Antique
うるさいぞ。
あぁうるさいぞ。
うるさいぞ。
「ねえねえ、退屈よー！ 私と一緒に遊びましょうよー！」
何がうるさいかと言えば。
僕のノートPCの背後で騒いでいるお人形さんが、である。
ドールにしては超特大サイズの1メートルほどの背丈に、上品にカールが加えられた銀色の長い巻き髪。
後ろに留められた大きなリボンと、フリフリゴスロリの愛らしいお洋服。
大きな瞳はアメジストをはめ込んだように妖しく輝き、それはもう万人が可愛いと評するであろう整った顔立ちは、まさに人形に相応しい。
「たーいーくーつー！ たーいーへーんー！ たーいーくーつー！ たーいーへーん！ くーつーたーい！ へーんーたーいー！」
しかし、うるさい。
心の中で五・七調の感想を漏らしてしまう程度にはうるさい。
オマケにサイレン灯のごとくグルングルンと高速で首を回転させているせいで、彼女の愛らしさは見事に台無しだ。
おかげで気が散って仕方がない。こっちはPCに集中していたいというのに。
「あぁもう、その首を回すのを止めてってば」
「おほほほほほほほほほほほっ！」
「首を回しながら笑うのも止めてって。軽くホラーでしょ」
「はーい」
「だからといって首を真後ろの位置で止めるんじゃありません」
ピタッと顔が180度真逆の方向を向いたところで、彼女は首の回転運動を止める。
そして体と首の向きが逆のまま器用にPC横にまで歩いてくると、にゅっと画面の前に顔を突っ込んだ。
目の前いっぱいに広がるお人形さんの後頭部。そのボリューミーな銀髪からは、ふわりと甘い匂いが香っている。
「これくしょんおぶじぇくと？ はいれつしょり？ ねえ、何してるの？」
「勉強してるの。ほら、いいからお退き。画面が見えないでしょ」
「何よー、ちょっと前まで私が言っても勉強なんてしなかったくせにー」
「もう勉強を嫌がるほど子供じゃないって。大人しく向こうで遊んでなさい」
キーボードを叩く手を止めて、クリっとお人形さんの頭の向きを戻し。
ついでにクルっと体も反転させて、ポンとその小さな背中を押してPCから遠ざける。
とにかく、機械に疎い僕にはチンプンカンプンな単語ばかりが画面に並んでいるのだ。悪いけれど遊んでいる余裕はない。
えっと、なるほど。配列ってのは、一つの変数に複数の値を格納できるってもので――
――パタン。
「やーよー！ あなたは私と勉強のどっちが大事なわけー！？」
……今度は画面の後ろからノートPCを畳まれてしまった。
なるほど確かに、こうやって両手で押さえつけてしまってはノートPCを使うことはできないだろう。
とはいえ、彼女は小さなお人形さん。その腕力も基本的には見た目相応の幼女程度にしかないので。
「おーぷん・ざ・うぃんどうー。ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴー」
「ふんぬぬぬぬぬぬ……！ ふみゅっ！」
こじ開ける形で再びPCを開けば、彼女にそれを防ぐことは不可能だ。
いくら両足をつっぱって軽い軽い体重を乗せてみても無駄な抵抗であり。
そのまま画面を限界いっぱいにまで後ろ倒しにしたところで、彼女はあえなく顔面から布団に沈んでいった。
「今は迷い無く勉強の方が大事。ほら、向こうでゲームでもやってなさい」
「むぅぅっ……！」
顔面をさすりさすり、口をへの字に曲げて、若干涙目で唸るお人形さん。
そろそろ諦めてくれる頃合だろう、なんて思いながら再び画面に集中してキーボードを叩き出したのだけれど。
今度は彼女、布団の上でうつ伏せになっている僕の背中にぴょんと飛び乗ってから、同じくうつ伏せの体勢になり。
「ヤダヤダ！ 私と一緒に遊んでくれなきゃヤダヤダ！ ヤダヤダヤダヤダ！」
「ちょっ、ぐっ、やめっ、なさっ、ぐふっ」
手足をジタバタ、遂に駄々をこね始めてしまった。
いくら軽いとは言っても、そこは流石に身長100センチの美少女。それが密着状態で暴れているもんだから無視できる状態ではない。
しかしここで折れては僕の努力が水泡に帰すのも事実だ。全身を揺さぶられながらも、なんとか画面から目を離さないようにPCの端を掴む。
「ヤダヤダ！ ヤダヤダ！ ヤダヤダ」
「ぐっ、がっ、くっ！」
「ヤダヤダ、ヤダヤダ」
「ぬっ、くっ」
「ヤダヤダ……ヤダヤダ……」
「……ん？」
「ヒック……ヒック……」
次第に身体へとかかる衝撃が小さくなり、つっぷした彼女の口から漏れてるであろうすすり泣きのような声と、か細いヤダヤダ。
ちょっと可哀想になってきたかなと、仕方なく後ろを振り向いてみたら。
「ﾔﾀﾞ……」
「……ねえ、ちょっと」
「Zzz……」
「……ね、寝てるよ……」
……信じられないことに、彼女は僕にしがみつきながら寝落ちしていた。
寝入るにはあまりに早いスピードである。こう、アレだ。夢中で遊んでいたのに突然その場で眠ってしまう子猫。前に動画で見たヤツ。まさにアレ。
まあ、これでようやく僕も勉強に集中できるわけだ。この貴重なチャンスを逃す手はない。
規則正しい寝息を背中に感じながら、僕は何度目か分からないPC画面への復帰を果たし――
「…………………………………………………………………………」
――あ、無理だわ、コレ……。
先ほどまでのやり取りのせいで、僕の集中力はとっくに途切れていたようで。
参考にと開いていたネットの情報はもう、見直してもさっぱり意味の理解できるものではなくなっており。
つまり、もう何にも分からない。ガックリと力なく首が垂れる。
「はぁ……これなら構ってあげてた方がマシだったかも……」
溜め息交じりに独り言を零してから、僕はパソコンの電源を落とすと、背中の彼女を隣へと下ろした。
あどけない寝顔は、さっきまで大騒ぎしていたとは思えないぐらい大人しくて、それでいて可愛らしいもの。
思わず苦笑いを浮かべてしまいながら、僕はノートPC一式を棚へと片付けると。
彼女と一緒にお昼寝に興じるべく、並ぶように布団の上に横になって、そして目を閉じた。
次第に眠りに落ちていく意識の片隅で、まだ瞼の裏に映る彼女の寝顔を見つめながら。
……ホント、こんな我侭放題の彼女なのに。
これで僕よりずっと年上なんだもんなぁ、と。
そんなことを最後まで考えていた。
◇
彼女は、僕にとってもう一人の母親だった。
『――うぇぇん……ひっく、ひぐっ……』
母が赤ん坊の時に親戚からプレゼントされたという人形は、ちょうど僕が産まれる前にリビングドールへとなったそうだ。
『あらあら、そんなに泣いてどうしたの？』
いっぺんに家族が二人増えた両親は大喜びだった。
特に母は、幼い頃から大切にしてきた人形が話せるようになったことに歓喜し、彼女を娘として育てようとさえ思ったそうだ。
『ママ……ママぁ……』
ところがその人形は、満場一致で我が家の一員になったものの、娘という立場とはちょっと違った立ち位置に収まった。
普通、リビングドールは見た目通りに幼く我侭で、人一倍に愛情を欲しがるとされる魔物娘である。
だけどその性質と同時に、彼女は母と同い年という成熟した女性の側面も持ち合わせており。
『よしよし、ママはちゃんとここにいるわよ』
そんな彼女にとって、赤ん坊と一緒という環境は『自分が愛情を求める場』でなく『自分が愛情を与える場』だったのだ。
彼女は誰に頼まれるでもなく自発的に、そして真っ先に僕のお世話をするようになった。
『うん……ママぁ、だっこぉ……』
両親の方もミルクからオムツにベッドでの添い寝など、隅々に至るまであまりに完璧な母親っぷりに舌を巻いたそうで。
これなら僕を任せても絶対に安心だと、母体の回復と共に母は早々に職場へと戻っていった。
『まったく、あなたったら本当に泣き虫の甘えん坊さんね。背丈はもう私に並びそうだっていうのに』
結果、ますます僕は彼女と一緒にいる時間が増え、その愛情にドップリと浸って育つこととなり。
『泣かないで大丈夫よ。ママはずっと、あなたと一緒にいてあげるんだから』
彼女は、僕にとってもう一人の母親となったのだった。
『――あなたがそう、望む限りね――』
◇
「――もぉ、ようやく起きたの？」
目が覚めた時には、外からは夕日が差し込み始めていた。
視界の先には、横になったまま僕の顔を覗き込む、彼女の顔。
ほんの少し頬を膨らましているけれども、ちっとも怒っている風ではなかった。
「……あれ、僕……」
どうやら僕は、ずっと小さな頃の夢をみていたらしい。
まだこのお人形さんを、ママと呼んでいた頃の夢。
大分昔ではあるけれど、今でも忘れることのない……大切なひと時の夢だ。
「なによー。私があれだけ遊んでっていったのに、気付いたらあなたも寝ちゃってるんだもん」
「そっちが喚くから、勉強が続かなかったんだよ……ふわぁ……」
寝そべった体勢のまま大あくびをすると、彼女はクスクスと笑い声を漏らす。
その悪戯っぽい笑みは、寝る前に我侭を言っていた僕を困らせた、幼い子供のそれが浮かべるものそのもので。
僕が大きくなるにつれて……彼女を抱きかかえられるようになるにつれて、次第に増えてきた、お人形さんらしい表情だけれど。
「さ、そろそろお夕飯の支度をしないと。今日の献立は何にする？」
「うーん……そうだ。冷蔵庫のご飯も残ってるし、オムライスでも作ろっか？」
「きゃあ、名案」
「それじゃあチキンライスは僕が作るから、卵の方はよろしくね……って」
「ふふっ……」
「なにを笑ってるのさ」
「いえ……まだまだ子供だな、なんて思ってたけど――」
もう一度笑い声を漏らした後に、手を伸ばして僕の頬を撫でて。
そうして向けた、その眼差しと微笑みは。
「――あなたも大きくなったわね。昔はあんなに泣き虫で、何でも私がしてあげたのに……」
夕日に照らされて、暖かく輝く。
懐かしみと、慈しみと……そして限りない母性と愛情に溢れた。
まぎれもない。僕の母親、最愛の女性のものだった。
「…………っ！」
途端に僕の胸に沸きあがる、泣きそうなぐらい愛おしい彼女への感情に。
僕は耐え切れずに、目の前の彼女に抱きついて、その胸に顔を押し付ける。
「……甘えん坊なのは変わってないのね」
「良いじゃない、別に……」
「うん……良いのよ、いくらでも抱きしめて」
そう言って、彼女はぎゅっと僕の頭を抱き返してくれた。
ゆっくりと優しく、愛おしげに僕のことを撫でている、その柔らかく小さな手の感触。
子供の頃から変わらない、全てを受け入れてくれるような、甘くて安心する匂い。
「私はお人形だもの。あなたが望む限り、いつまでもあなたと一緒にいてあげる」
「……違う」
僕は一層、彼女を抱きしめる手の力を強くする。
確かに、彼女はお人形さんだ。
子供に飽きられてしまえば、ともすれば簡単に捨てられてしまうような。
そうでなくても、望んでいなくても。ただのアンティークになってしまうような。
そんな存在……なんだろう。
だけど、それだけじゃないんだ。
「ずっと僕と一緒にいてよ。もし僕が望まないなんて言っても、そんなバカなことは無視して、いつまでだって一緒に」
彼女はお人形さんでも、僕の大切な家族で、僕の母親で。
「ずっと……僕と一緒にいてよ」
僕が世界で一番愛している……。
僕にとっての、女性の全てなんだ。
「……本当に、いつまで経っても可愛い甘えん坊さん」
僕を撫でていた手を止めて、再び彼女は僕の頭を強く抱きしめると。
「――そうね……あの時、言ったものね」
耳元へと顔を近づけて、そっと囁いた。
「――ママはずっと、あなたと一緒にいてあげるんだから――」
「――でもね、ちょっとだけ甘えん坊さんは直さないと――」
「――私がママなんだから、あなたはいつか――」
「――パパになるんだから、ね？――」
――おしまい――
あぁうるさいぞ。
うるさいぞ。
「ねえねえ、退屈よー！ 私と一緒に遊びましょうよー！」
何がうるさいかと言えば。
僕のノートPCの背後で騒いでいるお人形さんが、である。
ドールにしては超特大サイズの1メートルほどの背丈に、上品にカールが加えられた銀色の長い巻き髪。
後ろに留められた大きなリボンと、フリフリゴスロリの愛らしいお洋服。
大きな瞳はアメジストをはめ込んだように妖しく輝き、それはもう万人が可愛いと評するであろう整った顔立ちは、まさに人形に相応しい。
「たーいーくーつー！ たーいーへーんー！ たーいーくーつー！ たーいーへーん！ くーつーたーい！ へーんーたーいー！」
しかし、うるさい。
心の中で五・七調の感想を漏らしてしまう程度にはうるさい。
オマケにサイレン灯のごとくグルングルンと高速で首を回転させているせいで、彼女の愛らしさは見事に台無しだ。
おかげで気が散って仕方がない。こっちはPCに集中していたいというのに。
「あぁもう、その首を回すのを止めてってば」
「おほほほほほほほほほほほっ！」
「首を回しながら笑うのも止めてって。軽くホラーでしょ」
「はーい」
「だからといって首を真後ろの位置で止めるんじゃありません」
ピタッと顔が180度真逆の方向を向いたところで、彼女は首の回転運動を止める。
そして体と首の向きが逆のまま器用にPC横にまで歩いてくると、にゅっと画面の前に顔を突っ込んだ。
目の前いっぱいに広がるお人形さんの後頭部。そのボリューミーな銀髪からは、ふわりと甘い匂いが香っている。
「これくしょんおぶじぇくと？ はいれつしょり？ ねえ、何してるの？」
「勉強してるの。ほら、いいからお退き。画面が見えないでしょ」
「何よー、ちょっと前まで私が言っても勉強なんてしなかったくせにー」
「もう勉強を嫌がるほど子供じゃないって。大人しく向こうで遊んでなさい」
キーボードを叩く手を止めて、クリっとお人形さんの頭の向きを戻し。
ついでにクルっと体も反転させて、ポンとその小さな背中を押してPCから遠ざける。
とにかく、機械に疎い僕にはチンプンカンプンな単語ばかりが画面に並んでいるのだ。悪いけれど遊んでいる余裕はない。
えっと、なるほど。配列ってのは、一つの変数に複数の値を格納できるってもので――
――パタン。
「やーよー！ あなたは私と勉強のどっちが大事なわけー！？」
……今度は画面の後ろからノートPCを畳まれてしまった。
なるほど確かに、こうやって両手で押さえつけてしまってはノートPCを使うことはできないだろう。
とはいえ、彼女は小さなお人形さん。その腕力も基本的には見た目相応の幼女程度にしかないので。
「おーぷん・ざ・うぃんどうー。ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴー」
「ふんぬぬぬぬぬぬ……！ ふみゅっ！」
こじ開ける形で再びPCを開けば、彼女にそれを防ぐことは不可能だ。
いくら両足をつっぱって軽い軽い体重を乗せてみても無駄な抵抗であり。
そのまま画面を限界いっぱいにまで後ろ倒しにしたところで、彼女はあえなく顔面から布団に沈んでいった。
「今は迷い無く勉強の方が大事。ほら、向こうでゲームでもやってなさい」
「むぅぅっ……！」
顔面をさすりさすり、口をへの字に曲げて、若干涙目で唸るお人形さん。
そろそろ諦めてくれる頃合だろう、なんて思いながら再び画面に集中してキーボードを叩き出したのだけれど。
今度は彼女、布団の上でうつ伏せになっている僕の背中にぴょんと飛び乗ってから、同じくうつ伏せの体勢になり。
「ヤダヤダ！ 私と一緒に遊んでくれなきゃヤダヤダ！ ヤダヤダヤダヤダ！」
「ちょっ、ぐっ、やめっ、なさっ、ぐふっ」
手足をジタバタ、遂に駄々をこね始めてしまった。
いくら軽いとは言っても、そこは流石に身長100センチの美少女。それが密着状態で暴れているもんだから無視できる状態ではない。
しかしここで折れては僕の努力が水泡に帰すのも事実だ。全身を揺さぶられながらも、なんとか画面から目を離さないようにPCの端を掴む。
「ヤダヤダ！ ヤダヤダ！ ヤダヤダ」
「ぐっ、がっ、くっ！」
「ヤダヤダ、ヤダヤダ」
「ぬっ、くっ」
「ヤダヤダ……ヤダヤダ……」
「……ん？」
「ヒック……ヒック……」
次第に身体へとかかる衝撃が小さくなり、つっぷした彼女の口から漏れてるであろうすすり泣きのような声と、か細いヤダヤダ。
ちょっと可哀想になってきたかなと、仕方なく後ろを振り向いてみたら。
「ﾔﾀﾞ……」
「……ねえ、ちょっと」
「Zzz……」
「……ね、寝てるよ……」
……信じられないことに、彼女は僕にしがみつきながら寝落ちしていた。
寝入るにはあまりに早いスピードである。こう、アレだ。夢中で遊んでいたのに突然その場で眠ってしまう子猫。前に動画で見たヤツ。まさにアレ。
まあ、これでようやく僕も勉強に集中できるわけだ。この貴重なチャンスを逃す手はない。
規則正しい寝息を背中に感じながら、僕は何度目か分からないPC画面への復帰を果たし――
「…………………………………………………………………………」
――あ、無理だわ、コレ……。
先ほどまでのやり取りのせいで、僕の集中力はとっくに途切れていたようで。
参考にと開いていたネットの情報はもう、見直してもさっぱり意味の理解できるものではなくなっており。
つまり、もう何にも分からない。ガックリと力なく首が垂れる。
「はぁ……これなら構ってあげてた方がマシだったかも……」
溜め息交じりに独り言を零してから、僕はパソコンの電源を落とすと、背中の彼女を隣へと下ろした。
あどけない寝顔は、さっきまで大騒ぎしていたとは思えないぐらい大人しくて、それでいて可愛らしいもの。
思わず苦笑いを浮かべてしまいながら、僕はノートPC一式を棚へと片付けると。
彼女と一緒にお昼寝に興じるべく、並ぶように布団の上に横になって、そして目を閉じた。
次第に眠りに落ちていく意識の片隅で、まだ瞼の裏に映る彼女の寝顔を見つめながら。
……ホント、こんな我侭放題の彼女なのに。
これで僕よりずっと年上なんだもんなぁ、と。
そんなことを最後まで考えていた。
◇
彼女は、僕にとってもう一人の母親だった。
『――うぇぇん……ひっく、ひぐっ……』
母が赤ん坊の時に親戚からプレゼントされたという人形は、ちょうど僕が産まれる前にリビングドールへとなったそうだ。
『あらあら、そんなに泣いてどうしたの？』
いっぺんに家族が二人増えた両親は大喜びだった。
特に母は、幼い頃から大切にしてきた人形が話せるようになったことに歓喜し、彼女を娘として育てようとさえ思ったそうだ。
『ママ……ママぁ……』
ところがその人形は、満場一致で我が家の一員になったものの、娘という立場とはちょっと違った立ち位置に収まった。
普通、リビングドールは見た目通りに幼く我侭で、人一倍に愛情を欲しがるとされる魔物娘である。
だけどその性質と同時に、彼女は母と同い年という成熟した女性の側面も持ち合わせており。
『よしよし、ママはちゃんとここにいるわよ』
そんな彼女にとって、赤ん坊と一緒という環境は『自分が愛情を求める場』でなく『自分が愛情を与える場』だったのだ。
彼女は誰に頼まれるでもなく自発的に、そして真っ先に僕のお世話をするようになった。
『うん……ママぁ、だっこぉ……』
両親の方もミルクからオムツにベッドでの添い寝など、隅々に至るまであまりに完璧な母親っぷりに舌を巻いたそうで。
これなら僕を任せても絶対に安心だと、母体の回復と共に母は早々に職場へと戻っていった。
『まったく、あなたったら本当に泣き虫の甘えん坊さんね。背丈はもう私に並びそうだっていうのに』
結果、ますます僕は彼女と一緒にいる時間が増え、その愛情にドップリと浸って育つこととなり。
『泣かないで大丈夫よ。ママはずっと、あなたと一緒にいてあげるんだから』
彼女は、僕にとってもう一人の母親となったのだった。
『――あなたがそう、望む限りね――』
◇
「――もぉ、ようやく起きたの？」
目が覚めた時には、外からは夕日が差し込み始めていた。
視界の先には、横になったまま僕の顔を覗き込む、彼女の顔。
ほんの少し頬を膨らましているけれども、ちっとも怒っている風ではなかった。
「……あれ、僕……」
どうやら僕は、ずっと小さな頃の夢をみていたらしい。
まだこのお人形さんを、ママと呼んでいた頃の夢。
大分昔ではあるけれど、今でも忘れることのない……大切なひと時の夢だ。
「なによー。私があれだけ遊んでっていったのに、気付いたらあなたも寝ちゃってるんだもん」
「そっちが喚くから、勉強が続かなかったんだよ……ふわぁ……」
寝そべった体勢のまま大あくびをすると、彼女はクスクスと笑い声を漏らす。
その悪戯っぽい笑みは、寝る前に我侭を言っていた僕を困らせた、幼い子供のそれが浮かべるものそのもので。
僕が大きくなるにつれて……彼女を抱きかかえられるようになるにつれて、次第に増えてきた、お人形さんらしい表情だけれど。
「さ、そろそろお夕飯の支度をしないと。今日の献立は何にする？」
「うーん……そうだ。冷蔵庫のご飯も残ってるし、オムライスでも作ろっか？」
「きゃあ、名案」
「それじゃあチキンライスは僕が作るから、卵の方はよろしくね……って」
「ふふっ……」
「なにを笑ってるのさ」
「いえ……まだまだ子供だな、なんて思ってたけど――」
もう一度笑い声を漏らした後に、手を伸ばして僕の頬を撫でて。
そうして向けた、その眼差しと微笑みは。
「――あなたも大きくなったわね。昔はあんなに泣き虫で、何でも私がしてあげたのに……」
夕日に照らされて、暖かく輝く。
懐かしみと、慈しみと……そして限りない母性と愛情に溢れた。
まぎれもない。僕の母親、最愛の女性のものだった。
「…………っ！」
途端に僕の胸に沸きあがる、泣きそうなぐらい愛おしい彼女への感情に。
僕は耐え切れずに、目の前の彼女に抱きついて、その胸に顔を押し付ける。
「……甘えん坊なのは変わってないのね」
「良いじゃない、別に……」
「うん……良いのよ、いくらでも抱きしめて」
そう言って、彼女はぎゅっと僕の頭を抱き返してくれた。
ゆっくりと優しく、愛おしげに僕のことを撫でている、その柔らかく小さな手の感触。
子供の頃から変わらない、全てを受け入れてくれるような、甘くて安心する匂い。
「私はお人形だもの。あなたが望む限り、いつまでもあなたと一緒にいてあげる」
「……違う」
僕は一層、彼女を抱きしめる手の力を強くする。
確かに、彼女はお人形さんだ。
子供に飽きられてしまえば、ともすれば簡単に捨てられてしまうような。
そうでなくても、望んでいなくても。ただのアンティークになってしまうような。
そんな存在……なんだろう。
だけど、それだけじゃないんだ。
「ずっと僕と一緒にいてよ。もし僕が望まないなんて言っても、そんなバカなことは無視して、いつまでだって一緒に」
彼女はお人形さんでも、僕の大切な家族で、僕の母親で。
「ずっと……僕と一緒にいてよ」
僕が世界で一番愛している……。
僕にとっての、女性の全てなんだ。
「……本当に、いつまで経っても可愛い甘えん坊さん」
僕を撫でていた手を止めて、再び彼女は僕の頭を強く抱きしめると。
「――そうね……あの時、言ったものね」
耳元へと顔を近づけて、そっと囁いた。
「――ママはずっと、あなたと一緒にいてあげるんだから――」
「――でもね、ちょっとだけ甘えん坊さんは直さないと――」
「――私がママなんだから、あなたはいつか――」
「――パパになるんだから、ね？――」
――おしまい――
18/11/05 20:53更新 / まわりの客