連載小説
[TOP][目次]
中編
 拓馬は久しぶりに目覚まし時計の力を借りずに自然に目を覚ました。
すっきりとした目覚めだ、やはり合理的とはいえあのけたたましい音で叩き起こされるのは疲れる。
と、そこまで考えた瞬間拓馬は反射的に布団から跳ね起きた。
「やべ……!遅刻……!」
うろたえて周囲を見回し、ここがいつものアパートの一室では無い事に気付く。
「あぁ……そっか、そうだった」
目に飛び込むのはフローリングの空疎な一人部屋ではなく、畳張りの和室。掛けられている時計を見ると時刻は午前9時。
今日が仕事であったなら遅刻というレベルでは無い、そこまで考えて拓馬は苦笑いをした。
もう辞めたというのにまだ仕事に捕われている、もう身体に染みついてしまっているようだ。
拓馬は今一度布団にばったりと突っ伏した。こうして目覚めた後に布団に舞い戻るというのはずっと夢だったのだ、些細だが涙ぐましい夢である。
「起きたか?」
と、ふすまの向こうから低い声が掛けられた。父の声だ。
「朝食出来てるぞ、気が向いたら食べなさい」
「あ……あぁ、ありがとう」
昨日、家に着くと気が抜けたのか死んだように寝てしまったので仕事を辞めた後にまだ両親とはじっくり話していない。
少々重いものを感じながら布団を抜けだし、居間に移る。
ちゃぶ台の上に並ぶ久しぶりのまともな朝食は食欲をそそるが、そのちゃぶ台の向かいに座る父とその隣の母の表情が神妙なので落ち着けない。
拓馬としても辰がやや強引に進めた話ではあるものの急に無職になって帰って来た事に罪悪感がある。
「拓馬、一番の親不孝というのは何か知ってるか」
「……」
父に言われて拓馬は何とも答えられない。
脱サラをして漁師の娘だった母の故郷にやって来た父はしっかりとした標準語だ、その言葉と同様砕けた所の無い厳格な性格をしている。
「身体を粗末に扱って壊す事だ」
「……」
「好きな事に打ち込んだりして身体を酷使する事はあるだろう、真面目に働いていれば疲れもするだろう、しかしお前のはいかん」
「……」
「お前は消耗品として扱われていたんだ、そういう事がわかっていたなら痛っ!」
と、話の途中で母が父の肩をはたいた。
「まだるっこしか、つまりなあ拓馬?」
母は拓馬に笑顔を向けた。
「心配じゃったとよお、そげん辛か時ば遠慮いらんと、相談ばしぃ?」
「……うん」
「な?お父さん、そういう事やんな?」
父はなにやら照れ臭そうな表情で咳払いをした、厳格ではあるが母にだけは頭が上がらない父である。
「……うむ、まあ、そうだ……そこを辞めた事はいい事だ、辰さんによくよく感謝しておくんだぞ」
「うん」
「さ、めしば冷めてしまうど?食べ、食べ」
「いただきます」
染み入る物を感じながら手を合わせて食事を始めた。本当に久々の一人でない食卓だった。







朝食を終えた拓馬は居間でテレビをぼんやりと眺めている、今日は平日なので両親はそれぞれ仕事に行ってしまった。
テレビの内容は頭に入ってこない、何もすることがなくなって落ち着くと色々な事象が頭の中を渦巻いた。
今までの苦労、上司や同僚に掛けられた言葉、これからの将来への漠然とした不安。
そう、不安。
拓馬は唐突に不安になってきた、今日は平日でみんな働いているのに自分はこんなにぼんやりとしていていいのだろうか。
本当に仕事を辞めてしまってよかったのだろうか、自分はひょっとしてただ逃げ出してしまっただけではないのだろうか。
再就職なんて厳しい時代だ、死ぬ気になって働けない人間なんて社会は必要としないのではないだろうか。
知らずに拓馬はちゃぶ台に両肘を突いて顔を覆っていた。
不安はやがて得体の知れない恐怖のような物に変じ始めていた。
「俺は……俺は、駄目な奴だ……」
口からぼそりと零れる。
「た〜くちゃん」
その時、唐突に外から声が掛った。ぎょっとして顔を上げる。
「あーそーぼ」
辰の声だ。
小学生の頃と全く同じ声の掛け方なので先程の不安も忘れて思わず笑ってしまう。
「おう、いるぞ」
こちらもその頃と同じように返事をすると玄関にひょいと辰が顔を出す。
「海ばいかんね?」
「おいおい……まだ泳ぐには寒いだろ」
「なぁん、突き落したりばせんとよ、それにどうせ暇ば持て余しとっとね?」
そう言って笑う辰の言葉にまあ、見るだけならいいか、と了承する。
表に出てみると辰は既に準備を整えていた、つまり、玄関先には自転車が二輪置いてあった。古いママチャリだ。
「これで?」
「これば一番都合よかとよ」
確かに車を出すほど遠くは無いし海辺には車を止める場所も無い。かといって徒歩ではいささか時間が掛る距離なのでこれが一番適当な移動手段かもしれない。
「久しぶりすぎて乗るの怖えなあ」
「なになに、一度乗れたら一生忘れん」
そういって自分の自転車に乗り、早々にペダルをこぎ出す辰、あわてて後を追う拓馬。
辰の言った通り、最初は不安定だったものの身体が感覚を思い出した後はすぐに昔のように乗りこなせるようになった。
緑のトンネルを風を切って抜けるともう視界は空と海の青一色になる。
そこに白い砂浜でもあれば完璧なのだがあいにく実家の近くの海辺は殆どが岩場で構成されており、刑事ドラマの犯人が自白でもしそうな絶壁が数多くある。
もっともそんな環境だからこそ観光客等も寄り付かず、地元は昔のままの暮らしを保っているのだ。それが良いのか悪いのかは別として。
普通ならば子供は危ないから近寄ってはいけないところなのだが、やんちゃだった辰と拓馬はよくその岩場で遊んだものだ。
自転車で海辺に着いた二人は子供の頃によく遊んだその崖の上に来ていた。
「……やったよな、飛び込み……子供の頃は命知らずだったもんだ……」
崖を覗き込んで青くなりながら拓馬は言う。高かったのは思い出補正で今になって見てみればそれ程でもないのかと思いきや、今見ても普通に怖い高さだ。
「今はもう泳げるかも怪しいな、ずっとそんな機会なかったしなぁ……何で靴脱いでんだ辰っつぁん」
「気分気分、たくちゃんも脱がんとね、気持ちよかよ?」
「……まあ、いいけど」
辰にならって拓馬も靴と靴下を脱いでみる。
「おー、本当だ、気持ちいいな」
素足で岩場の上に立つと以外と日の光で暖まった岩肌が足の裏に心地いい。
「現代的な生活してると足の裏に刺激受けないもんなぁ、ところでその動きはなんなんだ辰っつぁん」
首をこきこき回したり手足をぶらぶらさせている辰に拓馬は問いかける。
「準備運動」
「何の準備?」
「……」
「いやいや返事してくれよ怖いよ」
「……んへへ」
「何の笑顔だそれ」
怪しい様子の辰から離れようとするが、背後は崖の縁だ。まさに崖っぷち。
「辰っつぁん、突き落さないっていったよな?」
「突き落したりばせんよぉ」
「うん、そうか、それじゃあちょっと離れてくれるかな、ここはちょっと危な「おぃっしょー!」洒落になんなぁあああああああああい!」
辰は崖の上で拓馬にタックルをかました、二人の身体は勢いよく崖の上から飛び出す。
全身から重力が失せる感覚で気を失いそうになりながら中空で自分に纏わりつく辰に目を向ける。
笑顔だ、本当に子供の頃と同じの底抜けの笑顔だ。
そんな辰の顔を見ていると不意に全てがスローモーションに感じられた。
落ちていくというより飛んでいるような、ゆっくりと滑空しているような。
何故だか辰に任せていれば全部大丈夫というような奇妙な安心感を感じる。
二人は空中で身が離れそうになるが、繋いだ両手で離れるのを防ぐ、そんなに滞空時間が長い筈はないのだがまるでスカイダイビングでもしているような感覚だ。
辰はずっと笑顔だ。
顔を下に向けると海面が迫って来ている、恐ろしい筈なのに不思議と怖くない。
夢見るような気分で拓馬は海面に受け止められた。
ざぶん
衝撃が全身を打っても気持ちは穏やかなままだ、辰が手を離さなかったからだ。
白いあぶくと共に冷たい海水に包まれる、その海水が拓馬の中に積もり積もっていた何かを強引に洗い流していく。
目が覚めたような生まれ変わったような感覚を覚える。
辰はずっと握った手を離さない、水の中でも笑顔で拓馬を見つめ続ける。長くて綺麗な黒髪がたなびいて天女みたいだ。
不意に辰は手を離すとぐい、と拓馬の後頭部に手を回して頭をその胸に抱き締めた。柔らかくて温かい。
不思議な事に辰の気持ちが伝わって来る。
(不安がらないで、心配いらない、もう大丈夫)
そんな辰の想いが伝わって来る。
拓馬は気付いた、見ていたのだ、居間で一人不安に苛まれる自分を辰は見ていたのだ。そんな自分をどうにかしてやりたいと辰は思ったのだ。
熱い涙が溢れ出て来て海水に混ざっていく、どうせ海の中だからわからないので拓馬はその涙を止めようとはしなかった。
青い世界の中で暫くそうして二人で抱き合っていたが、やがて辰に手を引かれて白く輝く水面に上がって行く。
ざばっ
「ぶはっげほっげほっげほっ!……殺す気かー!?」
「あっはははははは」
水面から顔を出して文句を言うと辰は無邪気に笑う。
「せっかく海ば来たとに泳がん訳にはいかんとね?」
「普通に誘えよ!っていうか突き落さないって言ってたじゃん!」
「今のは突き落したんとは違うね、一緒に飛び降りたけんね」
「屁理屈を……ああっこら逃げんな」
ちゃぷん、と水に潜る辰を追って拓馬も水中に身を沈める。
辰は微笑を浮かべて追って来る拓馬を見ながらゆったりとしたバタ足で後ろ向きにすいすいと泳ぐ。拓馬はその辰を追って懸命に水を掻き分けるが一向に追い付かない。
そういえばそうだった、これは拓馬の身体が鈍っているからというだけではない、昔から辰には泳ぎで勝てた試しがなかった。
辰の泳ぎときたらもはや人魚もかくやというレベルな上に信じられない程に息が長く続くのだ。
捕まえられないのをわかった上で無心に人魚の影を追い、泳ぐ。拓馬は時を忘れた。







「……疲れた……」
「へへへ」
いい加減へとへとになって海から上がってみれば時間は正午、二時間近くも海の中で戯れていた事になる。
「ちくしょー、結局一度も触れなかった」
「泳ぎでおれに勝とうなんぞ百年早かよぉ」
「こちとらブランクがあるんだ、少しは手加減……っ」
海から上がった辰に目を向けて拓馬は言葉に詰まった。
辰が来ているのは薄いシャツ一枚、当然濡れてぺったりと肌に張り付く、胸の部分はどうやら布か何かを巻きつけてあるらしい。
昨日より膨らみがなだらかに見えたのはそう言う事か、と納得する。
しかしながらその布が如何にも大きな圧力を抑えつけている感じがしてかえって興奮させられる。
しばらくその部分に目を奪われていた拓馬がはっと気付くと辰がにたにたしながらこちらを見ていた。
「すけべぇ」
「ばっ……お前が無防備過ぎんのがいけないんだよ!」
「すーけーべぇー」
「うっさいばか」
真っ赤になりつつ目を逸らす。
「大体なんだよその布……ブラしろよブラ」
「サイズなかともん、合うやついうたら特注せにゃなか」
「どんだけデカいんだよ……」
「すけべぇ」
「うるせー!」
言い合いながら岩場の上に靴を取りに行く。
しかし履くのが戸惑われる、なにしろ海水でずぶ濡れだ、拭く物も持ってきてない。
「あーもう無計画すぎだろ、どうすんだこれ」
「自転車で走りゃすぐ乾くとよ」
「そういう問題じゃ……まあそれしかないか……それにしても腹減った」
「ツギ屋行くと?」
「えっ、あそこまだ残ってんの?」
幼い頃よく通った食堂の名前を聞いて拓馬は驚く、昔から今にも傾きそうな店だったのでてっきりもう無くなったものかと思っていた。
「今も元気ばやっとぉよ」
「まじで?行こう行こう」
懐かしさと空腹に駆られて自転車に跨り、先導する辰についていく。
右手に海岸、左手に今にも森に侵食されそうなブロック塀をみながらペダルをこぐ、海水の水滴が風で後ろに飛ばされて行く。
何もかもが久しぶりの感覚だ。
何よりもこんなに空腹を感じたのが久々だ、腹にぎっしり詰まっていたストレスが綺麗に無くなってすっからかんだ。
不意に水中で抱きしめられたあの時の事を思い出して赤面する。
水面に上がってから互いにあの瞬間の事は無かったかのように普段通りの振る舞いをしたが、忘れられない感覚だった。
「ありがとうな」
前を走る辰に聞こえないようにぼそ、と呟いた。
それを聞き取ったのか、辰は一瞬振り向いてにこ、と笑った。まさか聞き取られると思っていなかった拓馬は赤面して目を逸らす。
顔の火照りを風で冷ましているうちにツギ屋に到着した。
「ツギ屋」の文字が表示された古ぼけた看板が無ければただの民家に見える食堂はいかにも地元民向けと言う感じで一見さんには入り辛そうな雰囲気だ、変わらない。
引き戸を開けて中に入ると狭い店内には二人用のテーブル席が二つ、調理するのが丸見えになる厨房の前に三人分のカウンター席がある。
壁に大量に貼りつけられているメニューの紙は変色し過ぎて読みとれないのが殆ど。注文しても本当にその通りの物が出て来るのかどうかは子供の頃から疑問に思っていた所だ。
「おぅす、ばっちゃ、元気しとぉ?」
「おぃ?」
辰が声を掛けると厨房の奥から頭に布を巻き付けたしわくちゃの老婆が顔を出した、ちなみに「おい?」というのは標準語で言う「はい?」とかそういうニュアンスだ。
「おお、辰さんかぃ、それと……」
「忘れたと?ツギばっちゃ」
「……たく坊?たく坊かぃお前!おーほほっひさしからぁ」
しわくちゃの顔をさらにしわしわにして老婆は笑う、拓馬は思わず目を剥く。
「ツギばっちゃ!まだやってたの!?うへぇ元気!」
昔よりだいぶ皺が増えたものの変わらずに元気な馴染みの顔に表情がほころぶ。
「ほほっまーだまだ元気よぉ、……いつものでよかと?」
「うん、よか」
「頼んます」
二人がテーブル席に着いて間もなく料理が運ばれて来た。
辰の前にはきつねうどん、拓馬の前にはカツカレー……と、豚汁。そして二人で分けあう卵焼き一つ。
「改めて考えてみるとでたらめな組み合わせだ……」
「今更やねぇ」
カレーとみそ汁の組み合わせだけでも微妙な所なのに豚汁でトンカツだ、豚がもろ被りしている。とにかくボリュームがあれば何でもいいという組み合わせである。おしんこでも頼めばすっごく爽やかな存在になるかもしれない。
「「いただきます」」
ばっちゃと適当に雑談をしながらがつがつカレーと豚汁を腹に流し込んで行く。うまい。
「「ごちそうさま」」
「またこんねー」
迅速に腹を満たして店を出た。
「……あー食った食った……磯臭ぇ、こんなんでよく店に入れてくれるよ」
水が乾いても塩っ気は抜けない、全身から海の匂いがする。
「昔っからたくちゃんは海の子やったけんねぇ」
そう言えばいつも塩っぽい身体で動き回っていた気がする。辰も同様だ。
「この後どうすっかな……いつものコースで行くと……あそこ、今もある?」
「にひひ、無くなったら困るとよぉ」
「だよなぁ」
笑い合うとまた自転車に跨って道路を飛ばす。
海沿いの食堂から20分も走ると田舎なりに一応商店街らしき場所に出る。
「いつものコース」というのはその商店街にあるビデオショップと本屋、ボウリング場とゲームセンターである。
いずれも例によって古ぼけたちっぽけな佇まいの店だが、この辺鄙な場所での娯楽を一手に担っている重要な施設だ。
今日の所はビデオショップに寄る事にした。
二人で散開して店内をうろつき、気に入ったものを持ち寄り、議論して一つに絞るのだ。
見て回ると流石に当時のようなビデオテープでは無くDVDに変わっている、ようやく時代の流れを感じた気分になりつつ何となくホラーコーナーを見ていると辰も同じ棚を物色し始めた、どうやら二人とも今日はそんな気分のようだ。
物色を終えて互いの候補を見せ合ってみた。
拓馬は「デスブレード〜地獄の電気カミソリ〜」「アンデッドハウス〜呪われしマイホーム〜」の二本。
辰は「ジサツケイタイ〜死の着信〜」「祟り祀り〜怨念祈願〜」の二本。
互いのチョイスを見て互いに顔を引き攣らせた。
「海外もんのスプラッターとかやめときに、痛そうなんば堪忍してちょお」
「Jホラーはやめてくれよ……夢に出るんだよ」
あれやこれや言い合った末に結局ホラーではなく、アクション物で妥協する事になった。







(……子供の頃に帰ったみたいな一日だったな)
夜になり、布団の中で心地よい疲労感に包まれながら拓馬は思った。やはり遊び疲れと仕事疲れは別物だと実感する。
ビデオショップでレンタルした後、二人は拓馬の実家に帰った。DVDプレイヤーは拓馬が持ち帰って来たものしか無いので一緒に見るためだ。
B級らしく突っ込みどころたっぷりな内容にやいのやいの言いながら鑑賞を終えた頃にはもう日が暮れていたので今日は辰も拓馬の実家に泊まる事になった。
一緒に寝ようと言われたのだがそこは流石に昔と違うんだから、と諭すと渋々承諾してくれた。本当に子供の頃と同じように接して来るので困る。
(……本当に美人になったなぁ……)
よく考えると今日も友達感覚で遊び回ったが、これは客観的に見るとデートと言えるのではないだろうか、などと思った。
(……馬鹿、何考えてんだ俺)
別に抑制する必要も無いのだが昔の友達に対して異性としての感情を抱くのには何となく罪悪感を感じてしまう。
「……んー……」
もやもやと考えていると不意に喉の渇きを覚えて布団から起き上がった。
寝静まった家の廊下を歩き、台所に行く。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップ一杯を飲み干した所で洗面所の仕切りの引き戸から灯りが漏れている事に気付いた。
ぱしゃん、と水音も聞こえる。
そう言えば風呂は一番後でいただく、と辰が両親に言っていたのを思い出した。つまり辰が入浴しているのだ。
どくん
心臓がびっくりするくらいに高鳴った。脳裏に昼間に見た海水に濡れた辰の姿がよぎる。
「……」
何故か息をひそめた、そんな事をする必要はないのに。
極力足音をたてないようにそろそろと洗面所に近付いて行く、何だ、俺は何をしているんだ。
音をたてないようにゆっくりゆっくりと引き戸を開け、洗面所をこっそりと覗き込む、やめろ、何をしている。
黄色い灯りに照らされた曇りガラスの向こうにぼんやりと人影が見える、肌の色合いや、近くの洗濯機に掛けられている衣服から察するにやはり入っているのは辰のようだ。
ちゃぽん
湯船に浸かっている所らしい、それ以外はよくわからない。
拓馬はじいっと目を凝らした、そんな事をしても曇りガラスの向こうは見えないというのに、出来るだけガラスの向こうのディティールを詳細に捕えようとする。
どくんどくんと血流が巡るのがわかる、知らずに息が荒くなる。頭の中ではしきりに理性がこんな事はやめろと喚いているが行動が制御できない。
ちゃぷ。
ふと、ガラスの向こうの人影の動きが止まった。
「……」
そのままじっと動かない。
(……み……見られてる……?)
よくよく人影を見てみるとこちらに顔を向けた状態で動きを止めているような気がする。
全身の熱が一気に下がり、冷や汗がどっと流れ出て来た。
じゃぽん
ガラスの向こうで辰が浴槽から立ち上がるのが見えた。
拓馬は声にならない悲鳴を心の中で上げつつ必死の忍び足で洗面所から逃げ出した。
台所を横切ろうとして麦茶が出しっぱなしなのに気付き、慌てて冷蔵庫に戻してからひたひたと廊下を走り、自室の布団に滑り込んだ。
頭まで布団を被り、どくんどくんと鳴り響く胸を抑えた。
後ろめたい気持ちで一杯になる、何て馬鹿な事をしたんだろう、これじゃあ覗き魔だ。明日からどんな顔をして辰と接したらいいんだ。
しばし布団の中で後悔に悶えていたが、時間が経つにつれて徐々に冷静になってくる。
別に自分は風呂場の中を覗いた訳ではない、ただ洗面所に顔を出しただけだ。
それにしては行動が怪しすぎたかもしれないが……そこは適当に誤魔化そう、そうしよう。
そう考えてようやく精神を落ち着ける事ができた。
(そもそもあいつが悪いんだ、傍若無人に発育しやがったくせに昔と同じに無防備に接して来るもんだから……)
都合良く相手に責任転化しつつ寝返りを打ち、眠る体勢に入った。
動悸が鎮まってもずきずきと収まらない陰茎の強張りの事は無理やり意識から排除する事にして……。
13/04/17 19:14更新 / 雑兵
戻る 次へ

■作者メッセージ
少しばかり誤解を与えてしまったようですが、筆者がブラックな境遇にある訳ではありませんw・・・まあ、もう少し残業が少なければと思わないでも(ry
ちなみに元ネタになっている方言は長崎のあたり。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33