連載小説
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1
 六月末日。一人の高校生が自宅のベランダから飛び降りた。時刻は午後七時。暗闇が空を覆い始める頃のことである。
 自殺を図ったのは、都内の高校に通う一人の少年だった。高校二年、中肉中背の平凡な少年だった。
 
 
 
 
 少年が家族と一緒に住んでいた家は二階建ての一軒家で、彼の部屋は二階にあった。そして彼は自分の部屋に据えられたベランダから、投身自殺を図ったのだった。
 幸いなことに、少年は一命は取り留めた。ベランダの真下、コンクリートで固められた駐車スペースの上で倒れている彼を発見した近所の住民が直ちに通報し、その迅速な行動が彼を死の淵から救ったのである。なおこの時、家には彼しかいなかった。
 彼の両親は共働きだった。両親が帰ってくるのは、いつも午後九時を過ぎた頃であった。これは少年だけでなく、近隣住民や本人達の証言から証明されていた。
 
 
 
 
 とにかく少年は病院に搬送され、適切な処置を受け生き延びることが出来た。そうして一つの山を越えた後、残された人々は次に、何故彼がそんなことをしたのかについて考え始めた。両親やPTA、警察も動き出し、原因究明に乗り出した。
 答えはすぐに出た。件の少年は四ヶ月前から虐められていたのである。しかもそれを高校の教師陣は把握しており、その上で黙殺していたのだった。少年が自分のいじめに関して担任に相談したこともあったが、その時も担任はなあなあで済ませ、何一つ解決しようとしなかった。
 さらに少年が虐められていたことは、両親も知らないことだった。今までそんなことは一度も話してくれなかった。父も母も、揃ってそう答えた。彼らの顔は死人のように青ざめ、驚愕と悲痛で歪んでいた。
 両親はその後、何故教えてくれなかったと少年に訴えた。目は潤み、声は震えていた。それに対して頭に包帯を巻き、病室のベッドに横たわっていた少年は、両親の問いかけに対してこう答えた。
 
「忙しそうだったから。負担をかけたくなかったから」

 両親は、自分達がどれだけ彼に負担をかけていたのかを知り、絶望した。
 
 
 
 
 少年の容体が快方に向かう頃には、既にこの事件は世間に知られていた。マスコミはこぞってこのニュースを報道し、痛ましい事実を声高に公表した。流石にメディア群は少年を虐めていた面々の名前と住所は伏せていたが、それらの情報は既にネットに流出していた。
 バッシングが始まった。教師陣も標的になった。やりすぎを懸念する声も上がったが、それでも世間は少年を虐めた連中を社会的に排除する方向で動いていた。少年の両親も色々な意味で有名になり、中には仕事にかまけて少年の機微に気付かなかった彼らの怠慢を罵る声もあった。
 両親は反論しなかった。事実だったからだ。少年も頑なにこの件に関しては口を閉ざした。思い出したくないというのが本音だった。マスコミはお構いなしに来たが、事情を汲んだ病院側の硬いガードがそれを許さなかった。
 報道連中は懲りなかった。何としてでも少年の話を聞こうと、執拗に突撃を続けた。その恥知らずな姿が知れ渡るようになると、今度はマスコミも攻撃対象に含まれるようになった。
 炎上騒動は被害者の関心の外でますます勢いを増し、少年はそれを他人事のように眺めていた。
 
 
 
 
 やがて少年の体の傷も完治し、退院が間近に迫っていった。しかし当の少年の心は暗いままだった。これからどうなるのだろうかと、不安で仕方なかった。
 家には帰れるのか。学校はどうするのか。この後どうやって生活していけばいいのか。最初から死ぬつもりで飛び降りた少年は、この後どうすればいいのか途方に暮れた。そもそも治ったのは体だけであり、彼の心はまだ傷だらけだった。平常心を取り戻し、普通の生活に戻れるかどうかも怪しかった。
 生きる気力が湧かない。何もしたくない。少年の頭は全てを拒絶していた。両親が彼の病室を訪れ、一つの話を持ち掛けてきたのは、そんなある日のことだった。
 
「一度、俺のばあちゃんのところに行ってみないか」

 一時的に祖母の処へ行き、そこで静養してみないか。それが父の提案だった。件の父方の祖母が住んでいる場所は文字通りの「田舎」であり、近代的な街並みや人の群れ、無機質な雑音とは無縁の地であった。
 土地の大半は田畑に使われ、残り半分を手つかずの自然――雄大な山と濃い緑に覆われた森――が占めていた。住人も多くはなく、その殆どが高齢者だ。こちらの事情を根掘り葉掘り聞いてくることも無いだろう。
 さらに都市部から離れていたこともあって空気は澄み、流れる水も清らかさを保っていた。まさに精神を落ち着かせるにはもってこいの場所である。
 
「どうだ?」

 父が真剣な眼差しを向けながら聞いてくる。頭の包帯も外れ、しかし前より幾分か痩せ細って見えた少年は、少し考え込んだ後で首を小さく縦に振った。
 それを見た父は嬉しそうに頬を緩め、隣にいた母は安堵したように胸を撫で下ろした。だが両親が心休ませる一方で、少年自身は別に自発的に行きたいと思ってはいなかった。
 どうでもよかった。それが本音だった。ただここでそれを拒絶したら、またさらに両親を不安がらせることになる。彼はそれが何となく嫌だった。なので彼は両親に合わせることにした。
 両親はそれに気付かなかった。気づかないまま、スケジュール帳を広げて少年と共に今後の予定を立て始めた。
 
「じゃあいつ行く? 俺としてはこの日がいいと思うんだが」
「うん」
「結構遠いから、朝の内に出発しよう。それでいいか?」
「うん」

 出発の日時が決まる。荷物は全て両親が選ぶことになった。トントン拍子で話が進んでいく。少年はその様を遠い目で見つめていた。力なく相槌を打ち、適当に返事をする。
 魂の灯が消えた少年は、人形も同然だった。
 
「じゃあそういうことでよろしく。退院するまで、ちゃんと体を休ませておくんだぞ」
「うん」
「看護婦さんのいうこともちゃんと聞くのよ? いいわね?」
「うん」

 父と母がここぞとばかりに口を尖らせる。少年がそれを右から左へ聞き流す。
 どうでもよかった。少年の目は両親の方を向いていたが、濁った瞳は彼らを捉えてはいなかった。
 
 
 
 
 退院して数日後、約束の日になった。時刻は午前四時。家族は悪目立ちを避けるために、この時間に車を走らせた。見えていないだけで記者やジャーナリストの類が物陰に潜んでいたかもしれないが、それらにまで気を回す余裕は無かった。突撃してくることも無かったが、単に運が良かっただけだと運転席の父は言った。
 幸運なことに、その後も祖母の家に着くまでの間、彼らが障害に遭うことは無かった。平穏な片道二時間のドライブが終わる頃には、彼らを乗せた車は牧歌的な田園地帯に足を踏み入れていた。
 ここまで来れば、祖母の家まですぐだった。祖母の家は昔ながらの和風家屋で、古びてはいるが少年の生家よりもずっと広かった。またそこは村の奥、手つかずの森林地帯に近い所に建てられていたので、自然の環境音には事欠かなかった。
 
「ああ、よく来たね。待ってたよ」

 蝉の鳴き声がけたたましく鳴り響く中、祖母は玄関前で彼らの到着を待ち構えていた。祖母は今回の来訪の経緯を全て把握していた。そして定刻通りに目当ての車が到来し、眼前で停車したそれから家族が降りてくるのを見ると、祖母は目を輝かせて彼らに声をかけた。
 
「久しぶり母さん」
「ご無沙汰しております」
「うんうん。三人とも元気そうで何よりよ」
「……」
 
 最初に両親がそれに反応する。祖母が笑ってそれに答える。最後に少年が首を動かし、声を出さずに祖母を見る。
 祖母の顔には皺が刻まれ、毛髪もほぼ白で占められていた。肩も丸まり、袖口から飛び出る両手も枯れ枝のように萎れている。その一方で背筋は伸びて足取りは力強く、両の瞳にも活力が漲っていた。
 要するにいつも通りである。直射日光を浴びながら直立するその姿は、七十二歳とは思えない。変わらず元気な祖母の姿を見られて、少年は顔にこそ出さなかったがほんの少し安堵した。
 
「さあ入って入って。外で立ち話もあれだからね。ちょっと中で話したいこともあるし」
「話したいこと?」
「いいから、いいから。それは中でゆっくりね? さ、みんな中に入って」

 その祖母が表情筋を目一杯動かして笑顔を見せつつ、半ば強引に三人を家の中へ案内する。相手の意見を聞かず、先頭に立って独力でどんどん奥へ進んでいく。その意志の固さ――敢えて好意的な表現に留めておく――も昔と変わっていない。両親と共に祖母の後を追いながら、少年は心が休まる思いをしみじみ味わった。
 やがて祖母に引っ張られる形で、三人が畳貼りの部屋に到着する。そこは家の中で最も大きい和室だった。彼らが襖を開けて入って来た所の向かい側が縁側になっており、仕切り替わりの障子が開け放たれていたことで外の景色が丸見えになっていた。部屋の真ん中には大きなテーブルがあり、隅には扇風機が置かれていた。扇風機は既にフル稼働していたが、その涼風は気休めにしかなっていなかった。
 
「うちにはエアコンなんて便利なものはないからね。ちょっと暑いけど、我慢してね」
 
 無駄な努力を続ける扇風機を指し、祖母が笑って言う。祖母は続けて中央のテーブル前に座るよう、三人に促した。両親と少年は素直にそれに従った。
 彼らが腰を降ろすのを確認した後、ようやく祖母が説明を始めた。
 
「それで話のことなんだけど、実は今、主人が遠出していてね。ここには私一人で住んでるんだよ」

 言いながら、祖母が彼らと向かい合うようにテーブルの反対側に腰を降ろす。家族は黙ってそれを聞き、自然な動作で座り込んだ祖母が話を続ける。
 
「でも私ももう歳だし、最近のことはわからないからねえ。だから私に代わってヒロ君の話し相手にと、知り合いに声をかけたんだよ。色々手伝ってほしいってね」

 自分の名前を呼ばれた少年が反射的に肩を震わせる。いきなり想定外のことを言われた両親が驚愕する。祖母がお構いなしに、相手の質問も待たずに先を進める。
 
「その知り合いっていうのがね、もうここにいるのよ。その子に無理を言って、昨日からここにいてもらっていたの。何か急な都合があって、予定が前倒しになるかもしれないって思ったからね」
「それで母さん。その知り合いっていうのはどんな人なんだい?」
「それが凄い美人なのよ。若くて可愛らしくて、気配りも出来る女の子なの! ヒロ君もきっと喜ぶと思うわ!」

 間に挟まれた父――自分の息子の質問に、少年の祖母がさらにテンションを上げて答える。自分のチョイスを前にした彼らの反応を見るのが待ち遠しくて仕方ない。祖母の笑みにはそんな色が滲み出ていた。話の腰を折られたことに対して不快感は抱かず、寧ろ父の問いかけを好都合と思ってすらいた。
 しかし今の少年に、期待に胸膨らませる余裕は無かった。祖母もそれを理解し、それ以上期待を煽ることも、話を膨らませることもしなかった。代わりにそこまで言った直後に後ろを向き、背後の襖――彼らがここに入った時に開けた物とは別の襖である――へ向けて声をかけた。
 
「マギちゃん! 出て来てちょうだい!」

 直後、白塗りの襖が音もなく開かれる。少年と両親が同時にそちらへ視線を向け、開かれた奥で正座する「それ」に意識を傾ける。
 一人の女性がいた。露出のないメイド服を纏った長身の女性が、背筋を伸ばして鎮座していた。顔だちは柔和で目は大きく、穏やかに微笑む姿は見る者に大人びた印象を与えた。両手首が羽毛で覆われ、背中から尻尾のようなものが伸びていたのも、また印象的だった。
 
「皆様、お初にお目にかかります」

 件の女性が優しく甘い声を発し、恭しく頭を下げる。両親がつられて礼を返す。少年は頭を上げたままで、祖母は何も言わない。
 女性が面を起こす。柔らかく微笑んだまま、棘のない丸まった言葉を三人に放つ。
 
「私、キキーモラのマギウスと申します。短い間ではありますが、何卒よろしくお願い申し上げます」

 そこまで言って、マギウスが再び頭を下げる。女性が魔物娘であることに両親は驚いたが、そこに悪感情は無かった。彼らのそれは、見知らぬ外国人にいきなり声をかけられた時に感じるものと同レベルの「びっくり」でしかなかった。
 故に少年の両親は、すぐにマギウスの存在を受け入れた。魔物娘の存在自体、今となっては珍しいものではない。むしろ「だから手首がそうなってるのか」と納得したほどだった。
 
「これからはこのマギちゃんが、うちで一緒に暮らすことになるからね。ヒロ君、そこんところよろしくね」
「ヒロト様、よろしくお願いします」

 そんな中、祖母と彼女の隣に座り直したマギウスが、揃って少年に声を掛ける。少年は一瞬肩を強張らせるも、最初と変わらず死んだ目で二人を見つめ返した。リアクションを取ることもしなかった。
 不動の息子を見た両親が不安げに顔を見合わせる。マギウスは微笑んだまま、少年をじっと見つめている。少年は無表情のままマギウスから目を逸らし、無言でテーブルを見つめ始める。
 話が止まる。
 
「――はいはい! それじゃ自己紹介も終わったからね! 色々決めようかね!」
 
 微妙な空気になりかけたところで祖母が手を叩く。そして最初に祖母が立ち上がり、次にマギウスと両親が腰を上げる。遅れて少年が億劫そうに立ち、そのままちらりとマギウスを見る。
 偶然、マギウスと目が合う。目は半開きのまま、少年の動きが止まる。
 少し間を置いて、マギウスが少年に微笑む。
 
「重ねてよろしくお願いしますね、ヒロト様」

 キキーモラの声が少年の耳に届く。明るく爽やかな、活力に満ちた声。
 今の自分には無縁の声だ。
 
「……どうも」

 少年が弱々しく反応する。マギウスの耳がそれを拾い上げ、微笑みながら頷き返す。
 あまり干渉してほしくなかった。少年は何も言わずにそっぽを向いた。マギウスは一瞬呆気に取られ、しかしすぐに柔和な面持ちを取り戻した。
 
「大丈夫、大丈夫ですから」

 優しく笑うマギウスが、少年に向けて呟く。少年はそれに反応せず、さっさと祖母の後を追う。
 無視されたキキーモラも怒ることはせず、にこやかなまま少年に続く。少年は背後の存在を努めて無視し、鈍い足取りで和室を出て廊下を歩いていった。
 



 七月。倉敷博人とマギウスの生活は、こうして始まったのだった。
18/06/16 20:02更新 / 黒尻尾
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