読切小説
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酔いと眼鏡と先輩と


 無断欠勤しやがった新卒社員の穴埋めに翻弄された一日が、ようやく終わりを告げた夜。

 ガヤガヤと賑わい始めた居酒屋店内の、更に奥まった場所にある座敷席。俺は今、その片隅の席に胡坐をかきながら、眼前をほろ酔い気分に歪ませていた。最近飲めるようになったビールの程好い苦味が、口にしていた鶏の唐揚げの脂っこい風味を喉の奥へと洗い流しながら、疲弊し切った身体にじんわりと染み渡っていく。こんなに美味しい飲み物を何故今まで敬遠していたのかと、過去の自分自身を呪わんばかりだった。

 そうして、ジョッキに注がれた黄金色の幸福を数度傾けた後。ふとあることに気が付いて、目の前の四角い眼鏡を、酔いの回り始めた頭でふらりと眺めた。「目の前」とはいっても、それは俺自身が現在進行形で掛けている自前の眼鏡に対してではなく、俺から見て左斜め向かいに座る人物が身に着けているもう一つの眼鏡に対してのことだ。この場にいる俺以外のもう一人、お通しとして出された蛸ワサビをちまちまと箸で突ついているその人物、現在勤めている会社の先輩である女性。彼女の掛けている眼鏡のレンズが青く透明な光を反射していて、俺はその輝きに目を奪われていたのだった。

 ちなみにだが、今この場には俺と先輩以外の知り合いは誰もいない。やたらと慌ただしかった本日の業務での、俺の頑張りに対する労いということで設けられた先輩の奢りの席だからだ。つまりは、二人きりである。入社したての頃から憧れている先輩との、二人きり、である。別にこれが初めてという訳ではないが、胸が弾まずにはいられない。先輩に良いところを見せたくて本日のピンチを必死になって乗り越えた甲斐があったというものだ。

(……まぁ、そんなことは今は置いておいて、だ)

 先輩のことを見つめていることでつい意識してしまった事柄から本筋を戻した。

 この青い輝きは、今流行りのブルーライトカットレンズ特有のものだったか。パソコンやテレビなどの映像機器の画面から発せられるブルーライトと呼ばれる可視光線を反射して目を保護する、とかいう特殊なレンズだ。それがどこまで効果があるのかはあくまで「個人差」ということらしいが、一日の大半がパソコン業務という今の職場の関係上、眼精疲労に悩まされることが当たり前になっていたものだから、少し気にはなっていた。

 記憶を辿るまでもなく昨日までの先輩の眼鏡はこんな輝きなど発していなかったし、そもそもが、先輩のトレードマークであった黒縁フレームが今では鮮やかな朱色のアンダーリムへと変容している。昼間は仕事に忙殺されていて気が付かなかったが、どうやら眼鏡を新調していたらしい。恐らくは昨日の退勤後にでも眼鏡屋に寄ったのだろう。朱色のラインが彼女の青色の肌によく映えていて、贔屓目に見ずともとても似合っているように思えた。

 一応補足しておくと、「青色の肌」というのは先輩が人間ではなく、アオオニという種族の妖怪であるが故の特徴だ。名前通りの真っ青な肌の色に、おでこの辺りから生えた太く黄色い二本の角。今の会社に就職して初めて目にした時は魔物慣れしていなかったのも相まって度肝を抜かれたものだが、今ではその記憶も懐かしい。よくよく見れば綺麗な色をしているのだ。それこそ、今の先輩の眼鏡の光みたいに。

「……くっ、この……っ!」

 当然、同じ眼鏡族としては興味を示さずにはいられない。ヌルヌルと箸の間を滑り逃げていく蛸の切り身に悪戦苦闘している先輩、その絵面の可笑しさからは取り敢えず目を背けつつ。俺は若干前のめりになって、声をかけた。

「……先輩、眼鏡変えたんですね」
「ん? ……おお! 良く気付いたな!」

 俺の声に反応して、眉間に皺を寄せたままでこちらに目を向ける。そしてすぐに表情筋を緩めると、俺より年上とは思えないほど無邪気な顔で微笑んだ。いつもキリリと引き締まった表情で後輩達の指導に当たっている、会社での厳しいイメージとはかけ離れたその笑みは、平時とのギャップも相まって限りなく魅力的だ。

 少し酒が入って気が緩んでいるせいもあるのかもしれないが、普段はあまり見ることのないその表情をこうして独占出来ているのは、めげずに先輩との交流を欠かさなかった俺自身の努力の賜物でもあるだろう。先輩が実際に俺のことをどう見ているのかまでは、分からない。だが、こうして男女二人きりで酌み交す程度には両者の仲が発展しているのは事実であり……それが何処か、誇らしい。

「ええ、うっかり見逃すところでした。何だか鮮やかになりましたね」
「んふふー。そうなんだよ。これ、昨日の帰りに受け取ってきたんだ。……なぁ、似合ってるか?」

 と。満足そうに口角を吊り上げた先輩は不意に、ずいと、その凛々しく整った顔をこちらに寄せてきた。ふわりと靡く銀のロングヘアが甘く芳しい女性の香りを運んでくるなか、店内の照明を受けて青く輝くレンズの下から、黄金色の双眸を上目遣いに覗かせる。きらきらとした期待の篭る眼差しで、こちらを見つめ返していた。

 図らずも急接近した互いの距離に、俺の心臓がドキリと鼓動を早める。「女性に近寄られただけでうろたえる」などという情けない姿を見せないよう平静を装う傍ら、今この瞬間だけでも、これまで彼女の気を引くために色々と頑張ってきて良かったと心底思えた。

 そうして心は昂ぶらせるまま、頭の方は至極冷静に分析するよう努める。ここでの受け答えの如何によって、先輩の俺への好感度は大きく変動するだろう。当然ながら、ネガティブな感想は問題外、だ。

「朱色のフレームがワンポイント効いてて、いい感じだと思います。前の黒縁も似合ってましたけど、俺としてはこっちの方が好きかも」

 先輩の表情や言動から、恐らくはこの新しい眼鏡が相当気に入っているのだとアタリを付ける。実際似合っているし、個人的にも前のよりこちらの方が好みだ。そしてその推測は、どうやら当たっていたようで。

「……そうか?」
「ええ。とても魅力的だと思いますよ」
「そ、そうか……」

 先輩は俺のストレートな褒め言葉を受けて、途端に照れくさそうな表情になりつつ、俺の方に寄せていた顔を引っ込めた。その満更でもない反応に思わず、心の中でガッツポーズ。女性の容姿やファッションは積極的に褒めるべし、だ。勿論やり過ぎは禁物だが。

「……じ、実は私も、結構気に入っているんだ。……まぁ本当のところ、店員におだてられたのもあって半ば流れで買ってしまったものだから、本当に自分に似合っているのか不安な部分もあったんだが……」

 照れ隠しか、くいと、指先で眼鏡の位置を直す。
 そしてチラリと、こちらを横目で見て。

「……今では、買って良かったと思っている」

 視線を元に戻しつつ、小さく呟いた。顔が紅くなっているのはお酒のせいというだけではないだろう。会社でのクールな先輩も、お酒が入って気が緩んでいる先輩も中々に滾ってくるものがあるが、こうして褒められて照れている先輩というのも……ああ、とても、いいものだ。

「……それは良かった。やっぱり長く使う物ですから、気に入った物が一番いいですもんね」
「……ああ、そうだな」

 目を伏せつつ、軽く相槌。
 そしてまた、しかし今度は真っ直ぐにこちらを見つめた先輩は。

「……お前にも、褒めてもらえたし、な。……嬉しかった」

 ……ふんわりと、はにかんだ。

「そ、そうです、か……」

 不意な台詞と可憐さを受けて、思わず言葉がつっかえてしまう俺。
 その言動を、俺が彼女を褒めたときと同様、「意識してのもの」なのかと勘繰ってしまうのは……流石に自惚れが過ぎるだろうか。見事なカウンターを決められてしまった俺の前で、視線を落とした先輩は眼鏡のツルにそっと両手を添えて、目元と口元を嬉しそうに緩めていた。

 ……いや、まぁ。こうして先輩が俺の言葉で喜んでくれたのは、確かに当初の思惑通りではあるんだが。しかしこう、「恋人にアクセサリーや髪型を褒めてもらった」みたいな顔を目の前でされてしまうと、こちらとしても反応に困る。先輩と俺はまだそういう関係ではないのだ。……まだ。勝手に熱くなってきた顔面に関しては、飲んだお酒の熱が彼女の目を欺いてくれる、と、思いたい。

「……」
「……もぐ」

 おつまみの唐揚げを一つ口にして、様変わりしてしまった場の空気を持たせる。この唐揚げにはレモン汁なんてかけてはいないというのに、先輩と俺の間には何だか甘酸っぱい雰囲気が満ち始めていた。中学生高校生くらいの男女間の恋愛なんかには付き物である、あの何とも言えない雰囲気だ。今の俺の歳ではその気恥ずかしさにどうにも耐え切れず、あぁ中学の頃に好きだったあの子は元気にしているだろうか、などと過去の思い出に縋り付くも、先輩の前で他の女のことを考えているなんて不届きにもほどがあるだろうと、自分自身の太ももを抓り戒めるだけに終わった。

 ふと先輩の様子が気になって彼女を横目で盗み見てみれば、外した眼鏡のフレームを、俺が先ほど褒めた朱色のフレームを、愛おしげに指先でなぞっているのが目に入った。……見てはいけないものを見てしまった気分だった。ちょっと、勘弁してください先輩。そんな可愛らしい仕草を見せられてしまったら、トキメかざるを得ないじゃないですか。惚れ直さざるを得ないじゃないですか。というか何故今この場でそういうことをするんです? もしかして誘っているのですか? もしかしなくても誘っていますよね? 襲われても知らないですよ? まぁ当然、主に襲うのは俺なんですけども。

 そこまで考えて、割と本気で先輩に無体を働こうとしている自分に気が付いて。もう一度太ももを抓り、ふしだらな思考の波を堰き止めた。俺の先輩への愛は本物だという自信は大いにある。もちろん、「男女の仲」という意味合いを含めても、だ。でもだからこそ、今先輩に嫌われるような真似だけはする訳にいかなかった。ここまで構築してきた先輩との関係を、自ら破壊してしまう訳にはいかないのだった。

 自分のため、そして何より、先輩との幸せに満ちた未来のため。急速に思考を巡らせて、次なる話題の取っ掛かりを探し始める。幸いそれ自体は、今まで何度も目にしている先輩の眼鏡の反射光が教えてくれた。

(……まてよ)

 と、同時。ふと俺の心の隅に、一つの悪戯心が芽生えた。それは、男殺しなカウンターによって俺の精神を惑わせてくれた先輩への意趣返し。勿論先輩は何一つ悪いことをしておらず、その意趣返しとやらは早い話、やられっぱなしはどうにも悔しいという男としてのちっぽけな対抗心の表れでしかなかったが、もしかしたら先輩の慌てふためく姿が見られるかもしれないことを思うと、実行せずにはいられなかった。内心、ほくそ笑む。

「それにしても、先輩」
「むぉっ、な、何だ?」

 突然話題を振られて驚いたらしい。依然フレームを愛撫していた先輩は、何やら面白い声を発しながら慌てて眼鏡を掛け直した。ぱちくりと瞬く瞳。その慌てように軽く罪悪感を覚える反面、思わずクスリと笑ってしまいそうになるのを堪えて。

「気になってたんですが。先輩の眼鏡って、青い光が反射してて綺麗ですよね」
「あ、ああ。これのことか? ……ふふーん、これはな、ブルーライトカットと言って……」

 ふんすと鼻を鳴らした先輩は、得意げになって説明しようとする。まるで童心を剥き出しにしたようにコロコロと表情を変える様子は、何度見ていても飽きないものだ。

 どうせだから。あともう一つだけ、表情を変えてやろうと思う。

「とても素敵だと思います。まるで、先輩の肌の色みたいで」

 先輩の言葉を遮りつつ、紛れも無い本心を一言。
 瞬間、得意げだった先輩の顔はそのままピタリと硬直した。身体の方も微動だにしない。

 ほんの数秒、置いて。

「……ふあっ!?」

 俺の言葉の意味を理解したらしく、フリーズ状態から復帰を果たした先輩は心底驚いたように仰け反った。目を見開きまじまじとこちらを凝視してくる最中、その青く染まる顔面が、かあっと、耳の先まで瞬く間に紅く燃え上がっていく。何か言おうとして上手く言えないのか、パクパクと口を開閉させて取り乱す有様は全くもって、俺が脳裏で思い描いた通りの姿だった。

 要は、物凄く可愛らしい。
 計画通り、だ。

「す、すて……っ! きれい……って!?」

 声を上擦らせながら、ようやく先輩は言葉を搾り出した。分かっていたことだが、こうしてストレートに褒められるのは本当に慣れていないらしい。俺はそんな先輩の姿を見て、正直笑いを堪えるのに必死だった。眼福。もしくは癒し。これによって天に召されていくストレス量は飲酒の比では無く、これからは先輩イジリを積極的に視野に入れていこうかと大真面目に考えたりもしてみる。勿論、嫌われない程度に。

「い、いやいやいや! そんな綺麗でも無いから! 冗談も程々に……っ!」
「先輩」

 と。冗談として片付けられそうになったので、俺は咄嗟に先輩の台詞を遮った。黄金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、声音をほんの少しだけ強調させると、先輩は気圧されたように押し黙る。ここで冗談扱いされるのだけは勘弁願いたかった。確かに目的は先輩への意趣返しでしかないが、だからといって嘘自体は何一つ、言ってはいない。

「俺、今まで先輩に嘘付いたこと、ありますか?」
「……っ!」

 言いつつ、先輩の瞳から目を逸らさない。
 俺は、自分と先輩にだけは正直に在り続けたいと、日頃から常に想っている。好きなモノには真摯にありたいもの、だから先輩に対して無意味な嘘をついたことは一度も無い。俺が先輩に嘘を付かないこと、そのことは先輩自身も薄々と感じ取っているはずだ。

 その証拠に。うう、と小さく呻きながら目を忙しなく泳がせていた先輩は、しばらくして抵抗するのを諦めたように肩の力を抜くと、卓袱台の上に頬杖をついた。顔は依然、真っ赤のまま。心なしか先輩の頬が小さく膨らんでいるように見えて、それが拗ねた子供のようで愛らしかった。
どうやら俺の言葉は信じてもらえたらしい。かつ、ちっぽけな意趣返しは成功を修めたようだった。

「……全く。改めて思うが、本当にどうしようもない奴だな、お前は」

 こちらを憎らしそうに睨み付け、呪詛のようにそう呟く。
 ただし拗ねた様子は変わらずで、そのせいか迫力は全く感じられなかった。

「そうですか?」
「そうだとも。……素敵とか、綺麗だなんて。そんなことを、そんなに真っ直ぐに言ってきた男は、お前が生まれて初めてだ」
「へぇ、世の中には素直じゃない男ばっかりなんですねぇ。もしくは見る目が無いんでしょうか。こんなに綺麗なのに」
「お、お前なぁ……っ!」

 本心のままに言葉を放つと、先輩がまた焦り始める。完全にこちらのペースだ。
 この調子で、更に追撃を加えてみようか。

「……あ、今の先輩の顔も、とっても素敵ですよ? ……フレームの色と一緒で」
「〜〜〜〜ッ!!」

 バンッ、と。
 突然、居酒屋店内に大きな音が鳴り響く。
 先輩がその掌で、強く卓袱台を叩いた音だった。

 卓袱台の上の食器類がけたたましく跳ね上がる。驚いて目を見開けば、座布団の上に片膝立ちになった先輩は、眉を怒らせ、息を荒くした、明らかに興奮した面持ちでギロリとこちらを見下ろしていた。……しまった。調子に乗ってからかい過ぎてしまったようだ。怒り心頭といった様子の先輩に戦慄した俺は、微塵も動くことが出来ず、ただただ呆然と彼女の顔を見上げている他なかった。正直、ここまで怒った先輩は見たことが無い。想定外のことに混乱してしまい、どうしたらいいのかが全く分からない。

 そんな物々しい雰囲気のなか。
 びしり、と。俺の眼前に人差し指を鋭く突きつけた先輩は、叫んだ。
 
「お、お前ぇッ! ひょ、今日は、先輩に対する態度がなってにゃいぞぉッ!?」

 ……あ、いや。予想に反して、意外とどうにかなりそうだ。プルプルと小刻みに震える指先の向こう、紅い顔面を引き攣らせながら、凛々しさの欠片も無い素っ頓狂な声で喚いている先輩の姿を見て、何となくそう思った。

 とはいえ、先輩が今まで見たこともないほどの興奮状態にあるのは事実な訳で。どうやってこの場を諌めるべきだろうかと、少しだけ冷静になった頭で考える。とりあえずは謝っておくとしても、今の先輩を上手く宥められるとは到底思えない。が、しかしこのまま放っておけば、折角の二人きりでの飲み会が微妙な空気のまま終わりを告げることになるのは確実だった。最悪、今の先輩の怒りだけは治めなくてはならなかった。

 ……さて、どうしよう。

「あー、えーっと、そのですね……」

 身振り手振りで、場の空気を誤魔化しつつ。ああでもないこうでもないと、解決策を模索して。ふと、周りに助けを求めるように、周りが助けてくれるわけがないだろうとは思いながらも、先輩から視線を逸らした先……通路を挟んだ向かいの座敷席の方を見遣ると。

 ……あ。解決策、見つけた。
 ……いや、これは解決策、などではなく。

「あー、先輩」
「はんっ! 言い逃れしても遅いからなぁっ!?」
「いや、周り、周り」
「あ? 何……あっ!?」

 俺が視線で示した先に訝しみつつも目を配った先輩は、顔の色を元の青に戻しながら声を詰まらせた。俺と先輩の視線の先にあったものとは、大きな音と声を張り上げた先輩を遠巻きに眺める、複数の好奇な視線。酒の肴にでもしているのだろう、こちらをチラチラと見遣っては、ヒソヒソと顔を寄せ合っている。

 それらを見つめたまましばらく硬直していた先輩は、おもむろに片膝立ちから正座へと居直ると……そのまま顔面を掌で覆ってしまった。よく見れば小刻みに震えているその姿からは、胸中の嗚咽が聞こえてくるようだ。羞恥、逆上、そしてまた羞恥。……流石に悪い気がしてきた。 

「……ぅう」

 蚊の鳴くように呻いた先輩は、日本酒の入った徳利を両手に取ると、中身を御猪口にそろりと傾ける。注ぐ量は小さな器に半分だけ。そして忍ぶよう、音を立てないよう極力ゆっくりと、徳利を卓袱台に置いた彼女は。背中を小さく丸めたままで、御猪口の縁を啜り始めた。「鬼」である先輩はそのご多分にもれず無類の酒好きだが、その実非常に酔い易い体質らしく本当に少量だけを口に含む。酔いに任せることで、好奇の視線に晒される羞恥から気を紛らわそうとしているらしかった。

「……意地悪」
「……すみません」

 こくりと喉を鳴らした先輩の口から、溜め息と一緒にぼそりとした呟きが零れる。こうなった原因は大体俺のせいな訳だから、何も言い返せはしないし、言い返してはいけない。

 居心地がすこぶる悪いなか、謝罪以外何も言えずに押し黙る。するとどうやら早くも酔いが回ってきたらしい、トロンと目を蕩けさせた先輩はこちらを睨み付けると、ぼそぼそと口を開いた。

「こんな意地悪なことをするのは、小学生くらいなものだよ。……好きな子の気を引きたくて悪戯するガキか、お前は」

 瞬間。バチンと、俺の背筋に電撃が走った。ように思えた。
 「好きな子の気を引きたくて」。そのフレーズだけが、脳内にリフレインする。

 途端、俺の唇が勝手に本心を口走ろうとパックリ開き、それを理性や自意識が既のところで食い止めて、ピシリと閉じさせた。内に秘めていた先輩への想いが俺の意思を完全に無視して、圧縮されたマグマのように勝手に溢れ出ようとしていた。いやいやいや。それは、駄目だろう。口走っちゃ、駄目だろう。舌を必死に噛み潰し、言葉の元を制止させる。こんな、居酒屋なんていうムードもへったくれも無い場所で。こんな、微妙にもほどがある雰囲気のなかで。言えるような台詞じゃあないだろう。というか言ってたまるか。

 正直な話、「その台詞」を俺が言える資格は……あると、自分でも思っている。今の会社に勤め始めて先輩と巡り会ってから、早数年。出会ってそう経たない内に先輩に惚れてしまったあとは幾度となくアプローチを繰り返し、今ではこうして二人きりで酒を酌み交わす仲となった。他の男共では到底辿り付けていないだろう、明らかに特別な立ち位置に自分は居る。そんな確信的とも言える自負が、俺にはある。本日の反応だけを見ても、先輩自身も俺との付き合いについてそう満更でもないと思っている、はずだ。だからこそ、自信があったからこそ、「その台詞」があれほど自然に口から漏れようとした。先輩の言葉に引き摺られるように。

 だが、この場はいけない。こんな所で言う台詞では、決して無い。例えばこう、初めてのデートで仲良く遊んだ帰り道、夕焼けに染まるノスタルジックな雰囲気で、とか。洒落たレストランでの食事の最中、美しい夜景と煌びやかなプレゼントを背景に、とか。そういった特殊な状況下でのみ映えるものだろう、俺が言おうとしてしまった台詞は。酒の入った勢いやその場のノリで言ってしまっていい言葉では、絶対に無いはずだ。

 深く静かに呼吸をして、心を落ち着かせる。
 そして言葉を慎重に選び、俺は改めて、口を開くのだった。

「……そりゃ、好きですから」

 あーあ。言っちゃったよ、この馬鹿たれ。

「……へっ」

 あまりにも唐突過ぎて俺の言葉が理解出来なかったのだろう。再び御猪口に口を付けようとしていた先輩はワンテンポ遅れたのち、きょとんと呆けた顔でこちらを振り向いた。やっちまったどうしよう。そんなことを一瞬思うも、その頃には既にどうにかして誤魔化せる空気では無くなっていた。強固な想いというものは一度溢れ出してしまったら止めることが出来ないものなのだと、今改めて思い知った。

 ああもう、成るように成ってしまえ。
 覚悟を、決めろ。

「先輩が、好きですから。気を引きたくもなりますよ」
「あ……え?」

 先輩の酔いの回った頭でも理解できるよう、ゆっくり、丁寧に、一字一句言い澱むことも無く。点になっている目を真正面から見据えて言葉を紡ぐ。とはいえ胸中ではもう半ばヤケクソ気味だ。態度が投げやりになっていないか気になって仕方がないが、緊張の極みにある俺の頭では客観視なんて不可能だった。

 ここまでして、それでもぽかんと口を開けたままの先輩の顔を見るに、まだまだ状況を理解出来ていないようだったので。ダメ押しとばかりに、もう一度同じ言葉を送ることにした。

「俺は、先輩が、好きなんです。一人の女性として」
 
 言って。言い切って、また密かに深呼吸。
 最後は口調が荒くなってしまったような気がする。汗が吹き出るほどに身体が熱いから、もはや俺の顔は真っ赤になって、目も血走っているのかもしれない。心臓の鼓動も痛いくらいに胸郭を打ち付けていて、このまま放っておけば胸が内側から裂けて中身が何処かに噴き飛んでしまいそうだった。正直、今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい。

 けれども、勿論そんなふざけた真似をする訳にはいかなくて、俺は先輩をひたすらに見つめ続けるしかなかった。今まで経験したこともない緊張感に、喉がカラッカラに渇いている。自然、視界の隅にあるジョッキの中身を全て飲み干したい欲求に駆られるが、当然ながらそんな行動が許される空気ではない。

 先輩は、依然呆けたまま固まっている。そのあまりに無反応な様子に、つうと、冷や汗が背筋を伝っていく。俺と先輩は互いに何も話すことが出来ないままひたすらに黙りこくっていて、心なしか、俺達以外の周囲の空間すらもしんと静まり返っているような気さえしてくる。

 永久に続きそうなほどに、長い長い沈黙。実際には十数秒しか経過していないだろうに、体感的には既に数分が過ぎ去ったようにも感じられた。ついには何もかもが停止してしまっているのではないかと錯覚すら起こすなか、いつしか俺の中に生まれていた不安だけは、加速度的に増していく。

 これはあれか。やっちまったのか。いや、勢いに任せて愛の告白をしてしまった時点で既にやっちまっている状態ではあるのだが、そうではなく。……もしかしたら。実は先輩は俺のことなんてどうとも思っていなかったとかいう、そういうオチなのか。もしかしなくても。俺の抱いていた自信や自負は、所詮ただの自惚れでしかなかったのか。

 ネガティブな妄想を、止めようと思っても止められない。
 最悪な場面や展開が、頭の中をぐるぐると駆け巡り始めた。

 その時だった。

「む、むぉおーーッ!!」

 先輩が、急に雄叫びを上げた。

 何事かとびっくりして肩を跳ねさせた俺を置き去りに、先輩は日本酒の入った徳利をぐわしと鷲掴むと、思い切り背を反らした。そしてそのまま徳利の中身を、決して量を飲めないはずのアルコールを、ぐぃいっと真っ逆さまに煽り始めたのだった。口から溢れた液体が細い顎と首を伝い、シャツの襟に染みを広げていく。

「ちょ、先輩っ!? 何やって……!」

 突然の奇行に驚いた俺は先程までの思考を放り投げ、咄嗟に先輩の手首を掴み、一気飲みを止めさせようとする。俺だって酒はそこまで強い方では無い。今より若い頃は無茶もしたもので、アルコール度数が二十度はあるだろう日本酒を、酒の弱い者が一気飲みすればどうなるかということくらい身を持って知っていた。

 しかし、先輩の手首にどれだけ力を込めて徳利を降ろさせようとしても、彼女を制することは叶わなかった。先輩は、人間などでは到底太刀打ち出来ないほどの膂力を誇る、鬼。大して鍛えてもいない男一人程度の力ではその怪力に敵うはずもなく、そうこうしている内に先輩は、徳利の中身を全て飲み干してしまったようだった。ぷは、と息継ぎをする先輩。

 次の瞬間、彼女の腕と首が吊られたマリオネットのようにだらりと垂れ下がる。握り締められていた空の徳利はその手を離れ、コロコロと畳の上を転がっていった。おろおろと狼狽えるばかりな俺の心配も空しく、ついには全身からも力が抜けた先輩は、こちらへとゆっくり倒れ込んできてしまった。

「うわっ、せ、先輩……?」

 慌てて、脱力した身体を支える。女性としてはそれなりに背丈のある先輩だが、その身体は想像したより遥かに細く、軽く、そして柔らかかった。この女性らしい身体の何処からあんな怪力が出せるのか。しかし、今はそんな新鮮味のある発見よりも先輩への憂慮の方が勝り、項垂れた顔を恐る恐る覗き込む。

 目元は前髪に隠れて良く見えなかったが、日本酒に濡れそぼった唇だけは、影の中にその存在を艶かしく自己主張していた。薄桃色の両端から滴る液体が、どことなく淫靡さを醸し出している。会社での凛とした様子、プライベートでの無邪気な様子、そのどちらからも見受けられない女の色気が怪しく漂っていて、思わず、息を呑む。

「……ろうか」
「え、何です……?」

 と、その唇が微かに蠢き何やら呟いたのが聞こえて、上手く聞き取れなかった俺は耳を澄ませてもう一度、先輩の言葉を待った。

「……私が眼鏡を変えた理由を、教えてやろうか」

 ……今の状況にはあまりにも場違いなその台詞に、突然何を言い出すのかと一瞬思ったが、いつもより一オクターブ低く発せられた声音はどうしてかとてもおどろおどろしく、つい気圧されてしまう。

「め、目が悪くなったからじゃないんですか」
「……ああ、確かに目が悪くなったよ。毎日毎日、パソコン業務ばかりしているからな。でも別に、眼鏡を買い替えなければならないほど視力が落ちた訳じゃない」
「じゃ、じゃあ、どうして……」

 俺の疑問に反応したように、先輩はこちらに体重を預けたままゆるりと顔を上げた。上気した頬のすぐ上、青く輝くレンズの下から焦点の合わない朧げな瞳が俺の顔を見つめてくる。日々憧れていた女性の顔が、今までで一番近い距離にあった。ドキリと高鳴る心臓。寄り添う先輩自身の匂いと体温に俺の身体が包まれていくなか、彼女が呼吸を繰り返すたびに、日本酒の芳醇な香りと、それとは別のどことなく甘い香りを含んだ吐息が俺の肌をくすぐっていく。

 俺が腕に抱き留めているのは、つい先ほどまでとは明らかに違う、妖艶に過ぎる先輩の姿。

「せ、せんぱ――」

 堪らず声を上げた俺の頬へと不意に、細く滑らかな左手が添えられる。まるで慈しむような手つきで撫で上げられた、ただそれだけで、俺の言葉はいとも容易く掻き消されてしまった。

 先輩の顔が、ゆっくりと近付いてくる。いつの間にか俺の胴体背面には先輩の右腕が深く絡み付いていて、そのまま抱き締められるに従い、胸板の上でふくよかな弾力がやんわりと押し潰されていく。その感触は絶妙で酷く悩ましく、俺はいつしか、自分の身体を後ろ手に支える以外に動くことが出来なくなっていた。対する先輩の動作は依然と緩やかだ。今もその瑞々しく柔らかそうな唇が、俺のそれへと徐々に徐々に、迫ってきていて……って、ちょっと待って下さい。近過ぎです先輩、近い近い、ちか――

「お前の顔が。少しでも霞んでいってしまうのが。我慢、ならなかったんだよ」

 それだけ言って、止める間も無く。
 そのまま、キスをされた。キスをされてしまった。

 そっと、俺の唇に押し当てるだけの穏やかなキス。瞬間、ぷるりとした、カサつきの一切無い唇の感触が、首筋から背筋までをぞわぞわとした甘い痺れで満たしていった。何だこれ。気持ちいい、気持ちいい。思考が、鈍る。

「……ぷあっ、はあっ♪ ……いつだって、私を気に掛けてくれて。落ち込んでる時も、目聡く見つけては励ましてくれて。……その目が、態度が、毎日毎日私のことを好きだ好きだとアピールしてきて……っ! それで好きにならないわけ、無いだろうがぁ……っ!」

 幸福の源が俺の唇から僅かに離れ、間髪入れずに別の新たな幸福が鼓膜を貫通してくる。俺が感じていた自信や自負は決して自惚れなどではなく、俺と先輩は両想いであったらしかった。その確固たる事実に、涙腺がじわりと緩む。嬉しさが、胸の奥底をじんわりと満たしていく。今までの苦労や努力が完全に報われた、その瞬間だった。

「好き、大好き……れるっ♪」

 一通り胸の内は吐き出したのだろう、後は論より証拠と言わんばかりに、愛情の込められた柔らかな口付けが再び俺の唇をなぞる。行為は明らかにエスカレートしてきていて、先輩の舌が俺の唇を強引に割り開き、口内への侵入を図ろうとしていた。無論俺には、こんなに気持ちの良い行為を拒む意思など毛頭無い。熱く滑るそれを同様のもので快く迎え入れると、互いに互いを絡み付かせる情熱的な抱擁を交わさせた。ざらざらとした粘膜同士を擦り合わせるのが、堪らなく心地良い。

(あ、眼鏡……)

 俺達は両者共に眼鏡族、ここまで顔同士を近付ければ当然、眼鏡と眼鏡がカチカチと音を立ててぶつかり合う。長年使用している俺の眼鏡はともかく、昨日新調したばかりの先輩の眼鏡に傷が付いてしまうのはどうなのかという思考が、桃色に染まっていく脳髄の隅にぼんやりと浮かび上がった。がしかし、際限無く高まり続ける興奮に蕩け始めた本能は、そんなものは些細なことと気にも留めず、ただただ更なる快楽の享受を望んでいるのみだった。事実、とてもじゃないが目先の幸福を拒めそうに無い。故に、行為は止まらない。依然、眼鏡がぶつかり合う音は、止まない。
 
「……くふっ、ビールと、唐揚げの味がするぅ……♪」
「……俺は、日本酒の味がしました」
「……ふふっ♪」

 息継ぎの最中に聞こえてきた、先輩のさりげない呟きが何故だかとても可愛らしく感じられて、思わず彼女の身体を支える手に力を込める。すると先輩も、ぎゅうっと、俺の身体を強く抱き寄せてきて、ますます互いの密着している面積が広がった。伝わってくる体温、柔らかさ、小刻みな震えに俺は激しい興奮を覚え……それを如実に反映する股間のモノも、ズボンの上からでも一目で分かるくらいに肥大化していた。

「……っ♪」

 先輩が、困ったような、それでいて嬉しそうな表情をこちらに向ける。
 どうやら息継ぎしている間に、俺の身体の変化に気付かれてしまったようだ。その視線は頻繁にチラチラと、俺の股間へと注がれていた。

 先輩がゴクリと生唾を飲み込んだ音を、俺は聞き逃さなかった。悪戯する子供のような笑みを浮かべた先輩の手が、ほんの一瞬の躊躇を経て、限界まで怒張しているだろうそれをズボン越しに触れる。形を確かめてでもいるのだろうか、イチモツの輪郭に合わせて細く繊細な指先を這わせられると、無意識に腰が浮いてしまうほどの、甘い甘い快楽が俺の全身を駆け抜けて――

 カチャンと、小さくも甲高い音。
 それは食器同士が触れる際の、聞き慣れた音。

(――はっ!?)

 割と近い場所から聞こえたその音に、ふと我に返った。
 咄嗟に周囲に目を配らせて、音が聞こえてきた方向に目を遣って、そして戦慄した。俺達は今、何処で、何をしている?

「あ、せ、先輩っ! そ、それは、ここでは駄目です、ここでは……っ!」

 慌てて先輩を抱き寄せていた腕の力を緩めて、彼女を自分から引き剥がそうと試みる。だが俺の制止にも構わず、先輩は行為を続行しようとする。鬼である先輩の力はやはり強靭で、俺自身の体勢の悪さも相まって押し返すことすら出来ない。先輩の魅力に高鳴っていた心臓は、今ではその理由を焦燥感へと変えていた。

「うるさい。そんなの、知らない……もう、止められない……っ!」

 水を差されたせいか、先輩はむっとした様子で声を荒げる。あの真面目で理性的な先輩が、自分が今居る場所すら見失うほど心を乱している姿に、俺は驚きを隠せなかった。こんな姿は会社でもプライベートでも見たことが無い。仮に俺の告白によって混乱しているのだとしても、あまりに強引で本能的に過ぎる。

 考えられるとすれば、先ほど一気飲みしていた日本酒のせいか。確かに、「私は酒が弱いから飲み過ぎると我を忘れてしまうかもしれない」とは昔、先輩自身の口から聞いたことがあるが……それはただの冗談だと思っていた。まさか、これほどとは。

 そんなことを推測している間に、いつの間にやら先輩の舌は俺の首筋を這い回り、その指に至っては、ズボンのファスナーを下ろそうと躍起になっている。もう、時間が無い。

「先輩っ、駄目ですってば……っ!」

 諦めず、先輩に組み付かれたまま必死にもがく。万が一にも俺に怪我をさせない為か、先輩は俺を抑え付けるのにそこまで怪力を発揮していないようだった。俺逹二人分の身体を支えている片腕も動員し両手を使うことが出来れば、もしかすれば先輩を引き剥がせるかもしれない。しかし当然、先輩が体重をこちらへとかけている以上、下手に支えを失えばあっという間に押し倒されてしまうのは目に見えていた。そうなれば、先輩の思う壺だ。

 しかし、このままではいけない。いいはずがない。
 公然わいせつは立派な犯罪だという尤もらしい理屈もあるが、それだけでなく。

 先ほど小さく音が鳴った方向、通路を挟んだ向かいの座敷席に目を向けると。そこでは少し前に喚いていた先輩を酒の肴にしていた居酒屋客、それもよりによって色恋沙汰にはすこぶる目敏い魔物の一グループが、こちらの様子をまじまじと眺めているのが見て取れた。全員食事の手が完全に止まっていて、時折「ひゃー」とか声を上げている。恐らくは俺と先輩の一部始終も観察されていたに違いない。

 先輩とのキスを見られていたという羞恥に、顔面がいっそう熱くなる。
 俺には人に見られながらコトに及ぶ趣味は無いし……何より、俺と先輩の情事を誰かの見世物にされるなんて、まっぴら御免だった。

「……先輩っ!」
「……ッ!?」

 身体を支えていた腕を解放すると同時、腹筋にあらん限りの力を込めて、先輩の身体諸共上体を持ち上げる。火事場の馬鹿力、そして先輩の体重が軽いのも相まって、辛うじて押し倒されることは無かった。そのまま、驚いて硬直した隙を狙って彼女の華奢な両肩を掴み、俺の身体から強引に引き剥がした。

「あ……う……」

 先輩を、真正面から見つめる。
 こちらを凝視する先輩の瞳には、微かに涙が揺蕩っていた。明らかに狼狽している様子は、いけないことをして叱られている小さな子供のようにも見える。俺に拒絶されたとでも思い込んでいるのだろうか。そんなこと、有り得るはずが無いのに。

「先輩」

 静かに放った声に、びくりと肩を震わせて、先輩は目を伏せる。
 その様子に俺は思わず、小さな笑みを浮かべた。

 何もそんなに怯える必要はないのに。ただ、この場所で行為に及ぶのは問題があるというだけの話だからだ。要するに場所を変えれば問題はないのだ。俺と先輩の想いはもう、通じ合ったのだから。

「ホテル、行きましょう。」

 不安に歪んでいた顔が、俺の言葉を聞いてしばらく、呆けたものに変わる。

 直後、溢れ出る感情を堪え切れなくなったのだろう、ぽろぽろと涙を零す先輩は、次の瞬間には喜色に顔一面を埋め尽くしながら思い切り強く抱き付いてきた。鬼の力で抱擁されているのだ、手加減されているだろうとはいえ正直かなり苦しい。それでもその苦しさが、今はどこか心地良かった。

 同時に、向かいの座敷席から歓声が上がった。よくよく観察してみれば、その魔物達はどいつもこいつも犬やら兎やらの獣耳が生えていた。それほど大きな声で話してはいなかったはずなのだが、恐らくはこちらの会話などその大きな耳の前では筒抜けだったのだろう。ちくしょう。

「い、行きましょうか。先輩」
「……うんっ!」

 こうなれば、さっさと行動してしまうに限る。残った酒やつまみも全部放って、俺逹は店を出ることにした。座敷から立ち上がり、靴を履いて、通路を進み、会計へと向かう。その間ずっと、先輩は俺の片腕にべたべたとしがみ付いたままだった。よっぽど恋仲になれたのが嬉しかったらしい。勿論俺も嬉しいのだが、靴を履くときなどは流石に面倒で仕方がない。

「せーの……頑張れーーっ!!」
「おーー! 頑張るーーっ!!」

 件の魔物達から大きな声援が届けられ、それに対し先輩も手をブンブンと振り回して応えた。酔っ払い共め、言われなくても頑張るとも。鬼の体力相手に生半可な覚悟では挑めない。いつかこういう場面がやってきた時の為に、サキュバス印のドリンクは鞄の中に常備済みだ。というか先輩も、あれだけ散々やらかしておいて。あなたも覚悟しておいてくださいよ、ホテルでは。

「……なぁ」

 会計に立つニヤついた様子の店員――こいつも魔物だった――を無視し、提示された金額を支払い店を出ると、先輩が前触れもなく立ち止まった。俺も咄嗟に立ち止まり、先輩の顔に目を向ける。こちらの顔をじっと見上げる先輩は、その小さな唇を開いて、はっきりと宣言するのだった。

「不束者だが……よろしくお願いするぞっ♪」
「……こちらこそ」

 青色に煌くレンズの下。同じく青色の、幸せに蕩けた笑みを見て。
 これからずっと続いていく、満ち足りた日々の予感を感じていた。





「あ」
「ん、どうしました?」
「……そういえば、今日は私の奢りだったな! ふはは!」
「……ホテル代は払ってくださいよ」
「はい……」





 翌朝。

 昨晩の醜態やら営みやらを思い出し、恥ずかしがってラブホテルのベッドから出てこない先輩を引き摺り出すのに時間がかかった結果、二人仲良く会社に遅刻した。ホテル代も結局、俺持ちだ。

 ……このツケは払わせますんで、今夜も覚悟しておいて下さいよ、先輩。

 


14/10/08 12:24更新 / 気紛れな旅人

■作者メッセージ
数ヶ月ぶりです、お久しぶりです気紛れな旅人です。

最近眼鏡を買い替えまして。そんでもってお酒も割りと好きになりまして。
両者を兼ね揃えたアオオニさんを主役に据えて、眼鏡とお酒を題材にしたお話を書いてみました。

いやー、いいですねブルーライトカットレンズ。あんなに眩しかったPC画面が明らかに眩しくない。眼鏡族にはオススメです。



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