読切小説
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エウレカ
1

 恐怖というものはいつからその形を恐怖たらしめているのだろうか。人は己の理解の範疇を超えたモノに出会った時、恐怖する。それは当然のことである。これは人の精神上の防衛本能であり最後の砦となっている。つまり、人は恐怖することで己を守っていると言い換えることが可能である。では恐怖しなければ人は発狂してキチガイにでもなってしまうのか。否。戦場の例を考えてみれば単純明快で、そもそも恐怖という防衛機能の前には複数の壁が存在する。それは戦場でのけたたましい鼓舞であったり、失神することによる意識の忘失であったり人の機能はそこまでヤワではない。
 では人は本当に恐怖することなど本当にあるのだろうか?そのことを実際に証明するために私はあらゆる手段を厭わない。恐怖の証明という哲学めいた、学会からは奇異の目で見られるようなことでも進んでする。そうせねば学問など発展するはずもないのだ。
 だから私は古今東西、ジパングから存在が実しやかに囁かれている霧の大陸にまで疑いの目を向け、恐怖の資料を探す。貪欲に探究する。知的好奇心が無いと言えばそれは真っ赤な嘘になるが、それでもこの研究が唯一無二の、有意義な産物へと変貌を遂げると信じて。
 無論当てずっぽうに研究しては埒が明かない。言わずもがな多少、対象は絞ってある。幸いにも一つ、恐怖の研究に適した現象が近くの漁村で発生していると、風の噂で耳にした。
 まずはそこで噂の真偽と、そして恐怖とは何なのかを確かめるとしよう。
 その前に、手記にも私の名前をキチンと記しておこう。
 私の名はエウレカ。エウレカ・ヘンデ。神聖学哲学科首席卒業、性別は女。これくらいでいいだろう。早速明日から、調査を始めることにする。

2

 噂の漁村まではさほど苦労せず到着することができた。見る限り、特に述べることもないありがちな景色が広がっている。砂浜、海、そしていくつかの家がちらほらと。そして点在する漁師小屋。遠目に見えるのは洞窟だろう。
 とてもこの村に怪異がその根を張っているとは思えない。と、決めつけるのは早急に過ぎるだろう。まずは基本的な聞き込み調査からすることにしよう。
 ああ、そうそう。私としたことが記しておくのを忘れていた。この漁村で起こっている現象について、怪異について。
 事の発端は二週間ほど前だという。ある村娘が色情を堪え切れず村中の若人を貪ったというのだ。これだけならまだ、さほど愉しみのない村の廃頽的な密やかな宴と理解できなくもない。しかし、それが複数であれば?
 日を追うごとに増えていく好色な村娘。そして決まって若人と交わっては特定の一人に執着するようになるという。
 これは明らかに異常であり、異質である。魔物の仕業にしてもその意図もヒントも掴めない。首席卒業が無様なことだ。しかし逆に魔物の仕業でなければこれは絶好の恐怖に対しての研究になり得るのである。
 生物が己の生命の危機に瀕した時、とる行動は限られてくる。その中には生殖行為も勿論含まれる。そして生命の危機、つまりは恐怖を感じる時の本能的な行動に性行為は含まれる。ならばこの村はまたとない材料なのだ。当然の義務としてこの村の怪異解決もあるのは言わずもがなとして。
 実際に人々の声を耳に入れねば調査も始まらない。適当な村人、主に女性を中心にして質問をぶつけることにする。
 質問の内容に関しては、いかにも宗教国家のような質問を少し捻くったものにする。つまり、不貞を働いていないかどうか。神聖学哲学科の肩書がこんなところでも意外と役に立つ。さて早速と行動に移し、私は赤髪の婦人に声をかけた。国家からの調査と言えば喜んで答えてくれるところに、まさに万能の道具のような肩書きだ。

「あら、不貞なんてそんな。私は主人以外の方と関係を持ったことなんて一度もありませんわよ?それにしても、お国も随分と踏み込んだ調査をするようになったのねえ。それもこんな漁村まで」

 一人二人と話を聞いてみるも、ほとんどが前述したような回答ばかり。これは私の見当違いも疑われたが、火の無い所に煙は立たぬと言うくらいだし手がかりの一つでもあればと思ったのだが、主神様は私の研究にはとんと興味もないらしい。漁村に赴いてそうそう八方塞がりになった私はどうしたものかと頭を抱え込んだ。
 何しろ目ぼしい人には声をかけても、知らぬ致しておらぬ存ぜぬばかり。質問の内容を変えてみても同じことだった。搦め手も悉く躱され、何やら空気を相手にキリのない押し問答をしている気分になってくる。
 根拠のこの字もなければ証拠のしの字もない。確信のかの字もない。畢竟、打つ手なしのやることなし。あまりに早すぎるが、一つの手段に過ぎない以上はこの漁村に執着していても仕方が無い。しかし早すぎる諦めは研究の放棄である。
 私はしばらくこの漁村に滞在し、もう少し粘ることにした。
 この研究はきっと意義のあるものになると信じて。

3

 あ―――キモチ――
 し…………た…………

4

 在学中も連日の徹夜で意識が途切れることはあったが、まさかちょっと身体を動かしただけでここまで疲れが溜まっているとは思ってもいなかった。手記には恐らく書きかけ半ばで力尽きたであろう痕跡がこれ見よがしに残っている。自身の体力不足にほとほと愛想も尽きかけるものだが、そんな暇があれば調査だろう。調査の根本は足だ。
 前日の失敗を反省し、私としても手段を根本的に変える必要があると見直した。その結果として少々犯罪じみた結論に至ったのは崇高な学問の糧になるとして目を瞑る。
 人間、暗くなると本性というものは表に出やすいものだ。考えてみれば最初からわかりそうな気もするが、それは私の経験が皆無ということからも察してもらいたい。
 そもそも疚しい行為というものは真昼間からするものではないだろう。人目を忍び恥を忍び(恥は忍んでいるか定かではないが)行われるものだ。だからこそ男女はその行為に火を灯し熱を迸らせる。
 ならばその時間帯にこっそりと他所へ窺い、観察すればいいことだ。自分で記しておきながら憲兵に捕まらないかと戦々恐々しているが、背に腹は代えられぬ。
 月が頂点に達した頃、私はこっそりと他所の家へと忍び込んだ。ある程度行為を観察し、異常性が見受けられなければ即座に次の家へ、そしてまた次の家へと移動していけばいつしかビンゴになるだろうという目算で。
 他人の性行為をそこそこの距離で観察することに対して、私も多少、いやかなりの気恥ずかしさがありはしたが……ここは名誉のために記述しないでおく。書く自由があるならば書かない自由もあるだろう。
 もっとも結論から言えばこの方法も呆気なく水泡に帰した――かに、思えた。
 一軒、二軒、続いて三軒とこれまで目ぼしい成果を得られぬままに、四軒目の家へ忍び込んだ。正確に記述するならば忍び込もうとした時にその違和感はあった。家の鍵がかかっていなかったのだ。
 これはおかしい。いくら村中が見知った者であれ、最低限の防犯はするだろう。その最低限の防犯を突破して私は家に忍び込んでいたわけだが、その壁すらないのは明らかに不注意というレベルではない。万が一にもかけ忘れたのかと、私は気配を消して家に忍び込んだが……家はもぬけのからだった。誰一人、人っ子一人いない。
 ならば、家の主は、いったいどこへ?
 私はすぐに思考を蜘蛛の巣のように張り巡らせた。
 夜逃げ?いやその可能性は低い。そもそも家にいない理由がない。家にいないのならば必然的に外にいるという結論には達するが、どこへ。
 私は外に出ている間に、自分以外の人間を見ていない。ならばこの家の住人は私よりもずっと前にどこかへ出かけていることになる。しかしこの時間まで帰らないのは不自然極まりない。胸の中で何かが囁き、頭の中には漁師小屋と洞窟が浮かんだ。
 あそこなら、人目に付かないだろう。何かやましいことをするには絶好の場所ではある。しかしこの時間まですることとはいったい何なのか想像もつかない。性交にしたって、時間が長い。答えの出ないまま、私の足はまず漁師小屋へと向かった。
 複数ある漁師小屋の一つ一つから人の気配を探り、それを何度か繰り返し、そして引き当てた。当たりを。
 小屋の中から聞こえて来るのは激しい息遣いと、荒々しい喘ぎ声。そこから連想される行為は一つしかないにも関わらず、信じられない自分がここにいた。
 ぽちゃん、ぽちゃん。
 まさか、今まで?
 どうにかして中の様子の詳細をこの目にと、辺りをきょろきょろと見渡せば、これまたおあつらえ向きの小穴が、空いていた。地面にやや近いが、これなら見上げるかたちで中の様子を見る事ができる。月明かりも出ているし、ある程度はっきりと視界も確保できるだろう。
 意を決して私は姿勢を低くし、穴を覗き込みそして
 絶句した。
 私には到底それが人が成しえる光景とは思えなかったからだ。あるのは一組の男女の姿。小屋に充満しているのは間違いなく淫靡な空気で官能に満ちたそれ。男の本能を擽り女の芯を蕩けさせる濃厚な気。女が男の上に跨って腰を振るその行為は間違いなく子種を求める、生命を求めるもののはずで。
 なのに、なんだこの異様さは。耳を澄ませるとその異様さはさらに顕著になり、思わず正気を疑った。貪り合っている――のではない。一方的に、喰らわれていると喩えた方がしっくりときてしまうような異常なもの。

「ネェ、まだまダイケるでしョ?もっとタクさン愛し合えばきっと私もアノ人みたいニなレるんだかラ、ほら頑張って♪」
「や、やっぱり、お前、おかし――むぐっ」

 口うるさいものには蓋をすると言わんばかりに自分の唇を男と重ねる女。その姿は淫売とかを通り越して、魔性めいた何かを感じずにはいられなかった。彼女の口調もどこか正常なものではないように聞こえて、私は思わずその場から離れた。物音を立てようとお構いなしに、まずは離れることを最優先として。
 しかし走ろうとも光景自体は眸どころか瞼の裏にまで焼き付いてしまって離れない。豊満な肢体の女だった。振り撒く淫気が小屋の外にまで漏れ出していて、それにアテられたのか、髪の毛が蠢くようにも見えて。
 どうか夢物語であってほしいと願いながら私は走った。砂浜を一目散に。消えないものはどう足掻いても消えないと理解していても。
 そして、女が口走ったあの人という言葉も同時に脳裏にこびりついて。何かドス黒いものに身体を巻き付かれているような錯覚を覚え、ぞっとしながら私はまだ走り、そして気づけば洞窟の前まで来ていた。
 頭は酸欠でくらくらするが、それでも洞窟内の暗さというのは恐怖というものの芽を育てる。別に生命の危機にも何にも瀕してはいないというのに。
 私としたことが冷静さを失っていた。もう今日は眠ろうと洞窟を背にした瞬間に、それは聞こえた。か細くて海の漣にすら溶けてしまいそうな女性の声が。咄嗟に振り返るが、洞窟の闇は深く、目をこらしても姿は見えない。しかしあの声まで幻覚ならば私はとうに発狂している。正体を確かめたい。ふとそういう思いが湧き上がってくると同時に、伏魔殿の入り口へと踏み込むな愚か者と警告する理性が私の足を縫い付けた。嫌な汗は不快感しか生まず、それが肌を伝う感覚がいちいち鬱陶しい。そこまで感じてやっと私は自分が汗をかいていることに気づいた。
 この漁村を、甘く見ていた。そこで遅すぎる実感が伴い、呼吸がやけに煩く聞こえてくる。恐怖どころではない。恐怖のその先まで、誰も到達していない真理にまで迫るものがここにはある。
 意味のない確信が私を支配し、足は自然と一歩進んだ。月明かりと闇の境界から闇へと溶けていき、そして、

「――ぁ」

 声が少しずつ近くなってくる。心臓は鼓膜を破りそうなほどの鼓動を繰り返し、心拍数の上限をとっくに超えているのではと思わせるほど。どこまで進んだかもわからぬまま、私の足はぴたりと止まった。恐怖などではなく、体力的にこれ以上は進めなくなったのだ。それでも、せめて声の正体だけでもと私は喉が嗄れる勢いで叫んだ。

「誰かいませんか!!!」

 声は洞窟内に気味の悪い反射を残し、そして徐々に消えていってしまった。
 ただそれだけ。
 答が返ってくるわけでもない。唐突に化け物に襲われるわけでもない。突如として私の身体に異変が起こるわけでもない。ただただ現在が通過していくだけで、そこに変化は訪れない。

「そんな……」

 がっくりと項垂れ、体力も使い果たした中でどうやって洞窟から出るかと改めて考えた時に、それは起こった。
 ぽちゃん、ぽちゃん。
 私の後ろに、突然現れた気配。酷く湿り気を帯びていて、粘着質な音が耳元で聞こえる。心臓が止まりかけ、それでもなおしぶとく生きようとする臓器をこれほどまでに有難く思ったことはなかった。そしてそれを上塗りするようにして襲い来る、恐怖。
 私は今、命の危機に瀕している。
 理性の線をいともたやすく切断してしまいそうな恐怖がすぐ後ろにいるのに、私は「抱きしめられた」のだ。後ろから。慈母のような抱擁が、包み込み。
 そ、し、て、

「こんばんは」

5

すぐに飛び起きて、夢だったのかと胸を撫で下ろして手記を見たところで、愕然とした。なんだこの行動の詳らかな記録は。私はわざわざ行動まで記録していた記憶はない。自身でも気づかないうちに夢遊病に苛まれていたとしても、ここまで詳細な記録を記せるものなのだろうか?
 他人の情事を盗み見、そして洞窟で未知の何かと遭遇したような記述まで。
 これはある意味で夢ではない証明にはなるのだろうが、果たして自分の記憶がない証明が本当に証明になり得るのか。だが、それでも恐怖の真理を求める以上は、向かわなければならないだろう。洞窟へと。本当に恐怖することがあるのかどうかを、確かめなければならなイ。漁村の人々を観察などという悠長なことは言っていられないだろう。これは明らかに緊急事態なのだから。
 私が直接、その身で確かめる他に手段はない。
 ぽちゃんぽちゃん。
 早速支度をして洞窟へと向かう途中で、漁村の青年と出会った。何気ない挨拶を交わしただけだったのだが、私の中では何かが引っかかる。かといってその青年が特別美男子というわけでもなければ、怪しいわけでもない。
 疑問を放置するのは見過ごせないが、今は例外だ。
 とにかく、洞窟へ――

6

 ンン――――イァ―――
 ギも…………めっ…………

7

 なんということだ。行動にすら移せず眠りこけていたなどと。首席の肩書なんて海にでも投げてしまえ。それはそうと、私ハこれ以上の愚考を犯さないために既に洞窟の前に来ている。ここまで来れば不甲斐ない結果に終わることもないだろう。如何せん不審な点が幾つか残ってはいるが、それもこの洞窟で答え合わせとなるはずだ。
 躊躇いなく洞窟内部へと歩みを進めると、ぽちゃんぽちゃんと水滴が落ちる音が不気味な響きを残す。その程度で足が止まるわけもなく、ずんずんと歩いていくとやがてあの声が聞こえてきた。夢ではない、しっかりと存在のある女性の声。何を言っているかまでは聴き取れないが、この洞窟内に確かに存在しているのだ。
 ぽちゃんぽちゃん。
 私の身に起こっている不可解な現象を確かめるためにも、これは遂行する使命があり、決意があり、そして――
 ぽちゃんぽちゃん。

「……やけにうるさいわね」

 ここまで洞窟内は反響もしやすいとはいえ、水音が響くものだっただろうか?いくらなんでも水滴が落ちるにしては、音が大きいような気がする。
 ぽちゃんぽちゃん。
 ほらやっぱり。
 ぽちゃんぽちゃん。

「ああもう!うるさ――」

 口を噤んだのは、何もかもが台無しになったような気分にさせられたからで、決して現実を逃避しているわけではなく。むしろ私の頭の中では目の前の光景を必死に受け入れようと稼働している真っ最中であって、どうにかして足に命令をして一目散に逃げ出そうとしているのに足はどうしたことか動かない。

「いらっしゃい」

 「ぽちゃんぽちゃん」と水音をたてて、後ろから私を抱擁した何者かが、言った。
 一瞬で身体は硬直し、血管を凍り付いた血液が流れていく音がして、呼吸は風切音のようなものへと変わり。
 口から吐く息はなぜか艶を帯びて、身体は痙攣を繰り返し、声らしい声は記号となってせいぜい官能の符号の役割を果たすだけ。どうして。
 どうしてどうしてどうして。
 どうしてここまで大切なことを忘れていたのだろう。
 こんなにも幸福なことを教えてくれた彼女を、こんなにもキモチイイことを教えてくれた彼女ノ存在を。それがどれだけ罪深いことかと思うと、自然と涙腺は緩みそして涙は頬を伝い、彼女はそれを美味しそうに舐めた。

「思い出したでしょう?」

#3

 漁村とはいえ、宿屋も簡易的なものがあったことに一先ず安心し、私はベッドに潜り込んだ。寝心地は決して上等なものではないが、寝れないよりマシだ。疲れが気づかないうちに溜まっていたのか、私はすぐに混沌の淵へと意識を落としていった。
 かに、思えたのに。
 意識が急にはっきりしたのはなぜか。
 身体に重くのしかかる存在が急に現れたとなれば、嫌でも意識を取り戻す。はっと眼を見開けば、そこにはいたのだ。
 魔物が。
 触手を生やし、好色な笑みを浮かべた魔物が。ぽちゃりぽちゃりと鈍い、しかし淫靡な水音を立てて。私の身体のすぐ上に圧し掛かって。きっとそれは男なら恐怖の次に欲望が鎌首をもたげるほどの妖艶さで、その肢体の豊かさも押し付けられる感触でいやでも理解できてしまう。まさに男を誘惑するためだけに存在する魔、魔の物。
 すぐに撃退するべく魔法を唱えかけた私の口には触手が滑り込み、いきなりの侵入者に噎せこむことも気にせず頬を長い舌が這った。それだけで、ぴりぴりとした痺れが広がり、全身が甘美な電流を流されたように軽く痙攣する。一瞬頭に靄がかかり、晴れた次の瞬間には正気を取り戻してなんとかもがこうとしても、両手両足もご丁寧に触手が拘束してはなす術もなかった。
 ただ魔物はにたにたと笑い、そしてゆっくりと私の顔を、首筋を舐めては反応を愉しんでいるようだった。

「ふぐっ、んぐっ、ぐむっ」

 事実それだけで高まってしまう官能に抗う術もなく、依然触手を突っ込まれたままの口が無理に喘ぎ声をあげようとして、それはくぐもった声とはとれぬ音に変わるだけだった。

「ああごめんなさい。いつまでも突っ込んだままじゃ苦しいわよね」

 それに気づいた魔物はずるりと私の口から触手を抜き取ると、一気に酸素がなだれこみ呼気がどっと荒くなる。危うく酸欠になり正常な思考を失いかけていた頭が段々冷静さを取り戻すのもお構いなく、魔物は言った。

「あなたはどうしましょう。ちょっとずつっていうのはもうみんな試してしまったし」

 ちょっとずつ?みんな?
 言葉の節々の意味が理解できず、私の頭に疑問符が浮かぶのも他所に、魔物は一人合点がいったように両手をぽんと合わせると、

「そうね。今度は急に変えてみましょうか」

 言葉とほぼ同時だった。
 余裕を完全に取り戻す前に逃げ出すべきだったと後悔するも遅く、私の「耳」には細長い触手が侵入していた。
 当然、性器などと違いそんな異物を受け入れるようにできていない身体は拒絶反応を起こし、皮膚からは脂汗がにじみ出た。涙腺が壊れてしまったのか、涙がとめどなく溢れ、口からは唾が垂れ放題になり、未知の感覚に身体は震える。

「あぎっ、がっ、な、にっ、こ、ごれっ」
「大丈夫よ。すぐに気持ちよくなるから。そしてあなたも素敵な魔物になるの」
「ま、も、のっ」

 その言葉の意味を理解する余裕もなく――いや、理解する必要すらなかった。突如として全身を雷にうたれたような衝撃が襲い、気づけば視界は白く染まり、数秒遅れてそれがやっと許容しきれない快感の波だと知った時には、私は声の出る限り叫んでいた。
 なんだこれは。
 なんだこれは。
 こんなもの、人が受ける快楽じゃない。こんなもの受け止められるように人間の身体はできていない。比喩じゃなく、本当にこんなもの、壊れてしまう。脳髄すら壊されてぐちゃぐちゃにされて脳漿と一緒に混ぜられて。

「あら、強すぎた?じゃあ次はもうちょっと弱くしてみましょうか」
「づ、づぎっ、やぁっ、めっ、……だめっ」

 懇願の声も聞き入れられず、耳のさらに奥、頭の中で水音が直接響く。これは性器を愛撫させられて発するような、生易しい快楽ではない。
 発生する快楽信号を、直接脳髄に当てているような、そんな形容し難い快楽。ただ、気持ちいいとしか表せない記号で。
 あ、あ、入ってくる。私の頭の中に、またぐちゃぐちゃにかき混ぜるために、入ってくる。
お願い、やめて。確かに人は快楽を求める生き物だけれど。それは手順を踏んだ快楽だ。きちんとした成り立ちがある快楽だ。誰も、誰もこんなに「直接的に」送られてくる快楽なんて受け入れられるはずがない。キモチイイだけの話じゃない。狂う。
 問答無用で狂わせてしまう。
 ドラッグと同じだ。

「やめっ」
「だ〜め」

 言葉と同時に、先程よりは弱い快楽がまた直接送り込まれてきた。水音を聞くだけで股はしとどに濡れ、声にならない声がもれていく。それでもさっきよりは快楽の度合いはまだ弱い。だからこそ。
 だからこそ性質が悪かった。
 気持ちいいと、快楽としっかり認識できる波が止まることがない。度重なる絶頂で四肢からは力が抜け、抵抗する術もなく実験動物のように弄ばれるだけで。
 時折身体をひくつかせてはもうやめてと視線でうったえかけるのが精一杯で。
 だから耳から触手が抜けた時には、私はもう意識も半ば消えかけていた。それでも頭に残っているのは、あの水音と、何かを啜られる音。思考そのものも、形骸化していた。
 理性も失い、気持ちいいを連呼するようになった私に人としての尊厳などなく、けれどその尊厳を捨てる心地よさといったら!
 馬鹿になってもわかるこの喜悦の極みのような胸満たされる気持ちといったら。
 そう考えるようになった私はきっと、どこかで線が切れていたのだろう。でも、あれ。
 あれあれあれ。
 どこで切れたんだっけ?

「今日のことは忘れるようにしてあげる。でも、その代わりね一つあなたにはお仕事を頼もうかしら」
「…………」

 返事などできるはずもない。それでも魔物は続ける。

「まだ一人ね、堕ちていない子がいるの。その人を堕としてほしいのよ。あなたにはちょっとしたお呪いをかけてあげるから。都合よく記憶が変わるお呪い」

 聞くことすら億劫になり、けれど羊水に浸っているような心地良さを感じながら、そこで私の意識は途絶えた。
 溶けてなくなる前に、他の人にも教えてあげよう。
 こんなにも気持ちいいことがあるなら、知らないのはモッタイない。
 寸前、そんなことを考えた気がする。

#4

 一組の男女が夜の漁師小屋で絡まっていた。一人は未だ意識を保った青年で、そしてもう一人は「私」で。
 ああ、知らなかった。ここまでセックスがキモチイイものだったなんて。これなら勉学に励むんじゃなくってもっとエッチなことをしておけばよかったなあ。あれ?でもおかしいな。私は他人の情事を盗み見ることをしていたはずなのに、まぁ、いっか。

「あ、あんたっ、国から来たエリートさんだろっ、なのにどうして」

 口うるさく言うこの青年も、ちょっと膣を締めてあげればまた子種を私の中に吐き出した。その度に私の頬は緩み、甘く濃厚な吐息が洩れる。全身をびりびりとした感覚が走るのがたまらなくきもちいい。きもちいい。
 青年は絶倫なのか、それともあの人が私にまた別の何かお呪いをしているのかはわからないが、股間の逸物は萎える気配を一向に見せずに私の子宮を悦ばせている。すでに結合部からはおさまらない白濁液が零れ、一部は愛液と混ざりあって卑猥に泡立っていた。私も含めて彼も既におかしくなっている。口はぶつぶつと言っても、腰は私の膣をこねくり回しては突き上げて快感を求めて必死に動いている。
 それがたまらなく可愛く思えて、私は唇も無造作に奪い、舌を出し緩んだ表情を晒すもやりたい放題だった。
 ひぃんと、子宮をノックされる度に甲高い声をあげ、自分が牝だということを自覚する。牝。快楽を求めて牡を求めるただの女。魔物。
 それ以外のなんだ?私のこの姿は牝以外のなんでもなくて。気持ちいいことに喘いで腰を振る浅ましい姿はとても淫らで綺麗で美しくて、私の下で喘ぐ彼も可愛らしくて気持ちよさそうでそれだけで胸一杯の幸せな気持ちになって。
 それ以外にこの世界に何があるというのか?
 ああ、素敵だ。こんなことを教えてもらった――最初こそいやだったけれど――彼女に感謝しないと。ああ、お礼でも言いに行こう。

「ネェ、まだまダイケるでしョ?もっとタクさン愛し合えばきっと私もアノ人みたいニなレるんだかラ、ほら頑張って♪」
「や、やっぱり、お前、おかし――むぐっ」

 うるさいうるさいうるさいうるさい。気持ちよくなればいいだけなんだから。
 そう、たったそれだけの。
 簡単なことなんだから。

#6

 いつものように私の頭を弄りながら、彼女は言った。

「そうねえ、そろそろ魔物にしてもいいかもね」

 その言葉の、なんと嬉しいことか。
 やっと私も、あなたと同じになれるのだから。
 せめて、名前を聞いておきたい。そう思って、舌も回らない口で名前を聞いた。

「私の名前?私は――」

8

「エウレカ」
「私もあなたもエウレカって、すごい偶然よねえ」

 エウレカが私の背後から乳房を掴む。それだけで腰砕けになり、私は切なげに彼女の名前を呼んだ。

「エウレカぁ……」
「ふふ、立派な魔物にしてあげる。淫らで素敵な魔物に」
「あぁぁぁぁあぁああぁ♪」

 その言葉だけで軽く達してしまった私は、自重を支えることもできずその場にへたりこみかけたのを、エウレカは触手で支えてくれた。それだけで、その優しさで涙がこぼれかけてしまう。
 けど、あれ、おかしいな。
 耳に侵入してきた触手に頬を緩ませ、浅ましく口を開いて快楽を享受することにも抵抗がなくなり、いよいよ私も同じになれると思うと、それだけで胸躍る感覚が訪れる。
 また、またあの言葉にできない、この世のどんなご褒美よりも愛しいあの快感が。
 あ、あ、あ、くる。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッツ!!!!!!!!!!!」

 痙攣、弛緩を繰り返し、洞窟内なのをいいことに声の限りに叫ぶ。もちろんこれはたった一回目で、まだまだ先がある。それだけで、嬉し涙。
 きもちいい。きもちいい。きもちいい。
 脳髄が次第に壊れていくような感覚を知らないなんて、勿体無い。世の中の全てに同情したい気持ちになりながら、身体はびくびくと神経を焼き切る快楽を受け止めている。
 そう。
 受け切れなかった快楽を受け止めている。
 水音が鼓膜を震わせるたびに甘い痺れが走り、その直後に襲ってくる絶頂。潮なんて何度噴いたのかもわからない。気持ちいいものは仕方がないのに、どうしてそれを批難される理由なんてあるだろう。
 私のそんな様子を、エウレカは本当に我が子を愛でる様な表情で見守ってくれている。それだけでまた私は狂ったように絶頂に到達し、ひきつった笑みを彼女に見せる。せめてもの、嬉しさの証明として。
 でも、なんでかな、おかしいな。
 何となく、私はここで魔物に変われるというラインがわかっていた。意識が完全に消えてしまうあの時に、今日いよいよ変わるのだろう。
 だから、その瞬間が一歩一歩近づくたびに、絶頂するたびに私の中の何かが作りかえられているという事実が、子を宿した時の幸福感にも似ていて。
 叫びすぎて声も出ず、イキすぎて身体もいちいち絶頂に対する反応を放棄していたけれど。それでも私は笑っていた。ひきつった笑みで。笑い声も出ない笑いをせめてエウレカにと、見せて。
 媚薬の効果もあるのだろう触手の粘液に、これは私の愛液だろうか。涎、腸液、あらゆる液体が水たまりを作り、卑猥を通り越した壮絶な光景になっていて。その光景は私が絶頂するたびに塗り替えられていく。
 胸を手で直接もみしだかれれば、一度。性器に入った触手が律動を繰り返せばまた一度。耳に入った触手が快楽信号を流し込めば一度。視界は明滅を繰り返すことすら疲れてきたらしい。しだいにその面積は黒が占めるようになっていった。
 もうすぐだ。もうすぐそこに新しい私が待っている。エウレカと同じ私が待っている。
 あれ、でも、私の名前って、なんだっけ。
 そもそも、私はどうして漁村にきたんだっけ?

「そろそろ仕上げね、一番濃いのをあげる」

 言うのが早いか行うのが早いか、それが快楽かどうかすらもうわからなかった。ただ強烈なフラッシュと同時に私の世界は黒になり、そして意識はふわふわと漂うだけのものになった。
 まぁ、いっか。細かいことはどうでも。

「フヒ、フヒャ」

 ああ、声が出た。これは、私の声だろうか。
 最後に見えた景色を覚えることもなく、私の意識は途切れた。
15/11/11 21:53更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただけたら幸いです。
マインドフレイアさんはエロさよりも精神的プロセスを書いた方が楽しいと思って書いたら、途中から読み返して僕の頭は蛆虫でも湧いてんじゃねえのかと思いました。

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