読切小説
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追うから逃げるのか
「追うから逃げるのか」

 右の爪先で地面を思い切り蹴ると、その反動で体が前に向かってグンと加速する。その間、地面と触れ合っていない左足は左ひざに引っ張られるように体の前にやってきて、右足と入れ替わり固い岩肌の地面を踏みしめ右足と同様に地面を蹴飛ばす。それに合わせ両足に負けない勢いで両腕を交互に前後に振り、バランスを取る。
 走る。走る。走る。
 早く走る事と長く走り続ける事にかけては自信がある。
 自分の走る様子を見た友人は
「お前は飛ぶように早く走るな。羨ましいよ」
 と褒めてくれる。
 実際「走る」と言う運動の中において片足で地面を踏みきってから、前に出した足が地に着くまでの間は僅かながら滑空している。なので「限りなく短い飛行を繰り返し、素早く前進している」という表現をするのが正しいのだろうが、空を飛ぶ事の出来ない上に臆病で何をするのにも自信を持てない自分にとってはこれ以上無い褒め言葉だった。
 どれ程の時間を全力で走っていたのかは興奮と緊張のせいで定かではないが、滝のように額を流れる汗と長時間激しい運動をした時特有の喉の奥の鉄臭い味から考えるに相当の時間を走っていたのだろう。しかしそれでも走る事を止める訳にはいかない。
 耳が風を切る時のびゅうびゅうと言う音は嵐の晩の荒れ狂う風を思い起こさせ、胸中の不安をより大きくした。いくら自分の体力に自信があるとはいえ、自身の荒い息遣いは己の限界が近い事を意識させ、余計に焦燥感を起こさせる。

もう…駄目…かも

 自分が必死になって逃走する事になった原因を思い出し、後どれだけ走れば逃げ切れるだろうかと考えた。追跡者は今まで追いかけてきたどの相手よりも素早く、体力があり、何よりも執念深い。これ程までに長い時間を必死になって逃げ続けた事など初めてだ。
 自分が今までどこをどのように走ってきたかを思い出そうとして追跡者と鉢合わせてしまった時の事まで思い出し、背筋に冷たいものを感じる。
 こちらをじっと見る時の血走り、どう料理して食らってやろうかと言わんばかりの、ねっとりと此方を品定めする視線まで思い出してしまい鳥肌が立つ。
 幸いにもこの山は自分の庭や家と言っていいほどに隅々まで熟知しているため、追跡者の足が多少素早くとも逃げ切れる望みはある。
 岩肌が露出し、背の低い植物と疎らに生えた木しか存在しないこの山では相手の視界から自分の身を隠すのは難しい。おまけに山の周囲に木々の生い茂り身を隠せるような森は無く、駆け下りた所でいつまでも追いかけられてしまう。必然的に山の頂を中心とした円を描く様に山の斜面を延々と走り、反対側まで回り込む事になった。
 高低差で身を隠し、足跡を偽装し、追跡から逃れるために考えうるありとあらゆる手段を講じた。
 
そ…そろそろ見失ったかな?

 全力で走り続け、考えうる限りの偽装工作を行った事で、僅かに生まれた心の余裕を心の支えにして立ち止ると、およそ自分の腰ほどの高さしかない岩の陰に屈みこみ恐る恐る背後を窺う。
 岩から身を乗り出すと徐々に広がっていく風景には、恐ろしい程の気迫で自分を追いかけていた追跡者の姿はかけらも無い。未だ追いついて来ていないだけではないか、と言う心配も数十秒間の観察の末に全くの杞憂となった。
 額から滴る汗が目に入ってチクチクと痛み、安堵と長時間全力疾走を続けたことで足はがくがくと一人でに震えていた。ふっと気が緩んだ拍子に涙すらあふれてくるかと思ったほどに一気に緊張状態から抜け出し、がっくりと自らの体を隠していた岩に身を預け崩れ落ちる。

よ…良かった


 逃げ切れた事を確信し、ほっと息を吐き出しずっと遠くの空に視線を飛ばす。
 ふと見上げた空はいつも通りの綺麗な青色で、自分の必死さとは対照的にいつもと変わらずどこまでも広がっていた。
 
空が飛べたのならこんなに必死になって走り回る事も無いのになぁ

 二羽の小鳥がせわしなく羽ばたきながら飛んでゆくのがふと目に入り、無い物ねだりだと分かっているがそう思わずにはいられなかった。
 飛んでゆく小鳥が米粒よりも小さくなるまで眺めていると、初夏の山特有の下界よりも冷たい風が吹き、火照った体をゆっくりと冷ましていくのが分かった。
 口から飛び出しそうなほど拍動を繰り返していた心臓も大人しくなり、そろそろ帰ろうかと思いのっそりと立ち上がり、ため息を吐き若干疲労の残る足を引きずるようにして帰路に就く。

と、その時であった。

 ふっ、と日射しが遮られ、自分が何かの陰に入った事に気が付き顔を上げ様子を確認する。

えっ

 確認しようとしたものの、次の瞬間には自身の体は宙に浮かび、僅かながらも草の生えた地面に押し倒されていた。

えっ。えっ。えっ。

 いきなりの事にパニックになりながらも自分の状態を確認すべく思考はフル回転を始める。
 そんな事もお構いなしに自分を押し倒した相手は強引に口付けて来る。
 驚愕によって開かれた口に、押し倒した張本人の熱くぬめる舌が挿し込まれ口内を余すとこなく舐り始める。荒々しく、遠慮のかけらもない舌使いに恐怖を覚えながら自身の現状を把握するに到った。

追いつかれた

 先程まで逃げ切ったと思っていた追跡者がどんな手段を使ったのか自分に追いつき、口内を好き放題に犯している。
 抵抗しようにも追跡者の片手が、自分の両腕を頭上でクロスさせる様に拘束している上に、馬乗りになっているため全く抵抗できなかった。
 そうこうしている内に追跡者が自らの性器を押し当ててきたのに気付く。
 およそ生き物の温度ではないのではないかと錯覚してしまうほどに熱いそれは、恐ろしくもあり、心のどこかではそれを待ち望んでいるかのように思えた。
 強く液体を啜る音を立てながら追跡者の顔が自分から離れて行く。
 そして自分と自身の結合部をその血走った眼でじっと見つめて…

私の中に、愛しい彼の熱く滾るちんぽを一気に奥まで突き入れたのでした。

―――

「これがママとパパとが出会った時のお話よ」

 目を輝かせながら母の話を食い入るように聞いていた娘に、若干頬を赤く染めながらも自信の幸せを余すところなく表情に浮かべながら妻は、惚気話とも猥談とも判断の付けがたい昔話を終えた。

「すごい!すごーい!」

 娘が羽の生えた両腕をバタバタと振り、興奮しながら話の続きを強請った。

「なんでパパはママに追いつけたの?」

「それはね」

 妻の話を遮り自分がやったことを説明した。実際は説明する程の事をしたのではなく、山を大きく迂回するように逃走していた妻に対して、自分は直線距離を走り抜けただけである。
 山に囲まれた土地で育ち、山岳部隊として日常的に山歩きをする自分にとっては、なんてことの無いただ体力に任せた力任せの追跡方法だ。
 自主訓練中にコカトリスである彼女のフェロモンに当てられて取った行動であったため、乱暴かつ強引な行いの数々は妻を怖がらせていた事だろうと当初は心を痛めていたものの。

「つっ…捕まえたんだから…はっはっ離さないでくださいね」

 と顔を真っ赤にしながら言った妻にそんな心配も消し飛んでしまった。

「セラも一生懸命追いかけてくれる男の子と早く会えたらいいわね。」

「えーあたしもパパに追っかけてもらいたい」

「あらあら…パパもうかうかしてたら追いつけなくなっちゃいますよ」

 娘が誰かの嫁に行く事を想像し、うっ、と返答に詰まってしまう。
 それを見た妻がにっこりと笑みを浮かべ、つられて娘はコロコロと笑った。

 追わずともこの幸せがどこにも逃げない事は明らかだった。
13/03/11 20:15更新 / 熊五郎太郎

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読んでくださってありがとうございます。

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