読切小説
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人喰い布団の怪 〜夜に忍び寄る白い影〜
 仕事から帰ったら、誰かが掃除や洗濯、料理を済ませてくれている。独り者であれば誰もが一度は夢見るシチュエーションの一つだ。
 けれどもそれは夢だから良いのであって、現実にそれが起こった時には喜びよりも恐怖が先立つのだと、自室で立ち尽くしながら俺は実感した。
 金曜の夜。無事迎えられた週末に帰宅の足取りも軽かった。
 だが心が軽かったのはそこまでだった。鍵を開けて安アパートの自室に入るなり、俺は明らかに何かがいつもと違うということに気がついてしまったのだ。
 それはほんの僅かな変化だった。
 例えば読み散らかされていた雑誌や小説が片付けられている事。
 シンクに入れっぱなしにしてあった食器が片付けられている事。
 放っておいた衣類がすでに洗濯されて折りたたまれている事。
 いつか替えようと思っていた布団のシーツが変えられている事。
 風呂場が見違えるほどに綺麗に掃除されている事。
 家具の間取りは何も変わっていない。
 何年も張りっぱなしのアニメのポスターもそのままだ。
 無くなったものは何も無い。
 部屋中を確認したが貴重品も無事だった。
 パソコンを操作された形跡もない。
 部屋から奪われたものは何も無い。
 ただ見知らぬ誰かの善意が加えられただけだ。
 しかし一向にして感謝の気持ちは湧いてこなかった。むしろ腹の底から、居心地が悪くなるような冷たいドロドロが染み出してくるようだった。
 仕事が激務過ぎてとうとう頭がおかしくなってしまったのか? 頭を振って視線を下ろすと、恐ろしい物が目についてしまった。
「嘘だろ」
 テーブルの上で、作りたてらしき夕食が湯気を立てていた。
 米粒一つ一つがつややかなご飯。
 ネギ、わかめ、タケノコの入った、優しい匂いを立てる味噌汁。
 一個一個が大きい、表面がカリカリに揚げられた鶏の唐揚げ。
 人参やインゲンやレンコン等が入った、彩りも豊かな野菜の煮物。
 見事な献立の夕食。しかも俺の好物ばかりだった。
 ここは本当に俺の部屋なのか? もしかして隣の部屋に入ったのでは?
 念のため一度部屋から出て表札や部屋番号を確かめる。が、やはり自分の部屋で間違いは無かった。
 部屋を出るときには、常に窓も玄関もしっかり鍵がかかっていることを確認している。
 誰にも合鍵など渡していない。
 なら、一体誰が……。
 俺は視線を感じ、ふと後ろを振り返る。しかし、いくら部屋の中を見回しても、やはり誰も居なかった。
 夏を控えて蒸し暑いはずなのに、下腹が寒くなってくる。自分の心音と呼吸音がやたらと耳についた。
 どうしたら良いのかわからなかった。誰かの声を聞きたくて、俺はとにかくテレビを付けた。


 画面の中で誰かが笑っている。どこかで殺人事件が起きたようだ。その影響で気圧は不安定になり、為替変動は円高に傾いているらしい。逆転サヨナラホームランで早くもマジックが点灯し、あとはお鍋で十分煮込んで完成したものがこちらになります。
 テレビの内容は何一つ頭に入ってこなかった。
 目の前には美味そうな料理が並んでいる。腹は減ったが、誰が作ったかも分からないものに手を付ける気にはなれなかった。
 どうすればいいだろうか。
 部屋の中は確認した。押し入れにもトイレにも浴室にも、おおよそ隠れられそうなところには誰も居なかった。
 窓や玄関の鍵も掛かっている以上、この部屋に俺以外の誰かがいるということは考えられない。
 けれど、何かがいるという妙な確信が消えてくれなかった。
 警察を呼んだほうがいいだろうか。しかしなんと言えばいいだろうか。何かが奪われた形跡はない。誰かが侵入した形跡があると言っても、証拠が無くては信じてもらえないだろう。
 それならどこかに逃げようか。けれど、どこへ。
 恋人など生まれてこの方居た事もない。突然深夜に誘えるような友人もそばには居ない。地元に帰るには時間がかかりすぎる。
 馬鹿馬鹿しい。住み慣れた自宅から逃げようとするなど、大の大人が一体何を考えているのだろうか。
 しかし確かに視線を感じるのだ。時折、衣擦れの音も聞こえる気がする。このままでは、いっそ野宿でもしたほうがマシに思えてくる。
 俺はため息を吐いてテレビを消した。
 疲れているのかもしれない。ゆっくりと身体を温めて疲れを取れば、気持ちも変わって妙案も浮かぶかもしれない。
 俺は着替えの準備をして、風呂に入ることにした。


 ゆっくりと湯船に浸かるつもりが、気付けば気忙しくシャワーだけ浴びて身体を拭いていた。
 誰かが部屋の中に居るのではないか。そんな妄想が脳裏にこびりついてどうしようもなかった。
 俺が居ない間にまた何かが動いているのではないか。もしかしたら誰かが浴室を覗いているのではないか。考えだしたら居ても立っても居られなかった。
「あれ」
 身体を拭き終え下着を身につけようとして、衣装籠が空になっていることに気がつく。
 着替えは用意したつもりだったのだが、あまりに気が動転しすぎて替えの服を忘れてしまったようだ。
 あまりブラブラさせたままウロウロするのは好きではなかったが、着るものが無いのでは仕方がない。
 洗面所を出てすぐ、居間に入ろうとしたところで、俺はしかし動けなくなってしまう。
 部屋の中から、衣擦れのような音が聞こえた気がした。何かを引きずるような音が。
 熱いシャワーを浴びたはずの身体に鳥肌が立った。
 俺は視線を周囲に走らせる。幸運にもキッチンはこちら側だった。もし何かあれば、包丁やフライパンで応戦することも可能だ。
 覚悟を決めて、俺はゆっくりと扉を開ける。
 見慣れた家具の配置が見えてくる。その陰にまで注意を払うが、誰かが居る気配は無かった……。
 むしろ誰かが居てくれたほうがどれだけ安心できただろうか。
 着替えはすぐに見つかった。やはり持っていくのを忘れて居たらしい。
 パンツに手を伸ばそうとして、俺は今日何度目かの違和感に眉をひそめる。
 シーツが置いてあった。さっきはちゃんと綺麗に布団に掛かっていたはずのシーツが布団から外れて、替えの下着のそばに丸まっていた。
 着替えよりも先にそれが気になり、シーツに手を伸ばしたその時だった。

 シーツがわっと大きく広がり、舞い上がった。

 驚きで声も出なかった。
 勢い余って裸のまま尻もちをついた俺の身体の上に、シーツが覆い被さってくる。
 一体何が起こったんだ。とにかく、部屋の様子を。
 と。
 シーツを跳ね除けようとした腕が、動かせない。
 誰かにシーツ越しに手首を押さえ付けられてしまっていた。
「え」
 驚いている間にもう片方の腕も押さえ付けられる。
 ……いる。
 このシーツの向こうに誰かがいる。
 何だ? 誰だ? 何が目的で、何故こんなことを?
 こちらが焦燥感で頭がいっぱいになっている間に、相手は着々と俺の逃げ道を奪っていく。
 脚で抵抗出来ぬよう、腰の上に尻を乗せられた。上半身を起こせないように、抱きつかれるようにのしかかられた。
 何をされているのか分からぬ間に、俺は身体の自由を奪われていた。
「誰だ。一体何を、むぐっ」
 口を押さえ付けられ、口の中に何かを入れられた。
 柔らかく、温かく、布越しにも関わらずその感触は粘膜質で舌に絡みついてくるようだった。
 恐怖とは別の感覚で、背筋がぞわりと粟立った。
 舌の感触によく似たそれは、俺の口の中を動きまわり、執拗に舌や歯茎をこすって唾液を舐め取ろうとする。
 頭のなかの感情の渦に、明らかに恐怖ではないものが混ざり始めていた。正体不明の脅威を前にした極度の興奮。しかし俺は同時に、その間際に性的なそれもまた感じてしまっていた。
 俺の上のそいつが、更に俺を押さえつけるべく身じろぎして身体を密着させてくる。
 そこでようやく、俺は相手が女だと悟った。胸の上に強く押し付けられている肉感的な大きな二つの感触は、明らかに男ではありえないものだった。
 腰の上に乗っている尻の感触もこれまで触れたどんなものよりも柔らかく、密着した相手の腰にも男の象徴の感触は無かった。
 だが、だから何だというのだろう。
 見ず知らずの相手に自由を奪われ、襲われているという現状は何も変わらない。
 もしかしたら相手は一人では無いのかもしれない。一人が視界と身体の自由を奪い、その間に仲間が盗む。そして盗みが終わったら殺されてしまうのだ。
 さっきの殺人事件のニュースが脳裏をよぎり、全身が震えた。
 俺は再度抵抗を試みる。
 だが、口は塞がれ、腕も腰も抑えられていては動くことはやはりままならなかった。
 むしろ、相手との密着をより強くしてしまうだけだった。
 暴れようとすることで肌が擦れる。シーツ越しにも関わらず、その感触は女の肌のようだった。それは絹のように滑らかでありながら、人肌のような温かみと柔らかさもあり、襲われているのでなければずっと撫で回していたくなるような触り心地だった。
 どうあがいても身体は動かなかった。口の中をかき回されているうちに、思考さえもままならなくなってゆく。
 抵抗する気力も萎えると、身体から力が抜けてしまった。
 そんな俺の様子を悟ったのか、女は俺の口を開放した。
 そして今度は、俺の肌を舐め回し始める。
「もう、やめて、くれ」
 かすれた声は、しかし誰にも届かなかった。
 肩を、鎖骨のくぼみを、首筋を。舌がねぶり上げる度に、身体が火照り、下腹部がじんじんし始める。
 女は一切声を発しなかった。ただ衣擦れの音と、僅かな呼吸音。唇と舌の立てる水音だけが鼓膜を震わせる。
 女の舌が頬を撫で上げ、そしてついには音を立てて耳の穴を攻め始める。
「あっ、あっ。やめっ」
 恐怖にも似たぞくぞくする強烈な興奮が身体の芯に走り抜ける。
 死の恐怖のためか、性の歓喜のためか、下腹の一物に血液が集中し、熱を帯び、硬くなり始める。
 天井に向かって反り返ったそれは、ちょうど女の臍のあたりを押し上げる。
 女の身体が震えた。雰囲気が変わった。
 そう。俺は男で、こいつは女。いくら不意をつかれたとはいえ、本気になればどちらの力が上かは明白だ。
 ならばお願いだ。男の俺に犯されることに恐怖を感じ、今すぐここから出て行ってくれ。
 俺の心の叫びが通じたのか、女は腰を浮かせた。
 そして、俺の勃ち上がった一物の先っちょに、柔らかくヌルヌルとぬめる感触が押し付けられる。
 期待は、あっけなく裏切られた。
「待っ、むぐっ」
 叫ぼうとした口を塞がれ、再度舌のような感触に口の中を陵辱される。
 粘ついた粘液で濡れた、無数のひだひだがしきつめられた何かの中に一物が飲み込まれてゆく。亀頭に、裏筋に、細長い糸のような感触が絡みつく。
 布越しのはずだった。肉や粘膜の感覚とは違う気がした。むしろそれ以上に滑らかに、隙間なく密着して、肌に心地よく馴染んだ。
 女は腰を振り始める。女が腰を上げるたび糸が強く裏筋に絡みつき、腰を下ろすたびにひだひだが俺の全てを包み込む。やがて水音が控えめに響き始め、否が応にも興奮と緊張が高まっていった。
 犯されている。力づくで、尊厳の全てを踏み躙られて、言葉もなく、ただ相手の欲望のままに。
 怖かった。自分ではどうしようもなく、相手の好きにされるしか無いという状況がひたすら怖く、しかし恐怖を感じながら同時にかつて無いほどに興奮しても居た。
 布越しの女の肌の、身体の感触は、これ以上のものが無いだろうと思えるほどに淫らで官能的だった。
 恐れと喜びと不安と期待と絶望と希望と、ありとあらゆる感情がないまぜになって、身体の奥でどろどろに煮えたぎってゆく。
 女が、俺の手を引き自らの二つの膨らみを握らせる。
 空いた二本の腕が俺の背中をかきだき、爪を立てる。
 唇が離れて、首筋を甘噛する。
 その刹那、緊張の糸が切れた。
 滾っていた興奮の全てが弾け飛ぶ。大きく脈打ちながら、俺はシーツの向こうの相手に向かって射精した。
 腰を突き上げ、身体を震わせながら、何度も何度も。
 その度に女も身体を揺らしながら、強く俺の一物を締め上げるのだった。


 射精が落ち着いてもなお、女はなかなか俺の身体を開放しようとはしなかった。
 勃起したままの俺を抑えこんだまま、胸元に抱きついたような姿勢のまま一向に動く気配が無い。
 身体も、心も気怠かった。
 しかし恐怖が落ち着いたせいか、俺はふとその事実に気がついた。
 両手が開放されている。おまけに、さっきほど上半身への拘束も強くはない。
 今なら押し返せる。
 思いついたら、行動は早かった。
 俺は両手で乱雑にシーツを引き剥がしつつ、女の体を押しのけた。
 さっきまでの押さえ付けは何だったかと思うほどに、あっけないほど簡単に女の重みが消え去る。
 その勢いのまま、俺はシーツを剥ぎ取り女に迫った。
「好き勝手してくれたな。お前はどこの……。え?」
 誰も居ない。
 部屋を見渡すが、当然隠れられるような場所はない。
 窓は閉まったまま。部屋から出る扉は俺の背後にしか無い。
 この一瞬で部屋の外に出ることなど不可能だ。
「一体何が、どうなって……」
 背中につららでも差し込まれたように、急に寒気がした。
 手元のシーツを確認するが、どこにもおかしな所は無かった。何の変哲もないただのシーツだ。
「あれ」
 いや、おかしな点が一つだけあった。
 シーツ越しにあれだけのことをしたにも関わらず、布地のどこにも汚れは愚か濡れた痕跡さえ無かったのだ。
 少なくとも口づけし合ったところと、交わったところはぐしょぐしょになっていてもおかしくないはずだった。
 思い返せば仕事が忙しくてこのところ二三週間は抜いても居なかった。精液の量も、濃さも相当のはずだ。派手に汚れていてもおかしくないはずなのに、シーツは洗いたてのように真っ白だった。
 ありえない。
 俺は確かに女に襲われ、無様に射精させられてしまったはずだ。なのにその痕跡がどこにも残っていないなんて。
 ……いや、おかしいのは俺の方だろうか。
 さっきまでのは、全て俺の欲求不満が生み出した妄想だったのかもしれない。未だに勃起したまま、身体には興奮と熱と恐怖と寒気が残っているが、ただただ行き場のない性欲が白昼夢を見せただけなのかもしれない。
 部屋の掃除がされているのも、夕食の用意が出来ているのも、全て自分でやって、そのことを自分が忘れているだけなのでは。
 ホラー映画やミステリィでいう、犯人は自分だったというパターンだ。それならば全ての説明はつく。説明はつくが……。
 果たして自分一人だけを騙すために、俺自身がそんなことをする必要がどこにあるのだろうか。


 もう何も分からなくなった俺は、考えるのも嫌になり、裸のままで壁を背にして布団の上でシーツに包まった。
 こうしておけば部屋で何かが起こったり、誰かが居ればすぐに分かる。
 いっそ眠ってしまいたかったが、眠ったらまた変わったことが起きそうで怖かった。
 身体が震える。
 夏も近づき、下着だけでも汗ばむくらいの時期だというのに、出るのは冷や汗ばかりだった。
「うう、ううう」
 呻き声が聞こえて反応する。が、呻いていたのは自分だった。
 自分で自分が嫌になる。
 歯を食いしばり、涙目になりながら、俺はただただ時計の針が動くのを見つめ続けた。こんなに朝が来るのを待ち望んだのは初めてだった。


 気がつけば、あたりは真っ暗になっていた。
「んん?」
 心地よい暖かさが全身を包み込んでいる。このまま眠り続けていたい。ずっとこのまま。
 けれど、何かを忘れている気がする。
 何だったか。確か、寝てはいけなかったような気がする。電気はつけてあったはずなのに、いつ消えたのだろうか。
 そうだった。
 この部屋には何かが居るのだ。
 身を起こそうとしたその時、首筋に何かが触れた。
 粘膜質のそれは、強く吸い付いて肌の上を這いまわる。
「っくそ」
 今度こそ正体を見てやる。
 布団から飛び出し、電気をつける。
 けれど、蛍光灯の白々とした明かりの下に照らしだされたのは、それがもう当然だと言わんばかりのいつもどおりの風景だった。
 もう一度見回しても誰も居ない。
 キッチンもトイレも浴室も確認するが、やはり何も居ない。
 鍵もちゃんと掛かっていた。
 ということは、やはり俺自身がおかしくなっているということなのか……。
 うなだれた拍子に床を見下ろした時、俺はふとそのことに気がついた。
 かぶっていたはずのシーツがない。
 そして……。背後から衣擦れの音が聞こえ始める。
 寒気がした。振り向いてはいけないと分かっていても、振り向かずには居られなかった。
 そこに居たのは、いかにも子供がお化けのふりをするように、頭からシーツを被った影だった。
 一瞬、誰かの悪ふざけかと思った。しかし明らかに悪ふざけでは無かった。それどころか、人間ですら無かった。
 足がないのだ。シーツの下に見えているべき両足がどこにも見当たらなかった。
 風もないのにシーツが揺れる。そして揺れながら、その形を変え始める。
 誰も力を入れていないのに、それは内側に向かってすぼまり始める。所々がくぼみ、捻り、シワが入り、丸みをおび……。
 少しずつ人間の、女の形に近づいてゆく。ほんのりと肉付きのいい太もも、艶めかしいくびれとくぼんだおへそ、まるまると豊かな二つの乳房、その頂点の突起までもが形作られていく。
 スラリと伸びる両腕、ほっそりとした首筋。ふっくらとした唇、柔らかそうな頬、整った目鼻立ち、長いまつげや髪の毛までもが織り上げられていく。
 まぶたが開くと、そこには確かに瞳があった。
 穢れ一つない純白の瞳に、俺の姿が写っていた。
 こいつだ。
 こいつがさっき、俺を襲った。
 人の部屋に入り込んで、勝手に物を動かし、食材を弄くり回し、怖がる俺の様子を眺めて楽しんでいたんだ。
 そいつが笑った。
 無邪気に、艶然と、舌なめずりさえし始めそうなほど淫らな笑みを浮かべる。
 俺の身体をじっくりと眺め回し、そして股間の一点で視線の動きが止まる。
 後ずさるより、彼女の髪の毛が広がるのが先だった。幾筋もの布が俺の腕に、足に絡みつき、動きを奪われた上に床の上に引き倒される。
「痛っつつ……。う」
 見上げると、女が至福の表情を浮かべて俺にまたがっていた。
 混沌とした感情で暴発寸前の俺自身に、女の白魚のような指が絡みつく。彼女はもう片方の指で自らの入り口を押し広げ、にたりと笑った。
 俺はその時、ようやくこいつの正体が何なのかなんとなくわかった気がした。
 おそらく、淫魔の類だろう。快楽を与えるのと引き換えに、精液という形で男の命を吸い尽くす。そういう化物。
 やはり部屋にとどまるべきでは無かった。ビジネスホテルでもネットカフェでもどこでもいいから、とにかく一晩ここを離れているべきだったのだ。
 けれど、もう遅い。
 女の下の口が俺を飲み込んでゆく。
 布であるはずなのに布と思えない、肉を超えた快楽に、俺はすぐさま腰を震わせながら命を捧げてしまう。
「うあぁ……。む、ぐぅ」
 呻き声さえ吸い付かれ、声を上げることさえ出来なくなる。
 そして俺は一晩中、彼女に全てを食いつくされてしまったのだった……。





































「……ということがあったんですが、どういうことなんですか」
 翌朝。と言うか昼。俺は彼女を買った百貨店の特設コーナーにクレームを付けに行っていた。
「どういうことって、一応取扱説明書も付いていたんですが……。ともかく寝心地、いや、抱き心地が良かったのなら良かったやないですかぁ」
 たぬきを思わせるタレ目が可愛らしい小柄な販売員は、困惑しながらそんな事を言う。
 良かったなんてことがあるだろうか。俺は一晩、恐怖……やら何やら色々で眠れぬ夜を過ごしたのだから。
「これなんなんですか。昨日からもう離れてくれないんですけど」
 俺は首筋にマフラーよろしく両腕を巻き付けて抱きついている昨日の布女を指差す。
 結局俺は朝まで絞られ続けた。
 けれど日が昇る頃には、どうやら彼女は害意があって俺のそばに居るわけでは無いこと位はなんとなく分かるようになっていた。
 俺の反応を見て素直に喜んだり楽しそうな表情を見せたり、何度も俺に頬ずりする姿は、どことなく主人に甘える大型犬のようでもあった。
 料理を作ったのも彼女のようで、交わりながらしきりに食べさせようとしてきた。
 あまりにしつこいので折れて食べてみたが、悔しいことに滅茶苦茶美味しかった。冷めてしまっていたにも関わらずあっという間に完食してしまうくらいには。
 それに、殺されたりしていないのが何よりの証拠だろう。
 しかし百歩譲って昨日のことは不問にするとしても、正体の知れない彼女にずっとくっつかれ続けるのは流石に困ってしまう。
 そんなわけで苦労しながら洋服を身につけ、シーツを買った店まで来たわけだった。
「魔物娘の一反木綿です。知ってます? 魔物娘」
「ネットとかで噂になってますけど、いや、嘘ですよね」
 インターネットでそんな話を見たことはあった。別の世界からやってきた、いわゆるファンタジーで言うところの魔物で、全て雌しか居ないために人間の男を求めているという。
 積極的に性的な関係を求めるが、基本的に敵意は無く、むしろつがいに選んだ相手に尽くすという存在。
 あまりにもご都合主義的なので、ただのなりきりの書き込みだと思っていたのだが……。
「それじゃお客さんに抱きついているものは何です?」
 俺は抱きついたままの彼女を見る。
 彼女は俺を不思議そうな目で見上げたあと、ニッコリと微笑んでほっぺたに口付けしてきた。
 布がこんなに美しい女性の形をするものだろうか。仮に布細工だったとしても、こんなに複雑でなめらかな動きは出来まい。
「なんやお客さん。見せつけに来たんですかぁ?」
「ち、違いますよ」
「気に入ったんならこんなものもありますよぉ」
 販売員はニヤニヤと笑いながら、アニメキャラクターが描かれた抱枕を取り出す。
 あれも一反木綿とか言う魔物娘なのだろうか。ということは、あれも……。
 などと考えていると、急に肩に痛みが走った。こっちの一反木綿に噛みつかれていた。
「あらあら、浮気は許さないタイプの子みたいですねぇ」
「浮気って、俺はそんな。いや、そういう話じゃなくて」
「これはサービスです。良かったらどうぞ」
 販売員はそう言って、俺に何かを握らせる。
 手を開くと二つの指輪だった。
 首をかしげているうちに、一反木綿が手を伸ばして己の指と、そして俺の指に強引に指輪をはめさせる。
「お、おい」
【ご主人とお揃い】
「え」
 頭のなかに声が響いた。
【まだ喉は上手く作れない。けどこれなら、お話できる】
「お前、なのか」
 彼女は満面の笑みで頷いた。
【ご主人のご飯、また作る。一緒に材料買いに行こう。それでお腹いっぱいになったら、またいっぱい可愛がって欲しい】
 俺に抱きついて上目遣いになりながら、彼女は続ける。
【それとも、ここで、する?】
「ちなみにその指輪、お互いの心の声が伝わり合う指輪なので」
 エロい気持ちも伝わるってことか。
「しないぞ。と言うか、だからここに来たのはそういう事じゃなくて」
【じゃあ早く行こう】
 腕を引かれる。布で出来ている割に彼女の力は存外に強く、俺はズルズルと生鮮食品売り場の方に引きずられていってしまう。
「ちょっと、だから、これ」
「詳しくは取扱説明書をお読みくださいー。今後共アビスコーポレーションをご贔屓にー」
 頭を下げる小柄な販売員の姿がどんどん小さくなってゆく。他のお客の間に隠れて、見えなくなってしまう。
 そして引っ張られるままに食材の買い物が終わる頃には、特設コーナーは契約時間が終わったのか、最初から何もなかったかのように消えてしまっていた。


「取扱説明書か。どれどれ」
 その日の夜。俺は販売員に言われたように、しっかりと取説を読んでみることにした。
「これはシーツではありません。一反木綿という魔物娘です。ですがシーツとして使って頂いたり、バスタオル代わりに使っていただいても構いません。むしろご主人様の肌に直接触れるほうが、彼女達もいたく喜びます。積極的に肌に触れさせてください。
 生きていますからお手入れの心配もありません。ただ、毎日愛してくれないとへそを曲げる個体も居ます。強引に交わりを行う場合もありますので、お気をつけ下さい。
 ……つーか手書きじゃないかこれ」
 裸になって布団にうつ伏せになりながら、試しに俺は音読してみた。けれど、声に出した割には中身はあまり頭に入ってこなかった。
 というのも、布団に敷いた一反木綿がしっとりと肌にくっつき、更に硬くなった自身もまた布の間に埋もれていたからだった。
 うつ伏せで嫌らしい妄想をしたことは多かったが、まさか布団が女になって俺を受け入れてくれるとは思っていなかった。
【とってもいい気持ち。ご主人は気持ちいい?】
 俺は彼女を掴みながら、腰を打ち付け射精する。
「あぁすごく気持ちいいよ」
 布団の上で好きなようにだらしなく愛しあう。これもまた夢見たシチュエーションの一つではあったが、俺は喜びとともに身が震えるほどの恐ろしさもまた感じていた。
 布団でごろごろするのはこれ以上ないほどの至福だ。その上こんな快楽が加わってしまったら、もう布団から抜け出せなくなってしまうではないだろうか。
 やはり俺は、この子に食われて……。
【大丈夫よ。抜け出させなんて、しないんだから】
 鈴を転がしたような笑い声が頭に響く。
 このまま食われるのも、悪くはないか。そんな風に思いながら、俺は白い大きな布の中に包み込まれていった。
16/06/26 18:09更新 / 玉虫色

■作者メッセージ
初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。

書いてた話が上手くいかない→気晴らしで別の話書き始めたら長くなってきた→たまには短い話を書こう。その結果がこれです。
……目標5000字でしたが倍かかりました。

久々にホラーチックなエロを書けたらなぁと思いましたが、なかなか難しいですね。
ともかく、一反木綿さんにはぜひ我が家の布団のシーツにもなってもらいたい所存。
(布のサイズについては大目に見ていただけるとありがたいです)

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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