感が芽生えていた。
「お願いです!どうか、今日一日、今日一日だけでも休んでください!」
「イスタジア…」
鉄仮面の奥から、ウィルバーは尼僧の名を呼ぶと、瞳を潤ませる彼女を見据え、低く呟いた。そして、軽く頭を振りながら、彼はゆっくりと続けた。
「…なるほど、あなたがなぜ私を休ませたがるのか、ようやく分かりました…」
ウィルバーの言葉に、尼僧の胸中に安堵感が芽生える。だが、続く言葉に彼女の表情が強張った。
「イスタジア、あなたは魔王に操られているのですね」
鉄仮面の奥から響いたその声は、酷く冷え切っていた。
「ち、ちが…!」
「違う?ならば、なぜ私をそうも休ませたがるのですか?なぜ、この助けを求める声に応えようとするのを、止めようとするのですか?」
静かに、ごくわずかな怒りを語気に滲ませながら、聖騎士はマントの端を掴み、身を強張らせる尼僧に向け淡々と問いかけた。
「まるで、私を押しとどめて、少しでも魔物が動き回る時間を稼ごうとしてるようにしか思えません」
「そんな…!」
そんなつもりではないのに、と彼女の口が紡ぐより先に、鉄仮面の奥から冷徹な声が響く。
「では、なぜ私を止めようとするのですか?」
「それは……」
イスタジアはしばしの逡巡を挟んでから、ようやく答えを口にした。
「私が、ウィルバー様を…慕って…いるから、です…」
愛しているからでもなく、好きだからでもなく、慕っているから。
聖騎士であるウィルバーと尼僧のイスタジアが愛を育むことは出来ないが、想いを寄せて慕うことは許されるだろう。
そう考えての発言だった。
「ふむ、なるほど…分かりました」
イスタジアの告白に、聖騎士は特に感慨もない様子で続けた。
「イスタジア、あなたはどうやら知らぬうちに魔物に誑かされているようです」
「そ、そんな!」
彼女の純粋な想いを踏みにじる言葉に、彼女は抗弁しようとした。
「私を慕っていると言いますが、それはどの程度の物でしょうか?私を見る度に身体が疼くだとかの、肉欲に基づく感情ですか?それとも母が子を愛し、古賀は歯を愛するように?もしくは、主神が私を愛してくださるように、あなたも私を愛してくださるのですか?」
「もちろん、主神が我らを愛するように、です」
肉欲を取り違えて生じる下賤な感情ではない。彼女はそう信じて、聖騎士の問いに答えた。
「そうですか…」
いくらか、語気に含まれていた怒りを鎮めながら、彼はゆっくりと続けた。
「先ほど、主神が私に御加護と祝福を授けた、と申ししたね。祝福と言うのは、私に真実の愛を見分けるために主神が授けてくださったものなのです。
 先ほど言った通り、愛には三種あります。肉欲に基づく感情、血縁に基づく愛、そして主神がもたらす真実の愛です。
 肉欲や血縁による愛は、魔物でも容易に作り出すことのできます。ですが真実の愛の前や大いなる試練の前には、肉欲も血縁も掻き消えてしまいます」
一体ウィルバーが何を言わんとしているのか、尼僧にはおぼろげながら予想できた。
「主神は私に、このまがい物の中に埋もれた真実の愛を見つけ出す術を授けてくださいました。主神の祝福により、私はこれまで肉欲や血縁によるまがい物の愛に惑わされることなく生きることができたのです」
「それで、私の想いが真実の愛か否かを確かめたい…と?」
「そうです」
イスタジアに向け、鉄仮面が頷いた。
「…分かりました、ウィルバー様。どうか、私の想いを試してください」
「ええ、そのつもりです」
「その代り、一つだけ約束していただけますか?」
「何でしょう?」
「私の想いが、主神の如き真実の愛によるものだとわかったら、どうか今日一日と言わず、もっとあなたご自身を大事になさってくださいませんか?」
「……約束しましょう」
しばしの間をおいて、ウィルバーはイスタジアに頷いた。
「それでは、お願いします」
いかなる試練も、いかなる試しも耐えて見せる。
その決心を胸に、イスタジアは握りしめていたウィルバーのマントから、指を離した。
「ではイスタジア、私を見てください」
ウィルバーの手がマントの下から現れ、顔を覆う鉄仮面に指がかかった。




短いものの、大きな悲鳴が辺りに響き渡った。
「何だ!?」
廊下を巡回していた衛兵が、突然の悲鳴ににわかに緊張を走らせ、悲鳴の方へと駆けだした。
そして、角をいくつか曲がり通路の一本に入った衛兵の目に、一組の男女の姿が映り込んだ。
鉄仮面とマントとフードに身を覆った大男と、その腕に囚われた尼僧だった。
「ち、違うんです!ウィルバー様!先ほどのは、少し驚いただけで…!」
「大人しくしなさい、イスタジア。ああ、衛兵!いいところに来ました!」
「は、はあ…」
鉄仮面の聖騎士の呼び声に、衛兵は状況を把握しきれないまま二人の下へ歩み寄った。
「この尼僧が、どうも魔物に誑かされている可能性があるのです。ですから、異端審問局まで連行と尋問をお願いします」
「ウィルバー様…!」
「イスタジア、身の潔白が証明されることをお祈りします。さあ、彼女の言葉に惑わされぬうちに、早く連行お願いします」
「は、はい」
衛兵は聖騎士の命令に応じると、尼僧の細い肩を掴んだ。
そして、必死に身を捩って逃れようとする弱々しい力を押さえながら、彼は異端審問局に向けて歩き出した。
「ウィルバー様!違うのです!ウィルバー様ぁ!」
衛兵の腕の中、尼僧が必死に聖騎士に向けて声を上げるが、鉄仮面の聖騎士は二人の背中を見送る他、何もしなかった。
そして、二人の姿が廊下の角に消えたところで、彼は自分の部屋に戻った。
後ろ手にそっと扉を閉め、部屋の奥へと足を進める。
無言のまま椅子に腰を下ろすと、彼は机に肘を突き、指を組んだ。
静まり返った部屋に、どこからかウィルバーの名を呼ぶイスタジアの声が響いていた。だが、それも次第に弱まり、彼の耳に届く無数の声の一つに紛れていく。
鉄仮面の奥の表情はうかがえないが、彼はたっぷりの間をおいてから、くぐもった声を紡いだ。
「主神よ…あなたの御加護と祝福に、感謝を…」
低い祈りが、彼の他誰もいない部屋に響いた。
12/08/21 16:23更新 / 十二屋月蝕
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