連載小説
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木々の繁る山道を、人影が一つ歩いていた。
人の間に立てば見上げるほどの背丈と、異常に広い肩幅を備えた巨漢だ。
ただし、その姿は荷運びや登山家のそれではなく、プレートアーマーとマントで全身を追おうという奇妙な出で立ちだった。
そして、頭部を覆うフードの下には、覗き穴が穿たれただけの鉄製の仮面が顔を隠している。
「……」
鉄仮面の下から、微かな息遣いを建てながら、聖騎士ウィルバーは不意に足を止め斜面の情報を見上げた。
木々が視界を遮り、何も見えないが、ウィルバーの耳は確かに物音を捉えていた。
「…もうすぐ、ですか…」
木々の向こうに向けてそう呟くと、彼は止めていた足を踏み出した。すると斜面に鎧の爪先が食い込み、彼の一歩を支えた。彼の背後に目を向けると、ここまで登ってきた足跡が階段のように刻まれているのが見て取れ、ウィルバーの重量が尋常ではないことをあらわしている。
やがて、彼は木々の間を抜けると、山の中腹ほどにある広場に出た。
地面が平らになっており、木々も殆ど生えていない。そして、山肌には洞窟が一つ口を開いていた。
「ここのようですね…」
広場に散らばる細かい骨の破片を見回してから、鉄仮面を正面の洞窟に向けた。
すると、洞窟の奥から、砂利を踏みしめるもの音とともに何者かが近づいてきた。
「誰だ…?」
洞窟の暗がりから、いくらか眠たげな声とともに日向へ姿を現したのは、二十にもなっていなさそうかな顔立ちの少女だった。
だが、彼女の髪の間からは二本の角が天に向かってそそり立ち、背中には蝙蝠めいた広い翼が広がっている。そして太く長く発達した四肢の先端には鋭い爪が生えそろい、尻尾を含む全身を分厚い鱗が覆っていた。
いくらか人間らしい体つきを残しつつも、ドラゴンの特質を残したその姿は、魔物の特徴であった。
「これは初めまして。教団で聖騎士を務めさせていただいております、ウィルバーと申します」
「ほう、客人かと思えば、教団の聖騎士サマか…」
ドラゴンが、語気から眠気を取り除きつつ、楽しげに唇の端を釣り上げた。
「それで、何用だ?」
「ええ、実はこの近隣の集落で、牛などの家畜がさらわれるという被害が出ていまして」
「ああ、それは我がやった」
「なるほど。では、二度とそのような真似をしないでいただきたいのですが」
「ほう?」
ドラゴンは鉄仮面の聖騎士の言葉に、面白そうに声を漏らした。
「我に何かを命じたければ、力でねじ伏せてから今一度言うがいい。もっとも、兵隊を引き連れた聖騎士サマでは我に傷一つ負わせられるかどうか…」
「部下はこの山を包囲する形で待機させています」
「それは面白い。人間との一対一での勝負なぞ、久しぶりだ…」
マントの下で、ウィルバーの右腕が動き、掲げられる。彼の右手には、ごく短い投げ槍が握られていた。
「主神の名の下、信徒の命と財産を守るべく、勝負させていただきます」
「……」
ウィルバーの口上に、ドラゴンは唇の端を舐め、爪の生えそろった右手を握りしめた。



レスカティエの一角、日も碌にささない暗い一室に、一人の尼僧がいた。
机に向かい、ランタンの明かりを頼りに、彼女は積み上げられた資料から何事かを紙に書き写していた。
「…ふぅ…」
手元にある資料の内容の一部を写し終えると、尼僧はペンを置きながら一息ついた。
尼僧、イスタジアの上司である聖騎士の指示で、過去の聖騎士達に対する任務の内容をまとめているのだ。
「全く、とんでもないことになっているのね…」
ここ数年の、聖騎士に対する任務の概要を見返しながら、イスタジアはため息とともに呟いた。
そこに並んでいるのは、貴族や高僧の護衛が多く、魔物の討伐や異教徒の摘発に至っては十に三つほどしかないのだ。
確かに魔王交代後、魔物の襲撃が減ったという話もある。しかし、レスカティエに直接寄せられた直訴や聖騎士の出動依頼を見てみると、魔物による被害は減ったどころか増えたようにも見える。
『家畜がさらわれる』
『若者が誑かされた』
『娘が帰ってこない』
『魔物がいるお陰で山に入れない』
『お願いです』
『どうにかしてください』
『助けてください』
『助けてください』
『助けてください』
信徒たちの必死の思いがつづられた直訴状が、調べれば調べるほど出てきた。
だが、その多くは緊急性が低いと判断されて後回しにされ、やがて時間切れとなりここ公文書館に仕舞い込まれてしまっているのだ。
「…どうにかしないと…」
ごく一部の者の身辺警護のために聖騎士が駆り出され、今まさに助けを求めている者が放置されている。
この異常な状況を是正しなければならないという義務感が、イスタジアの胸中にも芽生えていた。
「ええと、次は…」
「おお、精がでとるね」
不意に背後から掛けられた声に彼女が振り向くと、そこには眼鏡をかけた老人が一人立っていた。
「あ、司書さん」
「ああ、邪魔して悪かったね。見回りに来ただけだよ。決まりでねえ」
いくらか申し訳なさそうに、老人はそう謝った。
「いえ、ちょうどひと段落ついたところですから」
「そうか、はかどっているようで良かった」
「司書さんがいろいろ教えてくださったおかげですよ」
「はは、お役にたててうれしいねえ」
イスタジアの感謝の言葉に、老司書は笑った。
「全く、閲覧者がみんな嬢ちゃんみたいな奴ばっかりなら、こんな見回りも必要ないんじゃがのう」
「それはどういう…?」
司書の発言に対し、彼女は疑問を返した。
「何、ここの地下には閲覧禁止の書庫があるんじゃが、時々ただの閲覧者みたいな顔して入り込もうとする輩がおるんじゃよ。ほれ、あそこじゃ」
老人が書棚の列の合間を指示した。彼の指の先にあったのは、床から直接生える、コの字型の金属棒だった。
「あの落とし戸の下が、地下書庫じゃ」
「…あの、それ私に教えて良かったんですか?」
「問題ない。あの落とし戸は、『言の戸』と呼ばれておって、簡単には開かんようになっとる」
すたすたと老司書はその金属棒まで歩み寄ると、軽く手を触れて揺すった。
「まあ、簡単に言うと落とし戸自体が人よりでかい石の塊で、開くには滑車をいくつも使うか何人かがかりで持ち上げるかしないと無理じゃ」
「ただの重い蓋なのに『言の戸』って、なんだか仰々しいですね」
落とし戸の名前に困惑する尼僧に、司書は笑った。
「滑車を使うにしても仲間を使うにしても、言葉が必要じゃろう?だからそういう名前がついとるんじゃよ」
「ああ、なるほど!」
イスタジアは由来に納得し、手を一つ打った。
「それじゃあ、わしはそろそろ戻るが、嬢ちゃんも体を壊さぬ程度にほどほどにしておくんじゃぞ?」
「ええ、大丈夫です。ほどほどに頑張ります」
司書の気遣いに、彼女は笑みを浮かべて礼を述べた。だが、その一言に老人は微かに顔をしかめた。
「うむ…言葉通りならいいんじゃが…じつは十年以上前に、嬢ちゃんと同じことを言って三日三晩調べ物を続けた奴がおってのう…」
「…何してたんですか、その方…」
「うむ、たしか昔の出生届ばかり調べておったが…あれはつらかったのう。わしも帰るに帰れないしで、三日三晩泊りがけじゃった」
当時を思い返しているのか、司書は眉を寄せてうんうんと頷いた。
「普通の僧侶ぐらいだったら、力づくで叩き出せたんじゃが、その男はやたら体格がよくてのう…二日目からは話しかけることもできないぐらい集中しとったし、何より仮面で顔が見えなかったのが…」
「仮面?」
司書の言葉に、イスタジアは脳裏に一人の人物の姿を思い浮かべてしまっていた。
「あの、その方って…」
「ん?ああ、名前も覚えとるよ。確か、ウィルバーとか言ったかの」
司書の口にした名前に、イスタジアは息をのんだ。



山の中腹、洞窟の前に広がる広場で、二つの影が交錯を繰り返していた。
一つは、赤い鱗に全身を覆ったドラゴン。もう一つは、プレートアーマーとマントで身を隠す巨漢の聖騎士だった。
「ふっ」
聖騎士が、右手に握った槍をドラゴンに向けて繰り出す。
鋭い刺突に、ドラゴンは身を捻って躱し、穂先の直下に鋭い爪の生えそろった腕を振り下ろした。
槍がへし折れるか、耐えきれず手放すか。しかしいずれかを狙っての手刀は空を切った。聖騎士が、繰り出した槍の穂先を瞬間的に引きもどしていたからだ。
そして、空振りしたドラゴンの手刀に向けて、再び刺突が襲いかかる。
身を捻る間も、腕を動かす間もなく、分厚い鱗を槍の穂先が穿った。
「っ!?」
鱗を割り開き、奥へ奥へと入り込もうとする金属の感触に、ドラゴンは腕を庇いつつ飛びずさった。
瞬間、浅く鱗を穿っていた槍が引き抜け、聖騎士と彼女の距離が開く。
腕に視線を下ろすと、手の甲辺りの鱗に穴が空き亀裂が走っている。亀裂の奥には桃色の肉が覗いており、もう少し回避が遅れていたら負傷に至っていたことを示していた。
「面白い…!」
鱗の穴を意識から追いやり、彼女は舌舐めずりをした。
ドラゴンとして生まれて数百年、幾たびも人間の挑戦を受けてきた。そしてこの姿になって二十数年、初めて彼女の鱗に傷をつけた者が現れた。
その事実が、彼女の背筋をくすぐり、ぞくぞくさせる興奮を呼んだ。
「ふっ…!」
仮面の下からの吐息とともに、鉄仮面は手にしていた槍を地面に突き立て、右手をマントの下に消した。直後、マントを翻して現れた右手には、肘から指先ほどの長さの短槍が握られていた。
指が踊り、手の中で短槍が逆手に握られ、肩口まで掲げられる。ウィルバーの右腕に力が籠り、短槍が投擲された。
そして聖騎士は地面に突き立てられた槍を引き抜くと、土を背後に蹴り飛ばしながら槍を追って跳ぶ。
投げ槍と本人による二段構えだ。人間離れした体躯と訓練の結果たどり着いた、馬鹿げた戦法であるが、確実に相手を仕留める意志の籠った戦法だった。
ドラゴンは飛来する槍を見据え、腕を振って払った。そして、刺突を繰り出すウィルバーに向けて足を踏み込みつつ、鋭い鉤爪を突き出した。
ドラゴンの爪と聖騎士の槍が瞬間擦れ違い、槍の穂先がドラゴンの肩口を掠め、右腕がウィルバーの脇腹を浅くえぐった。
爪が金属を削り取る感触に、ドラゴンの足が跳ねあがり聖騎士の胴を狙う。だが迫る蹴りを、マントの下でウィルバーの左腕が食い止めた。
「…やるじゃない…」
ギリギリと足を押し込みながら、ドラゴンはそう鉄仮面に向けて口を開いた。
「我に一対一でここまで戦えるとは…さては、勇者か…?」
「いいえ、神のご加護と祝福です」
ドラゴンの推測をウィルバーは否定した。
「人よりも主神に愛されているのです」
「ふん、いるかどうかも危うい神とやらが、どこまで助けてくれるか…!」
「主神はいつでも私を見守っておられるのです…!」
低く言葉を交わすと、ウィルバーは受け止めていたドラゴンの蹴りを押しやった。
反動と跳躍により彼我の距離が空き、互いに姿勢を立て直す。
そして、相手が姿勢を立て直す隙を与えまいと、二者はほぼ同時に地面を蹴る。
右手に握る槍の穂先が、右手から生える爪の先端が、数瞬の間に風を切って接近し、針の先ほどの先端同士がふれあい、互いに逸れた。
ドラゴンも聖騎士も外れてしまった攻撃から意識を反らし、互いに残る左手を繰り出す。
マントが翻って現れた聖騎士の左手と、ドラゴンの平手が激突した。
「なんだ、これは…」
自身の左手を受け止める、右手より二回りは巨大な左籠手に、ドラゴンは目を見開いた。
「主神の祝福ですよ…」
ウィルバーがドラゴンの言葉に応じるようにつぶやき、彼女の爪の間に籠手の指を潜り込ませ、ちょうど左手同士で組み合う姿勢を取った。
「もう一度だけ言わせていただきます…どうか、もうこの近隣の集落の家畜をさらうようなまねはせず、静かに暮らしていただけませんか…?」
「断る…!」
左手に力を込め、ギリギリとウィルバーの左手を握りしめながら、ドラゴンが呻いた。
「我を従わせたくば、力でねじ伏せてからにしろ…!」
「…かしこまりました…」
「っ!?」
瞬間、左手に加わった力に、ドラゴンは喉の奥で声を上げた。
今まさに、籠手ごと握りつぶされようとしていたはずの聖騎士の左手が、急に彼女の爪の谷間に指を食い込ませたのだ。
手のひらに痛みが走り、鱗と鱗が擦れて音を立てる。
そして、籠手に食い込んでいたはずの爪が浮かび上がり、徐々に彼女の指が広がっていく。
「あ…が、ぁ…!」
痛みを堪えながら右手を引き戻し、指先を揃えて突き出す。彼女の放った貫手は、まっすぐにウィルバーの左わき腹に迫った。
だが、その爪がプレートアーマーを貫くどころか、マントに触れる手前で逸れた。
ドラゴンの右手首を、ウィルバーが右手に握る槍の石突で突いたからだ。
「ぐ、う…!」
手首が持ち上がり、徐々にドラゴンの膝が曲がっていく。
聖騎士の左手に、彼女が圧倒されつつあるのだ。
そのことを自覚した瞬間、ドラゴンの胸中に微かな感情が芽生えた。このまま膝をついて、負けを認めようじゃないか、という敗北への誘惑だ。
左手は痛いし、右手の鱗の穴も気になるし、腕も疲れてきたし、膝を中途半端にかがめて力を堪えるこの姿勢も辛い。
とっとと膝をついて敗北を認め、終わらせようじゃないか。
そんな、甘い敗北への誘いが、ドラゴンの脳裏で囁かれる。
「う、ぅ…!」
淡々と左手で力を加える聖騎士の姿が、ドラゴンにはもはや岩の塊に見えつつあった。
本当にこの男は人間なのだろうか?
そんな疑念が胸中に浮かぶ。
仮に人間だとすれば、彼と魔物の間に子が生まれた時、その子はどれほど強くなるのだろうか?そう、たとえばドラゴンの自分と…
「っ!?」
自分がいつの間にか、この場で負けを認め聖騎士の子を孕む想像をしていたことに、ドラゴンは気が付いた。
そして、いつの間にかぬめりを帯びていた股間の鱗の亀裂から意識を引きはがすと、疲労と重量感に屈服しそうな全身を叱咤激励した。
まだ負けるわけにはいかない。まだ、彼女は全力を尽くしていないのだから。
「はぁっ!」
全身の力を弛緩させ、ドラゴンはその場に尻もちをついた。
支えが突然消滅したウィルバーは、左手を突き出した姿勢のまま前方に倒れ込む。
だが、彼の腕や足が地面を捉える前に、ドラゴンは尻から背中を地面につけ、鱗の生えそろった太い脚を聖騎士の腹に打ち込んだ。
倒れつつある聖騎士の巨躯に、横向きの力が加わり、ちょうど巴投げの要領でウィルバーは宙を舞う。
そして、一瞬の空白を挟み、聖騎士の身体が背中から地面に叩き付けられた。
「がはっ…!」
プレートアーマーのぶつかる衝撃音とともに、鉄仮面の下から息を搾り出す音が響く。
いくらか苦しげなその吐息に、ドラゴンは胸の奥をちくりと何かが刺したのを感じた。
「だ、大丈夫か?」
いつの間にかゆるんでいた聖騎士の左手から爪を抜くと、ドラゴンは起き上がり、仰向けに倒れ伏すウィルバーに思わずそう問いかけた。
「…なかなか、やりますね…」
吐息を一つ挟んでから、ウィルバーはドラゴンにそう応じた。
とりあえず、返事ができる程度のダメージで済んだようだ。その事実に、ドラゴンは心中で胸を撫で下ろした。
「そうだ、我と人の力の差、思い知ったか?」
「ええ、痛いほどに…」
ウィルバーの返答に、ドラゴンは微笑んだ。彼女の胸中に、強者同士が拳を交えた際特有の、友情めいた感情が芽生えていたからだ。
だが、鉄仮面の下から紡がれた続く言葉に、彼女は表情を強張らせた。
「やはり、主神から与えられた肉体のみで戦うなど、驕りと慢心の極みでした。主神よ、今ひとたび私をお守りください」
祈りの言葉の直後、鉄仮面の巨躯が跳ねあがった。
彼は空中で猫のように身を反転させると、足から地面に降り立ち、右手に握った槍を繰り出した。
「ひっ!?」
ウィルバーの突然の動きに、ドラゴンはひきつった声を漏らしながら身を捩り、尻もちをついた。彼女の顔の横を槍が通過し、穂先が地面に食い込み、深々と埋まっていく。
「主神よ、地を泥濘として頂ければ、幸いです…」
鉄仮面の下から低い声が紡がれ、ウィルバーの右足が軽く地面を踏みしめる。
すると、砂利に覆われ、踏み固められているはずの地面が柔らかくなり、ずぶりとドラゴンの尻や足を浅く飲み込んだ。
「こ、これは…精霊か!?」
地質の変化に、ドラゴンは遥か以前に戦った人間のことを思い出した。精霊の力を借りていたというその人間は、今のように地面を泥濘に変え、彼女の足を捉えた。その時は人の数倍は有ろうかと言う巨体だったため、泥濘を蹴り飛ばしてその人間に報いを与えたが、今は違う。
泥濘に足を取られることが、即座に身の危険につながるのだ。
「ひ…!」
ドラゴンは声を漏らすと、全力で地面を蹴り、泥濘の中を転がるようにしてその場を離れた。
直後、彼女のいた場所をウィルバーの巨大な左拳が叩く。砂利交じりの泥が、辺りに飛び散った。
「く、う…」
ドラゴンは泥濘の中から立ち上がると、鉄仮面を付けた巨躯に向き直り、身構えた。
すると、地面に深々と突き立てた槍をそのままに、ウィルバーはゆっくりと鉄仮面を彼女の方に向けた。
「……」
「……何故だ…?」
無言でドラゴンを見つめる鉄仮面の覗き穴に向けて、ドラゴンは問いかけた。
「なぜ、我に向かってくる?勝負はついただろう」
あそこから、互いの妥協点を見出すべく協議するつもりだったのに、と彼女は胸中で付け加えた。
「あなたがおっしゃったからですよ。『力でねじ伏せてから、命じろ』と」
砂利交じりの泥濘の中、鎧に包まれた足を沈めることなく、彼はドラゴンに向き直りつつ続けた。
「そして、私にはそれが出来ます」
直後、彼は右手をマントの下に入れ、腰の裏程から何かを取り出した。それは、先ほど取り出したのと同じ短槍だった。
ただ、指の間に二本ずつ、計八本が彼の右手に納まっている。
彼の動きに既視感と、背筋の凍るような予感が走り、ドラゴンは両足に力を込めた。
すると、ウィルバーの右手が舞い、八本の短槍がほぼ同時に投擲される。
四肢と翼、腹と尾を狙った八本の槍を追い、聖騎士が地面を蹴った。泥濘はウィルバーの体重を受け止め、一歩ずつ地面を踏みしめながら迫ってくる。
泥濘と八本の槍と聖騎士。もはや、多少身体を捻ったりする程度ではどうしようもない。
ドラゴンは翼をばさりと広げると、空を叩いて宙に舞いあがった。
彼女の爪先を掠めて短い槍が通り抜け、聖騎士の身の丈の数倍はあろうかと言う高みまで彼女は飛ぶ。
槍を投げてくる可能性はあるが、足を取られやすい泥濘の上にいるよりははるかに戦いやすい。
「こ、これならば…!」
砂利交じりの泥濘の上に立つ聖騎士を見下ろしながら、ドラゴンはほっと胸を撫で下ろし、直後自身の心理に驚きを覚えた。
なぜ空に飛んだだけで、この人間相手に安堵感を覚えた?まるで、地上にいては勝てないから、空に逃げたようではないか。
すると、内心の驚愕を嗅ぎつけたのか、聖騎士がマントの下から短槍を一本取出し、投擲した。狙いは翼で、ドラゴンの飛行能力を奪おうとしているのは明らかだった。
「ええい!」
ドラゴンは心の乱れを強引に押しつぶし、翼を羽ばたかせて槍を回避した。続けて、短槍を手放し、無手となったウィルバーに向けて急降下する。
いくら巨体の聖騎士と言えども、その体重が岩よりも重いということは無いはずだ。ならば、彼女の上空からの滑空の勢いを加えた体当たりをもってすれば、力量差を見せつけられるはずだ。
鱗が風を切り裂き、ウィルバーとの距離がたちどころに迫る。
だが、十数人がかりで動かす破城鎚にも匹敵するドラゴンの突進に、ウィルバーはその両手を掲げて身構えた。
直後、ドラゴンの両肩とウィルバーの両手が激突し、衝撃が彼我に走った。ドラゴンの勢いが急速に弱まり、岩山のようだった聖騎士の巨躯が動く。そして、一歩分ウィルバーが後ろに下がったところで、二人の動きが止まった。
「…え…?」
体当たりによって吹き飛ばされるわけでもなく、踏みとどまったウィルバーにドラゴンは声を漏らした。
現実に意識の理解が追い付いていないのだ。
すると聖騎士は、戸惑う彼女の両肩に触れる手に力を込めた。十本の指が、籠手越しに万力のような力で肩を締めあげる。
「っが…!」
痛みに呻いたドラゴンに向けて、ウィルバーは徐々に両腕の力を増していく。ドラゴンの骨は人間のそれより圧倒的に硬いはずだが、このままでは肩を砕かれてしまう。
そんな錯覚が彼女の脳裏に浮かび、焦燥感が心を炙る。
そして、人間相手には使うまいと思っていた、最後の手段を彼女は使うことにした。
「っがぁっ!」
痛みを堪えながら両腕を動かし、地面に降り立つ。そして両脚の間から伸ばした自身の尾を、聖騎士の足に絡みつかせた。
「っ!」
鎧の中でウィルバーの足に力が籠るのが分かるが、彼女は尾を緩めもせず、締めあげもしなかった。
ただ尾を絡ませたまま、口を開いたのだ。
直後、彼女の口から炎が溢れだし、聖騎士の鉄仮面に襲いかかった。
かつては森を焼き、大地を焦がし、鎧を纏った騎士を消し炭に変えた紅蓮が、聖騎士の顔面に当たる。
「!?」
炎の向こうから驚きの気配が漏れ、少しだけドラゴンの肩を掴む指が緩んだ。
だが聖騎士の気合か根性によるものか、指が解けるには至らない。ドラゴンは構うことなく炎を吐き、息の続く限り聖騎士に浴びせ続けた。
そして、たっぷり数十数えるほどの間をおいて、彼女の炎が途切れた。
「っはぁ、はぁはぁはぁはぁ…」
炎と共に息を吐き続けたおかげで目がくらみ、彼女の意識が途切れかける。そして、呼吸を落ち着かせるうち、彼女の視界が像を結んできた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…は、ぁ…」
まともに見えるようになった目に入った影に、彼女の呼吸が止まった。
彼女の眼前、両肩を掴んだままの聖騎士が、仮面越しに彼女を見下ろしていたからだ。
フードがいくらか焼け焦げ、ところどころ穴があいている他は、全く損傷が見られない。
「……」
「主神の加護がなければ、危ない所でした」
ぱくぱくと喘ぐように口を開閉させるドラゴンに向けて、鉄仮面の奥から、ウィルバーの変わらぬ響く。
「お前…そうか、精霊の加護を…!」
驚愕を押さえ込み、眼前の状況をドラゴンは強引に理解した。
「土の精霊と、風の精霊を味方につけて…!」
辺りが泥濘と化しても踏みとどまることができ、炎を浴びせかけられてもほぼ無事なのは、彼を精霊が守っているからだ。
しかし、彼女の推測に対しウィルバーは首を振って応えた。
「いいえ、主神の御加護です」
ドラゴンの推測を、鉄仮面の聖騎士は淡々と訂正する。
「あなた方魔物を正しく導くために、主神が与えてくださった祝福と御加護なのです」
鉄仮面の覗き穴越しにドラゴンの瞳を覗き込みながら、彼は淡々と続ける。
「考えてごらんなさい。なぜ、あなた方魔物が人のごとき姿と心を手に入れたのか」
その言い聞かせる口調は、まるで幼子に語りかける大人のそれだった。
ドラゴンと言う、人外の存在にして強者を圧倒し、淡々と諭す聖騎士。
「それは、主神があなた方に悔悟の機会をお与えになられているのです」
その姿は、もはや彼女には人間に見えなかった。
内心で押し殺していた恐怖が、意識の内に溢れだし、彼女を支配していく。
「さあどうか、今一度人に害を成さないことを誓い、主神の教えに帰依しましょう」
「い、いや…!」
もはやウィルバーの言葉など耳に入らず、彼女は反射的に声を上げ、いくらか力の緩んでいる聖騎士の手を振り払った。
そして、少しでもその曲から距離を取ろうと振りあげた彼女の手が、偶然ウィルバーの鉄仮面の端に引っかかった。
「あっ…」
虚をつかれたウィルバーは、彼女の腕を払うこともできず、ただ呆けた一言を漏らすことしかできなかった。
ドラゴンの腕に力が籠り、仮面が外れ、飛んでいく。
「…………っ!」
焼け焦げたフードの下、鉄仮面に覆われていた顔を見るなり、ドラゴンの目が見開かれた。
直後、辺りに絶叫が響き渡った。
「ああああああ!」
ドラゴンは己の見たものから距離を取ろうと、踵を返し駆けだそうとした。
しかし、泥濘が彼女の足を捕え、その場に転倒させる。泥に顔から突っ込むが、ドラゴンは立ち上がるどころか泥を落とす暇さえ惜しい、といった様子で泥の中を這い進んだ。
「ああああああ!」
「……」
ドラゴンの絶叫の響く中、ウィルバーは跳ね飛ばされた鉄仮面を拾い上げると、顔に当てた。
「もう少し、しっかり固定しませんとねえ…」
彼が誰にともなく呟くと、ドラゴンの悲鳴が不意に弱まった。
鉄仮面が声の方に向けられると、いつの間にか泥の中を這い進んだ跡が一直線に洞窟へと続いていた。
ウィルバーは泥の痕跡を追って洞窟に歩み寄ると、穴の中を覗き込んだ。
「…………!」
果たして洞窟の中には、身を縮ませてがたがたと震えるドラゴンの姿があった。声を漏らすまいと歯を食いしばり、目をぎゅっと閉ざしている様子は、もはや猛獣が通り過ぎるのを待つ鼠のそれだった。
もはや、彼女には悪事を働くことも、まともな生活を送ることもできないだろう。
「しばらくお待ちなさい。部下が保護に来ますから」
がたがたと震えるドラゴンに向けてそう告げると、ウィルバーは彼女に背を向けて歩きだした。
山を囲む部下の下へ行き、次の助けを求める声に応えるために。






「いろいろありがとうございました」
「いや、構わんよ。わしも美人さんの手伝いが出来てうれしいよ」
公文書館の一角で、イスタジアと老司書が言葉を交わしていた。
「おかげさまで、意見書の内容をより充実したものに出来そうです」
「うむ。仕事がうまく進むことを祈っとるからね。じゃあ、わしはそろそろ入り口に戻るから、帰りは一声かけておくれ」
「はい。ありがとうございます」
彼女はゆっくりと立ち去る司書に向け、頭を下げた。
「ああ、それともう一つ…まあ、半分わしの独り言だと思ってほしいが…」
歩み去ろうとしていた老人が、ふと足を止めた。
「この公文書館にはだいたいの資料がそろっとるし、だいたい読むことができるじゃろう。だが、それは何でも知ってイイと言うことじゃないからの」
「…………?」
老司書の言葉に、彼女は疑問を孕んだ沈黙を返した。
すると、彼はしばしの間をおいて続けた。
「ん、わしの考えすぎだった様じゃな。忘れてくれ。それじゃあ、また後でな」
「はあ…」
老司書の言葉の意味を計りかねる、という調子でイスタジアが返事をすると、司書は通路の向こうへ歩み去っていった。
そして再び、イスタジアだけの時間が訪れる。
「……よし…」
彼女は司書がいなくなったことを確認すると、並ぶ書棚の間を歩き出した。
司書が会話の合間に教えてくれた、かつてウィルバーが何を調べたのかを突きとめるためだ。
仕事に必要な資料については、最低限必要な分は集めてある。
それに、これは必要なことなのだ。直属の部下であるイスタジアこそ、謎多き聖騎士ウィルバーについて知っておかねばならないのだ。
使命感と、秘密に触れるという興奮が、彼女を駆り立てていた。
12/08/20 16:40更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
たった一撃では心は壊れない。
長時間重石を掛け、全体に亀裂を入れ、少しずつ少しずつ壊していく。
そして雨垂れのような一滴が、心を砕く。

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