連載小説
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 荷物の引き渡しを済ませた後、博人の両親はそのまま帰っていった。全てが終わってなお未練たっぷりに博人を案じる両親を、祖母が無理矢理帰らせたのである。
 
「こっちのことはこっちでやるから。あんた達は早く家に帰りな」

 相手の反論を許さない一方的な通告だった。結局両親は祖母の気迫に押し負け、息子を頼みますと言い残し車で去っていった。後には博人と彼の荷物だけが残され、件の和室で彼は途方に暮れた。
 そこにキキーモラのマギウスが声をかける。
 
「それではヒロト様、お部屋までご案内しますね」

 マギウスは既にトランクケース――博人の荷物を手に持っていた。いきなり声をかけられた博人は一瞬肩を震わせ、素早くマギウスの方を見た。
 
「あ、はい」

 そして弱々しく返事をする。心ここにあらずとも言うべき空っぽな声だった。次いで博人は立ち上がり、マギウスは微笑みながら彼を目的地まで案内した。
 この家には子供の頃から泊まりに来ていたので、博人は家屋の構造を完全に把握していた。自分の空間として用意された部屋がどこにあって、どう行けばどこに辿り着けるのかも、彼はとっくに理解していた。
 
「……ですので、お風呂を使いたい場合にはこちらの廊下から……」

 だから彼はマギウスによる丁寧な解説を、適当に聞き流した。耳には入っていたが、脳で咀嚼することはしなかった。適当に相槌を打ち、聞いているフリをするだけだった。
 どうでもいい。早く一人にしてほしい。それが博人の正直な気持ちだった。しかし彼はそれを口にはしなかった。ただはい、はいとうわ言のように繰り返すだけだった。
 
「簡単に説明すると、こんな感じでしょうか。おわかりになられましたか?」
「はい」
「もしわからないことがあったら、なんでも仰ってくださいね。すぐにお教えしますから」
「はい」

 こちらを見るマギウスから視線を逸らし、虚空を見つめて声を絞り出す。本心は絶対に見せない。マギウスの表情すらも意識に入れようとしない。
 もう傷つくのは御免だった。
 



 博人はここには静養のために来た。だから何もしなくていい。一日中のんびり過ごしなさい。この日の夕食時、祖母の放った台詞である。
 
「変に思いつめたり、考えすぎたりしちゃ駄目だよ。全部忘れて、リラックスするんだ。いいね?」
「うん」

 箸と茶碗を持った祖母が念を押す。目の前の料理を機械的に処理しながら、博人が言葉を返す。マギウスの時と同じパターンである。当然祖母とは目を合わせない。自分が何を食べているのかもわからない。気にも留めない。
 とても失礼だ。博人は自覚していた。叱られるかもしれない。
 改める気は無かった。彼は自暴自棄になっていた。
 
「おかわりもありますからね」
 
 優しい声でマギウスが話しかける。博人が無言で頷く。会話が続かない。食器の擦れる音しか響かない。静寂が部屋を包む。
 祖母の家にはテレビが無い。パソコンも無い。あるのはラジオくらいだ。携帯電話の電波は通っているが、動かす気にはなれない。博人のスマートフォンの電源は切られたままだ。
 だからここに音は無い。自分から音を出さなければならない。
 出す気は無い。どうでもいい。さっさと終わらせたい。
 
「……ごちそうさま」

 手早く済ませ、形だけの言葉を放って席を立つ。誰の言葉も聞かず、視線も無視して部屋を出る。
 その背を祖母とマギウスが無言で見送る。襖を開けっ放しにしたまま博人が姿を消す。後に残された二人が、手持ち無沙汰気味に顔を見合わせる。
 
「……」

 どちらも不安と悲哀のこもった表情を浮かべていた。彼がそうなってしまった理由を知っていたからだ。
 しかしだからといって、互いに慌てて彼の後を追うことはしなかった。今大切なのはお節介を焼くことではない。時間をかけて寄り添い、彼を支えてあげることだ。
 
「マギちゃん、あの子のことよろしくね」
「お任せください。お婆様」

 祖母の言葉にマギウスが頷く。静かな食卓の中で、二人はその認識を改めて共有した。
 
 
 
 
 三人の共同生活は、次の日から本格的に始まった。始まった、とは言うものの、特別なことは何も起きなかった。
 
「家のことは私達でやっておくから、ヒロ君はぼーっとしてなさいな」

 家事全般は祖母とマギウスが全て片付けてしまっていた。二人の方から博人に「手伝え」と催促することもなかった。寧ろ二人の方から、博人に「何もするな」と告げる始末であった。
 博人もまた、それを無防備に受け入れた。実際何もしなくていいというのは、今の彼にとってはありがたいことだった。自分から他人の領域に踏み込むことも、他人が自分の領域に踏み入って来ることも、もううんざりだったからだ。
 もっとも当の博人は、それを顔に出すことはしなかったが。それでも嬉しいことは嬉しいものだ。なので博人は初めの四日間、本当に何もしないで過ごした。遠慮することなく、ぐうたら時間を浪費した。
 贅沢な時間の使い方である。しかし祖母もマギウスも、そんな博人を咎めることはしなかった。土足で心に上がり込むこともしなかった。ただ食事が出来た、風呂が沸いたと最低限のことだけを告げ、それ以上は干渉しなかった。
 
「今日の夕飯は焼きそばだよ。熱いから気をつけてね」
「おかわりもありますからね。どんどん食べてください」

 祖母とマギウスが博人に話しかける。先方からの反応はない。それでも二人は博人に声をかけ続けた。
 博人の顔は動かなかった。
 
 
 
 
 五日目。午前十時。博人はいつものように、家の中でぼけっとしていた。この日は縁側に腰を降ろし、近くに扇風機を置き、外の景色を無言で眺めていた。
 今日の天気は雲一つない快晴。日差しは強く、風はほぼ無い。一言で言って、猛暑である。
 
「……」

 縁側に座る博人は、その暑さの中に自ら身を置いていた。扇風機の風は気休めにもならなかった。部屋の奥に引っ込めば幾分かまともになるかもしれなかったが、わざわざそこまで動くのは億劫だった。
 だから彼はそこから動かなかった。頭は重く、視界は薄まり、体中から汗が流れ出していたが、全て無視した。危ないとわかっていたが、博人は自分の体調に頓着しなかった。
 命を大事にする必要は無い。今の自分にそこまでの価値はない。彼はそう思っていた。むしろもっと悪化すればいいと、捨て鉢な思考さえ芽生えていた。
 
「あ」
 
 そしてその時が来る。体が傾き、横向きに崩れ落ちる。全身から力が抜け、目の前が真っ暗になり、受け身も取れないまま頭と床が激突する。
 一瞬の出来事だった。反応する暇すらなかった。しかし予兆もなく起こったこれを、博人はすぐに受け入れた。
 悪くない。いい感じだ。意識が遠のいていく感覚にすら、彼は安堵を覚えた。
 これでいい。自分なんてこんなものだ。これで何も考えなくて済む。
 
「うん……」
 
 ほどなく睡魔がやってくる。博人は抵抗しなかった。手足を投げ出し、横倒しになったまま、彼はその場で意識を完全に手放した。容赦なく照りつける太陽の下、少年は再び殻に閉じこもった。
 
 
 
 
「うっ、ううん……」
 
 暫く後、博人は目を覚ました。しかし爽やかな目覚めとはいかず、意識はまだ微睡みの中にあった。体にも怠さが残り、起き上がるには時間がかかりそうだった。
 
「お目覚めになられましたか?」

 そこに声がかかる。優しい女性の声が間近で聞こえてくる。それが切欠となって、意識だけは完全に覚醒した。肉体はへそを曲げたままだ。
 どうでもいい。動けるところだけ動かそう。そう考えた博人は力を込めるように眉間に皺を寄せ、小刻みに瞬きをして瞼を開ける。
 靄が晴れ、ピントが合わさっていく。そうしてクリアになった視界の中に、マギウスの顔が大写しになる。
 
「えっ」

 眼前に女性の顔を見た博人が、驚きのあまり目を見開く。だがそこから起き上がろうとしなかったのは英断だった。もしそんなことをしていたら、マギウスと自分の顔が正面衝突していただろう。二人の顔はそれだけ近づいていた。
 
「なんで」

 博人の口から疑問が漏れ出す。耳をそばだてないと聞き取れないほどか細く、弱弱しい声だった。
 しかしマギウスはそれをしっかり拾い上げた。そして彼女は次に、にこりと笑って博人の問いに答えた。
 
「ひどくお疲れのようでしたので、こうして介抱させていただいております」
「介抱?」

 かすれるような博人の言葉に、マギウスが微笑んで頷く。
 
「僭越ながら、膝枕を少々」

 キキーモラが控え目な調子で言う。そう言われた博人はようやく、自分の置かれた状況を理解した。
 だらしなく伸ばされた手足。持ち上げられた上半身。後頭部に伝わる暖かく柔らかな感触。至近距離でこちらを覗き込むマギウスの顔。
 なるほど確かに、これは膝枕の体勢だ。
 
「あっ、あの、えっ」

 理解と同時に思考が鋭敏化する。恥辱の念が全身を駆け巡り、腐りかけた感情と活力に命を吹き込む。顔が一瞬で赤く染まり、すぐにも起き上がろうと腹に力を込める。
 
「いけません」

 マギウスの方が速かった。博人が上体を起こそうとした次の瞬間、彼女は彼の額に手を添えた。それだけのことで、博人は起き上がることが出来なくなった。
 
「いきなり動いては、体が動転してしまいます。まずは落ち着いてください」
 
 片手で博人を押さえつけながら、マギウスが声をかける。その間にも博人は体を起こそうと無駄な努力を重ね、最終的に人と魔の膂力の差を痛感した。
 これは勝てない。身の程を知った博人は、大人しく彼女の言う事に従うことにした。大きく息を吐き、体から力を抜いていく。
 
「今のあなたは、まだ本調子ではありません。もう少しこのまま休むべきです。無理は禁物ですよ」

 博人が脱力するのを知覚しながら、マギウスが優しく諭す。それからマギウスは額の手をそっと離したが、博人が反抗することはもう無かった。彼は完全に諦めモードに入っていた。
 
「どうしてこんなことを?」

 抵抗を止めた代わりに、博人は疑問をぶつけにかかった。どうして自分にここまでしてくれたのか。理由が知りたかった。
 それに対し、マギウスは笑って答えた。
 
「困っている方を助けるのは、当然のことでございます」

 当たり前のように言ってのける。博人は言葉に詰まった。
 キキーモラが続けて言う。
 
「ここのところ、ヒロト様はあまり眠れずにおられたようですから。それとなく気に留めておいたのですよ」
「それって、ずっと前から?」
「はい」

 博人の問いに、マギウスが正直に頷く。直後、博人の心臓が僅かに跳ねる。
 一方で博人の頭に再び手を置き、優しく撫でながらマギウスが口を開く。
 
「私の役目は、ヒロト様をお支えすること。あなたに寄り添い、あなたの体と心が癒える手助けをすること」

 マギウスの言葉が心に染み込んでいく。全身に熱が広がっていくのを感じる。感情が溢れ出し、表に出すまいと顔が震え始める。
 瞳を潤ませる博人を優しく見つめ、マギウスが穏やかに告げる。
 
「お眠りください。ヒロト様に今必要なのは、休むことです」
「……いいの?」

 泣きそうな声で博人が許可を求める。にっこり笑ってマギウスが答える。
 
「心のままに。私が傍にいてさしあげます」

 耐えられない。目から一筋の涙が流れ落ちる。何かが溢れて止まらない。声も出さずに滂沱する。
 メイド服の魔物娘がその涙を指先で拭う。
 
「お眠りなさい。優しい子」

 拭いながら促す。博人はもう抵抗しなかった。ただ言われるがまま、体をマギウスに預けて目を閉じる。
 不思議と心が安らぐ。夜一人で寝つけずにいた時とは大違いだ。今なら熟睡できる。博人は確信した。
 
「すいません……」
「いいんですよ」

 無意識に感謝を述べる。マギウスが笑って答える。それが二人の最後のやり取りだった。
 寝息を立て、静かに眠る博人を見下ろしながら、マギウスが静かに呟く。
 
「おやすみ、ヒロ君」

 親しみのこもった言葉は、しかし博人の耳に届くことはなかった。
18/06/25 19:48更新 / 黒尻尾
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