連載小説
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舞い戻る
「話は聞いたぞ……何と言えばいいか……」
「気にしないで下さい、俺は大丈夫です」
場所はとある町工場、機械の動作音と機械油の匂いに満ちた工場内で信夫は工場長にそう答えた。
信夫の親しい人がつい最近他界した事、そして献体として提供したその人の遺体が紛失した事を知っているのはこの職場では工場長だけだ。
「そうか……くれぐれも気を付けて作業するんだぞ、上の空で作業していると怪我するからな」
「はい」
信夫は頭を下げて作業に戻って行った。
いつも通りに作業を始める信夫を見て工場長は溜息をついた。
「あいつだけはわからんな……」







 白い部屋だった。
四方は不自然な程に滑らかで材質の分からない壁に囲まれ、天井に一つだけある電灯からブゥゥ……ンと低い作動音が聞こえる。
その部屋の中央にベッドがある、いや、ベッドというよりは台というべきか。
地面が丁度人一人寝そべれるくらいのスペース分だけ長方形にせり上がったような形をしている。
その上に一糸纏わぬ白い女性が横たわっている。
香苗の遺体だ
生きている人間には有り得ない血の気の無い真っ白な肌、死してなおそこだけは艶を失わない黒髪が台の上に広がっている。
白い部屋に横たわる白い体という景色の中でその艶やかな黒髪だけが存在感を放っている。
と、その部屋に白衣を着た一人の女性が入って来た。
赤い瞳と長い白髪を有したその女は美しかった。一目見たなら男が正気でいられなくなるような破滅的な美貌に穏やかな表情を浮かべながら横たわる香苗に近付く。
その長い指でそっと額にかかる髪を払ってやると香苗の整った顔立ちが露わになる。よく見てみると薄く瞼が開いており、その目に光は無い。
「魂を呼び戻すのは世の理に反する?」
香苗の死に顔を優しい眼差しで見下ろしながらその女は言う。
「理なんてこの世には無い、理は常に作り変えられる」
青白い頬に手を添えて額を合わせる。
薄っすらと、女性の体から何かもやの様な物が溢れ出る。
「古い理を超えた新しい理に沿って」
女性の赤い瞳が怪しく光る。
「貴方に今一度の機会を」
体を包むもやが一際濃くなる、赤紫のようなピンクのような禍々しい色をしたオーラのようなそれが白い天井にまで立ち昇る。
徐々に、徐々に、香苗の黒く艶のある髪が根元からくすんだ灰色にその色を変え始めた。
かといって黒かった頃の艶は失われてはいない、美しくありながら奇妙に退廃的な印象を与える灰色に染まって行く。
「……―――――っっ!!」
がくんっ
横になっていた女性の体が跳ねた。勢いのあまり台から転げ落ちそうになるのを女性が抑えて防ぐ。
薄目だった目は大きく開かれ、忙しなくぐるぐると周囲を見回す、焦点は合っていない。
制御が効かない機械のように手足がばたばたと出鱈目に動く。
「ぉっ―――――ぅぁっ……あ゛あ゛ぅっ……う゛ぁ―――――」
人の物と思えない声、声帯の勝手な運動によって漏れたかのような声が香苗の口から上がる。
「大丈夫……大丈夫よ、大丈夫……」
女性は暴れる香苗の体が傷付かないように抑えながら子供に言い聞かせるように言い続ける。
「……あ゛っ……はぁっ……あっ……あっ……」
きょときょとと周囲を見回していた目がようやく目の前の女性の顔に焦点を合わせた。
女性はにっこりと笑いかける、香苗はぱちぱちと目を瞬かせる。
しかし産まれたての赤子のようだったその目は、瞬きを繰り返すうち徐々に理性の光を取り戻していった。
「……あら?」
それを見た女性は意外そうな顔をする。
「……ぁっ……だっ……らっ……」
香苗は口を開けて何かを喋ろうとするが、舌が強張って何も意味のある言葉を発する事が出来ない様子だった。
と、不意にその表情が辛そうに歪む。
「あ、吐く?」
どうにか頭を上下させる、頷くのも一苦労といった様子だ。
「OK、ゆっくりゆっくり……焦らないで……私にしがみついて」
女性は老人の介護のように香苗の腕を自分の背中に回して抱きつかせ、ゆっくりと体を起こしてやる。
どうにか台の上に座った状態にしたが、支えがないとその状態も維持できない様子だ。
「はい、大丈夫、支えてるからね?あ、ちょっと手伝って」
女性は香苗の上体が横倒しにならないように支えつついつの間にか部屋に入って来ていた看護婦らしき女性に声をかける。
こちらも随分と美しい容姿をした看護婦は手に持っていたバケツを素早く香苗の膝の上に置く。
「う゛っうぇぇっ……げぇぇっ……」
香苗は堪えるのも限界だったのか、すぐにバケツに向けて嘔吐を始める。と言っても胃に何も入っていないので殆ど透明な胃液ばかりだが。
看護婦はバケツが落ちないように支え、女性は繰り返しえずく香苗の体を支えながら背中をさすってやる。
「……先生、この患者は……」
「ええ、そうね、初めてのケースだわ」
二人は深刻な表情で言葉を交わす。
「……ふう……ふう……」
ようやく吐き気が治まったらしく、香苗は呼吸を整えようとしている様子だ。
その香苗に女性は言葉をかける。
「息を止めてみなさい」
「……?」
「息を止めるの、大丈夫、息をしなくても大丈夫だから」
「……すぅっ」
妙な顔をしながら香苗は息を吸い込んで止めようとする。
「違うわ、吐いてから止めるの、肺に空気を溜めずに」
「……はぁっ……」
言われるままに息を吐いてから呼吸を止める。
「……?」
「どう?大丈夫でしょう?」
香苗は不思議そうな顔をする、確かに無理に呼吸をしようとしていた時よりも随分楽になった様子だ。
「……らっ……ぁっ……」
「しばらく喋るのは無理よ、時間が経過すればじき喋れるようになるから……水、いる?」
「……」
香苗は無言で頷く。そういえばカラカラだ。
看護婦はバケツと一緒に持ってきていた水差しから水をコップにつぎ、それにストローを挿した。
「吸える?」
震える口元にストローの口を運ぶと、ぎこちないながらも香苗の唇はそれを咥えた。
ゆっくりとストローの中を水面が上昇し、口に到達する。
「ごほっ!」
「落ち着いてゆっくり飲みなさい」
むせてストローを吐き出してしまう香苗の背中を優しく叩きながら女性が言う。
もう一度ストローを咥え、今度は口に入って来た水を口内に留めて馴染ませるように舌で撹拌する。
その時になって気付いたのだが、どうやらこの水はただの水と違うらしい。
微かにとろみがあり、甘い。
しかしその甘味が触れた箇所から染み渡り、潤うような感じがする。
十分に口腔内を潤わせてから、ごくり、と喉を鳴らして飲み下すと、全身に染み渡るような感覚がする。
香苗は水を吸い上げて口に馴染ませ、飲み込む、という作業を繰り返した。
かなり長い時間をかけてコップ一杯の水を収めた香苗はストローから口を離した。気付けば舌の強張りも大分ほぐれている。
「気分はどう?」
そう聞かれて香苗はなんとか舌を動かして答えた。
「……………あぁ………生き返った」
女性と看護婦は思わず吹き出してしまった。







 指を小指から順にゆっくりと折り曲げて行く。他の指が釣られて曲がりそうになるのを抑えて一本一本曲げる。
全部を曲げて握りこぶしになったらまた一本一本指を伸ばしていく。
ベッドの上の香苗はずっとこの動きを繰り返している。
閉じていた目を開く。白い天井、と言っても以前の奇妙な白い部屋の天井ではない、普通の断熱材の天井だ。
(……断熱材の天井……断熱材、熱移動や熱伝播を減少させるもの、建築材としてよく使われる)
風を感じて右を見る。窓があり、カーテンが外からの風に揺れている。日差しから察するに昼間らしい。
(……カーテン……カーテン、遮光・防音・間仕切りなどを目的として吊り下げて使用する布製品)
下を見る、体には清潔な白いシーツが掛けられ、自分は病院着を着ている。
(……シーツ……シーツ、布団やマットレスをカバーするのに用いる布)
左を見る。ベッドの脇には机があり、水差しとコップが置かれている。その向こうに見える部屋の景色は……。
(……病院……病院、怪我人や病人を収容する施設)
目に入る物一つ一つを頭の中で確かめて行く、自分の記憶を、知識を、脳の稼働率を確かめて行く。
体で指の動きをリハビリするように、脳のリハビリを行う。
あの後香苗は意識を取り戻したのもつかの間、水を飲んだ記憶を最後にまた深い眠りに落ちてしまった。
次に気付くとこの病室のベッドに横になっていたのだ。
立ち上がろうと試みたが、まだ体はそこまで言う事を聞いてくれない。
そこで香苗は自分なりに体を動かそうとこのリハビリを始めたのだった。
香苗は目を閉じた。
(……美濃香苗……)
自分の名前、美濃小菅と美濃房江の間に生まれた一人娘。
自分ではわからないが変人だとか変わり者だとか呼ばれる性格をしている。
誕生日は七月十四日。
(次の誕生日まで生きていられるだろうか)
誕生日の度にそう考える。そんな誕生日を19回迎えた。
生まれつきの心臓の病でずっと病院通い。
なので友達は少ない、両親とあと信夫くらいのものだ。
(……信夫……)
信夫 信夫 信夫 川渕信夫 川渕信夫
大事、大切、愛しい、掛け替えが無い、悲しい、辛い、会いたい。
「うっ……あっ……あっ……」
つい先ほどまでうまくいっていた脳のリハビリが急激な感情の嵐で乱される。
(駄目だ……)
意識を別の物に向けようとする。
ガチャッ
都合良く、というべきか丁度その時病室のドアが開き、一人の女性が入ってきた。
自分が目覚めた時に付き添ってくれたあの女性だ。
「目が覚めたかしら、体調はどう?喋れる?」
「……少し、は」
「そう……やはり生前のように自然に喋るにはまだ時間が必要みたいね」
「生、前」
香苗の視線が天井を彷徨う。
「わたし、は……死ん、だ?」
視線を女性に戻して香苗が問う。
「ええ」
女性は簡潔に答えた。
香苗はしばらく目を閉じてじっと考える。
「……ぃきっ……」
次に喋ろうとして言葉が途切れる。肺にある空気を吐き切ってしまったのだ。
普段意識しないが声を発する、と言うことは息を吐いて声帯を振るわせる、という事だ。
呼吸をしなくなった香苗は喋る前に意識して空気を吸わなくては言葉が発せない事に気付いた。
すう、と息を吸い、改めて口を開く。
「わた……わたし、は、生きて、いる?……死んで、いる?……」
「心臓が動いているかという意味では死んでいるわ、でも、魂がこの世に留まっているという意味では生きている」
香苗はもう一度息を吸い込む。
「わた、しは……ゾンビ……?」
自分で言って馬鹿らしいと思ったが、今の自分の状態を表すのにこれ以外に適した単語は思い浮かばなかった。
女性は微笑んだ。
「本当はそうなるはずだったんだけれど……貴方はちょっと違うわ」
香苗の脳裏に目覚めた時に聞いた会話が思い出される。
(……先生、この患者は……)
(ええ、そうね、初めてのケースだわ)
あの会話と今の話から推測すると、自分はゾンビになる予定だった、しかし予定通りにはならなかった。という事だろうか。
だとすると自分は何なのか。
香苗は質問をしようと今一度息を吸い込んだ。
「……はぁ、ぁ……」
しかし吐きだした空気は言葉にならず、ただの溜息となって宙に溶けた。
疲れた、肺を動かすのが億劫だ。少しでも情報が欲しい状況だというのに。
と、女性の手が香苗の額を撫でた。温かい。
「焦らないで、まだ長時間会話が出来るような状態じゃないの、それに一度に沢山の情報を与えられてもその状態では処理できないわ」
香苗は早くも重くなり始めた瞼と格闘しながら女性を見上げた。
「ただ、これだけは聞いて、私達は貴方の味方よ……だから、安心して」
その言葉が後押しになったのか、香苗の瞳は落ちてくる瞼に覆われ、すぅっと呼吸が止まる。
「おやすみなさい」
女性はそう言って香苗の額にそっとキスをした。
13/08/28 23:48更新 / 雑兵
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